素粒子
水野広徳という軍人がいた。第1次世界大戦を見て、国力のない日本は「勝つ見込みのない戦いは絶対避けねばならぬ」と説いた。満州事変の翌年には、事態が進めば日本と米中の戦いになり、ソ連も日本に銃を向けると見通した。
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当時の政府は日米の国力差を隠そうとしなかった。むしろ国力の差を克服するのが精神力なのだという点から強調していた、と歴史学者の加藤陽子氏が書いている。わかっていても止まらなかった。主戦論こそがお花畑で、非戦論が現実思考だった。その反省の上に立つ憲法がお花畑のはずがない。(朝日新聞・2026/08/28)

今、政府の要路にある人々の多くは、嘘か実か、「皇紀(紀元)2686年」を発揚し、「男系男子による、皇統126代」を呼号する。それが史実であるとも首相をはじめ、堂々と虚言壮語します。126代が歴史事実といわれませんし、その中には少なくと「女性天皇8代」が含まれることを糊塗します。昨日の「素粒子」に、懐かしいともいわれそうな名前・人物が出ていました。水野広徳氏。元海軍大佐。帝国軍人だったが、理由があって辞職、その後は反戦の論陣を張る。ぼくは、この元軍人の名前を、小学校時代、何度も耳にしました。担任教師の十八番。「日本海海戦」物語は、来る日も来る日も教室で図解入りで聞かされたものでした。おそらく、水野さんの「此の一戦」を熟読玩味しての連続授業だったと思う。ぼくは、とりわけ、この教師は好きになれませんでした。O 先生は、凝り固まった「国家主義」「軍国主義」の主でしたから。幼心に異様に感じたものでした。昭和50年代後半のころです。(この「先生」が書いた墨書が教室の黒板の上に飾られていた。「らしく」と、ね。ぼくはついにこれがわからないままで高校まで行ってしまった。

まったくの偶然ですが、「素粒子」で水野氏の名前を眼にしたとたんに、ぼくの脳裏に「死んだ男の残したものは」という谷川さんの詩、それに曲をつけた武満徹さんの作品のことが浮かびました。この何日か、不思議と武満さんの顏や曲がよみがえってきて、どうしたことかと、ぼくは奇異に思っていたところでした。「死んだ兵士の残したものは こわれた銃とゆがんだ地球 他にはなにも残さなかった 平和ひとつ残せなかった」この詩や曲が素晴らしいものとはぼくは考えないし。そんなに好んで聞いたこともなかったが、誰もが煽られ、唆され、駆り立てられて「戦争」に対面する、軽佻浮薄な時代相、です。誰だって、戦争を好む者はいないはずとぼくは考えてはいない。国や企業が一旗揚げ、巨利を得るめにも、戦争は絶好のチャンスと固く信じているものがいる。この曲、小室等さんの歌がいいですね。彼は信州上田の人です。それもまたいい。

何があっても、この国は「戦争のできる国」であるべきだと、どうして、何を考えてそのように言えるのだろうか。どうしてもやっつけなければならぬ国があるからなのか、それとも、当方(日本)の隙(すき)を狙って、きっと侵略を犯す隣国があると思われているからなのだろうか。多くの人は、中国やロシア、あるいは北朝鮮が「仮想敵国」とみているそうですね。ぼくはそんなことは考えない。どうしても「敵国を仮装」するなら、それは米国だと、その昔から考えている。今では一番の仲良し(同盟)国と多くの日本人は思っているだろうが、アメリカの多くの人々はそうは見ていない、これが同盟かい、とぼくには感じられる。なぜなら「属国」扱い、あるいは「植民地」としてしかみなしていない関係が、もうかれこれ80年も続いているし、その傾向はますます強まっているではないですか。「死んだ歴史の残したものは 輝く今日とまた来る明日」と俊太郎さんは詠いましたが、そうでしょうか、とぼくは疑うばかり。「死んだ国家の残したものは 敵国憎しと仇討ち心」、ぼくならそのように「今日」を名付けたい気もします。(左上写真「親友同士だった谷川俊太郎さん(左)と武満徹さん=木之下晃氏撮影、1974年、東京都内」朝日新聞・2024/11/19)(余談です、ぼくは木之下晃さんに雑誌用写真を撮られたことがあります、20代のころ)
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◎ 水野広徳(みずのひろのり)(1875―1945)= 海軍軍人、軍事評論家。愛媛県生まれ。1898年(明治31)海軍兵学校卒業。日露戦争では水雷艇長として従軍、旅順方面の作戦、日本海海戦に参加。戦後、海軍軍令部で戦史編纂(へんさん)に従事。余暇に書いた日本海海戦記『此(この)一戦』を1911年(明治44)に刊行、一躍文名をあげた。1918年(大正7)海軍大佐に進級。翌1919年からヨーロッパに留学、第一次世界大戦後の戦跡を巡歴し、戦争の惨禍に触れて思想的転換を生じ反戦平和思想を抱く。1921年新聞への寄稿記事が原因で謹慎処分を受け、同年退役。以後、軍国主義批判・平和主義にたつ評論家として活躍、統帥権の独立を憲法違反と断じ、太平洋戦争の帰結をいち早く予測し日米非戦論を唱え続けた。論文はしばしば発禁処分にあい、1938年(昭和13)以後は事実上執筆禁止状態にあった。昭和20年10月疎開先で急死。(日本大百科全書(ニッポニカ)

(⁑小室等 / 「死んだ男の残したものは」(谷川俊太郎作詞、武満徹作曲)(https://www.youtube.com/watch?v=18kV9YrruBI&list=RD18kV9YrruBI&start_radio=1)
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決して愛読したことのなかった産經新聞が三万号を迎えたという。慶賀にたえないというか、末期の輝きを放とうとしているのが、現首相への翼賛新聞ではないかとさえ思うばかり。ぼくは学生時代、時の経営者水野成男さんの講演会を聴いて、とても教えられました。亡くなる直前だったと記憶している。早くに日本共産党に入党、しんぶん赤旗(セッキ)初代編集長、さらには「獄中転向」第1号としても、その名を知られる。もと共産党員で、のちの財界人、フジサンケイグループのトップ。講演会を聞いた当時のぼくには、その程度の知識しかなかったが、それでも彼は輝いて見えました。昭和40(1965)年ころだったか。(このような財界人でありつつも、文学者として生きられた方に「西武デパート」の堤清さんが居られました。もちろん、彼もまた、元共産党員でした。彼は一流の詩人でもありました。生前に、ぼくは上あって、二度ばかり、堤さんの謦咳(けいがい)に接したことがあります。実に紳士でしたね。
産經新聞を思うとき、いつだって水野さんが思い出される、次いで司馬遼太郎氏だったか。ぼくの学生時代の先輩や同期・後輩には何人かの産經入社組がいました。その後も、新聞の色合いはともかく、記者にたくさんの友人がいました。ぼくは、一度だって産經の愛読者にはならなかったが、徹底して嫌いぬくこともなかった。時には取材を受けたこともありました。しかし、このところの「産經」は、偏向しすぎているというか、現首相の応援団長といういでたち・振る舞いが目に余ります。それはどうですか、と鼻をつまみたくなる。「保守の論客」を揃えたというと聞こえがいいのですが、柔軟な思考や論理展開がほとんどなく、硬直した細胞に動かされている方々が論陣を張られているという、惨めな風情とぼくには映ります。ここにも、ぼくの後輩がいますね。もちろんぼくだって「脳委縮」か「脳梗塞」症状を呈していることは否定しません。
【産経抄】産経新聞きょう三万号
俳句や短歌に腕を振るった正岡子規は、切れ味鋭い批評など名文家としての聞こえも高かった。晩年の事績に随筆集『病牀(びょうしょう)六尺』がある。時評、文芸批評、身辺雑記…。新聞「日本」に約4カ月連載されたのは、明治35年である。▼病床から原稿を1日1本郵送するのだが、新聞社からは封筒300枚を先に渡されていた。病の篤(あつ)かった子規の目には、重いノルマと映ったらしい。連載が100回に達した日、安堵(あんど)の筆を走らせた。「百日といふ長い月日を経過した嬉(うれ)しさは人にはわからんことであらう」と。▼命の火を灯(とも)す思いで書き続けたであろうことは想像に難くない。日々世に出る新聞も、下地には記者や編集者の呻吟(しんぎん)が練り込まれている。一字一句に神経をすり減らし、容易に埋まらぬ最後の1行に頭を抱える。子規の感懐はそれゆえよく分かる。▼1面の題字横にあるように小紙はきょう、3万号を迎えた。戦時下だった昭和17年11月の第1号から84年、長きにわたり支え続けてくださった読者諸賢には感謝の念が尽きない。思えばメディアを取り巻く環境も、新聞のあり方も大きく変わった。▼2万号を数えた平成10年6月の時点では、SNSや生成AIの隆盛など思いもよらなかった。いまの世の中には噓があふれ、噓の宣伝で他国をおとしめようとする国もある。小紙は虚偽の情報から日本を守る防波堤として、この先も尽くしてゆく。事実を報じて噓を砕いてゆく。▼媒体の姿がどう変わろうとも、その一念が記者たちの中から失われることはない。3万5千号、4万号をどのような形で迎えるか、いまから楽しみである。何より、産経がこれからも日本に必要とされる新聞であり続けることを、この場を借りてお約束する。(産經新聞・2026/08/29)

「いまの世の中には噓があふれ、噓の宣伝で他国をおとしめようとする国もある。小紙は虚偽の情報から日本を守る防波堤として、この先も尽くしてゆく」という、その言やよし。そのお先棒を担ぐといわれないところに「いささかの安堵」を抱きます。聞くところによると、産経新聞(に限らないこと)の部数減は著しく、もはや全国紙とは言いたくても言われない事態にあるとされる。もちろん、「言わねばならぬ」ことから逸脱していると思われるような新聞記事内容など、あっても「百害あって一利なし」で、退廃の淵に沈んでしまったテレビ界の後を追うのも時間の問題と思われます。限られた部数でこそ、真骨頂が発揮できるのではないでしょうか。
戦時国債発行時並みの「放漫財政」しか能のない「インフレ増税政治」が立ち往生しています。この窮状を乗り越えるためには「戦争」だというのでしょうか。日本発の世界同時「経済危機」がすでに始まっているようにぼくには見えます。
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