「何のために勉強するのかな」

【三山春秋】▼「何のために勉強するのかな」。夏休みの宿題に追われる子どもに問われたら、どう返せばいいだろう。苦手だった物理や漢文が、いつか役に立つと説得する自信はない。おいの満男に聞かれた寅さんの答えが、フーテンの身を反面教師としていて腹に落ちる▼「人間長い間生きてりゃいろんな事にぶつかるだろう。な、そんな時オレみてえに勉強してない奴は、この振ったサイコロの出た目で決めるとか、その時の気分で決めるよりしょうがないな」。そして勉強していれば自分の頭で筋道を立て、どうすればいいか考えられる、と諭す▼人生の壁にぶつかるのは子どもも変わるまい。8月の今時分、手つかずの宿題に途方に暮れるくらいならいいが、大きな悩みを抱えた若者が周りにいないだろうか▼昨年全国で自ら命を絶った小中高生は538人。過去最多を更新した。特に子どもの自殺は9月1日前後が多い。長期休みが終わり学業不振や進路の悩み、いじめといった不安が再び迫るためだ▼文部科学省は先月、悩みを抱えた子の早期発見や相談窓口の周知を通知した。県の「こころの健康相談統一ダイヤル」をはじめ悩みを話せる場所はいくつもある▼とはいえ最後に頼りになるのは信頼できる身近な大人である。寅さんが満男に言う。「困ったことがあったらな、風に向かって俺の名前を呼べ。おじさん、どっからでも飛んできてやるから」(茨城新聞・2026/08/26)

 なんのために飯(めし)を食うのかな? こんな質問をする人はいないでしょう。「そんなの当たり前じゃん」といわれそうです。「当たり前じゃん」にもたくさんの人々の無言の努力(歴史)があればこそではないかとも思う。飯を食うのは「死にたくないから」「食わなければ死ぬからさ」「生きるためにと、決まってるじゃん」と、どんな人も即答するでしょう。これはどんな生き物にも備わっている「生存本能」の仕業でしょう。誰だって、なんだって、命あるものは「生きたがっている」のですね。ここで理屈を言えば、話は脇道に逸れる。「じゃあ、どうして生きるんですか」「生きなくてもいいじゃないですか」と、これまた当たり前のように答える人も出てくるに違いありません。「生まれてきからには、生きるのは当然」と言える人もいますが、そうではないと考える人もいるはずです。「こんな生きずらい人生、もう嫌だ」と。

 若いころ、仕事柄(教師の真似事)だったが、「生きる意味」とか「人生の価値」などと言う袋小路の問答を自問自答したり、訊ねられて答えに窮したり、それこそ、七転八倒したものでした。「人生に意味があるか、ないか」、こんな問題に人間が答えることはできないというのがぼくの一貫した態度です。今だって、そんな問いに応えられるかいな、と考えている。もちろん、多くの人には「人生の意味」、「生きる価値」は明確にあるんでしょう。あると思っている。でも、本当にそうですかと、訊ねることはしないで、「世間の常識」として「価値ある人生」「意味のない生活」というものがあるのかもしれません。単純に言い直すと、他人より優れていたい、他者から高い評価を得たい、幸福になる(これもまた、人それぞれ)、そんな生き方を求めるのかもしれません。

 この問題は、ギリシギリシアの時代から存在しています。これまでにも散々駄弁ってきましたから、ここではこれ以上は述べません。ようするに、人間の分際で、自らの人生の価値や無価値を論じられるかもしれないが、それは人それぞれで、同じ生き方に対して評価する人もいれば、そうは考えない人もいます。果物屋の店頭に並ぶメロンやブドウの値段でも、品種によっても異なるし、それを求める人の多少によっても違ってくるでしょう。「そのものの値打ち」は一定なのに、周りの状況や事情で差が出てくる、人生もそうなんじゃないですか。

 唐突ですが、犬や猫が自殺をするとは、ぼくには思われませんから、少なくとも人間は犬猫以上に厄介で面倒な思考力(迷い)を持っているとは言えます。ぼくの心情は、犬猫のように生きることです。生まれてしまったら、行けるところまで生きるって、ね。少なくとも、自分でできることは自分でするだけの始末は付けておきたいとは思いますが、「人生に意味がある、ない」などというある種の愚問には嵌らないようにしたいもの。「生まれて、生きて、病気になって、年を重ねて、寿命が来たから死ぬ」ということじゃないですか。

 「何のために勉強するのか」というコラム氏が立てた問いは、ぼくには、とても簡単なものです。つまりは「生きて」「病気になって」「年を取って」に応じて、いらない煩悶・失敗に悩まないためであり、そこから、できることなら、同じ時代に生きている誰かの役に立てるなら、喜んで立ちたい、そんな生き方を貫けるためには、賢くなければなりません。賢いというのは算数ができる、あるいは「知識」があるというのではなく、「吾道一以貫之」(「論語 里仁」)ことができる、そんな姿勢を持つことができるために、です。まあ「(自分流の)生き方の流儀」があればいいんですね。わかりやすく言うなら、とても注意深い人間になるために、「ぼくは勉強してきた(かどうかは、とても怪しいが)つもり」なんですよ。もちろん、生まれる時も、死ぬ時も、わが意思・意志が働かないのですから、それは「天命」「運命」と受け入れることですかね。

 ヘッダー写真は「論語 為政」からのものです。「子曰、吾十有五而志于学、三十而立、四十而不惑、五十而知天命、六十而耳順、七十而従心所一レ欲、不矩」から。 孔子という人の「自叙伝」みたいなものです。そうなれが勿怪の幸い、そういうのですね。(右写真は「汝自身を知れ」というお呪(まじな)いです、ソクラテスの)

 ぼくはすでに、七十をはるかに超えましたけれど、まだまだ、人生の「序の口(発端)」という気が常にしています。成長もしなければ、賢明にもならず、ですな。でも、勝手に「大器晩成」などと口ごもってもいますね。

 (「明道若昧、進道若退、夷道若纇、上德若谷、大白若辱、廣德若不足、建德若偸、質眞若渝。大方無隅、大器晩成、大音希聲、大象無形」(「老子:徳経」:同異第四十一)

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