
【小社会】個性はいろいろ 数年前に高知市の小学校で性教育の授業を取材して、少し驚いたことがある。対象は6年生。児童への事前アンケートを基にしたテーマには、こんなものもあった。「好きな子が同性でもいい?」 20歳以上を対象にした今年の民間調査では、性的少数者の割合は1割程度だったという。学校で考えるとクラスに1~2人の割合。多様な性の在り方を耳にする機会も増え、関心を持つのは自然なことなのだろう。 性の多様性には多くの教科書も触れている。中学3年の英語では米国の人気歌手テイラー・スウィフトさんの曲を紹介。歌詞には性的少数者への擁護など社会的メッセージがあると解説している。 小学6年の社会では、「性的少数者をめぐる差別もなくしていかなければなりません」。教育現場は社会の変化や差別に向き合おうとしている。 だからこそ、国の後ろ向きの姿勢が目につく。性的少数者への理解を促すLGBT理解増進法に基づく基本計画。保守系議員の反発があり、法の施行から3年近く棚上げされていた。ようやく策定された計画だが、地域や学校での啓発推進や相談体制の充実といった既存の施策が並ぶ。多数派の「不安」を前提にしたかのような記述も。どうしても本気度に疑問符が付く。 当事者が願うのはただ、ありのままの自分が尊重されることだろう。授業の講師の言葉を思い出す。「個性はいろいろ。自分を大切にして」(高知新聞・2026/06/19)
+++++++++++++++++++++++++

表題句は子規作。とてもは平凡な心持を謳ったものとも思われますが、ぼくには少し異なった叫びが伝わってきます。子規さんがどういう気持ちを表明したのか、ぼくにはよく理解できないところがありますが、この「薊(アザミ)」の花そのものが受容されてきた(来なかった)、「花の運命(不遇)」のようなものを感じさせられていました。この花を知ったのは、はるかに遠く、まだ小学校に入る前のことだったと思う。能登半島の田舎には、季節(春・夏・秋)を問わず、いたるところで咲いていたのを覚えている。当然のように、花の棘(とげ)に酷く傷つけられた記憶もぼくの脳細胞には刻まれています。
「世をいとふ心」とはどのようなことだったろうか。そんな自分(子規)の拗(すね)た気持ちが「薊(アザミ)」に引き寄せられるというのでしょうか。子規が詠んだのは「薊」であって「野薊(ノアザミ)」とは限定されない。「世を厭う」という物言いは「世間から離れる」ということから、時には「出家」「遁世」を指しても言われました。まさか、子規さんにはそんな秘められた思いがあったとはぼくには考えられませんが、早くに宿痾(脊椎カリエス)に侵され、やがて身動きすらできなくなった自らの運命を、決して、誰からも好まれるとは思われない「薊」に寄せたとも、ぼくには受け取りたい気持ちがあります。もちろん、穿(うが)ち過ぎだと、ぼくもわかっているのですが。

この花に対して、子規作品とは別の視点をぼくに与えてくれたのが歌謡曲「あざみの歌」(1949年発表)でした。八洲秀章(やしまひであき)さん(1915~1985)の詩(詞)には、薊(アザミ)に寄せる深い仔細を感じさせるものがありました。彼は戦後、復員したのが長野県下諏訪町(八島高原)だった。この歌も、ぼくは早い段階から口ずさんでいました、たぶん小学校低学年頃です。「山には山の 愁いあり 海には海の 哀しみや」、そこには、いったいどういう含意があったのでしょうか。
繰り返し歌詞を読んでいるうちに、「薊(アザミ)」には他の花にはない、深い悲しみがあると作詞家は直感したのだと思ったのです。本日の高知新聞のコラム「小社会」を目にした瞬間に、ぼくは「あざみの歌」(伊藤久男さん・歌)を想起しました。飛躍しすぎだといわれようが、そう感じたのですから、正直に心情を吐露するほかないと思うのです。こんな捉え方は間違いだろうし、あるいは大方の非難を浴びるのを承知で、「あざみ(の歌)」に、「少数派」とされる人たちの悲しみと愁いを感得しました。歌の解釈は、当たり前に読めば「高嶺の花」とされる愛しい人(女性)に寄せる思いの深さを奏でたものでしょう。
でも、あえてぼくは「薊の花」に託した、心浮かばれない人々の胸の内(衷心からの願い)を見出した。この歌はもちろん伊藤久男さんの持ち歌であり、彼の抜群の歌唱力をぼくは好むものですが、ここでは、まずソプラノ歌手の秋本祐希さんで聴いてみたく思いました。(作詞:横井弘・作曲:八洲秀章)(歌:伊藤久男)(1949年発表)(⁑秋本祐希・歌「あざみの歌」)(子のヴィデオはぼくには目障りですから、眼を瞑(つむ)って聴くことにしています)
(https://www.youtube.com/watch?v=auTJlHD8yd0&list=RDauTJlHD8yd0&start_radio=1)(⁑「あざみの歌」(昭和24年)伊藤久男)(https://www.youtube.com/watch?v=v3kXcsb7hWY&list=RDv3kXcsb7hWY&start_radio=1)

* 蛇足 コラム「小社会」の記事の最後に「当事者(性的少数者)が願うのはただ、ありのままの自分が尊重されることだろう。授業の講師の言葉を思い出す。『個性はいろいろ。自分を大切にして』」とあります。取り立てて異をとなえることもない、当然の主張を紹介されたと思います。しかし、あえて指摘したいのは、「個性はいろいろ」という、その「個性」について。仮に、ここに「野薊(ノアザミ)の花」が10本あったとして、です。言うまでもないこと、同じ種に属していても、一本として同じ花はありません。それぞれが違うのは、誰も知っているでしょう。それを「花の個性」などとは言わないのは、違っているのが当たり前だからです。
「世界に一つだけの花」と、あるグループが謳っていましたが、どんな花だって「世界に一つだけ」しかないのであって、わざわざ言う必要のないこと。要するに、だれかれの個性という表現は、ぼくに言わせれば、まるで「同語反復」ですね。つまりは「トートロジー(tautology)」でしょう。「雨の降る日は天気が悪い」と言われれば、「それっておかしいでしょ」と切り返したくなりませんか。「力とはパワーだ」というのはどこかの防衛大臣ですか。人間を大事にしない社会ですから、「個性尊重」というしかないのでしょうか。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

◎ ノアザミ(のあざみ / 野薊)[学] Cirsium japonicum DC.= キク科(APG分類:キク科)の多年草。茎はやや花茎状で直立し、高さ0.5~1メートル。葉は羽状に中裂し、縁(へり)の鋸歯(きょし)は先が鋭い刺(とげ)になる。根出葉は花時にも残る。花期は5~8月。数多いアザミのなかで、春に咲くのは本種のみである。頭花は紅紫色で径約3センチメートル、管状花のみからなる。総包片は直立して先端は刺になり、背部に粘着質を分泌し、粘り付く。山野にごく普通に生え、本州から九州に分布する。古くから野草の代表として、絵の対象にされている。本種をもとに改良された園芸品種ドイツアザミは頭花の色が濃色の鮮かなもので、切り花に使われる。(日本大百科全書ニッポニカ)

◎ あざみ【薊】= 〘 名詞 〙 キク科のアザミ属の多年草の総称。高さ〇・六~二メートル。葉は概して大形で羽状に裂け、縁に切れ込みがあり刺(とげ)が多い。花は通常紅紫色で、小さな管状花が集まった半球形の頭状花。北半球に約二百種。日本には約六十種ある。最もふつうに見られるのはノアザミで、フジアザミ、ドイツアザミなど。スコットランドの国花。《 季語・春 》(精選版日本国語大辞典)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

(上の図表の出典は「朝日新聞SDGs ACTION!」:https://www.asahi.com/sdgs/article/14564464)
IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII





