驕れる人も、猛き者も、亡じにし者ども

 徳寿寺でナツツバキ見頃 20、21日には沙羅の花祭り 平家物語の「沙羅双樹(さらそうじゅ)」になぞらえられるナツツバキが徳寿寺(岡山市北区一宮)で見頃を迎え、純白の花が涼やかな風情を漂わせている。20、21日には境内で恒例の「沙羅の花祭り」が開かれる。/ナツツバキはツバキ科の落葉高木。直径5センチほどの花が早朝に咲き、夕方には散る「一日花」で、そのはかなさから世の無常を表すとされる。/境内では檀家(だんか)らが植樹した高さ5~10メートルの7本を栽培。今年は例年より開花が早く、3日ごろから花を付け始めたという。今月いっぱい楽しめる見通し。(中略)/ 嵯峨山智昭住職(68)は「梅雨で蒸し暑くる時期だが、美しい花を見て心を癒やしてほしい」と話している。(綱島朱里)(山陽新聞で示達・2026/06/16)

 拙宅にも一本、門柱わきに健気にも次々に花をつけて咲いてくれています。苗から育てたもので、まだ十歳くらいですから、木の高さは2メートルほど。先端(梢)をつまんである。あまり大きくはならないといいのですが、それでも上へ横へと伸びしろが早いのにも驚きます。文字通り「夏の椿」と目を見張ります。真っ白の花を咲かせ、一日で、ぽとりと花ごと落ちてしまう。京都花園妙心寺だったかにも、ものすごい勢いで咲いて散る「ナツツバキ」を見たことがありました。別名は「沙羅(さら・しゃら)」というらしい。これと「沙羅双樹」を混同して、今でも世に堂々と通用しているのですから、「偽物」「本物」の別なく、「物あれば名あり」という次第で、これが例の「祇園精舎の鐘の声 沙羅双樹の花の色」と詠じられたか、たしか妙心寺でもそういわれていたような気もします。半世紀以上も前の記憶ですから、真偽のほどは、いかにも怪しいですね。

 ところが、一週間ほど前に、その妙心寺で「沙羅の花を愛でる会が開かれた」というニュースがありました。間違えたままの方が「風情」があるといわぬばかりの報道ぶりです。この花は別名を「シャラ」とは言いますが、「沙羅双樹」とは別物とは面倒だし、紛らわしいというのでしょうか。五十年前に見た「シャラ」は小ぶりな可憐な樹木と花という印象でしたが、今では大変な成長ぶりで、お寺の資金稼ぎの一助になっているんですね。別の年に撮られた写真を引用しておきます。ナツツバキは沙羅双樹だというのは間違いと、お寺も、あえて「訂正」するという無粋なことはしないようですね。このお寺は「花園」というJR駅近くにあり、ぼくの住んでいた家からも徒歩圏でした。落花の姿は決して美しくないどころか、醜悪でさえあります。これを観に来て精進料理を食す。まるで「祇園精舎の…」の雰囲気を味わうがごとく、命の儚(はかな)さを満喫していくのでしょうか。もう少し足を延ばせは、花街「祇園」もありますし、綺麗なお姉さん(沙羅さん)たちもたくさんいやはるし。

 (下の写真は「「盛者必衰」 沙羅双樹の花が見頃、京都・東林院」「妙心寺の塔頭・東林院で始まった「沙羅の花を愛でる会」。本堂の庭に咲いた沙羅双樹の花を多くの拝観者らが眺めていた=12日午前、京都市右京区(渡辺恭晃撮影))」(産經新聞・2023/06/12》

 「沙羅双樹(さらそうじゅ)の寺」として知られる妙心寺の塔頭(たっちゅう)・東林院(京都市右京区)で11日、「沙羅の花を愛(め)でる会」が始まった。本堂の前の庭にある十数本のナツツバキの木から白い花がコケに落ちて浮かび、はかない美しさをみせている。/ナツツバキは日本の寺院などで、釈迦入滅の時に花を咲かせた「沙羅双樹」に見立てて植えられてきた。朝に咲き、夕には散る。平家物語の冒頭に無常の象徴として登場する「沙羅双樹の花」はナツツバキの花だという説もある。仏教の三大聖樹の一つとされるサラノキとは別の植物だ。/会は梅雨の季節に合わせた恒例行事で今回で50回の節目になるという。西川玄房住職は、「花をみて一日一日を精いっぱい、悔いのないように、大切に生きていただきたいです」。24日まで。拝観料は抹茶と特製菓子付き1600円、これに精進料理が付くと6300円。問い合わせは東林院(075・463・1334)。(清水謙司)(朝日新聞・2026/06/11)

◎ ナツツバキ(なつつばき / 夏椿)([学] Stewartia pseudocamellia Maxim.)= ツバキ科(APG分類:ツバキ科)の落葉高木。シャラノキ(沙羅樹)ともいうが、サラソウジュ(沙羅双樹)の名で利用されることがあり、真正のサラソウジュ(フタバガキ科)と混同されることが多い。

 樹皮は赤褐色で滑らかである。葉は互生して枝先につき、楕円(だえん)形で長さ約10センチメートル。夏、新枝の葉腋(ようえき)に径約5センチメートルでツバキに似た白色花を1個ずつ開く。萼片(がくへん)、花弁ともに5枚。雄しべは多数あり、花糸の基部は花弁に合着する。雌しべは1本で、花柱は5裂する。子房は上位で、白毛を密生する。蒴果(さくか)は宿存萼に包まれ、10月ころ茶褐色に熟すと、5片に裂開する。種子は卵形で先はとがり、狭い翼がある。山中に生え、東北地方以西の本州から九州、および朝鮮半島に分布する。庭木として植えられ、材は床柱、器具、彫刻に用いる。(日本大百科全書ニッポニカ)

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 話題は急展開します。

 いつの時代でも、何でこんな人がと言うような「食わせ者・物」が出現するものです。時には一国の首相や大統領にまでなる。というか、食わせ者ですから、選ぶ側が「これは美味しい」と吟味もしないで食べたがるという不始末が、こういう輩を排出させてきたのですし、いまもこの出鱈目は、この国では続いているのです。とんでもない主義や主張を並べ立てて、国会議員になるものは引きも切らず。あるいは地方の首長に成りあがるものも後を絶たずでしょう。その多くは選んだ側が悪かったのだが、その反省が見られないようであるのは、それほどに「人を選ぶ」、つまりは見る目を養うことが難しいということの証明であり、かつ選ばれた側には「選ばれた責任」を感じ取る「センス(感性)」が備わっていないことが多いのは、この国この時代の「尽きせぬ病理」とでも言っておきましょうか。

 ただ今、W杯がカナダ・アメリカ・メキシコの共催で開かれているようです。だから、「お前はレッドカード」だという判定が耳目を集めるのでしょうか。厳しくしなくとも、当たり前の基準に照らせば、きわめて多数の「選手」ならぬ「選良(議員たち)」は、オフサイドやファールを犯して、「レッドカード」間違いなしだし、「退場」宣告を受けるのが当たり前なんでしょうね。にもかかわらず、この「議員選挙ゲーム」の審判員(有権者)は目も耳も働かせないようで、まるで目に余る規則(ルール)違反にも、笛を吹かないどころか、「退場」だという声に対して、逆切れする始末です。そもそも、まともな試合になっていないのが、「議員選び」という競技でしょうか。(現行の「小選挙区制」は廃止ですね。次いでに「国会」も?)

【小社会】普通レッドカードだが… 台風が接近中、自治体の首長が県外へトライアスロンに行く。災害常襲地の高知県なら即レッドカードだが、この方の場合、そうではなかった。/以前、時代の寵児(ちょうじ)のごときヒーローとなった広島県安芸高田市の前市長。地元テレビ局はドキュメンタリー映像にも仕立てた。だが言うことなすこと実態は支離滅裂。市長の中傷に苦しみ、映像で悪役にまでされた女性市議のブログを読み返すと、よく分かる。/当初は応援者だった市議は市長の言動を諭して不興を買い、言ってもいない発言をでっちあげられ、ネットリンチにさらされる。
 トライアスロン騒ぎを巡る市長の発言にも仰天する。不在の問題を指摘した市議に、こう言い放った。「プライベートの詮索。キモいです」。この上ない侮べつ語と思うのだが、インターネット空間では逆に、市議を侮べつする編集動画が拡散され、リンチ攻撃へと燃え盛るのだから、始末に負えない。/いま首相周辺のネット戦略が問題視されている。擁護と批判の言説が入り乱れているが、ネットリンチにあうことを恐れ、国会もメディアも事実を検証せずに不問に終わらせると、今後も底なし、何でもありの世界が続く。
 Public servants(高知新聞・2026/06/17)

 広島の安芸高田市長時代の、この御仁の言行をぼくは運悪く目にすることがありましたが、「これが市長なんですか」という驚きと嫌悪感しか抱きませんでした。どこでどう間違ったかというなら、彼の経験した「学歴」こそが、彼の「逆上(のぼ)せ」「つけあがり」の根源だというほかないでしょう。どんな学歴かといえば、吐いて捨てるほどあるようなものなのに、その陳腐な学歴が彼をして「鼻持ちならない人間」に育ててしまったといえるのかもしれません。本当なら「選んではいけない人」と言ってしまえば、そうなんですが、それにしても、この「選んだらダメ」という候補者を、あえて・わざと選ぶのですから、有権者の能力が地に落ち切っているというばかりです。(左は安芸高田市役所)

 ネット時代だからというのではないでしょう。これまでにも「縛につく」ような「議員」は数知れず存在していました。それがネット時代に、この間の事情が一層明確になったというだけのことでしょう。上は総理大臣から下は村会議員まで、まさに「語るに落ちた」人々のために選挙があるような事態をぼくたちは経験しています。それにしても、公務員(議員もまた「特別公務員」です)は「(すべて職員は、)国民全体の奉仕者として、公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない」(国家公務員法第96条)「Public servants」という職能を理解しているとはとても思われない人ばかりが、どうして「議員」になる・なりたがるんでしょうか。

 《いま首相周辺のネット戦略が問題視されている。擁護と批判の言説が入り乱れているが、ネットリンチにあうことを恐れ、国会もメディアも事実を検証せずに不問に終わらせると、今後も底なし、何でもありの世界が続く》と書くコラム氏は、誰に向かってモノを言っておられるのでしょうか。「先ず隗(かい)より始めよ」というじゃありませんか。

 《中国の戦国時代、郭隗(かくかい)が燕(えん)の昭王に賢者の求め方を問われて、賢者を招きたければ、まず凡庸な私を重く用いよ、そうすれば自分よりすぐれた人物が自然に集まってくる、と答えたという「戦国策」燕策の故事から》大事業をするには、まず身近なことから始めよ。また、物事は言い出した者から始めよということ》(デジタル大辞泉)

 投票行為は「有権者が審判(判断)」を下すことです。ぼくは常々、「ある候補者に投票するのは、審判を下すこと」と捉えてきました。「選挙は審判」(「国民の審判」)であり、「有権者は審判員(主審)」です。だから、とにかく有権者もまた「足元から、ことを始めなさい」というのでしょう。少なくとも選挙には「棄権(renunciation of a right)」しないこと。投票するなら、自分流に、自分流の感覚や思考を働かせて、投票しなさいといいたいね。入れたい人がいなければ、「白紙」投票だっていい。ぼくの選挙に臨む動機(モットー)は「出したい人より、出したくない人を」です。自慢ではありませんが、これまでの国政選挙において、ぼくが投票した候補者の当選確率は、たぶん10パーセントにも満たないと思う。「この人こそ…」、そんな人がいつも見つからないのです。だから、この候補者は「当選させたくない」という基準で、選んでいくと、当選する気遣いのない人に審判を下すことになるんでしょうね。これもまた、一つの投票態度だと考えています。(本音を言えば、そりゃあ、「出たがる人より、出したくなる人」ですよ)

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