今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯と

<射程>『國之楯』の多義性 闇の中、カーキ色の軍服姿で陸軍将校の遺体が、あおむけに横たわっている。頭部は寄せ書きされた日章旗が覆い、ちょうど日の丸の部分が顔面にはりつくようにかかる。背景の黒との対照でその赤はひときわ鮮やかで、遺体からしみ出た血で染められたような印象を受ける。従軍画家として数多くの戦争画を残した小早川秋聲[しゅうせい]の代表作『國之楯[くにのたて]』(1944年)である。
 この作品は陸軍省が制作を依頼した。ある陸軍幹部は完成間近の『國之楯』を前に圧倒された様子で深々と頭を下げたという。また搬出の手伝いに来た女性が目にしたとたん、その場で泣き伏したとの挿話も残る。それだけ見る人の心を動かす傑作でありながら、いや、それがために不適としたのか。陸軍省は結局、受け取りを拒んだ。
 秋聲自身は『國之楯』の制作意図について、戦後も沈黙を守った。英霊を礼賛する戦争プロパガンダか。厭戦[えんせん]の情を催させる反戦画か。見る人によって解釈は分かれるが、その多義性こそが、この作品の深みを支える重要な要素だろう。
 こうした表現行為の持つ自由さを尊重する観点から、今国会に近く提出される「日本国旗損壊罪」を創設する法案に危うさを覚えている。
 自民党の条文案によれば「人に著しく不快、嫌悪の情を催させる方法」での損壊に刑罰を科すと規定。絵画は外されたが、行為の映像の提供・公開は処罰対象としている。
 『國之楯』のように死と国旗を連関させ、人によっては不快を覚えるようなパフォーマンス行為の映像はどう判断されるのか。国がその表現の解釈に介入し、一方的に規定することにつながりかねない。
 「表現の自由」「内心の自由」を保障する憲法に照らしても許される法か。審議は「お子様ランチの旗は対象外」などという浅薄な論議で済ませてはならない。(泉潤)(熊本日日新聞・2026/06/12)

 この作品は「軍神→大君の御楯→國の楯」と、三度「題名」が変更されています。言うまでもないことで、この作品には、画家は並々ならぬ情熱をもって制作にあたったと思われます。今日観ることができる「國之楯」は、戦後(1968年)に改作されたもので、それによってはじめて公開されたという曰く付きのもの。制作依頼があり「天覧に供するため」と陸軍から請われたという。しかし、これを「陛下」にお見せするのはあまりにも「畏れ多い」と考えたのか、あるいは「生々しすぎる」と見たのか、いずれにしても陸軍は受け入れることをしなかったという。ある時期、小早川氏は藤田嗣治氏とともに「戦意高揚」の講演などをしています。「戦争を描いた画家」という点では、やはり藤田さんが言われたように「一兵士と同じ意気込み」を有していたことは疑われません。23歳で戦死した詩人が謳った「戦死やあわれ」(竹内浩三「骨の歌う」)とは対極にあった画家の仕事ではなかったか。(ヘッダー写真「軍神」と題された最初の作品)左は「下絵」とされる、1944年)

 この遺体の顔に「国旗」、それも寄せ書きが施された国旗が被(かぶ)せられています。最も効果的な国旗の使われ方だといえば、どうでしょうか。早くに、この「國の盾(戦後の改作)」を見て以来、なんともいえない感情にぼくは囚われ続けてきました。今もその心持ちは変わらない。先日触れた藤田嗣治の「アッツ島玉砕」に描かれた多くの死者は、すべて米軍兵だったことを思えば、この「軍神」は、作者の端倪すべからざる「忠臣」「臣民」意識の表れだともぼくには思われます。戦後のある時期まで、小早川さんは自らが「戦犯」に指定されることを疑わなかったといわれています。彼に限らず、自らが「戦犯」に擬せられることに恐怖を抱いた著名人を何人も知っています。その多くは、その後の人画性にあっても、それを語らなかった。当然だったかもしれません。

 昨夜、あるネット番組を見ていて、ある女性ジャーナリストがいみじくも言われていたこと、「ヘイトスピーチを叫んでいる人たちが振る日の丸の旗」、それには「言葉にできない不快感(あるいは恐怖感)を覚える」、と。この死んだ兵士の顔の蔽いになっている「日章旗」はどうでしょうか。コラム「射程」氏は「英霊を礼賛する戦争プロパガンダか。厭戦[えんせん]の情を催させる反戦画か。見る人によって解釈は分かれるが、その多義性こそが、この作品の深みを支える重要な要素だろう」と書く。誤評・誤解でしょう。確かに、制作事情を知らなければ、見る人によって分かれる、この作品の価値(効果)だとは言えそうですが、この作品を書いた画家の意図は明らかでしょう。陸軍の依頼・委嘱には「厭戦・非戦(反戦)」の含意があろうはずもないのですから。それはピカソの「ゲルニカ」のようではなかったのは確かです。「靖国神社」に祀られるべき「英霊」と捉えていることは疑われません。初期作品名が「軍神」であるというのですから、いかなる動機で描かれているか、多言を要さないでしょうに。

 (「壁画の制作が進む段階で、ピカソは『スペインの闘争は、人々に対する、自由に対する反動の戦いです。芸術家としての私の生涯は、反動と芸術の死に対する絶え間ない闘いにほかなりませんでした。私が反応と死に同意できると一瞬でも考えられる人がいるだろうか…私が取り組んでいるパネル(ゲルニカ)と、私の最近のすべての芸術作品において、私はそれに対する嫌悪感をはっきりと表明している。スペインを苦痛と死の海に沈めた軍人カーストだ。』」(Wikipedia)

 (「国旗損壊罪」に関しては、ぼくはすでに触れています。これを言い出している連中(国会議員)は、自分たちは国家に対して絶大なる「愛国心」を持っているというのでしょうか。間違いなく、その程度の愛国心のすることといえば、おそらく「国家損壊」に至る道を摂るに違いないでしょう。国民の首を絞め、息を詰まらせるような「悪法」を作るしか能がないのです。今、そんなことにうつつを抜かしている時節かよ、とぼくは言いたい)

(駄文の表題歌は「祁布与利波可敝里見奈久弖意富伎美乃之許乃美多弖等伊埿多都和例波 右一首、火長今奉部与曽布」(「今日よりは顧みなくて大君の醜のみ楯と出で立つ我は」「右の一首は、火長今奉部与曽布(いままつりべのよそふ)」万葉集・巻20-4373)(「今日からはすべてを顧みず、天皇の御楯の末となろうと、出発する。私は。」)(万葉百科 奈良県立万葉文化館

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 「《國之楯》1944年、1968年改作 京都霊山護国神社(➡)(日南町美術館寄託) 天覧に供するために陸軍省の依頼で描かれたと伝わるが、完成作は同省に受け取りを拒まれた。絵の裏にはチョークで「返却」と記されている」「鳥取県にある光徳寺の長男として生まれた秋聲は、9歳で東本願寺の衆徒として僧籍に入ります。その後、京都で谷口香嶠、山元春挙といった日本画家に絵を学び、文展、帝展を中心に活躍しました。しばしば中国に渡り東洋美術を研究、欧州を旅し西洋美術を学ぶなど、旅を多くした画家でもあります。やがて、従軍画家として戦地に派遣されるようになります。代表作《國之楯》は陸軍に受け取りを拒否され、長く秘匿されていましたが、戦後、改作され公開されるに至りました。」(京都文化博物館)(https://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/kobayakawashusei/

● 小早川秋声 (こばやかわしゅうせい)(1889ー1974)= 大正-昭和時代の日本画家。明治22年9月26日生まれ。京都市立絵画専門学校を中退し,谷口香嶠(こうきょう),山元春挙(しゅんきょ)にまなぶ。大正3年文展に初入選。昭和6年以降,従軍画家として中国,東南アジアで戦争画をかく。戦後は宗教画を手がけた。昭和49年2月6日死去。84歳。兵庫県出身。本名は盈麿(みつまろ)。作品に「寂光の都」「ヴェニスの宵」など。(デジタル版日本人名事典+Plus)

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