子曰、民可使由之。不可使知之。

 中央地方を問わず、議員の不祥事に事欠かない理由はどこにあるのでしょうか。たぶん、最終的には不祥事を起こす(犯す)議員個人の資質の問題だといってしまえば、それで済みますね。しかし、それが一人や二人ではなく、次々に同じような「不逞の輩(unruly people)」が続出するに及んで、あるいはこれには極めて「特別の事情・理由」があるのでは、と考えこんでしまいます。本日の西日本新聞のコラム「春秋」では、福岡県議会の並み以下の政治意識の面々の行状に、張り手を食らわせている趣がありました。これは福岡県議会議員の「悪乗り」で済ませられる問題ではなく、この国に広くかつ深く蔓延している、一種の「選良意識(elite mentality)」の懶惰(らんだ)(=政治的怠慢)の故ではないでしょうか。政治家だけではなく有権者も含まれる「政治頽廃」でもありますね。

 どこの議員であれ、選挙で選ばれたという「議員意識」が屑人間を一層屑人間にするということでしょう。「屑の肥大」現象がいたるところで確認できる。これとよくにたことは「学歴」に関しても言えるかもしれません。どんな学校であれ、競争試験で合格したという「選良意識」が、その人間(合格者)を舞い上がらせることになりがちです。たとえば、旧帝国大学の頂点と目される学校に入学しただけで、「有頂天(ecstatic)」になることが止められない人が数多くいるのは、まぎれもない事実ですし、その学校から官僚や政治家になるものが多ければ多いほど、屑人間の屑が一段と蓄積して、コラムに書かれれるような「阿保」に成り下がっても、まだ「自分はパンツをはいていない」という不始末に気が付かないんですね。もちろん当人が最悪の主因でですが、こんな屑を選んだ有権者も、あるいは「共犯者」として咎(とが)を受けないまでも、反省して選挙権を放棄してもらいたいほどです。(高齢者で、自動車事故の危険性が高くなった人が運転免許証返納を慫慂(しょうよう)されるように)

 この汚れた関係が福岡県議会と福岡県庁職員だけに限らないところに、この国の、戦後八十年の到達点があるのでしょう。(多くは、「こんな筈ではなかったに」という思いを持たれるかもしれない)「きのうの本紙は、県職員が自民党県議団に他会派の質問を横流ししてきた実態を伝えた。高額かつ不透明な県議の海外視察、政治資金パーティー券の組織的購入、講演料の高額算出、議会棟での取材制限の検討…。県政のおかしな姿が次々に明らかになった」「一連の報道は、ゾウを見た人が尻尾を『細長い綱』、耳を『平べったくてベニヤ板のよう』と説明するようなもの。事実から遠く離れ、本当のゾウの姿を伝えていないと主張している」と、鳴きたくなるような低すぎる意識を開陳されています。大小問わず、自らの権限の強大さだけを誇示するための政治活動だというほかない「為体(ていたらく)」です。「為体」とは「ののしったり自嘲をこめたりして、好ましくない状態にいう」(デジタル大辞泉)餅ロ㎜、自分でみずからを批判などしませんから、この連中は。だから、他者からの「罵(ののし)り」にほかなりません。でも、厚顔の歴々ですから、びくともしない。有権者を舐め切っているし、そうされても仕方がない有権者が多いといこと。

【春秋】福岡県政の歪んだ関係 本当のゾウの姿とは 福岡県民は地元愛が強く、故郷への肯定感が高いとされる。住みやすさ、おいしい食、豊かな自然。一県民として同感だ▼ただ、この件ばかりは「福岡よかでしょ」という言葉をのみ込むしかない。福岡県庁と県議会の歪(ゆが)んだ関係である▼きのうの本紙は、県職員が自民党県議団に他会派の質問を横流ししてきた実態を伝えた。高額かつ不透明な県議の海外視察、政治資金パーティー券の組織的購入、講演料の高額算出、議会棟での取材制限の検討…。県政のおかしな姿が次々に明らかになった▼先日、県議会だよりの最新号が届いた。正副議長の所信表明全文が県議会サイトで読めるとの案内があり、開いてみた。かなりの長文だ▼蔵内勇夫議長は2度目の議長として目指すこと、海外視察の必要性を説き、「某地方紙」の報道は偏っていると不満と反論をつづる。一連の報道は、ゾウを見た人が尻尾を「細長い綱」、耳を「平べったくてベニヤ板のよう」と説明するようなもの。事実から遠く離れ、本当のゾウの姿を伝えていないと主張している▼所信表明は4月にサイトに掲載された。その後も某地方紙を含む地元メディアは、県政の理解しがたい実態を報じてきた。蔵内議長はきょう、記者会見を開く。ゾウの姿が正しく伝わっていないと今も考えているならば、正しい姿を説明してほしい。会見に集まる記者のためではなく、カメラの先の県民のために。(西日本新聞・2026/06/11)

 どうしてこうなるのか、理由は単純でしょう。「親を見て子は育つ」というように「直属の上司然とした代議士を見て地方議員は育つ」からでしょう。「子は親の鏡」というらしい。あるいは「親の背中を見て子どもは育つ」とも。地方議員と国会議員は、いわば親子のような関係に見られますから、親のどこを見るかは別として、まあ似たようなもの(低俗政治屋)になるのはごく自然であるとも言えます。では福岡県議会議員の何某の「親」に当たるのは誰でしょうか。もちろん、子どもも複数だし、親も複数であれば、親子関係を特定しなければならないのは言うまでもありません。衆議院議員の福岡選挙区には名だたる国会議員がおられますから、大方はその議員たちの「子ども」であろうと推測はします。いちいちは名前は挙げません。もし挙げれば、大方は納得されるでしょう。

 地方議会の議員で、これほど横着で傍若無人な振る舞いを有権者に対してとれるのはこの人とこの人と…、というほかない。いや、親はなくとも子は育つともいわれますから、地方議員と雖も独自の育ち方をしてみれば、何処にでもいる「鼻持ちならない屑」になっていたということもあり得ます。「K議長は2度目の議長として目指すこと、海外視察の必要性を説き、『某地方紙』の報道は偏っていると不満と反論をつづる」と某紙コラムは書いている。この「議長のあいさつ(所信表明)」を読みましたが、何処を見て政治(仮にそれを政治だとするなら)をしているのかが実によく理解できる御仁だと思われました。「報道機関に対しては、こうした不公正な社会風潮を助長することがないよう、改めて公正、公平な報道を、そして、問題の全体像を捉えた報道を、是非、お願いしたいと思います」(福岡県議会HP:https://www.gikai.pref.fukuoka.lg.jp/soshiki/2/statement-of-beliefs.html) 県議会を一つの大きな「リンゴ箱」に例えるなら、そのなかに腐ったリンゴが一個あったとして、やがて、他のリンゴも腐敗菌に汚染されて崩れていくのは自然現象でしょう。さて、どうしますか。

Children Learn What They Live

If children live with criticism, they learn to condemn.
If children live with hostility, they learn to fight.
If children live with ridicule, they learn to be shy.
If children live with shame, they learn to feel guilty.
If children live with encouragement, they learn confidence.
If children live with tolerance, they learn to be patient.

If children live with praise, they learn to appreciate.
If children live with acceptance, they learn to love.
If children live with approval, they learn to like themselves.
If children live with honesty, they learn truthfulness.
If children live with security,
they learn to have faith in themselves and others.
If children live with friendliness,
they learn the world is a nice place in which to live.

 どういう環境で子ども(議員)は育つか、それを見事にドロシー・ロー・ノルトさん(Dorothy Law Nolte)(1924~2005)は挙げられています。とてもよく読まれたものですから、そのさわりだけを上に掲げました。当たり前の育て方と育ち方だといってもいいでしょう。あるいは「教育の根本義(原理)であるともいえそうです。

 この「原理」に加えて、もう一つ、昔から指摘されてきた大切な政治哲学といっていいものがあります。それが「論語 泰伯第八 9」に出てきます。「子曰、民可使由之。不可使知之。」(子曰く、民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず。)いろいろと勝手な解釈が横行してきた部分ですが、おおよそは「(政治の要諦は)民衆には方針・政策などの大筋を示してそれに従わせることはできるけれども、政策や方針の理念・価値までも知らせることはできない、むずかしい」、そんなところでしょう。でも大方は「民は従わせる」ことはあっても、「そのいちいちを知らせる必要はない」というように、都合よく政治家は受け取るのかもしれません。熊本日日新聞のコラム「新生面」は真っ当すぎる指摘をされていました。「『政策などに民衆を従わせることはできても、その意義まで理解させることは難しい』との意という。だからこそ為政者は理解してもらうための説明責任を負う-というむしろ民主的な戒めを読み取ることもできる」と。今日のはやりは「説明は控えさせていただく」という、傲岸不遜と陰部例の双子の政治家の排出です。まるで雨後の筍(たけのこ)のように、野放図に増えています。

<新生面>「知らしむべからず」 論語に「民は由[よ]らしむべし。知らしむべからず」という言葉がある。「民衆には何も知らせず、ただ従わせればよい」との、いかにも封建的な解釈があるが、それは誤読であるようだ▼ここでの「べし」「べからず」は可能、不可能を表す助動詞で、本来は「政策などに民衆を従わせることはできても、その意義まで理解させることは難しい」との意という。だからこそ為政者は理解してもらうための説明責任を負う-というむしろ民主的な戒めを読み取ることもできる▼刑事裁判の再審制度を見直す刑事訴訟法改正案が衆院で審議入りした。世論の後押しを受けた見直しではあるけれども、政府案がその民意に沿った内容であるかには疑問を覚える▼マスコミとしてとりわけ気にかかるのが、再審手続き以外での証拠使用を一律に禁じる規定だ。検察から新たに証拠が開示されても、報道は制限されることになりかねない▼静岡県一家4人殺害事件で再審無罪となった袴田巌さんの再審請求審では、犯行時の着衣とする5点の衣類の画像が開示され、報道にも供された。味噌樽[みそだる]に1年間漬かっていたはずなのに、シャツは白さを保って、血痕は鮮やかな赤色のまま。一見して矛盾が分かる証拠の公開は、再審制度自体の在り方にも国民の関心を集める役割を果たした▼「反省すべき点について手当てを講ずる必要がある」(平口洋法相の趣旨説明)としながら、その反省をもたらした手段を封じる政府案の意義とは何なのか。「知らしむべからず」である。(熊本日日新聞・2026/05/28)

 現総理は、凶弾に倒れた元首相を「師匠」と仰いだといわれる。まったくよく学んだものであると感心します。肝心なことは説明しないし、訊かれたことにはまともに答えないで、はぐらかす、ごまかす。そのうちに逆切れして「開き直る」のが常、でした。どちらも「それ一本鎗」という傾向が激しかったと思う。どちらも「政治家」になるべきではなかったといいたいほどの不出来な人物だったと、ぼくは思い続けていきました。なによりも「嘘つき」だという、彼や彼女に天性の資質が、堕落した政治家向きだったろうが、それは「望ましい政治家」とは正反対のものだったと思う。ぼくたちは屑政治家に舐められ切っているんですね。それもこれも、大破局(big catastrophe)の一歩手前まで来てしまっています。後戻りはできないでしょう。

 故元首相で、現首相の「師匠筋」は、疑惑追及の網を逃れるべく、最後は「秘書」を持ち出して、彼に罪を擦り付けて辞任に追い込まれた。秘書は有罪(100万円の罰金)でした。現首相もまたぞろ「秘書は…」と言い出し始めました。不真面目なうえに往生際が悪い、要は始末に悪い、醜悪な政治家ですね。一秒でも早く辞するべきでしょう。この手の屑ばかりが政治家だとは思いませんが、「屑も積もれば山となる」で、なかなか政治家の本領を持った御仁に出逢わないのは、政治家の不始末でもありますが、同時に、われわれ有権者の「不見識」「無分別」でもあるということを考えれば、「日暮れて途遠し(The sun is setting and the road is long.)」の感が強くします。いやそもそも「(彼や彼女らには)政治家の歩くべき道はないのだ」というべきでしょうか。(「隠しきれない わたしが悪い♫」「永田町しぐれ」)それこそが、「民主主義」の道のりなんでしょうね。

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