【春秋】「最高の武器は…」 先日、散歩で通りがかった福岡市中央区の寺の山門脇に手書きの掲示があった。「最高の武器は座って話し合うこと ネルソン・マンデラ」▼南アフリカのマンデラ元大統領。いろいろ調べてみた。ノルウェーのノーベル平和センター前には「The Best Weapon(最高の武器)」と題したベンチ型彫刻があるという▼「現代詩手帖」(思潮社)2024年5月号にはマンデラのこんな言葉も。「パレスチナ人が解放されない限り、私たちの自由は不完全である」。今年の灘中の入試問題に使われた詩が話題になったパレスチナの特集に出てくる▼パレスチナ自治区ヨルダン川西岸にはマンデラの銅像があるそうだ。13年の没後も南アはパレスチナ連帯を発信し続け、イスラエルのガザ地区攻撃をジェノサイド(集団殺害)として23年に国際司法裁判所に提訴した▼マンデラという人を少しおさらいしておこう。人種隔離政策に抵抗して捕らえられ、27年間の投獄を経て、隔離政策を撤廃させた。憎しみをとがらせたりはせず、大統領就任式には看守も招待した▼「世界の指導者には誰がふさわしいか」。英BBC放送の05年世論調査(グローバル選挙)で1位はマンデラだった。軍事兵器にものをいわせる指導者が複数かっ歩する世界の現況は荒涼としている。言葉を最高の武器とした指導者を思い出させるものに時々出合えるのは、一つの救いだ。(西日本新聞・2026/06/08)

“Our freedom is incomplete without the freedom of the Palestinians.” この言葉がいつ、どこで語られたのか、調べがついていないので分かりません。しかし、少なくとも「自由(=人権=他者に向けて発言する権利)」の問題を、このようにパレスチナ人(の自由)と結び付けて語る・問題にするような政治家がいる(いた)ということを知るだけで、ぼくはある種の勇気のようなものを奮い立たせるのです。悪名高い人権侵害でもあった「人種隔離政策(apartheid・アパルトヘイト)」実施国の政治家として、長く獄中にあったことは知られていたし、そこから生還し、なお自らの信念に基づいて政治活動をつづけたという、その一貫した精神に対してもぼくは深く敬意を払うものです。もちろん、どんな人間にも「毀誉褒貶(きよほうへん)(public criticism)」はついてきます。さまざまに汚染されている時代や社会に生きていると、思わない害毒に感染することがあります。無菌室ではない限り、それは避けられません。他人による一人の人間の評価は単純ではありませんから、マンデラ氏にも悪評はつきまわっているでしょう。(註 「南アフリカの故ネルソン・マンデラ元大統領がアパルトヘイト(人種隔離)時代に逮捕され、27年間に及ぶ獄中生活を強いられることになったきっかけは、米中央情報局(CIA)のスパイが当時の南ア当局に提供した機密情報だった」と、Sunday Times(2016/05/15)によって報道されていました)
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◎ アパルトヘイト=〈隔離〉を意味するアフリカーンス語で,とくに南アフリカ共和国の極端な人種隔離・人種差別の政策と制度全体をさす。同国では少数の白人(517万)が,黒人(3036万),カラード(白人と非白人の混血,344万),アジア人(主としてインド系,103万。以上1994年推計)を政治的,経済的,社会的に差別してきた。白人優越主義に基づくこの人種差別は,17世紀半ばのオランダ人の入植開始以降徐々に制度化されていったものである。そして1948年のアフリカーナー(ボーア人)を基盤とする国民党単独政権成立後,より徹底した人種隔離・差別政策・制度へと再編成され,アパルトヘイトと呼ばれるようになった。アパルトヘイトのねらいは,少数白人の絶対的優位の維持であり,そのために政治・経済・社会,文化など人間生活のあらゆる分野で非白人を差別し(部分的アパルトヘイト),最終的には非白人を人種グループごとに別個の社会へと隔離してしまう(全面的アパルトヘイト)ことであった。(↷)

1970年代半ばまでは非白人の参政権の否定(有権者分離代表法など),白人と非白人の結婚や性交渉の禁止(雑婚禁止法,背徳法),人種差別居住区の設定(集団地域法),非白人の移動の自由の制限(パス法)など人種差別的制度の拡充に力点が置かれていた。しかし1975年のポルトガル植民地解体などによりアフリカ南部における南アの孤立が深まると,差別を緩和しながら人種隔離を急激に推し進める方向へ転換し,かねて黒人自治地域として設定されていたバントゥー・ホームランドに次々に独立を付与し始めた。しかし内外の非難,抵抗運動が強まるなかで,1983年憲法によりカラード,インド系人にも参政権を認め(人種別三院制議会),1985年以降雑婚禁止法,背徳法,パス法などの差別法を廃止していった。さらに内外の圧力が一層高まるなかで,1991年6月デ・クラーク大統領はついにアパルトヘイト全廃に踏み切った。1994年4月に初の全人種選挙で成立したマンデラ政権のもとで,ポスト・アパルトヘイト社会の構築が開始された。(百科事典マイペディア)
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しかし、彼自身の歩いてきた道を遠望した時、そこには大本で「人権抑圧」に対する一貫した「戦いの姿勢」があったことは否定できないと思う。「最高の武器は座って話すこと」というこの言葉は、彼自身の経験から生み出された「信念(belief)」だったでしょう。これまでにも何度も繰り返し、地上から抹殺を図るような、度重なる攻撃が加えられてきたパレスチナ。もとをただせば、欧米諸大国の帝国主義がもたらした歴史的過誤・植民地政策(暴政)だったと思う。その過ちに手を染めたにもかかわらず、今日の惨状に沈黙を決め込んでいる「先進」諸国の政治判断にも大きな責任があると、これまでも誰彼となく指摘してきたところです。

ロシアの大統領やアメリカの大統領が「ノーベル平和賞」を授賞することは、これまでの敬意を見ても、大いに、ではなくともあり得ます。仮にそのような事態が生まれたなら、「平和への大変な侮辱(An insult to peace)」と受け取られるでしょうが、問題は「ノーベル平和賞」にあるのではありません。「侵略戦争そのものが、平和への侮辱以外の何物ではないのですから。それとは無関係に、強圧政治の足元でも、誰かの生存が脅かされる状況や事態に果敢に挑戦する人々はいたるところにいるはずです。たった一人の政治家や活動家の動静によって「平和」や「人権」が左右されるものではありません。文字通り、ネルソン・マンデラ氏は27年間の獄中生活を強いられました。南アという国家(社会)における自らの存在を否定され、社会に向けて「発言する権利」を奪われていました。まさに「口を封じられた人」だった。その「(奪われていた)発言する権利(「自由」という権利)」を回復することが、人権の名において、いわば「要請」されていたのでした。(一人のマンデラ氏が存在したということは、無数のマンデラ氏が存在していたし、これからも存在することを示しているでしょう)
*「スノヘッタによる、ノルウェー・オスロの、ノーベル平和センター前に設置された彫刻「The Best Weapon」。マンデラの歴史的言葉“最高の武器は座って話すこと”に由来する作品名をもち、弧のデザインが人々を引き寄せ対話を促すことを意図、加えて環境に優しいアルミで造られる」(https://architecturephoto.net/)(ヘッダー写真を含めて)

◎ ネルソン・マンデラ氏(Nelson Mandela)= 南アフリカの白人支配体制によるアパルトヘイト(人種隔離)撤廃に尽力した同国初の黒人大統領。1944年にアフリカ民族会議(ANC)青年同盟創設に参加。64年に反逆罪で終身刑を宣告され服役したが、90年に釈放された。南アの民主化進展に伴って日本との関係改善が進み、92年に両国は外交関係を再開した。93年に当時のデクラーク大統領とノーベル平和賞を共同受賞。94年、大統領に就任し、99年に政界引退。2013年12月に95歳で死去した。(共同通信ニュース用語解説)
マンデラ氏の1962年逮捕、米CIAが情報提供 英報道 南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離)政策への反対運動を主導した故ネルソン・マンデラ氏が1962年に逮捕された際、米中央情報局(CIA)による情報提供が決め手になっていたと、英紙サンデー・タイムズが伝えた。元CIAのドナルド・リカード氏が亡くなる少し前に、同紙に明らかにした。/マンデラ氏は逮捕後の27年間を獄中で過ごし、1990年に自由の身となった。1994年には同国の大統領に就任した。/今年初めに亡くなったリカード氏は、これまでCIAとの関係を明らかにしていなかった。1970年代末に退職するまで大使館員として南アフリカで働いていた。/サンデー・タイムズによると、インタビューは英国の映画監督ジョン・アービン氏によって行われた。アービン氏はマンデラ氏がゲリラ活動に身を投じた時期を描いた映画『Mandela's Gun(マンデラの銃)』を監督している。
マンデラ氏は当時、非合法化されていたアフリカ民族会議(ANC)の抵抗運動を主導。逮捕時には同国の最重要指名手配者だった。しかし、何度も拘束を逃れ、「黒いピンパーネル」のあだ名が付けられた(訳注:フランス革命時に貴族亡命を支援した英国の秘密結社「スカーレット・ピンパーネル(紅はこべ)」が由来)。/マンデラ氏は1962年に、運転手のふりをして南アフリカ東部ダーバン近郊を通行しようとしたところ、検問所で警察に拘束された。/リカード氏は、「彼がいつ、どういう形でやって来るかを事前に知った。(中略)私が関与したのはそこで、そこでマンデラ氏は捕まった」と述べている。/ANCの報道担当者ジジ・コドワ氏は、「今回発覚した内容は、前から承知していたことを裏付けた。CIAは前から敵だったし、いまだにそうだ」と語った。/「幼稚な陰謀論ではない。今に始まったことではないのだと確認されたわけだ。歴史は繰り返す」(後略)(BBC・https://www.bbc.com/japanese/36299749)
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バンクシーとパレスチナ バンクシーが初めてベツレヘムで作品を発表したのは2003年のことです。/ベツレヘムの分離壁に、有名な《Love is in the Air》(愛は空中に)を描きました。/これは手榴弾の代わりに花束を投げるテロリストを描いて平和を訴えるもので、バンクシーのアイコンとして非常に有名です。/2011年に日本語版が出版された自薦作品集『Wall and Piece』(壁と平和)の表紙も《Love is in the Air》でした。(中略)
バンクシーのパレスチナへの関心は深く、旅は一度にとどまりませんでした。/2年後の2005年にもパレスチナを訪れて、分離壁にいくつかの作品を残しました。/その一つが、バンクシー作品にたびたび登場する《Girl With Balloon》(風船を持った少女)です。/数多くの風船を持った少女が宙に浮いていく絵は、壁の撤去と移動の自由を求める住民の願いを反映したものです。/絵柄こそ異なりますが、オークション落札直後のシュレッダー事件で有名になった《Love is in the Bin》(愛はごみ箱の中に)も、元の題名は《Girl With Balloon》(風船を持った少女)でした。

2005年のバンクシーによる分離壁へのストリートアートは、世界中のニュースにとりあげられました。/イスラエルとパレスチナの問題に知識人が関心を持っているところに、それをわかりやすくデフォルメして、大衆に広めてくれる格好の素材がバンクシーのアートでした。
監視塔のイスラエル兵に狙撃される危険を冒しながら描いたとバンクシー自身が宣伝したことでも話題になりました。/イギリスのローカルアーティストだったバンクシーが、政治的なメッセージを発するストリートアーティストとして、世界的に有名になったのはこれがきっかけです。(「バンクシーとイスラエルとパレスチナの関係 ~ ベツレヘムの壁画に込めた思い」翠波画廊:https://www.suiha.co.jp/column/bankusitoisuraerutoparesuchinanokankei/)
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マンデラさんとは全く趣も生き方の流儀も異なる一人の画家がいます。「バンクシー(Banksy:本名および生年月日は未公表)」です。この人は早くからパレスチナ問題に大きな関心を寄せていたし、多くの作品を残してきました。彼は政治家ではありませんが、その行動は極めて政治的です。ぼくはバンクシーの「壁画」に関心を寄せてきました。おそらく二十年以上も前から。ある意味では、生命の危険に晒(さら)されながらのパレスチナ行だったろうし、壁画制作だったと思う。当時の制作進行中のヴィデオが残されています。それを見るにつけても、ここにも一人の「アムネスティ」の活動家がいるという実感を強くするのです。一人のバンクシーがいるということは、無数のバンクシーの存在を示していると、ぼくは考えるものです。(*https://www.youtube.com/watch?v=996lIk-04lA)
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「“神出鬼没”で知られるバンクシーだが、その活動初期からもっとも力を入れてきたのは〈パレスチナ問題〉であることは、どれだけの人に知られているのだろうか。英国を拠点とするバンクシーはこれまで約20年間、何度もパレスチナを訪れて現地で作品制作をして直接支援を続けてきた。そして、代表作の多くがパレスチナの地で生まれている。(↷)

初期の代表作《花を投げる人(上掲)》は今から約20年前の2003年頃、パレスチナのベツレヘム郊外に描かれた。そして、2019年に筆者が『Casa BRUTUS』の取材のために現地入りしたときには、まだ現存していた。上書きも上塗りもされず、20年以上も作品が残っているのは奇跡的で、地元の人たちに大切にされていることがわかる。この作品が描かれたのは、英国でもまだバンクシーの存在が一般的には知られていなかった時代で、当時はまだ今現在のように新作が発見されると世界各国が一斉に速報ニュースを流すというような状態ではなかった頃の話だ」(↷)

「そのバンクシーが国際的に有名になったきっかけもまた、パレスチナだった。バンクシーが再びパレスチナを訪れた2005年、「現代のアパルトヘイト・ウォール」と批判されながらもイスラエル政府が建築を強行する「分離壁」に9点の作品を残したのだった。バンクシーはグラフィティライターとして“世界一危険な壁”をボムしたのだ。「現在のパレスチナは世界最大の野外刑務所であり、グラフティライターにとって究極の活動ができる旅行先だ」と世界中のライターに共闘を呼びかけながら。」(* casa brutus:https://casabrutus.com/categories/art/385192)
「(2014年のイスラエル軍による)ガザ侵攻では死者は2300人にも上り、その7割が民間人だった。この地上侵攻は各国のテレビや新聞で大々的に報道されたが、イスラエルの国際法違反や戦争犯罪を追認する動きまでには至らなかった。バンクシーはその爆心地に残した作品について「地元の男性がやって来て“この作品はどういう意味なんだ?” と聞いてきたので、こう答えた。俺は自分のウェブサイトにガザ地区の写真を掲載して、この惨状を訴えたいと思っている。けどインターネットの人間は、子猫の写真ばかりしか見ないんだよ」という皮肉と憤りが入り混じったコメントを発表している」(* casa brutus:https://casabrutus.com/categories/art/385192)
(* Banksy in Gaza City, Palestine:https://www.youtube.com/watch?v=wimAC71FYx8)
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