
昨日(6月5日)の昼過ぎだったか、京都の友人に電話をしました。今月の11日(木)に、高校時代の同窓会を開くので出席を求められていたのに、かみさんのことも猫のことも心配で、出席を見合わせるという連絡を、数日前に「幹事」のYさんに連絡したので、それを報告するつもりでした。たまたま、Tさん(製材所経営)は、自宅近くのJAで「補聴器」の即売会を行っていたので、そこに来ていて、電話を受けられなかったという。このところよく聞こえなくなっていたので、補聴器の世話になっており、それも新規のモノ(AI搭載)に替えるつもりで来ていたということだった。同窓会への不参加を伝えたところ、自分も数日前に幹事に「(当方が不参加なら)自分も不参加」と伝えたばかりということでした。その補聴器も、とても性能がいいし、当然値も張るという。高いものは100万を超えるとも。それくらいに高価なものなら「話されていないことも聞こえるでしょうな」と余計なことを言っておいた。
その電話を受けて、今回の幹事役(Yさん=建築設計士)に電話で改めて欠席の理由も含めて近況報告をした。彼とは小学校以来の同窓生だったと思う。奥方もまた高校の同級生。夫婦ともども元気との由。高校時代の奥方はもちろん、「若くて美しかったね」と伝えたら、彼女は「今でも(今だって)十分に綺麗よ」と厚かましいことを言う(車に同乗の様子)。もう八十を超えているのに、とも思うが、「自分で思っている分にはいいでしょう」という気もします。京都人って、結構厚かましいと、遠くに住んでいる人間は考える。それはともかく、これだけ元気で言いたいことが言えるのだから、それはそれでいいことなんでしょうね。

「補聴器」は、今のところ、ぼくには無用ですけれど、いつ何時必要となるかわかりません。連れ合いはかなり「難聴」気味だと思う。実際は、よくわからない。「勝手●●●」かもしれない、テレビなどの音量はかなり大きくしているようだ。目も耳も悪くなるというのは、一種の「病気」だろうが、それは老化に伴う現象であって、とするなら老化もまた、病気であるということにもなりますが、可笑しいですね。身体機能の衰えには個人差がありますから、何を基準にするかというのは、せいぜい年齢くらいでしょうし、それでもあまり確かな基準にはならないのではないでしょうか。老化や老衰にも「遅い早い」があるのも当たり前ですから、自分の「衰え」は素直に受け入れる用意だけはしておきたいもの。
眼や耳が悪くなるというのは、たぶん、世間の基準でいうなら「障碍者」でしょう。老化は「ハンディキャップ(handicap)」を持つということでもある。それを機器や器具に支えられて生きようとするのもまた、人生です。トルストイだったか、「生まれ時は四本足、成人して二本足、老いては三本、それはなあに」と書いている。言うまでもないでしょう。元気に年をとるということは、誰か・何かの支えがなければ大変であるという意味です。可能な限り「自分の頭で考え、自分の足で歩く」、これが人生の大通りだという気もしますが、何であれ、助けを借りながら生きているのもまた、人生。だから、「補聴器」は人生行路の一つのシンボル(道標)でもあるのしょう。

【三山春秋】▼「都合の悪いことは聞こえないふりをしたい」と思う瞬間は、誰でもあるだろう。興味のない話であればなおさらだ。できることなら耳をふさいでしまいたくなるのが、人間の素直な気持ちかもしれない▼そんな人間の本質をユーモラスに描いたのが落語の「寝床」。下手な義太夫を無理やり聴かせようとする旦那に対し、集められた長屋の住人や店の奉公人は全く聴く気がない様子でその場をやり過ごそうとする一場面がある▼だが、居眠りや不作法の態度が旦那の怒りに火を付けた。不都合なことから逃げようと耳を覆えば、事態は悪化する。現代の私たちにも通じる手厳しい教訓のようでもある▼きょうは「補聴器の日」。日本補聴器工業会によると、数字の「6」を二つ向かい合わせにすると人間の耳の形に見えることなどにちなみ、業界団体が制定した。器具への理解を深め、多くの人が抱える「きこえ」についての悩みが改善されてほしいとの願いが込められている▼補聴器が音をきれいに届けるように、私たちも都合の悪い言葉を遮らずに受け入れる「心の耳」を持ちたい。不都合な話を雑音として聞き流していては、周囲との信頼関係は築けない▼時には耳が痛い話や、受け入れがたい意見もあるだろう。それでもまずは耳を傾けてみるのはどうだろうか。立場や肩書は関係ない。他者の言葉を受け止める心の耳を常に澄ませておきたい。(上毛新聞・2026/06/06)

ここまで書いてきて、本日は「補聴器の日」ということを知りました。上毛新聞のコラム【三山春秋】は書いていました。そうであっても、「寝床」をここに持ち出すのは適切ではないように思います。旦那とありますが、要するに「大家」のことで、それをいいことに「下手な義太夫」を聴けという、今ならさしづめ「パワハラ」でしょう。「店子」は「まだ死にたくはない」とか何とか、散々に理由をつけて逃げようとすると、頭にきた大家は、そんなに嫌なら、「出て行ってくれ」と本領を発揮する。下手どころではないんですね、これが。ぼくは桂文楽さん(八代目)で繰り返し、飽きるほど聞きましたが、やはり面白い落語ですね。「居眠りや不作法の態度が旦那の怒りに火を付けた。不都合なことから逃げようと耳を覆えば、事態は悪化する。現代の私たちにも通じる手厳しい教訓のようでもある」とコラム氏は書かれるが、どうでしょうか。漬物が腐るというほどに酷い「義太夫」を強制的に聞かされ、「俺はそんなに悪いことはしていないのに」などといいたくなるのも頷けます。それは「暴力」ですからね。我慢なんかする必要はないですよ。
この落語を聞くたびに、ぼくは学校の授業を思い出していました。まさしく苦行でしたね。聞き惚れる授業など、一度だってなかったと思う。ある時期から、学校の授業とは「拷問」に近いと悟ったし、身を入れることは一切なくなったものでした。考えるまでもなく、いろいろな興味や関心、あるいは能力差のある子どもたちを寄せ集めての一斉授業ですから、教師の苦労も並大抵ではないと同情することもありましたが、それでも何年経っても「味気なさ」には変わりなかったといっていいでしょうね。だから「素晴らしい授業」に遭遇するのはある種の奇跡でもあったし、それは今まで全く聞こえなかったのが素晴らしい「補聴器」に出逢ったみたいに、嘘のように聞こえだすのに似ていませんか。

「不都合な話を雑音として聞き流していては、周囲との信頼関係は築けない▼時には耳が痛い話や、受け入れがたい意見もあるだろう。それでもまずは耳を傾けてみるのはどうだろうか」とコラム氏。ぼくは嫌ですね。そんなときには「馬耳東風」と決め込んでいたと思うし、「聞く耳を持たない」態度を一貫したものです。「「世人之を聞けば皆頭を掉(ふ)り、東風の馬耳を射(い)るが如き有り」(李白)心地よい春風も、馬には何の感慨も催させないという通り、この手の俚諺は無数にあります。「犬に論語」「牛に経文」「兎に祭文」「糠(ぬか)に釘」「豆腐に鎹(かすがい)」「暖簾(のれん)に腕押し」「石に灸」「月夜に提灯」「闇夜の錦」などなど。世間では立派な教訓であるとされる物事でも、時宜を得たものでなければ、物の役には立たないものが多すぎます。
「貴耳賤目(きじせんもく)」とも「以耳代目(いじだいもく)」とも、ともに似たような諺(ことわざ)とされますが、要するに「耳を大事に」「目を信じないように」ということで、耳に入ったことよりも自分の目で見たものを信じられないという意味でしょうし、耳が目の代わりになる、つまりは「耳学問」(「受け売り」)ということです。早い段階から、学校の勉強はほとんどがこれでしたね。何よりも教師の話すことを懸命に聞くという姿勢を叩きこまれたのです。今だってそうでしょうか。そんな風潮に対して、ぼくはあえて「百聞は一見に如かず」ということを突き出してきました。「一〇〇回聞くより一回見るほうがよくわかる。何度繰り返し聞いても、一度実際に見ることに及ばない」(精選版日本国語大辞典)とあります。確かにそのようではありますが、ぼくはこれを「一見してよくよくわかるためには、百聞は不可欠だ」と捉えてきました。「百聞があって、初めて一見が意味を持つ」と、ね。
「耳聞目見」、「耳もて聞き、目もて見る」という。耳で聞くのも経験なら、目で見るのも経験。「百聞は一見に如かず」に通じませんか。経験の大切さをぼくは考えてきました。あえて言うなら、ぼくは根っからの経験主義(empiricism)を通してきたといえます。それ故に、耳が聞こえなくなり、目が見えなくなるというハンディを負いつつ生きるというのも、なかなかにしんどいことですね。「経験」「体験」の範囲が極端に狭まるからです。それでも生きていくとなると、さて、どうしますか。
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