
ヘッダーに掲げた写真は、アメリカ有力新聞の一つが、社のモットーを掲げた際の「一行」でした。「デモクラシーは暗闇に死す(Democracy Dies in Darkness.)」とあります。この新聞は、白昼公然と「死を迎えた」ともいわれています。先の米大統領選挙の際に、「T候補の批判はまかりならぬ、積極的に支持する意見を書くべし」と、社主は、それまでの社の主張を180度変えたのでした。詳細は省きます。当代きっての富豪社主が、権力の軍門に下り、新聞社の「精神」を大統領に売り渡したからです。この新聞には輝かしい新聞魂があったとぼくには思われもしたのですが、もはや、その「輝き」は失われたも同然でした。

◎ ワシントン・ポスト(The Washington Post)= アメリカ合衆国のワシントンD.C.で発行されている朝刊紙。『USAトゥデイ』(→ガネット),『ウォール・ストリート・ジャーナル』『ニューヨーク・タイムズ』『ロサンゼルス・タイムズ』などに次ぐ発行部数をもつ有力新聞。編集方針は国際主義的で,格調の高い論説は内外に影響力をもつ。1877年,S.ハッチンズが民主党系の新聞として創刊。第1次世界大戦後に一時経営が悪化したが,1933年ユージン・マイアーが引き取ってからは F.モーリー,H.エリストンらの名編集長を得て急速に発展。また 1963年以降,マイアーの娘キャサリン・グラハムのもとで発行部数を増やし,屈指の有力紙としての地位を確立した。(↷)

1973年のウォーターゲート事件の報道による受賞など,60回以上ピュリッツァー賞を受賞している。1990年代にはインターネットでの事業展開を進めたが,業績の低迷により 21世紀に入ってからリストラクチャリングに着手。2013年8月,ワシントン・ポスト社の新聞事業は,アマゾン・ドット・コムの創業者で最高経営責任者 CEOのジェフリー・ベゾス個人に 2億5000万ドルで売却された。(ブリタニカ国際大百科事典 )
時の「政治権力」への絶え間ない批判(The role of the newspaper is to continuously criticize political power.)を失えば、新聞は果たすべき役割を放棄したことになり、まさに、それは「自らの死(suicide)」を意味します。権力にとって、これほど歓迎すべきことはないでしょう。アメリカの新聞もまた、現実には、横暴な権力の幾多の攻撃や抑圧に耐えかねるような状況にあるかに思われます。しかし、そこには最後の「抵抗線(The last resistance wire)」があると見えますし、ぼくはそれを祈りつつ支持したいと、一読者として自分を鼓舞している。「知る権利を」常に追求し、それを紙上に示すべきだということ。

本日は、旧聞に属する二つの<社説>、いずれも東京新聞のもの、それを今さらのように引用しました。この国の新聞が「雪崩(なだれ)を打って」というべきか、「踵(きびす)を接して」というべきか、どういう表現を使おうと、時の「政治権力」の「虚勢」「幻想」「抑圧」に、膝を屈してしまい、その意向に靡いてしまったと思われるからです。毎年のように各紙が交々に、桐生悠々の誕生日に「悠々を偲ぶ」「あるべき新聞人の姿」というような記事を書いていました。彼から学ぶ必要性を感じていたからでしょう。そのすべて、とは言えませんが、ぼくは、それら多くを読んできましたし、そこからいろいろな感想・感慨が浮かんできました。しかし、このところ、同じ趣旨に出る記事がほとんど見られなくなったのは、たぶん、もう新聞界隈は「桐生悠々」を持て囃す時代ではなくなった、「悠々って誰?」という自覚や見切りがあるからでしょう。一市民としては、「残念至極の現実」というほかありません。「権力に好まれなければ、書きたいこともかけない」とでも思っているのでしょうか。
「弱気を挫き、強きを助ける」、そんな現在の新聞には、汚い言葉を使わせてもらいますが、手にするだけで「反吐が出る」と言いたいほど。新聞と並び語られるテレビからは、その「反吐さえも出ない」、末期の「おめき」「から騒ぎ」だけが伝わってくるようです。そして、多くの新聞は系列化を促して、ほとんどの民間テレビ局を、自らの下僕(傘下)にしてしまいました。マスメディアの現下の「頽廃」「堕落」は、社会衰退の一大原因(背景でもある)だとぼくは言っておきたいが、そんな「害悪」が、ものを考えようとはしなくなる有権者を大量に生み出しているのも事実ですから、もう「万事休す」というほかありません。ネット時代の情報の錯乱は、自然に発生したものではないのです。「愚民化政策」とでも称される社会現象が、着実に効果・成果を上げてきたということでしょう。、

四年の間隔を置いて書かれた東京新聞の二編の「社説」を並べてみて、この四年間は新聞にとって、あるいは東京新聞にとっても、より厳しい時代のただなかに立ち往生しているかのような姿が浮き彫りされている、そんな思いが湧いてきます。この先にそれぞれの新聞の生き残る道は皆無だというつもりはありません。かといって、今のままでは「座して死を俟つのみ」というほかない事態に置かれています。かつての新聞記者(ジャーナリスト)は花形職業と謳われたことがありました。そう、かれこれ半世紀以上も前のこと。「社会正義」を貫こうとし、「権力の横暴を果敢に批判する」役割を自認しえる職業人として、高校生時代のぼくも、真摯に「新聞人になろう」と強く憧れたものでした。
ひるがえって、今日の新聞・テレビをめぐる状況はどうか。今ある新聞は「背に腹は代えられぬ」「腹がへっては戦はできぬ」とばかりに、広告主に頭を下げ、広告を取り仕切る企業に首根っこを押さえられ、何から何まで、発行部数第一、視聴率至上主義に毒されてしまっています。視聴者に媚を売り、広告主に媚を売り、大手広告宣伝業に死命を制せられている。広告大企業と政治権力は、公然と「握手」をしています。つまりは、この事態にあって、メディアは堕落に堕落を重ねて、そして最後は「権力の手先」になって、命脈を保つのでしょう。あるいは社会問題には背中を向けて、それこそ、視聴者を虚仮にして生き延びようとしているのです。読者をほしいままに「誑(たぶら)かす」ような俗悪娯楽商売に身をやつして生き延びるのでしょう。
"Truly, truly, I say to you, unless a grain of wheat falls into the earth and dies, it remains alone; but if it dies, it bears much fruit."(Gospel of John 12:24)

<社説>桐生悠々を偲んで 反戦・反軍貫いた後半生 世界中で軍事力優先の権威主義が広がり、日本周辺の安全保障環境も緊張が高まる国際情勢と無縁ではありえません。 戦争放棄と戦力不保持の平和憲法を有しながらも、防衛力増強や防衛費膨張が進む状況は「新しい戦前」とも指摘されています。 かつて破滅的な戦争へと突き進む時代、反戦・反軍の立場から警鐘を鳴らし続けた記者がいます。 <桐生悠々(きりゅうゆうゆう)> 本紙読者にはおなじみですが、悠々の紹介を少しだけします。 1873(明治6)年、金沢市で生まれた悠々は明治から大正、戦前期の昭和まで、藩閥政治家や官僚、軍部の横暴を痛烈に批判し続けた言論人です。本紙を発行する中日新聞社の前身の一つ「新愛知」新聞や長野県の「信濃毎日新聞」などでは、編集、論説の総責任者である主筆を務めました。 1912(大正元)年、明治天皇死去に伴う陸軍大将、乃木希典(のぎまれすけ)の殉死では、信毎主筆として社説「陋習(ろうしゅう)打破論-乃木将軍の殉死」を書き、殉死を「封建の遺習」「野蛮の遺風」として「一刻も早く之(これ)を打破せねばならぬ」と主張しました。殉死をたたえる新聞が多い中、異例の内容です。 新愛知時代の1918(同7)年に起きた米騒動では、米価暴騰という政府の無策を新聞に責任転嫁し、騒動の報道を禁じた寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣を厳しく批判。社説「新聞紙の食糧攻め 起(た)てよ全国の新聞紙!」の筆を執り、内閣打倒、言論擁護運動の先頭に立って寺内内閣を総辞職に追い込みました。 すでに著名な言論人だった悠々がより注目されるようになったのは、2度目の信毎主筆時代に筆を執った33(昭和8)年の評論「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」でしょう。 敵機を東京上空で迎え撃つ想定の無意味さを指摘した内容は日本全国が焦土と化した歴史を振り返れば正鵠(せいこく)を射たものでしたが、在郷軍人会の抵抗に新聞社が抗しきれず、信州を離れます。(以下略)(東京新聞・2025/09/10)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/434752?rct=editorial)
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しかし、豈に図らんや。「社会の木鐸」と自認し、広く深く社会に正義を生み出すための「人権の砦」ともなりえた新聞や新聞人は、あるいはテレビ界の猛者たちは、もはや潰えてしまったかの感があるのはなぜでしょうか。八十年余の人生の、およそ半分近くをぼくは新聞愛読者として、主としてA 新聞と東京新聞を交互に購読してきました。A 新聞は今では昔日の面影もあるものか、実に惨憺たる無様(ぶざま)な姿態を晒しています。まるでどこかの「総理大臣」のように、醜悪な「ちょうちん記事」を書き続けている新聞社である、とぼくには写ります。もう一方の東京新聞もまた。日一日と、自らの使命を放棄しつつあるかに、ぼくには思われます。そんな東京新聞が、時には今日の新聞にあっては、まだしも「良質」の記事を掲載していると思わせていた、その最後の「頼みの綱」も切れてしまったように見えてきます。「まず読まれなければ」、「売れれば何でも」という、なりふり構わぬメディアの自滅の日は遠くない。

その東京新聞<社説>(2021/09/09 付け)が、悠々の最後の「新聞断罪」(遺言)と思われる文章を掲載していました。
《この頃の新聞に至っては、…全然社会を無視して、時の政府の反射鏡たらんとしている。輿論(よろん)を代表せずして、政府の提灯(ちょうちん)を持っているだけである。そして彼等(かれら)は矛盾極まる統制の名の下に、これを彼等の職域奉公と心得ている》
《今日の新聞は全然その存在理由を失いつつある。従って人はこれを無くもがなのものとしているけれども、他に代(かわ)ってその機能を果たすものなきが故に、彼等は已(や)むを得ずなおこれを購読しつつある。…今日のだらしない状態である》
《将来の新聞は科学的でなくてはならない。現在に於(おい)て、全くその態度を一変しても、決して早くはあるまい》 《神秘主義を尊奉するに至っては、その存在理由を失うのは明である。見よ、彼等は既にその存在理由を失わんとしつつある。試みに街頭に出て、民衆の言うところを聞け、彼等は殆(ほと)んど挙げて今日の新聞紙を無用視しつつあるではないか》

<社説>新聞の存在理由を問う 桐生悠々を偲んで 気骨のジャーナリスト、桐生悠々=写真=は八十年前のあす十日に亡くなりました。破滅的な戦争へと向かう時代、古巣の新聞界にも批判の矛先を向け、奮起を促し続けた悠々を偲(しの)び、今の時代にも通じる教訓を読み取ります。 悠々は、本紙を発行する中日新聞社の前身の一つ「新愛知新聞」や、長野県の「信濃毎日新聞」などで編集、論説の総責任者である主筆を務めた言論人です。 明治から大正、戦前期の昭和まで、藩閥政治家や官僚、軍部の横暴を筆鋒(ひっぽう)鋭く批判し続けました。その報道姿勢は、今も私たち新聞記者のお手本であり続けます。 悠々は信毎時代の一九三三(昭和八)年八月十一日付の評論「関東防空大演習を嗤(わら)う」が、軍部の怒りや在郷軍人会の不買運動を招いて、信毎を追われます。◆政府の提灯持ちと批判 新愛知時代に住んでいた守山町(現名古屋市守山区)に戻った悠々は個人誌「他山の石」の発行で糊口(ここう)をしのぎます。軍部や権力への旺盛な批判がやむことはなく、同誌の発行は、悠々が喉頭がんで亡くなる直前の四一(同十六)年九月五日号まで続きました。 ただ、この号は発行に至りませんでした。原稿を活字に組み込んだものの、病状が悪化して、校正作業をするための「校正刷り」段階にとどまったためです。悠々は八日、友人や読者に「他山の石」廃刊の辞を発送し、十日に息を引き取ります。六十八歳でした。 悠々の「遺言」とも言える最後の九月五日号に掲載されているのが「科学的新聞記者」という記事です。抜粋して紹介します。 《この頃の新聞に至っては、…全然社会を無視して、時の政府の反射鏡たらんとしている。輿論(よろん)を代表せずして、政府の提灯(ちょうちん)を持っているだけである。そして彼等(かれら)は矛盾極まる統制の名の下に、これを彼等の職域奉公と心得ている》 《今日の新聞は全然その存在理由を失いつつある。従って人はこれを無くもがなのものとしているけれども、他に代(かわ)ってその機能を果たすものなきが故に、彼等は已(や)むを得ずなおこれを購読しつつある。…今日のだらしない状態である》 《将来の新聞は科学的でなくてはならない。現在に於(おい)て、全くその態度を一変しても、決して早くはあるまい》《神秘主義を尊奉するに至っては、その存在理由を失うのは明である。見よ、彼等は既にその存在理由を失わんとしつつある。試みに街頭に出て、民衆の言うところを聞け、彼等は殆(ほと)んど挙げて今日の新聞紙を無用視しつつあるではないか》(以下略)(東京新聞・2021/09/09)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/129825)
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敗戦前の41年9月10日、悠々は68歳の一期を終えました。

「やがて死ぬ景色も見えず蝉の声」(元禄三年夏) 芭蕉は四十五歳ごろ、琵琶湖南岸の近津尾(ちかつお)神社の境内に建つ「幻住庵」に四ヶ月ほど滞在したされます。その際に、加賀藩士だった秋之坊に示した句で、「無常迅速」と記されていた。芭蕉自身は「無常迅速」を銘記していたでしょうが、それ以上に、「蝉の声」にはいささかの逡巡も躊躇もなく、鳴くために鳴く、それが生きることという揺るぎない生命感が宿っていたと、芭蕉は直感したのだとぼくは見ています。蝉という、生き急ぎも死に急ぎもしない存在を前にして、芭蕉は「無常」に満たされていたと言えそうですが、それでも、彼もまた「やがて死ぬ景色も見えず」だったと思われるのです。
こ芭蕉句と並べるのは、あるいは憚られるかもわかりませんが、ぼくは桐生悠々の「蟋蟀は鳴き続けたり嵐の夜」を出して置きたい。あえて言うなら、今こそが「嵐の夜」です。その「嵐」を実感できない新聞は「百害あって一利なし」といってしまいたいほどです。新聞もテレビも「雁首」を揃えて、自らの使命を裏切っているのはなぜか。報道とは「大本営発表」を垂れ流すことではないし、取材とはネクタイ背広で快適な部屋にとどまっていることでもないでしょう。
本日(5月14日)、中国北京では「米中(中米)首脳会談」が開かれようとしています。内外無数の記者・メディア人たちが「取材」「報道」活動に当たっている。その中に、一人の無所属(independence)ジャーナリストがいます。直接の面識はありませんが、もう二十年近く以前から彼のことは知っていました。A 新聞記者として、あるいは同社海外特派員として活発な取材活動にぼくは、紙面やネットを通じて接していたからです。その O さんは、数年前に所属新聞社を退社し、自らのメディア媒体を立ち上げました。今回の訪中も、その取材活動の一環でした。昨晩も、北京からの彼の発信する「ライブ」報道を見ていたところです。

彼は、文字通りに孤軍奮闘されている。少なくとも企業内にあって、書くことも話すことも不自由である、現状の窮屈な立場を離れ、自らの「判断」で「書かねばならぬこと」「話すべき必要のあるニュース」の取材・報道に挑戦しているのです。もちろん、このような独立した精神を持たれている人士は彼だけではありません。ぼくの担当したゼミの卒業生を含めた幾多の人たちを、ぼくは知っている。若い人たちの活動が想像を絶する困難(制約・抑圧)(多勢に無勢状況)を前にしてなお前進しようとする、そんな姿勢を見るにつけ、ぼくは、彼ら彼女らにはぜひとも悠々の「遺志」を受けついてほしいと、心底念じています。「試みに街頭に出て、民衆の言うところを聞け、彼等は殆(ほと)んど挙げて今日の新聞紙を無用視しつつあるではないか」(悠々)という、絶望的な状況の真っただ中で、新たな報道の地平を開かれんとしているのです。少なくとも、その後衛たらんとして、ぼくは老骨に鞭を打ち続ける。
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● 桐生悠々(きりゅうゆうゆう)[生]1873.5.20. 金沢 [没]1941.9.10. 名古屋 = ジャーナリスト。本名は政次。 1899年東京大学法学部卒業後,『下野新聞』『大阪毎日新聞』『大阪朝日新聞』などの記者生活を経て,1910年『信濃毎日新聞』の主筆に招かれ,憲政擁護運動のなかで堂々の論陣を張ったが,社の経営方針と対立して 1914年に辞職。まもなく『新愛知』 (現在の『中日新聞』) の主筆に招かれたが,第2次憲政擁護運動のなかで 1924年に退社。日刊新聞の創刊などに失敗したのち,1928年再び『信濃毎日新聞』の主筆に返り咲き,治安維持法や軍備増強,五・一五事件などを激しく批判した。このため軍部は不買運動など,あらゆる圧力をかけ,ついに悠々は 1933年 12月辞職。その後名古屋に移住し,個人誌『他山の石』を創刊して,反軍,反ファシズムの言論活動を展開,1941年の廃刊に追い込まれるまで,30回近い発禁や削除の弾圧を受け,経済的にも窮迫しながら,自分の立場を守り続けた。(ブリタニカ国際大百科事典)
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