「紫陽花はアジサイにあらず」

【金口木舌】始まりは2株のアジサイから 平年より6日早く梅雨入りした沖縄地方。恵みの雨を喜ぶ一方、大型連休中の傘マークを恨めしく思った人も多いだろう。梅雨時の花といえばアジサイ。雨露をまとい輝く花は、沈みがちな心に彩りを与えてくれる▼本部町伊豆味のよへなあじさい園の始まりは、故・饒平名ウトさんがミカン畑に植えた2株のアジサイから。約50年がたつ今では約40種1万株が咲き、見頃を迎えると青色のじゅうたんが広がる▼アジサイの花は土壌が酸性ならブルー、アルカリ性ならピンクになる。剪定(せんてい)や草取り、水やり、施肥。作業は1年を通して続く。こつこつと愛情深く花々を育ててきたウトさんが8年前、100歳で亡くなった後は子どもたちが受け継ぐ▼人も植物と似ている。適した環境や栄養、日々の手入れ。時間をかけ多くの人の愛情や関わりの中で育つ。新生活の緊張や生活リズムの変化を経て、心身のバランスを崩しやすい季節。無理しないことも大切▼連休の寒さの影響か、今年はアジサイの開花が予想より遅れ気味という。見頃は5月中旬から下旬。美しい花を咲かせる日を楽しみにゆったりと見守りたい。(琉球新報・2026/05/12)

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 拙宅の近くにも「アジサイ農園」(茂原市)とでも称すべき「アジサイ花ざかり山」があります。何度か足を運んだものです。そうではありますが、何に限らず、盛沢山とか、てんこ盛り、何とか放題などというのはあまり好まないし、時には辟易すること請け合いですから、「何千本の花木」の苑は、初めから敬遠してきました。この、「アジサイ」もそうですね。見渡す限り、野山も里も「花ざかり 見にゆかん」というのは「ご免蒙りたい」と思う人間です。拙宅にも、粗末な、あるいは貧相な「アジサイ」が、たぶん20株ほど、まさに「自生」しています。ほとんど手入れをしません。肥料もやりません。「剪定や草取り、水やり、施肥。作業は1年を通して続く」(コラム)のとは真逆です。まったくの「野放し」「放置」ともいうべき状態で、かれこれ十数年経過しました。

 おそらくは小生流の「教育実践」みたいなもので、こうすれば、ああすればと飼育(矯正)したり調教(強制)したりすることはとてもではありませんけれど、ぼくの好みに合わないんですね。伸び放題、咲き放題というと大げさになりますけれど、基本形はそうです。余計な世話を掛けなければ、「素質」は伸びます。伸び放題は少し止めますが、まあ、それも程度問題。人間に対しても変わらないと、ぼくは思ってきました。こうせよ、ああせよと、誰彼に対してぼく命令をしなかったのは、ぼく自身が命令されたくなかったから、それだけでしたよ。命令されて動くようになると、命令されなければ動かない、そんな人間はたくさんいるのではないですか。

 (ヘッダー写真:「よへなあじさい園 紫陽花 見どころ 2026」最終更新日:2026.05.09)(https://traveljapan47.net/archives/10384/

 この「紫陽花・アジサイ」に関してはすでに触れていることですが、もう一度、指摘しておきたいと思います。今でも当然のように「アジサイ」は「紫陽花」であるという定見・誤解が世に通用していますね、これに対して早くから「異論」「異説」「異議」を出していたのが牧野富太郎さんでした。「私はこれまで数度にわたって、アジサイは紫陽花でないこと、また燕子花がカキツバタでないことについて世人に教えてきた。けれども膏肓(こうこう)に入った病はなかなか癒(なお)らなく、世の中の十中ほとんど十の人々はみな痼疾で倒れてゆくのである。哀れむできではないか。そして俳人、歌人、生花の人などは真っ先に猛省せねばならぬはずだ」(「植物一日一題」ちくま学芸文庫)(牧野さんがこの「文」を書き始めたのは敗戦後の昭和二十一年八月からだったという。時に博士は84歳でした)

 「全体紫陽花という名の出典は如何。それは中国の白楽天の詩が元である」と指摘して、その詩を引用します。「何(いずれ)の年か植えて向ふ仙檀の上(ほと)り。早晩移して梵家(ぼんか)に至る。人間(じんかん)に在りと雖も人識らず、君が与(た)めに名づけて紫陽花と作(な)す」と、白楽天は「紫陽花」の歌を詠む。あるお寺に一樹があった。人はその名を知らず、「色は紫で気は香ばしく、芳麗にして愛すべく、頗(すこぶ)る仙物に類す。因(より)て紫陽花を以て之に名づく」と、白楽天の詩は続きます。この花がどうして「紫陽花」なのであろうかというのが牧野さんの説です。「とにかくアジサイを中国の花木あるいは中国から来た花木だとするのは誤認のはなはだしいものである。そしてこのアジサイを日本の花であると初めて公々然と世に発表したのが私であった。すなわちそれは植物学上から考察して帰納した結果である」と断定するのです。得意なり、牧野節ですね。日本産「ガクアジサイ」が母種であることは、今では確定しているでしょう。

◎ まきの‐とみたろう【牧野富太郎】= 植物学者。高知県出身。小学校を中退し独学で植物学を学び、主に日本の高等植物の分類学的研究を行ない、日本の植物相の解明に貢献した。また、植物知識の啓蒙活動を行ない、アマチュア植物研究家の育成に尽力した。文化勲章受章。著書「日本植物志図篇」「日本植物図鑑」「植物記」など。文久二~昭和三二年(一八六二‐一九五七)(精選版日本国語大百科事典)

◎あじさいあぢさゐ【紫陽花】= ① ユキノシタ科の落葉低木。ガクアジサイを母種とする園芸品種。茎は高さ一・五メートルほどで根元から束生する。葉は対生し大形の卵形か広楕円形で先がとがり、縁に鋸歯(きょし)をもつ。夏、球状の花序をつけ、ここに花弁状のがく片を四または五枚もつ小さな花が集まり咲く。がく片は淡青紫色だが、土質や開花後の日数等により青が濃くなったり、赤が強くなったりする。茎は材が堅く、木釘、楊子をつくり、花は解熱剤、葉は瘧(おこり)に特効があるという。あずさい。しちだんか。てまりばな。ハイドランジア。《 季語・夏 》② ユキノシタ科アジサイ属の総称。ガクアジサイ、ヤマアジサイ、ハマアジサイ、タマアジサイ、コアジサイ、ツルアジサイなどを含む。③ 紺屋で、藍建ての際、藍びんに赤銅色となって浮く藍の泡を①に見立てていう語。紫陽花の補助注記 「あじ(あぢ)」は「あつ」で集まること、「さい」は真藍(さあい)の約で、青い花がかたまって咲く様子から名付けられたと思われる。(精選版日本国語大辞典)

◎ あじさい〔あぢさゐ〕【紫花】= ガクアジサイから日本で改良された園芸品種。高さ1~1.5メートルの落葉低木。葉は大きな楕円形。初夏、淡青色から淡紫紅色に変わる萼がくのある小花が、球状に集まって咲く。庭木にする。八仙花はっせんか。しちへんげ。しようか。《季 夏》「―や藪を小庭の別座敷/芭蕉」(デジタル大辞泉)

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 白楽天が詠んだ花がどんな花だったかはわかりません。色が紫で、山に咲く花樹だとするなら、そんなものはいくつもあるでしょう。これが「アジサイ」というのは、履歴がはっきりしているものに限るというのが植物学者の言説でした。ぼくたちは「紫の色の花」がどのようなものだったかは知らない。幸運なことに、あくまでも「アジサイ」を「紫陽花」と認識して育ってきました。だから、それで何の不思議もなかったんですね。「紫陽花」と聞けば「乳母車」、乳母車とくれば「測量船」ですね。

 「春の岬旅のをはりの鴎どり / 浮きつつ遠くなりにけるかも」(「春の岬」)と始まるこの詩集を、ぼくは、いつからどれくらい読んできたことか。三好達治さんがどんな人かも知らないで、この一冊に計り知れない「詩情」「詩心」があると、露とも疑わないで読んできたのはぼくばかりではなかったでしょう。

 ここでも余計なことは言いません。繰り返し、読み返すばかりです。三好さんはいくつになっても乳母車に乗って、「母よー」と呼びかけていました。誰だって、このように「母よー」と、声を限りにか、ひそかな声でか、呼びかけているのではないでしょうか。それが生きている、そのことです。

 「淡くかなしきもののふる / 紫陽花いろのもののふる道 / 母よ 私は知ってゐる / この道は遠く遠くはてしない道」 母子の離れがたい紐帯(ちゅうたい)に、ぼくは救われもし、励まされもし。人間は誰でも「母の押す乳母車に乗って、生きている」のですね。いや、もっと言うなら、「母(未知の存在であったとしても)という乳母車」から降りられないままで生きているのかもしれないと、ぼくは思うことがあります。

◎ 三好達治 (みよしたつじ) 生没年:1900-64(明治33-昭和39)= 詩人。大阪市生れ。はじめ軍人を志し陸軍士官学校に進むが中退,三高を経て東大仏文科卒。中学時代《ホトトギス》を購読,句作にふけったというが,三高で同級丸山薫の刺激により詩作を始める。桑原武夫,梶井基次郎,河盛好蔵,吉川幸次郎らを三高時代に知り,東大では小林秀雄,中島健蔵,今日出海(ひでみ),淀野隆三,堀辰雄らと交友。梶井らの《青空》,安西冬衛,北川冬彦らの《亜》,百田宗治の《椎の木》などに参加した後,1928年には《詩と詩論》創刊同人となったがやがて離脱,北川らの《詩・現実》に参加した。33年堀辰雄,丸山薫と共同編集で《四季》を創刊,同誌が昭和10年代抒情詩の主流をなす上で中心的な存在となる。詩人として出発した当時,室生犀星,萩原朔太郎の強い影響を受け,また堀口大学の訳詩集《月下の一群》から多くの方法的示唆を受けた。特に萩原からは深い影響を受け,生涯師として尊敬し,すぐれた萩原論をも書いた。第一詩集《測量船》(1930)で確固たる地位を築き,続く《南窗(なんそう)集》(1932),《間花集》(1934),《山果集》(1935)ではフランシス・ジャムにならった四行詩を俳句的手法を加味して作る。《艸(くさ)千里》(1939),《一点鐘》(1941)などで詠嘆的文語調が強まる。第2次大戦中《捷報(しようほう)いたる》(1942),《寒柝(かんたく)》(1943)などの激越悲愴な戦争詩を書く一方,哀切な恋愛を背景にした《花筐(はながたみ)》(1944)をも書いた。戦後《駱駝の瘤にまたがって》(1952)を経て《百たびののち》(1962)など晩年の古典的風格と完成度を示す詩境に達した。/日本の詩的伝統と現代詩の統合という課題を,伝統の重みに堪えつつ意欲的に背負って歩んだ昭和期の代表的詩人である。(改定新版世界大百科事典)

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