
本日は「こどもの日」です。もっと正確にいうと、「男の子の成長を祝う日(行事)」だった。詳しいことは申しません。詳しく話すと、事は面倒な展開になるからです。当然ながら、この国(邦)における「男尊女卑(male domination of women・subjection of women)」という「醇風美俗(じゅんぷうびぞく」に至ってしまうからです。「すなおで人情の厚い、美しいい風俗・風習」(デジタル大辞泉)とある、どういう意味でしょうか。この国の「麗しき伝統」という際に、しばしばこの「醇風美俗」という冠詞が使われてきました。「男尊女卑」が「麗しき伝統」などというと、大いに反感・非難を買うかもしれません。しかし、事実として「端午の節句」(「こどもの日」)がその前歴を踏襲したものであるとすれば、それ(男尊女卑)を無視することはできない、というばかり。もちろん、当節は「こどもの日」は男女の別なく、すべからく子どもの健やかな成長を祈るべく、社会の側でも暖かくその生育を願い、かつ祈りましょうというのが建前になっています。
(ヘッダー写真は「にいがた観光ナビ」:https://niigata-kankou.or.jp/feature/carp_streamer/top#sec-paragraph-6)

「こどもの日」は、そんな「男児」を産んだ「母に感謝する日」でもあったということもまた忘れるべきではないでしょう。それはまっすぐに「家族・家督(家父長)制度」「夫婦同姓制度」問題につながっているでしょう。早速、面倒な話になりかけています。「こどもの日」は「端午の節句」でもあるのだから、「桃の節句」(雛(ひな)祭り)をも「女児の日」として国民の祝日にすべきという意見が根強くあるのも事実です。「端午の節句」(「こどもの日」)には、その昔は男の子のいる家では「鯉幟(こいのぼり)」を掲げて祝ったものです。なぜ「鯉」なのか。下に「鯉の滝登り」として辞書の解説(説明)を出しておきました。要するに「人の栄達、立身出世のたとえ(登竜門をくぐる)」を具体的に投影したもので、それが「男児の節句」に結びつけられた理由でしょう。
左に掲げた唱歌「鯉のぼり」(『尋常小学唱歌』第五学年用:文部省・大正二年(1913年)の歌詞を見るとお分かりになるでしょう、これは「男の子の歌」だということが。特に2番3番です。「開ける広き其の口に 舟をも呑まん様見えて ゆたかに振るう尾鰭には 物に動ぜぬ姿あり」「百瀬の滝を登りなば 忽ち竜になりぬべき わが身に似よや男子と 空に躍るや鯉のぼり」~ 立身出世を期待された「男児」を励ますかのように、鯉のぼりは「わが身に似よや」と、男児を鼓舞さえしています。こんな稗史(はいし=庶民史)を詳らかにしていけば、「男尊女卑」という歴史の印画紙から、はっきりと本来の映像が浮かび上がってきませんか。
(余計なことです。どうして「鯉のぼり」をこのように仰山(ぎょうさん)に上げるのでしょうか。好き嫌いでいえば、ライトアップを含めて、ぼくは大嫌いですね。「大人・商売人」の「愚かな発想」だと思います)(もちろん、都会では、簡単に「鯉のぼり」は上げられなくなったのはわかりますが、それにしてもなんでもかんでも「行事・見世物・観光」にしてしまって、それで「どうだ、見事だろう」などと収まっているのを見ると情けなくもなる。そして、鯉のぼりもお祭りも盆踊りも、「集団主義」という一点では共通していますね)
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◎ 法務省「選択的夫婦別氏制度とは、夫婦が望む場合には、結婚後も夫婦がそれぞれ結婚前の氏を称することを認める制度です。なお、この制度は一般に「選択的夫婦別姓制度」と呼ばれることがありますが、民法等の法律では、「姓」や「名字」のことを「氏」と呼んでいることから、法務省では「選択的夫婦別氏制度」と呼んでいます。
現在の民法のもとでは、結婚に際して、男性又は女性のいずれか一方が、必ず氏を改めなければなりません。そして、現実には、男性の氏を選び、女性が氏を改める例が圧倒的多数です。ところが、女性の社会進出等に伴い、改氏による職業生活上や日常生活上の不便・不利益、アイデンティティの喪失など様々な不便・不利益が指摘されてきたことなどを背景に、選択的夫婦別氏制度の導入を求める意見があります。/法務省としては、選択的夫婦別氏制度の導入は、婚姻制度や家族の在り方と関係する重要な問題ですので、国民の理解のもとに進められるべきものと考えています。(「選択的夫婦別氏制度」について」https://www.moj.go.jp/MINJI/minji36.html)
【春秋】好天の印象が強い黄金週間にしては珍しく不安定な天気だったが、きょう「こどもの日」は大丈夫そう。ほぼ全国的に行楽日和の青空の下悠然と泳ぐ色とりどりのこいのぼりが楽しみだ。「やねよりたかい こいのぼり――」と口ずさみつつ歌詞を改めて調べて驚いた。▼「お母さん」がいない。登場するのは大きな真鯉(まごい)の「お父さん」と小さい緋鯉(ひごい)の「こどもたち」だけ。武運長久を願った端午の節句がもとだから、不思議はないか。だがこの日はさらに遡れば、田植え前に豊作を祈り女性が小屋に籠もって宴会をする「女祭り」の日だったという(合田道人著「歳時記を唄った童謡の謎」)。▼そんな来歴との関係は不明ながら、法律上の定義では「こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する日」らしい。1948年の制定だから「我ら戦争に敗れたあとに/一千万人の赤んぼが生れた/だから海はまつ青で/空はだからまつ青だ」と、三好達治が詠んだようにベビーブームが始まっていた。それから78年……。▼1年に生まれるこどもの数は約70万人まで減少した。時代の変化を映し、最近のこいのぼりは黒鯉の下の赤鯉をお母さんに見立てるのが普通になった。田植えだろうと、会社勤めだろうと、子育てだろうと、国の舵(かじ)取りだろうと、性差なく担当する時代だ。赤=女性、はアンコンシャスバイアスなどと目くじらは立てまい。(日本経済新聞・2026/05/05)

こういう「コラム」を読むと、「君たち呑気に過ぎるよ」「どこの国の生まれだ」と、小言の一つ二つも記者さんに言いたくなります。手に負えないほどの「不勉強」が新聞記者をしているとなると、もう終わりですね。唱歌というものの役割は「国威」「国柄」の推奨・慫慂でした。「この国に生まれてよかった」「天王陛下の御ために尽くします」という「臣民」の育成に大いなる貢献を果たすものとして採用されたのでした。「忠君愛国」「滅私奉公」の精神の涵養のために、唱歌もまた「教育」における大きな働きを期待されていた時代、それが明治以降続いてきました。
この「こいのぼり」が唱歌として発表されたのは1933(昭和8)年でした。たぶん、この国が内外において、「もっとも凶暴な時節」だったのではないでしょうか。

《国際的孤立、言論弾圧、メディアの熱狂 国際連盟総会が、満州を占領している日本軍の撤退を求める勧告案を可決したのを受け、日本は国際連盟脱退を通告した。松岡洋右全権はジュネーブから日本に向け「我が決意」と題して短波で中継放送した。国際社会から孤立する日本。ヒトラーが政権を握ったドイツも、国際連盟脱退を表明した。/東京などでは軍民一体となった防空演習が行われ、ラジオは防空週間の特別編成で中継や講演を放送した。一方「関東防空大演習を嗤(わら)う」という新聞記事が問題となった。文部省が京大教授の辞職を求めた「滝川事件」、そしてプロレタリア文学の作家・小林多喜二の虐殺と、思想や言論の自由は圧迫されていく。/「非常時」の掛け声が高まる中、盆踊りの『東京音頭』が大ヒット、レコード100万枚以上が売れた。甲子園の中等野球準決勝、中京商業対明石中学戦は延長25回、4時間55分の熱戦をたった一人のアナウンサーが実況、全国を沸かせた。(以下略)》(NHKアーカイブス・放送100年史:https://www.nhk.or.jp/archives/history/year/1933/)
◎ 松岡洋右【まつおかようすけ】= 外交官,政治家。山口県生れ。米国オレゴン州立大学卒。外務省に入った。1921年外務省を辞し,満鉄理事。1927年同副総裁。1929年政友会代議士となり,1931年の第59議会では幣原外交を批判。1933年国際連盟総会首席全権として出席,連盟の満州国批判決議に抗議して退場,連盟脱退の英雄となる。1937年満鉄総裁となり,軍部と結び,1940年外相として日独伊三国同盟を締結,1941年日ソ中立条約を締結。日米交渉に反対。A級戦犯に指定されたが病死。(百科事典マイペディア)

(⁂ 東京音頭 ~学校フォークダンス 中学校・高等学校編 DVDより~(日本フォークダンス連盟):https://www.youtube.com/watch?v=PsoWRV3j25o&list=RDPsoWRV3j25o&start_radio=1)
(「東京音頭」の学校教育への導入に関して、ぼくの感覚からすれば、いまだに、マジで「こんなことを学校はやってるんですか」という気分です。これもまた、ある種の「軍歌」だとぼくは考えている。言葉とか、歌などが「旗になる」ということはいつだってあるし、権力者は特にそのことを求めるでしょう。「旗のもとに集まる」「旗の下で一つになる」という意味では、それは「ファシズム」のヴァリエーションの一種であるとぼくは考えている。「(伊)fascismo」「(英) fascism」、「(独) Faschismus」)は、いずれも「結束主義」とも言います。「ファッショ(伊)」とは「束(たば)」、「集団」、「結束」、「団結」などを指す。よく使われる表現では「集団主義」とか「全体主義」というものですが、学校という場所では、ことのほか「集団主義」が求められるのは理由のないことでありません)

今日は、劣島のあちこちで「お祭り」が大流行していますね。でも今どきの祭りは、単なる行事・見世物・観光であって、本来の趣旨からいうなら、驚くほど堕落・頽廃してしまっています。(もちろん、「堕落・頽廃」することで、かえって、いい面も生まれたことは認めますよ)「まつる」は「祀る」であり「祭る」だった。それが「祀り」「祭(り)」となった。その意とするところは「1 儀式をととのえて神霊をなぐさめ、また、祈願する。「先祖のみ霊(たま)を―・る」「死者を―・る」2 神としてあがめ、一定の場所に安置する。「菅原道真を―・ってある神社」3 上位にすえて尊ぶ。」(デジタル大辞泉)でした。祭祀(さいし)とは、今だって「神や祖先を祭ること」です。それ以外に何を意味しますか。
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◎ こどもの日= 5月5日。「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことを趣旨とした国民の祝日。1948年(昭和23)制定。この日から11日まで児童福祉週間が行われる。古来、男児の節供とされる端午(たんご)の節供にあたるため、女児の桃の節供・雛祭(ひなまつり)の3月3日も祝日にすべきだという主張が一部では出されている。(日本大百科全書ニッポニカ )
◎ こい【鯉】 の 滝登(たきのぼ)り= ① (「後漢書‐党錮伝・李膺」の「以二声名一自高、士有レ被二其容接一者、名為二登龍門一」、およびその注の「三秦記曰、河津一名龍門、水険不レ通、魚鼈之属、莫レ能レ上、江海大魚薄二集龍門下一数千、不レ得レ上、上則為レ龍也」による語。黄河の急流にある龍門という滝を登ろうと、多くの魚が試みたが、わずかなものだけが登り、龍に化すことができたという故事から ) 鯉が滝を登ること。[初出の実例]「山をこしらへまして、夫へ滝を落しまして、鯉の滝上りを致す所を致しませう」(出典:虎寛本狂言・鬮罪人(室町末‐近世初))② 人の栄達、立身出世のたとえ。→登龍門。[初出の実例]「なかとの君を、こいのたきのほりと出ぬれ共」(出典:評判記・吉原人たばね(1680頃)ながと)③ 長方形の木箱の一面に滝の図を描き、中央に一筋の穴をあけ、その穴から練物の鯉が上下するように仕掛けた玩具。(精選版日本国語大辞典)

◎ 端午の節句(五月節句)= 5月5日の節供。端午の節供,重五 (ちょうご) ともいう。端午は端五とも書くように,端 (はじめ) すなわち月初めの午 (うま) の日,または5日を意味する。この節供行事は,もとは中国より輸入されたものであるが,日本においては,中国のそれとは異なる要素をもって定着している。元来5月は,正月,9月とともに日本では重要な月と考えられており,田植月であることから物忌が行われ,女が家にこもって神を祀ることから女の家などと呼ばれる風習を生んだ。家の軒にしょうぶを挿す風習も物忌の印として行われたものである。菖蒲兜 (あやめかぶと) は,宮中において5月5日に菖蒲鬘 (あやめかずら) の髪飾りをする風習があったところから生じたもので,のちには紙でつくられるようになった。この菖蒲兜の前立てに人形を飾ったことから武者人形が生れた。(↷)
(↻)鯉幟 (こいのぼり) については,その起源は明らかではないが,神を招くための招代 (おぎしろ) であったと思われる。またちまきは,汨羅 (べきら) の川に身を投じた楚の屈原の霊を弔うため,5月5日にこれをつくって水に投じたという中国の風習が伝来したものである。この日は古来男児の成長を祝う日となっており,特に男児誕生後の初めての節供は初節供と称して祝膳を設け,人形,幟などを贈って祝う。 1948年「国民の祝日に関する法律」により「こどもの日」として祝日の一日に定められた。(ブリタニカ国際大百科事典)

(❶ 鯉のぼり(いらかの波の…)・https://www.youtube.com/watch?v=ORO9_KMVy44) (❷ 鯉のぼり・https://www.youtube.com/watch?v=N2u7gdbPieU&list=RDN2u7gdbPieU&start_radio=1) (❸ 背くらべ ・https://www.youtube.com/watch?v=VIp4aJtZFZg&list=RDVIp4aJtZFZg&start_radio=1
(❷(「やねよりたかい こいのぼり」)の登場に関しては、これまでの駄文のどこかで述べておきました。

◎「こいのぼり・近藤宮子=『こいのぼり』は童謡、唱歌。作詞は近藤宮子、作曲は不明。1993年までは近藤は作詞者として認められなかったため、近藤が1999年まで存命だったにもかかわらず歌詞の著作権は既に消滅している。概要 1931年(昭和6年)12月に刊行された『エホンショウカ ハルノマキ』が初出。長年著作権者は日本教育音楽協会とされていたが、著作権が切れる1982年(昭和57年)に日本教育音楽協会の元会長の小川浩平に作詞者を変更した。近藤はこの曲を含めた6曲が自分が作詞した曲であると訴え、裁判を起こして勝訴し、作詞者が再び変更された。/この歌詞では真鯉を父親、緋鯉を子どもとしている。鯉のぼりは明治時代後半から大正時代にかけて真鯉(黒い鯉)と緋鯉(赤い鯉)の二匹を一対であげるようになったが、武家発祥の行事であったこともあり真鯉と緋鯉は父と子(男児)を表していたとされる。第二次大戦後、昭和30年代後半には小さい青鯉が加えられるようになり、家族観の変化なども相まって鯉のぼりの構成は緋鯉(赤い鯉)が母親、青鯉が子どもと再定義されるようになった。(以下略)」(Wikipedia)
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