「国家」は「人民」を歯牙にもかけぬ

【卓上四季】水俣病が教えること 前の日まで元気だった5歳の女の子。翌朝、茶碗(ちゃわん)を持ったりする日常動作が不可能になった。2歳の妹も同じ。やがて激しいけいれんを起こし、ことばを失い、手足の指が変形した…▼似た症状の患者が、熊本・水俣のチッソ水俣工場付属病院を次々と受診する。驚いた医師は保健所に報告した。「原因不明の脳疾患患者が多発している」。水俣病の公式確認は70年前のきょうだった▼患者は不知火(しらぬい)海の豊かな魚介類を食べていた。母親のおなかにいた胎児も発症し、深刻な健康被害が広がる。原因はチッソが海に流した工場排水。メチル水銀で汚染された海の幸が人々をむしばんだ▼チッソや国は対策を怠り、被害を放置した。人の命や尊厳はないがしろにされ、いわれなき差別や偏見が苦難を深めた▼米映画「MINAMATA」(2020年)は、報道写真家ユージン・スミスの軌跡を通して被害の実態を描く。「数も知れぬ命を犠牲にしてなにが文明か、高度成長か。美しい海が死の海にされた」。真田広之さんが演じた患者の告発である。経済最優先の思想が公害を生んだ▼被害者の救済は道半ばだ。潜在患者は20万人に達するとも指摘されるが、実態解明は不十分なままである。さまざまな公害による被害が世界で後を絶たぬなか、水俣病の教訓はいまも過去のものとなっていない。(北海道新聞・2026/05/01)
【筆洗】水俣病で父を亡くした故・川本輝夫さんは患者の救済運動を率いた「闘士」。原因企業チッソの本社に仲間と乗り込み補償を求めた際、カミソリを社長に示し、一緒に指を切って血書を作ろうと迫った▼長時間の交渉で社長は具合が悪くなり担架に横たわったが、川本さんは「俺たちゃ、鬼か」と言いながら泣いて訴え続けた▼「わからんじゃろ、俺が泣くのが。うちんおやじは69歳で死んだ。精神病院の保護室で死んだぞ。しみじみ泣いたよ、俺は。そげな苦しみがわかるか」。病で意味不明のことを口走るようになった親を隔離された場所でみとった悲しみ。涙は、横たわる社長の顔に落ちたという▼患者発生が病院から保健所に報告され、水俣病が公式に確認されてから今日で70年。海への排水で汚染された魚を食べた人がかかったが、水俣病認定を求め多くの人が今も裁判で闘う。なお未解決の公害病である▼原因は工場排水に含まれるメチル水銀と国が認めたのは、病気の公式確認から12年後。究明の初動が適切だったらもっと早く、多くの人を救えただろうに。成長を優先し、企業に物を言わず、醜い現実から目を背けようとした社会の罪深さを思う▼記録映画作家に水俣病が起きた原因は何だと思うかと問われた川本さんは「人間の奢(おご)りじゃろうと思う」と答えたという。人も企業も謙虚であれという悲痛な叫びである。(東京新聞・2026/05/01)
【日報抄】山や川であれ地域であれ、固有の名前は指し示すものが何であるかを定義する大切なものだ。そのものとして存在する証しといえる。選択的夫婦別姓の制度を求める価値観に重なる▼阿賀野川流域で発生した公害病をなぜ新潟水俣病と呼ぶのか。「新潟病」あるいは「阿賀野病」などと言わないのか。一説としてその理由を聞いたことがある▼新潟水俣病は、熊本の水俣湾周辺での水俣病発見から9年後に公式確認された。工場排水で汚染された魚介類を介した同様の水銀中毒でありながら、10年近くを経ても再発を防ぐ措置が取られなかった。その不作為を厳然と示すため、繰り返された水俣病だと強調する意図があったという▼きょうで熊本での公式発見から70年になる。新潟水俣病にとってもまさに地続きの鎮魂の日である。怨念の日である。適切な対応を怠った国と原因企業の責任の重さに、思いを致すべき日である▼熊本での水俣病確認後に、国は原因企業と同種の工場で排水調査をしていたことが明らかになっている。調査は本県での発生以前だったが、結果は長らく秘せられていた。新潟の原因企業は調査対象ですらなかった。熊本での目を覆う被害を前に、国は緻密で確固たる安全対策を指揮する必要があった▼個人の幸福より国の経済発展を優先したかのような当時の実態は、過去のものとは言い切れない。国家としての力強さや豊かさを語りがちな現在の政治の下で、市井の一人一人の尊厳があまねく大切にされているか。(新潟日報・2026/05/01)
【春秋】ある官僚の後悔と自責 <最終解決なお遠く><認定、救済いまだ求め><進む記憶の風化>。紙面には毎年、同じような言葉が刻まれてきた。5月1日、水俣病の公式確認から70年を迎えた▼チッソの有毒廃水が原因と知りつつ、国や県の役人は命より経済成長を優先し、なすべき行動を取らなかった。公式確認50年の年、彼らを訪ね歩いた。連絡がついても取材を断られ続ける中、経済企画庁の元官僚に会えた▼公式確認から3年後の1959年。役人は皆、原因は工場廃水と知っていた。排水停止を主張したが、出向元の通産省に一蹴され、毒は流れ続けた。「そういう時代だった。腹が据わってりゃ辞めて訴えればよかったんだ」。都内の邸宅で82歳の元官僚は涙を拭った。後悔と自責。その4カ月後に他界した▼自分がもっとこうしておけば、強く主張していれば-。人として良心に向き合い、過去の記憶にさいなまれ、亡くなっていった役人やチッソ関係者もいただろう。戦後最悪の公害は彼らの人生も変えた▼不知火海沿岸の実態調査を求める声に、国は背を向け続けてきた。何が水俣病なのか、どこにどれだけ被害者がいるのか。全容はつかめていない▼悔いた元官僚は「もうあんなことにはならないだろう」とも話した。そうだろうか。経済や組織の論理に小さな声が置き去りにされる構図は、70年を経てどれほど変わっただろう。水俣病が投げかける問いは今も重い。(西日本新聞・2026/05/01)
【有明抄】ミナマタ 4年前、熊本市の熊本日日新聞社で開かれていた写真展を見た。水俣病をテーマに写真家9人が刻んだ記録である。まだ若かった患者たちを、40年近い歳月を経て再び同じ場所でとらえたポートレートが胸に残った◆撮影した石川武志さんは、水俣病を世界に発信した米国の写真家ユージン・スミスの助手として、昭和46(1971)年から3年間、水俣市に滞在した。サポート役に徹する石川さんにスミスは言った。「なぜ撮らないんだ。自分ならどう撮るか考えながらアシスタントしろ」と◆取材を終えたスミス夫妻が帰国したあと、石川さんは「私も水俣の写真を撮っていました」とばかりに自作を世に問うことに、長い間ためらいがあったという。2008年に水俣を再訪した石川さんは患者たちの「その後」にカメラを向けた。本人も環境も変化したが、「水俣病は続いている」とのメッセージを込めて◆写真展に添えられた、そんな石川さんの思いにふれながら「時の流れ」とは何か考えこむ。水俣病の公式確認から、きょうで70年。どこかにひずみを押しつけて手にした豊かさを「成長」と呼ぶのなら、地球温暖化も産廃も核のごみも、「ミナマタ」はかたちを変えて続いている◆「なぜ撮らないんだ」。ひとりの写真家に向けられた言葉は、見て見ぬふりをする社会への重い問いにも思える。(桑)(佐賀新聞・2026/05/01)

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