
原田正純さん(1934~2012)の「水俣病」(岩波新書・1972年刊)を手に取ったのはいつだったろうか。たぶん発売直後だったでしょう。以来、ぼくは原田さんの書くものは手に入る限りほとんど読んだと思う。読んだだけでは終わらないで、その後の担当した授業の中で、何度も繰り返し「水俣病問題」を扱い続けるきっかけになったといっていい、そんな忘れられない「著書」だった。世の中には、誠実で強い正義感を持った学者もいるものだと、目を開かれた思いでした。ぼくのささやかな「水俣問題」への入り口だったと、今でも深く感謝している。(下写真の左から二枚目が原田さん)
《原田正純= 鹿児島県さつま町出身。ラ・サール高等学校、熊本大学医学部卒業。/熊本大学医学部で水俣病を研究し、胎児性水俣病も見いだす。水俣病と有機水銀中毒に関して数多くある研究の中でも、患者の立場からの徹底した診断と研究を行い、水俣病研究に関して詳細な知識を持った医師でもあった。熊本大学退職後は熊本学園大学社会福祉学部教授として環境公害を世界に訴える。/1972年6月、スウェーデンのストックホルムで開催された「国際連合人間環境会議」に環境学者の宇井純、水俣病患者の濱元二徳、坂本フジエ、坂本しのぶらと出席。水俣病の存在はニュースなどにより世界に広まり、これがきっかけとなって各国は水銀の調査を始めた。(Wikipedia)》
(ヘッダー写真:1968年まで有機水銀を含む排水が流されていたチッソ水俣工場の百間排水口=69年ごろ、野崎正寛さん撮影)(水俣市立水俣病資料館提供)
【卓上四季】水俣病が教えること 前の日まで元気だった5歳の女の子。翌朝、茶碗(ちゃわん)を持ったりする日常動作が不可能になった。2歳の妹も同じ。やがて激しいけいれんを起こし、ことばを失い、手足の指が変形した…▼似た症状の患者が、熊本・水俣のチッソ水俣工場付属病院を次々と受診する。驚いた医師は保健所に報告した。「原因不明の脳疾患患者が多発している」。水俣病の公式確認は70年前のきょうだった▼患者は不知火(しらぬい)海の豊かな魚介類を食べていた。母親のおなかにいた胎児も発症し、深刻な健康被害が広がる。原因はチッソが海に流した工場排水。メチル水銀で汚染された海の幸が人々をむしばんだ▼チッソや国は対策を怠り、被害を放置した。人の命や尊厳はないがしろにされ、いわれなき差別や偏見が苦難を深めた▼米映画「MINAMATA」(2020年)は、報道写真家ユージン・スミスの軌跡を通して被害の実態を描く。「数も知れぬ命を犠牲にしてなにが文明か、高度成長か。美しい海が死の海にされた」。真田広之さんが演じた患者の告発である。経済最優先の思想が公害を生んだ▼被害者の救済は道半ばだ。潜在患者は20万人に達するとも指摘されるが、実態解明は不十分なままである。さまざまな公害による被害が世界で後を絶たぬなか、水俣病の教訓はいまも過去のものとなっていない。(北海道新聞・2026/05/01)








【筆洗】水俣病で父を亡くした故・川本輝夫さんは患者の救済運動を率いた「闘士」。原因企業チッソの本社に仲間と乗り込み補償を求めた際、カミソリを社長に示し、一緒に指を切って血書を作ろうと迫った▼長時間の交渉で社長は具合が悪くなり担架に横たわったが、川本さんは「俺たちゃ、鬼か」と言いながら泣いて訴え続けた▼「わからんじゃろ、俺が泣くのが。うちんおやじは69歳で死んだ。精神病院の保護室で死んだぞ。しみじみ泣いたよ、俺は。そげな苦しみがわかるか」。病で意味不明のことを口走るようになった親を隔離された場所でみとった悲しみ。涙は、横たわる社長の顔に落ちたという▼患者発生が病院から保健所に報告され、水俣病が公式に確認されてから今日で70年。海への排水で汚染された魚を食べた人がかかったが、水俣病認定を求め多くの人が今も裁判で闘う。なお未解決の公害病である▼原因は工場排水に含まれるメチル水銀と国が認めたのは、病気の公式確認から12年後。究明の初動が適切だったらもっと早く、多くの人を救えただろうに。成長を優先し、企業に物を言わず、醜い現実から目を背けようとした社会の罪深さを思う▼記録映画作家に水俣病が起きた原因は何だと思うかと問われた川本さんは「人間の奢(おご)りじゃろうと思う」と答えたという。人も企業も謙虚であれという悲痛な叫びである。(東京新聞・2026/05/01)

◎ 川本輝夫氏(1931~1999)「 「俺が鬼か。おやじは69で死んだぞ。精神病院の畳もなか部屋で。牢屋のごたる(ような)おりの中で一人で死んだぞ」。チッソ社長らを前に嗚咽(おえつ)し、積年の思いをぶつけ、カミソリで自らの指を切って血書も書いた。」(朝日新聞・2021年5月1日 21時42分)(https://www.asahi.com/articles/ASP5171V8P4ZTLVB003.html)
【日報抄】山や川であれ地域であれ、固有の名前は指し示すものが何であるかを定義する大切なものだ。そのものとして存在する証しといえる。選択的夫婦別姓の制度を求める価値観に重なる▼阿賀野川流域で発生した公害病をなぜ新潟水俣病と呼ぶのか。「新潟病」あるいは「阿賀野病」などと言わないのか。一説としてその理由を聞いたことがある▼新潟水俣病は、熊本の水俣湾周辺での水俣病発見から9年後に公式確認された。工場排水で汚染された魚介類を介した同様の水銀中毒でありながら、10年近くを経ても再発を防ぐ措置が取られなかった。その不作為を厳然と示すため、繰り返された水俣病だと強調する意図があったという▼きょうで熊本での公式発見から70年になる。新潟水俣病にとってもまさに地続きの鎮魂の日である。怨念の日である。適切な対応を怠った国と原因企業の責任の重さに、思いを致すべき日である▼熊本での水俣病確認後に、国は原因企業と同種の工場で排水調査をしていたことが明らかになっている。調査は本県での発生以前だったが、結果は長らく秘せられていた。新潟の原因企業は調査対象ですらなかった。熊本での目を覆う被害を前に、国は緻密で確固たる安全対策を指揮する必要があった▼個人の幸福より国の経済発展を優先したかのような当時の実態は、過去のものとは言い切れない。国家としての力強さや豊かさを語りがちな現在の政治の下で、市井の一人一人の尊厳があまねく大切にされているか。(新潟日報・2026/05/01)

◎ 新潟水俣病【にいがたみなまたびょう】= 新潟県で1965年5月に発生が確認された水銀中毒症(水俣病)。昭和電工鹿瀬(かのせ)工場でアセトアルデヒド・合成酢酸を製造する際生じる廃水が阿賀野川へ流され,廃水中の有機水銀によって汚染された魚介類を食べた沿岸住民に生じたもの。1967年6月から8次にわたり認定された水俣病患者全員と家族合わせて77人が昭和電工を相手取り損害賠償請求訴訟を新潟地裁に起こし,水俣病,四日市ぜんそく,イタイイタイ病とならんで四大公害訴訟といわれた。1971年9月に原告側が勝訴,1983年6月,要求を全面的に獲得した〈新潟水俣病に関する協定書〉に調印した。一方でこの間,認定を棄却された患者および新たな申請者合わせて232人が国と昭和電工を相手取り,第2次訴訟を起こした。1992年3月,新潟地裁は原告のほとんど全員を水俣病患者と認め,損害賠償も認容したが,国の責任については認めないという判断を示した。原告側,昭和電工側がそれぞれ東京高裁に控訴したが,原告の高齢化が進み,死亡者が増えたため,早期和解を求める声が強まり,政府・与党の最終解決案を受けて1995年12月,和解が成立した。(百科事典マイペディア)
【春秋】ある官僚の後悔と自責 <最終解決なお遠く><認定、救済いまだ求め><進む記憶の風化>。紙面には毎年、同じような言葉が刻まれてきた。5月1日、水俣病の公式確認から70年を迎えた▼チッソの有毒廃水が原因と知りつつ、国や県の役人は命より経済成長を優先し、なすべき行動を取らなかった。公式確認50年の年、彼らを訪ね歩いた。連絡がついても取材を断られ続ける中、経済企画庁の元官僚に会えた▼公式確認から3年後の1959年。役人は皆、原因は工場廃水と知っていた。排水停止を主張したが、出向元の通産省に一蹴され、毒は流れ続けた。「そういう時代だった。腹が据わってりゃ辞めて訴えればよかったんだ」。都内の邸宅で82歳の元官僚は涙を拭った。後悔と自責。その4カ月後に他界した▼自分がもっとこうしておけば、強く主張していれば-。人として良心に向き合い、過去の記憶にさいなまれ、亡くなっていった役人やチッソ関係者もいただろう。戦後最悪の公害は彼らの人生も変えた▼不知火海沿岸の実態調査を求める声に、国は背を向け続けてきた。何が水俣病なのか、どこにどれだけ被害者がいるのか。全容はつかめていない▼悔いた元官僚は「もうあんなことにはならないだろう」とも話した。そうだろうか。経済や組織の論理に小さな声が置き去りにされる構図は、70年を経てどれほど変わっただろう。水俣病が投げかける問いは今も重い。(西日本新聞・2026/05/01)


《水俣病の公式確認から70年となる5月1日を翌日に控え、石原宏高環境相と患者・被害者6団体の懇談が30日、熊本県水俣市で開かれた。国が本年度から本格的に実施する予定の住民健康調査に関し、石原氏は「個人的には(救済に向けた)一つの手がかりになると思う」と発言。調査の目的を曖昧にしてきた環境省のトップとして初めて踏み込んだ格好だ。一方で、患者認定基準の見直しを真っ向から否定したため、団体側の不信感は晴れなかった。(森亮輔、古川剛光)/被害実態を把握する本格調査を見送ってきた国は、2009年成立の水俣病被害者救済法に基づき、本年度から初めて住民健康調査に着手する。調査の目的をこれまでは「住民の不安を解消するため」とし、水俣病かどうか判断するものではないとも強調していた。/懇談で石原氏は「(被害者側と)意見の合わない部分もあるが、法律に盛り込まれているので進めたい」と説明。その上で、団体側から政治決断による救済を求められた際に「今までの経緯を乗り越える材料がなかなか見いだせないが、一つの新しい手がかりになるのが健康調査だと個人的には思っている」と述べた。(後略)》(左写真:「水俣病患者・被害者団体との懇談で、質問に答える石原宏高環境相(中央)=30日午後5時22分、熊本県水俣市(撮影・穴井友梨)」(毎日新聞・2026/04/30)(註 石原氏三代の環境庁長官・大臣。この間、ほぼ五十年が経過しています。まるで「冗談」のような政治の不作為が象徴的に見て取れませんか)
【有明抄】ミナマタ 4年前、熊本市の熊本日日新聞社で開かれていた写真展を見た。水俣病をテーマに写真家9人が刻んだ記録である。まだ若かった患者たちを、40年近い歳月を経て再び同じ場所でとらえたポートレートが胸に残った◆撮影した石川武志さんは、水俣病を世界に発信した米国の写真家ユージン・スミスの助手として、昭和46(1971)年から3年間、水俣市に滞在した。サポート役に徹する石川さんにスミスは言った。「なぜ撮らないんだ。自分ならどう撮るか考えながらアシスタントしろ」と◆取材を終えたスミス夫妻が帰国したあと、石川さんは「私も水俣の写真を撮っていました」とばかりに自作を世に問うことに、長い間ためらいがあったという。2008年に水俣を再訪した石川さんは患者たちの「その後」にカメラを向けた。本人も環境も変化したが、「水俣病は続いている」とのメッセージを込めて◆写真展に添えられた、そんな石川さんの思いにふれながら「時の流れ」とは何か考えこむ。水俣病の公式確認から、きょうで70年。どこかにひずみを押しつけて手にした豊かさを「成長」と呼ぶのなら、地球温暖化も産廃も核のごみも、「ミナマタ」はかたちを変えて続いている◆「なぜ撮らないんだ」。ひとりの写真家に向けられた言葉は、見て見ぬふりをする社会への重い問いにも思える。(桑)(佐賀新聞・2026/05/01)

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(上写真の撮影はユージンスミス氏 [1918~ 1978]) ◎ ユージン スミス(Eugene Smith)1918.12.30 – 1978.10.15= 米国の写真家。カンザス州ウィチタ生まれ。ノートルダム大学中退後、「ニューズ・ウィーク」誌のスタッフ・カメラマンなどを経て、1939年「ライフ」誌のスタッフとなる。’45年沖縄で取材中に負傷したが、回復後「カントリー・ドクター」(’48年)、「慈悲の人シュワイツァー」(’54年)など、多くの人間愛に満ちた傑作を「ライフ」誌に発表。’71年に夫人とともに来日し、水俣病に取り組み、写真集「Minamata」(’75年)を発表、水俣病患者の苦しみを世界に伝えたものとして高く評価された。(20世紀西洋人名事典)

死期迫る中、実験告発…水俣病証言医師の覚悟 原告弁護団が功績評価 「原因不明の脳疾患患者の発生」-。後に水俣病公式確認となる第一報を保健所に届けたチッソ付属病院長、細川一(はじめ)氏(1901~70)の死去から半世紀。患者家族が原因企業チッソに損害賠償を求めた裁判での証言は、曖昧にされようとした企業の責任を明確にした。会社側でありながら、あえて不利な証言をした細川氏。当時の原告側弁護団が、あらためてその意義を振り返った。/「それはもう、これは水俣病じゃなかろうかと」。がんで死期が迫る中、原告側の証人として病床で尋問に応じた細川氏はネコを使った実験で水俣病と同じ症状を見た驚きをこう表現した。/チッソ水俣工場の排水をかけた餌や水俣湾の魚を与える実験を始め、400匹目での確認。「ネコ400号」と呼ばれる。尋問では、工場幹部に伝えた結果が公表されず、実験は一時中止に追い込まれたことを“告発”した。/裁判が提起されたのは、水俣病が公害認定された翌年の69年6月。「排水に有機水銀が含まれているとは知らなかった」とのチッソの主張に、原告側は十分に反論できずにいた。だが内部からの証言がそれを突き崩し、原告勝訴の熊本地裁判決(73年)につながった。/患者家族は証言をたたえる一方、一部からは「もっと早く事実を公表していたら…」との声も聞かれる。/実験内容の判明は59年10月。細川氏が初めて週刊誌のインタビューでその一端を語ったのは、9年後の68年。裁判での証言はさらに2年後だ。

尋問から3カ月後の70年10月13日、細川氏は69歳で死去した。人生の最期に会社に弓を引くことになった心中を、弁護団の一員だった馬奈木昭雄弁護士(78)=福岡県久留米市=はこう推察する。「会社が自ら改めてくれると信じていた。表に出てきたのは、裏切られたとの思いからではないか」と。
弁護団が注目する“功績”がもう一つ。実験に使う魚介や工場排水を採取するポイントを綿密に区分し、アセトアルデヒド製造施設の排水に原因があると突き止めていたことだ。/チッソに責任があるとする根拠の一つとした弁護団はこう評価する。「(原因物質を排出する)工場さえ(操業を)止めていれば、被害は防げた。加害責任を追及するには十分だった」/被害の原点は明らかにされた。だが水俣湾に排出された有機水銀がどこまで広がっているのか、長期の微量汚染はどんな影響を及ぼしうるのか、今なお不明点は多い。馬奈木弁護士は言う。「細川先生が一つ一つ積み重ねたように、行政は今からでも不知火海の魚の回遊実態や流通経路の把握を進め、住民の健康調査をするべきだ」 (村田直隆)【ワードBOX】水俣病 熊本県水俣市のチッソ水俣工場の排水で汚染された魚介を食べたことによる公害病。ビニールなどの原料となるアセトアルデヒドの製造過程で生じた有機水銀が脳疾患をもたらし、劇症の場合は数日で死亡した。影響は水俣湾にとどまらず不知火海沿岸に広がり、現在も手足のしびれなどを訴え、賠償や患者認定を求める訴訟が続いている。(西日本新聞・2020//11/15)

◎ 日窒コンツェルン(にっちつこんつぇるん)= 野口遵(したがう)が日本窒素肥料(1908創設)をもとに築き上げた化学工業を中心とする一大コンツェルン。いわゆる新興財閥の一つで「野口コンツェルン」ともよばれた。同コンツェルン形成の端緒は1923年(大正12)のわが国最初の合成アンモニア(合成硫安)製造の成功による多角的展開によって与えられたが、本格的確立は満州事変(1931)、金輸出再禁止(1931)以降の火薬、人絹、油脂、あるいは軍需依存の石炭液化、軽金属事業など日本経済の軍事工業化への移行のなかで行われた。また1933年(昭和8)以降は日本興業銀行(現みずほ銀行、みずほコーポレート銀行)、朝鮮銀行などとの結び付きを強めた。同コンツェルンの拠点は熊本県水俣(みなまた)、宮崎県延岡(のべおか)および豊富低廉な水力発電を開発しえた朝鮮興南(こうなん)であり、主要子会社としては朝鮮窒素肥料、旭ベンベルグ絹糸、日窒火薬、長津江(ちょうしんこう)水電、朝鮮石炭工業などがあった。41年当時で直系子会社30社、払込資本金3億5000万円にまで発展したが、第二次世界大戦敗戦によって、主要な拠点であった朝鮮などの在外資産を喪失し、コンツェルンは瓦解(がかい)した。/戦後は1950年(昭和25)に水俣工場を復旧、新日本窒素肥料として再出発し、65年社名をチッソとした。(日本大百科事典ニッポニカ)
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