「ここは元気な人が来る学校です」

⁂「週のはじめに愚考する」(116)~  若いころから「新聞切り抜き(newspaper clippings)」をしていた。一面トップになるようなニュースではなく、読んで教えられたり、気持ちがよかったり、素直になれたり。ある意味では平凡な記事を飽きもしないで切り抜いていました。その「切り抜き」記事をわら半紙の裏表に張り付け、保存にしていた。まあ、いうならば我流の「NIE(Newspaper In Education)」でした。そんなことをしてどうするんだという疑問には答えないままに、かなり長く続けていたと思う。やがて、パソコンが普及し、ひとなみにいろいろと品定めをしたり、OSを揃えるために秋葉原に出かけたり。それが教師紛いの「商売道具」になり、ぼくには欠かせなくなったのは、1990年ころからだった。勤め先の職場にもネット環境が整えられ、教室にもランの端末接続が可能になったからです。教職員には、無償でノート型PCが配布されました。

 これはぼくの新聞論、というと大げさになります。そんなことをいうのではありません。政治よりは生活、これがぼく自身の率直な心情であり、新聞に寄せる心持ちでもあります。よく一面トップといい、三面記事といいますが、それは誰が言い出したことか。おそらく「ブンヤさん」たちの言い習わしだったのではないでしょうか。今だってそうですね、「政治部は花形」で、生活・文化部は「脇役」などという受け取り方が横行しているようですが、新聞の衰退の大きな原因というか、背景になっていないでしょうか。ぼくは新聞の「生活面」がとても好きでした。あるいは三面が。そこには人間の生活が、いい悪いを抜きにして、いや含めてあったからでした。今日は、政治は大本営発表、三面もまた警察発表そのままです。新聞社、新聞記者独自の、足でネタを稼ぎ、手で書く記事が驚くほど少ないのは、毎日毎日、各地の新聞を斜め読みにしろ、三十数紙を、それも長年にわたって閲している人間から見れば、「当らずとも遠からず」だとぼくは考えています。新聞の衰退・衰亡、宣(むべ)なるかな、ではないですか。

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 それまでは、授業用の資料はすべてコピーして教室で配布していました。毎回の作業量は膨大で、(恥ずかしい話です、一週間のクラスの参加人数は、最大時で2500人もいたことがかなり続きました。担当授業時間数(コマ)は一週に10コマ。「これは学校(授業)なんかではない」と当局には強く抗議してみたけれど、「糠に釘」だったな)、いつだって辟易していましたから、ネット環境が整備された段階で、事前にすべての資料は簡単なホームページ上に掲載し、授業参加者はそれを印刷して教室に入ることに決めた(学生諸君に了解を求めました)のだった。

 たぶん、糊(のり)と鋏(はさみ)による、ぼくの「切り抜き帳」が途絶えたのはその時以来だったと思う。替わって登場したのがPC内での保存作業でした。ネット時代の変わり身の早さは、機器に関しても、ネット環境に関しても、それこそ日進月歩どころか、まるで「朝令暮改」のように、日々新たになり、直ちに「型落ち」「時代おくれ」になるという慌ただしさの中で、本当はパソコンなど好まなかったのですが、背に腹は代えられないという状況でしたね。

 以来、二十数年が経過し、ある期間を経て、ぼくは順次、OSを変えることを余儀なくされました。これまでに何台替えたことか。そのたびに保存してあるデータなどを削除したり、移転させたりと、思いのほか面倒な作業が続いて、ほとほとウンザリしていたものです。(ある時は、「ノート型」を利用し、電車内でも使っていたこともありました。よく考えると実にばかばかしい気がして、やがて、ノート型を使わなくなりました。もっぱら「デスクトップ」専一で、モニターは32インチのものを利用しています。

 (左上図と右下図は「総務省」:https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/r07/html/nd111140.html

 ぼくは定年前に退職し、一介の素浪人(無職者)になった途端、これまでパソコンに保存してあったデータを、新しい機器に交換する際に、ほとんど例外なく、あっさりと放棄(削除)しました。住所録やメールアドレス、写真類を含めて、個人的に大切だと思っていたものまで、アッサリ・バッサリと捨てました。もちろん、何十年間分の膨大な量の「授業用レジュメ」も削除しました。何冊かの著書や論文の「草稿」も。もちろん、それまでに保存しておいた、これまた膨大な分量の「新聞記事(切り抜き)」も、です。そうこうしているうちに、新聞紙面もネット時代を迎えるようになり、徐々に、ネットを通して新聞が読める環境が整ってきた。まだまだ、本格的ではなく、宅配購読の二番煎じの感はありますけれど、かなり以前に宅配による新聞購読も止めたものですから、不十分な点を我慢しつつネット配信の記事を読むことになりました。(毎日接していて感じるのは、すべてではないにしても、各紙のネット配信は、その姿勢においてはまだまだだという印象を持ちます。大半の新聞社は有料購読に移行していますが、失礼ながら、内容に比して高価だなあと痛感している)

 そうなった段階で、それまではあまり考えもしなったことですが、「新聞と旧聞」という問題がぼくのテーマになりだしたのです。面倒なことは避けたいのですけれど、似たような内容の記事(多くは配信記事)をいくつもの新聞で読む羽目になるし、何年も前にあった同じような問題(事件)が「再燃」「再発」しているのではないかと思うことがしばしばでした。もちろん、分野によって、一概には言えないでしょう。でも、三十年、五十年の時間幅で見るとき、ぼくには「学校教育」は、いまもなお「昔の名前」が通用しているのだなあと痛感するのです。「同じ学校」、「同じ教育」と名称は変わらない。しかし、その中身を担う教師や子どもたちは常に変わり続けるのです。どこかの学校の「校歌」にあったと記憶しますが、「集まり参じて人は変われど」「仰ぐは同じき理想の光」(?)と。

 いつだって、現場では「新規の出発」「新装開店」が繰り返されるのでしょう。そして、各種のデータが示しているのは、学校教育全体の「縮小」傾向であり(むろん、少子化の影響によります)、その結果は、従来の教育水準の「低下」現象が、ぼくの目にはつくのです。そこには「技術革新(イノベーション)もなければ、画期的な「発明」「発見」もない。当たり前の「人間の付き合い」が従前と同じように続いているのです。つまり、学校という場所で行われる多くの事柄は、それを新聞の記事で見る限り、「新聞は旧聞」であり、「旧聞は新聞」だということです。あえていうなら、「歴史は繰り返す」という格言の確からしさ、人間らしさを、新聞記事を介して確認する仕事が、ぼくの中で始まりました。いろいろな意味で、人間や人間たちの行いは「賽の河原の石積み(地蔵和讃)」に似ていますね。積んでは壊し、積んでは壊し、壊しては積んで、壊しては積んで。

 学校の教師の役割を、少なくとも今も昔も「人間」が担っていると思う・思いたい。それがある時代を期して「ロボット」になったらどうでしょう。もちろん、いつの時代でも「ロボットのような教師」はいました。だからいずれ「教師のようなロボット」が新規に登場となるのかどうか、それはぼくにはわかりませんが、「教育」という「人間交際・交流」の一面にかかわるところはまず変わりようがないと思います。機械化や合理化できる部分はあるでしょう。しかし、どこまでも人間同士の「出会いと別れ」に終始するものでしょうね。「学校で教えられるのは、大したものではない」「ろくでもないことばかりを教えている」などといえば、大方の叱責を受けそうですけれど、「生きることにとって大事なこと」は教えられないでしょう。それは何よりも、まず「自習」「自学」「独学」の領分であって、計算や漢字の書き取りのように、教えられるものではないでしょう。それだって、子どもが学ぶ意欲を持たなければ、「教えられない」でしょう。だから「いい教育」とは、子どもたちが自分の足で立ち、自分の頭で考える力を、子どもたちが自分の内部に育てることを助けること、邪魔しないこと、それに尽きると考えてきました。

 それが教育という名でできる最良の部分だろうと、昔も今も、ぼくは考えている。とするなら、多くの学校で、今日も「教育の名」において行われているのは「最良の部分(松)(上)」か、「当たり障りのない部分(竹)(中)」か、「最低の部分(梅)(下)」か、どのあたりでしょうか。もちろん学校段階・学校別にもより、地域差にもよりますし、担当の教師によっても「一律」ではありえないことでしょう。でも日本社会の「現状」「現実」を見ると、おおよその見当はつくのではないでしょうか。肝心なことは、教育における「変わるもの」と「変わらないもの」の違いを間違えないこと、です。

 以下、同じ日付の三つの「コラム」を出してみたくなりました。(パソコンに保存してある「切り抜き帳」から)解説は不要でしょう。ぼくは繰り返し、この記事(コラム)を読みます。世界中で同時進行状態で、多くの大事件が発生・展開しています。それらと比較することはできない相談であり、どちらが大事かということを咄嗟に判断するのは無意味でしょう。でも、ぼくには、以下の三つの場面もまた、「忘れがたい教育」問題の、それぞれがかけがえのない一景色(場面)だと思うのです。新聞に即していうなら、「新聞は新聞にあらず」「旧聞は旧聞にあらず」、人間の問題は「新聞は旧聞」「旧聞は新聞」であるといいたくなるような、そんなことを強く実感するのです。つまり、ぼくたちは日々「歴史に(から)学ぶ」ことを求められているという意味です。

【有明抄】フリースクール 佐賀市大和町にあるフリースクール「しいのもり」が創立10周年を迎え先日、記念イベントに足を運んだ。ミニコンサートやマルシェなど手づくりの企画に感心しながら、改めて「居場所」の大切さを感じた◆フリースクールは学校に行かない、行けない子どもたちの受け皿の一つ。楽しいはずの学校が苦痛に変わる一因は「普通」という概念に苦しめられるからだろう。普通とは多様性を認め合うことと思うが、「多数派」と混同されがちだ。大勢の考え、行動に合わせることが普通なのだと◆学校に限らず、そんな概念に生きづらさを感じる人がいる。社会の「レール」から外れても生き方は幾通りもあるのに、保護者は「学校に行きたくない」と子どもが言った時に不安を感じる◆でも、生き方に正解はない。子どもは学校以外でも育つことができる。フリースクールは「そのままのあなたでいい」と認められることで、子どもが再び立ち上がるためのエネルギーを蓄える場所。認知度も必要性も高まっている◆しいのもりは認定こども園「ひなた村自然塾」を運営する社会福祉法人緑光舎が開設した。10年間で延べ約100人の小中学生が通った。ただ、公的補助はないそうで、保護者は利用料を払っている。義務教育が無料であることを考えると行政が手を差し伸べるべきと思うのだが…。(義)(佐賀新聞・2026/03/14)
【春秋】AYA世代の誇りと幸せ 福岡県糸島市の坂本光優(みゆ)さんは7歳で白血病を発症した。治療を経て4年後に再発、さらに8カ月後に再々発した。「残された時間を家族と過ごすのも選択肢」と医師に告げられても移植手術や抗がん剤、放射線の治療に耐えてきた▼いま21歳。事務の正社員として働き始めて3年になる。「ここまで乗り越えてきたのは大きな誇り」と胸を張る▼何度も壁にぶつかった。中学時代に進路選択のため見学した高校は、階段に手すりがなかった。当時は車椅子生活を卒業したばかり。壁伝いに下りる姿に高校側は「ここは元気な人が来る学校です」とやんわり門戸を閉じた。設備の整った別の高校に進んだ▼アドレセント(思春期)、ヤング、アダルトの頭文字から「AYA」と呼ばれる15~39歳のがん患者たち。進学や就職、結婚、妊娠と治療が重なり、悩みや困難を抱える人が多いとされる。15日までの「AYA WEEK」は、そんなAYA世代のがんについて啓発する催しが全国である▼光優さんは7日、オンラインの交流会で自身の経験を語った。会社の上司に薬の後遺症や検査の必要性を説明したことで「病気だったことを知る人がいる安心感が生まれた」と全国の仲間に伝えた。「周りの人と同じように仕事ができることに幸せを感じる」と笑顔も見せた▼誰もが希望に胸を膨らませる春。病気と共に人生を懸命に生きる若者の一歩一歩を応援したい。(西日本新聞・2026/03/14)
【明窓】病乗り越え 旅立ちの春 昨年11月の本紙「こだま」欄に、一人の高校生の投稿が載った。中学1年の時、10万人に1人の確率で起こる脳出血を患ったこと。左半身まひとなり、つらいリハビリを重ねて学校に戻ったこと。支えてくれた人への感謝と恩返しの気持ちをつづった真っすぐな文章が心の片隅に残っていた。◆高校3年で大学を目指して勉強中とあった。卒業した今どんな思いでいるのだろう。益田市の斉木柊哉さん(18)を訪ねた。セブ島への短期留学、英語の弁論大会出場、小児がん支援の募金活動など、左半身の不自由さを感じさせないほど活発に動いた高校生活を笑顔で振り返ってくれた。◆やっとの思いで中学校に戻った当初、みんなと同じことができない現実に打ちひしがれた。「何で俺が…」。前を向かせてくれたのは、付きっきりで指導してくれた熱い先生であり、やりたい意思を尊重し常に見守ってくれた母だった。◆朝ドラのせりふにもなったやなせたかしさんの詩を思い出す。絶望の隣にそっと腰かけた希望-とは偶然ではなく、周りにいる人が引き合わせるのだと思えてならない。本人は希望を与える側になりたいと教育で起業する夢を追う。◆聞けば、志望大学から合格通知は届かなかった。諦めずに好きな英語を学べる専門学校に進学し、大学編入を目指すという。「病気のおかげで挑戦する癖がついちゃったんです」。夢膨らむ旅立ちの春が訪れている。(史)(山陰中央新法・2026/03/14)

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