戀といふ字を砕て見れば糸し糸しと言心

 耳障りなというべき「言葉使い」は意外に多くありそうです。例を挙げればきりがありません。それだけ、人間の関係が複雑多様である実態を示しているのでしょうか。驚くことに、いくつかの県(地方・旧藩)では「敬語」がないなどといわれてきました。人間の付き合いが「水平」で、「身分の差」をそれほど意識しなったということだったか。「俺とお前」『僕と君」「わたしとあなた」のように、もちろん男女間でも同じようでもあったとされる。当然、その反対は「垂直(上下)」の人間関係です。この社会ではかなり長く「身分制」が社会制度として機能していたこともあって、いたずらに、と思われるほどに「敬語」「謙譲語」「丁寧語」などが生み出されてきたともいえそうです。反対に、その余波として、表向きは「丁寧」だけれど、真意はそうではないという、二面性(裏表)を持った表現もよく使われてきたのではないでしょうか。「身分制」の痕跡を消してしまう状況が生まれているという証明でもあります。

【有明抄】ロボット パーティー会場にて。「これより会を始めさせていただきます」。司会者が「本日、進行を務めさせていただきます…」と自己紹介。「それでは乾杯に移らせていただきます」。次に「祝電を披露させていただきます」。最後は「これで会を終わらせていただきます」◆「~させていただきます」は気になる日本語として評判が悪い。堂々と「~します」と言えばいいのに、他人の顔色をうかがって、自分の意思や責任をあいまいにしている、と。〈誰かに使役される受動的なロボットとして世界に対峙している〉とはコラムニスト小田嶋隆さんの指摘◆中国では人型ロボットがハーフマラソンで、男子の世界記録を上回ったという。ロボットが初参加した昨年の大会からわずか1年でタイムを半分以下に短縮したというから、進化のスピードにも舌を巻く◆世の中は人間の動きに合わせて設計されており、ロボット導入には複雑な動きができる人型が向いているとか。中国は今年を「実用化元年」として力こぶを入れる。ファミレスなどで見かける猫の顔をした中国製の配膳ロボも二足歩行を始めるかもしれない◆人間並みの文章や絵をかくAI(人工知能)が、やがて人間のような喜怒哀楽を覚える…そんな未来が空想とは言い切れない。ロボットが人間に近づく時代に、人間はロボットみたいになっていく。(桑)(佐賀新聞・2026/04/21)

 本日のコラム「有明抄」は「~させていただきます」を槍玉にあげておられる。ぼくも、この表現には昔から「辟易(へきえき)」してきた・させられてきたので、大いに「我が意を得たり」という気分であります。「謙る・遜(へりくだ)る」というのでしょうか、とても嫌な表現ではないでしょうか。「相手を敬って自分を控えめにする。謙遜(けんそん)する」(デジタル大辞泉)とありますが、それ以上に使う必要のない時にも多用されるのですから、なんだか魂胆がありそうですね。

 このような過剰な「丁寧語」(勝手に「慇懃無礼語」、または「バカ丁寧語」と呼んでいます)には、実は相反する意味(含意)があって、必要以上に「丁寧」に話しているけれども、腹の裡では「それほどにも、相手を重んじていない」ことが多く、それと察しられても嫌だし、察しられなければもっと嫌だという、人間同士の間に流れる奇妙な感情の「縺(もつ)れ」があることが多かろうと、貧しい経験から学んだというか、そういう「首尾」「仔細」があった思うようになりました。いわば「表の意味」と「裏の意味」のような、二重の言葉使いが発達してきた歴史的経緯があるようです。その淵源は「身分制」の残存(痕跡)だったことは確かです。(左は「『させていただきます』は使いすぎるな」日経新聞・2012年4月13日])

 もちろん、今日は「身分制」は撤廃されて、もう一世紀以上も経過していますが、身分制の「名残り(residue)(余波・形見)」らしい物言いが「尊敬語」や「謙譲語」「丁寧語」などにその幻影を残していると、ぼくには思われます。「~させていただきます」などといわれると、勝手にしなと、ぼくなどは言いたくなるのです。これに似た表現に「バカ丁寧(overly polite)」という言辞があるでしょう。その本(元)は「慇懃無礼」だったと思う。「慇懃(いんぎん)」とは、「 真心がこもっていて、礼儀正しいこと。また、そのさま。ねんごろ」(デジタル大辞泉)とあり、ひたすら「尊重されるべき態度・物腰」を示す言葉と受け取れます。しかし、その後に「無礼」という、正反対の言葉がくっつくと、「丁寧であるだけ」、かえって「ゾンザイ」と取られます。「バカ正直」なども、この例ですね。本来なら、慇懃と無礼をは「水と油」、あるいは「正と反」の関係にあるのですが、その言葉が、新たな意味を持って生まれるのにもまた、いくつかの仔細がありそうです。

 「バカ丁寧」にも幾分かは「相手を見下す」ニュアンスがありましょうが、「慇懃無礼」となると、実に鮮やかに「表向きは丁寧」であるけれども、その含みには、かえって「相手に対する優越感情」があって、かえって「礼節を欠いている」と思わせる種類の言葉ではないでしょうか。(「superficial politeness」「hypocritical courtesy」)これに反対なのが「横柄親切」「誠心誠意」などという表現でしょう。一見ぶっきらぼうだけれど、その心根には優しさがあるという、そんな物言いであり、とにかく「誠実そのもの」という表現などなど、本当に、言葉(表現)には人間性・人間関係の百面相が現れると見た方がいいでしょう。

 この手の言葉には、本人が意図して使っている場合と、その深い含みを知らないで使う時とがありそうです。自分を低く見せることによって「相手を高くする」心持ちがある場合と、相手をそれほど評価はしていないのに、言葉つきだけは「丁寧に」、そんな「語法」として多用されることもあるしょう。このコラム氏の「言い分」は、やや飛躍していて、「人型ロボット」開発の先に、人間のロボット化は避けられないのではないかという「危惧」であったのでしょう。「人間並みの文章や絵をかくAI(人工知能)が、やがて人間のような喜怒哀楽を覚える…そんな未来が空想とは言い切れない。ロボットが人間に近づく時代に、人間はロボットみたいになっていく」(コラム)と。いつもに似ない、ややぼやけた言い方だと見えるし、ぼくには、すっきりとは解せないところです。

 この現代風の難問を切り取ったのが、先年、亡くなられた小田嶋隆さんでした。〈誰かに使役される受動的なロボットとして世界に対峙している〉、と、「受け身人間」の大量の出現を、そのような人間の心情(態度)(反応)の表出と評されたとあります。渡る世間は鬼ばかりだから、あるいは身を殺して「できるだけ控えめに、生きていけ」と諭す、いわば訓戒のようにも聞こえます。

 ぼくは、この時代の「風潮」「トレンド」に水を差す気は毛頭ありませんけれど、人間が生み出したロボットが、驚くべき働きをするからといって、仰天はしない人間です。一度に大量の荷物を運びたいという人間の欲望は、驚異的な展開を示して、それこそ多様な「運搬機器類」を生み出しました。「必要は発明の母だ(Necessity is the mother of invention.)」というそうです。その時「父親」は誰だったか、父は何をしたのか、それが答えられてこなかった問題です。よく指摘されるのが、「偶然」が父だったという言説です。たまたま、偶然から「素晴らしい発明」が生まれた、「必要が偶然」とが「番(つがい)」になって、新たな発明が成就したとされる。あるいは「怠惰」が、「必要」に一目ぼれして、ついに新規の発明に導いたともいわれます。そうかもしれないし、そではないかもしれません。唐突に聞こえそうでしょうが、ぼくなら「人間が人間であることに耐えられなくなったから」とでも答えるでしょう。「便利」を求め、「不便」を目の敵にして、ついには「人間性」が破綻をきたしかけている、それが「ロボット横行の時代」なのでしょうか。

 「人間の感情」は複雑怪奇です。ある人を「死ぬほど好きだ」といって、「死ぬ」のは自分ではないことが多いでしょ。「好きなのに、口では嫌いだ」といってしまうこともあります。これを「二律背反」現象と名付けたらどうでしょう。「させていただく」というのは表面のこと、内面では「しかたがない、やってやるよ」という場合が多いというのは、あまりいい傾向ではないですね。つまり、表現も人間も、できるだけ「角が立たない」ようにと、摩擦(friction)の少ない人間(社会)関係を望んでいるのでしょう。でも、摩擦がなければ、物は動かないのが道理なんですが。ロボットが活躍する社会や時代は、否応なしに「人間性の危機(crisis of Humanity)」の時代でもあるのです。

 どうして危機なのか。「人間の条件(The Human Condition)」が徐々に、あるいは大幅に失われているにもかかわらず、人間自身がその「欠如」に、嬉々として加担・同調しているからです。

 (へんてこな駄文の典型になりました。どこかで稿を改めて)

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