人皆有不忍人之心。先王有不忍人之心、…

 今朝は夜来の雨が続いています。このところの多雨もあってか、付近の田んぼではすっかり田植えは終わり、拙宅の周りの竹やぶでは筍(たけのこ)は旬を過ぎました。「卯の花の匂う垣根に」時鳥(ほととぎす)がやってきて、さわやかに鳴いていたかと思っていたら、すっかり田植えは終わっていました。このところ、天気に恵まれれば、自宅の周りから出て、すこし遠出のドライブを楽しんでいます。隣町の長南町あたりでは、これから田植えというところもまだまだありました。街道筋はほとんどが小高い山(丘というべきか)に囲まれていて、なお方々に山桜が、まるで山上に着飾った「一張羅」のように、煌(きらめ)いています。車を降りて桜の傍まで行くのでもなく、走りながら、左右に見える田んぼと緑の丘と、その中の一点景として枝葉を伸ばし、鮮やかに桜花が香る姿、それを目にするだけで、ぼくは「一息」も「二息」もつける。

 房総の山間部を走る利点は、まず混雑(渋滞)とは無縁であり、加えてほとんど信号がないということです。ぼくの車は初年度登録は2002年だったか、にもかかわらず1リッターでは9キロも走ってくれます。ガソリン(ハイオク)高騰の折、実に愛すべき友という感じですね。(この駄文を書いているのは朝5時前。雨がしとしと降っています。猫は簡単に朝食を済ませて、それぞれが散歩だか二度寝だか、多くは家の中から姿を消しています。そして、家の前あたりで鶯(うぐいす)が清らかな声で啼き続けてくれている。その横からカラスがカアカア。

 ぼくの鈍った感覚でも、とても季節の足取りが速いと、本当にびっくりしています。もう少し足を延ばし、夷隅市当たりまででかければ、すでに四月前に田植えが終わっています。超早場米(早稲)とかで、八月には稲刈りも始まるという。狭い範囲にあっても季節は順繰りにバトンの受け渡しをしているようで、つかの間の自然の恵みに見惚(みと)れるという「幸運」を楽しんでいる。間違いなく、季節は一か月は早まったという感じがしています。春秋は短く、夏冬が長いという、およそ温帯気候にはなじまない地球の運行のしからしむるところでしょう。それに輪をかけるように「人為」「人工」が、自然の秩序・基調を狂わせているのですが、いつ終わるともわからない、人間どもの愚かさのなせる業。

 現住地に越してきた当時、庭のアクセントにもなるかと、茶の苗を育てようと計画をしたことがあります。それを見て、近所の T さんが「止めた方がいい」と忠告してくれた。理由ははっきりとは聞かなかったが、虫が付くやらで、手間が大変ということだったかもしれません。その T さん宅の敷地はかなり広く、その中にはお茶の垣根も見えていたが、手入れはあまりされていないようでした。彼は半官半農のような生活ぶりで、その時は、官庁勤めを終わっていたと思う。ぼくと同じ年でした。無類のウォーキング好きで、一日に5キロ、10キロは平気で歩いている人でした。(知り合いの女性に言わせると、「あの人は徘徊老人です」と噂が立っていた、と。この数年ほとんど姿を見なくなったままですが、健在であろうかと心配しています。拙宅から徒歩十数分の距離にあるお隣さんです。

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 今もなお「天の声」は「健在」でしょうか。「天の声」を受け止めて、世に語る人は存在するのでしょうか。その昔は何十年も購読していた A 新聞。今ではまず手に取ることもネットで見ることさえ、ほとんどありません。何んとも薄情なと、我ながら思わないではありませんが、致し方ないとも思う。こうなった事情が当方にではなく、彼の方にありそうですから「オールドメディア」などと蔑まれつつ、斜陽の一途をたどる姿を見ていると、「昔日の雄」の落魄(らくはく)ぶりに、なんだか当方までもが悲しくなってきます。

 何人かの先輩記者に厚情をいただいた身としても、これもまた「一社」の寿命なのかと「詮方なし」の思いが募ります。たくさんの新聞記録類の切り抜き在庫を抱えている、わが「保管庫(storage)」から、ここに、日付はmさに「旧聞」ではありますが、その内容はいつまでも「新聞」であり続けるであろう、「天声人語」二題を。

 余計な解説は無用。「天に声あり 人をして語らしめよ」という「天声人語」の氏育ちをいうなら、この二編まだまだ「天声」が人間にも届いていたと考えられる「人の語るところ」であったと、ぼくは受け取っています。老若の交わり、先輩後輩の交流、親子の契り、赤の他人であっても、そこにおいては失われてならない、大切な「天与」「天恵」かと信じたくなるような「不忍人之心(人に忍びざるの心)」をもし失ってしまえば、人は人に対して悪鬼となり、波旬(はじゅん)(悪魔)となるほかありません。

 この三週間余、心が晴れないままで、ついに恐れていた「現実」に打ちのめされそうになっています。余りにも惨(むご)い事件の犠牲者になった京都の園部町の Y.A. 君の御霊に深く額づく想いで、この「中高生」と周りの人たちとの間に芽生えている、消えることのない「心情(惻隠之心不忍人之心)」をわが胸に刻み、かつその尊さを信じて、心ある人にも、あるいは見失っている人にも捧げたい。困っている人、不幸に喘(あえ)いでいる人に対して、誰もが「見ていられない」「我慢できない」、そんな心持ちを抱くという「惻隠(そくいん)の情」が人間同士のつながりの第一歩です。それはまた、大げさではない「他者への敬愛の念」でもあるでしょう。どんな関係であれ、いささかの「尊敬心」が働かないようでは、人間であることはできないのだと、ぼくは頑(かたく)なに信じてきました。血中にも些少の塩分が欠かせないように、尊敬心は人との交わりにおいては、親子であれ、何であれ、不可欠の要素なのだとぼくには思われます。

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京都・南丹の男児死亡 死体遺棄の疑いで逮捕の父親、容疑認める 京都府南丹市の山林で行方不明になっていた市立園部小の安達結希(ゆき)さん(11)の遺体が見つかった事件で、京都府警は16日、安達さんの遺体を遺棄したとして、父親で会社員の安達優季容疑者(37)を死体遺棄の疑いで逮捕したと発表した。「私のやったことに間違いありません」と容疑を認めている(以下略)」(毎日新聞・2026/04/16 01:52) Y君の冥福を祈るばかりです。(合掌)

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 (「惻隠之心、仁之端也」という孟子の「言」をここに出しておく)

 「人皆人に忍びざるの心有り。先王人に忍びざるの心有りて、斯(ここ)に人に忍びざるの政有り。人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行はば、天下を治むること之を掌上に運(めぐ)らすべし。人皆人に忍びざるの心有りと謂ふ所以(ゆゑん)の者は、今(いま)人乍(たちま)ち孺子(じゆし)の将に井に入らんとするを見れば、皆怵惕(じゆつてき)惻隠(そくいん)の心有り。交はりを孺子の父母に内(い)るる所以に非(あら)ざるなり。誉れを郷党朋友に要(もと)むる所以に非(あら)ざるなり。其の声を悪(にく)みて然するに非ざるなり。是(これ)に由(よ)りて之を観(み)れば、惻隠の心無きは、人に非ざるなり羞悪の心無きは、人に非ざるなり辞譲の心無きは、人に非ざるなり是非の心無きは、人に非ざるなり惻隠の心は、仁の端なり。羞悪の心は、義の端なり。辞譲の心は、礼の端なり。是非の心は、智の端なり。人の是の四端有る、猶(な)ほ其の四体有るがごときなり」と。)(漢文塾・https://kanbunjuku.com/archives/102

 不忍人之心(孟子)

孟子曰、
「人皆有不忍人之心。
先王有不忍人之心、斯有不忍人之政矣。
以不忍人之心、行不忍人之政、治天下可運之掌上。
所以謂人皆有不忍人之心者、
今人乍見孺子将入於井、皆有怵惕惻隠之心。
非所以内交於孺子之父母也。
非所以要誉於郷党朋友也。
非悪其声而然也。
由是観之、無惻隠之心、非人也。
無羞悪之心、非人也。
無辞譲之心、非人也。
無是非之心、非人也。
惻隠之心、仁之端也
羞悪之心、義之端也
辞譲之心、礼之端也
是非之心、智之端也
人之有是四端也、猶其有四体也。」
(公孫丑 上)

◎ 孟子【もうし】=中国,戦国時代の思想家。魯国の鄒(すう)の人。名は軻(か),字は子輿(しよ),子車。孔子の仁の徳に基づく徳治主義を継いで諸国を遊説したが用いられず,退居して教授と著述に専念。その弟子たちとの言行が《孟子》7編に記録されている。彼は礼を父子,君臣,夫婦,長幼,朋友の五倫とし,人間の本性を性善説で把握,覇道を排して王道による天下統一を説いた。つまり,天意は仁心に基づいた民生安定にあるので,天子はこの民本主義の仁政を行う責任を負っていて,その成否によって生じる天下民心の向背に基づいて天から任免されるとした。その思想は宋代の朱子学によって高い評価を受け,《孟子》は《論語》と並称され,〈孔孟の道〉は儒教の代名詞となった。また孟子の母が教育環境を配慮して三度転居したという伝説,〈孟母三遷〉は有名。(百科事典マイペディア〉

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◎ 天声人語(てんせいじんご)は、朝日新聞の朝刊に長期連載中の1面コラムである。1904年(明治37年)1月5日付の『大阪朝日新聞』2面に初めて掲載され(初期は必ずしも1面に掲載されるとは限らなかった)、以後、別の題名となった時期を挟みながら1世紀以上にわたって継続して掲載されている。最近のニュース、話題を題材にして社説とは異なる角度から分析を加え、特定の論説委員が一定期間「天声人語子」として匿名で執筆している。新聞本紙では見出しは付けられていないが、朝日新聞デジタルでは見出しが付けられ、書籍化の際には標題が付けられる。                                                                      

題名の由来 命名者は西村天囚[1]で、「天に声あり、人をして語らしむ」という中国の古典に由来し、「民の声、庶民の声こそ天の声」という意味とされる。しかし、この古典が何であるかは高島俊男によれば不明である。荒垣秀雄も「その原典はよくわからぬ」と書いている。/ラテン語の“Vox populi vox dei.”(直訳は『民衆の声は神の声である』)が元になっているという説もある。“Asahi Evening News”に天声人語の英訳を掲載する際、当初アメリカ進駐軍の機関紙“Stars and Stripes”の“Voice of Heaven, Voice of People”という直訳タイトルを転用する予定だったが、荒垣の提案でこの“Vox Populi, Vox Dei”が採用された。   

                                                                             一方池澤一郎「国分青厓の『天有声』について」は、1903年に国分青厓が発表した「天有声」という漢詩に「天有声(略)天雖無口使人言」という表現があることに着目し、この詩の影響を受けつつ平仄の都合で「天声人言」ではなく「天声人語」にしたのであろうと考察している。(「近世文藝 研究と評論」107号)/1904年1月5日に『大阪朝日新聞』で掲載が始まった「天声人語」は、2月から中断し、「鉄骨稜々」と題されたコラムに代わるが、3月には「天声人語」に戻された。大阪に遅れて、『東京朝日新聞』では1913年(大正2年)6月1日から「東人西人」が常設コラム化されたが、40年9月1日に東西のコラムは統合され「有題無題」となり、43年1月1日には「神風賦」となって、戦時中はこの題名が続いた。コラムが「天声人語」に復したのは、1945年(昭和20年)9月6日であった。(Wikipedia)

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