「考える」とは「疑う」「迷う」こと

【国原譜】高校の入学式に向かう親子連れの姿に出会うと、その晴れ晴れとした顔にこちらまで元気をもらい、「さあやるぞぅ」という気分になる。▼街中には、そうした新入学の生徒ばかりではなく、一目で新入社員と分かる若者たちもいて、全体が華やいでいる。希望に満ちたその姿は誰もが経験してきたはずだ。▼現実の社会は思い通りにいかないし、厳しいものであることをいずれ経験する。毎日のように報じられる高齢者をだます詐欺事件や、身近な殺人事件がある。▼世界に目を転じれば、大国による戦争状態が続いている。これでは若者たちに、未来を語り夢を持てとは言えない。便利さをもたらす科学技術の進歩もそうだ。▼デジタル教科書のことが論議されているが、本を読むということと、文字を見る行為が同じではない。「考える葦(あし)」という言葉を思い出したい。▼か弱い葦のような人間だが、思考する力を持つことで宇宙より偉大な存在である、というフランスの哲学者パスカルの名言を、今こそ蘇(よみがえ)らせたい。希望は若者たちに最も似合う言葉だ。(治)(奈良新聞・2026/04/10)

 このコラムに刺激されたわけでもありませんが、自分の高校入学式の一場面を思い出しました。学校の入学式の一部始終は全く覚えていません。どこかで折に触れて書いていますけれど、ぼくは「式」というものは実に苦手で、そのせいか、入学式や卒業式の景色(場面)の記憶は全くないのです。高校の入学式当日(たぶん昭和35年4月)、朝の小一時間ほどの風景は鮮明に覚えている。自宅から学校まで、自転車で10分か15分ほどだったと思う。どうしてだったか、ぼくが頼んだわけではないと思うが、おふくろが入学式にいっしょに行くといって、二人で自転車を漕いで登校したのだけは鮮明に覚えています。黒いコートだったか、式服だったかを着て、自転車に乗っている姿が実にさわやかな印象を与えていたと思う。当時おふくろは何歳だったろうか。四十歳を出たころだったと思う。家から学校までの十分ほどの自転車走行、それだけが今もなお、ぼくの目に焼き付いている。そんなことは一度限りだったでしょう。(昨日、この駄文は書きかけていたものです、悪しからず)

 両親は学校のこと・成績のことには一切口出しをしませんでした。第一、高校に行けなどさえ言わなかった。立派な教育方針があったからというより、むしろ関心などなかったのかもしれません。それはぼくには最高の「家庭教育」だったと思う。学校は好きではなかったし、成績なんかどうでもいいと思っていたものでした。もちろん「その気になれば」という気位(きぐらい)のようなものはあったと思う。「自分の品位を誇り、それを保とうとする心の持ち方」(デジタル大辞泉)と「気位」は解説されていますから、果たして十五歳のぼくに、そんなたいそうな自己認識があったとは思われませんから、要するに「勉強は好きではない」という「なまけの哲学・習慣」があったのだと思う。それがぼくの「気位(エゴ)」だったか。それから三年、落ちこぼれもせず、落第もしないで、なんとなく高校を卒業し、その勢いでぼくは東京に出ることにした。もちろんぼくの独断だったと思うが、親は何も言わなかったどころか、母は出発の夜、京都駅まで見送りに来てくれた。そこには同級生のN君もいた。なぜ上京することになったのか、詳しい事情は忘れたが、東京の学校に入るつもりだったと思う。それが昭和38年3月のある夜のことでした。以来、60数年、ぼくは東京と千葉でその日暮らしを続けてきたことになります。

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 つまらないことを書き連ねていますが、新入学などの晴れがましい季節になると、ぼくは世間の気分に背中を向けたくなるのです。「高校の入学式に向かう親子連れの姿に出会うと、その晴れ晴れとした顔にこちらまで元気をもらい、『さあやるぞぅ』という気分になる」というコラム氏の筆致に唆(そそのか)された次第です。ぼくは、残念ながら、そんな気には一切なれませんでした。近年では、入学式ばかりか、入社式まで「保護者(親など)同伴」という。世も末とは言うまい。学校の教師紛(まが)い時代に嫌というほど経験したことでした、それこそ、入学式や卒業式に参加される保護者(親たち)の数は大変なもので、会場に入りきれないで(今はどうか知りませんが)、学校全体で同じ「式」を三回か四回に分けてやっていたほど。それを横から見ていて、この国の人たちは「式」がよほど好きなんだと思うようになりました。入学式、卒業式、入社式、結婚式、お葬式等々、どれもこれもぼくの嫌いなものばかりで社会の節目は塞(ふさ)がれているのですね。(右はパスカルの「パンセ」原著)

 そして、たとえば大学在学は四年間が相場。内容は問わず、入学と卒業の二つの儀式が大事にされるという、そんな空虚な就学時間を何とか過ごせれば「大学卒」という証明がなされる、この社会、国は、今あるような軽薄かつ付和雷同型の人々で満たされるようになったのも「宜(むべ・うべ)なるかな」と、胸に手を置いてみるのです。「もっともであるなあ」「その通りであるなあ」と深く首肯(しゅこう)する。ある人は「卒業(証書)偽造」をしながら「市長」にまで上りつめる(選挙で選んでしまう)、どういうことでしょうか。これもまた、「学歴(空虚)社会」の一面なんですか。(本日はここまでで終わり。以下はおまけみたいなもの)

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 奈良新聞のコラム氏は、新入生や新入社員たちの姿を見て、自分までもが気分が新たになると書きつつ、国の内外には、いいこともあれば、腰を抜かし、目が飛び出るような凶事も起こっていると書く。そして、どういう流れからか、「デジタル教科書」の話題に触れつつ、コラム氏は「本を読むこと」に関して、それは「字を見ること」と同じではないといわれる。本当はこのことが書きたかったことがわかります。ならば、「見ると読む」では大違いとか、「百聞は一見に如かず」といっておけばよかったのに、いきなり「『考える葦(あし)』という言葉を思い出したい」とあります。もっと書きたかったのは、この「考える葦」だったことがわかります。ぼくの駄文と同じとは言うまい、草稿(ドラフト)がおざなりだなあと思われますが。 

 「パンセ(Pensées)」の言葉が出ていたので、書く予定のなかった駄文を、追加で書くことにします。「か弱い葦のような人間だが、思考する力を持つことで宇宙より偉大な存在である」とパスカルは言ったのだと、コラム氏も解説されます。このさわりの部分、ぼくには実に懐かしい。学生時代、フランス語を齧っていて、もちろん「パンセ」も読み、この部分にも赤線を引いた覚えがあります。

 <L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature, mais c’est un roseau pensant.>

 「人間は一本の葦にすぎない。自然界における最も弱い葦でしかない、しかしそれは考える葦である」「人間を滅ぼすのに、宇宙は全身で武装する必要はない。人間を潰すのに一滴の水があれば足りる。でも人間は、自分を滅ぼすものよりも高貴な存在である。なぜなら、人間は自分が死ぬことを知っているからだ。宇宙はそうではない」とパスカルは続ける。彼は「意識」の有無を語ります、それは人間の「思考力」の別名でもあります。「壊れかかっている小屋は悲惨ではない。なぜなら、自分が壊れるということを知らないから」ともパスカルは書く。わかったような、わからないような論理ですがね。

 コラム氏が「宇宙と人間を比較する」のもぼくにはよくわからないが、「偉大と卑小」ということを指摘したかったのでしょうか。その砂粒のような人間の方が宇宙よりも貴重(尊いもの)だというのは、人間には「考える働き」があるからだというのです。人間である根拠(条件)は、どこにあるか。「我々の尊厳のすべては『考えること』にあるのだ<Toute notre dignité consiste donc en la pensée.>」。「われ思う、故にわれあり(Cogito, ergo sum)」とデカルトに倣ってパスカルは言う。「だから、精一杯、考えるようにしようではないか。そこにこそ道徳(人間性の原理)があるのだから」と結びます。

 L'homme n'est qu'un roseau, le plus faible de la nature, mais c'est un roseau pensant. Il ne faut pas que l'univers entier s'arme pour l'écraser ; une vapeur, une goutte d'eau suffit pour le tuer. Mais quand l'univers l'écraserait, l'homme serait encore plus noble que ce qui le tue puisqu'il sait qu'il meurt et l'avantage que l'univers a sur lui, l'univers n'en sait rien.
 Toute notre dignité consiste donc en la pensée. C'est de là qu'il faut nous relever et non de l'espace et de la durée, que nous ne saurions remplir.
  Travaillons donc à bien penser ; voilà le principe de la morale.(’Pensées’

 最初の部分では「人間は弱い」「(水辺に生えている)葦のように弱い」「けれども、考える力を持っている」、だから「人間は考える葦なのだ」という、ここがこの部分の要石(keystone)ですね。「考える葦」というのは、どこまで行っても弱い葦、その葦のように考えるということです。「か弱い葦のような人間だが、思考する力を持つことで宇宙より偉大な存在である」とコラム氏は書かれている。「吸いう風に理解するのは間違いだ」とパスカルは断言しています。あるいは、それは間違った理解であるとも。「考えていくうちに、人間は人間を超えることにある」とコラム氏は言っているようですけれど、それはどういうことですかと、ぼくは尋ねたいですな。「宇宙より偉大な存在」というのはどういう意味ですか、と尋ねたい。ぼくにはこれがわからない。考えは立派だけれど、とんでもない悪事を働く、そんな人間はごまんといるのはなぜですかと、逆に質問したくなります。考える働きがあるから、徐々に人間は優れた存在になるかもしれませんが、その同じ人間が他者を傷つけるのはどうしてでしょう。詰まりは「人間の弱さ」、「情念の強さ」に、ぼくたちは足元を掬(すく)われるというのではないですか。

 2に2を足せば4になると理解するのは、「考える」働きのおかげかもしれないが、「人生の価値は何だろう」という難問を前にして思い悩むのとはいささか異なる思考法でしょう。だから、考えるというのは「二通りある」と捉えたらどうでしょう。2+2=4というのは誰もが考えるように考える、一つの思考方法です。これを科学的思考といっても構わない。しかし、そればかりが「考える」という働きではなく、自他にとって同じ問題を自分流に、あるいは他人とは別角度から考えるという方法もあるでしょう。それを、仮に哲学的思考方法と言ったらどうか。「ものを考える」とは、要するに「疑う」ということです。「疑問を抱く」ということ。「おかしいなあ」と首をかしげるとき、問題は自分の中に入ってくるでしょう。パスカルはこのことを言おうとしたのではなかったか。

 そして大事なのは次のことです。パスカルの考えた通りかどうか、ぼくには断言はできませんが、不完全な(弱い)人間である自分が、自分流に考え(る働き)を深めれば、人間(自分)は強くなれると、パスカルは言ったとは思われないんですね。どこまで行っても「弱い存在の葦のように、人間は考える働きがあっても弱い存在であることを超えられない」といいたかったのではないですか。欠点だらけの弱い存在が、どれだけ深く考えたところで「宇宙以上になる」ことはあり得ない。弱い葦が考えても、葦でなく、樫(かし)になることはあり得ない、それと同じように、弱い人間はどこまで行っても弱いままだと。

 だったら、考えても意味がないではないかといいたくなるほど、人間は弱いんですね。つまり「人間の弱さは完全である(La faiblesse humaine est parfaite.)」と、デカルトもパスカルも言っているでしょう。神や仏のようになれない、というのは人間の弱さですが、それこそが人間の証明なんですね。少しでも、自分の弱さを克服するところに、人間の道徳性の価値が存在します。どこまで行っても、人間は間違える、でもそれを少しでも少なくすることは可能です。(考える働きの意味はここにあると思う。(時に、人間の限界を超える「人」が出るという、それが「超越者」、つまりは宗教の領域に入ります、信仰の問題ですね)

 「希望は若者たちに最も似合う言葉だ」とコラム氏はいう。でも「希望と絶望」は紙一重であるとぼくは思っている。微(かす)かな望みと望みが絶えるのとは同じではないけれど、ぼくにはほとんど同じで、それ(対象)をどう見るかという、見方(考え方)の差だといいたいのです。 <hope><wish>と<despair><hopelessness> それを同じようなものと、君は言うのかと叱られそうですが、同じ事態に対して「悲観(pessimism)」に襲われるか、「楽観(optimism)」を維持できるかの違いだといいたいんですよ。一人の哲学者・モラリストに倣って、ぼくは「雨の日には笑え(嫌な天気にはいい顔を)」と、自他に向かって語ってきました。雨は誰に対しても同じように降る。ある人は「いやな雨だ、憂鬱になってしまう」というかもしれないし、別の人は「久しぶりにいい雨だ。山の木々も喜んでいるだろう」といってみて、憂鬱の虫を退治する。

 ぼくたちの経験する「不幸(嫌な感情に支配される)」の99%は「悲観」という情念に襲われるからではないでしょうか。それを、ぼくはあえて「不注意の仕業」と言い換えてみたい。雨の日は憂鬱で、好天には気分爽(さわ)やか、この違いが同じ人間の体内を通って意識のレベルで起こる理由は何でしょう。外部の刺激に身体が反応し、そして生まれる感情(情念)に動かされるということでしょう。二日前に「コップ半分の水」について駄弁りました。入っている分量は同じでも、それを「まだ~ある」と見るか、「もう~ない」と見るか。少し冷静になれば、誰だってわかることですが、ぼくたちの最強の敵は「不注意」という「情念」です。先ごろ、新名神高速道で重大な自動車事故が発生し、一家5人を含む6人が死亡したという報道がありました。

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 「新名神6人死亡事故で運転手を起訴 スマホ画面に脇見、急制動も追突 今年3月、三重県亀山市の新名神高速道路で6人が死亡した多重事故で、津地検は9日、トラック運転手の水谷水都代容疑者(54)=広島県安芸高田市=を自動車運転死傷処罰法違反(過失運転致死)の罪で起訴し、発表した。地検は認否を明らかにしていない。/起訴状などによると、大型トラックを運転していた水谷容疑者は3月20日午前2時20分ごろ、新名神高速下り線のトンネル出口付近を、スマートフォンの画面に脇見をして時速約82キロで走行。渋滞のため停車していたミニバンに約9・4メートル手前で気づいて急ブレーキを踏んだが間に合わずに追突。ミニバンの前にいたSUVは玉突きで別の大型トレーラーにぶつかった。/この事故で、ミニバンに乗っていた静岡県袋井市の会社員男性(45)の一家5人と、SUVを運転していた埼玉県草加市の団体職員男性(56)の計6人を頭部の骨折や外傷性ショックなどで死亡させたとされる。(以下略)(朝日新聞・2026/04/09)

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 ぼくたちの経験する不幸のほとんどは「不注意」から生じるということ、それをこそ肝に銘じて(I will keep that in mind.)ほしいですね。学校の「勉強」も「注意深い人間」になるための訓練であって、級友と点数を競うなどという軽薄・軽率な作業(課題)ではないのです。「人間の尊厳は考える働きにある(による)」とする、パスカルの箴言の値打ちはここにあります。さらに述べるなら、考えるというのは「疑う」「迷う」「不安である」「悩む」などという、人間の寄る辺なきありかた(弱さ)に根差しています。犬や猫たちは、多分、人間のように考え・悩まないでしょう。それだけ彼ら彼女らの内部の「本能」が強いからです。神や仏も(ある・いるとして)、まず考えない、完全ですから。人間は本能を剥き出して生きていけないと思っているでしょうから、その野生・野蛮を矯(た)める、その暴力性を修正するために、疑う・悩む・考える働きが備えられているのでしょう。

 ある種の余計なものとして、です。パスカルは同じ「パンセ」の中で書き残している「私は腕を持たない人間は想像できるが、頭を持たない(思考しない)人間は想像できない」と。「人間は弱い」から、ぼくたちは苦しみ悩むのです。その弱さ(faiblesse)を、一時的にであれ、薄め弱めてくれるのも、人間を過ちから救ってくれるのも、それが同じ人間に備わる「考える」という働きです。算数の計算(勉強)は注意深い人間になるための練習です(Studying arithmetic is practice for becoming a careful person.)。ぼくには、まだまだ算数の計算問題を解く作業が足りていませんでしたね。

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