「子どもを育てる」とは?(胸に手を)

【卓上四季】ピカピカの夢 とことこ、ぴかぴか、きょろきょろ、わくわく。どれもがぴったりの感じだった。朝のまちかどで見かけた小学1年生たち。ランドセルが歩いているみたいな様子がほほえましい▼<あっ!/てをはなした/スキップしてる/いしっころと くつ/ひかってる//あっ!/はしった/ランドセル かたかた/えんぴつと けしごむ/さわいでる>▼紋別生まれの詩人、大久保テイ子さんの「いちねんせい」の一節だ。やさしくそよぐ春風とともに子どもたちが学校へ向かう。弾むこころも伝わってくる▼ちいさな胸はいろんな思いでいっぱいだろう。勉強は難しそうだな。友だちはできるかな。ちょっぴりお兄さん、お姉さんになったという誇らしさもあるだろうか▼大人になったらなりたいものは? 化学メーカーのクラレが毎年まとめているアンケート。今春の新1年生の人気上位はケーキ屋・パン屋、警察官、スポーツ選手…と定番が並ぶ。芸能人やアニメキャラクターというのもある。時代の変化を映しつつ、幼いあこがれはそう大きく変わらないものという印象を受けた▼どの子も夢を大切にしながらすこやかに育ち、ゆっくりでいいから未来へ歩んでほしい。はるか昔に子どもだった大人のひとりとして強く思う。いまの子どもたちが夢をかなえられる世の中をつくる責任がある、と。(北海道新聞・2026/04/10)
【夕歩道】真新しいランドセルの小学生を見ると、「ピッカピカの~一年生♪」と歌いたくなる。昭和の方ならおなじみの学習雑誌「小学一年生」CM曲。1978(昭和53)年から十数年間、放送された。
 東京の地下鉄神保町駅は今年2月まで1年間、電車の到着時にこのメロディーを流した。同誌が昨年で100周年だったことにちなんだ。創刊の25年(大正14年)の雑誌名は「セウガク一年生」。
 戦前は片仮名を先に習った。平仮名、漢字、ローマ字…。これからたくさんの字に出会う1年生。焦らずいきましょう。作家C・W・ニコルさんは10歳まで本が読めず、名前も書けなかったのだ。(中日新聞・2026/04/09)
【あぶくま抄】ぼくの好きな先生 その美術教師は職員室を嫌い、いつも一人、部屋にこもっていた。たばこを吸いながら。忌野清志郎さんが率いたRCサクセションの「ぼくの好きな先生」だ。東京都多摩地区で教べんを執った実在の人物という▼作品が世に出たのは54年前。思い起こしてみれば、昭和の学校には個性的な先生がたくさんいた。時代はおおらかで、地域と一体だった。夜の会合の帰り、生徒宅で保護者と杯を傾ける。そんな場面もあったと記憶している。背広を脱いだ担任の意外な「顔」を知る、楽しい機会でもあった▼聖職を志し、せっかく選考試験を突破したのに教壇を離れる若者が後を絶たない。家庭からのさまざまな求めに、息がつけなくなるのだとか。県教委は控えてほしい振る舞いをまとめ、ポスターを作った。大声や暴言、時間外・長時間の相談など、4項目を挙げている。心の負担を軽くし、教え子と向き合う時間を増やすのが狙いだ▼先の美術教師は「引きこもり」と、周りから白い目で見られていたかもしれない。それでも、学校が好きになれなかった未来のロックスターに、安らぎの時間を与えてくれた。優しく見守って。あなたの愛し子が「好きな先生」を。(福島民報・2026/04/08)

 四月、新年度と新学期が同時に出発・進行しました。当然のことです、各紙が交々に「新一年生」への温かい心遣いを示している。同時に、もう一つの「新一年生」に対しては、華やかな「祝意」がないのはなぜなのか、ぼくは奇異に感じるのです。そう、「新米教師」、教師一年生です。ある地方自治体では採用された教員採用試験合格者の6割が辞退したというニュースがありました(同県では前年度は7割の辞退者がでた)。本物の「ピカピカの一年生」はまだ右も左もわからず、新しいランドセルを背中に乗せられて、何かいいことがありそうな、そんな希望(夢見心地)で、勇躍して(あるいは恐る恐るの子もいたでしょう)学校に足を踏み入れたことでしょう。でも、いくらもしないうちに、そこはとんでもない「素晴らしい」、いや「二度と通いたくない」ところだったと知ることになるかもわからない、「お化け屋敷」に変わるかも。

 本日は「新一年生」談義というか、「学校、どんなとこ」という話になりますか。陳腐な取り合わせですけれど、三日続きの「教育・学校リレーコラム」と芸のない仕儀に。実は「あぶくま抄」については、一昨日、少し駄文を書いてみたのですが、中途で止めてしまいました。理由は単純、「まだこんなことで悩んでいるんですか?」という疑問が湧いてきたからでした。所謂「モンスターペアレント(通称「モンペ」)」問題は、かなり前に一世を風靡(こんなところで使ってはいけないか)したもので、近年騒がなくなったと思っていたら、何のことはない、学校の陳腐な日常風景に、ピタリと収まってしまったからでした。つまりは学校の一部になっていたというわけ。

 「聖職を志し、せっかく選考試験を突破したのに教壇を離れる若者が後を絶たない。家庭からのさまざまな求めに、息がつけなくなるのだとか。県教委は控えてほしい振る舞いをまとめ、ポスターを作った。大声や暴言、時間外・長時間の相談など、4項目を挙げている。心の負担を軽くし、教え子と向き合う時間を増やすのが狙いだ」(「あぶくま抄」)(ええっ、教師は「聖職」なんですか?)

 ことは福島県だけの問題ではないところに、学校の絶望的状況が見て取れます。「合格しても、教師にはならない」若者が高知県では6割に上った。こんな事態はあちこちで起こっているのです。どうしてか、当人にも分からないのかもしれません。「肝試しで受けただけ」だったのかも。受かったけれど、教師にはならない、それほど忌避されている仕事が「教職」だというのですから、危機をはるかに超えていますね。にもかかわらず、「交通信号は守りましょう」というような、驚くほど呑気で無神経な対応しか、関係筋はしていないように、ぼくには見える。教師たちは子どもに対して「正義を曲げないで、堂々というべきことはいいなさい」と言っているんじゃないですか。乱暴な子には厳しく対応するのではないのでしょうか。人を見て対応が異なるというのは、どうしてですか?

 なにが悲しくて、学校現場は理不尽な親たちに、率直にものが言えないのでしょうか。直言は無理、だから、ポスターで用が足りる(誤魔化せる)と考えたのでしょうか。左上のポスターは長野県教委作成のものですが、各地似たり寄ったりで、要は「できれば、教師をいじめないでください、お願いします」というのでしょう。それを一枚のポスターで柔らかく表現するという姑息な手段で逃げているところ、教育委員会は無用な組織(盲腸だって、何かの役には立っている)になり成り下がっています。教員たちに対しては強く出るのに、親たちには腰が引けている、そんな教育員会の卑屈な態度が、実は方々に蔓延しているんでしょうね。「なに、モンスターが現れたと。拙者に任せなさい」と買って出る『正義漢』が、教育界のどこにもいないんですかね。なんなんですか、これって。(右は福島県教委作成のもの)

 「教職員に対する対する”行き過ぎた行為”はご遠慮ください」「教職員とのより良い関係づくりにご配慮ください」と、ひたすらお願い、まさに「平身低頭」、「腫れ物に触る」という卑屈さです。「いいなり(subservience)」ですね。「もし、行き過ぎた行為があれば、断じて認めない、許さないから、そのつもりで喋って下さい」とか、「見逃せないほどの行き過ぎた言動と判断すれば、直ちに110番します」とか言えないのか。やっていることに疚しさがなければ、もっと堂々としていればいいのに、そうではないということをみずから証明しているのでしょうか。その昔、教職に就いた卒業生に「もし学校でいじめられたら、ぼくに連絡してほしい」「ぼくが出ていきますから」とあらかじめ言っておいたものでした。「ぼくが行くと、少し面倒なことになるかもしれないが」と念押しした記憶があります。ほとんど声はかからなかったが(自分で始末をつけたんですな)。いったい、学校はどこを見て「教育」をしようとしているんですか。

 忌野清志郎さんの「ぼくの好きな先生」、曲自体はどうというものではない、と思います。たしかに、それぞれの子どもにとって、「好きな先生」「嫌いな先生」がいたはずです。謳われたのは半世紀も前のことになりますが、どんな学校にも「半端な先生」「型破りな教師」はいたもの。子どもたちは、そんな「先生らしくない先生」に会いたがっているのかもしれません。親と仲良くなりすぎて、変なことになる教師もいました。子どもと密接な関係を結ぶ不良教師、昔もいたし、もちろん今だっている。長い間学校という温室(greenhouse)で育てられた苗が、場所が変わるとはいえ(移植されるとはいえ)、学校という新たな「温室」に入るだけのことなら、いつまでたっても「未熟」「世間知らず」の人間のままで教師稼業についているということになりかねません。本当はここが教育委員会の「出番」なんだが、こちらはとんと役に立たないのですから、さてどうします。くだらない研修で教師を苦しめないでほしいね。(⁂ Boku No Sukina Sensei:https://www.youtube.com/watch?v=pdMxECE-OpU&list=RDpdMxECE-OpU&start_radio=1

 昨日付の「夕歩道」、語(騙)るに足りず、です。「問うに落ちず語るに落ちる」といいたいところ、そこまでのことでもない。「ピカピカの一年生」はいい、どうして「作家C・W・ニコルさんは10歳まで本が読めず、名前も書けなかったのだ」となるんですか。言いたいことはわかりそうですけれど、それがどうしたという話。つまらないばかりです。字など書けなくても生きていけます。必要があれば書けるようになる。それだけの事柄ではないでしょうか。

 「はるか昔に子どもだった大人のひとりとして強く思う。いまの子どもたちが夢をかなえられる世の中をつくる責任がある、と」そう書かれているコラム氏の「心情」は尊重されるべきだし、そういう社会をつくるための仕事をしたいと願われているのは好感が持てます。でも、と一言したいですね、新聞が果たすべき仕事が果たされているのですか、と。率直に言うなら、ぼくのような無力な無所属人間から見れば、時代は著しく「通俗の極み」に向かっており、「おかしいことが見過ごされ」るばかりの状況が続いています。「自己主張の権化」のようなわがまま親たちに対して背中を向ける、腰が引ける、膝を屈する学校・教師・教委。やりたい放題の金権政治に、まったく無力なメディア、中にはそんな政治のちょうちん持ちをしているのまである。こんな状況が続けば続くほど、いたるところで「人倫」「道徳」の綻(ほころ)びは目も当てられなくなるのは必須です。その場しのぎの「付け焼刃」や、ことなかれ主義の「弥縫策」が、問題をより悪化させることは誰も、新聞記者も、学校教師も知っているんですよ。

 「はるか昔に子どもだった大人のひとりとして強く思う。いまの子どもたちが夢をかなえられる世の中をつくる責任がある、と」(「卓上四季」)、それはそのとおりです。けれどその前に、この「昔に子どもだった大人のひとり」と簡単に「大人と子ども」を区別しています、それが問題でしょ、「あなたの中に子どもがいる」のではないんですか。だから、大切なのは「自分の中にも子どもの部分がある」ということを忘れないことです。「裸の王様」を指摘・糾弾した「子ども心」とは、つまりは「正直」「率直」という感情(それを「正義感」といってもいい)です。その感情に無頓着であっては困るし、眠っているなら、その感情をいつだって覚醒させておくのが、とても大事じゃないですか。多くのの場合、都合のいい健忘症を称して「大人になる」というのです。そんな大人にはなりたくないと、ぼくは言い続けてきました。「おかしいことはおかしい」「まちがいはまちい」と、誰に向かっても直言できる、誰彼にもある「自分の中の子ども」を眠らせてはいけない。

 子どもを育てるは、そういうことでしょう。

参考資料 《高知県教育委員会が今年実施した2026年度の小学校教員の採用試験で、合格を通知した260人のうち約6割が辞退した。採用は130人程度を予定しており、不足分を補うため、今月14日に追加で選考を行う。/県教委によると、1次試験は5月末に高知市と大阪府の会場で実施し、計468人が受験した。辞退者らを見込んで採用予定の2倍の260人を合格とし、9月に通知したが、12月3日までに61.5%にあたる160人が辞退したという。(中略)/ 県では昨年、25年度採用の合格者の約7割が辞退、12月の追加選考などを経て春採用の129人を確保した。24年度採用分でも約7割が辞退していた。/今城教育長は「教員サポートの取り組みや高知県で教職に就く魅力をしっかり発信することが辞退者を減らす有効な対策だと考えている」と述べ、採用候補者同士の交流会なども開く予定だとした。(高知新聞・2025/12/04)

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