
【日報抄】出勤の途中、真新しいスーツの若者を見かけると、気になり目で追う。わが子と同世代だからだろうか。新社会人になった若者にあれこれ思ってしまう▼早く仕事を覚えて上司や先輩とうまくやれよ。言われたことをしっかりやらないとアウトだぞ。その一方、張り切り過ぎず一つ一つ覚えればいいからね。背伸びをして無理し過ぎないように、などと心の中でつぶやいていると…▼新潟日報デジタルで興味深いニュースを見つけた。「静かな退職」という働き方が注目されているという。仕事にやりがいを求めず、心は退職したように淡々とこなす働き方だ。就職情報のマイナビが2024年に全国3千人に行った調査では、44・5%が「静かな退職をしている」というから驚く▼記事に出てくる20代と30代の若者は、必死に働いた過程を経て「静かな退職」にたどりついた。理由は出世するタイプではないという見極めだったり、心身の不調だったり。給料は減っても、プライベートを重視した人生を送っている▼「最近の若者は…」と思いがちだが、よく考えると気付くことがある。そんな働き方の人は昔からいたよね、と。マイナビの調査では40~50代も4割以上が静かな退職中と答えた▼多様性を認める時代だが、静かな退職者が増えた会社の未来は不安になる。とはいえ出世の階段を駆け上る「課長島耕作」より、趣味が第一の平社員「釣りバカ日誌」のハマちゃんに憧れる。趣味が仕事に役立った! そんなドラマは望みすぎか。(新潟日報・2026/04/08)

【北斗星】仕事よりも、プライベートを大事にして生活を楽しむ。その傾向が若者の間で強まっているといわれてから久しい▼それでも毎日の生活に占める仕事の時間の割合は高い。何事も淡々と、というわけにはいかないだろう。日々成果が求められるから、重圧もそれなりにかかる。上昇志向や承認欲求もゼロではないはず。上司や部下との人間関係がうまくいくとの保証もない▼そんな職場という世界で周囲に流されずマイペースを貫く男性を主人公にした人気の漫画がある。週刊漫画誌に連載中の「路傍のフジイ」(鍋倉夫・作)。表情を変えず目の前の仕事に黙々と取り組む。職場を離れれば、絵画や陶芸などさまざまなことに挑戦して趣味の世界を広げる▼仕事に対して淡泊な人かと思いきや、そういうこともない。同僚が困っていれば率先して手助けするなど徐々に頼られ、慕われる存在になっていく。独身で40代ぐらいとの設定。慕われるのは、相手が誰であっても人格や個性を否定することがないから。読み進めるうち、主人公のそんな姿勢も見えてくる▼県内でこの春、多くの新入社員がスタートを切った。早く仕事を覚えようと躍起になる人がいる一方、プライベートを重視している人もいるだろう。バランスの取り方は人それぞれだ▼近年、社会で重視されていることの一つに多様性がある。一人一人の考え方、生き方を尊重することなくして、個性豊かな人材は育っていかない。漫画に教わることは多い。(秋田魁新報・2026/04/08)
(* ビッコミ「路傍のフジイ〜 偉大なる凡人からの便り〜」)(https://bigcomics.jp/series/01f466438167d)
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二つのコラムが、奇しくも同じような雰囲気の記事を書いていました。いずれも昨日付の【日報抄】と【北斗星】の2題です。書かれていることがまったく同じというわけではありません。そこには微妙なちがいがあって、それはまた、生き方の流儀としては極めて大切な「違い」でもあると思う。片や「もっといい生き方を求めて」という気もする人たち、此方(こなた)は「能ある鷹は爪を隠す」タイプではないかと、なんとなく思う。そして、どちらも、集団の中で自分を売り込むような「軽薄さ」「功名心」は持っていないように見えます。これを思うに、生きるというのは人それぞれであって、一筋縄(単一の価値観)ではいかないということを教えられます。
「日報抄」は「静かな退職」という表現を用いて、従来の「働き方」とは異なる、組織化における働き方の、別の一面を展望されていた。「『静かな退職』という働き方が注目されているという。仕事にやりがいを求めず、心は退職したように淡々とこなす働き方だ。就職情報のマイナビが2024年に全国3千人に行った調査では、44・5%が『静かな退職をしている』というから驚く」とあります。静かな退職というのは、「私は明日会社を辞めます」と、自他に宣言するような「騒々しい退職」ではなく、いささかも「社畜(corporate slave)」になろうとする気もなく、かといって投げやりに仕事をこなす風でもなく、いろいろな寸法(距離)を測りながら「会社との付き合い方」、あるいは「会社員の流儀」というべき姿勢を崩さないのです。従来見られるような「会社のために」「会社第一」という「悲壮」「皮相」なものなどはなく、穏やかというか、まず無理をしないのだなあと、同僚たちにも映る、そんな会社への帰属・所属の仕方です。

もちろん、この流儀は今どきのものではなく「マイナビの調査では40~50代も4割以上が静かな退職中と答えた」と出ていますから、いつの時代でも働き方の形として存在していたのです。「私は定年(停年)までこの会社を辞めない」と、初心を貫き通す人は存外少ないのではないですか。つまらぬ逸話ですが、ぼくがある学校に就職したとき、線お会い教員が「どうかよろしく、停年までのお付き合いですから」と挨拶されたのには驚きました。ぼくはいつだって止める・辞める・病めるという気持ちが強くありましたから。そんな偉そうな気分でしたが、相当に長く勤務することになってしまいましたね。
この「静かな退職」的勤務態度は、ことに「失われた何十年」といわれ出した時期と同時に、それとして無視できない存在になったのだと思う。「会社の都合で、人生を左右されたくない」と考えるのは誰だって同じでしょう。ぼく自身にも、身に覚えがある。組織の上層に上り詰め(たが)る人はたくさんいるが、ぼくはそんなとき、余計なことだが、該当者が親しい友人だったなら「組織のために『自分』を殺すのは馬鹿らしい。こんな職場、身体を賭けるほどの組織かよ」と、乱暴な口をきいては顰蹙を買っていました。もちろん、敵もさるもので、組織をよくしようという気分は若干でもあったでしょうけれど、結局は地位や名誉のほうがはるかに大きな要素だったことが、誰にだって、本人さえすぐにわかります。組織がおyくなることはまず至難のことですから。ぼくには、こんな生き方は滅相もないというばかり。どうしても「頼む」という場合に、「火中の栗を拾わされる」ことは何度かあったが。

会社員はこうあるべき、そんな堅苦しい生き方ではなく、「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」という極端にチャラいのでもなく、要は、自らの「プライバシー(私の時間)」を簡単に会社に売り渡さない、一面では自分本位の生活スタイルだとも言えます。これを「静かな退職」というなら、ぼく自身は早い段階から思い当っていましたね。小・中・高・大という長い就学期間のかなりの部分を「静かな退学(quiet withdrawal)」者として、学校や教師、友人たちと付き合ってきた、付き合ってこなかったと思う。いつも「学校に近づきすぎるな」「教師に不信の念を持て」と、自他に対して語り続けてきた。どんな時だって、「学校はぼくの全部ではない」「ぼくの生活の一部ですらない」、そんな付き合い方だったと思う。(右図は「ツギノジダイ」より)
一方「北斗星」では「周囲に流されずマイペースを貫く男性を主人公にした人気の漫画がある」と「路傍のフジイ」(鍋倉夫作)が紹介されていました。もちろん、ぼくは未読。(ネット上で「無料で読める」サービスがあり、それを利用している*)「仕事に対して淡泊な人かと思いきや、そういうこともない。同僚が困っていれば率先して手助けするなど徐々に頼られ、慕われる存在になっていく」という筋書きで、決して派手でもなければ我を通す人でもなく、しかし、ある人にはとても気になる存在として描かれている。そんな人物に、ぼくはある種の「憧れ」を抱いていました。見方を変えれば「自立した人」、「群れない方」あるいは「プライバシーを粗末に扱わない生き方」を選ぶ人といえばいいでしょうか。(* https://bigcomics.jp/series/01f466438167d)

◎「路傍のフジイ」:藤井 守(ふじい まもる)40代独身で非正規雇用の男性社員。無表情で存在感が薄く、同僚からはつまらない人間だと思われている。様々な趣味をもち、世間の価値観に囚われずマイペースに暮らしている。幼少期から誰に対しても敬語で接している。田中(たなか)藤井と同僚の若手男性社員。独身であり、将来に漠然とした不安を感じている。藤井のような人間にはなりたくないと思っていたが、藤井の内面を知ってからは藤井と友人になる。石川 綾(いしかわ あや)藤井と同僚の若手女性社員。美人だが、アニメが好きで他人にはあまり心を開かない。元風俗嬢で、パパ活をしている。常に自然体で過ごす藤井に興味を抱き、藤井と友人になる。(Wikipedia)
今の時代、「会社あっての自分」とか、「仕事が命」と考える人がいないとは思いませんが、そして、それはそれ、生き方の流儀として人それぞれの選び方があるから、とやかく言うことはできないでしょう。しかし、ともすると、自己犠牲とか、会社第一という風儀は、いかにも「この社会の気風」のようにも思われてきたのは事実でしょう。「うちの会社」とか「私の学校」などという表現が頻繁に飛び出していた時代がありました。今だって、皆無ではありません。そんなとき、ぼくは「君は会社(学校)のオーナーか」と聞き返したものでした。組織と自分が一体化していることに違和感を持たない人や時代は、とっくに過ぎたんですよね。
「終身雇用」「年功序列」「企業内組合」とくれば、「親方日の丸」ならぬ「親方社旗」でしたが、いくつもの曲折を経て、今はそれが通じない時代になったのも確かでしょう。今後はさらに中途採用が一般的な働き方の姿になり(させられ)つつある時代、必死で会社にしがみつく生き方は好まれないのかもしれません。急峻な坂道を、汗水たらして「登りあがる時代」ではなく、「否応なく滑り落ちる時代」に、この社会は遭遇しているんですよ。
ある新聞社系の雑誌が詳しく「静かな退職」について報告しています。ぼくにはかなりの皮肉に思われますが、新聞業界はある時期までは、多くの若者にとっては「高嶺の花」の企業でしたね。それが今日、斜陽産業のトップに踊り出ている状況です。世界的な発行部数を誇った業界でしたが、今では驚くほどの衰退を示すことになったのは、ぼくたちが知らないうちに新聞業界には、かなり長期間にわたって「静かな退職」が蔓延していたという事実の証明にもなるでしょう。そのような理由や背景は、どこにあるか。それもまたさまざまだとするなら、「静かな退職」の霧や雲は、間違いなくこの社会を低く暗く、覆っているともいえるでしょう。

《「静かな退職」(Quiet Quitting)とは、労働者が必要最低限の仕事のみをおこなっている状態を指す言葉です。在職していながら退職が決まった人のように淡々と働くこの現象は、日本では『がんばりすぎない働き方』とも訳されます。TikTokで『あなたの価値は仕事で決まるわけではない』という言葉とともに紹介され、アメリカを中心にバズワードとなりました。/アメリカのとある民間調査では、世界の労働者の59%が『静かな退職』をしているとされ、労働者の態度として最も一般的だと指摘されています」》(「ツギノジダイ」・2023.12.11)(https://smbiz.asahi.com/article/15070954)
「殺伐(savage)」とした空気が都市(都会)を覆っていると感じながら、ぼくはだらだらと通勤していたと思う。「都会は砂漠」という以上に、「弱肉強食の世界」「1㍉、2㍉の誤差」みたいなものに鎬(しのぎ)を削る、陳腐この上ない時代だったかもしれません。今なおその気風は残存しているし、学校教育はこんな時代にあってもなお「過当点取り競争」を煽っている始末です。「不登校(登校拒否)(school refusal)」「引きこもり(social withdrawal)」が就学期の児童や生徒に多発してきた趨勢を放置していたか、見誤っていたことが、今になっても大きな禍根を残しているのかもしれません。
発行部数世界一を誇っていた新聞が以下のような記事を書いていました。「じわり広がる「静かな退職」、辞めないが出世望まず最低限の仕事…企業の活力そぐ懸念も 静かな退職(Quiet Quitting)は、米国のキャリア指導の専門家が2022年、この言葉の意味を説明する短い動画をSNSに投稿し、世界に拡散した。/在宅勤務が普及したコロナ禍から社会経済活動が正常化に向かっていく頃で、「仕事が人生の最優先事項という価値観は劇的に変化した」「出世を目指さないというような人はペースを落とすのも一案」とし、仕事を辞める代わりに必要最低限に抑える働き方は「健全で前向きなことだ」と訴える投稿内容は、広く共感を集めたという(以下略)」(読売新聞・2026/04/07)(https://www.yomiuri.co.jp/pluralphoto/20260407-GYT1I00101/)

そして、「多様性を認める時代だが、静かな退職者が増えた会社の未来は不安になる」と「北斗星」氏はコメントを残されています。想像力が不足しているのかもしれないですよ。たしかに、「みなさん、こぞって静かな退職を」と勧奨する必要ないでしょうが、いざという時に企業が社員を守らないなら、「この企業に最後までいるぞ」という覚悟はつきにくいでしょう。「登校拒否」の児童や生徒に直面して、なによりも学校は「拒否反応」を示してきました。「学校に行かない、行けない子は悪い子だ」と、ね。そうだろうかと、ぼくは当時も思ったし、今だってそんなの可笑しいと考えている。「学校に合わせられない子」がいるなら、「子どもに合わせられない学校」もあると、なぜ考えないのかと、奇怪至極に思うばかりです。労働法の精神を毀損し、有期限雇用を無理にも導入した時期、ぼくは反対運動に参加していたことを覚えています。「好きな時に、好きなだけ」という「歯の浮くようなキャッチ」をバラまいて、雇用者を「景気の調整弁」にしてきたのは、誰だったか。
ぼくは「静かな退職」という働き方の存在を否定はしない。そんな消極的社員が増えれば会社の存続が危ないと思う向きもあるでしょう。構わないんじゃないですか。企業の論理というか、会社の都合で個人の生活を左右してきたのも事実なら、生きていくのに必要なだけの裁量で企業と付き合う(務める)付き合い方があっても構わないと思う。GDPが世界で何番、そんな時代がどれほど人間の生活を味気ないものにし、個人の生活意識をザラツカセテきたことか。ともあれ、これまでに通用していた「理屈」「常識」が覆されようとしているのは、時代の必然でもあるように、ぼくには思われます。他人の倍も三倍も栄養を取る必要なはないのですよ。「三人前も食える人は偉いか?」
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参考 ★「蛞蝓(なめくじ)にも角(つの)」 ★「匹夫も志を奪うべからず」 ★「一寸の虫にも五分の魂」 ★「針は小さくても呑まれぬ」 ★「山椒は小粒でもぴりりと辛い」 ★「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」 ★「The best things come in small packages.」★ 「六分の侠気、四分の熱」etc.
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