⁂ 週初に愚考する(113) 親父は高知県の生まれでした。若くして京都に出てきて仕事(日本刺繍)に就いた。その傍ら、作品を制作し、いくつもの顕彰を受けていた。彼は自分のことを含めて、過去(昔)のことは全く語らなかった。父についていくばくかの知識をぼくが持ったのは母から聞いたからでした。無類の酒好きで、いわば「斗酒なお辞せず」を地でいっていたと思う。ゆっくりと話をしたこともなく、ぼくにはなかなかなじめない人だったと、今からなら考えられる。ぼくは小さいなりに頑固な子だったから、性格は相似ていたのだ。親父に初めて会ったのは京都に来る時だったから、昭和28年か29年。記憶はあいまいで、調べればわかることだが、あいまいな通りに生きてきた。十歳前に初対面。以来、ぼくは高校を卒業すると同時に東京に出ましたから、同じ屋根の下暮らしは十年に満たなかったでしょう。父は、今からすれば早く、若くしてといいたい、八十歳前に亡くなった。おそらく「肝硬変」だったと思う。父の思い出は極めて数少なく、亡くなった後は、しばしば「もっと話をしておけば…」「おふくろから聞いておくべきだった」などと後悔もしているのです。
ペギー葉山という歌手が歌って、それこそ爆発的にはやったのが「南国土佐を後にして」でした。昭和34年でしたから、上京後五年ほど経過していたと思う。この曲を、父は酒を呑むと、いつも口ずさんでいました。珍しい光景だった。やがて、それは事あるごとに、酒席の定番となった。高知県出身だから「土佐生(とさお)」と名付けられた、その父がこんなに「南国土佐を…」を謳うのは、今なら十分にわかる気がしている。「望郷」「懐旧」、あるいは「亡郷の念」だったかもしれませんが、その理由をぼくは尋ねなかった。親元を離れてから、父の存在を冷静に評価できるようになったと思う。「名を惜しむ」などということは微塵も眼中になかったでしょう。ひたすら仕事に専心・集中して、心身の均衡を保つために大酒を吞む、そんな生き方を、それこそ地中深く根を下ろしたように、微塵も揺れることなく生き切った人ではなかったか。(こんなところで書くべきではないが、仕事関係の仲間から「人間国宝(無形文化財)」に是非とも」という話が持ち上がったこともあったようだが、彼は一切応じなかったと、後から(誰からか)聞いた。つまらないこと(冗談)と、彼は思っていたのでしょう。
(余話 この歌がペギー葉山さんに振られた時、彼女は「いやです、こんな歌(「品のない」とは言わなかったでしょう)は自分には合わないと断った」そうです。洋楽を謳い、スマートな都会風を看板にしていたのですから、当然だったでしょう。しかし、どうあれ、彼女は歌いました。なにが彼女を動かしたのか、本日は書けませんが)
地位も名誉も、そんなものは何の足しにもならない、ひたすら仕事に専念、好んで酒に溺れるような(晩年は、ことにそうだったと思う)、そんな「生き方」を遠くから見ていて、ぼくは感じるところが多くあったと思っている。「頑固」というのか、土佐弁でいう「いごっそう」だったのでしょう。ぼくにはそれを説明することはできませんが、とにかく「頑固一徹」「いっこくもの」といわれるほどの「意固地」なところもあった。親父の実家は、山内(掛川)ではなく、間違いなしに「一両具足」の方だったでしょう。酔うと、きっと坂本龍馬を口にしていたが、その親父が事あるごとに、酒が入ると「南国土佐を…」を、あまり上手ではなかった、口遊(ずさ)むのですから、ぼくは不思議でならなかったし、「懐旧の情」の深さばかりを思ったのでした。兄貴は、ぼくとは全く違う親父との付き合いがあったから、訊いてみたい気もする。酔うと、華僑のことなど、それなりに話していたが、ぼくは酒の席は嫌だった傍には寄らなかった。
◎ 一両具足 (いちりょう‐ぐそくイチリャウ‥)【一領具足】=〘 名詞 〙 戦国時代、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)のころから土佐国(高知県)に見られた下級の在郷家臣。後には土佐藩郷士の異称。平時は農耕に従事するが、有時の際には直ちに軍務につくことを義務づけられ、その家格を誇りにした。(精選版日本国語大辞典)
以上は秘すべき些事、個人の思い草で、本日の主題は「歌に歴史あり」 ということでした。ぼくは歌謡曲は大好きですが、私情や私情の縺(もつ)れ、あるいは惚れた張れた、死ぬほど愛して、捨てないで、などという「男と女の世界」を謳ったものは、ほとんど嫌いぬいている。どこかで触れましたが、その歌には「本物の歴史」が隠されている、そんな歌が好きでした。数は圧倒的に少ないでしょうが、これまでに挙げたものの1、2を出せば「長崎物語(じゃがたらお春)異人人との間で生まれたハーフ)」「異国の丘(日中戦争)」「星の流れに(敗戦後の生き地獄)」などなど。この国や社会の歴史に翻弄されながら、なお生きていこうとする無辜の民の、修羅の世界を衝いた、そんな流行歌が好きでした。
この「南国土佐を後にして」には、ペギーさんが歌うより先に「前史」(早くから「既知の事実」とされていた)があったということ、その「前史」を抜きにしても「望郷の歌」としてはいい曲だと思いますが、少なくとも20年以上の前史の大半は「日中戦争」のさなかの出来事でしたから、その余韻は戦後に作られた曲にも、換骨奪胎されたとはいえ、その雰囲気や情感は、少なからず影響していたと思う。「夏は来ぬ」の歌詞の一部(「賤の女」が「早乙女」に)が、元歌の作詞家によって替えられたことにぼくは長く異論を持ち続けているのも、同じ理由です。本の歌があって、初めてそれをベースにした曲が生まれるのでしょうが、「お里が知れる」「火の元」は隠せないということはいつだって起こりうるのです。ここでは詳しく述べませんが、唱歌には、特に戦前・戦中・戦後を一貫して「同じ歌詞」でというものがほとんどでしょうが、数ある唱歌の中には、恣意的に(軍国主義を謳歌する・煽るような)、たくさんの「歌詞」が変えられ、何の説明(歴史)もなく、戦後にも歌われて来ました。ぼくの思いからすれば「歴史の改竄(かいざん)」「偽造」でしょう。「知らぬが仏」と謳っていいはずもないと思わないでしょうか。「蛍の光」はその代表格。軍歌を平和の歌に替えるのは、それこそ「歴史の偽造」に他ならないでしょう。
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以下、少し長くなりますが、ご当地・高知新聞の昨日付記事を引用しておきます。果たして親父はこの歌の経てきた歴史を知っていただろうか、ということがとても気になります。おそらく知らなかったと思うし、そうであれば、それはそれで幸いだった言う気もします。「戦争」というものは、惨(むご)いものだと、死ぬまでぼくは叫ぶでしょう。こんな些細な、一曲の流行歌にまつわる歴史の断片においても、書くべき事柄は膨大です。「埋もれた歌には、埋もれた歴史あり」、そんな主題を若い人たちが掘り起こしてくださるといいんですがねえ。一人でも多くの人が、愚かしい、惨(むご)たらしい「戦争」を考えるためにも、です。(この「南国土佐を…」のように、戦地。戦場で歌われた歌は限りなくあったと思う。姿かたちを変えて、敗戦後にも歌い継がれてきたのは、その中のごくわずかだと思われます。とにかく、「戦争」はいやだな)(このテーマに関してさらに書くべき事柄がありますが、本日はここまでにしておきます)(それにしても、駄文がだんだんと「長く長くなる」のはどうしてでしょうか)
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「南国土佐を後にして」新潟に原作者を名乗る男性が!? 日中戦争の戦地で作る 鯨部隊と同じ望郷の歌【なるほど!こうち取材班】
ペギー葉山さんが歌った「南国土佐を後にして」といえば、武政英策さんが採譜し、手を加えて大ヒットした歌謡曲だ。だが、新潟県に、その歌の原作者を名乗る男性がいた。元音楽教諭の故・植木周三さん。生前、「日中戦争中に戦友を癒やそうと作った」と、地元紙の新潟日報に語っていた。原曲は、高知の「鯨部隊」による望郷の歌「南国節」のはずだが…。同紙の協力を得て、「なるほど!こうち取材班」(なるこ取材班)が調べてみました/植木さんは新潟県妙高市出身。地元中学でバイオリンを始め、東京音楽学校(現東京芸大)で学んだ。日中戦争では、新潟出身者の高田歩兵第58連隊に所属し、中国やスマトラ島を転戦。1947年の復員後は、70年まで高校の音楽教諭を務めた。/戦中には戦友を励ます曲や鎮魂曲を作るなどした。スマトラでは地元で手に入れたバイオリンを弾くなどし、新潟では「戦場のバイオリニスト」と呼ばれているという。
新潟日報に、「南国土佐―」の原作者だと語ったのは戦後50年の95年、87歳の時。日中戦争2年目の38年5月、新城口という集落で「敵の夜襲から身を守るため寝られず、憔悴(しょうすい)する隊員たち」を元気づけようと、即興で作ったという。/題名は「江北陣中の一夜、想(おも)いはめぐる」で、「新城口節(しんじょうこうぶし)」の名で愛唱されるようになったという。/歌は「♪ながらく ごぶさたしましたが うちじゃ かあさん たっしゃでいてか」と始まり、古里の妻子を思う詞などが続く。/95年に、地元ラジオ番組で植木さんがバイオリンで奏でた同曲を聞くと、確かに同じような旋律だった。(左「1995年、自宅で愛用のバイオリンを弾く生前の植木周三さん(新潟日報提供)」)
「南国土佐―」は、武政さんが戦後、高知の酒場で復員兵が歌っていた南国節を採譜。これを元に、「中支へ来てから幾歳(いくとせ)ぞ」「月の露営でたき火を囲み」などの歌詞を戦時色を消すように変え、前奏や間奏を付けた。/53年、高知の歌手がレコード化した際には、武政さんは補作編曲者を名乗り、わざわざ「原作は鯨部隊の歌」との断り書きも入れている。/曲は58年、NHK高知放送局の開局記念番組でペギーさんが披露し、翌年にはレコード化されて爆発的ヒットとなった。/この時も「原作者」を名乗る元隊員が複数現れ、裁判に発展。かつての上官の仲介で「原作は鯨部隊」で落ち着いた。後に、日本音楽著作権協会(JASRAC)は武政さんを著作権者、作詞作曲者と認めた。
江北陣中の一夜 想いはめぐる(歌詞) 1、ながらく ごぶさたしましたが うちじゃ かあさん たっしゃでいてか たたかい やんで 夕日がおちりゃ くさの根 まくらに 想いはめぐる 2、いななく駒に 夢さまされりゃ 露おく夜空の 星影寒い 昔かあさん 風呂たきながら あれは北斗よ ひときわ 目立つ 3、軍刀握れば かあさん昔 親にてむかぇや 不幸の極み 先祖の墓前に腹かき切れと その太刀 今は 皇国を護る 4、嬢や父さん 名誉の戦士 明日の戦で 帰らぬとても 泣くな かあさんの 云うこときいて 立派な大人になるよぅに祈る 5、父さん無事でと 朝な夕なに 神に佛に 祈るか妻子 おかげで未まだ 傷さえ負えず 雨の日雪の日 元気でいるよ 6、時は過ぎゆく 時計はきざむ 前進命令 あと きくばくぞ 軍刀引き寄せ 敵空にらみゃ 明けの明星 あの下敵の陣
植木さんの三女の田中幸子さん(86)=新潟市=は「私が口ずさんだのを聞いて、父は歌の存在を知った。それで『俺の曲に似ているな』と」。/最初は静観していたが、地元の戦友に「なぜ黙っているのか。自分たちが裁判で証言する」と諭され60年、高知へ。武政さんは「私は兵隊が歌っていたのを採譜しただけ。植木さんのものと、私の口からは言えない」と答えたという。/戦後50年(95年6月)、植木さんは新潟日報の取材に、こうした経緯を語り「証拠品もない。金や権利がほしかったわけではない」とする。では、なぜ名乗りを挙げたのか。「戦友の心に生き続けるはずの歌が、戦争に関係のない人(武政氏)の作品になっては、あの戦争は何だったのかということになる」と語っていた。/武政さんは79年、本紙連載で、著作権問題に「へきえきとさせられた」と振り返り、「埋もれようとした歌が私の手で生き返り、土佐の歌として広がれば音楽家の本望」と書き残している。/植木さんの三女、幸子さんは本紙に「父は武政さんを悪く言うつもりはなかった。鎮魂の思いを受け止めてほしいとの気持ちだったと思う」と語り、「『高知の兵隊も曲に望郷の歌詞を乗せた。みんな同じだった』と語っていた」と明かしてくれた。/戦後80年が過ぎた今も、幸子さんは時折、父が作った「新城口節」を口ずさむという。(村瀬佐保)(高知新聞・2026/04/04)
(⁂ ペギー葉山/南国土佐を後にして: https://www.youtube.com/watch?v=sMrd02ncmOY ) (⁂ よさこいと兵隊 兵隊ソングを歌う緑咲香澄): https://www.youtube.com/watch?v=NIU_1hMK9XE ) (⁂ FORESTA : 南国土佐を後にして: https://www.youtube.com/watch?v=DK_3__Rjxdw&list=RDDK_3__Rjxdw&start_radio=1 )
(余計なことを FORESTA (フォレスタ)のみなさんは、この歌が、はじめに、どこで、誰によって歌われ、どのようにして歌い継がれ、そしてペギー葉山さんのところにバトンが届いたということをご存じでしょうか。ご当人たちに窺わないとわからないことですが、もしその「前史」を知らないままで歌っておられたなら、いろいろな意味で、ぼくにはとても残酷な行い(仕打ち)だと思われてきます。気の毒というか、可愛そうというか。もちろん、知っておられたとぼくは思って聞きますが、それにしても、こんなに美しく・清潔に歌っていいんですかと、ぼくは尋ねてみたいですね。いずれにしても、歴史(物事の成り立ち)を知ると知らないでは大違いだということです。この社会の「学校教育」は自らの歴史を粗末にしすぎていませんかと、ぼくは溜め息をつく。歴史忘れと歴史の捏造は、怖いですね)
◎ ペギー葉山 (1933-2017) 昭和後期-平成時代の歌手。昭和8年12月9日生まれ。昭和26年ジャズバンド渡辺弘とスターダスターズの専属歌手となり,翌年「ドミノ」でレコードデビュー。34年NHK高知放送局の開局記念でうたった「南国土佐を後にして」が大ヒット。以後「学生時代」「ドレミの歌」「ラ・ノビア」などをヒットさせる。平成5年芸術選奨文部大臣賞。19年日本歌手協会会長。夫は俳優根上淳本名森不二夫)。東京出身。青山学院女子高等部卒。本名は森シゲ子。(デジタル版日本人名事典+Plus)
◎ 吉田正 [生]1921.1.20. 茨城,日立 [没]1998.6.10. 東京 作曲家。日立工業専修学校卒。1942年徴兵され中国東北部へ行き,演習中に『昨日も今日も』を作詞・作曲した。戦後シベリアに抑留され 1948年帰国。『昨日も今日も』に別の詞がついて,自分の帰国より前に『異国の丘』となって流行していたことを知る 。この作曲者として認定され,1949年ビクター専属の作曲家となる。以後 1958年『有楽町で逢いましょう』,1960年『潮来笠(いたこがさ)』,1962年『いつでも夢を』など数多くの流行歌を生んだ。また「吉田学校」といわれるほど多くのすぐれた新人を育てた。生涯を通じて 2000曲以上の作品を残した。日本作曲家協会会長,日本音楽著作権協会会長をつとめ,1982年には紫綬褒章を受章。没後,国民栄誉賞が贈られた。(ブリタニカ国際大百科事典)
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上の高知新聞の記事のもとになった新潟日報の記事です。あわせて一読していただきたいと、煩をいとわず引用しました。
[戦後80年]音楽は敵味方なく人をつなぐ…戦場のバイオリニスト・故植木周三さん(妙高市出身)、波瀾万丈の人生とは 戦時中、戦場でバイオリンを奏で、部隊を励ました異色の兵士がいた。妙高市出身で1995年に亡くなった植木周三さん。終戦後の捕虜生活では演奏を通じて米軍と交流し、復員後は音楽教師として子どもたちを教え、希望を与えた。「音楽は敵味方なく人と人をつなぐ力がある」と語り、戦争の愚かさを伝えた。/1908年に中頸城郡和田村(現上越市、妙高市)に生まれた。旧制高田中学校(現高田高校)在学時にバイオリンに興味を持ち、辞書を買うためにもらったお金で購入。父親は怒らず支援した。/練習に打ち込み、「『カラスの鳴かない日はあっても、植木のバイオリンを聞かない日はない』と言われたそうです」と、三女の田中幸子さん(85)=新潟市西区=は話す。卒業後、高田師範学校を3カ月で辞め、東京音楽学校(現東京芸術大)を受け直して入学した。/在学中に20歳となり、幹部候補生として陸軍に入隊。36年2月26日、陸軍青年将校たちのクーデター「2・26事件」が起きると、鎮圧のため、高田駅から列車で東京へと派遣された。/戦地でも、音楽を愛する気持ちを忘れなかった。日中戦争が始まった後の38年5月、高田58連隊所属として転戦した中国国内で、露営していたときに即興で曲を披露した。「敵の夜襲から身を守るため寝られず、憔悴(しょうすい)する隊員たちを元気づけたかった」という。(左写真「陸軍に所属していたころの植木周三さん」)
「江北陣中の一夜、想いはめぐる」と題した歌は、「新城口節」の名で仲間たちに歌い継がれた。戦後、ジャズ調に編曲され、「南国土佐を後にして」という曲で大ヒット。植木さんは後に原作者だと明かした。/スマトラ島パレンバンで終戦を迎えた。現地で捕虜生活を送っていた46年10月、亡くなった戦友の冥福を祈る曲「ムシ河畔の追悼」を作った。野戦病院裏の墓地で追悼式を行い、バイオリンを演奏した。植木さんの手記によると、通りかかった米軍100人が行進を止め、敬礼で見守ったという。米軍のパーティーにも呼ばれ、演奏した。/47年2月の復員後は、母校の高田高校に着任。教師が少なく、4校を掛け持ちした。高田高校は県内でも珍しい管弦楽部があり、植木さんの足跡の一つだ。
(右上写真)「植木周三氏のバイオリン 明日からの企画展を前に、三女の幸子さんが当館へ持ってきてくださいました。 戦地で作曲した曲の楽譜が見つかったとのことで、貴重なお話を聞かせていただいた上で解説パネルを付けて展示します」(新潟県立博物館・2020/06/26)(https://nbz.or.jp/?p=23981 )
音楽への強い情熱と、決して叱らない優しい人柄で親しまれた。教頭として異動することが決まると、部活の教え子たちが自宅に押しかけて「とどまってほしい」と号泣。思いを聞き入れ、異動を返上した。/植木さんは生前、「人と人、国と国が話し合えば戦争は起こらない」「戦争で残るのは家族の悲しみだけ。音楽があったからこそ人間として一番大切な思いやりや感謝の心を失わなかった」と話していたという。/植木さんは95年10月に87歳で亡くなった。バイオリンは三女の田中さんが大切に保管している。「技術を教え、人間愛を伝えた。いろんな人と絆をつくり、波瀾(はらん)万丈の人生だった」と懐かしむ。(新潟日報・2025/09/10)
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