月光桜 闇夜に白く 高知県大月町 大月町弘見の山桜「月光桜」が見頃を迎えた。小高い丘が夜闇に包まれると、光に照らされ、白く輝く幻想的な姿が来訪者を魅了している。ライトアップは7日まで(午後6時40分~9時)。
薄ピンクの花を咲かす一般的な山桜と違い、白い花が特徴。高さ13・4メートル、幹回り3・5メートル、樹齢は推定180~200年。四万十かいどう推進協議会大月支部が2006年からライトアップを行っている。
今年は例年並みの3月27日に開花し、徐々につぼみを膨らませ、今月2日に満開を迎えた。夜には写真愛好家や友人連れが続々と訪れ、「きれいやね」。四万十市の竹本真美さん(56)は「桜が1本だけなのが逆に力強さを感じる。散った花びらも照らされてきれい」と見とれていた。(田代雄人)(ヘッダー写真:見頃を迎えた月光桜(大月町弘見)(高知新聞・2026/04/02)
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「月に叢雲(むらぐも) 花に風」と申します。あるいは「好事(こうじ) 魔多し」ともいわれます。月や花の見ごろ(月見・花見)には、決まって差し障りが生じることのたとえでしょうか。このところの花見時に、「風」だけではなく「雨」まで続き、加えて気温がやたらに低い、まさしく「花冷え」を味わった方も多いのではないでしょうか。特に「桜の見ごろ」を指して「花冷え」といわれてもきました。例によって、ぼくは人込みも避けたいし、気候の穏やかでない時期には外出はしない人間ですから、今年も、本格的な「桜花爛漫」とはいかなかったと、嘆息するのではなく、各地からの桜便りの穏便(写真)を堪能しています。

拙宅の荒れた庭にも何本か植えてある「桜」が、それなりに花をつけている、それを眺めるだけでぼくは満足するのです。その昔は「花より団子」だったかもしれませんが、この老齢では「花も団子も」ではもちろんなく、「花さえあれば」という、きわめて殊勝な心境に入っています。叢(くさむら)と見まがうほどの裏庭で、花冷えの折にも、暖かい日本茶と、ケーキなどの洋菓子ではなく、桜餅や草餅をいただく、これぞまさしく「和菓子の温」ですね。
本日の「ヘッダー写真」は土佐の高知の「山桜」です。好みからすれば、ぼくは「ライトアップ」という「厚化粧」は受け入れがたい人間です。それでも、新聞で見る写真は、それはそれで「格別」ということになるでしょうか。それをわざわざ見に行きたいとは、まず思いませんね。(写真には写らないが、おそらく「月光桜」の周囲は人と車でいっぱいのことでしょうね。桜には耐えられないことですのに)
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少し時期がずれたかもしれませんが、このところ「仰げば尊し」に気を取られています。まさか、ぼくごとき人間に「懐旧の情、黙しがたく」という、後ろ向きの感情ががあるでしょうか。それはともかく、今どきの「卒業式」には、各種多彩な音楽が奏でられ、それはそれで結構でしょうけれど、あれほど長い時代、各地の学校にあって「卒業式を風靡していた」、あるいは「学校を席捲していた」、あの「別れ歌」、「 いまこそわかれめ いざさらば」と「別離」を謳い上げた「国民的唱歌」、「仰げば尊し」はどこへ行ったのかという、他人には、まことに微細な閑話に気を止めているというだけの話です。ぼくの記憶では、小学校の卒業式(昭和33年3月卒)に、この「別れ歌」が鳴りだした途端に、何人かの教師が啜(すす)り泣きをはじめ、中でも一人の女性教員が激しく嗚咽したことを鮮明に覚えています。逆にその時の気配はそれだけしか覚えていません。誰が、何が彼女を泣かせたのだろうか? ぼくはその教師に教わったことはなかったが、何が悲しくて、否、「いまこそわかれめ いざさらば」が嬉しくて泣いているのだろうと、後々までもぼくはこの光景に悩まされました。
一度だって話したことも声をかけられたこともなかった「蜂須賀先生」でした。担当教科も覚えていなかったが、泣きじゃくっていたのだけは鮮明に刻印されています。卒業式の光景で残っているのは、この蜂須賀さんの嗚咽の場面だけだったというのは、どういうわけでしょうか。よく考えても、それはぼく自身の「卒業」式だったかどうかさえはっきりしないんですが。なにしろ、もう70年ほども前の出来事でしたから。

それ以降の学校における「仰げば尊し」の記憶は皆無です。そもそも卒業式に参加していたかどうかも怪しい。生来といっていいでしょうが、ぼくは「式」と名の付くものは大嫌いです。「格・式」というくらいですから、合うはずもないということだったでしょう。「身分・家柄などによって定まっている礼儀や作法。また、身分や家柄」(デジタル大辞泉)「礼儀」「作法」が嫌いだというのではありません。
決まりきった、規則ずくめの「やり方」「お仕着せ」「窮屈」が性に合わなかったんですね。それは今もって変わらないままです。入学式も卒業式も、結婚式もお葬式も、自分から好んで出たいと思ったことは一度としてない。自慢するのではなく、ぼくの始末に負えない性分(感情)を述べているつもりです。

その「仰げば尊し」について 書くべきことは少なくなさそうですが、今はそれらに触れません。この曲に示されている「教育」「教師」「生徒」「卒業」「学校」などというそれぞれに、一つの「定型(fixed form・stereotyped)」が、国家公認のものとして、そこに刻されているという歴史の事実に注目されれば、ぼくの意図は満たされる。逆に言うなら、この「卒業ソング」がほとんどの学校から排除されるに至った理由や背景には、おそらく「学校」「教育」「教師」等に対する時代や社会の視線、感覚というものが様変わりしてきたことが、明らかに窺えると思われます。いったい、どう変わったというのでしょうか。

この唱歌が発表された1884(明治17)年、小学校就学率は右表のとおりです。割合が挙げられていますが、全国で小学校を無事に卒業するものがどれほどいたでしょうか。入学はしたけれど、就学や卒業にはさまざまな類型がありました。尋常小学校を満期で卒業した者の詳細がわかりません。極端に言うなら、通学期間が一か月でも三か月でも「卒業」を認めていた時代でした。この学校制度の就学率面における充足は20世紀(1900年代)を俟たねばならなかったのです。曲がりなりにも、就学(何日であれ、学校に行ったという事実)したという割合は、この唱歌が公刊された時期でもようやく5割でした。女子に至ってはいまだ3割台だった。「近代」は重く政治にのしかかっていたのでした。

「仰げば尊し」の導入は、いわば開店早々の国家教育体制の「就学率」向上のための促進歌としてだったともいえるでしょう。この間の経過を語ればより明らかになるのですが、面倒ですから省略します。どこかで触れている伊澤修二という学校教育の先駆的指導者の動向を見れば、とにかく学校教育制度を完成に近づけるために涙ぐましい勤勉・刻苦勉励ぶりを示していました。それを「有司専制」といったものでした。「有司」とは役人・官吏を指します。彼は明治8年米国に留学。初代文部卿森有礼の薫陶よろしく、滞米中に多くの成果を上げた、その一つが「音楽教育」でした。学校への音楽の導入(この「仰げば尊し」もその一例)に力を尽くした人でもありました。米国のある学校で、子どもが行進する際の音楽伴奏に、伊澤さんは驚いたそうです。もちろん、軍隊においても同じような事情がありました。「軍歌」の多くは「行進曲」でしたな。人間は「音楽」によって動かされるんですね。国歌然り、校歌然りで、歌によって一体化や、共同の精神が育成されると考えたのでしょう。(この伊澤さんは本邦初の「教育学」(↷)の著書を出された。ぼくは現在も所持しています。内容については、今は不問です)

制度(「学制」)開始が明治5年でしたから、とにかく、未成熟なその土台を堅固にするためにはいろいろな方面には猶予がなかった。教員養成も急がれた。伊澤氏は、滞米中にこの方面(師範学校教育)の研究に尽力もしたのだった。学校発足当時、もちろん師範学校(normal school)はなかったし、教員の資格を有する者も、当然いなかった。誤解を恐れずに言うなら、元サムライだったり、寺社の僧侶や神主など、村社会(郷土)の「知識人?」とみなされるものを教員に仕立て上げるという突貫工事だった。そこから窺えるのは「学校教師像」の設定だったでしょう。この最初期の多くの教員の持っていた印象、社会がそこから受け入れた印象、それが、いい悪いを抜きに、その後の教師像のお手本となったのでした。決して「颯爽」としたものではありませんでしたね。その雰囲気は多く、明治半ば以降の自然主義風「小説類」で示されています。
唱歌の歌詞にその意図(教師と生徒の関係)がはっきりと見て取れるとぼくは思っています。学校制度が始まっても教師の数は不足していたし、まして女性教員の数は少なくとも、男性教員の半分を超えられない事態は戦後(1945年8月以降)になっても続いていた(今だって)。(右下表は都内の一区立学校の男女教員の割合の推移です。参考までに)

そんな状況にあって、何よりも「仰げば尊し 我が師の恩」を子どもたちに実感させなければならなかったでしょう。この先は言う必要もないと思う。子どもたちが教師に対する深い尊敬心を持つような学校、教育を願望していたという、ある種の教育行政の努力の原型になるようなものがこの曲に見られないでしょうか。「仰げば尊し わが師の恩」「身をたて名をあげ やよはげめよ」「わするるま(間)ぞなき ゆくとし月」「いまこそわかれめ いざさらば」、このような歌詞に籠められたものは、『日本の教育』への期待と願望、教師への畏敬の念の涵養、そういってもいいのではないでしょうか。これは現実ではなく、「目標」であり、「願望」だったとぼくは思ってきました。今日はそれすらすっかり潰(つい)え去りましたが。当時よく使われて表現に、今なら「義務教育」というようなものに対して、「強制教育」「脅迫教育」が用いられていました。型があって、それに子どもたちをはめる教育(臣民教育)でした。
だから、あの手この手で、国民(臣民)教育の名のもとに学校は、驚くべき「国家主義」イデオロギーを民衆に注ぎ込んでも来たのでしょう。少なくとも、このような時代や事態は1960年代まで続いたとも考えられます。元来、小学校教育は女性の仕事と、米国などでは受け取られてきました。単に「母性」の発露やその必要からだけではなく、「男は外で、女は家で」、という節分・豆まき主義がまかり通って来たのがこの社会でした。「鬼(男)は外 福(女)は内」に重なる男尊女卑社会に、一種の風穴を開ける可能性を持っていたのが「女性教員」の登場だったでしょう。今でも語られる壺井榮さんの「二十四の瞳」の映画化などもまた、大きな役割を果たしたといえます。教師になるきっかけを、この映画や小説(原作)に求める女性が多く出てきました。。主役の「凸ちゃん(高峰秀子)」の面目躍如ともいえる映画(1954年公開))でしたね。

まだまだ言い足りないのを承知で、本日はここまで。この唱歌は「小学校卒業」用だったという証拠はたくさんありますね。まず「「仰げば」というのですから、小学生向き。「わが師の恩」に関しても、ようやく小学生に通じるかどうか。要するに、日本は近代国家という旗揚げをしたばかりで、ほとんど何一つ自前のものを「学校教育」では備えていなかった時代。(もちろん、藩校や郷学などはありましたが、近代化への道を走るための制度設計を具現化するために必死だった時代。官も民も、中央も地方も、大人も子どもも、男も女も、老いも若きも、それぞれがひたむきに「坂の上の雲」を追っかけていた時代、さぞかし、大変なものだったと思うのですが、今日は全くことなった意味で、「坂の下の穴倉」に突進している感も、ぼくにはなくはありません。およそ百五十年の隔たりにあって、遥かの昔の「学校」「教師」「子ども」などを、卒業という、一区切りを通して考えようとしたのでした。お粗末、乞う、寛恕。
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◎ 「あおげば尊し」= 1884(明治17)年に編纂(へんさん)された「小学唱歌集 第三編」にある歌の一つ。歌詞内容から、「蛍の光」と並んで主に卒業式で歌われてきた。作詞・作曲については長らく不詳とされてきたが、英語学、英米民謡などを専門とする一橋大学名誉教授の桜井雅人が、2011年1月24日までに原曲と見られる歌の楽譜をネット上で発見した。それは、1871年にアメリカで出版された「THE SONG ECHO」という本に収録された「SONG FOR THE CLOSE OF SCHOOL」(卒業の歌)という4部合唱の曲で、メロディーから記号の位置まで「あおげば尊し」と一致していた。作詞はT.H.ブロスナン、作曲はH.N.Dとなっているがいずれも不詳。しかし、この本はほとんどがオリジナル作品を採用しているところから、原曲と見て間違いないという。唱歌は、1879(明治12)年、文部省に設置された「音楽取調掛(おんがくとりしらべががり)」の初代所長伊沢修二(1851~1917)が、初等教育において西洋音楽を学ばせるために編纂したもの。メロディーは当時アメリカで広まっていたスコットランド、アイルランド、ドイツなどの民謡や賛美歌などから日本人に親しみやすいものを選び、これに日本語の歌詞をつけたものが多く、「蛍の光」はスコットランド民謡、「庭の千草」はアイルランド民謡。中にはモーツァルトやウェルナー、ジャン=ジャック・ルソーの曲もある。(imidas・イミダス編・2011/02)

◎ 伊沢修二(いざわしゅうじ)(1851―1917)= 明治時代の文部官僚、国家教育の主唱者。号楽石(らくせき)。嘉永(かえい)4年6月29日信濃国(しなののくに)高遠(たかとお)藩士の家に生まれる。明治維新後、高遠藩貢進生として大学南校に入学、ついで文部省に出仕、1875年(明治8)師範学科取り調べのためアメリカに留学。ブリッジウォーター師範学校、ハーバード大学に学び、またグラハム・ベルに視話法を、メーソンに音楽を学ぶ。1878年帰国。以後文部官僚として近代公教育体制の確立に努めた。とくに師範教育、音楽教育、特殊教育、体操教育の創始・発展に多大の貢献をなし、教科書編纂(へんさん)にも尽力した。また国家教育の実現を主唱して、1890年国家教育社を創設し、翌1891年文部省を退官したが、以後国立教育期成同盟会(1892)、学制研究会(1894)を次々と組織、民間教育運動の中心人物として活躍。また初代台湾学務部長として植民地教育の創始にあたり、晩年には楽石社を創立して吃音(きつおん)矯正事業を行った。高等教育会議議員、貴族院議員。大正6年5月3日没。郷里の高遠公園内に記念碑がある。(日本大百科事典)

一、仰げば尊し わが師の恩
教え の庭にも はやいくとせ
おもえばいと疾し このとし月
いまこそわかれめ いざさらば
二、互いにむつみし 日ごろの恩
わかるる後にも やよわするな
身をたて名をあげ やよはげめよ
いまこそわかれめ いざさらば
三、身をたて名をあげ やよはげめよ
ほたるのともし火 つむ白雪
わするるまぞなき ゆくとし月
いまこそわかれめ いざさらば

1.
We part today to meet, perchance,
Till God shall call us home;
And from this room we wander forth,
Alone, alone to roam.
And friends we've known in childhood's days
May live but in the past,
But in the realms of light and love
May we all meet at last.
2.
Farewell old room, within thy walls
No more with joy we'll meet;
Nor voices join in morning song,
Nor ev'ning hymn repeat.
But when in future years we dream
Of scenes of love and truth,
Our fondest tho'ts will be of thee,
The school-room of our youth.
3.
Farewell to thee we loved so well,
Farewell our schoolmates dear;
The tie is rent that linked our souls
In happy union here.
Our hands are clasped, our hearts are full,
And tears bedew each eye;
Ah, 'tis a time for fond regrets,
When school-mates say "Good Bye"
(①仰げば尊し:https://www.youtube.com/watch?v=ERuAlRzITX0&list=RDERuAlRzITX0&start_radio=1) (②Song for the Close of School :https://www.youtube.com/watch?v=us1O-9lnLnQ&list=RDus1O-9lnLnQ&start_radio=1) (③Song for the close of school:https://www.youtube.com/watch?v=pQ6UhM5m5mc&list=RDpQ6UhM5m5mc&start_radio=1
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《卒業式でなに歌った? かつての定番は「仰げば尊し」、最近は… 人気ドラマの影響も 小中学校の卒業式でどんな歌を歌いましたか? 浜野さんの投稿を受け、本紙は2月22~25日、ユースクに登録してくれた友だちにアンケートを実施した。中日新聞社内のさまざまな年代層から聞いた「卒業式ソング」14曲をピックアップ。「その他」も含めて選んでもらう形式で、複数回答も可能とした。/集まった1468件の回答を分析した結果、40代以上では「仰げば尊し」が最も多く、中でも50代以上は約9割が歌っていた。50代以上は7割超が「蛍の光」も歌っており、彼らが児童生徒だった1990年代半ばまではこの2曲が「定番」だったとみられる。/一方、30代以下では「旅立ちの日に」が最も多く、特に20代は9割が歌っていた。10代の14%、20代の23%、30代の51%が「仰げば尊し」を歌っており、全く歌われなくなったわけではないことも判明。10代は2位に6曲、3位に3曲が並び、曲目が多様化していることも浮かび上がった》(中日新聞・2024年3月11日)
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