Being carefree endangers the planet.

【金口木舌】最強のバディの行方 3月もあと1週間余となり、人事異動や定年退職など別れの季節を迎えた。送別会でワイワイしたり、しんみりしたり。苦楽を共にした仲間だからこそ、本音もこぼれる▼この人の発言は本音か。日米首脳会談に臨んだ高市首相だ。トランプ大統領をファーストネームで呼び「世界に平和をもたらせるのは、ドナルドだけ」と持ち上げた。会談後の夕食会では「われわれは最強のバディ(相棒)だ」とも。聞いていて恥ずかしい▼思い浮かぶのはドイツのメルケル元首相。2017年、1期目のトランプ氏との初会談で移民・難民政策などで対立があらわになった。報道陣に握手するよう求められ、手を差し出したもののトランプ氏に無視された▼「アメリカ・ファースト」を掲げ、国際協調主義に背を向けるトランプ氏。メルケル氏の評価は厳しい。昨年発刊の回顧録で「つながり合う世界に向けた協力は、トランプ相手では望めない」と断じた▼トランプ氏との外交交渉は一筋縄ではいかない。高市首相が言う「最強のバディ」は国民をどこへ連れて行くのか。トランプ氏の言動を見る限り、「平和」ではなそうだ。(琉球新報・2026/03/22)

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#⃣At the beginning of the week, I’m thinking foolishly.(111)

Many Japanese media outlets reported the Japan-U.S. summit as a great success. However, to me, it was nothing more than a shameful example of “flattery diplomacy.” The most blatant example of this flattery was the Prime Minister’s “sycophancy” and “various expressions (fake smiles).” The “hugs” and “Donald” were also forms of flattery. I have never seen or heard of such a ridiculous diplomatic scene as openly and familiarly calling a foreign head of state by his “first name.” It was a manifestation of the “servility of the weak.”

Her inability to respond to the fact that the “attack on Pearl Harbor” led to the “atomic bombings” was probably due to her lack of historical awareness. She may not even have known that “Japan and America were at war in the past.” That’s why she had no choice but to cover it up with her usual “various expressions” and “fake smiles.” From what I saw on video, the Prime Minister was “truly hideous.” These “servile negotiations” will likely continue. In the end, even if they shaved off not only their nose hair but also their butt hair, would the Japanese government and its cronies still call it a “great success”?

In the United States, Japan is perceived as a nation that will pay if threatened. No matter how unreasonable the demands, Japan will not defy the US. Japan’s reputation in America is far less favorable than we might imagine; it is very low and certainly not seen as an “ally.” We must not forget that we are seen as the people of a “servile country.” This kind of treatment has happened many times since the Meiji era.(satoshi yamano)             

(⁂ https://www.bloomberg.com/jp/news/videos/2026-03-20/TC6WGGKGZANC00?srnd=jp-homepage

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【ワシントン=野一色遥花】トランプ米政権は24日、ホワイトハウスに新しく並べた歴代大統領の肖像を披露した。バイデン前大統領は顔写真でなく、本人のサインを複製するために使うオートペン(署名機)の写真を掲げた。/トランプ大統領はバイデン氏が認知力低下を隠蔽していた証拠だとして、署名機の利用を非難していた。(以下略)(左写真:日経新聞・2025年9月25日)

 昨年9月に新しくなった歴代大統領の壁に掲示された肖像写真の「バイデン大統領」分が、トランプの悪意・「破廉恥行為」によって「署名機」になっているという、現大統領の「侮辱」(バイデン氏と「認知症」患者への)の証拠写真に対面して、日本の首相もまた「嘲笑」した一瞬。この動画も、米国はもちろんのこと、世界に発信されて、大きな「驚き」「非難」「嘲笑」を浴びているといいます。首相自身もまた、T 大統領と同じ穴の「悪者」で、前首相を「こき下ろし」「侮辱」することを、国内の大きな新聞社(メディア)を使って(共謀して)やったばかりだったから、彼女は大いに「相棒」に同調した、そんな「差別主義者」「独善気取り」を圧倒的に支持した有権者ともどもに、その恐るべき「能天気(Carefree)」ぶりがはしなくも映像に映し出されていたと思う。

 少し気を付けて考えれば、同時刻にも、ガザで、イランで、ウクライナで、その他の多くの地域で、「無辜(むこ)の民」(innocent people)」が、あたかも「虫けら」のように爆殺されているのです、しかもその殺人行為・戦争犯罪の一方の「主」の面前で、数々の「嬌態」をさらしていた(とぼくは受け止め、眼底に焼き付けている)「日本国首相」は、間違いなく戦争の加担者(共犯者・accomplice)でもある、といってみたくなる。平和を願う世界中の人々に、消し難い汚点を残してしまった「(racistたちの)首脳会談」だった。直ちに戦争行為をやめるべきだ。そして、理由なき「戦死」を強いられた「犠牲者(Victims)」に哀悼の心を伝えたい。

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「傲慢内政」と「卑屈外交」の不埒

【新生面】最高の相棒 劇画『ゴルゴ13』の主人公デューク東郷は握手を嫌う。「利き腕を人に預けるほど、俺は自信家じゃない」。謎と闇に満ちた「超A級」狙撃手だけに、そう簡単には懐に入らせない。的を外さぬ仕事は用心深さがあってこそ▼握手を交わすより先に相手の胸に飛び込むなんて、ちょっと芝居じみていた。せりふを当てるなら「会いたかったわ、ドナルド」「サナエ、私もだよ」。高市早苗首相が就任後初めて訪米し、トランプ大統領と5カ月ぶりに再会した▼2月、衆院選の遊説中に握手で右手を痛めた。それ以来着けていた黒いサポーターを外し、会談に臨んだ。二人の握手が「がっちり」というより「そっと」だったのは、トランプ流の気遣いだったか。親密な関係はさらに深まったようだ▼米国とイスラエルによるイラン攻撃後、トランプ氏の首脳会談は初めて。事実上封鎖された中東ホルムズ海峡の安全確保に向け、日本が各国に先がけて無理な要求を突きつけられる事態は避けられた。首相は一安心だろう。夕食会では「最強の相棒」と自画自賛した▼トランプ氏に尋ねるのはかなわないが、ひょっとして「サナエ推し」かとも思わせる。わが物顔で国際秩序を揺さぶり、いつも口をとがらせているのに、隣にサナエがいると穏やかな大人に見えるのは気のせいか▼首相は「世界の真ん中で咲き誇る外交」を掲げる。トランプ氏の懐に入るばかりでは足りず、これからが正念場。世界をゆがめる相棒をどうなだめ、いさめるか。用心深くいきたい。(熊本日日新聞・2026/03/21)

(ヘッダー写真「トランプ米大統領(右)の訪日時、横須賀に停泊中の米原子力空母『ジョージ・ワシントン』上の首相」(2025年10月)(註 これは他国の艦船上に身をあずけた、一国の首相の「媚態・嬌態(coquetry)」「醜悪な姿態(hideous appearance)」ではないかと思いました。しかも米軍基地内の見たくもない姿態でした。同じ人物の国会における他党議員への答弁は、「傲慢(arrogance)」「無礼」(rudeness)」そのものだったと思うから、なおさらの「媚態」に反吐(へど)が出ました。国内における態度が横柄で無作法であるに反して、他国の元首には「嬌態」を惜しげもなくさらしている。これを何といえばいいのか。ぼくは「政治(politics)」の初歩・初心は「丁寧さ(polite)」であると学んだものです。詰まりは<politics>も<polite>も根は同じところから育つという意味です。もちろん<politeness>には「おざなり」という含意があることも知っています。しかし、元来は他者への振る舞いにおいて「丁寧」「礼節」があって初めて「政治」の意味や価値が認められると考えています)

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 《アメリカのドナルド・トランプ大統領は19日、日本の高市早苗首相と米ホワイトハウスで会談した。/大統領執務室で行われた会談の中で、トランプ氏は記者から、なぜイラン攻撃の計画を同盟国に伝えなかったのかと質問された。/これに対しトランプ氏は、第2次世界大戦中の日本の真珠湾攻撃に言及し、「不意打ちのことは、日本が一番よく知っているだろう」と述べた。/米・イスラエルによるイラン攻撃後、イランが石油輸送の要衝ホルムス海峡を事実上封鎖していることから、トランプ氏は日本などを複数の同盟国を名指しして、海峡警護の艦船派遣を要請していた。/これに対し、日本はイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オランダと共同で19日、イランが船舶を攻撃しているホルムズ海峡について、「安全な航行の確保を目的とした適切な取り組みに貢献する用意がある」との声明を発表した。 トランプ氏はホワイトハウスの執務室で高市氏と並んで記者団に向かった際、日本は「プレートの前に進んでいる」と発言。これは野球で打者が打席に入る様子などからの慣用句で、日本が進んで事態に取り組んでいると評価した。具体的な内容は示さなかった。/高市首相は「中東情勢も含め、世界中の安全保障環境が厳しい状況にある。世界経済もかなり厳しい影響を受けつつある」と述べた上で、「世界中に平和と繁栄をもたらせるのはドナルドだけだ。私は諸外国に働きかけて、しっかりと応援したい」と述べた》(BBC NEWS JAPAN・2026/03/20)(https://www.bbc.com/japanese/articles/cpqxjnq9j4vo

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 首相をはじめとする日本の政府関係者や多くのメディアが関心を持って見守る中、アメリカ大統領の「真珠湾攻撃」発言は極めて侮蔑的かつ日本・日本人への愚弄を込めて発せられた。予想通りに、多くの参加者から哄笑・失笑を誘い、大統領は満足したでしょう。これを「侮辱」「屈辱」と受け止めた日本の政府関係者はいなかったのだろうか?首相の面前でなされた「国辱もの」の寸劇に、首相は一言も発することができなかったのは、彼女が「真珠湾攻撃」というものがなんであったかという「歴史認識」をまったく欠いていたからです。歴史に対する無知・蒙昧・無関心ぶりは、彼女の十八番(売り)であります。これは別の意味で、日本の歴史とそこに登場する人間(我が国人)への「侮辱」を表しているというべきでしょう。一国の総理を「手籠め」「凌辱」するかのごとき相手国大統領と、その手負いの首相が自国民を「貶めて」なお恬として恥じない、一場の狂言を見ていて、これは喜劇可否激化と、ぼくは言いようのない辱めを覚えた次第でした。

 我が国の存立危機事態(A situation threatening the very existence of our nation)」とは、この程度の愚昧な人物が首相であること、そのことがもたらす「亡国」への危機を指すでしょう。今次の「国辱外交(national humiliation diplomacy)」を持ち上げて、したり顔で政治を語る輩たちもまた、愚昧教の信者だと言っておきます。

 加えて言っておかねばならないのは、ぼくたちが考えているように、海外のメディアは「極東小島の首相」の訪米と日米会談に関して、幸か不幸か、ほとんどまともな関心を持っていないことは、忘れるべきではない。初めて日本に生まれた女性首相が、怪しげな「英語」(だろうと、現地ではいわれている)を操り、米大統領を「煙に巻いたとか、まかなかったとか」、そんなことはどうでもいいじゃないか。それよりも国債や自国通貨の値打ちにこそ大きな関心を寄せている風情です。(弱小国」の首脳などにかまけておられぬというのも一理あるでしょう。

 それにしても、いつまで続けるのか「強圧内政姿勢」と「卑屈外交戦術」。遠からず、自己分裂は咲けらない運命にあると思う。ようするに、「ハッタリ」では当たり前の感覚の人間には通じないということ。反対に、当たり前でない人間の支持を得ているといったところで、そんなものは「春先の通り雪」であって、「犬の小便」で跡形もなく溶けるでしょうよ。

 飛行機に乗る時までつけていた黒のサポーター、一夜明けて、みられなくなっていたのは結構なことと思う。アメリカには名医がいるのか、それともサポーターはファッションだったのか。彼女にはこれまでにもしばしばの「仮病(Feigning illness)」という病症・病歴がありましたから。快癒されたのなら幸いだし、帰国時にはまた復旧しているのかもしれませんが。多くの報道では「米国の無理難題を交わした」とか言って「褒めそやす」お銚子報道がありますが、なんということはありません。訪米前に「無理難題」に「過分の応答」を差し出し済みだったと、なぜだか誰も、その経過すら報じません。米国大統領の日本侮辱発言の端々に「過分の贈り物」が訪米前に、日本国首相から届いたといっているではないですか。「事実上封鎖された中東ホルムズ海峡の安全確保に向け、日本が各国に先がけて無理な要求を突きつけられる事態は避けられた。首相は一安心だろう」(「新生面」)とコラム氏は能天気なことを書いておられる。

 こんな手合いばかりが、結局は新聞社に残ってしまったのではないかと、ぼくは残念に思う。「やれることとやれないことがある」と大統領にきっぱり報告するといったから、「日本は NATO より大事な同盟国」とい大統領はリップサービスをしたのだ。前例はある。(調査・研究」のために海上自衛隊の船を出した。詳細は避けるが、この日本の状況で、狂人大統領の要求を拒絶するはずもないし、拒絶する気もないことはわかっている。詰まりはお得意の「密約(Secret Agreement)」、これこそが「国辱外交」の肝になってきたことをどうして忘れるんですか、忘れたふりをなさるんですか。「裏書(endorsement)」された事実(証拠)はいくらでも出ていますぜ。

 確実に自衛隊は派遣されるでしょう。(もちろんすんなりとはいかないでしょうが、「数は力」です。驚くべき「屁理屈(国内向けには)」をつけて、ね。国民もまた、「騙し」「詐欺」にあっているんですけれど。それでも、「どこまでもついてきます サナエの後を」なんですかあ。こんな無様な醜態をさらし続ける「首相」を持ち上げ、忖度し、「早苗最高」といわねばならぬ「国民」もまた寂しいし悲しいですね。ぼくも好き好んでなりたいわけではありませんが、「一人の国民」です。この現実を、まともに受け止めるほかないと思っている。

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春分の日なり雨なり草の上(林翔)

                          

【小社会】花待月 今の時季にぴったりの言葉に出合った。花待月―。詩人の牧羊子さんの随筆で見つけた。さまざまな花が出番を待つ3月。寒さに耐えてきた人々も野山の彩りを待ちわびている。◆陰暦12月の異称、春待月はよく知られている。手元の辞書に花待月は載っていない。花を求める気持ちを牧さんは一言に込めたのだろう。◆きょうは「春分の日」。全国最速、16日に開花したソメイヨシノの話題には心が弾んだ。しかし、春の役者は桜だけではない。モクレン、ユキヤナギ、トサミズキなど少し背の高い樹木に加えスイセン、ビオラ、パンジーなど小さな主役も散歩の途中に見かける。◆先日訪ねた香南市の「かがみ花フェスタ」も盛況だった。チューリップの種類の多さにまず驚いた。長年行事を続けてきた地域の人の努力があってこそだろう。花の前で笑顔で写真を撮る家族連れ。見ているこちらの頬も緩んだ。◆美しい花は時に人を惑わせる。17世紀のオランダではその球根が投機の対象となった。年収の何倍もの値で取引されたこともあった。だが、大暴落して熱狂は収束する。バブル経済のはしりだ。その後何度も歴史は繰り返される。〈明日ありと思ふ心の仇(あだ)桜…〉。古歌の一節と歴史をついつい重ねてしまう。◆花待月。牧さんはこんな計画を立てた。友人を自宅に招いた手料理とお茶の小さな会。陽気の中、弾む会話と笑顔…。いろいろな花々が見守ったことだろう。(高知新聞・2026/03/20)

 本日は「彼岸の中日」です。昔、お年寄りからは「お中日」などという「粋な表現」を耳にしたことがありました。一週間ある「彼岸」の中日(なかび)。大相撲でいうなら「8日目」でしょうか。1948年までは「春季皇霊祭」といって、皇室の先祖祭り・祀りで、国民の「祭日」だった。今でも皇室ではいろいろな行事(先祖祀り)が行われるように、民間でも多くは「お墓参り」をする特異日でもあるのでしょうか。ぼくは、もう何十年も「お墓参り」をしたことがないほどに「先祖」に対する尊崇の念が欠けた人間ではあります。とは言いながら、家においてある両親の位牌(仏壇に安置)に茶菓を上げて、それこそ毎朝、「お参り(参拝)」するのが日課ですから、ある意味では、些末とはいえ、ぼくのなじんだ習慣行為といってもいいでしょうか。(ヘッダー写真はカタクリの花「長野県発信ブログ」:https://blog.nagano-ken.jp/kamiina/other/40424.html

ぼ‐さん【墓参】〘 名詞 〙 墓にもうでること。はかまいり。《 季語・秋 》◎ 墓参り〘 名詞 〙 墓所にもうでること。はかもうで。展墓。ぼさん。《 季語・秋 》(精選版 日本国語大辞典)

◎ 林翔(はやししょう)は1914年1月24日、長野県長野市に生まれた。本名は林昭である。生後10ヶ月で母と死別し、5歳まで祖母に養われた。國學院大學に進学し、在学中に能村登四郎と知り合う。登四郎とともに短歌雑誌「装填」の同人となったが、同誌の廃刊後、ともに俳句に転じた。/1939年から1982年まで旧制私立市川中学(現・市川高等学校)に勤務した。登四郎も同じ学校に勤務しており、職場でも俳句の道でも生涯の同志となった。1945年に東京大空襲を受けて市川市八幡に転居し、1979年に同市大野町に転居した/2009年11月9日、膵臓癌により死去。95歳であった。(https://www.haikudatabase.com/haijins/1824)他に、「さくら咲き心足る日の遠まわり」など。小生の後輩で、林さんの授業を経験された人が、何人かおられる。それだけでも懐かしいですね)

 それはともかく。朝からどんよりと曇り空で、今にも降り出しそうな空模様です。コラム氏が書かれている「花待月」、あってもよさそうなものですが。梅のことを「花待草」とも言うようですから、おおよその季節や、そこに漂う人の心持はわかりそうです。「春の役者は桜だけではない。モクレン、ユキヤナギ、トサミズキなど少し背の高い樹木に加えスイセン、ビオラ、パンジーなど小さな主役も散歩の途中に見かける」とコラム氏。ぼくは性分として、いわゆる草花というものをあまり好まない。しかし、季節に合わせて蕾(つぼみ)が膨らみ、やがて開花する、そのような自然の歩みは大歓迎する人間で、狭い土地でも、いくつかの植物を植えてはいます。見る分にはいいのですが、ぼくのような不精な人間には「手入れ」「世話」をすることが苦手というか、とても億劫で、その分、草花を丁寧に扱う人を見ると、無条件に尊敬してしまう。これは長く、小さいころから見ていたおふくろの影響だろうと思う。母は、実にマメに手入れを怠らず、感心するほどに草花を愛していたことがよくわかる。そうなりたいとは思うものの、なかなか母親のようにはいかないのは、どうしてだろうかと、我ながら呆れもします。

 以下、春分の日の句をいくつか。すこし意外に思ったのですが、「春分」を詠んだ句数が、予想外に多くない理由は何でしょう。それに比して「秋分」は過剰なほどにあるのです。「彼岸」の本番は秋なのだ、ということだったからでしょうか。

木々の芽に春分の日の雨軽し(市ヶ谷洋子)
春分を迎ふ花園の終夜燈(飯田蛇笏)
正午さす春分の日の花時計(松岡ひでたか)
観音のいらか見やりつ花の雲
花の雲鐘は上野か浅草か
さまざまのこと思ひ出す櫻哉
行く春や近江の人と惜しみける

 すぐ上の「四句」は言うまでもなく、芭蕉。桜よりも梅を愛したかに思われる俳聖でしたが、この桜の句も、ぼくは好んでいます。はじめの二句は深川の芭蕉庵に病臥していた際のもの。そこからは上野や浅草の遠望が利き、鐘の音も聞こえていたという。三句目は三重(藤堂家での句会)にいた折の作だという。いかにも「古人無復洛城東 今人還對落花風」「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」に通底していますね。 「遥かの昔(古人)のなじみはすでに亡く、今人もまた花びらを散らす風に相向かっている。毎年咲く花は同じ花に似ているけれど、それを愛でる人々は常に同じではないのだ」(「代悲白頭翁(白頭を悲しむ翁に代わりて)」劉廷芝、あるいは奇夷、七世紀の人の作)

 四句目は、ぼくのもっとも愛唱するものです。《先師曰く、『尚白』が難に、近江は丹波にも、行く春は行く歳にも振るべし、といへり。汝いかが聞き侍るや。」去来曰く、「尚白が難あたらず。湖水朦朧として、春を惜しむに便有るべし。殊に今日の上に侍る。」と申す。先師曰く、「しかり。古人も此の国に春を愛すること、をさをさ都におとらざるものを。」去来曰く、「此の一言心に徹す。行く歳近江にゐ給はば、いかでか此の感ましまさむ。行く春丹波にいまさば、本より此の情うかぶまじ。風光の人を感動せしむること、真なるかな。」と申す。先師曰く、「汝は去来、共に風雅を語るべきものなり。」と殊更に悦び給ひけり。》(「去来抄」)芭蕉四十七歳、元禄3年3月作。「肝胆(心の奥の奥)相照らす」というべきでしょうか。「尚白」という門人が、師匠の「行く春や」を難じた・難癖をつけたが、そうじゃないと、去来は師の作を評価するくだりです)(琵琶湖は、ぼくの曽遊(そうゆう)の地、それだけに、なおさら、この一句に想いが募ります)                

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いのちを飾り立てたり弄んだりするな

【夕歩道】
 NHKEテレ「no art、no life(ノーアート、ノーライフ)」。わずか5分間のテレビ番組だが、どの回も制作者の力がこもっている。日曜午前の放送で水曜深夜に再放送がある。
 繊細な人たちが作るアートの紹介番組。野花に顔を寄せて感嘆したり、障害のある人の施設で一心に自分の内面を見つめたり。人の価値を生産性で測ると置いてきぼりにされそうな静かな人たち。
 先日、謎の作家バンクシーの正体を特定したと海外通信社が報じた。氏についての本は、どこにでもいそうな「普通の、控えめな」英国人とかねて紹介していた。ひっそり暮らしているだろうか。(中日新聞・2026/03/18)

 何の脈絡もなく、「ノーアート、ノーライフ」と石垣りんさんの「詩」と「樹齢1200年の桜」を並べてみました。普段通りに、思いつくままです。拙宅には何本か桜の木があります。それぞれがまさにこれからだと、「蕾(つぼみ)」を膨らませている。その中で、ひときわ早く開花するのが「啓翁桜(けいおうざくら)」という品種。(ヘッダー写真。拙宅ものではありません)当地に越してきてから苗木から育てた。このところの杜撰(ずさん)な手入れ(手抜き)のせいで、かなり樹勢が衰えてきている。あまり選定したりするのは好きではないので、自然に任せるのですが、植えたところがよくなかったのかもしれません。桜花爛漫もいいでしょうが、ぼくには少しずつ成長している(「花なら蕾とか)、その経過(葉桜)を見るのが何よりです。それは人間でも同じではないでしょうか。満開(出世)が最高だという人が多いでしょう。でも、そこに至る前段(出走前)と、後段の落花(出走後)の経過をこそ見るのが、植物(競馬)好きではないかという気もしているのですね。

 右に引いた石垣さんの詩「落花」(一部)。不思議といえば、「落花」はよく使われるけれど、「散華・散花(さんげ)」はあまり見ません。当然なんですか。高橋和巳さんに同名の小説「散華」があるのは知っていましたが(未読)。「散華」とは「1 花をまいて仏に供養すること。2 四箇の法要の一。梵唄(ぼんばい)のあとにシキミの葉あるいは花を散布すること。また、紙製の蓮華の花びらを花筥(けこ)に入れ、散布すること。3 《花を散らす意から》死ぬこと。特に、若くして戦死すること。「南方洋上に—する」(デジタル大辞泉)石垣さんは「散華」という名の「戦死」の美化を忌み嫌ったのです。「おちるがいい / 花びら / 涙 / いのち / 死の灰」石垣さんは、見るからに華奢(きゃしゃ)な方だったが、その「芯」には強靭なものがあった人だと思う。強がっているのではなく、はったりでもなく、「おかしいことはおかしい」とはっきりと自分の言葉でいった人として、ぼくは尊敬しています。「桜の花びらのように」「美しく散るいのち」、しかもそれは「国のために捧げたいのち」だなどと、なんという虚飾。詭弁であろうかという思いは、ぼくにもある。

 国って、なんぼのもんです? そんなぞんざいな口をきいてみたくなります。「お国のため」「国が第一」「七生報国(しちしょうほうこく)(楠木正成の科白(せりふ)だとされます、彼はずいぶんと持ち上げられたり、踏み付けられたり。命を差し出す「主君(後醍醐天皇)」がいてこその「報恩」でしたが)」という嘘の嘘。言っている本人でさえ、そうはいっても「まずは、わが命」と信じているはず。だから軽々しく「お国のために」といえるのでしょう。「国が何より」という意味はどういうことだろうか。祖国の名誉って何ですか。

 どなたが「赤線」「青線」を引かれたか。再び石垣さんの引用です。「昔々 立身出世という言葉がありました。それはどういうことですか 意味はさっぱりわかりません」(「花のことば」)強烈な言葉の逆襲ではないでしょうか。「生きている」だけで精一杯の明け暮れ。それ以上に何を願い望むことがあろうか。欲ボケもいい加減にしてほしいという露わな反感があります。

 「咲いている花が 尚その上にお化粧することを考えた / そんな時代の言葉です」今、この国では、狂気に襲われている一人の女性が首相になっています。何の因果でしょうか。「国を強くしたい」「世界の中で咲き誇りたい」と叫び続けている。「国」に存在している「民」はどうでもいいとでもいうような乱暴さがあります。「国盛んにして、民衰えたり」、なんというグロテスクな発想でしょうか。そのような狂い咲きの「徒花(あだばな)」(実を結ぶことなく、無情に散り終わる花のこと。開花はしても、結実しないという意味)のような「宰相」を四方八方から盛り立て、盛り上げる権力周辺の有象無象が引きも切らない。そのまた周りには数限りない「無辜(罪のない)・無知の民・民草」がいます。なぜ、こんな変異が生じているのか、ぼくにはよくわからないのです。なにもかにもが「ネットの時代」だということにはしたくない。ネットの時代であれ、テレビの時代であれ、戦争の時代であっても、「いのちを飾り立て」「いのちを弄んだり」することを潔くしないで、地道に生きることを放棄しない人もまたいるのです。あまり好きな言葉ではありませんが、「一所懸命」、ぼくはここ(一所)に精魂を籠めて、秘(ひそ)かに生きていたいという、そんな生き方をこそ。

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 最初に「夕歩道」を出した、他意はありません。まず「no art、no life(ノーアート、ノーライフ)」という番組、ぼくは未見です。少し丁寧にみてみようと思いました。次いで、そこに「バンクシー」が顔を出していたから、それだけでぼくは嬉しくなった。「氏についての本は、どこにでもいそうな『普通の、控えめな』英国人とかねて紹介していた。ひっそり暮らしているだろうか」(「夕歩道」)その通りでしょう。でも、「普通の、控えめな」というところが肝(きも)です。誰だって、我に返れば「普通の、控えめな」という生き方を念じているのではないでしょうか。外から毒の混じった教育を授けられるから、「普通はだめ」「控え目なんて暗い」と、歩く道を間違えるんでしょうね。「咲いている花が 尚その上にお化粧することを考えた」、そんな人間がごまんといる社会になりました。それもこれも、ぼくは多くは、長い長い学校教育の唆(そそのか)しのせいだったと、経験から学びました。

 世が世なら「咲くだけで(生きるだけで)せいいっぱい」「開くことに懸命な」、そんな人に学校教育は「もっと美しく咲け」「もっときれいに開け」と強いたんでしょうね。ぼくは「現首相」に、悪しき学校教育の一典型を見る思いがします。つまるところ、「立身出世(career advancement)」「出しゃばり(arrogance)」ということです。「身を立て世に出る」、狭い故郷を離れ(出世間)、都会(世間・世の中)で、ひたすら成功を求め、それが成った暁には故郷(ふるさと)に錦を飾る」という人間像が、様々なヴァリエーションを生みながら今に続いてきました。「一極集中」の淵源・嚆矢・発端でした。それを強力・強引に推進してきたのが近代学校教育(制度)だったのです。「こころざしをはたして いつの日にか歸らん 山はあをき故郷 水は清き故郷」(唱歌「ふるさと」高野辰之・詞 岡野貞一・曲、1914年発表)

◎ 立身出世(りっしんしゅっせ)= 社会移動には水平的移動と垂直的移動があるが,立身出世は後者のうちの上昇過程をさす。立身出世は,封建社会や村落社会といった身分社会においては,身分秩序を破壊するものとして否認された。社会分化の進んだ流動的な近代社会においては,逆に社会変動の要因として積極的にすすめられ,能力のある人間は競争によって階層上昇 (立身出世) が可能となった。日本でも,明治以降,国家的な欧化政策のもとで盛んに立身出世が奨励されたが,実際には能力主義に反する私的な人的関係も無視しえなかった。立身出世の方法としては特に教育が用いられ,学歴主義の悪弊を生み落した。また立身出世主義には,社会的不満のはけ口としても機能する側面がある。(ブリタニカ国際大百科事典)

*「ふるさと」https://www.youtube.com/watch?v=p1eZ8sIDF1A&list=RDp1eZ8sIDF1A&index=1

ふるさと

兎追ひしかの山
小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて
忘れがたき故郷

如何にいます父母
恙(つつがなし)や友がき
雨に風につけても
思ひいづる故郷

こころざしをはたして 
いつの日にか歸らん 
山はあをき故郷 
水は清き故郷

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 ここで場面が変わります。日本三大桜などと「あだな(渾名・綽名)」をつけられて、散々な目にあってきた桜たちがいます。ぼくは、それぞれの「名桜」には会ってはいますが、いずれも時期を外しての見物、しかもたった一人での観桜だった。根尾などは山中深く、誰もいなところで遠くから眺めただけ。山梨の「山高」はたまたま通りかかったときに目に入った按配でしたが、なんと狭いところに閉じ込められていることかと悲しくなりました。福島三春は遠望するばかり。それが先般の豪雪の重みで大きな枝が折れたというニュースに、「そっとしておいてください」という気がしました。

 それぞれが樹齢千年を過ぎたといわれますが、その大半の時間、誰もが見物に出かけることなく、ひっそりと咲いて、散って…。そのくり返しだったでしょうに。宇野千代さんの「薄墨」に賭けた熱意はぼくも早くから知っていましたが、ひそかに「余計なことを」という気がしないでもありませんでしたね。宇野さんの紹介で小林秀雄氏が「薄墨は…」などと書いたりしたものですから、物見遊山が大群衆になり、桜の根っこを踏みつけるような仕儀に至り、樹勢をさらに弱めることになったのです。「人に知られる」「名を成す」というのは人でも物でもろくなことはない。それこそ<Le It Be>ですよね。(下写真は岐阜県本巣市の「薄墨桜、三日前のもの)(https://www.city.motosu.lg.jp/0000000038.html

【余録】「樹齢1200年という老樹に、若木の根を何百本も継いで蘇生させたという話は、老人の私には興味のあることだった」。明治から平成まで1世紀近くを生きた作家、宇野千代さんの小説「薄墨の桜」の一節だ▲岐阜県本巣市の国の天然記念物「根尾谷(ねおだに)淡墨(うすずみ)桜(ざくら)」がモチーフ。知人の勧めで現地を訪れ、保存運動にも関わった。主人公の言葉は本人の思いでもあったのだろう。継体天皇が植樹したという伝説が残る巨木の樹齢は1500年超ともいわれる▲山梨県北杜市の「山高神代(やまたかじんだい)桜(ざくら)」、福島県三春町の「三春滝(みはるたき)桜(ざくら)」と合わせた「日本三大桜」は長寿ランキングでもトップ級。いずれも日本固有の野生種、エドヒガンの仲間である▲淡墨桜、神代桜の見ごろは3月下旬から4月上旬、滝桜は4月前半というが、本来、名のとおり彼岸の頃に開花する早咲きの桜。関東地方ではソメイヨシノの開花より1週間程度早いとされてきた▲ところが今年はソメイヨシノの開花も早い。彼岸の入りを前に高知や岐阜、甲府で開花宣言が出された。2月に暖かい日が続いたことが一因らしい。彼岸明けまでには東京や福岡なども続きそうである▲エドヒガンとオオシマザクラを親に持つというソメイヨシノの寿命は60~80年。長寿の遺伝子が引き継がれなかったのは残念だが青森・弘前公園には樹齢100年を超えるソメイヨシノの木も多いらしい。リンゴ栽培に倣った剪定(せんてい)法が秘策というからぜひ広めてもらいたい。<尼寺や彼岸桜は散りやすき/夏目漱石>(毎日新聞・2026/03/19)

 (右上写真は「山高の神代桜」)(「満身創痍」というのは人間だけではないのです。あまりにも痛々しいと、ぼくは感じてしまう)

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「目立たないことは超能力である」

謎の芸術家バンクシーは英ブリストル出身の男性、 「デービッド・ジョーンズ」とも [13日 ロイター] - 世界各地に作品を残している謎の芸術家バンクシー。ロイターは関係者への取材や資料に基づき、バンクシーは英南西部ブリストル出身の男性ロビン・ガニンガム氏だと結論づけた。/バンクシーの弁護士マーク・スティーブンス氏はロイターに対し、書面で「(バンクシーは)貴社の問い合わせに含まれる詳細の多くが正確であるとは認めていない」​と述べた。バンクシーの正体について肯定も否定もせず、取材内容を公表すればバンクシーのプライバシーを侵害し、芸術活動に支障をきたし、危‌険にさらすとして、公表を見送るよう要請した。
ロイターは、プライバシー侵害というバンクシーの主張、彼のファンの多くが匿名性の維持を望んでいるという事実を考慮した。報道活動で適用するあらゆる基準に照らしつつ、文化、アート業界、そして国際的な政治的議論にも深く永続的な影響力を持つ人物の素性や経歴を理解することについて、公衆が深い関心を持っていると判断した。(以下略)(ロイター・2026年3月16日)

(ヘッダー写真:「ロイター通信は、バンクシー本人と噂される人物たちの写真列をホーレンカの住民に見せた。左から順に、ティエリー・ゲッタ、ロビン・ガニンガム、ロバート・デル・ナジャ。ロイター/イラスト/キャサリン・タイ。出典写真:イブニング・スタンダード紙のジェイセン・ヴィンロブ、ロイター/ピーター・パブロウスキー」(https://www.reuters.com/investigates/special-report/global-art-banksy/

 「ロイターの調査 バンクシーを探して  このイギリス人ストリートアーティストの正体は、何十年にもわたり議論され、厳重に秘密にされてきた。ロイター通信は、この謎を解き明かすべく、爆撃を受けたウクライナの村からロンドン、そしてマンハッタンのダウンタウンへと取材を進め、名前以上の多くの事実を明らかにした」サイモン・ガードナー、ジェームズ・ピアソン、ブレイク・モリソン著 2026年3月13日午前10時(グリニッジ標準時)に提出

「浴槽で背中を洗う男性を描いたバンクシーの壁画は、2022年にウクライナのホレンカ村の廃墟となった建物の壁に出現した。この壁画はロイターの記者の興味を引き、謎に包まれたこのアーティストの正体を探る試みが始まった。ロイター/グレブ・ガラニッチ」(右写真)(https://jp.reuters.com/life/entertainment/JB2PQGTO3ZOPXJIANCLWUCVNDE-2026-03-16/

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 バンクシーの「箴言録(maxim)」のようなもの。(以下は「ロイターの調査 バンクシーを探して」より)

 「私はアートを使って異議を唱えているつもりだが、もしかしたら異議を唱えることで自分のアートを宣伝しているだけなのかもしれない。魂を売ったという罪は否認する。だが、以前住んでいた家よりもずっと大きな家からそう主張している」(バンクシー タイムアウト・ロンドン、2010年)(註 彼は相当に賢明な人だと、ぼくは判断している)

 「私がやっていることが『芸術』だと美術界の人々に納得させることにはあまり興味がない。それよりも、私がやっていることが実際には破壊行為だとグラフィティコミュニティの人々に納得させることの方がよっぽど重要だ」(バンクシー LAウィークリー、2010年)(註 彼が「エスタブリッシュ」から評価されることは「侮辱を受ける」に等しいと考えているでしょうね)

 「私はカミングアウトするつもりは全くありません。ただでさえ、自分の醜い顔を人々の前に突き出そうとする、自己中心的な嫌な奴らが十分すぎるほどいるからです」(バンクシー タイムアウトNY、2010年) (註 自己宣伝(自惚れ)はしない。世の中には「デシャバリが多すぎる」のではないですか、と)

 「芸術には、大げさで、下品で、露骨な表現があってもいいと思う。怒れる思春期の若者のわめき声のように見えても、何が悪いんだ?パンクの何が悪かったんだ?」(バンクシー ディズマランドのウェブサイト、2015年)(註 ノンセンスというのは、センスを笑いのめすということです。それを世間(常識)は「馬鹿なこと」という。「センス(常識)」なるものを否定するのが真意です)

(☝ ニューヨークでの看板破壊事件で逮捕された後、バンクシーは警察への自白書の中で、広告を汚損したことを認めた。この自白書はこれまで報道されていなかった)

 「私が誰なのかを知らない人になるまでは、誰も私の話に耳を傾けてくれなかった」(バンクシー 壁とピース、2005年)(「自分らしく生きる」と、しばしば自他ともに慫慂しますね。それがまるでいいことのようですが、最も「自分が何者か、わからないのは自分なのだ」だと気が付くのは大事なことですよ)

(「バンクシーはパレスチナとイスラエルを隔てる分離壁に「Balloon Debate(バルーン・ディベート)」をスプレーで吹いています。2005年のことです。/また、バンクシーはこの作品を残した後、次のようなメッセージを残しています。

 「イスラエル政府はパレスチナ自治区を取り囲む壁を建設している。この分離壁はベルリンの壁より3倍も高く、完成すると全長 700キロメートルにも及ぶ。これは、ロンドンからチューリッヒまでの距離と同じだ。この分離壁は、国際法上では違法。パレスチナを世界一大きな刑務所に変えた」バンクシーhttps://youtu.be/umas99F_z6U

(「バンクシーの芸術」・https://theartofbanksy.jp/banksy-girl-with-balloon-rundown/

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 ぼくはまだ見ていないが、ガザでもイランでも「バンクシー(実は「破壊者」)」はパンク「punk」しているのだと思う。ぼくは以前から、バンクシーはパンクシーだと考えていました。つまり、体制側(既成派)からみれば、文字通りに「不良・チンピラ・壊し屋・ならず者」に映るし、そう映ることが大事(本望)なので、辺に承認・賞賛されることはあり得ないと考えているはずです。深いところでは「大勢(体制)派って、クズなんだ」という徹底した反抗心、それ以上の反骨精神があるのもまたパンクする人の特徴でしょう。もう一説。車のタイヤに釘(くぎ)などが刺さって空気が抜ける状態を「パンク(cf puncture)」というでしょう。バンクシー(パンクシー)が狙っているのも、体制順応派の「はち切れそうな満腹(の空気)」(満足・満杯・傲慢・慢心・満点)を鋭く刃物で毀損することなんですね。「パンク(punk)」は「くだらないもの、不良」などと、世の中順応・肯定派から忌み嫌われている、そんな存在の側に身を置くことに意味があるんですね、きっと。

 彼は、例の「Beatles」ではないところが大切です。言わずもがなのことながら。彼らは1965年に英女王から「大英帝国勲章(MBE)」を授けられ、レノンは1969年に「反体制派」の矜持からでしょうか、勲章を返上しましたが、さらにポールは1997年に、リンゴ・スターは2018年に「ナイト(Knight Bachelor)」の称号を授与されている。これをめぐり、軍人さんたちからは「勲章の権威を汚す」と反発された。理由は「たかがポップじゃないか」というものでした。彼らは「パンク」ではなかったというわけでした。この島の「嵐」というグループが文化勲章を受けるというのは、相当に面白いんじゃないですか。あるいは、「スマップ」だって資格はあるでしょう、いろいろな意味において、ね。「褒章」「勲章」というものは、何であれ、欲しい、貰いたいという人には、どうぞ、ぼくはいつだってそういう気分でした。でも、自分は貰うのはいや、とね。(次いでだから、もっとつまらないことです。比べるのも変ですが。ぼくは希望もしないのに、「学位を授けます」といわれて心底情けなくなったし、「名誉教授」の称号も、本人に断りなく、所属機関から「授与する」と聞かされて、「それは人権侵害でしょ」と断った。驚くべき頽廃(decadence)だと、ぼくは感じだものでした)

 時代の寵児とか、現代の鬼才などと崇め奉られることは万死に値するほどに、「パンク派」には情けないこと。「世に評価される」ヒトやモノには、間違いなく「迎合」の卑屈さがあることを「パンクたち」は直感しているからです。「阿諛(あゆ)」「阿世(あせい)」といってもよろしいでしょう。「相手の気に入るように振る舞うこと」「おもねる・へつらうこと(諂諛・てんゆ)」ですから、「阿諛迎合」とはどこまで行っても「あなた次第」「他者の評価」が大事なんです、という屈折した心がなせるわざでしょう。「私を評価してください」「ぼく勲章(メダル)をもらう権利(価値)があるのだ」などという、今どきも、まだまだ大流行の「愚劣連」の時代であり、社会です。

 そんなご時世にあって彼は、「私はカミングアウトするつもりは全くありません。ただでさえ、自分の醜い顔を人々の前に突き出そうとする、自己中心的な嫌な奴らが十分すぎるほどいるからです」と、なんも言えない心意気というべきでしょうか。ぼくは、恥ずかしくて言いたくないのですが、(バンクシーが「出現」するはるか昔から)ひそかに「バンクシー」(島的にいうなら「鼠小僧次郎吉」)になりたいと思っていたことがあります。「世に知られることは、交通事故に遭遇するようなもの」と早くから、ぼくは思いこんでいました。自分から進んで事故に遭いたいと念願するほど、ぼくはバカではないという腹積もりで生きていました、今もなお。

 どこの誰だか知らないけれど、誰もがみんな知っている ー 月光仮面のように、バンクシーは東奔西走、神出鬼没。彼のあらわれた、いたるところで物議を醸し、賛同の嵐を巻き上げ、非難の礫(つぶて)を受けるのです。「毀誉褒貶(きよほうへん)」、いや、「非難囂々(ひなんごうごう)」かもしれません。そして彼はそれを遠くから、あるいは近くから、黙って凝視しているのです。くどいようですが、彼の「肺腑の言」(と受け止めたいですね)、を。

 「目立たないことは超能力である」 

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 *ぼくの推論 ー 「どこの誰かは知らないけれど、誰もがみんな知っている」というように、「月光仮面」は確かに「実在」しましたね。いつの時代、いつの世にも「きっといました」と、誰もが待ち焦がれた存在でした。まあ、「青い鳥」のようなものではなかったか。そして、今日この時代の「月光仮面」である、「バンクシー」は「月光仮面」のように「正義の味方よ よい人よ」でもなければ「誰でも好きに なれる人」でもなければ、「この世の悪に かんぜんと」ではなく、絡(から)めてから、戦いいどんで消えてゆくらしい。それを必死で探し求める「追っかけ」もまた、たくさんいそうです。たぶん、多くの人は彼がどんな「おじさん」(おばさんではなさそうだ、というのは確からしい)かは、見当がついています。彼の友人だったり、隣人である人もたくさんいます。

 しかし、やはり彼は「謎の壁画家」でいてほしいと、誰もが望んでいるのでしょうね。もちろん、ぼくもその一人、なぜだか、ロイターは相当に入れ込んで「バンクシーというおじさん」探索を続けてきて、ほぼ「正体」を突き止めたようです。けれども、「正体見たり 枯れ尾花」ではないにしても、「なんだ、あんな男だったか」とならないことを願うばかり。しかし「謎」はいつまでも「謎」であり続けるんじゃないですか。「君が謎(バンクシー)だったか」と問われて、「そうなんだ、ぼくは、いまも謎(バンクシー)なんだ」ということなんですね。(因みに、1958年に流行した「月光仮面は誰でしょう」という主題歌(作詞・川内康範、作曲・小川寛興)にある通り、当時の月光仮面はホンダの250CC(ドリームC71) にまたがって、「正義の味方」をやっていました。ぼくは京都にいたころ、「(月光仮面をつけていない)すっぴんの月光仮面」の家に行ったことがあります。「映画スター探訪」と称して勝手に、俳優の家に行く遊びでしたが、O さんは俳優であり、妻も俳優だった高千穂ひづるさん。たくさんの俳優さんの家に行きましたし、同級生にも俳優の息子たちがいた時代。(右上は素顔の月光仮面こと、O さん)

 そして、今でもまだ、「月光仮面」がいるんですね。同じバイクに乗って、横浜方面にいるらしい、某氏(左写真)。こんな格好で街中を疾走すると、逮捕されませんかと、気になります。要するに、世の中には謎が多いし、第一、人間は人間にとって「謎」なんですね。

 (*「月光仮面は誰でしょう」近藤よし子&キング小鳩会 歌)((*近藤よし子&キング小鳩会 歌)
https://www.youtube.com/watch?v=uAjuhZRG6i8&list=RDoHpN4QuGc-U&index=2


 月光仮面は誰でしょう

1 どこの誰かは 知らないけれど
  誰もがみんな 知っている
  月光仮面の おじさんは
  正義の味方よ よい人よ
  疾風(はやて)のように 現れて
  疾風のように 去ってゆく
  月光仮面は 誰でしょう
  月光仮面は 誰でしょう

2 どこかで不幸に 泣く人あれば
  かならずともに やって来て
  真心(まごころ)こもる 愛の歌
  しっかりしろよと なぐさめる
  誰でも好きに なれる人
  夢をいだいた 月の人
  月光仮面は 誰でしょう
  月光仮面は 誰でしょう

3 どこで生まれて 育ってきたか
  誰もが知らない なぞの人
  電光石火(でんこうせっか)の 早わざで
  今日も走らす オートバイ
  この世の悪に かんぜんと
  戦いいどんで 去ってゆく
  月光仮面は 誰でしょう
  月光仮面は 誰でしょう

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◎ パンク(punk)= 1970年代中頃に生まれた若者の風俗現像。発祥は英国で,髪を染める,逆立てる,一部分あるいは全体を剃る,ぼろぼろの服を着る,耳や鼻孔,口などに穴をあけ安全ピンを刺す,露骨で卑猥な言葉を吐くなどが特徴。不況による失業と階級意識の強い社会に閉塞感を抱く英国の若者の間で広まった。元来パンクとは与太者,不良などの意味だが,ロック・グループの〈セックス・ピストルズ〉が上述のようなスタイルで,反社会性を歌ってデビューしたときから,反社会・反通念がパンクの共有概念となった。彼らの音楽はパンク・ロックあるいは単にパンクと呼ばれた。金がないゆえのパンクのスタイルだったが,その後ファッションとしても流行した。(百科事典マイペディア)

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Follow Him wherever He may go

 桜、ふわりと高知市で開花 3年連続全国トップ、昨年より7日早く 高知地方気象台は16日、高知城のソメイヨシノが開花したと発表した。岐阜、甲府と並んで全国で最も早く、高知は3年連続のトップ。開花日は昨年より7日、平年より6日早かった。/この日、三の丸にある標本木で宣言の基準となる「5、6輪」を満たす6輪が開花。前日は3輪しかなかったが、連日の陽気にふわりとほころんだ。気象台職員によると、この冬は平均気温が平年並みで推移。「ちゃんと冷え込んだ後に暖かくなり、咲きやすかったのでは」と話した。1週間ほどで満開を迎えるという。/開花宣言の場には報道陣のほか、近くの丸の内高校音楽科の1年生10人も居合わせ、中田結斗さん(15)は「花びらの中に濃いめのピンクがあってかわいらしい」とにっこり。見物に来た高知市の男性(49)は「一杯飲みたくなるね」と早くも花見酒を楽しみにしていた。(森本敦士)(高知新聞・2026.03.16)

 全国トップ、岐阜市と高知市でソメイヨシノ開花 岐阜は平年より9日早く 岐阜地方気象台は16日、岐阜市でソメイヨシノが開花したと発表した。平年より9日早く、高知市、甲府市と共に、全国の観測地点でトップの開花となった。同日の開花は1953年の統計開始以来、89年、2021年、23年と並び最も早かった。/岐阜市では16日午前、清水川堤の標本木で、開花の基準となる5~6輪が咲いているのを気象台職員が確認した。気象台は「「2月中旬から平年に比べて気温が高く推移しており、早い開花につながった可能性がある」としている」(中日新聞・2026/03/17)

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 WBCでは中途半端な「盛り上がり」ならぬ「盛り下がり」で、いささか消化不良気味だった、この劣島、彌生半ば過ぎ。(ニュースなどでも「サムライなんとか」が想定外に早く敗退したのを残念がっていましたが、ぼくには、精神の健康上はいいことでした。「ほかに何か伝えることがないのか」といいたくなるほどに、この島のメディアは「国民を愚か者にしたい」という、わけのわからない企みで、時を択ばず「五輪」や「野球」をのべつに報じている。そんなこととは露知らず、気づけば、ガソリン代は1ℓが200円超になっており、物価は鰻登りの狂乱の巷(ちまた)です。

 「政治はどこにあるのか」と探しても見つかず、ようやくアメリカ経由で、「どうやら日本はイラン戦争に参戦するらしい」と伝わってきます。「知らぬが仏」というか「知らぬは亭主ばかりなり」というべきか。よそでどんなことが起こっているのか、「知れば腹も立つが、知らないから仏のように平静でいられる。また、本人だけが知らないで平然としているのを、あざけっていう語」(デジタル大辞泉)だそうです。(「侍ジャパン」の面々、世が世なら確実に招集され、「兵士として、戦場へ」となるに違いありません。「世が世」はすぐそばまで来ているような。「知らぬが仏」なんて呑気な話じゃありませんよ)

 いいことも悪いことも、できれば「知らぬが仏」でいたいものですが、そうであればなおさら、最後は「仏の顔も三度まで」ということになるのではないでしょうか。「《いかに温和な仏でも、顔を三度もなでられると腹を立てるの意から》どんなに慈悲深い人でも、無法なことをたびたびされると怒ること」(デジタル大辞泉)といわれます。果たしてこの国は、アメリカという「ならず者」にいいようにあしらわれ、それでも「尽くし足りない私が悪い」(都はるみ「大阪しぐれ」)と、それこそ健気に、痛々しいほど「物心両面」で、分を超えた「年貢(「カタログギフト」という)」を差し出してきました。(「大阪しぐれ」:https://www.youtube.com/watch?v=yf-QRA6wQKo&list=RDyf-QRA6wQKo&start_radio=1

 昨日の国会審議を見ていても、とてもではないけれど、素面(しらふ)では見ておれない、不真面目な場面が続きます。ペルシャ湾を航行する石油タンカーの護衛(escort)をアメリカから命じられたにもかかわらず、「そいう要請は来ていない」と噓をつく首相の、毎度おなじみのお始末。「答弁は面倒」「国会審議は時間の無駄」という素ぶりがありありです。実に高慢に、傲岸に、不遜に構えているのが見てとれました。これぞ「独裁の姿勢・態度」だとぼくには痛いほど感じられた。強弱には関係なく、その姿勢には、他者のいうことを聞く耳を持たずに、やりたいことだけを好き勝手にやるだけという「乱暴狼藉」を働くこと。醜いし、国民からすれば許しがたい「醜悪」「不埒」な態度に見えます。(「知らぬが仏」の類語には、「 人生字を識るは憂患の始め」「 聞かぬが仏、聞くは気の毒、見るは目の毒」「 世間知らずの高枕」「 見ぬが仏、聞かぬが花」「 知らぬが仏、知るが煩悩」とまあ、わかったようなわからないような)

 今回のアメリカ・イスラエル共同謀議(実体は「イ主ア従」だった)の「イラン爆撃」は、どこから見ても「国際法」の明らかな違反。そして、国是ともなっているらしい「力による現状変更」は断じて認められないとする従来の政府の立場からも、どう転んでも自衛隊はもちろん、警察力(海上保安庁)だってペルシャ湾に派遣し、アメリカの露払い(尻拭い)をする理由(根拠)は出てこない。

 まるで「針の穴にラクダを通す」ような無理筋を政府・首相は考えているようだが、世界の笑い者・除け者になるだけ。アラブ諸国の多くは反イスラエル・反アメリカですから、その「両国愚連隊」に日本が加担し、与することは、彼(アラブ)の国々には不愉快この上ないこと。しかし、すでに「自衛隊を出す」とアメリカ大統領に「告げてしまっているらしい」のですから、前門の虎・後門の狼で、この窮地にあって、少しでも知恵が残されているなら、首相はまた「仮病(feigned illness)」を言い出すしかないんじゃないですか。昨年の秋に「首相就任」してから、いったいこの女性は何度「仮病」「偽りの言動」という常套手段を使ったことでしょう。訪米を回避する(「飛んで火にいる春の虫」にならないために)、唯一の得意芸を、ここでこそ使うべきでしょうよ。(彼女は、故元首相の近くにいたから、実に巧妙に「仮病」や「虚言」を使いますな。まるで、故首相そっくりですよ。ところが、事情通に言わせると、「故元首相は彼女が嫌いだった」は、なんとも気の毒というか、魂胆があっての交流・厚情紛いなんですね)「嘘も方便が、この首相の習い性になっているのですから、何も驚くほどのこともないのですが、このまま居座る限り、ただでさえ減り続けている「国益」は「スッカラカン」になるはずです。

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 昔からことわざの如くに「三日見ぬ間の桜かな」と申します。元句は「世の中は三日見ぬ間に桜かな」で、作者は大島蓼太(おおしまりょうた)さん(1718-1787)。この句が人口に膾炙(かいしゃ)したのかどうか、「三日見ぬ間の桜」が定着してしまい、まるで「ことわざ」扱いされてきました。世の移り変わりは、まるで「咲いて散る桜」のようで、早いのなんのって、とまあそんな具合に語られてきました。しかし、元句は「三日見ぬ間に」とあります。「見ぬ間の桜」と「見ぬ間に桜」とでは全く意味・気配・心持が違ってくるでしょう。これ以上は言いませんが、なかなかに「見ぬ間に」は含蓄がありますね。

 もう一、二の蓼太句を。「鹿もよく寐て 朧なり奈良の月」「むつとしてもどれば庭に柳かな」などがあります。「むつと」は「むっと」なるやつです。「カッとなる」ほどのようには血圧は上がらないでしょうが、「この野郎」という感情の荒(すさ)びは変わりません。この二句、何んとも「おかしい」「滑稽」でしょう。芭蕉復興を唱えた人だけあって、その作風はなかなかに洒脱であり、しかも句形も整っているのですから、いうことなしでしょか。洒脱とは「俗気がなく、さっぱりしていること。あかぬけしていること。また、そのさま」(デジタル大辞泉)咲くのは早いが、散るのも早いという桜、はたして「三日見ぬ間(の・に)」の桜は「咲く前か」「咲いた後か」と、余計なことを空想してしまいます。「奈良の鹿」もなかなかに深み・悠揚迫らず、という雰囲気があるでしょう。三百年前の「奈良の鹿」はぐっすり寝られたんですね。今日は大いに「喧噪」に巻き込まれています。「鹿同士」、あるいは「鹿と人間」の喧嘩が絶えないとも聞きます。

 ぼくは大島氏については、いくつかの作品以外はほとんど知るところがありませんから、先覚知識に教えられています。「東西の吟行50余度、俳書の編著200有余、文台(ぶんだい)を許した者40余人、門人2000余に及んだという。芭蕉(ばしょう)復帰を唱え、その研究と顕彰、江戸俳壇の刷新、俳諧の普及など、天明(てんめい)期(1781~1789)の俳諧復興に果たした功績は絶大」とあります。学びたいですね。

◎ 蓼太(りょうた)(1718―1787)= 江戸中期の俳人。大島氏。本姓吉川(きっかわ)氏。名は陽喬(ようきょう)。通称平助または平八。別号雪中庵(せっちゅうあん)、宜来(ぎらい)、空摩居士(くうまこじ)など。出生については木曽(きそ)、松代(まつしろ)、江戸などの説もあるが、信濃(しなの)伊那(いな)郡大島(長野県上伊那郡飯島町)が最有力である。蓼太の幼少時に一家は江戸に出て幕府の御用縫物師を勤めた。初め点取俳諧(はいかい)をしていたが、雪中庵2世吏登(りとう)に入門、しだいに頭角を現した。その間、奥羽、関西を行脚(あんぎゃ)、各地の俳友と交流し見聞を広め、1750年(寛延3)に雪中庵3世を継いだ。『続五色墨(ごしきずみ)』結成や『雪おろし』によって江戸座宗匠の旧態を批判し、江戸俳壇に地位を占めた。その後、宝暦(ほうれき)・明和(めいわ)・安永(あんえい)期(1751~1781)の活躍は目覚ましく、完来編『藤衣(ふじごろも)』(1787)によれば、東西の吟行50余度、俳書の編著200有余、文台(ぶんだい)を許した者40余人、門人2000余に及んだという。芭蕉(ばしょう)復帰を唱え、その研究と顕彰、江戸俳壇の刷新、俳諧の普及など、天明(てんめい)期(1781~1789)の俳諧復興に果たした功績は絶大であった。俳風は平明を理想としたが通俗的な傾向もみられる。編著は『ほうぐ袋』(1743)、『七柏(ななかしわ)集』(1781)など多数ある。天明7年9月7日没。(日本大百科全書ニッポニカ)

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 閑話休題 この国は米国の「下駄の雪」であることが「国是」となってしまいました。でも、この「下駄の雪(まるで、ある諸氏にとっては「憲法」のようでもある)」も壊れる時が来ているという感慨をぼくは強くしています。「踏まれても 蹴られても ついて行きます 下駄の雪」は、誰がいつ作ったかよく知りません。ありそうな話はいくらでも出せますが、ようするに、「下世話な話」のなれの果てのようにも思われます。日米関係の経過とその事情が「敗戦後(八十年前から)」、徐々に明らかになるにつれて、この「与太話」は深刻になり、今では西に向かって「三拝九拝」するほどになりました。詰まりは「西岸遥拝」ですね。いつのころからというなら、敗戦直後から、ですが、これほどまでに、酷くなったのは K.純一郎首相以来でしょう。その程度がますます異様になってきて、今は極端に「米様、一辺倒(complete devotion to one side)」です。アメリカ一本鎗、そのためには国民にも、国会議員にも、言うべきことを言わないままで、首相の心はワシントンに一直線。「心ここにあらず、ワシントンにあり(My mind is elsewhere, I’m in Washington.)」、国会審議を見ていて、ぼくはそう勘繰りました。嫌になりますね。(左は鈴木春信画「下駄の雪取り」18世紀)

 聞くところによると、与党内部では「次の首相選び」が始まっているそうです。圧倒的多数の議席を占めていながら、その権力を行使できない首相(権力者)とはどういう存在でしょうか。権力行使、権力維持のためには万難を排して「仮病」を使い、「虚言」を弄し、党を売り国まで売る覚悟だと見透かされたからの、謀反の発生だといえないでしょうか。国防(軍事)費に国家予算の五分の一近くも浪費し、果たしてどこと戦うのか。軍備を整え、いざ「戦闘開始」となった段で、資源(油)はどうするんですか、基本の基、大問題が残されていました。あらゆるものを動かす燃料はどうしますかね。誰かが「都合」「調達」してくれるんでしょうか。戦車や爆撃機を装備したところで、それを動かす「燃料」は、切羽詰まれば米・中に塩梅してもらって、そういうことがあったとして、さていったいどこと戦うつもりか。馬鹿も休み休みにしてくれませんか、とぼくは言いたくなっています。「頭隠して尻隠さず」というのではなく、日本にとって、「備え(早苗)あれば憂い(国難)あり」ではないですか。再び、三度、「君、国を売りたまふこと勿れ」といいます。

(⁂ Sister Act- I Will Follow Himhttps://www.youtube.com/watch?v=VPpd-6X3tEo&list=RDVPpd-6X3tEo&start_radio=1)(When Jesus spoke again to the people, he said, “I am the light of the world. Whoever follows me will never walk in darkness, but will have the light of life.” John 8:12New International Version) 

                                                                (⁂ Little Peggy March – I Will Follow Him (Audio)https://www.youtube.com/watch?v=zUMqnS_y9kI)                                    (◎ 「愛のシャリオ」(Chariot, 英題:I Will Follow Him 伊語:Sul mio carro)とは世界的にヒットしたスタンダードポップスである。別題で「恋のシャリオ」もある。「フランク・プゥルセルとポール・モーリアが1961年にJ.W.ストール(=プゥルセル)およびデル・ローマ(=モーリア)の変名で発表したインストゥメンタルであり、翌62年に欧州ではペトゥラ・クラークによるボーカル曲「愛のシャリオ」としてヒットし、日本とアメリカではペギー・マーチによるボーカル曲「アイ・ウィル・フォロー・ヒム」として世界的にヒットした」)(Wikipedia)

I will follow Him
Follow Him wherever He may go,
And near Him, I always will be
For nothing can keep me away,
He is my destiny.
  (Omitted)
There isn't an ocean too deep,
A mountain so high it can keep,
Keep me away, away from His love

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