「あなたは私の 青春そのもの」

【新生面】袴姿の卒業式 女子学生の卒業式のいでたちと言えば袴[はかま]というイメージが定着したのはいつからか。きのうの熊本大の卒業式にも、振り袖に紫や緑、紺など思い思いの色の袴を合わせた学生たちの晴れやかな姿が見られた▼女子学生が袴を着けるようになったのは明治初め。東京に開校した官立女学校が、着物の裾の乱れや帯の窮屈さを気にせず活発に動けるからと採用したという▼だが、新聞各紙はこぞってその姿を酷評した。「醜い」「女の屑[くず]」「国辱」と言いたい放題である。当時の文部省が女性教員と女学生に、袴と靴の着用禁止を通達する事態にもなった。国まで乗り出すとは。なぜ、女性の袴姿に厳しい視線が向けられたのだろう▼東京・弥生美術館学芸員の中川春香さんの編著書『はいからモダン袴スタイル 「女袴」の近現代』(河出書房新社)を読んで、考えた。「生意気千万‼(中略)靴を穿[は]き、袴をつけ、意気揚々として生かぢりの同権論などなす者あり」。東京日日新聞がそう書いたように、婦人参政権をはじめとする男女同権を求める主張の広がりに警戒感があったのかもしれない▼後にスカート状の女袴に形を変えたことで容認され、教師や医師、工場勤めの人、電話交換手など働く女性のユニホームとしても長く愛用された▼この春、袴姿でキャンパスを巣立った女性の多くは、これから社会人として歩みを始める。戸惑いや不安を感じても前を向いてほしい。装いを変えながら道を切り開いてきた先輩たちが、そっと背中を押してくれる。(熊本日日新聞・2026/03/26)

 桜花爛漫、今、各地で卒業式は酣(たけなわ)でしょうか。小中高大等、それぞれの段階における混沌と整序の複雑な心の軌跡をしるしながら、新たな一歩を踏み出した人には、厳かな「儀式」は必要なもので、その厳粛さが、きっと背中を押してくれるのでしょう。「こんなところに止(とど)まっていてはだめだよ」って、ね。ぼくも人並みに義務教育を含めて、短くない学校生活を経てきたと思うのですが、そこから何か得たものがあるかと尋ねられれば、答えに窮しますね。あるといえばあるし、皆無じゃなかったかともいえそうだからです。いま傘寿(さんじゅ)を超えて振り返ると、奇妙ですが、ぼくが学校に、それぞれの学校に在学した、あるいは卒業したという記録(証明)は一つもありません。そして「記憶」はあいまいで、雲をつかむような頼りなさです。

 一番の証拠は「卒業証書」でしょうが、残念ながら一枚も残っていません。小中高大と、すべての学校の「証書」類は、どこに消えたのでしょうか。そもそももらわなかたのかもしれないという気もする。最近は、あまりなくなりましたが、少し前までは「ぼくは学校を卒業したのだろうか」という強い疑問を持っていました。今では、その疑問は、やっぱり卒業はしていないのだという確信に変わりましたね。第一、自らの入学式や卒業式には参加した記憶がないのですから、「卒業式」について、記録も記憶も喪失している人間ですから、いずれも未就学だったというのは当然かもしれません。それでいて、ぼくはあまりにも賢くなさすぎるんですから、どうにも始末に困ります。

 昨日付の熊日の「新生面」を面白く読みました。明治時代、官立学校の女子卒業生が袴姿で出現した当座、「新聞各紙はこぞってその姿を酷評した。『醜い』『女の屑[くず]』『国辱』と言いたい放題である」「当時の文部省が女性教員と女学生に、袴と靴の着用禁止を通達する事態にもなった」「『生意気千万‼(中略)靴を穿[は]き、袴をつけ、意気揚々として生かぢりの同権論などなす者あり』。東京日日新聞がそう書いたように、婦人参政権をはじめとする男女同権を求める主張の広がりに警戒感があったのかもしれない」とさんざんであります。こんなやくざな官庁や新聞社は、心を一切改めないで、今も続いているのですから、何おか況(いわん)や、ではないでしょうか。もしこのような女性に厳しい非難雑言を投げつける新聞が、今日、この国に、当時と同様に健在であったなら、「白昼、他国の大統領に抱き付く」「いやらしい目つきで大統領に『秋波(色目)』を送ったなど、一国首相の挙措に対してどんな非難が飛んだことだったか。「国辱」「恥さらし」「女の屑」とか。「時代が変わった」と一言で済ませられない何かがあるようなないような。祖も意味では、はるかに人々の意識は成長したのでしょうか。

 教師紛いを四十年以上もやってきましたから、たくさんの、数えられないほどの「卒業」という儀式には立ち会いました。ぼくにはどこか、穏当ではありませんけれども「晴れ着魔」的なところがあって、心から「おめでとう」ということができませんでした。学生諸君の在学時の日常を知悉(ちしつ)していたからです。そうではあっても「お世辞」が言えない人間ですから、やはり根性が曲がっているということでした。「この春、袴姿でキャンパスを巣立った女性の多くは、これから社会人として歩みを始める。戸惑いや不安を感じても前を向いてほしい」(「新生面」)少子化傾向という、ある種の社会的縮少・縮減時代が急速に進んでいます。大げさではなく、毎年百万人近くの人口減が続く時代、生産年齢人口(原則的には、15歳から60歳)が驚くほど少なくなっていく時代に、若者にかかるいろいろな負担は重くなるばかりです。そして、「戦争」などあった日には、この国は「空っぽ」になってしまいますね。

 もう何十年も前のことになりますが、ゼミ生の誰か(男性)が「今は生きづらい時代」としきりに言っていた。ぼくは、生きづらいというのはどういうことなのか、二十歳前後だった、彼の真意がよくわからなかったが、「いつの時代だって、生きづらいさ」といった記憶があります。昔々から、「苦あれば楽あり」といい、「先憂後楽」などと生き方の方法を諭す箴言もありましたから、生きているのが楽しいという人は、よほどおめでたいか、恵まれている人でしょう。ただでさえ、40㌔も70㌔もの体重を持ち運んでいるのですから、しんどくないはずはありませんよ。ぼくなどはある時期から、ひたすら「労働」一辺倒で「働いて飯を食う」ことの大変さを痛感したものでした。若い人と交わらなくなって、十数年が経過しましたが、この考えはいささかも変わらないままです。根本的には「生きることはまことにしんどいこと」という受け止めがぼくの中に一貫してあるからです。今年の春に、いわゆる「社会に出る」「社会人になる」人たちがどれほどいるのか。おそらく百万人をそんなに超えないでしょう。

 国の規模が小さくなる傾向は早くからわかっていたのですから、その問題に施策を打たなかった政治・行政の不作為は大いに批判されてしかるべきです。しかし、いかなる方途をとろうとも、この傾向を逆転させることは不可能ではないにしてもたやすくないと考えれば、「時の過ぎ行くままに(Let It Be)」ということになるのかもしれません。ある人の話に聴いたことですが、隣国勧告も日本以上に少子化に直面しているが、なんと少子化に歯止めがかかったという。理由は明確で、若者用の低廉な住宅を用意し、結婚した夫婦に1000ウォンだか、1000万円の補助金を出しているというのです。そうまでして、人口を増やしたいのでしょうか。軍人(兵隊)にするためなんですか?BTSも、ようやく兵役を終わったそうで、結局は国家の「駒」でしかないとしたら、そんな国家、飛んでけー、ではありませんか。

 「袴姿」の女性ばかりではなく、普段着のままで卒業された方々、あるいは式には不参加だった人にも、「装いを変えながら道を切り開いてきた先輩たちが、そっと背中を押してくれる」と、コラム氏はやさしそうなことを言われます。でも、そんなに甘くはありませんよと、ぼくは言っておきたいですね。「そっと背中を」どころか、思い切り背中をどやしつける、そんな輩もごまんといる。どんなに逆立ちしたところで、この国や社会は「落ち目」なんですよ。落ち目には落ち目の「良さ」なんかはありませんが、互いに競いあうのではなく、それこそ「支え合う」「助け合う」という「互助の精神」が人生に色合いを添えてくれるでしょう、ぼくはそう考えています。抱き着くのではなく、手を差し伸べ合うということ。

 「式」というのは「形式」なんですね。重要なのは中身、内容です。残念ながら「卒業式」などのもたらす「うわべの感動」を経験していない老人から言わせれば、日々の交わりから生まれる何かをとらえられるといいですね。ぼくは「明け暮れ」という語を多用する人間です。毎日がほぼ変わらない事々の積み重ね、繰り返し、反復です。しかし時間がたってみれば、そこにはきっと何かしらの「蓄積」「経験」がものをいうようになり、それらが自らの生き方を支えてくれるのではないでしょうか。「男社会」はどう変われば、「男女共存時代」になるのでしょうか。どこまで行っても、「男社会」が続くような気もしています。問題は「男社会」の中身、なんだと思う。「男尊女卑」を称して「男社会」というのなら、それは直ちに万難を排してでも打ち砕かなければ、いけないですよ。

 小さな疑問を一つ。ユーミンさん詞の一節、「あなたは私の 青春そのもの」に、ぼくは微妙なニュアンスを感じ取っています。この場合「あなたは男性」「私は女性」でしょう。ぼくなら「あなたは私の 青春そのも」とは、まず女性(彼女)には言わないと思う。断言はできませんけれど、きっと言わないでしょう。つまり、このようなニュアンスを多分に持っている男女のつながり・交わりが、ぼくの言う「男社会」の一面です。もちろん「女社会」の一面でもあります。繰り返しになりますが、「夫唱婦随」とか「男尊女卑」などは最も悪質、暴力的ですらある「男社会」の一断面です。しかし「あなたは私の青春」という表現に籠められている互いの関係を含めて「男社会」を再定義し、とらえなおしたい、それが「女社会」を前面に突き出す方法でもあると考えているからです。

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(⁂ 卒業写真 – 荒井由実https://www.youtube.com/watch?v=drP4GpMEtd8&list=RDdrP4GpMEtd8&start_radio=1)   
(⁂ 卒業写真・山本潤子https://www.youtube.com/watch?v=vT76xsX-E9U&list=RDvT76xsX-E9U&start_radio=1

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狂気と正気、戦争と平和、紙一重だ

 人間八十を過ぎてしまうと、残りの人生は「余生」だという気になる人もいるでしょう。また人によっては、「自分の老後はかくかくしかじかにして送りたい」という方もおられるかもしれません。「盛りの時期を過ぎた残りの生涯。残された人生」(デジタル大辞泉)と辞書には「余生」の解説が出ています。もしそうなら、ぼくの余生」の始まりは三十歳を過ぎたころからで、人生のほとんどが「余生」だというへんてこなことになります。もしそうなら。「よせいやい」といいたくもなるでしょうね。ぼく自身の「盛りの時期」は何歳ころだったか、ほとんど自覚がないままに勤め人生活を辞めましたから、仮にまだ勤め人を続けていたら、どうなっていたか知れたものではありません。あくまでも仮定の話として、戦争に招集され、戦場で「九死に一生を得」たまま、帰ってきたとしたら、残りの人生は「余生」でしょうか、つまりは余分(余りもの)となりますか。こんなことは、ほとんどぼくは考えたことはありませんから、返答に窮しますね。

 いつも語ることですが、この十年以上、ぼくは毎日、ネットで読める新聞を毎朝、少なくと20紙以上は目を通します。海外紙も含めればもさらに増えます。ちろんすべての紙面などではなく、あくまでも各紙の「コラム」記事です。多少の違いはありますけれど、ほぼ500字から600字程度。読むのにものの数分もかかりません。この習慣の功徳がどこにあるのか、当人にはよくわかりませんが、少なくとも、「コラム」を読む方法というか、「コラム」から読み取るものがなんであるかはわかりつつあるといいたいですね。この問題を、こういう具合に文章できりとり書く、文章の「彩・綾・絢・文(いずれも「あや」と読みたいものですね)」とはこういうことをいうかという、最も基本のところで学ぶことができていると思う。だから、ぼくの駄文が駄文でなくるというのではありません。駄文は相変わらず駄文で、「読む」と「書く」では大違いということです。

 本日は朝に続いて、2個目の駄文です。くれぐれもご容赦を願います。数ある地方紙の中で、まずぼくが感じているのは、あくまでもぼくの好みからいうことですが、「西高東低」という冬型気圧配置のような成り行きで、ぼくにはどうも関西以西のほうが関東以北よりも、読んで、なるほどという率が高い気がするのです。記事の評価というのとは異なって、あくまでも個人の選り好み・好き嫌いからの愚感です。もちろん、ぼくが関西生まれの関西育ち(高卒時代まで)だからかもしれません。そんな「西高」ぶりの中でも、しばしば取り上げたりするコラム(記者)が、以下の2紙のコラムです。

 「水や空」は長崎新聞、もう一つは「有明抄」です。新聞社全体に関していうなら、ぼくには問題なしとしないと考えるものです。いつか、その問題の「内容」について触れることがあるでしょう。一紙は進行中の裁判に関係しています。コラムを書かれている記者がその事案にかかわっているかどうかはわかりません。

【水や空】にじゅうご へえ、あなたにもそんな頃が…と笑わないでほしい。誰にだって少年時代はあるのだ。遠くに転校してしまうあの子の新しい住所を聞けないまま、絶望的な気持ちとともに学校が春休みに入ってしまったのは何年生の時だったか▲勇気を振り絞って家に電話をかけると、幸い引っ越しはまだで、これまた幸いなことに直接その子が電話に出て、次の住所は聞くことができたが▲電話を切った直後に、こちらの名前を言い忘れたことに気がついた。緊張のせいか、照れていたのか、いずれにせよ不審な電話だ。もちろん、さよならも元気でねも言えずじまい▲4月になって、彼女から手紙が届いた。〈電話したでしょ〉…バレていた。〈その時『…のにじゅうごう』って言ったけど、25じゃなくて20号だよ。だからね、新しい住所は…〉▲「手紙待ってるね」も「またね」もその他の特記事項もなく、シンプルな念押しの事務連絡が筆圧の強い文字で記されたキュートな便せんはそれでもしばらくの間、ひそかな宝物になったが、年賀状も暑中見舞いも結局書かなかったし来なかった。子ども時分は新しい出会いが次々にやってくる▲低年齢層にもケータイやスマホの普及が進んで、子どもたちの別れもいくらか様変わりしているだろうか…と半世紀前の春を思いつつ。(智)(長崎新聞・2026/03/26)

 偶然でしたでしょうが、「水や空」には、まるで「赤いシートピー」みたいな記事が出ていました。ぼくの愛読する「智」さんの書かれたものです。たぶん中学卒業時期の一つのエピソードです。さすれば「智」さんは、あてずっぽうでいうなら、六十過ぎくらいでしょうか。好きな子の新しい住所を訊けないで春休みになった。絶望的だったといわれるから、相当に「赤いスイートピー」だったのでしょう。このまま終わりにできなったから「電話」をかけた。まだスマホのない時代。ちぐはぐだし、付かず離れずでいたいというのでしょうか。せっかくかけた電話で、自分の住所を知らせられなかった。ところが彼女はお姉さんだったね、「4月になって、彼女から手紙が届いた。〈電話したでしょ〉…バレていた。〈その時『…のにじゅうごう』って言ったけど、25じゃなくて20号だよ。だからね、新しい住所は…〉とあった。心臓が止まると思われたかどうか。「手紙待ってるね」も「またね」もなんにも書かれていなくて、でも、その手紙は「智」さんの宝物だったという。いいですね。「秘すれば花」という理(こおとわり)もあります。

 「年賀状も暑中見舞いも結局書かなかったし来なかった。子ども時分は新しい出会いが次々にやってくる」と「さらりとした梅酒」みたいな書きぶりですが、さてどうでしょう。「逃がした魚は大きい」とも言います。大変に失礼に表現ですが、彼女は「飛び切りの鯛」だったか。「心に春が来た日は 赤いスイートピー」とコラム氏は思い出されているのでしょうか。「「好きよ 今日まで 逢った誰より  I will follow you あなたの 生き方が好き このまま帰れない 帰れない」というところまでは進んではいなかったから、「智」さんは、彼女とは別の人生を歩まれて、ぼくたちに素敵なコラムを書いて届けてくださっている。「にじゅうご(25)」と「にじゅうごう(20号)」の差は、後になるほど大きいですね。

【有明抄】戦場の現実 太平洋戦争のころ、戦局が厳しくなると、年配者にまで赤紙が届いた。ひょろひょろのおじさんばかりの兵団で南方へ送られた祖父の思い出を翻訳家、那波かおりさんが書いている◆ある日、祖父はジャングルで米兵とばったり出くわした。「撃つな。みんな死ぬから」。英語もしゃべれないのに、なぜか敵兵の言いたいことは分かった。ここで撃ち合ったら戦闘が始まる。だから知らんぷりをして別れよう、と。2人は何ごともなかったように、その場を離れたという◆勇ましい映画やドラマと違い、現実の戦場はこんなものかもしれない。幕末の戊辰戦争でも、互いに刃を抜いた官軍と彰義隊は声を張り上げるばかりでついに切り合わなかった、という目撃談が残っている。生身の人間を前にすれば、銃も剣も使えなくなるのが当たり前である◆現代の戦争は様相が一変している。ウクライナでも中東でも、主役は無人機ドローン。戦車やミサイルに比べはるかに安く、遠隔操作で効果的に標的を狙える。ゲームのようで罪悪感が薄れ、攻撃の歯止めがきかなくなりはしまいか◆米国はさらにAI(人工知能)まで搭載し、軍事利用を進めつつある。殺し合いまで学習するAIの行き着く先を想像すれば背筋が寒くなる。傷つけ合う前に戦いを避ける…人間はそんな後戻りできるところにいるだろうか。(桑)(佐賀新聞・2026/03/26)

 もう一つは佐賀新聞「有明抄」で、こちらは「赤いスイートピーどころではなく、「無駄な殺生するんじゃないが」という、極めて深刻は場面の究極の「平和」の実現(在りか)が書かれています。桑さんの記事。まるで夢のような出来事を、よくぞか書き残されてくださったと、コラム氏と那波かおりさんに感謝したいと思います。戦場で日米の老兵が直面する「撃つな。みんな死ぬから」と米兵。「ここで撃ち合ったら戦闘が始まる。だから知らんぷりをして別れよう、と。2人は何ごともなかったように、その場を離れたという」このようなことが事実としてあったとするなら、ぼくたちは「戦争」「戦場」というものを根底から考え直さなければならないでしょう。敵を殺す、相手を撲滅するのが当然だから、「戦争文学」や「戦争映画」が高く評価されてきたのでしょう。

 若い時に必死で読んだ大岡昇平さんなどの「戦記物」を無条件で評価するのは単純すぎるということにもなりましょう。大岡昇平さんが、後に「文化勲章」受賞(授賞)が決まった時、彼は、それを丁重に断られた。その当時、ぼくは少し奇異に感じたが、さすが大岡さんだと感心もしました。ところが、その後に授賞を断った理由が判然としたとき、ぼくは、大岡さんへの評価が少し変わったと思いました。彼は「戦場で傷ついて、捕虜になってしまった」、そんな兵士が天皇から勲章を頂けるものでしょうかと、言われたのだ。虜囚の辱めを受けた人間だから、陛下に申し訳なかったといわれた。ぼくにはこの気持ちはわからなかったし、今もそうです。「天皇の兵隊」という意識は、ぼくにはおそらく持てなかったろう。

大岡昇平(おおおかしょうへい)(1909―1988)= 小説家、評論家。スタンダール研究者。明治42年3月6日、東京市生まれ。青山学院中等部から成城中学へ転じ、成城高校文科へ進む。家庭教師となった小林秀雄を通して河上徹太郎や中原中也(ちゅうや)、中村光夫(みつお)らと知り合い、昭和文学の担い手のなかでもっとも優れた人たちと文学的素養を蓄積する幸運に恵まれた。1934年(昭和9)京都帝国大学仏文科を卒業、国民新聞社や帝国酸素などに勤めるかたわら、スタンダール研究で知られるようになった。44年召集され、フィリピンのミンダナオ島の戦線に送られた。アメリカ軍の捕虜となり、45年(昭和20)12月に帰国。そのときの体験を描いた『俘虜記(ふりょき)』(1948。のち『合本 俘虜記』に収めるとき『捉(つか)まるまで』と改題)で、作家として出発した。その後、捕虜生活中の体験を「檻禁(かんきん)された人間」の視点から描いた『合本 俘虜記』(1952)や、極限状況の人間の実存を追求した『野火(のび)』(1948~49)などを完成し、戦後文学の旗手となった。さらに戦闘と敗走の体験を核として歴史小説にも着手し、『将門記(しょうもんき)』(1965)や『天誅組(てんちゅうぐみ)』(1974)などを著し、転じて井上靖(やすし)や森鴎外(おうがい)の歴史小説を批判して文壇や学界に重要な問題を投げかけ、またレイテ島における戦闘経過を膨大な資料を駆使して克明に再現しながらわが国近代の問題に迫った大作『レイテ戦記』(1967~69)を完成した。/ 他方、明晰(めいせき)な分析的文体によって恋愛心理をとらえた『武蔵野(むさしの)夫人』(1950)や『花影(かえい)』(1958~59)などの名作を完成し、あるいはまた『朝の歌』(1956)や『在(あ)りし日の歌』(1966)などによる中原中也研究や、『富永太郎』(1974)の評伝的な研究、『常識的文学論』(1961)、『昭和文学への証言』(1969)、『文学における虚と実』(1976)などの評論、推理小説的な設定によって現代の裁判の問題をえぐった『事件』(1977)、B級戦犯として死刑を宣せられた元軍人の法廷闘争を再現したドキュメント『ながい旅』(1982)などを著し、現代でもっとも総合性のある、多彩な活動を行った。昭和63年12月25日没。(日本大百科全書ニッポニカ)

 今や戦争の景色は様変わりしています。「ウクライナでも中東でも、主役は無人機ドローン。…、遠隔操作で効果的に標的を狙える。ゲームのようで罪悪感が薄れ、攻撃の歯止めがきかなくなりはしまいか」、それどころの騒ぎではありません。アメリカでは、国軍最高司令長官がゴルフに興じながら、「戦争の指揮」を執っているのが現実です。あるいは「日米首脳の宴会」を開きつつも人を殺している。罪悪感どころの騒ぎではないでしょう。今でもぼくは、国連や、世界中の心ある政治家たちが寄り集まってロシアやイスラエル、アメリカの戦争指導者を羽交い絞めにして拘禁してもらいたいと願うばかりです。「憎しみは憎しみを生む」ばかりです。為政者(権力者)だけが戦争をしたがるとは思いませんが、最終的には戦端を開くのは権力者です。それなら、為政者同士が戦えばいいのに。拳銃で「早撃ち」競争するか。それとも腕相撲でもするか。あるいは、互いに怪我を避けたいのなら「じゃんけん」も一方法ですよ。「米国はさらにAI(人工知能)まで搭載し、軍事利用を進めつつある。殺し合いまで学習するAIの行き着く先を想像すれば背筋が寒くなる。傷つけ合う前に戦いを避ける…人間はそんな後戻りできるところにいるだろうか」いかにも取り返しのつかないところまで来たようです。だからこそ、…。ぼくは諦念を持ちつつ、生きています。

 「赤いスイートピー」に惑溺するのが人間なら、自分は王様だと、王様同士が無数の殺戮を重ねなければ、自らの「愚かさ」がわからないというのも人間です。おそらく、その差は、紙一重でしょうね。同じ一人の人間の裡にある「狂気」と「正気」の鬩(せめ)ぎ合い、誰もが狂気に走る恐ろしさがあるのが人間です。それゆえに、「戦争と平和」もまた、紙一重ですね。(Madness and sanity, war and peace—they are truly separated by a fine line.)

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「矢切のわたし」「佃のあなた」

 今朝は夜来の雨が降り続いています。気温もやや低めで、寒い朝といっていいでしょう。しばしば「花冷え」などということがありますが、「開花宣言」が出された土地土地も、「花冷え」ということでしょうか。「桜が咲くころの、一時的な冷え込み」(デジタル大辞泉)咽(むせ)び泣いてる「巷の桜」です。昨日付の中日新聞コラム「夕歩道」に目ではなく、足を止めました。木曽川に数多く架かっていた、最後の「渡し舟(西中野渡船)」が廃業するという。江戸時代から、川を超えるには不可欠な交通手段も、すっかり邪魔者にされてきました。これもまた「文明」時代の運命なのかもしれません。時代が下るとともに、人は「便利」「効率」ばかりを求め続ける一方で、その反動からか、東海道を「歩き続ける」、「自転車で日本一周」、極めつけは「ボートで世界周航」などと、原始時代そのものの生き方を確認するような、驚くべき野蛮(と思われるでしょう)・向こう見ずな行動に人生をかけることが生じる、いったい、それはどうしてでしょうか。(ヘッダー写真は柴又川の渡し場風景。とても汚いですね。左の写真は「木曽川西中野渡船」です)

 「夕歩道」を一読、「邪魔者はどけ」という「古物廃棄」思想の横行瀰漫を思います。それでいて、「樹齢何百年の桜」などと聞けば、狂喜乱舞のお粗末なのですから、手には負えませんね。たかが「渡し舟」じゃないか。そんなものは博物館にでも放り込むがいいと、誰も彼もが邪魔者扱いする趨勢に、ぼくたちは太刀打ちできません。しかし、無くなったら、無くなると聞いたら、急に「惜しくなる」風を装うのもまた、人情でもあるでしょう。昨日は、年甲斐もなく松田聖子さんの「赤いスイートピー」に若者の「瞬間の恋心(シャボン玉のような)」を感じようとしたわけでもありませんが、「春色の汽車」に揺られた気がしましたが、本日は、「夕歩道」に誘(いざな)われて、最も「ど演歌」といわれそうな一曲に惹かれてしまいました。

 「木曽川の渡し」に刺激されて、当方は「矢切の渡し」です。もう半世紀も前に発表された「演歌」で、当初、ぼくは耳で聞いて「矢切の私」と覚えてしまっていました。もちろん、それで「歌心」(歌の意味)は十分に通じていたのでしょうが、「矢切の私」なら、どこかに「あなた」があ(い)るはず、そうだとばかり「佃のあなた」に思い当たりました。まだ佃島が辛うじて生息していた時代、やがて消される、そんな時代背景もありました。佃と聞けば「佃煮」であり、吉本隆明さん(彼は月島の船大工さんの息子だった。今では月島は「もんじゃ焼き」の聖地となってしまった)に話が飛びます。東京に出てきた当座、ぼくはまだ、埋め立てがそれほど進んでいなかった越中島や月島、佃あたりを、友人たちとうろつきまわったことがありました。お台場もまだ影も形もなかったころ。昭和40年代初めです)話が横にそれました。

 「矢切の私」です。三十歳前に、ぼくはしばしば江戸川に足を向けました。前述の時期より五年~七年ほど後になります。市川国府台あたりから、松戸方面に向かって続く河川敷を歩いたものでした。そこには里見公園(桜の名名所だった)、その近くには伊藤佐千夫氏の「野菊の墓」の思い出が刻まれていた。その後方に「矢切」(松戸市)があった。対面(東京側)には柴又があり、金町があり、そこにもぼくは何度か足を運んだ。土手沿いにあった「川魚料理屋」にも靴を脱いだことも何度か。じつは、これもそれも、当時かみさん(になる前)が国府台に住んでいて、ぼくは本郷。「矢切の私」は本郷の住人でした。もちろん「渡船」があることは知っていたが、私は「渡し」と気づくのが遅かったのだ。お粗末の一席(隻)ここまでが前書き。 

【夕歩道】
 本日25日は木曽川の渡し船にサヨナラする日。愛知県が県道の一部として無料で川面を走らせてきた動力船が運航最終日を迎えた。木曽川には大昔から無数の渡しがあったが、ついに全て消える。
 西中野渡船(定員14人)。愛知県一宮市-岐阜県羽島市の約1キロを7分ほどで結んだ。近くに大きな橋が昨年架かり、ご用済みとなった。名残を惜しむ客で2月から混雑し、北海道から来た人も 。
 大変な苦労をして川を渡った時代があったのだ。岐阜県出身の岡田只治が明治時代に発明した岡田式渡船をご存じか。両岸をワイヤで結んで船を効率的に行き来させた。木曽川にもその跡がある。(中日新聞・2026/03/25)

 御託は並べません。作詞家の石本美幸さんも作曲家の船村徹さんも大好きな人でしたから、彼らが生み出す作品には何であれ、飛びついていたこともありました。とりわけ、ぼくは作詞家の石本さん作には、本当に「いい詞だな」と感心しきりだった。二人のことを語れば際限がなくなるので、それは止めておきます。この「矢切の渡し」が生まれた状況を船村さんは語っておられいます。レコードがちあきさんの歌で発売されて、やがて細川たかし節が大ブレークしたので、逆にちあき演歌にも火が付いた按配でした。しかし、ぼくは最初から、一貫して「ちあきなおみ命(いのち)」でした。彼女のデビュー当時(最初はつまらない曲ばかり、という印象でした)にはほとんどタレント紛いのお姉ちゃんという感じしか持てなかったので、それほど拍手はしなかったが、その歌唱力には舌を巻いたものでした。(彼女の母親は、厳しい「ステージママ」の走りみたいだったですよ)

《「矢切の渡し」(やぎりのわたし)は、船村徹(左写真)の作曲、石本美由起の作詞(下右写真)による演歌。1976年にちあきなおみのシングル「酒場川」のB面曲として発表され、1982年にはちあきなおみのA面シングルとして発売された。翌1983年に多くの歌手によって競作され、中でも細川たかしのシングルが最高のセールスとなった》《作曲者の船村徹は「ちあき君の歌は(楽曲のイメージ通りの)手漕ぎの櫓で、細川君の歌はモーター付の船だ」という評価を下している。また、ちあきの歌は「鑑賞用」で細部まで聴かせるのに対して、細川の歌は一本調子であるため、カラオケなどで誰でも歌えると世間に思わせてしまっている、とコメントした。なお、実際の矢切の渡しは、必要に応じて手漕ぎとモーター(エンジン)を併用して運航されている》(Wikipedia)

 昨日の「イチゴ白書(The Strawberry Statement)」的甘さとは打って変わって、本日の演歌はどうでしょう。石本さんの歌詞を繰り返し読んでみます。「親のこころにそむいてまでも 恋に生きたい二人です」「噂かなしい柴又すてて 舟にまかせるさだめです」「息を殺して身を寄せながら 明日へ漕ぎだす別れです」と、それこそ、世間の柵(しがらみ)を断ち切って、あるいは親子の縁を切ってまでも「恋に生きたい二人です」という、ここのところ、当時の青二才だったぼくにもかぶさってくる気がしました。今だから言えるのですが、下手をすれば「週刊誌ネタ」になりかねない「私とあなた」だったから。だから、余計にちあきなおみさんの嗚咽(おえつ)が響いてきたのでしょね。(少しばかり滑稽だと思ったのは、柴又から逃げて松戸からどこへ行ったか?という謎、それに興味を持ったものでした。二人の行方は杳(よう)として知れないままでしたが、船村(栃木県出身)・石本(広島県出身)コンビの後年の活動を見れば、女性は「福島・塩屋崎」(「みだれ髪」)あたりに逃げたかもしれないという予想がたちます。男の行方はいまだ知られず、です。

 矢切の渡し

つれて逃げてよ…
ついておいでよ…
夕ぐれの雨が降る 矢切の渡し
親のこころに そむいてまでも
恋に生きたい 二人です

見すてないでね…
捨てはしないよ…
北風が泣いて吹く 矢切の渡し
噂かなしい 柴又すてて
舟にまかせる さだめです

どこへ行くのよ…
知らぬ土地だよ…
揺れながら艪が咽ぶ 矢切の渡し
息を殺して 身を寄せながら
明日へ漕ぎだす 別れです

(⁂ ちあきなおみ 「矢切の渡し」・https://www.youtube.com/watch?v=8IontdyNw7I&list=RD8IontdyNw7I&start_radio=1

 この歌以後のちあきさんの存在は大変大きなものになりました。いつだったか「紅(あか)とんぼ」という飲み屋を新宿駅裏に探したことがありました。そこにはなかったが、千葉県の国道16号線沿いに「赤とんぼ」があったので何度か入ったことがあります。どうでもいいことでしたが。ちあきさんの「紅(あか」とんぼ」も、とてもいい歌ですよ。お店たたんで、田舎に帰る「あかとんぼ」の歌でした。

 「空にしてって 酒も肴も 今日でお終い 店じまい 五年ありがとう 楽しかったわ いろいろお世話になりました しんみりしないでよ ケンさん 新宿駅裏 紅とんぼ 思い出してね 時々は」「いいのいいから ツケは帳消し 貢相手も いないもの だけどみなさん 飽きもしないで よくよく通ってくれました 歌ってよ騒いでよ しんちゃん 新宿駅裏 紅とんぼ 思い出してね 時々は」「だから本当よ 国へ帰るの  だれももらっちゃくれないし みんなありがとう うれしかったわ あふれてきちゃった思い出が 笑って泣かないで チーちゃん 新宿駅裏 紅とんぼ 思い出してね 時々は」(吉田旺作詞・船村徹作曲、1988年発表)

 (長く飲んだものでしたが、こんな店には出逢わなかったですね。ほとんど同じ一軒の店に通いづめだったですね、ぼくの場合は。その店はもうない。亭主は二年前に亡くなり、ぼくは酒を辞めて十数年になります。「いいのいいから ツケは帳消し」などということは全くなかったが、酒はうまかったし、魚・肴も口に合っていましたね。三十年近く、ぼくはこの呑み屋で「黒帯」一本鎗でした)

蛇足 ぼくは演歌大好き人間です。しかし、何でもかんでも好きかと聞かれれば、違うね、と答えます。流行歌は「時代を映す鏡」であればこそ、「乱れ髪」にも「蟹工船」にだって匹敵するものになりえます。詰まりは、そこに「歴史性」「批判性」とか「人間の性(さが)」の深さや厳しさがあるならば、流行歌はそこにおいて、その本領を発揮するといいたいのです。「惚れた腫れた」とか「切った張った」「別れろ切れろ」とか、「捨てた拾った」などという、捨て置いてもいいようなものをいくら深刻に取り上げ、切々と歌ったところで、ぼくの「琴線」(あるとするなら)には響かないでしょう。ぼくは「長崎物語」(昭和14年)という戦時中の歌謡曲や戦後直後の「星の流れに」(昭和22年)などは大好きです。そこには「一人の女性の歴史」が時代相・世相に重なる趣があるからです。その点からいえば、「赤いスイートピー」も「矢切の渡し」も合格点には達していないというべきです。しかしそこはそれ、作詞家・作曲家というものの「芸術性」(才能)において、ぼくは「作品」を評価したいんですね。もちろん歌い手の力量にもよりますが、ね)

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(⁂ 「星の流れに」菊池章子https://www.youtube.com/watch?v=Xa0Jl71N7ag&list=RDXa0Jl71N7ag&start_radio=1

《◎星の流れに(ほしのながれに)は、1947年(昭和22年)10月にテイチクから発売された歌謡曲。作詞:清水みのる、作曲:利根一郎、歌は菊池章子。/作詞した清水は、第二次世界大戦が終戦して間もない頃、東京日日新聞(現在の毎日新聞)に載った女性の手記を読ん。もと従軍看護婦だったその女性は、奉天から東京に帰ってきたが、焼け野原で家族もすべて失われたため、「娼婦」として生きるしかないわが身を嘆いていたという。清水は、戦争への怒りや、やるせない気持ちを歌にした。こみ上げてくる憤りをたたきつけて、戦争への告発歌を徹夜で作詞し、作曲の利根は上野の地下道や公園を見回りながら作曲した。/当初、テイチクではコロムビアから移籍したばかりで、ブルースの女王として地位を築いていた淡谷のり子に吹き込みを依頼した。しかし、「夜の女の仲間に見られるようなパンパン歌謡は歌いたくない」と断られた。そこで、会社は同じくコロムビアから移籍していた菊池に吹き込みを依頼した。彼女は歌の心をよく把握し、戦争の犠牲になった女の無限の哀しみを切々とした感覚で歌い上げた。/完成した際の題名は『こんな女に誰がした』であった。GHQから「日本人の反米感情を煽るおそれがある」とクレームがつき、題名を『星の流れに』と変更して発売となった。(Wikipedia)

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あなたの 生き方が好き このまま帰れない

【春秋】春色の汽車に乗って 列島が春色に染まると、口ずさみたくなる歌がある。<♫春色の汽車に乗って海に連れて行ってよ>。松田聖子さんの「赤いスイートピー」だ。作詞家の松本隆さんがこの歌の誕生についてつづっている▼「花の歌を」と依頼があり、作曲を松任谷由実さんに託した。歌詞を書く中で、届いたメロディーにぴったり合う音韻の花がスイートピーだった。曲が盛り上がる場面で母音が「い」の音が入ると、切なさが出て、日本的なわびさびも託すことができるとも明かしている▼歌が発表された頃、赤いスイートピーはまだ流通していなかった。<心の岸辺>に咲いていた赤い花が新品種として花屋に並ぶのは、ヒット曲から約20年後だ▼<あなたが時計をチラッと見るたび泣きそうな気分になるの?>。特にこの歌詞は、多くの人々の恋心に響いた。罪作りな「時計」は腕時計ではなく駅のホームにある丸い時計のことという▼遠くの時計に視線をずらすしぐさも見逃さない。少女の切ない場面を描いた松本さんに「あなたは少女の心を持っているのですか?」と質問が届くこともある。近年は保守点検の手間や携帯電話の普及から、駅や公園の大きな時計は減りつつあるようだ▼スイートピーの生産量は宮崎県が日本一。日南市では高校の卒業生にスイートピーを贈る。花言葉は「門出」と「別離」。花びらが、今にも飛び立とうとするチョウに似ているからだ。(西日本新聞・2026/03/25)

「赤いスイートピー」は、松田聖子の楽曲。自身の8作目のシングルとしてSony Recordsからシングル・レコード、EP盤で1982年1月21日に発売された。規格品番:07SH 1112(レコード)1989年には8cmCD、2004年には紙ジャケット仕様の完全生産限定盤12cmCDとして再発売されている。(Wikipedia)

(⁂ 松田聖子 赤いスイートピーhttps://www.youtube.com/watch?v=2Htj6AChzTE&list=RD2Htj6AChzTE&start_radio=1

 この曲については、同じような季節(2~3年前)に触れたことがあります。不思議というか、奇妙ですね。この曲が流行っていたころ、ぼくはこの歌手に関しては全く関心がなかったが、双子の娘たち(10歳くらいだった)がよく歌っていたのを聞いていたし、彼女たちが見ていた番組に付き合わされて、その雰囲気や光景はよく覚えています。もう40年以上も前のことなんですね。また、作詞と作曲の御両人についても、熱心なファンではなかったが、その曲想や曲調は時間の経過に連れて、記憶に残っていきました。作詞家の松本さんは1947年、東京都港区生まれの、シティボーイだったようで、早くから音楽活動をされていた。作曲の呉田(ユーミン)さんは八王子生まれ、都会センスが生まれつき備わった女性。高校時代から音楽づくりをされていた。

 詳細は省きますが、繰り返し、「赤いスイートピー」の歌詞を読んでみます。松本さんは、なかなかの「恋愛専科」だったように思われてきます。歌手の聖子さんは、確か福岡県久留米市の生まれだったと覚えています。この取り合わせがぼくには興味がありました。勝手な空想を膨らませると、都会のお兄さんが田舎出の彼女を誘い出す、しかしなかなか彼女は調子を合わせることができないで、数歩も後ろから追いかけるという風情でしたね。

 「心に春が来た日は 赤いスイートピー」と終わりますから、今は、彼女は一人、好きなお兄さんは誰かと結ばれたんですよね、きっと。そんな淡い、というか、悔しさが入り混じったほろ苦い、彼女(聖子さんか?)の心模様が歌われていたのではなかったでしょうか。時は春。残念だけれど、「心の春」はぼくにはもう来ないから、聖子さんの「赤いスイートピー」を聴くばかりです。

 (どこかで読んだのですが、この「赤いスイートピー」の場面設定は神奈川県の鎌倉高校付近だという。由比ガ浜もあり、江ノ島もあり。ぼくは何度もこの地に足を運び、鎌倉高校で「授業(みたいなもの)」を重ねたことがあります。もちろん、その当時も「赤いスイートピー」は見ませんでしたが。鎌校近くだったか、漁師さん経営の美味しい料理屋があり、そこで御馳走になったことがある。「この肴と酒が好き このまま帰れない 帰れない」と深酒をして、寝過ごして横須賀線を房総まで暴走してしまいました)

追記 3月20日(彼岸の中日)に、卒業生が 8名だったか、各地・方々から拙宅に駆けつけくれました。昨年(15名出席、ネット(ライン)参加1名)に続いての「長柄ゼミ」を開講しました。出席予定の2名は「心に春」なのか、あるいは「心に傷」だったかで、出席不能でした。メンバーはもはや50(「四十而不惑」をこえて、「五十而知天命」)になろうかという面々。それぞれの来歴(「赤いスイトピー」)を伺いましたが、なかなかの聞きものでしたね。「波瀾万丈」というか、「山あり谷あり」というか。「私は平板な道を歩いています」という人は、当たり前ですが、一人もおられなかった。ほとんどが、欅坂(けやきざか)、あるいは「乃木坂」か、または…「真坂」か。三十年前の「若い学生」が、ぼくの目の前にいて、いささかの「変化」も見せず(成長していないという意味ではありません、容姿や才能において、という趣旨です)、幸運にも楽しい時間を送らせていただきました。

 男女を問わず、ぼくの考えている「教師紛い」の持つ「付き合いの哲学」(そんなものがあるとして)は、松本さんの「詞」そのままのものでしたね。ぼくが曲がりなりにも教師(紛い)になれるとしたら、それは生徒(学生)がいるからで、その反対ではないということ。「親から子が生まれる」のではなく、「子が生まれて、はじめて親になる」とはヘーゲルの言でした。(ぼくにとって、誰もがぼくの「先生」ですね。森昌子さんに「先生、それは先生」という曲がありました。そのままですね、「あんたが先生や」です、学生が先生で、先生が学生なんですよ)

 学校で出会った一人一人と、ぼくは以下の、歌詞のままの「姿勢」で付き合おうとしました。もちろん、「そんなのいやだ」と逃げた方も数知れずでしたが。 「I will follow you あなたについてゆきたい I will follow you ちょっぴり気が弱いけど 素敵な人だから」「好きよ 今日まで 逢った誰より  I will follow you あなたの 生き方が好き このまま帰れない 帰れない」(断るまでもなく「I」は、ぼくですよ)(ぼくは教室に入るたびに、「心の岸辺に、赤いスイートピーが咲いた」ような気分(それはどういう気分だったろうか)になっていたのは事実です、毎回ではなかったけど)

 そして、何十年も過ぎてから、それぞれが出逢いを重ねて年をとった今、ぼくの思いは、やはり「心に春が来た日は 赤いスイートピー」が咲き出すような気がするのです。山中の僻地にある、それこそ年老いた夫婦がようやくにして詫び住まいをしている「陋屋」に、各地から「赤いスイートピー」を持ってきてくださった、若い人ではなく、中年に差し掛かった、一人一人の「卒業生」に感謝している。もちろん、今も輝いている「聖子」さんも大変な人生を生きておられますね。人それぞれに歴史あり、ですね。

 (余談 かみさんと結婚(1973年3月20日)して、今春で53年を迎えました。半世紀以上も前に、二人の「心の岸辺に 赤いスイートピー」が咲いていたかどうか。すっかり忘れてしまいました。しかし「今日までに逢った誰よりも好きだから」、「あなたの 生き方が好き このまま帰れない 帰れない 帰れない 帰れない」とどちらが言ったのか、言わなかったのか、いずれにしてもずっと居座ってきましたね、半世紀以上も、互いに。もうすっかり記憶の彼方に「スイートピー」は霞んでしまいました。「心に花を咲かせたい」と、ともどもに老いの坂を下りつつ、記憶の衰えに助けられながら、時には口ずさみたいと思う。猫屋敷に仮住まいをしている「花咲か爺さん・婆さん」の心地がしています。

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The name matters less than the presence. 

 拙者、愚論、再び。先にロイター(Reuters)がバンクシーの正体を暴いたという記事を紹介しました。今度は同じような有名な配信社であるAP(Associated Press・ニューヨークに本部を置く非営利通信社、1846年設立)が、ロイターに張り合う意図をもってではないでしょうが、バンクシーという「謎」の意味を記事にしていました。とても興味深く読むことができたので、そのさわりだけを紹介してみたくなりました。著者はLAURIE KELLMAN(ローリー・ケルマン)氏(AP通信で米国政治と外交問題を担当し、ワシントンで23年間、エルサレムで3年間報道活動を行った。現在はロンドンを拠点としている)。

 (ヘッダー写真「ウクライナ、ボロジャンカ、11月12日(ロイター) – 有名なグラフィティアーティストのバンクシーが、ウクライナのボロジャンカの町で作品を発表した。この町は4月までロシアに占領され、モスクワによる隣国侵攻初期の戦闘で甚大な被害を受けていた。バンクシーは金曜日の夜遅く、コンクリートの瓦礫の山の上で逆立ちをする少女体操選手を描いた壁画の写真をインスタグラムに投稿した。この作品は砲撃で破壊された建物の壁に描かれたものだ」Reuters・2022年11月22日午前3時38分)

The media may have unmasked Banksy — again. That’s angered some art fans but not ruffled dealers
LONDON (AP) — Years before the rise of Instagram, Banksy figured out that the key to real influence lay in not being famous, exactly, but in being anonymous./The mystery of his identity has long been part of the value of his art, which for decades and across continents defied authority from public walls and self-shredded on the auction block. Now, Banksy’s apparent unmasking by the Reuters news agency has generated talk about whether the works themselves retain their cultural and financial value.
It also raises the question: Why pop the red balloon of his mystique in the first place? Many Banksy fans mourned the loss of the mystery and lashed out at the news outlet. One said it was like being told without warning that Santa Claus doesn’t exist./“I feel like they are telling me how a magic trick is done,” said Thomas Evans, a Denver-based artist on Instagram. “Sometimes I just want to enjoy the magic trick.”
But some art experts say the murals and the message will survive Banksy’s naming because his appeal wasn’t driven solely by his anonymity. He and his works — mischievous and also dark — stand as witnesses to injustice, oppression and inequality around the world, from the artist’s native England to walled-off Bethlehem and war-ravaged Ukraine. Subtract his anonymity, they say, and the work still inspires reflection and discussion./“People buy his works because they absolutely love it,” said Acoris Andipa, director of the Andipa gallery in London. “The main feedback that I get is that they really, frankly, don’t care if they know who he is.”((The rest is omitted.)(AP・Updated 4:46 AM JST, March 23)(https://apnews.com/article/banksy-art-gunningham-identity-bca10c147d7ea97bdbb23058cfd613b5)

 ネットがグローバルに張り巡らされる時代、それよりはるか以前に、バンクシーという「路上画家(street painter)」は、社会において影響力を生み出す源泉は「有名である(famous)」ことではなく「匿名にある(anonymous)」と直感していたという。そうかもしれません。新聞を読まなくなってずいぶん時間が経過していますが、ぼく自身が「有名人病」「高名症候群」に取りつかれなくなった(新聞に載る有名人や知識人とされる人々に、必要以上に「関心」を持たなくなったということ)理由は、いわゆる知識人、あるいは学識経験者、また文化人などと称して(称されて)新聞紙上を賑わしていた「論壇」や「文明批評」などに一切お目にかからなくなったけれども、ぼくの日常に何の支障も生まれなったという実感が芽生えたことが大きいでしょう。新聞は「インテリ臭気」を配っていたと、若気の至り(20代~30代)だったぼくには思われていましたから。

 バンクシーという画家が、「謎」であり続ける第一の理由は、彼自身が「私はカミングアウトしない」と断言しているところにあるのかもしれません。「私はバンクシーだ。どうだ、参ったか」などという興ざめする科白を彼は(今のところ)吐いていない。ある人は、彼を見る・観るのは「マジックを楽しんでいるようなものだ」と述べている。確かにその一面はあるでしょう。「私はマジシャンです」といいつつ、その手品の種明かし(舞台裏をみせる)をする人はいないと思う。その昔、大いに世間を「震撼?」させたユリゲラーという「心霊魔術師」の正体は何だったか。スプーン曲げや「時計よ、動け」の魔術が、この軽佻浮薄な劣島社会相にマッチし、大ブームになったが、その後はすっかり消えてしまいました。儲かったのはテレビ局とスプーン屋さんだけだったか。(ユリゲラーの履歴を書くところではないので、ここで止めておく。彼自身が「超能力」を売り物にしなければんらなかった、生活事情がありました。いつか書いてみたい)彼はバンクシーと違って「有名になる」ことが最大の目的(金稼ぎ)だったから、正体がばれると、彼の「インフルエンス」は一瞬のうちに消えたのでした。ネット時代の「(お騒がせ)ユーチューバー」のようでもありました。

 ロイターのつまらない「謎解き」によって、確かに彼(バンクシー)の「面は割れた」でしょうが、そのことは、彼の「神秘性や芸術性」とは直接のつながりはないと、断言したくなります。彼は「有名人」だから彼の作品に値打ちがあるという(そういう人いるでしょう)のではなく、ひたすら「謎のまま」だから、そしてその謎の画家が「町中華」ならぬ「町芸術」を、まさに神出鬼没・百鬼夜行のごとくに描いては立ち去る、その瞬発力と、彼が残した「壁画」の諷刺性(satire)、芸術性(artistic quality)によるものです。「風刺」というものをぼくたちは軽くとらえがちですが、なかなかそういうものではないでしょう。社会の良識・常識(sense)(したり顔)というものを、一撃のもとに「無価値化(devaluation)」「無意味化(nonsense)」「裸の王様」してしまう。ウクライナにおけるバンクシーの「作品(work・performance)」と熟視するといい。それは何を語っているか。Pがどれほど歔欷に侵されていることか、それを僕はしっかりと記憶に留めおくのです。

「風刺(ふうし)(satire)」とは「個人の愚行,政治の欠陥,社会の罪悪などに対する批判や攻撃を,機知に富んだ皮肉,あざけり,あてこすりなどの形で表現した詩文。風刺文学はまずローマで栄えたが,その代表的作家はホラチウス,ユウェナリスである 。中世では動物譚など寓話形式の風刺物語がみられた。 18世紀は『風刺の世紀』と呼ばれ,イギリスでは詩人ポープがドライデンのあとをうけて古典的な風刺を完成させた。しかし風刺文学の本流は散文に移り,イギリスではスウィフト,フランスではボルテールが現れた。 19世紀以後は,たとえばバイロン,G.B.ショーらにたくましい風刺精神が認められるが,伝統的な風刺文学は分散する傾向にある。日本では特異な風刺詩として川柳や狂歌があり,広く大衆に愛好されたが,質量ともに本格的な風刺といえるものは少なかった」(ブリタニカ国際大百科事典)とありますが、 その担い手は詩文や散文ばかりではありません。実は「風刺画」もまた重要な権力批判の要素となっていたことを忘れてはならないでしょう。瓦版、川柳・狂歌などとともに、権力の悪に向かって反撃する、抵抗する、盾突くなどと、多様な方法を駆使して、権力を打擲(ちょうちゃく)したのでした。もっとも代表的な諷刺精神として、ぼくはエラスムスの「痴愚神礼讃」を挙げておきたい。バンクシーは「現代のエラスムス」だといいたいほどですよ。

愚神礼賛(ぐしんらいさん)Encomium Moriae=オランダの人文学者エラスムスの風刺文。1511年刊。「痴愚神礼讃」の訳名もある。親友トマス・モアのラテン名モルスからモリア(痴愚の女神)を連想してこの題名がつけられた。このモリアが、この世にどれほど痴愚が満ちあふれているかを数え上げ、自分の力を誇るという体裁で書かれている。人間の誕生の原因は結婚にあるが、人が結婚する気になるのは愚神の侍女である「乱心」のおかげなのだといった調子である。哲学者・神学者のくだらぬ論議、君主や家臣の功名心、教皇はじめ聖職者たちの偽善、最大の愚行としての戦争などが、いずれも愚神の勝利として語られる。このように愚神礼賛の合間に、教会の腐敗に対する皮肉たっぷりな嘲罵(ちょうば)が語られていることで、この書は有名である。(日本大百科全書ニッポニカ)

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(⇑ AP file photo A woman takes a picture of artwork that might have been made by British street artist Banksy on a building destroyed by fighting in Borodyanka, Kyiv region, Ukraine, Nov. 13, 2022.)(AP・2026年3月23日午前4時46分)

(⇑ Pedestrians walk past a graffiti artwork, depicting two people, outside Tottenham Court Road Station in London, Dec. 22, 2025 as elusive street artist Banksy appeared to confirm Monday that an identical image appeared on a wall on the side of a building in Bayswater, west London is his latest work. (AP Photo/Kirsty Wigglesworth)(AP・2026年3月23日午前4時46分)

 ぼくは偏った人間ですから、ある意味では極論に聞こえるかもしれません。昔から「美術館」「博物館」「音楽ホール」など、あまり好きではなかった。逆に、今ならストリート音楽(大道芸)に一つの可能性を見出してさえいます。バッハやモーツアルトがコンサートホールに収まっていることに対して、実に窮屈に感じていたほどで、そんな狭い空間からの「開放」「解放」こそが、ぼくなどが求める「音楽」に合致します。モーツアルト自身も、一時期は一種の大道芸人だったし、バッハ音楽は「教会」と歩調を合わせていた(教会楽士)けれども、他の多くの曲は「世俗」のものでした。

 時代とともに、社会の中で、ぼくたちは生きています。その人間が生み出す「作品」もまた「時代」や「社会」と無関係であるはずもないといえるでしょう。バンクシー(に限らず)作品の持つ「風刺性」とともに、批判精神、それがなければ、あるいは単なる「落書き(graffiti)」で終わっていたかもしれないと考えることもあります。極端に聞こえるでしょうが、ずいぶんと昔、学生時代、作家の志賀直哉さん(左上写真)が奈良の古寺をみて、「法隆寺はいいなあ、誰が作ったかわからないのに、寺の姿ばかりが美しい」という意味のことを書かれていて、ぼくはいたく感動したものでした、作品には作者はいるのが当然ですが、時間とともに、作者は消えて作品は残るのが世の倣い。志賀さんは「自分もそんな作品を書いてみたい」といわれていたと思う。(戦前だったか、志賀さんは奈良に住んでいたことがある)法隆寺を立てたのは「聖徳太子」というのは極めつけの嘘であって、実際はたくさんの無名の渡来してきた「大工さん」だった。

 不思議というか、奇妙というか。作品があれば、きっと作者がいるはずですが、それが気にならないようになる、そんな歴史・時代を人間は生きてきた・生きているのです。これもずいぶん昔、民俗学者の柳田国男さんが「火の昔」(右上)という著作において、「火はどうして生まれて、誰が今日まで守り繋いできたのか」と大きな疑問・問題を出されていたことに、不意を突かれると同時に、多くを教えられました。「火の歴史」はほとんど語られませんが、必ずそれを守ってきた人々の歴史があるのです。

Joe Syer, a Banksy expert and founder of MyArtBroker, said that the artist has always responded to world events. “And that’s where the real relevance, and value, sits.”/“If anything, Banksy’s anonymity has functioned less as a celebrity device and more as a way to keep the work universally accessible, detached from personality, ego, or biography,” he said in an email. “It allows the work to sit in public space, politically and culturally, without being anchored to an individual in the way the mainstream press often frames it.”
Christopher Banks, founder of the New York-based Objects of Affection Collection, reads Banksy’s naming “not as a biographical event, but as a structural stress test” of the artist’s system of managing his absence.
“Banksy’s best works carry their meaning without the author. He was there,” Banks wrote, citing the artist’s murals in Ukraine and his solidarity with the war’s victims./“Banksy’s best works carry their meaning without the author. He was there,” Banks wrote, citing the artist’s murals in Ukraine and his solidarity with the war’s victims.
“The name matters less than the presence. The presence was always what the work was about.”(Same as the previous quote)

 バンクシーの作品と匿名性を語ることは、さらに大きな歴史の問題に分け入ることになるのでしょう。それはほんの一例です。固有名を尊重することに異論はありませんが、そのことと作品(芸術)を結びつける理由は、じつは思いのほか単純なものでしょう。<Ars longa, vita brevis>、ヒポクラテスが残した言葉(「人生は短い、芸術は長い」「芸術は長い、人生は短い」)だそうですが、さらに言うなら、芸術だって「儚(はかな)い(ephemeral)」とも言えます。だからどんなに優れた「芸術」でも、作者不評、それが最も人間(人類)の歴史に相応しているのではないでしょうか。すぐ上の引用の中で「『バンクシーの最高の作品は、作者不在でも意味を成す。彼はそこにいたのだ(「“Banksy’s best works carry their meaning without the author. He was there,” )」とバンクスは、ウクライナで書き残したし、それは間違いなしに、「戦争への断罪」であり、その戦火の犠牲者となった人々への「哀悼」でもあったのでしょう。作者と作品を結びつけるのが当然と考える作者もいる、しかしそうでない人もいる。「バンクシーの面が割れた」と大騒ぎをするのもいいけれど、そこから何が生まれるでしょうか。“The name matters less than the presence. The presence was always what the work was about.”と書くのは、文脈からすれば Christopher Banks という画商だったでしょう。でも、それはバンクシーの「思想(態度)」であると考えて間違いないと、ぼくは思うのです。「名前よりも、そこにいたこと(作者の存在)が大事です。作者がそこにいた、それが作品のすべてさ」(左写真『Bomb Love』2003年

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The path this nation once walked

 思い出のアルバム写真から。ヘッダー写真を含め、レアなものばかりです。AIによる偽造写真ではありません。いずれも真正、米国ホワイトハウス公表のものばかりです。海外では、米大統領の「真珠湾攻撃」発言を含めて、日本首相の「反応・無反応」が大々的に(でもありませんが)報じられ、方々で「嘲笑」「侮蔑」の的になっていました。この世界の反応に、真逆の報道をして、日本側メディアは「首相の訪米、大成功」という大本営発表を繰り返しました。「いつか見た記事」<A path we’ve traveled before>のように、ぼくには思われ、いささか毒気に充てられた。

「もうすぐ みんなは 一年生 ♫ 」

 (* 「おもいでのアルバム」「思い出のアルバム」は、日本の歌。作詞:増子とし(1908年 – 1997年)、作曲:本多鉄麿(本多慈祐、1905年 – 1966年)[2]。/テレビ朝日の子供番組『とびだせ! パンポロリン』やNHKの歌番組『みんなのうた』で放送された」(Wikipedia)

 「無事に乗り切った」というのは賛辞ですか。「無理難題をかわした」という意味は何だというのか。中には「怒られなくて(怒らせなくて)よかった」と言う論評までありました。この程度の「滓」「塵」をつかむためにタイマイの国費をかけて「参勤交代」するほどの余裕はこの国にはなかったと思うのですが。「武力による現状変更は許されない」「(我が国は先例を作ったから言えるのだが)宣戦布告のない戦争は間違いです」「この攻撃は国際法違反」「これ以上の無益な殺戮は止めてほしい」ということを相手にぶつけるのが「首脳会談」「外交交渉」でなくて、何が問題になるのでしょうか。「屈辱」を浴びせられ、いささかの反応もできない「卑屈」な姿勢で怯(ひる)んだまま、それは後顧の憂いを残すことはもちろん、現下のこの国の斜陽傾向にこそ弾みがつくことはあっても、隷従に安住するという「属国根性」ばかりが自他に認められてしまったという、醜悪な事態を深めたとぼくには思われる。

 (やがて明らかになる「約束事」、現段階では表面に出されていないが、隠された約束、つまりは「密約(Secret Agreement)」で、事は訪米前に終わっていたと、ぼくは考えていましたよ。歴代の内閣総理大臣と官僚のお得意芸でしたからね。国民を誑(たぶら)かす総理大臣とは何者でしょうか)(今回の訪米は、数ある中の日本外交史汚点中の汚点だったというほかありませんね)(It was the worst stain on history.)

「真珠湾攻撃(があった)から原爆投下(の災禍に至る道)へ」、そしてその歴史的遺恨(怨毒)は、双方の側にあっては、今に続いているのです。それにしても、米大統領(とその取り巻き)の「日本に対する嘲り笑い」にいささかの反論もなしえなかったのは、誰かの何が狂っていたんですか。「卑怯なり」のお手本は日本じゃないかという図星を指されたのでしょうか。「真珠湾攻撃」はループ(loop)を描いて留まるところはないのでしょう。「戦前」があれば「戦中」がある。そしてやがて悲しくも「(敗)戦後」に至るのですが、ぼくの感覚からすれば、いつだって「戦前」であり「戦中」であり「戦後」です。時代のどこを見て物事を判断するか、与えられた(所与)条件は変わらない、どこを見て判断するかという視点の違いだけでしょう。その意味では、ぼくたちは間違いなく「戦前」ではなく「戦中」にあるといっても間違ってはいない。さらに言うなら、「戦中」には戦前も戦後も含まれているのです。攻守所を変えて、というべきか、昨日の敵は今日の友であり、今日の友は明日の敵でもあります。こんな余儀ないことを明示してくれた、今次の「日米乱人首脳会談」には意味はあったというべきです。(*「乱人」とは<A person who is out of the ordinary>の謂いです)

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米国連大使「日本の総理が自衛隊による支援を約束」と主張 ホルムズ海峡の安全な航行の確保で イランが封鎖を宣言している石油輸送の要衝・ホルムズ海峡をめぐり、アメリカの国連大使は高市総理が航行の安全確保への支援として、「自衛隊による支援を約束した」と主張しました。 アメリカ ウォルツ国連大使 「日本の総理が海上自衛隊による支援を約束したばかりだ。ペルシャ湾の原油の80%はアジアへ向かっている」 アメリカのウォルツ国連大使は22日、CBSテレビの番組に出演し、ホルムズ海峡での石油タンカーの安全な航行のための日本の協力についてこのように述べた上で、「同盟国が本来あるべき姿を取り戻しつつある」と主張しました》(以下略)《TBS・2026/03/23)(あくまでも日英のというよりは、日本側の要請で「密約」とされたものですから、表面化しても「そんなことは言っていません」と白を切るばかり。これもまた日本外交の習い性(habit)であります)

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 「テヘランタイムズ」(2026/03/09付け)(100名の殺害された子どもたちの遺影)

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「徒然に日乗」(1039~1045)

◎2026年03月22日(日)朝から好天が続き、各地の桜の開花が一気に進んだ模様。拙宅の桜はまだまだで、ようやく蕾がやや膨らみかけたという程度。▼午前中に買い物で茂原まで。物価高騰の傾向はいささかも変わらず、さらに多くの物品の値上げラッシュが続くらしい。もちろん、「石油」危機が直原因だが、それ以上に質の悪い「便乗値上げ」も少なからずあると思われる。▼日米首脳会談が終わったが、何のための訪米だったか、改めて問い直すべきだと思う。この国の大半のメディアは、今次の「屈辱外交」を、手放しで評価しているが、実態は恥ずかしい限りの「お粗末ぶり」「卑屈根性丸出し」だったと、どうして正直に報じないのだろうか。「真珠湾攻撃」然り、「抱き着き」の醜悪さ然り。総理大臣は、全力を挙げて、この国の「(米国に屈服する)実態」を世界に晒したという点では「史上最悪の首相」「最低の日米会談」だと評価されると思う。「大政翼賛」体制が出来上がっている現実を痛感する。自前の石油が一滴もないのに、どうして「戦争」に参加できるのだろうか。(1045)

◎2026年03月21日(土) 朝6時半にごみを出すために門を出たとたんにタイヤの空気が一瞬にして抜けた。「パンク」だった。ゴミ出しをし、パンクしたままの車を運転し家に戻り、工具を使ってタイヤ交換を試みようとしたが、スペアタイヤは積んでおらず(最近の車はほとんどがそうらしい)、もう一台の交換用タイヤを使おうとしたが、ナットの数が異なり、使い物にならず。漸くにしてパンクしたタイヤを外し、自動車工場に持参し、ホイールを入れ替えた新品タイヤと交換し、自宅に帰って装着。来週の火曜日に残り三本を交換する予定。何年振りかでタイヤを交換したが、普段やりなれていないのでスムーズにはいかず、半日潰れてしまった。(1044)

◎2026年03月20日(金)午前中に卒業生来宅の準備で、あちこち回った。▼帰宅後に訪米中の首相の数度に及ぶ記者会見を、ネット番組でみる。それにしても「論外」の「国辱外交」の展開だったと思う。▼本日は「春分の日」で、昨年に続き、ごく初期のゼミ卒業生が(当初の予定は8名、1名欠席)午後3時過ぎに来宅、夜の8時前に散会。不思議なもので、卒業後20、30年が経過していても、在学時のままの表情だったと、変に懐かしく、かつ興味が湧く。それぞれが生きてきた歴史がある。▼訪米中の首相の発言をいくつかのメディアを通じて聞いた。「論外」「恥辱」「媚態」などというまともではないことを表す言葉が列をなして出てきた、もちろん小生の唇から。国辱というべきだし。さらに言うなら「あいつは国賊だ」といいたいほど。相手国の大統領に飛びついて身を投げ出したのを見て、ぼくは反吐が出たほど。醜悪を世界中にばらまいた感があるのだが、悲しいかな、それほど世界のマスメディアは彼女の媚態を報じてはくれなかった。ひたすら「真珠湾攻撃」と罵倒・嘲笑されながら、いささかの切り返しもできないままでの、彼女のはしたない表情(百面相)に嫌悪感が湧いてきた。それに呼応して、訪米同行記者団の報じる「首脳会談」模様(紙面)は、属国根性丸出しの卑屈な姿勢を(大成功と評価・賛辞)しているものばかり、ぼくの体内では虫唾が走った、おぞましい報道だった。最低以下だったと思う。(1043)

◎2026年03月19日(木)曇り空から、時には雨も。やがて、昼頃までには天気が回復してきた。▼昼前に市原まで、先日注文しておいたプロパンガスコンロの部品(バーナーキャップ)が届いたとの連絡が入った。それを取りに出かけた。そのついでに、銀行などにも出かけた。▼昨日、卒業生のK君からメールが入り3月末に尋ねたいとのこと。四月からは大田区の小学校に移るとのことだった。都内の公立小学校の教員を続けているが、教職にうまくはまってくれているような気がしている。▼首相が米訪問で、明日未明(日本時間20日)に首脳会談が予定されている。狂気が混じった大統領が何を言い出し、それにみえっぱりで虚言癖のある首相がいかに反応するか。(1042)

◎2026年03月18日(水)午前4時に起床。日課となっている猫たちへの食事提供をしながら、パソコンをいじっていた時、アッと気づいたのは「本日は瓶・缶の回収日」だということ。何かと雑用に追われていて、すっかり失念していて、準備もしてなかった。6時過ぎに、回収袋を取りに行き、空き缶を納めた。分量はやや少ないかと思っていたが、満杯になるほどだったから、いつも通りということだ。ペットボトルもトータルで20本を軽く超えていたから、1日一本(2ℓ)ということになる。こんなことを当地に越して以来、続けてやっている。▼気温はそれほど上がらなかったが、それでも15度ほどはあったろうか。予報によると、この先も徐々に気温は上昇安定で、寒さが戻ることはないだろうという。桜の開花も20日前後とされている。▼昼頃だったか、大阪のS君から電話。20日の参加者は8名だという。あるいは増えるかもしれないが。再開が楽しみ。▼首相の訪米前の参議院の委員会審議を少し見ていたが、相変わらずの「不遜な答弁ぶり」というか、訊かれたことにまともに答えていない、驚くべき「傲慢」な態度に呆れもし、一種の怖さ(何をするかわからないという不気味さ)を感じたほど。詰まりは必要以上に「強がっている人間の弱さ」の裏側を見た思い。相手からやられる前に、やってやれという「恐怖心の戦い」が起こっているのだと思う。最も嫌うべき人種だと感じている(1041)

◎2026年03月17日(火)終日自宅に。気温は高くなく、やや寒い日だった。▼自衛隊派遣がほぼ決まったような感がある。参議院の審議における首相の答弁を聴いていると、ほぼ確信に似た印象を持つ。▼日米会談はまともに対面することは無理。米大統領は、「朝の発言と夕べの発言が明らかに異なる」、そんな不安定な人間と重要な話ができるだろうか。発言の軽さ比べでは、日本の首相もそれほどまともだとは思われないから、会談が実現すればとんでもないことになるのを危惧している。国際法違反行為をしている国の側に立つのは、共犯の誹りを受けることは間違いないのだ。「高市首相、米国産原油輸入拡大を伝達意向 トランプ氏に首脳会談で」と報じられている。そうだとするなら、「石油は渡そう。だからホルムズ海峡への警護(エスコート)をやってくれ」(大統領)となり、二つ返事で受け入れるだろう(首相)。両方ともが「国賊(traitor)」だといいたい。(毎日新聞・2026/03/17)(1040)

◎2026年03月16日(月)午前中に市原のHCまで。10年近く使用しているガスコンロのバーナーキャップ(三個口の一つ)が破損(火力の強さで)してしまい、交換部品を依頼するために、いつも利用している住宅関連会社に行った。カタログで部品を探し、注文する。次いで、同じ店内にあるペットショップで、猫用の缶詰め(主に外猫用)と猫の「おやつ」などを購入。さらに同じ敷地にあるスーパー(数日まえにテレビ番組で安さ最高と放映されていた同じ企業の支店)で食品を買う。安くて量が多いと評判だったが、当方は高齢者二人、大量は不要なので、きわめて少量を買って帰宅。▼ホルムズ海峡安全航行問題で、米国から「タンカー警護」の要請が来ているのだが、そして「要請に応じる」と返事をしているのだが、首相は、「要請は来ていない」と虚偽答弁を繰り返している。アラブ諸国との会食の日程を「風邪」でキャンセルしたのも「仮病」かも。テレビ討論会の「ドタキャン」も「仮病」だったらしい。と来ると、ほとんど、やることなすことが「嘘」ということになりそう。こういう人間が「首相」であってはたまらない。いつ辞めることになるのだろうか。(1039)

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⁂ 余話ながら ぼくは政治的人間ではないし、現実の「政治」や「政治家」にほとんど興味を抱いたことがありません。そんな人間が「季節外れ」の脳震盪を起こしたみたいに、執拗に「政治」談義に時間を取られてきました。実に不本意だったと思う。自今以後、よほどのこと(この国で「戦争が始まる」とか、そんな「有事(emergency)」が起こらない限り、政治向きの話は一切慎みたいと思います。ただでさえ腐っている「脳味噌」が、汚れ切った政治問題に思考力を拉致されれば、ますます激しく腐敗すること請け合いで、ぼくにとっては死活問題となりますので)

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