スポーツの実践はひとつの人権である

【斜面】道を照らす火 ミラノ・コルティナ五輪があす未明、幕を閉じる。大会とともに、IOCのコベントリー会長の開会あいさつを振り返りたい。国の別なくたたえ合う選手を見ると、「私たちがどんな人間になりたいのかを思い出します」と語っている◆その通りの光景を何度も見た。フィギュアペアの逆転劇の後で、スノーボードの若者たちの輪の中で。ロシア侵攻から4年となるウクライナ選手団を開会式で先導したロシア人スタッフもそうだ。選手たちはロシア語で話しかけ、彼女は涙したと伝わる◆厳しい現実はある。ロシアは国として参加を拒まれた。一転、パラリンピックでは認められ、ウクライナや地元イタリアが猛反発している。ガザにはイスラエルが居座り、同選手団には開会式でブーイングも起きた。「五輪休戦」の国連決議は守られず、世界で戦闘が続いている◆「人と人のぬくもり、心のこもった触れ合いこそが国境を越える」。28年前の長野五輪の後、本紙に載った看護師の投稿だ。競技で負傷した選手を搬送した際、痛みと寒さに震える彼女に自分の上着をかけ、抱きしめた。その青い瞳から涙があふれたと◆過酷な現実があるからこそ、理想を掲げる意味がある。五輪は国家が競い、争う場ではないはずだ。「あなた(選手)の炎が希望の火をともし、私たちみなの道を照らしますように」と、コベントリー会長はあいさつを結んでいる。選手たちが私たちの胸にともした温かな感情を信じたい。(信濃毎日新聞・2026/02/22)

⁂「週のはじめに愚考する」(107)~ 夏の大会も含めて、ぼくはこの何十年、各国で開かれてきた「五輪」大会のほとんどを見ていません。理由は単純、まさか戦争でもあるまいし、背中に「国旗」を背負って、「勝ち負け」を戦うなんて(そんな選手ばかりではないことを信じています)、とてもではないけれど、スポーツ(運動)精神に悖(もと)るじゃありませんか、そんな個人的な嫌悪感からです。どの国がメダルをいくつ取ったか、まるで「戦果」の競争をしているみたいで、とてもではないけれど、「スポーツ観戦」の気分にはなれないんですな。駄文をつづる際、ぼくはこれまでほとんど「五輪」という語を使い、「オリンピック」という語を避けてきました。その理由は素朴なもので、五輪マーク(シンボル)である「五つの輪」に忠実でありたいと思っていたからです。

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 カースティ・コベントリーは、国際オリンピック委員会(IOC)の会長に選出された初の女性であり、初のアフリカ人である。/ジンバブエ出身のコベントリーは、同国選手で史上最多メダル獲得数を誇り、これまでに同国が獲得した8つのオリンピックメダルのうち7つを獲得。アフリカ大陸においても最多メダル数となる。2018年9月から同国の青年・スポーツ・芸術・レクリエーション大臣を務めている。/コベントリーは2013年にIOCアスリート委員会のメンバーに選出され、2021年にIOC個人委員として再選された。

 世界トップクラスの背泳ぎとメドレーの選手のひとりである彼女は、アテネ2004オリンピックの200m背泳ぎで金メダル、100m背泳ぎで銀メダル、200mメドレーで銅メダルと、3つのメダルを獲得。北京2008では200m背泳ぎで連覇を達成し、さらに銀メダル3個を手にした。/競泳長水路の世界選手権でも3度優勝し、2005年には100m背泳ぎと200m背泳ぎで優勝。2009年には得意種目の200m背泳ぎも制覇した。また、2008年のFINA世界水泳選手権(25m)では金メダルを4個を獲得している。/コベントリーは、5度目のオリンピック出場となったリオ2016オリンピックを最後に競泳選手を引退した。(IOC)(https://www.olympics.com/ja/athletes/kirsty-leigh-coventry

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 よく知られているように、五つの輪は五大陸、「アジア・アフリカ・ヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニア」を示しています。「ミラノ・コルティナ五輪があす未明、幕を閉じる。大会とともに、IOCのコベントリー会長の開会あいさつを振り返りたい。国の別なくたたえ合う選手を見ると、『私たちがどんな人間になりたいのかを思い出します』と語っている」とコラム氏は書かれている。ぼくはこの会長挨拶を知らない。新しく就任された女性の会長であることは知っていました。その新会長が言われる「過酷な現実があるからこそ、理想を掲げる意味がある。五輪は国家が競い、争う場ではないはずだ」とされるう、その精神はどこから来るのだろうか。

 過酷な現実を忘れるつかの間の「桃源郷(Shangri-La)」、それが五輪であるとでもいうのでしょうか。あるいは、この一瞬だけの「理想郷(Utopia)」なのだと、現実逃避を謳歌しようというのですか。そうかもしれませんね、現に五輪の歴史を見ると、そう思ってしまう。国同士が「国威」や「国家の名誉」(そんなものがあるんですか)をかけて記録や勝負を競うのだと、誰もは思わないでしょうが、現実には、各国対抗メダル争奪戦になっていないでしょうか。それでいいじゃないかという人がたくさんいるでしょう。そういう人に、ぼくは与(くみ)しないいし、反対もしない。ただ、素朴なままで「スポーツ精神」というものを少しは考えてみたい。

 「五輪」が「五大陸」を表し、「国の別なくたたえ合う選手を見る」ことで、あるべき世界の姿、そこに生きる人間の姿勢を見るとIOC会長は語られたという。五大陸が「平和共存」する中での「五輪競技」の意味を考えるとき、この「シャングリラ」に戦争や殺戮が持ち込まれていることをどう見るのか。同じ大陸内の隣国同士が「戦火を交えている」ことに、五輪大会はなすすべを知らない。「ロシアとウクライナ」、あるいは「アメリカとベネズエラ」は、互いに殺戮をし、侵略(強烈な内政干渉)をやめないままで、「五輪」を開くことの意味は、どこにあるのか、「イスラエルとパレスティナ」もまた然り。「国の別なくたたえ合う選手」の姿は美しいでしょう。それも、しかし大会期間中だけであったとするなら、虚しさが先に立とうというもの。

 「オリンピック」という呼称を「五輪」と読み替えたのは、元読売新聞運動部記者だった川本信正さんでした。新聞社を辞したのち、スポーツ評論の分野で大きな仕事をした人であり、IOCの委員も務めた。とても辛辣で、厳しい指摘をスポーツ界に向けておられた。ぼくはそこから、たくさんのことを学んだ。たぶん、読売新聞が、今のように、こんなに腐りきっていない時代の稀有な運動部記者だったと思う。「五輪」誕生のいきさつは簡単でした。新聞社の編集だったか校正だったか担当部署の人から「オリンピックでは、見出しには長すぎる、何とかならないか」と頼まれていた。戦前の話です。当時、菊池寛が宮本武蔵の「五輪書」の連載を、ある雑誌にしていた。それを読んで、川本さんは「あっ、これだ」と思い付いたというのです。

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 《この五輪という言葉、今でこそ国語辞典にも「(五輪旗を用いるからいう)オリンピックの俗称」(広辞苑第6版)と出てきますが、実はオリンピックの訳語として使われるようになったのは、オリンピックの歴史から見ればそれほど昔のことではありません。今回は五輪がオリンピックの意味で使われるようになった経緯に迫ってみます。/まず五輪の漢字から連想されるのが中国での表記。漢字なので中国語に由来するのではないかと思われがちですが、実は無関係です。中国でオリンピックは発音に似た音をあてており「奥林匹克運動会」が正式表記で、前回の夏の北京五輪の際は「奥運」という略称も見られました。同じ漢字圏でも日本と中国では表記が異なります。         

発案したのは新聞記者 では、なぜ日本では五輪と表記するようになったのでしょうか。「当て字・当て読み 漢字表現辞典」(三省堂)のオリンピックの項目には「『五輪』はゴリンと読まれ、戦前に日本で新聞記者がスペースを節約するために造り出したもの」とあります。この記者というのが読売新聞記者だった川本信正氏(1907~96年)です(左上写真)。運動部記者としてオリンピック報道に携わり、32年のロサンゼルス五輪陸上男子100メートルで活躍した吉岡隆徳選手を「暁の超特急」と名付けたことでも知られています。戦後はスポーツ評論家として活動し、日本オリンピック委員会(JOC)委員も務めました。/川本氏は40年夏季五輪の東京招致(38年に返上)決定を巡る取材をしていた36年、オリンピックは6文字で新聞の見出しには長い、略せないかという相談を紙面の編集を担当する整理部から受けました。「国際運動」「国際運競」などと考えるなか、五つの輪がオリンピックのシンボルマークだから「五輪大会」はどうかと思いついたといいます。「『文芸春秋』に菊池寛さんが、宮本武蔵の『五輪書』のことを書いたんです。私、それを読んでいまして、あっ、これだと思ったんです。(中略)なるほどマークだし、五輪が、オリンピックのオリンと語呂が合うと言うんですね》(昭和史探訪3「戦火に消された『東京オリンピック』」)(以下略)(日本経済新聞・2012/07/12)(https://www.nikkei.com/article/DGXNASDB18001_Y2A710C1000000/)

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 「五輪」という語には多様な意味があり、仏教でも「五輪」は重要な概念として用いられています。面倒は避けますが、この「五大陸の平和な共存」を、本当に重んじるなら、現行の五輪方式をいくばくかは改革をする必要があるでしょう。大雑把に、その1、2を上げてみます。第一に、戦争や紛争が地球上で起こっている間は、残念ですが、「五輪大会」は中止にしたらどうか。前例はありますよ。それに、各競技における、各種レベルの競技大会は、大小を問わず、実にたくさん今でも開かれていますから、同じような競い合いを五輪大会でやる意味は薄いと思う。「五輪」を尊重するなら、戦争を仕掛けている国の「選手」の参加を拒絶するのではなく、国そのものの責任を問題にすべきだし、そのためには、戦争当事国の責任を今以上に問うべきでしょう。第二に、開催時に五大陸で紛争がないとして、大会期間中はそれぞれの大陸国(参加者)が連合して、競技を進めるのはどうだろうか。競技の記録や勝ち負けは選手のものではあっても、同じ大陸内の選手同士がもっと親交・親睦を深める工夫を凝らすべきだと思う。

 五輪精神の最大の意義は、国家意識を限りなく消すこと、薄めることにあるのではないでしょうか。はじめはは選手同士が戦っているのだが、それがいつの間にか国同士の争いに変わって行く、奇怪な現象をなくすための知恵を働かせる必要があるでしょう。その第一歩として、「国旗」「国家」を五輪会場に持ち込まないことですね。国旗や国歌が、今の社会にどんな価値や意味を持っているのか、あるいは、その国の国旗や国歌を見聞きして、耐えられない思いをする人々もいるでしょうに。「旗のもとに」、という言葉にぼくはある種の嫌悪を覚えるのです。湾岸戦争時の軍事的参加をアメリカから求められた際、アメリカの政府高官は<Show the Flag>と激しく日本政府を詰問したといいます。「国旗を掲げよ」というのでした。今、この国の首相は「国を強くする」「日本列島を強く豊かに」と叫声(嬌声ではないと思う」を上げて、自他を鼓舞している。なんという野蛮で無粋なことだろうかと思う。限りない「精神の頽廃(spiritual decadence)」ですね。

 (言いたいことはまだまだありますが、さしあたり、ぼくが「五輪」に関心が持てないわずかな理由を述べてみました)(マラソンを観戦することは好きですが、もしぼくが参加している選手だったとして、「五輪マラソン」と「ながら(居住地)マラソン」で走ることに、どれほどの差があるかという気持ちになるでしょうね)(各国内の組織委員会、例えば、JOCなどのような組織の関係者は、スポーツ経験者に限るというのはどうでしょう。政治家や業界の有象無象がスポーツを食い物にしている、実に醜悪な事案が多すぎますからね。各国にも似たような事情があるんですか)(「がんばれ!ニッポン!」(JOC)という旗が存在している限り、生きている限り、ぼくは五輪を見ないでしょう》

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*参考資料 

 オリンピック憲章(Olympic Charter 1996年版) (財)日本オリンピック委員会

1 近代オリンピズムの生みの親はピエール・ド・クーベルタンであった。氏の提案にもとづいて、1894年6月、パリ国際アスレチック会議が開催された。国際オリンピック委員会(IOC)が発足したのは1894年6月23日であった。1994年8月の第12回総会はオリンピック百周年に当たり、「Congress of Unity」をテーマにパリで開催された。                                               2 オリンピズムは、肉体と意志と知性の資質を高揚させ、均衡のとれた全人のなかにこれを結合させることを目ざす人生哲学である。オリンピズムが求めるのは、文化や教育とスポーツを一体にし、努力のうちに見出されるよろこび、よい手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などをもとにした生き方の創造である。                                         3 オリンピズムの目標は、あらゆる場でスポーツを人間の調和のとれた発育に役立てることにある。またその目的は、人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立を奨励することにある。この趣意において、オリンピック・ムーブメントは単独または他組織の協力により、その行使し得る手段の範囲内で平和を推進する活動に従事する。                                         4 IOCが率いるオリンピック・ムーブメントは、近代オリンピズムにその端を発している。                                   5 オリンピック・ムーブメントは、最高機関IOCのもとで、各種組織、競技者、その他の人たちを統括する。彼らは、オリンピック憲章によって導かれることに同意した人々である。オリンピック・ムーブメントに帰属するための基準は、IOCによって承認される。スポーツの組織および管理は、IOCが承認する独立のスポーツ団体により監督されなければならない。                                6 オリンピック・ムーブメントの目的は、いかなる差別をも伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうオリンピック精神に基づいて行なわれるスポーツを通して青少年を教育することにより、平和でよりよい世界をつくることに貢献することにある。                                                                       7 オリンピック・ムーブメントの活動は、結び合う5つの輪に象徴されるとおり普遍且つ恒久であり、五大陸にまたがるものである。その頂点に立つのが世界中の競技者を一堂にあつめて開催される偉大なスポーツの祭典、オリンピック競技大会である。                                       8 スポーツの実践はひとつの人権である。何人もその求めるところに従ってスポーツを行う可能性を持たなければならない。                                     9 オリンピック憲章は、IOCが採択した基本原則、規則および細則を成文化したものであり、オリンピック・ムーブメントの組織および運営を統括し、オリンピック競技大会開催のための諸条件を規定するものである。

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