【日報抄】紙面を読んでいると、どきりとする言葉に出合うことがある。「ニュースは、人間を数字にするから」。俳優でモデルの長井短(みじか)さんが書評の中で記していた▼社会の中で起きた出来事を報じるとき、その規模や信ぴょう性を裏付ける意味でデータは不可欠だ。しかしデータはあくまで数字に過ぎない。例えば「事故で○○人が死亡した」と報道されたとする。命を落とした一人一人にはそれぞれの人生があったはずだが、数字だけでは命の重みが十分には伝わらない▼長井さんが紹介していたのは「〈ガザ〉を生きる」という本だった。絶えず外部からの攻撃にさらされてきた人々による手記が収められている。文面からは「天井のない監獄」と呼ばれるガザの惨状や、かの地で暮らす人々の息遣いが伝わってくる▼ある女性は落ち込んだときの慰めにと、クマのぬいぐるみをたくさんベッドに置いていた。けれど、その家は破壊され、友人を何人も亡くした。人間の存在が切り刻まれていると訴え、叫ぶように記した。「私はただの数字じゃない。夢も感情もある人間だ」▼ガザ当局によると、2023年の戦闘開始以来の死者はことし1月時点で7万人を超えた。ロシアのウクライナ侵攻では、米国の研究所が両軍の死傷者の合計を最大180万人と推計した▼途方もない数字の裏には同じ数の人格と生きざまがある。だが日々のニュースではなかなか伝えきれない。もう一度、前述の女性の言葉をかみしめる。「私はただの数字じゃない」(新潟日報・2026/02/16)

「人間を数字で語るな」というなら、川崎洋さんの「存在」がよく知られています。それを引用した長崎新聞のコラム「水や空」には、こうありました。「名前の一つ一つに存在の重みが宿る」と。そうも言えるし、もっと軽妙に考えてもいいのではないかと、ぼくなどは考えたりしています。名前があろうがなかろうが、「自分は自分」という心持をいかにしたら持てるか、そういう問題のような気がします。面倒なことは言いません。「名こそ惜しけれ」といわれてきました。「命を惜しむな」という前口上があっての言いぐさです。それは鎌倉武士の「覚悟」だったかもしれませんが、今風に言うなら、「嘘はつくな」「己の名を辱めるな」ということでしょう。「名」とは自分を表す「象徴」です。だから、「自分の心に恥ずかしいことはするなよ」という、自己(への)啓示ですよ。
なかなか面倒なことで、「名実ともに」とか「名より実を」などともいいますから、要は自分自身の身の丈に合った覚悟を問われて生きているということ。「虚名」を上げると伊野は論外のことであり、ぼくたちは名は体を表し、精神を表すという具合に生きていたいんですよ。何をしたから値打ちがあり、何をしなかったから価値が下がるというものでもないでしょう。「名は体を表す」とは「名はそのもの実体を表している。名と実は相応ずる」(デジタル大辞泉)のです。
しばらく前に、ぼくはある中学校の入試問題に出された「詩」について疑問を感じるという趣旨の愚見を書きました。その要点は「わたしはばんごうになりたくない」というこどもの発言を土足で踏みにじっている気がしたということでした。(ヘッダー写真:「がれきが散乱する中、わずかな食料を口にする2歳のアルマちゃん(パレスチナ、2025年3月22日撮影)」(UNICEF)

世間の大方は、なかなかやるではないか、「さすがだな」、この学校はというものだった。そうだろうかという大きな反発心がぼくに生じたから、「それはおかしいではないか」という疑問の提示でした。いのちを消される恐怖に怯えながら発した「肺腑の言(あしに おなまえかいて、ママ)」を出汁(だし)にして「成績」「点数」を競わせる、まるでガザの日常の真反対にいて、その現実を愚弄しているように思われた。子どもの感受性や受け止める力を「試す」という大人のこころない仕業でしょ。「ガザの地獄」を知るのは「入試問題」のおかげだというのは、驚くべき退廃だし、それに異を唱えない「(学校・教育)道徳」の敗北ではないでしょうか。学校優等生とは、いかにも残酷な試練を超えてきたんだと思うね。
(参考資料として:毎日新聞(2026/02/16)= https://mainichi.jp/articles/20260216/ddm/041/100/062000c)
【水や空」名前の重み 詩人の川崎洋さんに「存在」という一編がある。〈「魚」と言うな/シビレエイと言えブリと言え/…「花」と言うな/すずらんと言え鬼ゆりと言え〉。名前の一つ一つに存在の重みが宿る。「魚」「花」と、ひとくくりにはできない。そんな意味だと察する▲詩はこう結ばれる。〈「二人死亡」と言うな/太郎と花子が死んだ と言え〉。名前の、存在の重みを忘るるなかれ。「二人」と束ねることなかれ。詩人の願いだろう▲思い当たることがある。東日本大震災が起きたあと、死亡が判明した人の数多くの氏名が連日、紙面を埋めた。一つ一つの名前に詰まった何年、何十年かの歳月を思って、心が痛んだのを覚えている▲では、公表する側はどうかといえば、多分に迷いがあるらしい。災害時に亡くなった人の氏名の公表について、まとまった方針を国が示すように多くの自治体が求めていることが、共同通信の調査で分かった▲本県を含む多くが「遺族の同意を得て公表」だが、非公表とした県もある。「遺族」とはどの範囲なのかもあいまいで、自治体の一存による公表をためらう向きが強い▲7月はとりわけ豪雨被害が案じられる。太郎に花子と、まずはその名を公表する事態にならないよう、用心に用心を重ねる時季でもある。名前の重みを確かめたい。(徹)(長崎新聞・2023/02/04)

「ニュースは、人間を数字にするから」(長井短)、「『魚』というな/シビレエイと言えぶりと言え…」(川崎洋)。そして、「人間というな」という語が続きそうな勢いですね。「あなた」と言え、「君と呼べ」と。それが「名前」「固有性」「独自・個別」というものでしょう。ぼくはかなり以前から「日本人の一人」ではなく、「一人の日本人」という表現をあえてしてきました。その意味は「日本人という固まり(塊)」の一部ではなく、いろいろな個々人がいて、初めて「日本人」という集合が成り立つという気分が強くあったからです。「いろいろ(多彩)な日本人」、それが本当のところではないですか、と。ぼくは固まりの一部ではないといったところで、結局は「日本人」という集合(抽象)の中に閉じ込められるのかもしれません。でも、「日本人はこうあるべし」というような「型枠日本人」を体現してたまるかという、気分というか気概だけは失いたくなかった。(右は川崎さんの作)
「私はただの数字じゃない。夢も感情もある人間だ」という叫びは誰彼にもあるでしょう。一時、「社会の歯車になりたくない」というようなことが盛んに言われたこともありました。あえて「集団の中に自分を閉じ込める」必要もありません。それで思い出すのは、「らしく」というへんてこな言葉に、ぼくは長い間悩まされていたという事実です。小学校の5年生の担任(男性教師)が教室の黒板の上の壁に「らしく」と墨書した額をかざしていた。その三文字の意味が理解できなくて、それこそ相当に時間がたってから教師が何を言いたかったかがわかった気がしたのでした。今でいうなら「ジェンダー」ですね。「男らしく」「女らしく」「子どもらしく」「京都人らしく」「茨城県人らしく」「日本人らしく」…、気がついてみれば、まるで狂気に侵された物言いのように思われたのでした。個々人を固まりに閉じ込めるような強制力が働くでしょう。そんなものは蹴飛ばせ、という反発心だけが早くから芽生えたといってもいい。要するに「らしく」の強制力の中で、「自分」は溶解していくばかりだということに抗っていたというのでしょう。

「「二人死亡」と言うな/太郎と花子が死んだ と言え」ぼくが一貫して学校の「習性」(「強制性」)を嫌いぬいたのは、「人間(ひとり)」を固有性で捉えない、捉えたくない「文法(約束)」に一矢報いたかったからです。個人でも固有性でもなく「数字」「番号」「点数」「成績」でしか表そうとはしない、その暴力に抗い続けていた。もちろん、そのような「不良」は学校に「自分」の居場所はなかったろうが、それでもぼくは、黙ってそこに居続けて(影や空気になっていたのではない)、いくつかの学校を終わった。ぼくの得た知恵(といえるかどうか』というものは、「そこにいて、そこにいない(ような)(心、そこにあらず)」存在になるということでした。その逆また真です。「そこにいなくて、そこにいる(ような)」存在に憧れていましたし、今でもその気持ちはいささかも変わらない。まあ、ありていに言うなら「学校の餌食になる(Become a victim of school)」ことは断じて認められなかったんですね。「目立たぬように はしゃがぬように」「似合わぬことは無理をせず」「ねたまぬように あせらぬように」「飾った世界に流されず」(河島英五・「時代おくれ」)というようなものでしたでしょうね。「そういう男に」ではなく「そういうおれに おれはなりたい」と、ね。
「自分らしく」がわかれば、ぼくは苦労しません。そんなことではなく、当たり前に生きること、できるだけ嘘をつかない、困っている人がいれば、なんとか力になりたいという、それこそ、そんな細(ささ)やかな想いを失わないで生きていきたいと切願しているのです。
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「徒然に日乗」(1004~1010)

◎2026年2月15日(日)終日自宅に。気温は低くなないが、日がかげると肌寒さを感じるのは、今どきの気候だからだろうか。(1010)
◎2026年2月14日(土)朝から日差しは強く、気温も上がっていたが、午後からは一転曇り空。気温はそれなりに高いので、雪の心配はなさそうだが、降雨があるかもしれない。そんな陽気の中を買い物のために茂原まで出向く。毎度のことだが、自分で買い物をしていながら、支払金額が高いのに、我ながら驚く。「インフレ増税」がすっかり定着してしまった。いずれその「つけ」が必ず回ってくるだろう。(1009)
◎2026年2月13日(金)終日自宅に。かみさんは知人の葬儀のために佐倉まで出かけた。午後、「中道」の党首選挙の報道を見る。予想通りにO氏が当選。「君はどうして総理大臣になれないのか」というドキュメントでも知られるように、早くからのホープだった人。しかるに、彼の履歴を一瞥すると、いかにも落ち着きがないと感じてしまう。挙措といい発言といい、常に落ち着きがないのだ。いわば「無定見」とぼくは見る。人によっては「機敏」と取るかもしれないが、とにかく、軽挙妄動に映るのはどうしたことか。「弱小政党所属」だからだろうか。一時的にしろ、政権の座にあったのに。それはともかく、まったく肌合いの異なる、成り立ちの異なる二つの政党が一党になることは、一人一人の「党員」の内面の問題に根差すことになるから、想定をはるかに超えて困難な作業だと思う。彼(新代表)にそんな力量があるとは思えない。つまりは、早晩この「中道」は分裂するだろうと、今から予見しておく。もちろん、国政の現状に鑑みて、そうならないことを強く願うが、果たしてどうか。(1008)

◎2026年2月12日(木)一時の寒波が収まって、ようやくに春の兆しが見えてきた。珍しく雨がぱらつき、異様に低かった湿度もなんとか、30%などという値が現れるようになった。(拙宅の湿度表示は、20%を切ると数値が消える仕掛け)。それでもなお、各地に住宅火災や山火事が頻発しているのが気になる。▶市原のホームセンターまで猫の「おやつ」を買いに出かける。いつも買うものだが、やや安いと思われるので、すこし遠出になるが、ここまでやってくる。同じ敷地にあるスーパーはいつも混雑しているのは、値段が安く、量が多く、加えて品数がそろっているからだろうか。自宅からは、片道10数キロはある。▶帰宅後、「中道」の代表選の中継を見た。異なる政党が一緒になるのだから、なかなかに大変で、はたして一つの政党としてまとまるのだろうかと、大いに気になる。そうはいっても「野党第一党」だから、それなりの存在感を示さなければ、この国はますますあらぬ方向に引っ張られてしまう恐れがある。健闘を期待している。小さな塊ではなく、さらに正体が大きくなることが求められていると思う。「一党多弱」などと、権力の側から揶揄されている場合ではないはず。▶株価は58000円超を付けた。率直に指摘すれば、「アベノミクス」の二番煎じでしかない、放漫財政による株高操作だといっていい、円安は一時的な上下(変動)はあるだろうが、いずれ、近いうちに株の大暴落、円安のさらなら亢進、長期金利の上昇という、大変なクラッシュが来るに違いない。つまりは、極端な「日本売り」だ。(1007)

◎2026年2月11日(水)「建国記念の日」だという。これを祝う政治的集会がどこでどれほど行われたのか知るところがないが、変われば変わるというか、あるいは驚異的な「選挙大勝」、あるいは「大敗」に肝をつぶしているのだろうか。「国の誕生」などという神話に浸るムードはなくなったように思われる。それにしても、国民一人一人に焦点を当てるのではなく、国、国家という抽象概念に驚くほど重点を置く政治がこれからも進められようとしている。果たして、そんな時期であるのかどうか、それこそが問われるべきだと思う。▶この国の運命を決するような契機になるはずもない選挙結果だったが、果たして米国一辺倒の追従政治でいいかどうか、それこそが問いただされる必要があろう。それがなければ、この国の将来は真っ暗だと、ぼくには思われる。(1006)
◎2026年2月10日(火)十数年ぶりの降雪もようやく溶けて、車で出かけることができるようになった。昼前に茂原まで買い物。相も変わらず物価は高いまま。いよいよ「インフレ増税」の政府方針が明らかになったと思われる。円安・インフレ・金利上昇という三要素はいよいよ収まる気配を見せていない。政治がまるで空中分解している気分に襲われている。(1005)
◎2026/02/09(月)作夜来の降雪もようやくおさまったが、およそ15㌢の積雪量だった。午前中は日差しも出たので、あるいは車が動かせるかと、やや時間をおいてお昼ごろに付近を走行してみた。日陰では凍っていた部分もあったが、ほぼ滞りなく走行できた。▶昨夜は選挙報道を一切見ないで就寝。もちろん、例の「ラジオ深夜便」も選挙速報に乗っ取られていたし。全体の結果を知ったのは朝の四時だった。驚くべき選挙結果だったが、ぼくの従来の想定で見るなら、共産党が政権を取ったのではないから、まあ、これまで通りのものに、やや微調整を加える程度かとも言えそうで、もちろん「憲法改正」や「スパイ防止法」などの国家の権力の強化を求めるような政策変更は大いに論議して決めてほしいと願うばかり。そして、ここでもう一度、二大政党制をとるなら、つまりは「小選挙区制」を維持するなら、選挙方法のいくつかの変更(改正)を議論しなければならないだろう。それはともかく、もう少し、政治に対する信義や道義というものを政治家自身に堅持してもらわねば話にならぬ。無理は承知の上で。▶想像するに、この国は新しい「茨の道」を進み始めたことがだれの目にも明らかになる選挙結果だった、「ネオナチズム」(新ファシズム)という邪道、滅びの道を、である。(1004)
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