【新生面】時代遅れ感 小沢さんに岡田さん、枝野さんや安住さん…みんないなくなった。1990年代以降、旧民主党から立憲民主党まで屋台骨を支え、政権交代を実現し、その後も野党の顔だったのに。寂しくなるけれど、有権者の厳しい審判である▼立民と公明党が結成した中道改革連合は、衆院で公示前議席の3分の2以上を失った。突然の解散と「高市旋風」に急場しのぎの新党はなすすべなし。失礼ながら野田佳彦、斉藤鉄夫両共同代表は刷新感、期待感、躍動感いずれも乏しく映った▼辞任表明した野田氏は「何となく2人には時代遅れ感が付きまとった」と表現。さて、どこが時代遅れだったのか。選挙目当ての合流、右でも左でもない「中道」の分かりにくさ、組織票頼みの戦術-。どれも「何となく」当てはまる▼きのうの議員総会では、党の分裂を求めるような厳しい意見は出なかった。まずは一体感、連帯感を大事にするらしい。ベテランの重しが減り、新陳代謝は進むのかどうか。あす選出される新代表の手腕が問われる▼これまでの国政選挙を振り返れば、旧民主党時代から政権批判の「風」頼みだった。逆風に吹き飛ばされたのも当然ではなかったか。ただ、次の選挙までは時間がある。腰を据えて政策を練り直し、訴え続けたら党勢の回復感も出てくるだろう▼河島英五さんが歌った『時代おくれ』の一節を、中道の皆さんに聴かせたい。〈人の心を見つめつづける/時代おくれの男になりたい〉。有権者の心に響く政治の価値は時代を問わない。(熊本日日新聞・2026/02/12)

風見鶏(weathercock・weathervane)とかポピュリズム(populism)などと称され、政治の世界ではあまり褒められもしない「風潮」「風読み」ということが言われてきました。今の時代はネット万能だから、選挙もまたSNSにたけていなければなどといい、それに反して昔風の「演説」や「握手作戦」は時代遅れなどと批判されます。確かにそういう面はありますが、だから、そんなのは「時代遅れ」と見下していいのですか、そんな疑問を(同調したくない姿勢)をぼくはいつも堅持しようとしてきたように思います。もちろん、付和雷同というか大勢順応という「圧力」にいつも抗していたかというと、どうですかね。「体制」や「大勢」に媚びを売るようなことは皆無だったといえないのは、考えてみれば当然です。 (ヘッダー写真は読売新聞・2026/02/07「衆院選の選挙戦最終日を迎え、演説会場に集まる有権者たち(7日、東京都内で)=松本拓也撮影」)
今次の衆院選の風景を一言でいうことはやさしくはありませんが、この社会(あるいは国)全体が、あるいは「すべてが風見鶏になりたがっている」という傾向をはっきりと見せたのではないかと思う。政治家(候補者)も有権者も、ともに「風見鶏」になり、ポピュリスト(右へ倣え主義)になったということです。ポピュリズムの反対に位置するのは何でしょうか。時代の風潮や圧力に動かされない、いわば「首尾一貫性(coherence)」という姿勢だったかもしれません。俗に「今泣いたカラスがもう笑う」というように、周囲の空気に動かされやすいという特徴が、いつでも見て取れます。ということは、大勝利を得た勢力は、今度は大惨敗を喫するということを示しているでしょう。いかなる政治権力も永遠には続かなという意味です。国会議席の7割以上を一勢力が占めるというのは、よほど強烈な右旋風が吹いたという話ですが、この風のもたらす弊害は、予測はできませんが、計り知れないものがあるだろうとだけ言っておきます。
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京都と大阪の境に八幡(やわた)という地区があり、そこに「洞が峠」が位置しています。この地名は歴史上の逸話でとても有名になりました。その主役は「筒井順慶」です。由来は下に示した「辞書」にある通りです。軽挙妄動しないで、事の次第を見極めて道(方向)を選ぶというものです。政略といえますが、今日の政治家の比ではないでしょう。右するか左するかで「全滅」の恐れが付いて回るのですから、実に深い読み(戦略)が求められます。この「洞ヶ峠」を今次の選挙に当てはめてみようと考えているのではありません。けれども、この順慶の態度をこそ政治家の名をかたるものは持つべきだという気もします。目先の利害にとらわれるのではなく、少なくとも「国民」「国家」の安寧や安全に心する政治家の務めということが言いたのですが、これは「ないものねだり」というもので、今では「言っても詮方なし」と、ぼくは疾(と)うに諦めています。
◎つつい‐じゅんけい【筒井順慶】= 戦国・安土桃山時代の武将。幼名藤勝。興福寺衆徒で大和国(奈良県)の筒井城主。永祿二年(一五五九)東大寺大仏殿を焼いて攻めこんだ松永久秀に筒井城を追われ、久秀の失脚後、織田信長の下で大和を管領。信長没後、山崎の戦で洞ケ峠に陣し、天下の形勢を見きわめて、豊臣秀吉の勝利直後に追従したといわれ、世に「洞ケ峠の故事」の潤色で名高い。唯識論に通じ和歌、茶道をよくした。天文一八~天正一二年(一五四九‐八四)(精選版日本国語大辞典)
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*outdated=out of date; obsolete.(no longer produced or used); out of date.the disposal of old and obsolete machinery)outdated equipment
*cutting-edge=① the edge of a tool's blade. tools with cutting edges should be kept sharp ② the latest or most advanced stage in the development of something.researchers at the cutting edge of molecular biology ③ at the latest or most advanced stage of development; innovative or pioneering. cutting-edge technology
*populism= a political approach that strives to appeal to ordinary people who feel that their concerns are disregarded by established elite groups.the question is whether he will tone down his fiery populism now that he has joined the political establishment(Google翻訳)

いくつもの新聞コラムに、選挙で大惨敗を喫した「中道」なる新出来政党に対して、その戦術も戦略も「時代遅れ」だという指摘が書かれていました。この語はしばしば多用されますが、果たしていかなる意味か、ぼくは常に立ち止まって考えてしまうのです。「時代遅れ」は御用済み、過去の遺物扱いにされますが、その程度のものですかと、反問したくなる。河島英五さんに「時代おくれ」という曲があります。よく流行したものでしょう。「時代おくれ」が「時代に受け入れられた」というのも皮肉ではありますが、それだけ「時代おくれ」は多くの人に好まれているという証拠でもあります「新しがりや」に見られない、頑固さというのか骨があるというのか、筋が通っているといえるように思う。。
コラム「新生面」の筆者は「河島英五さんが歌った『時代おくれ』の一節を、中道の皆さんに聴かせたい。〈人の心を見つめつづける/時代おくれの男になりたい〉」と。それは無理でしょうね。河島さんは早逝されましたが(1952~2001)、どうやら早熟の質でもあったようです。「酒と泪と男と女」の歌詞は高校生のころに書かれたとか言われています。それと、やはり彼には「男尊女卑」の要素が少なからずあったから、この作品は受け入れられたのだとぼくには思われます。
「時代遅れ」とはどういうことですか。「令和」の時代に「昭和」から抜けきれない、明治の御代に刀にちょんまげということのようですが、それもぼくにはすべてを否定するような行きがかりは認められないんですな。芭蕉という俳聖は「不易と流行(constancy & trend)という心持を俳句の神髄と捉えていました。「蕉風俳諧の理念の一。新しみを求めて変化していく流行性が実は俳諧の不易の本質であり、不易と流行とは根元において結合すべきであるとするもの」(デジタル大辞泉)というのらしい。なかなかに含蓄のある表現です。単に「いつの時代にも不易(変わらない価値)」と「時代はいつだって変転極まりないという事柄(流行)」を別物としてとらえるのではなく、それを二つにして一つと捉えた点に芭蕉の真意があるのでしょう。解釈はさまざまですが、ぼくは勝手に「変わるものの中にも変わらないものがある(その反対もあり)」と受け取っています。この先の読解は、それぞれがすればいいことです。

変わるもの(流行)と変わらないもの(不易)がそろって一つだという意味は、それぞれが別々に成り立つというのではないからです。ぼくはいつでも「病気と健康」に関して、健康の中にも病気(の部分)があり、病気の中にも健康(の部分)があるとくり返し駄弁ってきました。「戦争と平和」についても同じです。どちらか一方しか見ないのは誤りであるということを指摘したいだけです。どんな物事にも「歴史」があります。その歴史の中身には「過去」もあれば「現在」もあり、「未来」までもが共存しているのです。現在とは「過去と未来」を含めた、ただ今の瞬間です。それを「永遠」と言い換えて誤解されないでしょうか。つまるところ、「現在(永遠)」は「時の鑑(Mirror of Time)」だということです。
上で述べた「洞ヶ峠」とは筒井順慶という、武断と知性のアマルガムがなした「深慮遠謀」の「出処進退」ということです。今日の有権者はもちろん、政治家までも、残念ながら「深慮遠謀」という「時の鏡」を持っていないのです。「深慮遠謀」の対になるのが「軽慮浅謀」でしょう。我が社会の政治家や有権者による共同作業の「政治」という営みは、悲しいかな「軽慮浅謀」でしかないのですから、いつだって「朝令暮改」の積み重ねになるのでしょうな。あるいは「賽の河原の石積み」のごとし、です。政治家は「偽謀偽計」を図り、有権者はいとも簡単に、軽々しくその「罠(わな)」にかかるんですね。(いうまでもなく、ぼくも「罠」にかかる一人です)はっきり言うなら、「思慮分別」に欠けるということです、政治家(候補者)も有権者も。困った風潮はいつまで続くか。
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