カテゴリー名称変更、さらにラディカルに

 「瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず」(かでんにくつをいれず、りかにかんむりをたださず)。「瓜(うり)畑に入ると、瓜泥棒にまちがえられるので、足を踏み入れるな。人に疑われるような行動をとるなというたとえ」「すももの木の下で冠を直すような、他人から疑われかねない行動は慎まなくてはならない」いずれも、「悪いことをしているのではないか、と疑いを招くような言動は、しない方がよい、という戒めのことば」(ことわざを知る辞典)

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 ほんの数日前に「新たなカテゴリー」として「瓜田(かでん)と李下(りか)」を設けましたが、そんなことでは間に合わず、一層のこともっと、深く人間の思考や行為の元を正すような「指摘」や「視点」(枠組み)の必要性を感じた次第です。題して「巧偽拙誠(こうぎせっせい)」という。いかに巧妙に他人を騙し仰せても(それで利益を得たとしても)、いかにも拙(つたな)いながらも「誠意」を持った姿勢や態度(そのような人間)には及びもしないということ。「名もなく貧しく美しく」、そんな生き方ができれば本望だと、ぼくは長い間、そのような生き方をしようと願ってきました。「誠実」とか「誠意」という言葉をよく用います。誠実さが足りない、あるいは欠けているという「大方の世人」にやりきれない思いを抱いているからです。ぼく自身も「不誠実」であることを免れないが、それを自覚している、自覚しようとしているという、そこに偽りはないと言い切りたい。他人がどう見ているか、それは、ぼくの手の届かない範囲にありますから、批判や非難をとやかくいうのではありません。我が身を鏡に写して、恥じるところがないかどうか、その思いを失いたくないということです。

 李下に冠を正さず、というのは、紛らわしいことはするなという警告であり、忠言でもあるでしょうし、同じように、瓜田に履(くつ)を入れては駄目だ、瓜泥棒と間違われてしまうじゃないかと、なんとも優しい親切心からの忠告です。ところが今日(いつの時代でも、ですが)、瓜泥棒をするため瓜田に入る輩が、李(すもも)を盗もうとして、今日なら、大きな帽子のなかに李を盗んで入れる、そんな泥棒をするのを目的に生きている、許しがたい輩が後を絶たない。スイカやメロン、あるいはブドウやなしの本場では、例年のごとくに、収穫間近の「貴重品」をごっそり盗むという事件が多発しています。イノシシやシカならいざしらず、防御柵(策)をかいくぐる「人間獣」だというから、なんとも情けないと言うばかりです。苦労して育てるのは他人で、見事な果物をいただくのは「俺様」という、許すまじき輩が、百鬼夜行している。「俺のものは俺のもの、他人(ひと)のものも俺のもの」という、とんと卑しく成り下がった悪人横行の風潮には目も当てられないほどです。こんな風紀の頽落を招いたのは、何だったか。

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 しばしば「他人(ひと)のふり見て我がふり直せ」といいます。あの人があんなことをしている、ぼくはしないでおこうということでしょう。しかし問題は「わが内なる他人」をいかにして見失わないかということです。自覚とか意識という意味で言うのです。今自分がしようとしていること、言っていることにいささかでも誠意が欠けていたり、虚偽が混じっているなら、それを咎める「自分(意識)(良心)」というものが、ただちに規制したり禁止したりするはずです。ある言動を取ろうとしている自分と、それを見つめている自分。いわば「分裂」「葛藤」というものが起こってくるに違いない。それを「道徳意識」、あるいは「道徳性」と、ぼくは言いたいのだ。「葛藤」しているという自覚、それがあるのは、人として生きている証拠です。葛藤を、いかにして克服するか、そこに「道徳」の存在が問われるのです。自己規制、あるいは自制心はどうして育つか。育てられるか。育ちそこねると、それは手に負えない暴力に走り、乱暴狼藉をものともしなくなるのです。

 道徳性、政治道義、あるいは誠意や誠実などというと、あたかもそれを「嘲笑う」かのように、これみよがしに「瓜田に履を入れる」「李下に冠を正す」、そんなふてぶてしい人間が政治を独占し、集団・徒党を組んで、天下国家を睥睨しているというのでは、開いた口も塞がらず、握った拳もおろせず、なんとも腹立たしさを通り越した心地がします。まるで「川の流れに木の葉が沈み、石が浮く」という破天荒な(ありそうもない)時代に、ぼくたちは右往左往しているのではないでしょうか。「政治は虚偽が基本である」という日常を、「嘘を吐(つ)くのが商売」の政治家盗人が実践しているのです。「政治家は嘘吐き」、これは古今東西の「真理」です。「国葬」問題に揺れる、その原因となった元総理は「私は嘘は吐いたことはない」という、見事な「虚言」を国会で吐(つ)きました。彼は「売国の徒」だとかなり以前から言ってきました。「君、国を売り給うことなかれ」と何度繰り返したことか。その「虚飾に満ちた」「売国の徒」の「悪業績」に報いるために「国葬」を持って顕彰するという、この劣島は底なしの無道義の国になったのです。その無道義の国土に生きている、不幸にして、ぼくもその影響を免れません。無道義に染まったひとりであることは否定できそうもないのです。 

 凶弾に倒れ、救急搬送された病院を、前総理 S 某が急遽訪問した。「前総理と同じ空気を吸いたかった」と騙ったと報道されていました。なるほどというか、さすがというか、「嘘吐(つ)きの空気・呼吸」を受け継ぐということだったか。今もなお大きな問題となり続けている「カルト集団」との闇の交際を拡大強化したのが「元総理」でした。その人物の「なし得た悪業績」の悉(ことごと)くを不問に付して、盛大に「国葬」の式典を世界に示すというのです。笑わせないでくれよ、と言いたいね。「国葬」とは「国を葬(ほうむ)る」という意味であり、その後にこそ、再生や新生が始まるのだという、ささやかな願いは、ぼくの気持ちの中では強いが、今の状況では、何一つ変わらないし、変わる気遣いがないのです。かくして、この劣島社会は「無限地獄」へまっしぐらです。(左上は「朝日川柳」:朝日新聞・2022/07/16)

 「虎は死して、皮を残す」というが、元総理は死して「虚飾の風袋」を残したのです。死者に深く哀悼の誠を捧げると、多くの政治家は口先では言うが、彼の死後に、多くの連中が装ったのは「元総理」とは関係なかったという、じつに嘆かわしい、見え透いた「嬌態」「媚態」でした。元総理が強く望んだ「統一教会」の支援・支持を(世間に対しては)否定し、あろうことか蔑(ないがし)ろにするのに躍起になっているのです。それが「嘘偽り」であることは、本人は知っているし、世間だって先刻承知だという意識がある。それこそが「国民を愚弄」しているというのです。愚弄されている当の「国民」の多くはそれを咎めないという理不尽。「それが政治というものだからさ」、という耐えられない弛緩ぶりではないでしょうか。

 元総理が遺した「レガシー(「悪徳の栄え」)を引き継ぐという「好漢」、いや「悪漢」はどこにもいないのは、故人の「不徳」というべきか。すべては「国家の形がいびつになり、破壊寸前であるが、それは彼一人の仕業でした。なんとも立派でした」、だから「国葬」なのだと、後年の歴史教科書には書かれるんでしょうかね。「死んで花実が咲くものか」「命あっての物種」というのは、この際、どういうことになるのか。 

 ともかくも「巧偽拙誠」という生き方の流儀は、流行りもしないが、死滅もしない。歴史は、そんな人々によって継(つなが)れてれていると、ぼくは信じているんです。これを「ウサギとカメ」になぞらえてもいいかもしれません。自分の歩幅で、歩くんだと。人に褒められ、認められるために生きるのはしんどいことじゃないですか。自分に正直に、自分を偽らないで生きるというのは、それなりに面倒でしょうが、ともかく「自分がある」「自分を失わない」というのは、生きている甲斐(生き甲斐)というものです。

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