田植えは教養の根っこ

 憂楽帳:大学というところ:私立大に勤める知人の大学教授によると、大学では今、「出口」がいかにしっかりしているかということが、“売り”になるのだという。企業が求める人材を育て、就職率を上げることが、「入り口」の学生の募集活動に直結する。

 学生への対応は至れり尽くせりだ。この大学の場合、キャリアセンター、昔で言う就職課は、入学時から就職活動に向けて、大学生活をいかに送るべきかを教え、資格取得など就活対策の特別講座も設けている。親の協力も必要だというので、保護者向けの懇談会では「子どもと一緒に考える就職活動」という講演や、教員との面談も用意されている。

 少子化で、生き残りにしのぎを削る大学の事情、厳しい雇用環境では、大学の就職予備校化の流れは止まらないのかもしれない。だが、次世代を担う大事な財産を、目先のことばかりが気になる小さな人間に仕上げようとしているようで心配だ。「(実利に)役に立たないことをしていたのが良かったのに」と、「教養」を身に着けた自分の大学時代を振り返り、矛盾に悩む教授に共感を覚える。(毎日新聞・09/06/29)

 これぞ「旧聞」です。この時代を含めて、ぼくは新聞人間でした。というよりは、活字人間だったかも。数年前からまったく読まない。読むに堪えないというのではありません。読むほどのこともないじゃないかと勝手に見切ったからです。テレビもまず観ません。こちらは観るに堪えないから。新聞もテレビも「作る側」はほとんどが大学出でしょう。ぼくは当今の大学事情を知っているつもりはないのですが、「大学出」と聞いただけで、もうあかんという直感が働くのです。これが外れることは九分九厘ない。なぜか。大学は一人の人間にとっては入ってはいけないところとまではいわないが、行かなくてもいいところ。学生が問題だというのではなく、教員でしょう、話にならないくらいに「教育・授業(講義)」に不熱心だと思うからです。それにつられて、学生も落ちていきますね。「学校」はよほど注意してかからないと、人間の成長を阻害します、金をとって。

 上記のコラムに戻ります。このように臆面もなく書ける記者はいったい何歳くらいの方だろうか。「教養」を身につけることができた「大学時代」などなかったとはいわないが、はたしてそれはいつの時代だったか、どんなものが「教養」なんだか、と還暦をはるかに超えたいま、ぼくは高尚な冗談を書く記者だなと、反面では関心もしますね。でも、まともにそうだといわれると、どこの島の話なんだと訝るばかりです。

 もちろん、「教養」の中身や程度こそが問題になります。「教養」とはなにか。「単なる学殖・多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識。その内容は時代や民族の文化理念の変遷に応じて異なる」といかにも教養をひけらかすのは「広辞苑」です。(ぼくはこの辞書の悪口を言うのが趣味になっています。この断定する態度が嫌ですね)「創造的な理解力や知識」と聞いただけで、気が遠くなります。「文化理想を体得」となれば、さらに面倒な、一面ではいかにもナショナリスティックな雰囲気も漂ってきます。そんなにたいそうなものかよ、いいたくなる。はたして、記者氏が大学で「身に着けた」教養は?

 大学が就職予備校化していなかったことはたえてなかったと思われますし、それでどこが悪いのかとさえいいたくなります。大学にかぎらず、学校というところは、つねに次の段階に進むための準備教育に徹してきたのではなかったか。それに成功したか否かは問うところではありません。現今みられる風潮はいつでもあったし、反対に、それとは似てもにつかない大学生活を過ごしている学生もまた、昔もいたし、今もいるのです。二年で可能なことを四年に延ばしているのが大学です。「勉強に四年はないぜ」といいたいですね。

「田植え」ここに教養がある。

 この時代(十余年前)、世間では政権交代だ、新型インフルだなどと落ち着かないことおびただしいようでした、そんな世間とは没交渉で、ぼくは勝手に自分流の「教養」をまさぐるしかない生活に明け暮れていました。わざわざ「教養」ということばなど使う必要はなさそう。ようするに、自分の足で立ち、自分の歩度をわきまえて歩くことができれば、それでじゅうぶんです。自分の足で歩くこと、握ったこぶしを開くこと、それが「教養」ですね。言葉じゃありません。

 学校教育で「教養」を身につけるなどということがあるのかどうか。それぞれがみずからの経験をふりかえれば判然とするのではないでしょうか。大学時代に「『教養』を身に着けた」と自信ありげな記者の書く内容浅薄な記事を読める読者はしあわせだろうかと、無教養な人間として雑言を放ちたくなった次第です。

上田萬年

 明治の高い「教養人」の本を読んでいて、「国語は帝室の藩屏である」という文に遭った。その人は上田萬年(カズトシ)(1867-1937)さん。この島に「国語」という名称を持ち込んだ張本人です。「国語」と「日本語」は同じものではないのです。 蛇足 お嬢さん(次女)が円地文子さん(1905-1986)。

 いまでは「国語」は共通語・標準語などと称されているようです。それに対して、「日本語」は「方言」などと蔑称される始末です。なんでですか。国語・国民・国家というのは、つい最近でっち上げられたものじゃないですか。この島に人が住みだして以来、いつでも「ことば」が使われていたし、それがあるときから「日本語」と呼ばれるようになったというだけの話。人民の汗や涙や脂肪分までが混入して育てられたのが「日本語」、それは一つや二つどころではない、数百もありましたし、いまでも相当数が使われているのです。教養の基礎になるのは、国語からか日本語からか(?)

 島秋人著『遺愛集』について

 ここにもまた、およそ常に語られるものとは別種の「教師の面影」が色濃く記されています。

〇 島 秋人(あきと)(本名 中村 覚)の略歴。       

 1934年6月28日生まれ。満州で育ち、戦後に新潟県柏崎に住む。早くに母を病気でなくし、自身も結核やカリエスに罹患。小中学校時代はまったく孤独で、成績も最下位であったという。以後、生活は荒み、転落した人生を送る。少年院に収容されたこともある。 

 1959年、飢えに耐えられず、農家に押し入り、2000円を奪い、その家の夫人を殺害。逮捕され、1962 年6月に最高裁で死刑が確定。1967年11月2日、刑の執行により、33歳の生涯を閉じた。

☆窪田空穂の「序」より

 「『遺愛集』一巻に収められている三年間、数百首の短歌は、刑死を寸前のことと覚悟している島 秋人という人の、それと同時に、本能として湧きあがって来る生命愛惜の感とが、一つ胸の内に相克しつつ澱んでいて、いささかの刺激にも感動し、感動すると共に発露をもとめて、短歌形式をかりて表現されたものである。これは特殊と言っては足らず、全く類を絶したもので、ひろく和歌史の上から見ても例を見ないものである」

  「そうして歌を読むと、頭脳の明晰さ、感性の鋭敏さを思わずにはいられない感がする」「一言でいえば、島秋人は私には悲しむべき人なのである。しかし悲しみのない人はいない。異例な人として悲しいのである」 

窪田空穂氏

☆島 秋人の手紙と短歌いくつか。

 「僕は小学校五年の時国語の試験でレイ点を取り、その先生に叱られて足でけっとばされたり棒でなぐられたりしておそろしさに苦しまぎれのうそを云って学校から逃げ出し八坂神社の裏の草やぶや川口の岩の影にかくれて逃げまわって居た事があった…」(中学校時代の教師吉田好道宛・1960 年10月5日付け)

   死刑囚に耐へねばならぬ余命あり 淋しさにのむ水をしりたり(1961 年作)

 「…大きな過失によって小さな幸せを見出すことが出来たと思います。人間としてめぐまれた境地に歩むことも出来たみたいです。言い過ぎみたいですが、『心』ってものだけは社会の人よりめぐまれたものをあたえられたと思っています」(高校生前坂和子宛・1962年11月28日付け)

東国原英夫主演(一人芝居)

  「人間である以上、僕は生きたいと言う事は第一です。『極悪非道』って善人が作った言葉だと思います。実際これにあてはまる人はないのではないかと僕は思うのです。どんな罪を犯した者でも真心のいたわりには哭くものです。…僕は「気の弱い人間」でしかない者だったと思う。人生って不思議なものです。わからないな-と思う。でも、とても生きることが尊いってことだけはわかります。僕は犯した罪に対しては「死刑だから仕方ない受ける」と言うのでなく「死刑を賜った」と思って刑に服したいと思っています。罪は罪。生きたい思いとは又別な事だと思わなければならない。やせがまんではない。僕の本心である様だ」(同上)

   この手もて人を殺めし死囚われ 同じ両手に今は花活く(1962年作)

前坂和子著

   被害者に詫びて死刑を受くべし 思ふに空は青く生きたし(同上)

 「知能指数のひくい、精神病院に入院もし、のうまく炎もやって、学校を出てより死刑囚となるまでは僕の内側の『もの』を知らなかったのを短歌と多くの人の心によって知り人生とはどんな生き方であっても幸せがあるのだと思い、被害者のみたまにも心よりお詫びをし、つぐないを受ける心を得、現在では人間として心の幸を深く知り得たことをよろこぶのです」(空穂宛・1963年6月7日付け)

 「…僕はおろか、ていのうです。だから一生懸命裸になり切って真実を力として詠み、おろかなままに歌の道によろこびと悔いとを知らされて生きてゆく心です」(同上)

  「被害者の方に、罪を犯した人間が出来る限りの反省と悔いに罪を詫びて、正しさにみちびかれてお詫びとしては足りない罰の上に心からの更生をすることを知っていただき、みたまに詫び、家族に詫び罪人であれ人間であったと云うことも知っていただきたいのが生前、死後を問わず歌集の出版の趣意なのです。そして遺品でもあるのです」(空穂宛・1964年5月10日付け)

  なつかしくのみ思ひ待つわれ打ちし 旧き旧き師はふみたまはらず(1964年作)

  鉄鋲の多き靴にてけられたる 憶ひが愛しあまりに遠く(同上)

  字を知らず打たれし憶ひのなつかしさ 掌ずれし辞書は獄に愛し(1966年作)

 「私は少年時代に、ていのう児と云われ満州から内地に引揚げてからの生活の貧しさに弱い躰と頭のはっきりしない事でとても苦しい目に会って来ました。でも小さい時から私は正しいことを大事にしてずるがいこい者、表裏のある者を極端にきらっていましたので友人はほとんどありませんでした。

 長所を伸ばす教育が弱い人間、普通よりも劣る人間には一番大切です。ダメな人間、ダメなやつと云われればなおさらいしゅくして伸びなくひがみます。ほめてくれると云うことが過去の私の一番うれしいことでした」(窪田章一郎宛・1967年10月25日付け)

窪田章一郎氏

 「…たくさんの人々に読んでいただきたいと思いました。特に教育者に」(章一郎宛・同30日付)

  「先生のただ一言が私の心を救い、私の人生をかえた」

  この澄めるこころ在るとは識らず来て 刑死の明日に迫る夜温し(1967年11月1日作)

 「教師は、すべての生徒を愛さなくてはなりません。一人だけを暖かくしても、一人だけ冷たくしてもいけないのです。目立たない少年少女の中にも平等の愛される権利があるのです。むしろ目立った成績の秀れた生徒よりも、目立たなくて覚えていなかったという生徒の中に、いつまでも教えられた事の優しさを忘れないでいる者が多いと思います。忘れられていた人間の心の中には一つのほめられたといういう事が一生涯くり返えされて憶い出されて、なつかしいもの、たのしいものとしてあり、続いていて残っているのです」(前坂宛・1967年2月)

*関連図書・前坂和子編著『書簡集 空と祈りー『遺愛集』島秋人との出会い』(東京美術、1997年刊)

*『遺愛集』(東京美術、1974年刊)

*http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-97.htm

〇窪田空穂(1877-1967)・窪田章一郎(1908-2001)両氏は親子。ともに歌人。