「心を一つ…」は辞退する(20/04/22)

 この社会で「学校制度」がつくられたのは明治維新後です。百五十年ほどの歴史しかもっていない。学校のなかった時代は、比べものにならないほど長かった。「教育」という営み(「子育て」は就学前の、きわめて大切な教育期間)は人間が生存を開始して以来、営々と続けられている。国家管理の学校教育しか経験していないぼくたちは学校の価値観(学校で得た「ものの見方」)をそのまま受け入れる癖をつけてしまった。成績万能主義はその典型です。「一番」が最高だというが、学校以外で「一番主義」はつねに有効か。さらに、成績主義者が「国家」「企業」の枢要な地位を占め、どれほどのことをしてきたか。「私は国家(企業)なり」という気概や矜持は立派そうだが、他者より高い地位につきたいという目標しか念頭にないとしたら、お気の毒という以上に、それがもたらす弊害をぼくは身を挺して忌避したい。

 個人として立派だと思える人はたくさんいる。しかしその立派そうな人が、いったん集団の一員になると、ほとんど信頼に足らなくなるのはどうしてか。結局は、個人としてもよくなかったということになるのだろう。集団の中の位置からしかもの・ひとを見なくなる。組織人間のもっともよくないところです。地位(ポスト)にものをいわせる、その際、人間は地位の陰に隠れてしまう。「心を一つにして、国難を乗り切ろう」とあちこちで、むかし聞いた声がかかる。「一つになった心」の一部にぼくはなりたくない。それぞれが独立(孤立)しているのがいいんじゃないですか。「一億一心」などというおぞましい旗を振らないでほしい。事あるごとに「先祖返り」するのは、きっと先祖の域を一歩も出ていないからだ。(山埜郷司)

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