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ただ今は午前七時過ぎです。昨年の十二月三十一日(金)を過ぎて迎えた、今年の一月一日(土)。昨日と今日にどんな違いがあるのですかと問うのは愚問。年が改まるのは、人間の社会の約束事。それに縛られて、あるいは、それに身を合わせて、ぼくたちは生活していくのが「世の習い」というものでしょう。一年間(365日)という「試験・馴らし期間」、人生を手探りする期間であり、その繰り返しが、あるいは人生そのものということなのかもしれません。ぼくは若い頃に、一人の哲学教師(フランス人)から大きな影響を受けて、「人生は朝から始まる」という彼の「箴言」を、ことさらに自らの身過ぎの態度にしようと思い続けてきました。「早起きは三文の得(徳)」などといったのは、ずいぶんと昔の話で、今日では「早起き」どころか、「徹夜派」が、いろいろな事情を抱えてのことでしょうけれども、圧倒的に多数を占めています。いずれにしても、寝て起きて、起きて寝て、これもまた生きることの不可欠の要件です。だから、よく生きたいと願うなら、よりよく寝ることは大事ですね。寝すぎも寝不足も、度が過ぎないことを、ぼくは注意して生きてきました。
この「注意」も、ぼくには大切な心がけ(徳目と言っていい)で、多くは他者にむかって「注意」したがります。ぼくは、自分にこそ「注意」をするのです。Pay Attention ! 自分自身に注意を払うというのは、「気を付ける」「気を配る」「配慮する」ことであり、主体は「自分」ですよ。他人の気分を害さないように心がけるのは「自分」です。多くの場合、他人に「注意する」というけれど、実際には「命令する」であったり「忠告する」であることがほとんどで、そのことによって人は「自分に気付く」のではないでしょうか。あくまでも「自分に注意する」のではないですか。何でもないことのようですが、これまでの人生経験の中で、ぼくにはとても大事な姿勢(心がけ)でした。

勤め人時代、ぼくはほとんど毎朝三時に起きていました。そこで「ひと仕事」というと聞こえはいいのか悪いのか、その日の段取りをつけるために机に向かっていました(朝飯前)。五時から六時の間に朝食(もちろん、自分で作る。かみさんは爆睡中です)を取る、シャワーを浴びて、ニュースなどをネットで眺め、その後に、やおら七時から八時の間に家を出る、そんな生活を三十年ほど続けていました。勤務先までは一時間半を見ておけば十分でした。しかし、帰宅にはやたらに時間がかかり、どうかすると七時間も八時間も要しました。つまり、仕事が終わって「素面(しらふ)」では家に帰れなかったのです。ぼくは職住接近が好きではなかった。仕事のことは家にもち帰らない、しかも気分をすっきりさせてから帰宅しましょうという姿勢を貫きましたので、大きな河(川)を三本もまたいで、必要以上に時間が遅くなりました。(端的に言うなら、呑み屋に寄り道していただけ)
房総半島の真ん中に位置する現在地に越して以来、帰宅する必要がなくなった分、(勤務しなくなったから、当然)自宅待機(蟄居)がやたらに多くなりました。東京の友人たちから少し前までは「出てこい、出てこい」と、池の鯉のように誘われていましたが、ぼくは一向に応諾しなかった。わざわざ人混みに出る気が知れなかったし、さらに酒もやめたことだしというので、ぼくは早起き(四時から五時の間)と早寝(ほぼ毎日午後十時には寝ることにしています)。昨夜もいつも通りに寝ようとしたら「おじいさん、もうお休みですか」とおばあさんに言われました。本年で、結婚以来四十九年目です、どうしましょう。「割れ鍋に綴じ蓋」と言うそうですね。
というわけで、何もしないのに勝手に今年も明けた、という次第です。手遅れが判明している「記憶力低下」防止のための「自主トレ」を、笑止なことと知りながらも、これからもしばらくは継続し、少しは、人並みの生活人の域に近づきたい、そういう思いでの「元朝」でありました。なにはさておき、先ずはご挨拶です。人生は朝から始まるし、朝から始めます。

どこかで触れておきましたが、ぼくは何かをする(本読みや駄文書き、あるいは草取りなど)際には、きっとBGMを流しています。今も聞こえています。曲は「最高にリラックスできて美しいピアノ音楽 – Peder B. Helland 作曲“Always”」(https://www.youtube.com/watch?v=9Q634rbsypE)というもので、とても気分よく駄文が書けます。もちろん、内容や文章のレベルが「アップ」することは、まずなさそうです。「いつでも夢を」と歌ったのは吉永小百合さんでしたが、ぼくは「いつでもBGMを」、そして「いつでも駄文を」ですな。
何か気の利いた風なことは言えない質です。愚直に「言いたいこと」ばかりではなく、おのれの判断に基づいて「言わなければならぬこと」も、誰に遠慮することなく、やたらに羽目を外さないで、しっかりと。そうです、駄文調をこれからも続けたいという「信条」の吐露のようでもあります。
・元日や上々吉の浅黄空 ・年立つやもとの愚が又愚にかへる (一茶、二万句中の二句)

(2022/01/01)
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