いうまでもありません、ぼくという人間は取るに足りない極小の存在です。踏みつぶすのも捩じ上げるのもかんたんです。否定しようのない存在の「小ささ」にぼくはいつも立脚している。ここを離れるとよって立つ基盤が失われてしまう。反対に、自らの存在を可能なかぎり大きく見せようとする人もいます。たくさんいると思います。敵が近づけば、膨らんで大きく見せようとするフグやハリセンボンの擬態はそれとはまったく別ものでしょうか。それはそれで自己防衛の本能的表れでしょう。

ぼくにはありのままの自分を大きく見せようとする擬態人間はフグ並みだと思われます。いったいその擬態で何を守ろうとしているのか。防衛すべき対抗力は何か。ひょっとして身中の虫だったということになりませんか。敵は自らの中にいたという話はいくらもある。それをとやかくいうのではない。擬態もけっこう、身中の虫もいいでしょうが、ぼくには関係ないだけ。必要以上に自己を大きく見せようという心根がないんですね。いや少しはあるか。以前はかなりありました。まあその程度に卑小な人間だと白状します。
志(こころざし)は小さければ小さいほどいいですね。「こころざしをはたして いつの日にか帰らん」(「故郷(故国)に錦を飾る」)あるいは「立身出世」というのではない生き方で「有無定かでないこころざし」を果たしたいと、ひそかに念じてきました。こころざしはあったかどうか。今もあるといえるのか。

一人の個人は国家を越えた存在であり得るし、個人はまことに「弱い人間」である、「弱い人間」という「土俵」をぼくは守ってきたし、これからも守っていきたい。個人個人は密接につながってはいません。大筋ではばらけているのが実情に近いでしょう。そのように隙間だらけの「弱い人間」たちの集合した「国家」も弱くないか。もし弱くないのだとしたら、国家もまたフグやハリセンボンの類だといいたいですね。「弱さ」はどこまで行っても消えない、消せない。この地点から出発して、とことん小さい状況というものにこだわりたい。「弱さ」が「強さ」に反転することはあるだろうか。ぼくは、弱者として、一足飛びに「国家の防衛」や「日本をどうする」「世界の平和を」などといった大風呂敷を広げたような仮想(空想)の観念に振り回されないように心したい。
しばらくまえに「大文字の歴史」などといわれ、大時代的な、あるいは教条主義的な発想が敬遠されました。いまでもそれは生きていますが。小さいことはいいことだと「小さな世界」、まさに「方丈四方」(四畳半の世界はまた別乾坤)に根づいた視野・視界をぼくはつねに失いたくないのです。そんなセコい心がけでどうする、という非難や批判はあるでしょうが、ぼくにはいっかな風呂敷の類には関心が湧かない。方丈四方がぼくの天地だから。
有老人、含哺鼓腹、撃壌而歌曰、

日出而作、日入而息
鑿井而飲、耕田而食
帝力何有於我哉(「史記」の「五帝」より)
一人の老人がいった。「日の出とともに働き、日没とともに休む。井戸を掘って水を飲み、田を耕して食べる。帝の力(権力)は自分の日常にどんな関係があるのかよ」と。このように「私の領分」に自足している老人の姿がぼくのめざす方角でした。老人となった今、おおよその方向はまちがっていなかったかどうか、と後ろを振り返りもしない。いかなる権力も「私」有地に入りこんではならないという政治哲学(そんな大したものじゃないが)を支えに今日も暮らしています。 この「帝力何有於我哉」と断固たる啖呵を切った「老人」の挙動を高みから見ていたとされる「権力者(帝力)」はその老人の態度をどのように眺めただろうか。それはまた、別個の話。
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