

○ 照葉樹林文化=東アジアの暖温帯には、西はヒマラヤの中腹から東は日本の中南部にわたる常緑広葉樹を原生林とする森林帯がある。この森林は常緑カシの類やクスノキ科の樹木が主力となり、葉は常緑で中形、表面に光沢があるので照葉樹林とよばれ、東アジア特有の森林型である。照葉樹林帯は生態学的にそこに共通の風土の存在を示すものであるが、人間文化の面でも共通性がみられ、それを照葉樹林文化という。照葉樹林文化では初め野生のヤマノイモやサトイモを栽培化し、次に雑穀栽培になったが、これらは焼畑栽培から始まった。稲培の開始は、照葉樹林帯に入る東南アジアあるいは雲南省の南部から始まったとされている。
照葉樹林文化の文化要素は生活に密着した文化要素が著しい。米を粒食し、糯米(もちごめ)を蒸して加工し、副食には魚が常用され、魚醤(ぎょしょう)がつくられる。魚を米の飯で漬けるなれずし作りの習慣も広くみられる。鵜(う)飼いも照葉樹林文化に属する。大豆を栽培し、それから納豆をつくり、茶葉から漬物様の食品をつくったり、飲用に加工したりする。漆の利用は西はブータンから日本に至る地帯にある。同様に絹がこの地帯にあるが、中国以西ではヤママユの類がおもに利用される。酒は麹(こうじ)利用の穀物酒である。

また歌垣(うたがき)の習慣も照葉樹林帯の民族に広くみられる。このように文化要素は日本からヒマラヤ中腹まで共通点が多く、したがって同一の生活文化の強い影響が広く作用したと考えられる。[中尾佐助(左写真)]『中尾佐助著『栽培植物と農耕の起源』(岩波新書)』▽『上山春平他著『照葉樹林文化』(中公新書)』▽『佐々木高明著『照葉樹林文化の道』(NHKブックス)』▽『佐々木高明編著『雲南の照葉樹のもとで』(1984・日本放送出版協会)』(日本大百科全書・ニッポニカ)
明治以降、この島国は「脱亜入欧」を唱えたとされている。近代化の波や風は欧州からというので、「西欧一等国」の仲間入りを果たすためには、停滞に停滞を重ねている「東アジア圏」から抜け出したいという、いわば、高下駄をはいた上に、なお背伸びをしたのである。しかし、考えるまでもなく、高下駄に背伸びで、西欧化、一等国にのしがるなどということは短時日のうちにできるものではなかった。数千年という長い時間をかけて培養されてきた島社会の生活あるいは文化、それを維持し、それによって形成されてきた民族性(この島の定住民の性格)は、着物を脱ぎ捨てて洋服に着替えるようにはいかなかったのである。「和魂洋才」は見果てぬ夢であり、「和魂」(roots or origin)はどこまで行っても「和魂」だったし、洋才は受け売りであり、外からの借り物でしかなかったのである。あるいは「東洋道徳、西洋芸」と佐久間象山は言ったそうだが、まだしもそれは、この島社会は東洋の一部だという認識や理解が働いていたのである。
今では「この島は単一民族、単一言語」の国家だという人間はいない。言いたいのを我慢している向きがあろうが、あまりにも恥ずかしいので言わないだけということもあろう。そもそも「単一文化」とはどういうことを指すのか。単細胞生物が、誕生以来一貫してそのままの単細胞であるということはあろう。だが、長い距離を動き、たくさんの集団と婚姻関係を結び、集団間の混在・混血を繰り返してきたわけで、それをもってしても「単一文化」とは言えない。まして単一民族など、犬でも分かろう。これを言いたくなるのはエスのセントリックな信条が言わせているだけだし、単一言語に至っては定義すらできない代物である。この島は「単一民族・単一言語」だから多民族他国家より優れているといったソーリがいた。その程度の知能の持ち主でもソーリになれる方を慶賀すべきか。それとも恥ずかしくて顔が赤くなるというおサルの心境になるのがまともなのか。

この百年余、ひょっとして欧米先進国の仲間入りを果たしたかと、多くの人々(その多くは欧米派と称され、知識人あるいは「文明人(野蛮人ではないという意識)」と自認している連中)は思っただろうが、実は、それはとんでもない錯覚であったことが明らかになってきている。それが今日のこの島国の「地に堕ちた」ような姿である。「地に堕ちた」といったが、何のことはない、元の位置(身の丈)に戻ったのだと、ぼくはみている。これは「右翼・左翼」などとは関係ない、ルーツやオリジンの問題なのである。根っ子を変えることも、起源を偽ることもできない。欧米に肩を並べること自体が、そもそものお門違いだった。「東アジア圏」こそが、もともとの「お里」であったからだ。それが地金だったし、鍍金が剥げ落ちたのであった。
「氏より育ち」というのは個人や家族の問題でもあるが、国(社会)についても妥当するとぼくは理解している。どんなに表面上は「舶来の顔(洋貌)」つきをして見せようとも、長年にわたって培われ、いわば相続されてきた「遺伝子」の性質は変わらない。変わりようがないのである。生来、米を主食とし、みそ汁を好む人間が、一夜にしてパンやピザに宗旨変えしたところで、DNAは変わるはずもない。「稲作以来」の数千年と、「明治維新以後」の百数十年の時間の違い(長短)は明らかで、根っ子は杉なのに、その幹にポプラを植え付けることは不可能なのだ。無理して掛け合わせても、悲惨な結果を生むだけだと思う。したがって、この先も、表向きの変化・変容は見せつつも、やはり「育ち」(「文化」)に支配されていくほかないのではないか。

明治維新や敗戦後の「御一新」あるいは「戦後改革」は、たとえて言えば「整形手術」「美顔術」だった。時間が経つにつれて、「お里」が知れるとは言い得て妙ではないか。あるいは化けの皮が剥がれたとでもいおうか。この島に棲みついていた「民族と称された集団(人民)」の心持ちまでは外科的整形を加えることはできなかったのである。このように言って、ぼくはこの島の文化の「純粋・純潔性」を言うのではない(これは、いずれの文化に合っても不可能な姿である)、あくまでも雑種型、種々の文化の受け入れこそ(パッチワーク型)が、この島社会の特質でもあると、これまでも考えてきたし、これからもそれは変わらないとみなしている。「和風化」という方法が、この島の文化接種の特質となってきたのである。何でも取り入れるが、なかなか根付かない。時間をかけ、いつしかこの島の「文化(それ自体が化合物でもある)」と融合していくものが残るのだ。「接ぎ木の文化」という表現が当たっているかもしれない。余程うまく接ぎ木をしないと育たないし、それに成功すれば、何処が分かれ(接ぎ)目かもわからなくなるのである。それ故に、これが「日本の文化だ」というものの起源は、東アジアのいたるところにある。それは人類が集団を形成して生活する当たり前のスタイルなのだ。「文化・生活の物々交換」とでもいっておく。


大学に入っていくらもたたない時分に、ぼくは今西錦司という人の書物に出会った。きっかけは何であったか、記憶がないのだが、その人物がいかにも特異というか(常軌を逸しているという意味で)、スケールの大きさが感じられて、忽ちのうちに虜(とりこ)になったと言いたいくらいにのめり込んだ。今でいう生物学者だったが、そのような尺度では律しきれる人ではなかった。少なくとも生物学という方面の理解も知識もほとんどなかったが、今西さんの冒険心、あるいは探求心には感嘆するほかなかった。ぼくはまだ二十歳前の青二才であった。彼が、京都の出身で京都育ちだということも惹かれる理由であったかもしれない。実に長い間、いわば無給の時代だったが、来る日も来る日も、鴨川に足を付けながら、川石を裏返しながらカゲロウの卵(幼虫)を調べていた。やがて彼は「俺はダーウィンを超えた」というようになった。

カゲロウ研究幾数年、これが後年、カゲロウの生息する場所によって、形態も成長の速度、あるいは種類までもが異なることを追求し、やがて「棲み分け理論」となって成就したのである。 可児藤吉との共同研究であった。「棲み分け」はあらゆる集団生物に共通する生活の流儀でもあった。さらに今西さんを知るようになって驚いたのが、彼の「親分肌」という気性であり、彼の磁場にはたくさんの精鋭が集うようになっていった。霊長類の研究や稲作農耕の探求、あるいは民族文化の研究などなど、まことに多彩な研究者や実践家が育っていったのである。世に「今西学派(今西グループ)」などと称されてもいた。ぼくなどは、とても時間を共にすることはできなかったような、激しい仲間意識(師弟関係)によってなりたっていたと、今では思っている。 それらの若い人たちは、今でいう「文化人類学」の旗手となり、様々な領域における研究はじゅうぶんに開花したのであった。

度重なる仲間同士の大変な酒盛り(今西さんは先斗町だったかの生まれだと記憶している)、口も早いが手はもっと早かったという。親分肌だから、機嫌を損ねると破門が待っている。いろいろな逸話が残されているが、ここでは省略。それはともかく、このような一党(一統)の成立と持続、それは、ある時期の、ある大学でのみ起りえた現象ではなかったか。今西派を除いて、他には類例を見ないほどの隆盛ぶりがそれを明かしている。これもまた、直接間接の教育方法であったのだ。これを「徒弟制度」と考えてみたい気もしたのは事実である。薫陶ということが言えなくもないし、私淑傾倒の心理に覆われていたであったろうし、「梁山泊」そのものだったと例えてみたくもなったのである。まさに「京都帝大版・水滸伝」である。その仲間となった人々のことごとくが、それぞれの道で優れた業績を上げた。その第一人者が中尾佐助さんだったと、ぼくは思っている。いちいち名を挙げていけば際限がなくなるが、いずれどこかで、ぼくの健康と関心が続いておれば、それぞれの人たちの仕事に関しても愚解説と愚感想を述べてみたい。(順不同で。中尾佐助、森下正明、梅棹忠夫、吉良竜夫、川喜田二郎、富川成道、和崎洋一、伊谷純一郎、河合雅雄などなど)この島生活文化のあけぼの(黎明期)を、あらゆる方向から探求する道筋が、一つの学問的党派によって導かれたことは、今においても画期的であったというべきであろう。(左上写真は中尾佐助氏)
○ 今西錦司・いまにしきんじ(1902―1992)=人類学者。京都に生まれる。1928年(昭和3)京都帝国大学農学部卒業。1940年に理学博士となり、1954年(昭和29)より京大人文科学研究所員、1959年に同所教授となる。1962年より京大理学部教授を併任、1965年に京大退官後、岡山大学教授を経て岐阜大学総長を務めた。/ 1933年ごろのカゲロウの種間の比較観察による発見から、棲(す)み分けの理論を唱え、種社会の概念を基礎とする生物社会構造の理論をたてた。第二次世界大戦後は、京都大学理学部と人文科学研究所において、ニホンザル、チンパンジーなどの研究を進め、日本の霊長類社会学の礎(いしずえ)を築いた。京都大学理学部自然人類学講座、京大霊長類研究所の創設に寄与し、人類学、霊長類学にとどまらぬ広い分野にわたって多くの後進を育てた。西欧の生存競争を強調する進化論を批判し、種社会の主体性と共存の理論に立脚する独自の進化論を唱えた。

登山家、探検家としても知られ、大興安嶺(こうあんれい)(1942)、モンゴル(1938~1946)、カラコルム(1955)、アフリカ(1958~1964)などへの多くの調査隊を組織し、自ら率先して野外調査を進めた。また、1982年には日本国内の1300山の登山を記録した。著書に、『生物の世界』(1941)、『遊牧論そのほか』(1948)、『生物社会の論理』(1949)、『人間以前の社会』(1951)、『私の進化論』(1970)、『ダーウィン論』(1977)など多数がある。京都大学名誉教授、岐阜大学名誉教授、日本山岳会会長。1972年(昭和47)には文化功労者に選ばれ、1979年に文化勲章を授与される。[伊谷純一郎 2018年11月19日](日本大百科全書・ニッポニカ)『『今西錦司全集』全10巻(1974、1975/増補版・13巻・別巻1・1993、1994・講談社)』
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この島に農業が始まったのはいつだったか、それがある時期から稲作が中心になった理由は何か。いろいろな説がありますが、ここでは触れないでおく。少なくとも、二千年も前から営々と、というのも悠久の昔からというべきですが、水田稲作が続いてきた。連作に次ぐ連作、それでいて、米食文化はいまだに主役を務めている。稲の品種研究や農薬の開発などという、それを可能にする条件が整えられてきたのは確かだが、それ以上に、環境的適正(暖温帯気候・高温多雨・多湿)が何よりも幸いだったし、おしなべてコメに対する異様な熱意というか情熱というものを持ってきた島の住人の生活習慣の持続力も与って貢献してきただろう。近年ではそれにとってかわらないまでも、他の食材が追い上げてきており、コメ中心の食生活はこれまで通りとは言えなくなった。また他国との貿易問題では「コメの自由化」なども交渉のテーブルに載せられているので、早晩、米文化は姿や形態を変えることになるだろう。それにつれて、田圃の位置づけも変わらざるを得ないのだ。「敷島の大和、麗し」ではなく、「敷島の大和、危うし」という時代なのかどうか。
ぼくだけが驚いているのかどうかわからないが、木の実(堅果植物)にしても魚貝類にしても、その他大豆などの豆類、これらはもちろん米よりも古くから食料とされている。ぼくたちは、数万年にわたって変わらない食生活を持続させてきたのである。ぼくは納豆をよく食するが、これを口にするたびにというと大げさだが、ぼくは縄文人か、古代人だという意識が時に甦る。食物でも住居でも、あるいは衣装などもすべては時の宜しきによるものではないか。必要に迫られて、工夫に工夫を重ねて、生活を変えてきたし、それがその前の物よりも豊かになったと言えなくもない、そんな歴史を紡いできたのが人類という集団生活者だった。群れて生きる、それが生存するための不可欠な条件であったろう。




そのような生活誌、あるいは生活史の紆余曲折が、この島国においても持続されて来たのは事実であり、それは「書かれた歴史」などで証明されたものではない。その点で、ぼくは「有史以来」というような表現に表された、「書かれた(記録された)歴史」などへの信仰心が希薄だと言いたい。「歴史は変えられる」という以上に、それは「書き換えられた歴史」という危険性があるのだ。文字で書かれた歴史ではなく、いのちのつながりが証明する歴史(生活史)、それが照葉樹林文化にも明らかに見て取れる。植物の歴史、生態系の歴史、それを加工しないで受け入れる、ぼくたちはそのような生活文化の中から誕生したというつながりを確認できるのだ。そこに一つの圏域をなしているのが「照葉樹林文化圏」だと言ってもよいだろう。
栗を食べ、大豆を味噌や醤油にし、さらに納豆に変える、お茶を喫する、干物にした魚を作る、餅を食する、こんな何でもない生活が数千年、いや数万年も維持されてきた歴史の中に生きていると感じるとき、ぼくは「現代人」であるよりは「古代人・原始人」として生きているという実感を確認する。隣集団と争わない、民族(血縁・地縁による集合体)の優劣を競わない、権力保持に暴力を使わない、他人より優れていたいという欲望を知らない、これを「平和な時代、安穏な社会」といえるなら、そこから抜け出してしまって、醜悪な生存競争がくりかえされる世界、そのような現代社会(「現代」というのは「いつでも」という意味でもある)に齷齪する辛さを味わいつつ、その半面で、あるいは、そのような「生きるための闘争」はなかったのではないかと想像するだけで、遥かに古い時代を遠望すると、人間や人間集団の来し方行く末が見えるようでもあり、翻って、そこから脱け出てしまった人間集団の愚かさを痛感することにもなるのだ。
ここで農業論を展開しようというのではない。この島に農耕稲作が開始されてから二千年余が経過したと言われている時代にあって、農村そのものの姿が変貌し、従来の農業経営の方式も大きく変わらざるを得なくなってきている。偶然の機会から、房総半島の中央部にある小さな地域(長柄町)に寓居を定めたのだが、そこに住みだして七年を経過した現在、当初の目論見とはおそよ方向違いの生活に明け暮れ、虫の息を細々と継いでいる。その理由は、ろくでもないことでした。筍生活の実情を、見てか見ないでか、ある人に「晴耕雨読」という言葉を持ちだされたり、「仙人」のような生活と、いくらかは揶揄もされてきた。どれも当たっていなかったが、取り立てて反論もしないし否定もしなかった。どうでもいいことだったからだ。これまでの生活は、いわば室内ゲーム(競技)に終始していたきらいがあると、自分では考えていた。あまりにも長く続いたので、いささか飽きたし疲れも溜まっていた。「書を棄てて街に出よう」と号令をかけたのは寺山修司であったが、ぼくは書を棄てて「野外(フィールド)に出よう」というのだった。外に出れば、狸もいる、猪もいる。もちろん蛇も鼠も鳥類もいる。雉だって、拙宅の庭にまで来てくれる。棲み処は野外であり野原である、さらに一歩足を踏み出せば、森林地帯続きなのである。 「住めば野外だ」という心境になっているのである。このところ、さかんにホトトギスが啼き明かしている。


そのほかには見渡す限り田んぼや畑だ。偶然のことだったが、JAに勤務されている女性(拙宅の近くの住人でもあります)と、この地に来てすぐに知り合いになった。その縁で毎月、「農協だより」のようなものをいただいている。それを時に開いては、今風・今時の農業の詳細について知るところが多くなった。だから、ぼくもその真似事をしようというのではない。野菜や果物、もちろん米つくりも盛んだ。ぼくが読んだ「町の歴史」では、この地域は相当に早くから開かれていた。古墳時代頃の遺跡がある(史跡長柄横穴群・国指定文化財)。房総半島の中央に位置するので、農業にも漁業にも恵まれている。町の過半は植林された森や林である。すぐ上の写真は、よく出かける近くの「蕎麦屋」の敷地内からの眺望である。視界の先は九十九里海岸(左から、白子・一松・一宮あたり)。この蕎麦屋は、自前の畑を所有しており、そこで栽培されたものを店に出す。拙宅の近所(すぐ裏当たり、徒歩五分ほど)でも最近畑を広げている。上右写真は敷地内のそば畑)
「住めば都」というそうだ。 「どんな所でも、住み慣れるとそこが居心地よく思われてくるということ」(デジタル大辞泉)らしい。それならどうして「住めば田舎」といわないか。別の説明では「住めば都とは、どんなに辺鄙な場所であっても、住み慣れれば都と同じように便利で住み心地がよいということのたとえ」(故事ことわざ辞典)「辺鄙(へんぴ)」というのは都会から離れているということだし、そうなら、一層健康には好都合ではないだろうか。この俚諺の根っ子には一つの偏見がある。「都は便利」だという、あさはかな思い込みがそれである。一面ではそうかもしれないけれど、都会地で、いったん事があれば、不便を通り越して、絶望せざるを得ないような住環境ではないか。「都会はジャングル」と誰だかが言ったが、熾烈な生存競争を凌ぎ、「適者生存」「優勝劣敗」の生存規則が一貫しているのをさして、そういうのなら、まちがいなく「都市はジャングル(密林)」だろうさ。魑魅魍魎の類が暗躍している。

ここで「便利」という、一つの計り(尺度)が出てきた。便利は不便である、それがぼくの印象というか、経験したところである。「便利」の基準は「コンビニまで何分」という程度の軽薄さです。拙宅から直近で、約五キロか八キロだ。隣にあってもぼくは利用しないから、ぼくには「コンビニ」ではないんだ。天気に恵まれれば、「一日万歩」と称して、約十キロ余を歩く。勝手に足が動くのだ。時には三時間も四時間も歩くことがある。ニ十キロ以上である。足があれば不便なことはないともいえる。理屈でも屁理屈でもない。自分の体をできるだけ動かさないで、つまりはモノグサのママで、快適(だと思いたいような)生活が送れるのが「便利」なのかもしれない。空腹になれば、近間に食べ物屋がある。だから「便利」というのなら、いかにも貧相だし、金がなくなれば、都会で暮らすのは不可能である、その意味では「便利と不便は紙一重」ではないかとも言えそうだろう。コロナ禍のなかで、さまざまな「よしなしごと」を愚考しているうちに、ネコが食事を要求しだした。「おい給仕、早くしないか」と、今も睨んでいる。ヘルパー役もたいていではないね。ただ今、夕方の五時過ぎ。(この項は続きます。2021/06/05)
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夫婦喧嘩は犬も食わなければ、猫だって食わないという話
The quarrel of lovers is the renewal of love. (承前)
閑話 縄文や弥生時代には「結婚」というものは、その形式はともかく、あったのは疑えない。夫婦という一単位が永続していたかどうか、ぼくにはわからないところがあるが、やがて家族単位の生活集団が形成されていたことを考えれば、ひとまとまりの社会としての、家族や家族集団で集住していたといっていい。ぼくが愚考したいのは「夫婦関係」が成立していたとして、はたして「夫婦喧嘩」というものがあったかどうか。当然のように、そこには家畜として犬もいたろうから、一組の夫婦がケンカした時には犬は「喰ったのか」「喰わなかったのか」という、くだらないお喋りなのである。
○ 夫婦喧嘩は犬も食わぬ=夫婦げんかは犬でさえ相手にしない。夫婦間のいさかいはよくあることで、すぐに和解することが多いから、他人が仲裁などするものではない。また、仲裁するのはばかげている。[使用例]夫婦喧嘩は犬も食わないといって、昔から当事者以外は引っ込んでいるべき性質のものだが、彼はすっかり女房の言うことをマに受けて、失踪帰りの女房について送ってきたとき、先生、変な女にひっかかるの言語道断などと一人前に口上をのべて先生を怒らせてしまったものだ[坂口安吾*オモチャ箱|1947][解説] 古くは、「頼めば犬も糞を食わぬ」といいました。裏を返せば、犬は何でも食いつき、糞でも食うものとされていたわけです。「犬も食わない(食わぬ)」といえば、よほどまずいものか、誰も相手にしないものということになります。〔英語〕The quarrel of lovers is the renewal of love.(恋人同士のいさかいは恋の甦り)(ことわざを知る辞典)
○ ふうふげんか【夫婦喧嘩】 は 犬(いぬ)も食(く)わぬ=夫婦げんかは犬さえ気にとめない。夫婦のいさかいは一時的ですぐに和解するものが多いから、他人が仲裁などするものではない、または、仲裁するのはばからしい。※洒落本・狐竇這入(1802)四「ふうふげんくはは犬もくはぬとやら」(精選版日本国語大辞典)
世の中に「夫婦喧嘩」は掃いて捨てるほどある。男と女が勝手に好きあって、一緒になろうが喧嘩して別れようが構わないのだが、もし子どもでも生まれていたら、並大抵じゃないことが多い。第一、子どもに責任はないのだから、嫌いになったから夫婦別れする、「お前も理解しろ」と言われた子どもははた迷惑だ。また、喧嘩はしたが気まずい状態が続くと、さてどうしようか、と誰かに相談することもあろうが、世の中には「そんなもの好き」がいるもんかといえば、いるんだな。夫婦喧嘩の「仲裁屋」ではなかろうが、まるで家裁の調査官や相談員のようなお人よしがいるんだから、世の中はわからない。縄文や弥生の時代に犬がいたとして、やはり「夫婦喧嘩は犬も食わない」ものだったと、ぼくは想像する。犬の遺伝子は相続されているんだから。

なんでこんな話になったのか。ときどき「京都の友人」がといいつつ、この雑文中に出てくる人(同い年)が、一昨日、この山の中にやって来たんだ。つまりは「夫婦喧嘩」の当事者の登場というわけである。京都からはるばる、このコロナ禍の時代に、まず彼の友人のいる館山に来て、それから拙宅に来た。車だったが、一時間半もあれば着く距離だった。用心深い性格というのか、なんと二倍の時間がかかった。館山から静岡まで行ける時間だった。到着して、開口一番「お二人は元気ですね」だった。われわれ夫婦は、彼の上手を行く「喧嘩好き」で、犬も食わないなら、ネコでも置いておこうかと、たくさんの猫たちと同居。今では母屋を完全に乗っ取られた状態だし、われわれは給仕かヘルパー同然の扱いだ。食事やトイレ掃除、病院かよいと、ネコの求めないことまで「忖度」しているのである。やはり、犬同様に「夫婦喧嘩は猫だって食わない」だな。
京都の友人は「君は、一日漫歩などと言っているが、いったいどういう場所を二時間も歩くんだ」と聞いたので、自主トレのコースのさわりの部分を披歴に及んだ。それが上に出しておいた「田圃道風景(写真)」である。ぼくの歩くコースそのものではないが、ほぼこれとそっくりの農道(アスファルト)をゴルフクラブを一本持って、天気がいいと出かけるのである。そのさいも、「ああ、俺は縄文最晩期か弥生初期時代の人間だ」と感じ入る。栗を拾い、李(すもも)をとり、タケノコを取り、ワラビやゼンマイを採集する。まさしく、照葉樹林帯の「文化生活」を味わっている。ただ、「夫婦喧嘩」だけは照葉樹林帯に特有ではないのは当たり前だ。いまでいう「万国共通」なんだから。
で、京都の友人はどうしたか。多分、かみさんといっしょに京都に帰ったはずだ。夫婦喧嘩の挙句、かみさんは家を飛び出し、約四か月ほどだった。その間は別居状態にあった、京都と東京とで。長い別居の末に、話がついたのか、いっしょに暮らすことにしたそうだ。誰かの作で「妻帰る」という小説があったかどうか、ぼくは知らないが、あったとしても、たぶんつまらないものであるに違いない。どうしてって、「犬も食わない、猫だって振り向きもしない話だからさ」この四か月ほどの間、ほぼ二日おきに「深夜電話便」が来ていた。ぼくも暇がありすぎるんだろうね。「熟年結婚もしんどいけど、熟年離婚だって、もっとしんどいなあ」と、考えただけでも身の毛がよだつのだ。忘れないようにしよう、「他人の振り見て、わが振り直せ」とね。(2021/06/10)
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