中学校一年生の時に、友達が、
「日本人ならばみんな大和魂を持っているから」と言った。
「ぼくには、みつからない」と言うと、その友達はやや心外な顔をして、「君にはないかもしれない」

と言った。私はその友達と親しかったし、その友達が文章がうまいので好きだったから、私にとっても、大和魂についての彼の考えが、とても心外だった。これは、お互いに心外なことだった。
一九三六年(昭和十一年)、二・二六事件の頃だから、それから二十七年たっている。大和魂とはなにかというしかたではなく、日本とはなにか、日本に生きているということの意味はなにかを、私はあらためて問いたい。(鶴見俊輔「日本指導の可能性」鶴見俊輔集10所収)

この文章が書かれてから、すでに半世紀以上も経っています。
またぞろ「大和魂」が声高に叫ばれる時代がきているのかどうか。戦後の再生に当たって、鶴見さんが意図したのは自前の言葉で自分の思想を紡ぎ、それを自らの思想として語るということでした。だれかの一部になったり、無批判であったりすることを誡めた。その際、「大和魂」などという理解に困る言葉を振りかざされると、ぼくはいつでも逃げ出したくなります。宣長さんはわりとよく読んできたようですが、彼の謙漢、謙儒にはいささか尻込みした記憶があります。
「大和心とは、朝日に匂う山桜花」のことだといったのも、軽いノリ(宣)だったとぼくは思うのです。まさか冗談だとは考えられませんが、桜好きが高じたうえでの洒落っ気だったかもしれない。だが後世はそれを見逃さなかった。鶴見さんのような中学生までもが、「大和魂」を弄ぶ始末でした。
鶴見さんにかぎらず、戦後に求められた態度・姿勢は、つまるところ「思想の自給自足」ということでした。いきなりそんなことをいっても要領を得ないのですが、日本で生まれ育ち、日本語を使って考えているのだから、たしかに日本の文化や伝統といわれるものの範囲にわたしたちの意識が収まっていることは確かです。でも、自分のなかに「日本(日本人)」を越える感情が働いていることも否定できないと認めた上で、方法的な仮の約束として「自給自足(アウタルキー)」をこれから(敗戦後)の学びのプログラムにしたいという、一種の決意の表明でもありました。

「日本の伝統」一点張りでは立ちゆかないし、かといって「西洋かぶれ」も腑に落ちない、それではと、和と洋を混交(「和洋折衷」)すればそれでいいかといえば、どうもうまくない。生活の態度は算数の計算ではないからです。「自分の足で立つ」という生き方が、おそらく、戦後のある時期から生きる上で問題になっていたひとびとは少なからずいました。自前の言葉で自前の思想を、ということです。しかし、それもまた人それぞれですから、思わぬ展開に立ち至ったといえるのは、今日の目で見られる者の後智慧です。「朝日に匂う山桜花」を、挙って愛でようじゃないかという紋切り型の復活か、再生か。あるいは新種の誕生か。(左の枝垂れ桜はぼくがよくでかける近所のものです)

教育の世界でこそ、このような「自給自足」がつよくが求められたのではなかったか、とぼくは考えたりします。軍国主義一本槍で行けるところまで行って、国家全体が転覆した。それも自国民はおろか四辺の諸国に多大の犠牲を強いて。戦時中は皇国民の仮面をつけ、戦後はデモクラシーという洋服を着用した人があまりにも多かった。民主主義の洋服に皇国民の頭部がのっかっているという図です。心身ともに変わることはよほど困難だったのです。
時間がたつにしたがって、洋服は窮屈になり、ついには丸裸で闊歩する謙中・謙韓派が大手を振るうようになったといっていいのか。宣長さんが提示した「朝日に匂う山桜花」は今を盛りに咲いているのか、散るのも覚悟と落花してしまったのか。(桜は好きだけど、ぼくは謙韓でも謙中でもないし、ましてや「ヤマトダマシイ」命という狂暴派でもないのです)(2020/03/31)
______________________________________________