「あの奇人は天才だよ」とは指揮者ジョージ・セルがカナダ生まれのピアニスト、グレン・グールドの演奏会をクリーブランドで聴いて発したコトバである。一九四七年以来、つまりベートーヴェンの第四ピアノ協奏曲を十四歳で初演してからというもの、グレン・グールドはいつも、聴衆、批評家、仲間を驚愕させつづけ、「神の使徒」「ブゾーニ以後の最高のピアニスト」と称されてきた。


反面、酷評もある。(1)因習にとらわれない演奏態度―ステージに現われる様は、アフリカレイヨウが尻尾を乱し、ピョコピョコ走るみたいだとか、手袋をはめたりして床すれすれに座ってピアノを弾く不格好さ、とか。椅子は鋸で切断したのか、短い脚の折りたたみとくる。ハミングしたり歌いだしたり、闘うかと思えば甘ったれる、ピアノとセックスしているようだ。ルイス・キャロルのスナーク(わたしはスナークと婚約するわ、夜毎夜毎夢うつつ狂いだしては闘うの)という具合だ。(2)妥協を知らぬあのレパートリーの驚くべき選択ぶり―バード、バッハ、ヒンデミット、シェーンベルクを選び、ショパンやラフマニノフをやらない、かと思うとラフマニノフばかり弾いたりする。(3)アクションのかたいピアノを探し求め、ある種の音楽的アプローチを可能にしようとする、明快さの追求、稀にみる分析・鋭敏・正確さなどなど―ブラームスの第一ピアノ協奏曲のスタンダードに対し驚くほどの天啓的解釈を展開した例もある。

たとえば、グールドがレナード・バーンスタイン指揮のニューヨーク・フィルとこの曲を初演奏したとき、バーンスタインは、ピアニストの許可を得たうえで、聴衆にむかって自分とグールドのアプローチが違うと述べた。そのグールド解釈とはスローテンポで深い構造的デザインを示していて、私は忘れもしないのだが、この曲から初めて真の感動的陶酔を得たのだった。(ジョナサン・コット『グレン・グールドとの対話』高島誠訳。晶文社、90年)
もう何十年にもわたって、ほとんど毎日のように彼のレコードを聴き続けてきました。いったい、どうしてか、自分でもうまく説明できないのですが、事実だから致し方ない。

「グールドは聴衆から遠く孤立し、孤立によって聴衆と触れあい、自らを音楽に没入させ服従させて、音楽を表出したのだ」(コット)というのはほんとうでしょう。コットは「ローリング・ストーン」誌の編集者であり、文学者でもあり、そして、なによりもグールドのファンだった人です。なんと電話でのインタビューだけで作ったのが本書だ。
「『音の天才』というコピーはコロンビア・レコードが採択したキャッチフレーズであり、このクラシック音楽芸術家を五〇年代、六〇年代に宣伝したものだが、これほどグレン・グールドを言い得ているコピーはない」(同上)発表されるレコードの一枚ごとが無類の感動と興奮を呼び覚ました。どんな曲も、それまでのだれもが至り得なかった水準の演奏を現実のものとした。「解釈上の大胆さはそれまで一般に受容されていた文化的基準、演奏の『型』から完全に解放されていた」といえます。
「私たちの期待をグールドが裏切らないのは、彼自身が探求者であって、芸術の道を自分で創り出し、彼以前のほとんどだれも見たことがない、なにものかに気づいているからだ。おそらく子供の目と耳で見たり聞いているからだろう」(同上)

独創という領域において、文字通りに独走したのがグールドだった。「子供の目と耳」をついに失わなかったからこそ、「あの奇人は天才だ」と言われた。常識をわきまえる、あるいはわきまえさせるのが教育なら、そんな教育はご免被りたいというべきか。「伝統」に一撃を喰らわせた音楽家だった。

グールドが亡くなって、もう38年が経過した。しかし彼はいっそう生き生きしているのだ。
ぼくは完全にグールドにいかれた人間だ。右も左もわからない青二才の時から彼を聴き続けてきた。ほとんどすべてのレコードを手に入れた。いまでもよく聴く。ネットで動画もかなりみられる。不思議なもので、動画だと記録されたグールドだが、レコード、CDはいつ聴いても感興(かんきょう)は変わらないように思える。「センス」と「ナンセンス」をぼくにはっきりと明示してくれたのがグールドだった。奇人は鬼神に通じる。「鬼神に横道なし」か。(「奇人」は「鬼神」になった)(2020/03/09)
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