話せば分かる 問答無用 戦争が唯一の方法

 【滴一滴】「話せば分かる」「問答無用、撃て!」。この有名なやり取りが本当にあったかは分からないらしい。ただ、襲撃者が去った後、流血しながらも「あの若者を呼んでこい、話せば分かる」と繰り返したとする証言はある▼1932年5月15日、海軍の青年将校らが首相官邸などを襲い、犬養毅首相の命を奪った。これで政党内閣は終わり、日本は軍部独裁へと向かう。戦前最大の分岐点ともいわれる「五・一五事件」から90年になる▼この年月は長い。事件現場に遭遇した人たちはもう残ってなかろう。昭和の記憶もすっかり歴史になった。だが忘れ去るわけにはいかない▼なぜ青年将校たちは事件を起こし、政党政治は終わったのか。サントリー学芸賞を受けた小山俊樹帝京大教授の近著「五・一五事件」(中公新書)は、犬養個人への恨みでなく、あくまで権力の象徴として狙われた―などと事件の謎を掘り下げる▼顕彰も続く。岡山市北区川入の生家跡に隣接する犬養木堂記念館は15日から、首相在任5カ月間の足跡を改めて紹介する▼「話せば分かる」の情景はともかく、最期まで思いを言葉で伝えようとしたのは“憲政の神様”犬養らしい。翻って現代。政治や暮らし、国際社会の各場面で、相手を言葉で説得しようとする努力は十分だろうか。泉下の先人が厳しい眼光を向けていないか。(山陽新聞・2022年05月12日 08時00分 更新)

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● 五・一五事件【ごいちごじけん】=1932年5月15日に起こった海軍急進派青年将校を中心とするクーデタ事件。井上日召らと関係のあった海軍将校が大川周明から資金援助を受け,陸軍士官学校生徒と協力,首相官邸,内大臣官邸,政友会本部,日本銀行,警視庁などを襲撃,犬養毅首相を射殺した。一方,愛郷塾生の農民決死隊も東京近郊の変電所を破壊して戒厳令を出させ,その間,大川周明らによる改造政権の樹立を企図したが失敗。日本ファシズム台頭の契機となる。(マイペディア)

● 五・一五事件(ご・いちごじけん)=1932年5月 15日海軍将校山岸宏,三上卓,黒岩勇らが中心となって起したクーデター計画。首相官邸を襲い犬養毅を射殺。一方,橘孝三郎の愛郷塾生が東京周辺の変電所を,陸軍士官学校生徒らが牧野伸顕内府邸,警視庁,政友会本部,三菱銀行,日本銀行などを襲った。市中混乱に乗じて大川周明の改革案の実行を企てたものであった。のち,軍籍をもつ犯人は憲兵隊に自首。軍法会議において海軍は被告らに 10~15年の禁錮,陸軍は全員禁錮4年を申渡した。民間では橘孝三郎が無期懲役,ほかは3年6ヵ月~15年の懲役に処せられた。(ブリタニカ国際大百科事典)

● 日本ファシズム(にほんファシズム)=満州事変以降第2次世界大戦終了までの十五年戦争の期間における,日本の国家の形態をさす言葉。中国における革命運動の進行や,1929年世界大恐慌の影響による社会的経済的危機の増大,階級矛盾の激化を,軍部独裁による民族排外主義の鼓舞と,国民の強権的統制による侵略戦争への動員によって乗切ろうとした一連の動きを支えたイデオロギーであり,天皇制ファシズムとも呼ばれる。その背景には,政党内閣の無力による国家的展望の喪失があった。次のような特色をもつ。 (1) ヨーロッパのように小ブルジョアの民間における独自な組織化とそれによる権力の奪取として進行したのではなく,上からの再編としてなされていったこと,(2) 天皇制をイデオロギー的支柱とし,天皇制を支える伝統的社会集団,統治機構をファシズム的に再編したものであること。したがって民間,在野における右翼国粋主義の活動も,大衆を組織することはできず,五・一五,二・二六事件などの青年将校によるクーデターもそれ自身の展望をもつものではなく,上からの再編への圧力にすぎなかった。(ブリタニカ国際大百科事典)

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チャップリンの独裁者(The Great Dictator)=アメリカ映画。監督チャールズチャップリン。1940年作品。チャップリンの映画監督作品のなかで、もっとも政治色が前面に押し出された作品。1930年代なかば、国際的ファシズムが台頭し、1941年にアメリカが第二次世界大戦に参戦すると、ハリウッド映画市場でも戦争関連作品がブームとなり、本作も同年のアメリカ国内興行成績のベスト10入りした。当時、ハリウッド映画作品は、まだドイツやイタリアにも輸出されていたが、チャップリンは本作で、ユダヤ系理髪師とナチスドイツのヒトラーを想起させる独裁者の一人二役を演じ、ファシズムを滑稽(こっけい)かつ痛烈に風刺してみせている。チャップリン作品で初のトーキー映画。また本作以降トレードマークである浮浪者衣装はみられなくなる。このトーキー導入以降、チャップリンが監督する作品は減少し、俳優としてのみの出演が増えていく。1960年(昭和35)日本公開。(ニッポニカ)(https://www.youtube.com/watch?v=0RoEu2OxPxc

● チャップリン=英国国籍の映画俳優,監督,製作者。ボードビル役者の子としてロンドンの下町に生れ,早くから舞台に立つ。次いでパントマイム喜劇のF.カーノの一座に加わる。米国巡業中にM.セネットに見いだされ,1914年の《成功争い》から映画に出演,自ら監督も行い,多くの短編喜劇に続いて,1917年から長編《犬の生活》(1917年),《キッド》(1921年),《黄金狂時代》(1925年),《街の灯》(1931年),《モダン・タイムス》(1936年)などを発表,独特の扮装(ふんそう)とすぐれた人間観察,鋭い社会風刺で名声を得た。トーキーになってからは《チャップリンの独裁者》(1940年),《チャップリンの殺人狂時代》(1946年),《ライムライト》(1952年),《ニューヨークの王様》(1957年),《伯爵夫人》(1966年)などを製作。1952年訪欧後,米国入国を許されずスイスに定住。1972年訪米,アカデミー特別賞を受けた。著書《自伝》(1964年)がある。(マイペディア)

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 その後の劣島を長く覆いつくすことになる「日本ファシズム」の「とばくち」に入る号令・号砲になった五・一五事件から、まだ百年もたっていないのは、ぼくには大きな驚きであります。この事件がその後の歴史にいかなる色合いを配してきたか、まことに「鮮やかな」「強烈な」といいたくなるような軍部による政治制度の略奪・拉致であり、暴力と抑圧の制度的完成への道を開いたのでした。事件発生時、ぼくはまだ生まれてはいませんでしたが、その雰囲気はわかりそうに思われてくるのです。その前夜は「大正デモクラシー」と称して、民主主義(民本主義)を謳歌せんばかりの軽躁に逸(はや)る「宴」時代であったのです。しばしば指摘されてきたドイツにおける「ワイマール時代」がナチを準備し、ヒトラーを生んだといわれるのと同じように、この島社会でも、、大正デモクラシーがファシズムを呼び込んだともいえるのです。歴史経過の詳細には触れませんが、日本ファシズムは確かに、人心を惑乱させるだけの要素、いや毒素を振りまいてきたのは事実でしょう。

 ここでいくつかのことに関して、駄弁を弄するのを、ぼく自身は恥ずかしいこととしています。政治的暴両で封殺されたが故に、各人の言葉が力を失い、単なる記号になり下がったかに思われる時代にあって、一人の映画人は、アメリカにおいて、いったい欧州で何が起こり、いかなる状況が展開していったのかをまさしく「予言する」かのように、一本の作品を作った。この映画作品を鑑賞していただきたいと思うばかりです。最後の「演説」は、ナチによってパリが陥落した、その時期に、まさにチャップリンは「推敲」に辛苦していたといわれています。

 ぼくはくりかえしこの「演説」を聞きますが、そこには、なにか奇抜なことが言われているのではないでしょう。当たり前の願いや希望が語られているのです。その当たり前に過ぎる願いが、この「全体主義(ファシズム)」の圧政下にあっては、文字通り窒息させられてしまうのです。ぼくたちは、毎日のありふれた生活のなかに、ウクライナで敢行され、繰り返されているロシアの無謀な戦争(殺戮と破壊)という、限りない悪辣な所業による「無辜の民の無数の殺戮」をテレビやネットを通してみている。その戦禍にないと、誰もが信じているのでしょうか。無残にも殺害され、ぼく激されているのは、ぼくたちの隣人であり、友人・知人であるといえないのでしょうか。

 まるで、食事のさなかに、就寝前に、ひと時の憩いの間に、あるいは起き掛けの天気予報の確認のついでに、「ウクライナの惨劇」「ミサイルによる大量殺戮」を垣間見る。それがいけないというのではありませんが、このチャップリンの映画で語られる「当たり前の願いや希望」も、時には死を賭して、いや、文字通り「死」と引き換えに、確かに訴えているのだということを、ぼくはたまらない悲しさと怒りに翻弄されながら、今日の「無謀な独裁統治」が一瞬でも早く「潰える」ことを衷心より願いながら、その光景に目を凝らしているさなかに教えられています。あたり前が、当たり前に通用する「時と場」を、失いかけている今だからこそ、あらためて、その「当たり前」の中にある価値に思いを寄せたいと思う。(以下は、「チャップリンの独裁者」の「最後の演説」から任意に抜粋したものです)

 (いうまでもなく、ぼくには「独裁者」「独裁権力」にありつきたいという「欲望」は微塵もないし、犬や猫を支配したいとさえ考えたこともありません。だから、ロシアの「帝王」、虚妄の「皇帝」の神をも恐れない「ふるまい」(彼はロシア正教の最高権力者とされる者を配下に持っている)を見て、いったい何がうれしいのか、何が楽しいのか、そんなに権力や金を身に着けて、どうしたいのか、人を殺して、自分が「何様」であることを、誰に誇ろうとするのか、あるいは、こんな愚行は「やむにやまれず行っている」のであり、「私怨を晴らす」ための行為なのだとでもいうのかしら。あるいは、誰かに対する「復讐」のための蛮行なのだろうか、いずれは、確実に死ぬ運命にある人間のすることなのだろうかと、次々に、陳腐な疑問ばかりがぼくを襲ってくるのです)

We think too much and feel too little,
more than machinery we need humanity,
more than cleverness we need kindness and gentleness,
without these qualities, life will be violent and all will be lost.

Don't give yourselves to these unnatural men, machine men, with machine minds and machine hearts.
You are not machines. You are not cattle.
You are men.
You have the love of humanity in your hearts.
You don't hate, only the unloved hate. Only the unloved and the unnatural.
Soldiers! Don't fight for slavery, fight for liberty.

In the seventeenth chapter of Saint Luke it is written "the kingdom of God is within man" -
not one man, nor a group of men - but in all men - in you, the people.

You the people have the power, the power to create machines, the power to create happiness.
You the people have the power to make life free and beautiful, to make this life a wonderful adventure.

Then in the name of democracy let's use that power - let us all unite.
Let us fight for a new world,
a decent world that will give men a chance to work, that will give you the future and old age and security.

By the promise of these things, brutes have risen to power, but they lie.
They do not fulfil their promise, they never will.
Dictators free themselves but they enslave the people.(The following is omitted)

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 海棠の しずかに散るや 石畳 (吟江)  

 本日の句、二つ三つ(いささかの時期遅れになりましたが)

・行く春を 近江の人と 惜しみける (芭蕉)

・行春や むらさきさむる 筑波山  (蕪村)

・石楠花の 紅の蕾の ゆるみたる (椎花)

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 昨日は「ハナミズキ」でした。本日は、少し時期が過ぎてしまったかもしれませんが、「海棠(かいどう)」を、記憶の底から呼び起こしてきました。この木も、いつでも拙宅の小さな庭にありました。今の住まいには、いろいろと探してはいるのですが、これはと気に入ったものがなく、まだ植えられていません。しかし、これまでに見てきた、たくさんの海棠を記憶の淵からよみがえらせては、堪能し嘆息しています。「海棠」といえば、まず最初に鎌倉のいくつかの寺を思い出します。詳しくは知りませんが、鎌倉の花木は「海棠」だと聞いたことがあります。そのいわれはわかりません。鎌倉・寺・海棠とくれば、若い日の小林秀雄と中原中也の邂逅の場面に「妙本寺の海棠」が出てきます。一人の女性を巡って、二人が争うような形になって、何とも気まずい雰囲気の中での語りと別れでした。大学生になったばかりのころ、ぼくたちの中では、小林秀雄が「一つの事件」のような具合でした。「あれを読んだか」、「まだか、すぐに読めよ」というように、東京生まれの友人が盛んに「小林風」を吹かしていたのです。なんとも幼かったですね。今でも「そう」ですが。

 右も左もわからない、若気だけで背伸びをしていた時代、この「中也の思ひ出」を読んで、誘い合って鎌倉に出かけたような、かすかな記憶もある。行かなかったに違いないが、そんなあやふやな記憶を残して「ボーヨー、茫洋」という中也の言葉だけははっきりと覚えているのでした。そのときの「海棠」は、実に見事なものだったろう。現実に存在する妙本寺のものは、小林たちが語ったものから三代を経ているということでした。この樹木は、桜とは似ています、もちろん「バラ科」だから当然ですが、桜よりも可憐というか、小ぶりの花が美しい。家に植えたものは、まだ幼木に近いもので、それでも、さらに小さな花を咲かせては、行く春を彩っていたのです。

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 「中原中也の思ひ出」
 晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた。花びらは死んだ様な空気の中を、まっ直ぐに間断なく、落ちていた。樹蔭の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた。あれは散るのじゃない、散らしているのだ、一とひら一とひらと散らすのに、屹度順序も速度も決めているに違いない、何んという注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた。驚くべき美術、危険な誘惑だ、俺達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考えか、愚行を挑発されるだろう。花びらの運動は果しなく、見入っていると切りがなく、私は、急に厭な気持ちになって来た。我慢が出来なくなって来た。その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいよ、帰ろうよ」と言った。私はハッとして立上り、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。「お前は、相変らずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。彼は、いつもする道化た様な笑いをしてみせた。 

 二人は、八幡宮の茶店でビールを飲んだ。夕闇の中で柳が煙っていた。彼は、ビールを一と口飲んでは、「ああ、ボーヨー、ボーヨー」と喚いた。「ボーヨーって何んだ」「前途茫洋さ、ああ、ボーヨー、ボーヨー」と彼は眼を据え、悲しげな節を付けた。私は辛かった。詩人を理解するという事は、詩ではなく、生れ乍らの詩人の肉体を理解するという事は、何んと辛い想いだろう。彼に会った時から、私はこの同じ感情を繰返し繰返し経験して来たが、どうしても、これに慣れる事が出来ず、それは、いつも新しく辛いものであるかを訝った。彼は、山盛りの海苔巻を二皿平げた。私は、彼が、既に、食欲の異常を来している事を知っていた。彼の千里眼は、いつも、その盲点を持っていた。彼は、私の顔をチロリと見て、「これで家で又食う。俺は家で腹をすかしているんだぜ。怒られるからな」、それから彼は、何んとかやって行くさ、だが実は生きて行く自信がないのだよ、いや、自信などというケチ臭いものはないんだよ、等々、これは彼の憲法である。食欲などと関係はない。やがて、二人は茶店を追い立てられた。(「中原中也の思ひ出」「人生について」所収。中公文庫版)

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 このエピソードは今から一世紀ほども前のことになりました。ぼくが読んだ時からでも、すでに半世紀以上が過ぎています。すべてが過ぎ去り、残るものも皆、何時とは知れず姿を消し去ります。有為転変というべきか、流転無常なのかどうか。花は咲けども、散りぬるを、ですね。大学に入ってから、ぼくは手当たり次第に本を読みました。当たるを幸いという心意気だった。わけもわからずに読んだ。しかし、ある時期から、それは「読んだ」のではなく「読んだ気になった」だけのことであるということに気が付いた。だからその読書は無駄だったとは思えません。「読んだつもり」の経験もまた、ぼくにはかけがえがないものだったからです。ぼくは五十になるくらいまで、あるいは四十過ぎまで、小林さんを熱心に読みました。いろいろなものがありましたが、中でも江戸の思想家である徂徠や仁斎などについて書かれたエッセーには、たくさん教えられました。「考えるヒント」がその中心でした。そしてその当時すで連載されていたはずの「本居宣長」も、時々は読んでいました。

 それ以前は一端(いっぱし)の「西洋かぶれ」だったものが、一気に西洋離れを果たしたというのではありません。ぼくは三十を過ぎてから、柳田国男さんをひたすら読んで、「この島の先輩(常民)」たちの歴史にのめりこんだ。だから西洋離れは意外と早く、「もののあはれ」を極めるつもりなどはなくとも、自分が生まれた地域の「人民の生活・思想」を訪ねることに時間とエネルギーを注いだのでした。それはまた、先祖たちの歴史を学ぶことでもありました。本を読むことがどんな意味を持っているのかさえも分からないで、濫読の限りを尽くしていた時代は、半世紀を隔てて顧みると、何とも乱暴であった、無駄な時間を過ごしたなあ、という「無駄の効用(あるとすれば)」を身に着けたように思われました。さらに言えば、「役に立つこと」ではなく「役に立たないこと」のほうが、ぼく一個の人間にとっては大きな値打ちをもっていたと、今でも言えそうです。

 まわりの大人たちから、「君はまじめに研究をしていない」といつも言われていたような塩梅でした。身の危険を感じたことはなかったが、組織にいる人間としては、いかにもまずいらしいという意識は常に働いていましたが、いやなことより、自分のしたいことを、それだけを意固地になって貫こうとしていたのではなかったか。それもこれも、過ぎてしまえば、なんということもなく、「行春や むらさきさむる 筑波山」という心境ではあるんですね。(ものの本によれば、蕪村は茨木結城の俳人・砂岡雁宕に私淑したような格好で当地を歴訪、なんと十年に及ぶ滞在だったという。その期に詠んだ句です。ぼくの仕事場に、結城出身の先輩(二人)がいて、何くれとなくお世話になった。その縁もあって、ぼくには結城は懐かしい土地になりました)

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 もう初夏ですね。沖縄では、昨日が梅雨入りだそうです。何処においても「豪雨」の被害がないことを祈るばかりです。「春は名のみの風の寒さや」と口ずさんでいたのはほんの二か月ほど前、「侵略戦争」の便りとともに、今なお「冷たい風」が吹き荒んでいるところがあります。わが心の内にもまた、春の嵐が時には吹くこともあるのです。八十八夜も過ぎ、「野にも山にも若葉が茂る」、我らが心のうちにも、青々と茂ってもらいたい(茂らせたい)ものです。「前途茫洋」というのは、小さな存在の人間にこそ似つかわしいのかもしれません。

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● かい‐どう ‥ダウ【海棠】〘名〙=① バラ科の落葉低木。中国原産で、日本では古くから観賞用に栽植されている。幹は高さ五~八メートルに達し、は多数に分かれ紫色で垂れ下がって広がり、先端が刺(とげ)になることがある。葉は互生し、先のとがった楕円形で、若葉のうちは色を帯びる。四~五月頃、長い花柄にリンゴの花に似た三~五センチメートルの紅色の五弁花が開く。果実は径五~八ミリメートルの球形で、黄赤色に熟す。漢名、垂糸海棠。はなかいどう。《・春》 〔尺素往来(1439‐64)〕※俳諧・猿蓑(1691)四「海棠のはなは満ちたり夜の月〈普船〉」② =みかいどう(実海棠)〔大和本草(1709)〕③ なよやかな美女をたとえていう。※俳諧・犬子集(1633)二「海棠のねむる鼾か風の音〈正直〉」(精選版日本国語大辞典)

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 「コスタリカの奇跡」ってなんですか

コスタリカの奇跡 ~積極的平和国家のつくり方~(https://www.cinemo.info/movie_detail.html?ck=48)

 南米の(面積が)小さな国「コスタリカ」、この国について、ぼくたちはどれほどのことを知っているでしょうか。「軍隊を持たない国」あるいは、「コスタリカ方式」というようなことを耳にしたことは何度もありますが、果たしてその先について、どれだけ知ろうとしたか、ぼく自身に関して言うならば、それは、実にお粗末極まりない為体(ていたらく)でした。コスタリカと訊けば、まず、ぼくが記憶の棚から取り出してこようとするのは、一人の青年の話になります。以下に、少し古い記事ですが、これも記録の箱から取り出してきました。

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 一人の青年、ロベルト・サモラさん。当時はまだ大学生だった。ある月刊誌に掲載されていたインタビュー記事によって、ぼくは、その青年に引き付けられたのでした。十五年以上も前のことでした。以下はその内容(概要)です。

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 ― 軍隊を持っていることによる安心感と、軍隊 ―人権を軽視する組織ですから、もっとも非民主主義的な組織だと言えるでしょう ― を持つことによるセキュリティの危機を考えた場合、どちらが基本的に安全か、という問題になります。

 サモラ 軍隊を持っている国=戦争の準備が出来ている国ということですね。軍隊とは、目的ははっきりしていて、戦争に行くことしかないんです。戦争にいく体制の国とは、すなわち、人を殺す体制にもあるということ。それは他国民だけでなく、自国の同胞を殺す場合もあるわけです。そこに安全があるの、というと、ない。とても簡単なことだと思います(笑)。

 ― おっしゃるように簡単なことですが、その簡単なことがなかなか世界に広がっていかない。それは不安だとか、脅威だとかを人々が観じているからです。/ 日本の場合だって、たとえば北朝鮮や中国など、現実的脅威ではないにもかかわらず、その脅威が煽られる。そういうところから、やはり軍隊は必要なのではないか、という議論になってしまう。

 サモラ 逆に、なぜ日本の人は、北朝鮮が攻めてくる、と思うんですか?

 ― たとえばミサイルを発射されるんじゃないか、という不安ですね。それから、向こうの考えていることがよくわからない、ということもあります。

 サモラ ということは、向こうのことをよく知らないのに恐れている、ということですか? 

 ― そうです。よく知らないからこそ、恐れるんです。

 サモラ 知らないから、恐がり、知らないから、悪いことをたくらんでいる、と考えてしまうですね。/ 不思議なのは、外交関係がないなら、外交関係をきちんと創っていこう、と考えずに、どうして軍隊を作ることを考えるのか、です。問題が生じて、その国と外交関係がないなら、まず、外交関係を作って問題の解決を図るべきでしょう。軍隊は外交関係とは全く関係なく、問題解決につながらないわけですから。

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 (コスタリカは日本の約7分の一の面積で、人口はおよそ430万人。1502年にコロンブスにより「発見された」。1949年制定の憲法で「軍隊保持の禁止」を明示しました)

 サモラさんは中米のコスタリカ共和国の大学生5年生でした(掲載当時)。04年9月に、コスタリカ政府がアメリカのイラク攻撃を支持したのは憲法違反だと提訴し、最高裁判決で勝訴した人です。(判決「憲法・国連・コスタリカが受け入れた国際人権規約に反する、との結論をもって、2003年3月19日に行政府がイラク戦争及びそれに付随する全ての行為について行った合意を無効とする」)(『世界』2005年5・6月号)(左上の記事:毎日新聞・2019/12/10)

 <日本の場合は、あれだけ大きな戦争で、甚大な被害があった。それゆえに、軍隊を放棄し、平和を守ろうと決意したわけですよね。軍隊を持たずに平和を保つことが、平和の維持にもっとも有効だと判断したわけで、そのことをもう少し考えてみればいいのに、と思います。「なぜ持たなかったのだろう」と。…たとえば、どこかの国がコスタリカを攻めたとしたら、国際的に非難が起こるでしょう。そう考えると、コスタリカを攻める、という行為が政治的にいかに愚かな行為なのか、理解できます。だからこそ、コスタリカはどこからも侵略されない、ともいえますが。>(同上) 

 (このような「無防備国」として、国際的な監視のもとにあっても、あるいは「コスタリカ」を攻撃する、侵略する国(たとえば、アメリカやロシアのような)「超野蛮国」がないとも限りません。その時はどうしますか、といったこともまた、ぼくたちの生きている「世界」の現実の課題でもあるのでしょう。純真無垢の「赤ちゃん」に暴力をふるうような人間はいないといいたいけれど、掃いて捨てるほどいるし、そのために多くの「乳幼児」が、その未来を犠牲にされ続けているのです)

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 ことは単純、でも事情は複雑? いや、そうじゃないんでしょう。「戦争をしたい」、そんな物騒な人がたくさんいるということではないんですか。この劣島に限定しても、憲法を「改正」し(「改正」しなくても)、他国と戦争できる、普通の国にしたい。(同盟国)がやられたら、仲間に対する「仁義」をはたすために「共同戦線」(集団防衛=「集団的自衛権」だというらしい)を張る。そんな理屈にもならない屁理屈で「好戦国」ぶりを発揮してきたのが、この十数年でした。もちろんそれ以前から、その傾向はありましたが、この十年は特に加速して「好戦国」になろうとしてきたのです。言葉もまやかしも目につきます。「敵基地攻撃能力」ではあからさますぎるから「反撃能力」というというごまかしです。武力そのものが「能力」だというのですから、開いた口が塞がらないというべきです。ぼくは「コスタリカ」の国是に痛く共感してきました。武力ではなく対話のたちから(外交・交渉・交際力)(これを能力というのです)にこそ、活路を見出し、友好関係への道を歩こうとするべしというのです。「武力」に物を言わせると、そこからは、際限のない「殺戮合戦」しか生まれない。それが戦争です。でも「言葉」を駆使した「戦争」は、殺し合いには絶対(と自信をもってと、いいたいね)にならない。(それは、長年にわたって、ぼくは経験済みですから。ぼくの場合は「内乱」でしたが)

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 雑誌のインタビュー記事以来、サモラさんについては、しばしばその活動を耳にすることがありました。近年で度々来日され、各地で講演などの活動をされています。その際にも、きっと「コスタリカの奇跡」が話題にされてきました。ぜひとも見るべきドキュメントであろうと思われます。ここでは、その前段階の「予告編」的なものを二編ばかり紹介しておきます。Ⅰコスタリカ国会の刻板 - 映画『コスタリカの奇跡 ~積極的平和国家のつくり方~』特別編(1)(https://www.youtube.com/watch?v=pnxGYapjZME) Ⅱコスタリカの平和教育“ビー・ピース” 映画『コスタリカの奇跡 ~積極的平和国家のつくり方~』特別編(2)(https://www.youtube.com/watch?v=awLll2S_1FY

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 戦争繰り返さぬために 軍隊を持たない国から学ぶ コスタリカの弁護士が講演 

軍隊を持たない中米コスタリカから学ぼうと、同国の弁護士ロベルト・サモラ氏を招いた講演会が11日、長崎市内であり、参加者が日本の改憲の動きや国民の役割について考えた。/ 高校生1万人署名実行委や市民団体などでつくる実行委が主催。約170人が参加した。/ コスタリカは永世中立を宣言し、軍隊保有を禁じる平和憲法を制定している。2010年に隣国のニカラグアが侵攻してきたが、国際司法裁判所に提訴して阻止した。サモラ氏は「1人の死者も出さず、お金も銃も使わず、また自衛の兵も作らなかった」と強調した。/ コスタリカの大統領や内閣がイラク戦争を支持したり、核兵器製造を提案したりした際には、サモラ氏が裁判所に提訴。裁判所の命令で戦争支持を撤回させたり、核兵器を製造禁止に追い込んだりしたと説明した。/ サモラ氏は日本の憲法九条改正の動きについて「政府が国民を欺いている」と批判。高校生平和大使らの活動報告を聞き「失敗しても希望を持ち続け、不可能だと思うことに取り組んでほしい」とエールを送った。/ 参加した第21代高校生平和大使で諫早高3年の山西咲和(さわ)さん(18)は「戦争を二度と繰り返さないために(戦争の)原因についても貪欲に学び続けていかなければならない」と語った。(長崎新聞・2019/06/13)

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〇 コスタリカ=正式名称−コスタリカ共和国Republic of Costa Rica。◎面積−5万1100km2。◎人口−430万人(2011)。◎首都−サン・ホセ(34万人,2006)。◎住民−白人系(スペイン系がほとんど)97%,黒人2%など。◎宗教−カトリック(国教)が大部分。◎言語−スペイン語(公用語)。◎通貨−コスタリカ・コロン。◎元首−大統領,ソリスLuis Guillermo Solis(2014年5月就任,任期4年)。◎憲法−1949年11月制定。◎国会−一院制(定員57,任期4年)。最近の選挙は2014年2月。◎GDP−298億ドル(2008)。◎1人当りGNP−4980ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−18.6%(2003)。◎平均寿命−男77.8歳,女82.2歳(2013)。◎乳児死亡率−9.0‰(2008)。◎識字率−96.3%(2011)。*中米,パナマの北に位置する小共和国。東はカリブ海,西は太平洋に臨む。国土は大部分高原状地形で,火山が多い。気候は太平洋側は乾燥,カリブ海側は高温多湿。住民の大部分が,スペイン系白人とその混血で,生活・教育水準は他の中米諸国に比して高い。農業が主で,コーヒー,バナナ,カカオを輸出,牛の畜産もある。米国資本の進出が著しい。1502年コロンブスがコスタリカ(豊かな海岸の意)と命名,16世紀後半からスペイン領となった。1821年メキシコ帝国の一部として独立,1824年―1838年中央アメリカ連邦に属し,連邦解体後は1848年正式に独立した。1949年制定の現憲法は武装放棄を宣言し,軍隊をもっていない。1987年アリアス・サンチェス大統領(国民解放党)は,中米紛争の和平合意への努力を評価され,ノーベル平和賞を受賞。中南米では最も政情の安定した国の一つ。(マイペディア)

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 約束は破るために結ぶという、国家がある

<あのころ>日ソ中立条約調

 モスクワで松岡外相(上写真】 1941(昭和16)年4月13日、モスクワで日ソ中立条約に調印する松岡洋右外相。右端にはスターリン書記長。南進を図り背後の脅威を除きたい日本と、ドイツに備えるソ連の利害が一致し、お互い相手の戦争に中立を守ると規定した。しかし、第2次世界大戦末期の45年8月8日、ソ連は対日宣戦を布告し条約を破棄。(共同通信・2022/4/13)

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 「人間は約束しうる動物である」といったのはニーチェだったと思います。若いころには、こんな言い草でも、おそらく哲学的な深みのある表現として、おそらく後生大事に記憶していたのだろうと思います。ニーチェに限らず、大したこともない事柄を針小棒大に言い募ることが、あるいはわかりにくく表現することが「哲学」の代名詞だったように見えてくるのですから、どうかしていたんですね。確かに犬や猫は「約束」はしないでしょう。だから「約束する」のは人間の特質だといっても、空約束はお手の物だったりする人もいますから、そんな手合いなど、犬や猫にも劣るとも言えます。「針千本飲ま」しても平気なんですから。約束は「守るかどうか」が問われるのです。持った大事には「自分に(と)約束する」ことですね。

 個人同士でも「約束」を「する」と「果たす」に大きなギャップがあることは、いつでも認められます。どんな約束でも必ず守るというのは、たぶん、とても稀なことなのもかもしれません。「国と国」同士ではどうでしょう。これも、個人間における場合と似たり寄ったりで、信用できたりできなかったりするのです。物を買うとか売るという程度のことならともかく、「戦争」に関して二国間で「約束」をして、それを互いが守ると、国家代表がサインし、条約・協定は発効します。それは「破棄されるまで」は、順調に遵守されているんです。このような事例は歴史を覗いてみるときりがありません。今回のウクライナ侵略にかかわらせて、旧ソ連(現ロシア)の結んだ「条約」に限ってみると、一つは「日ソ中立条約」(1941年)があり、もう一つは「独ソ不可侵条約」(1939年)です。そのどちらも、ソ連は白昼堂々と「条約破り」を敢行しました。条約破棄は、ロシアの昔からの「しきたり」「伝統」、つまりは「お家芸」であるともいえます。困ったものですよ。

 日ソ中立条約の内容は、以下の「解説」にある通り。しかし同条約は一方的な破棄通告がなされ、ソ連は第二次世界戦争にぎりぎりで駆け込み参戦し、今に至る「領土問題」の基礎を築くことになりました。第二次世界大戦中のことでしたから、この「条約」は、両国とも「自国の利益」という一点でのみ結ばれたものでしたが、利害得失のバランスが崩れれば、条約は弊履のごとく捨てられるのです。初めから支払いの気持ちなど持たないのに、「約束手形」を結び、それが明らかに「空手形」であったと、「臍を噛む」のは、より大きな利益を、身の程もわきまえずに狙う輩であるといってもいいでしょう。日本の場合、後悔は先に立たずで、ソ連と手を結ぶこと自体が奇怪であったのです。

 日ソ条約の扱われ方もどうしようもないものでしたが、それに輪をかけていたのは(時間的には、こちらのほうが先でしたが)独ソ不可侵条約です。前後関係から言えば、独ソ戦は避けられないとみていたスターリンは、形式的には「独ソ不可侵条約」を結んだうえで、ドイツとの不可避の戦争に専念できるように日本をコケにしたという体でした。この「不可侵条約」でヒットラーとスターリンは、他国の「分割」「割譲」(手前勝手な「山分け」)を図っていたのですから、実に「火事場泥棒」というほかありません。その際には、ポーランドやフィンランド、バルト三国などをソ連領土と目論んでいたのです。

 今回、フィンランドとスェーデンがNATOに加盟する方向で動いていることも、このような「略奪」「侵略」の前科者が闊歩しているのを見れば当然であるというべきでしょう。核攻撃を武器にして、加盟阻止へ圧力をかけているのが「P」です。お里が知れるとはこのこと。ぼくは落語の「らくだ」という話を、これまでどれくらい聞いたか。おそらく百回では足りないでしょう。いろいろな噺家で聞きましたが、やはり志ん生でしょうね。そして、元気な時代の松鶴さん。図体がでかく、のそのそしているが、やることが乱暴だという、人呼んで「らくだ」、通称うまさん。話の内容については触れません。とにかく手に負えないならず者が町内に越してきて、家賃は払わない八百屋・魚屋などの品物も好きなだけ持っていくのに、料金は一銭だって払わない。こんな「悪」がいるものだと感心するほどの「無法者」がいるものです。きっと江戸の長屋にも、この手の「やくざ」はいくらもいたし、その始末に困っていた庶民は、落語の中とは言え「らくだを殺し」(死因は「フグに中(あた)ったとされる)、積年のうっ憤を晴らしたのではないでしょうか。果たして今日のラクダは「ロシア」でしょうか。

 「らくだがくたばった」と、赤飯でも炊いて祝おうじゃないかという大家をはじめとする長屋の住人。そこに、ラクダの兄貴分、人呼んで「くまさん」がやってきて、ラクダ以上にでたらめの限りを尽くし始める。この悪友に取っ捕まるのが「くずやさん(きゅさん)」。商売に出かけた途端に、らくだの家の前に来ると呼び止められ、くまさんから無理難題を背負わされ、仕事に行けずしまいになるのです。町内から「香典(不祝儀)」を集めろ、お通夜のための「料理」を大家からもらって来い、死体を焼き場に運ぶのに樽がいるから、八百屋の「菜づけの樽」を借りてこいなどと言いつけるなど、さっぱりでしたが、その用事を済ませて、さて商売に戻ろうとすると、大家からお通夜の品が届き、その中でお酒があったので、くまさんは、屑屋さんに、「まあ、一杯」と盃を突き付けるが、仕事があるのでと、申し出を断る。「清めの酒だから」と、勧める。ところがきゅうさんは、仕事があるのでと断る。ついに、うまさんは怒り出す。…結局、このくず屋さんの働きで、らくだの通夜も済ませて一段落。(もとは上方のネタでした。最も得意としていた近代の噺家は、六代目、笑福亭松鶴さん(右上)。鶴瓶さんの師匠でした)(「松鶴「らくだ」:https://www.youtube.com/watch?v=u4nvboV1cPQ

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 悪い冗談ですが、「ラクダ」の登場人物をたどると、「らくだ」は手におえない乱暴で無法者の「ロシア」で即決ですが、悪友の「くまさん」は中国、いやベラルーシか。そして問題のくず屋のきゅうさんですが、適当な存在が見当たらないのが実際で、今日の暴力の拡大進行も、ここに原因がありそうです。一パイ酒が入ると、らくだの兄貴分も腰を抜かすほどの「啖呵」を切り、相手(ならず者)をへこませてしまう存在です。あるいは「インド」あたりが、とも言いたくなりますが、なかなかそうでもなさそう。思いもつかない人物や国が「きゅうさん」にならないとも限りません。八方手を尽くしてもいなければ、もう世界中の人や国が「(酒癖の悪い)くず屋のきゅうさん」になるほかないでしょうね。昔からよく言いましたね、「酒中に真あり」と。大好きなモットーでしたよ。

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● 日ソ中立条約(にっソちゅうりつじょうやく)Japan-USSR Neutrality Pact=日本とソ連が 1941年4月 13日松岡洋右外相とスターリン首相の間で調印,締結した条約。4ヵ条から成り,両国間で平和友好関係を維持し,相互の領土保全不可侵を尊重すること (1条) ,締約国の一方が第三国によって軍事行動の対象とされた場合には,他方はその紛争の全期間,中立を守ること (2条) ,有効期間は5年,期間満了の1年前に予告をもって廃棄通告しうること (3条) などを規定している。本条約は,日本にとっては北方からの軍事的脅威を弱め,南進に力を注ぐことができ,ソ連にとっては対独戦にのみ集中することができる効果をもった。その後ソ連は 45年2月のヤルタ会談の「秘密協定」で対日戦参加を決め,同年4月5日に廃棄を通告,日本は延長を希望したが拒否された。ソ連は中立条約の有効期間満了に先立つ8月8日に日本に対し宣戦布告した。(以下略)(ブリタニカ国際大百科事典)

● 独ソ不可侵条約(どくそふかしんじょうやく)Russo-German Nonaggression Pact 英語 Deutsch-sowjetischer Nichtangriffspakt ドイツ語=1939年8月23日モスクワで調印された独ソ間の条約で、秘密付属議定書が付せられる。条約は全文7か条。両国相互に攻撃せず、両国の一方第三国から攻撃された場合、他方はこの第三国を援助しない(第1条)、共通の利害に関する問題では協議する(第2条)などを約し、期間は10年(第6条)、調印と同時に発効する(第7条)という内容であった。両国は、秘密付属議定書において、東欧の領土的・政治的再編成の際、ポーランドを分割し、ナレウ、ビスワ、サンの各河川を境界として、フィンランド、エストニア、ラトビア、ベッサラビアソ連の、リトアニアをドイツの勢力範囲とすることを確認した。だがこの点は、ドイツの攻撃でポーランド国家が崩壊したのち、39年9月28日モスクワで調印された「独ソ境界・友好条約」の秘密補足議定書では若干修正され、リトアニアはソ連の勢力範囲とされるかわりに、ポーランドの分割線はほぼいわゆるカーゾン線に沿って確定された。(ニッポニカ)

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 春のうららの隅田川、その川面に浮かぶ…

(河北春秋)作家の吉村昭さんは17歳の時に東京大空襲を体験している。焼夷(しょうい)弾によって火の手が至る所から上がり、高台にある谷中霊園に大勢の人と逃げたという。そこから見た光景はすさまじかった▼「町を覆う炎が轟音(ごうおん)を上げて逆巻き、高々と吹き上がっている。空にはおびただしいきらびやかな火の粉が乱れ舞っていた」。焦土と化した町には多くの焼死体があり、川面にも死体が寄り集まって浮かんでいたと随筆に書いている▼ロシアのウクライナ侵攻の模様の生々しい映像が連日、テレビなどで流れる。ミサイルの猛攻で港湾都市のマリウポリなどは破壊し尽くされた。焼け跡のような光景に、かつての東京をはじめとする各地の空襲を思い出した高齢の方も多いだろう▼ウクライナのゼレンスキー大統領が国会でオンライン演説を行った。「ミサイルが落とされ、町が破壊され、数千人が殺され、そのうち121人は子どもだ」。ロシア軍の無差別攻撃と市街戦が招き寄せた祖国の悲惨さを改めて訴えた▼吉村さんは戦争中の心境を「子どもや女性を敵から守るという意識でおり、そのために死んでも少しも悔いはないと思っていた」と述べている。ウクライナの人々やゼレンスキー氏に心を動かされるのも、そんな決意を感じ取れるからに違いない。(河北新報・2022/03/25)

 ウクライナの空からの絨毯爆撃によって「灰燼に帰した」いくつもの市街地の空撮写真を、息をのみながら見ている、そのわきに、ぼくは「東京大空襲」といわれる「森羅万象焼き尽くし」に遭遇し、無辜の民の無数の焼死の記録写真集を置いています。現在進行中の、禍々しい「殺戮」の惨状と、七十七年前の日米戦争時の「都市空爆」による修羅の場と、比べるべくもなく、「戦争」を理由に、無数の人間を殺しつくして後止む、そんな惨(むご)たらしくも許されざる蛮行を、ぼくは悲しみの底に怒りが滾(たぎ)るに任せて、凝視しているのです。「東京大空襲」を敢行した当事国が正義の刃を振りかざし、今は「人倫に悖る」「戦争犯罪」だと、一方の当事国の支配者に「戦争犯罪人」という罪名はを投げつけているのです。そして、この両国は、「アフガニスタン」に交互に、他国領土に土足で踏み入り、ここでもまた無辜・無量の人民を殺害してきたのです。

 人民が戦争を望むのではない。人民が望むように煽りに煽り、愛国・排外主義に油を注ぎ、それに点火するための「デマゴーグ」をふりかけ、「敵愾心」こそ「愛国心」なのだと叫びまくったのは政治権力者たちだった。それはまぎれもない「犯罪」です。戦争の形や姿は、確かに、時代によって様変わりする。しかし、どれだけ焼き尽くし、どれだけ殺しつくしたか、その「残虐の総計」によって帰趨が決まると愚かに考えている、政治家やそれにタカリ集まる連中がいるかぎり、この人類史が、中断することなく、積み重ねてきた野蛮行為は終わることがないのです。

 「勝てば官軍 負くれば賊よ」と、西南戦争の際に薩摩(西郷)軍の兵たちが歌っていた。元は西郷の作だと言われてきましたが、後々、一種の「勝利至上主義」に転化していった。どんな勝ち方でも「勝てば官軍」、正義を貫いても「負ければ賊軍」と相場は決まっている。それでいいのか。どれだけの犠牲を強いて来たか、それが「勝者の条件」だというなら、もう「人間を止めるべきだ」と、ぼくは考えてきました。

(⇧)中央のドーム状の建物は旧両国国技館(跡地には、現国技館。右側に隅田川が流れている。(米軍撮影 / Wikimedia Commons)(⇩)墨田区HP:(https://www.city.sumida.lg.jp/kuseijoho/sumida_info/opendata/opendata_ichiran/photo/sakura/index.html)

 「東京大空襲」の状況を生々しく描写された吉村さんのものを読んで以降、ぼくは平然と(心穏やかに)は「隅田川」を見たり、渡ったりすることが出来なくなりました。荒川区に親類があったので、もう半世紀以上、数えきれない程、隅田川にかかる数多の橋を頻繁に渡ったものでしたが、何時だって、川面には累々たる死体が浮かんでいるさまが、見たこともないのに、目に焼き付いているという記憶が残っているのです。その他に早乙女勝元さんたちの残された仕事や、多くの作家、写真家、あるいは当時の新聞の記録や写真を見ることが重なっていくうちに、ぼくは「東京大空襲」を、自分も逃げわまりながら経験したという錯覚に陥ってしまったのです。一言で「焦土と化した」「一面焼け野原」などといいますが、文字通り、人命は言うまでもなく、あらゆる形あるものはことごとく破壊し、破壊しつくさなければ終わらないという激しさが、いつの、どこの戦争でも見られるのです。「(「春のうららの隅田川」に浮きつ沈みつしていたのは、語りつくせぬ「戦禍」の悲しみでした。滝廉太郎も武島羽衣も、その「凄惨な隅田川」に遭遇しなかったのは、いかにも幸いだったでしょう。「戦禍」を知っていれば、あの「花」(明治三十三年十一月)は生まれなかったのは確かですから)

 殲滅(annihilation)という情念は、いったいどこから生まれるのでしょう。前線の兵士たちは、「侵略国」の誰彼を知っているわけではないでしょう。だから恨みとか憎しみが「殲滅」行為の原因となることはあり得ない。戦争を仕掛けた側の「頭目」が、同じ勝つにしても、徹底的に破壊し、殺戮しつくして勝つことにこだわっているのでしょうか。もちろん、「戦争状態」に置かれれば、冷静かつ沈着な判断が困難であることはわかります。しかし、今次の都市爆撃を受けた街にしたところで、そこには「市民は一人もいない」という、見え透いた虚構を自らに信じ込ませなければ、丸腰の、一切武装していない人民を的にすることが出来ないでしょう。それをさせるものは、いったい何か。当事者にも理解不能な、闇雲の衝動というものが、想像を絶した凶行・悪行に、人を向かわせるのでしょうか。

 素人の見たところ、間もなく「片が付く」と(半ば願いながら)思っています。その形の付き方、付け方が問題ですが、それはもう少し後で語ることにします。どのような結末を迎えるにしろ、このあからさまな「戦争犯罪」行為に対しては、世界は厳格な対応をすべきであるのは言うまでもありません。「戦犯」を裁くのは、戦争の勝利者側であってはいけないのは論を俟(ま)ちません。しかし、事態がここまで進行してしまったことに対して、ぼくたちも含めて、現世界の「政治指導者」の責めは無視されてはならないのです。

 先日「ひまわり」という映画について駄文を書きました。そのひまわりはウクライナの「国花」であります。そして皮肉なことなのかどうか、ロシアの「国花」でもあるそうです。さらに、春の盛りには、ウクライナの全土に「ライラック」が咲き誇ります。今は、空前の焦土と化した市街地のあちこちから、時期が来れば「ライラック」はその匂いとともに咲き乱れることでしょう。その時までに、無謀で残虐な「侵略戦争」が終焉を迎えていることを祈るや切です。

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◉ ライラック(Syringa vulgaris; lilac)=モクセイ科の落葉低木。ムラサキハシドイともいうが,フランス名のリラのほうが通りがよい。バルカン半島からクリミア半島にかけての原産といわれ,寒いところでもよく生育する。日本でも北海道をはじめ各地で庭木としてよく栽植する。幹は根もとから何本にも分枝し,高さ 5mほどになり,樹形はやや平たく丸く茂る。葉は柄があって対生し,長さ4~8cmの広卵形でやや硬く,なめらかで光沢がある。春に,枝の上部に大きな総状の円錐花序を出し,芳香のある紫色の美花を多数つける。花冠は長さ 1cmあまりの漏斗形で4裂し,おしべは2本で花冠の中部ないし上部につく。園芸品種が多く,花色が白,赤,青などのもの,八重咲きのものなどがある。日本に自生する同属の近縁種ハシドイ S. reticulataは,初夏に白色で芳香のある花をつける。(ブリタニカ国際大百科事典)(左上の地図は「ドニエプル川」、それは都内を貫流している「隅田川」のようでもあります)

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 「歴史は思い出である」といった人がいた

 本日は3・11、十一年目を迎えます。昨日は七十七年前の「東京大空襲」の日でした。いつも言ったり思ったりしているのですが、この島の長い歴史を考えると、一年の中のどの一日も、何かしらの「記念日」になっているのです。人為的に、あるいは商売上に設けられた「休日・祭日」あるいは「語呂合わせの記念日」などは、遊びとしてわきへ置いておくとして、この出来事を風化させてはならない、忘れてはならないという「特異日」は、毎日のように詰まっているのでしょう。だから、ぼくたちは、自分の人生を生きていると同時に「歴史を生きている」ともいえるのです。歴史を離れてぼくたちは一日も生きられないと言い換えてもいいでしょう。

 (下の写真は東京新聞・2021年2月14日)この写真を見ながら言っておきたいのですが、「東日本大震災」は未曽有の地震であり、それがもたらした災害規模の大きさも類例を見ないようなものでありました。ぼくが、怪訝に思うのは、ともすれば、それと切り離されて「福島原発事故」が、二次的に扱われているということです。いまだに、「なぜ原子炉は爆発したか」について公式の見解はあいまいなままです。明らかな政治的意図がみとめられる)

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 その「周年記念日」は時間の経過とともに、人々の記憶から消えていく(忘れ去られる)、それは一面ではしかたがない、あるいは自然の成り行きであるともいえます。今日、「東京大空襲」を記憶にとどめている人はどれくらいおられるでしょうか。自らを含めて「被害」にあったという人の存在は確実に減り続けています。だからこそ、「歴史を学ぶ」という作業(行為・追体験といってもいい)は、っそれなりに間違いを少なくして生きていくためには欠かせないのですが、学校における「歴史教育」の頼りなさは、ぼく自身も長く経験してきただけに、実に心もとなく思われます。「満州事変」などは、今では記録(資料・史料)の中にしか残されていない状況です。いずれ「東北大震災」も、記録に留められて、思い出されるのは、同じような「災害」が起った時だけという事態になるはずです。この三年ばかり、散々に傷められてきた「コロナ禍」も同じでしょう。それは当たり前ですが、単に「事実の羅列」「存在した事実の集積」だけでは決して「歴史」にはならないということです。しかし、単に「事実」といっても何でもかんでも事実ということではない。そこにはおのずから「事実の選択」が行われます。それが徐々に歴史の事実からは遠ざかっていくことも大いにありうることです。「事実の変貌」ですが、これを歴史の改竄ということもできます。

 面倒なことをいうようですが、事実をいくら集めても「歴史」にはならない。ぼくたちが知らない、人跡未踏の地でどれだけ雨が降ろうが、大震災が起ろうが、火山爆発が発生しても、それは自然の運動(摂理)でしかないのです。ところが、何日も降り続く大雨のために生活が壊されたり、人命が損なわれたりして、初めてその事実は「歴史」になりうるのです。もっと言うなら、「あの地震・災害を、私はこのように経験した」という人々が存在して初めて「震災は歴史である」ということができるのでしょう。一人の思想家は「あそこに、一本の松が立っている。という人がいなければ、それは世界ではない」といいました。あるいは「松」問い植物に名前を付ける人間がいて、はじめて人間の社会になるのでしょう。人間がそこに関わらなければ、歴史は生まれないと言ってもいい。なにもこういったから、ことさらに人間の優位性を言うのではない、そうしなければ、人間はこれほど長く存在してこれなかったからです。

 犬や猫も、人間と同じような時間を生きています。しかし、彼や彼女たちは「歴史」を持っているかというなら、どうでしょう。人間が使うのと同じ意味合いで「歴史」を持たないのかもしれないし、彼や彼女に独特の「歴史」があるともいえます。それはしかし、人間の用いる「歴史観念」とは比較できません。優劣の問題ではなく、「種(自己)保存本能」の質的差です。優劣ではないことは、だれの目にも明らかです。犬猫などの動物は、弱者を殺すのに、核や核ミサイルは断じて使わない、いや、そもそもそんな危険なものは彼らには不要だったのです。人間が優れていると言えるのは、「「優れている」と判断する人がいるからです。人間の世界に限定してのみです。「ロシアは偉大だ」「ロシアは偉大でなければならぬ」という殺人鬼がいるから、目をふさぎたくなる地獄絵が展開しているのです。偉大な殺人狂(と言われたがっている権力亡者)は、犬猫に勝るのでしょうか。

 つまらないことをいうようですが、記録するか記憶する(あるいは記憶の伝達を含めて)行為があって、はじめてぼくたちは「歴をを生きる」条件を備えるともいえるのです。3・11から十一年が経過したと、経験者が語り、記録が示しているから、ぼくたちはあの甚大な災害と被害者に思いを寄せることができるのです。これが百年以上たったら、「災害・被害」の実体験者は皆無となります。すると、残された「記録」と「記憶(の伝達)」だけが、歴史を知る・見る・生きる「資料」になるはずです。その資料がどのように残され・編纂されるか、それは「歴史」の問題を考えるうえで極めて重要な条件となるでしょう。そのような資料・史料には幾多の種類があります。それを細大漏らさず網羅することは不可能でありますから、ぼくたちは身に合ったものの裡に「歴史」や事件・事故の痕跡を見るのです。

 若いころ、一人の文学者が「歴史は思い出である」ということを言ったのを、はっきりと記憶しています。道端に幼児の靴が転がっている。それを見ただけでは歴史にはならない、その靴は事故に遭った「私のこ子どものもの」といって、それを手に取る母親がいて初めて、この靴は歴史を語るのです、一個の靴を手にするだけで、母親には、深い悲しみとともに「亡き子」がよみがえる、生きていた姿が髣髴とする。それを「思い出」といっていいだろうということでした。「思い出す働き」がなければ、単なる物質であるもの、だれも見向きもしなければ、一個の靴はゴミでしかないかもしれない、と考えると、残されたもの(遺品というか遺物というか)にいのちを吹き込み、それをよみがえらせる働き(感情)が「歴史を作る」といってもいいでしょう。ぼくは、土台無理かもしれないし、それはあり得ないことだとも考えながら、「歴史」をそのようにつかみたいと苦闘してきたようにも思っている。「思い出す」人がいなくなれば、歴史は消えるのか。消えた歴史は何と呼ぶのでしょうか。資料(史料)なのか、それとも記録されなかった何かなのか。こんな問題ですら、ぼくたちにはまともに応えられないんですね。

 もう少し続けたい気もしますが、面倒くさいという気分もあります。じつは、ここでは一本の映画のことを材料にして、歴史とか歴史の記録なるものを考えたくなっただけです。それも面倒なことになりそうなので、ことは簡単に済ませたい。歴史資料・史料の中に、当然文学や音楽、あるいは映画などの「芸術」も入ります。映画を見ることにかけては、ぼくはまったくの怠け者でしたから、何も言う資格もないのですが、「ぼくはこの映画を、このように観た」ということぐらいは許されるかと判断して、勝手な感想を述べて終わりにします。こんなろくでもないことを考えさせてくれたのが、下の「コラム」でした。映画のタイトルは「ひまわり」。1970年だったかに公開されました。ぼくはいつ観たのか。絵画を記憶するのと同じように音楽も映画も、ぼくはほとんどまともに記憶できた試しがありません。 

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 【南風録】1970年公開の映画「ひまわり」は、戦争で引き裂かれた夫婦の悲恋をイタリアの名優マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンが演じた。エンディングで映し出される広大なヒマワリ畑が印象深い。▲旧ソ連が舞台で、このシーンはウクライナの首都キエフの南約500キロのへルソン州で撮影されたとされる。現地の日本大使館はホームページで、今も7月下旬ごろには一面に咲きわたると紹介している。▲さて、今年はどうだろう。深刻さを増すウクライナ情勢である。13万人規模とも言われるロシア軍が侵攻を続けている。民間人の犠牲も後を絶たず、国外に逃れた人は200万人を超えた。▲周辺国の駅などにたどり着くのは女性や子どもが目立つ。祖国を守るため、多くの人が、夫を、息子を故郷に残してきたからだ。着の身着のまま手荷物だけを抱え、うちひしがれた人たちの姿を伝えるニュース映像に心が痛む。▲岸田文雄首相が避難民受け入れを表明し、鹿児島県内に落ち着いたケースもある。祖国を脱した家族との再会を心待ちにする鹿児島市在住の女性もいる。安らかに過ごせるよう手を尽くしたい。▲先週の本紙に青空を背にした開聞岳とヒマワリ畑の写真が載った。青と黄色のウクライナ国旗に見立て、平和の祈りを託してロシア出身の女性が撮った。心置きなく花をめでることのできる日を一日も早くと願う。(南日本新聞・2022/03/10)

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◎ソフィア ローレン(Sophia Loren)1934.9.20 - =イタリアの女優。ローマ生まれ。本名ソフィア・シコローネ〈Sofia Villani Scicolone〉。1950年ナポリでの海の女王コンテストに入賞、同年の「クォ・ヴァディス」のエキストラ役で映画デビュー。’52年、芸名をソフィア・ラッザーロからソフィア・ローレンに改名。’54年の「河の女」で世界的名声を獲得し、「黒い蘭」(’59年)でベネチア映画祭主演女優賞、「ふたりの女」(’61年)ではアカデミー主演女優賞、カンヌ映画祭主演女優賞を受賞。作品は他に「ひまわり」(’69年)、「プラス・ターゲット」(’80年)等多数。私生活では大プロデューサーのカルロ・ポアンティとの結婚が重婚罪で訴えられ、9年後に正式に結婚成立。(二十世紀西洋人名辞典)

◉ デ・シーカ(De Sica, Vittorio)[生]1902.7.7. ソーラ [没]1974.11.13. パリ イタリアの映画監督,俳優。初め俳優だったが,1940年代以後は監督としても数々の名作を発表,ネオレアリズモ映画の代表的監督となった。リアルな映像にあふれる香り高いヒューマニズムは,世界の映画人に大きな影響を与えた。主要作品『靴みがき』 Sciuscia (1946) ,『自転車泥棒』 Ladri di Biciclette (48) ,『ミラノの奇蹟』 Miracolo a Milano (51) ,『ウンベルトD』 Umberto D (52) 。(ブリタニカ国際大百科事典)

◉ ひまわり(I girasoli)=1969年製作のイタリア・フランス・ソ連合作映画。チェーザレ・ザヴァッティーニCesare Zavattini(1902―1989)脚本、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の戦争メロドラマ。第二次世界大戦中に東部戦線で行方不明となった夫のアントニオ(マルチェロ・マストロヤンニ)の生存を信じ、ソ連まで捜し求めて行った妻のジョヴァンナ(ソフィア・ローレン)は、彼がロシア娘のマーシャ(リュドミラ・サベーリエワLyudmila Savelyeva、1942― )と新しい家庭を築いているのを知る。ローレンの夫であるカルロ・ポンティCarlo Ponti(1912―2007)が製作を担当し、モスフィルムの協力を得て、旧ソ連国内で初めてロケーション撮影を敢行した西欧映画として話題となった。地平線まで広がるひまわり畑の風景に流れるフランコ・マンニーノFranco Mannino(1924―2005)の主題曲も印象的だった。(ニッポニカ)

*「ひまわり」: Loss of Love – Sunflower (Mancini) (Piano)・Theme from “Sunflower” (I Girasoli) (1970)=(https://www.youtube.com/watch?v=bo3O_yF2ycU

 (右の写真は、左からマストロヤンニ、ソフィア・ローレン、デ・シーカ)

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 コラム氏は「戦争で引き裂かれた夫婦の悲恋」と言っているけれど、ぼくは悲恋を装った「喜劇」といいたいほどに、この映画は「荒唐無稽」でした。それをどうこう言うのではなく、「戦争」に関わると(関わらなくても)、人生は「荒唐無稽」になり、ありそうもない生活を余儀なくされるものでしょう。映画の内容を批評するのではありません。この映画で、ぼくがもっとも強く感じさせられたのが、主人公の「アントニオ」(マストロヤンニ)が、徴兵忌避行為を演じてロシア戦線に送られ、そこで真冬の戦闘で自軍が壊滅し、彼は死線をさまよう。残された妻のジョバンナ(ソフィア・ローレン)は、夫の生存を信じて帰還を待ち、ついにはソ連に赴き、たった一人で「夫」を探す。時代がいまではありません、一枚の夫の写真を手にして尋ね歩くのです、見も知らぬ、行きずりのロシアの人々に。場所がどこだったか、モスクワだったか地方だったか。詳しいことは忘れました。

 ついに夫の居場所を突き止めたが、そこには夫の「家族」がいた。失意のうちに彼女は故郷(ナポリだったか)に帰る。直後に夫が会いたいと言って、やってくる。これは喜劇でなくて何でしょうと言いたいほどです。ぼくのいう「荒唐無稽」は、戦争とその後遺症といってもいいもので、だれにでも、いくらでも引き起こされるのでしょう。妻は再婚している家に、元の夫が来る。(元妻の現夫は「夜勤」で留守だという、うまくできているんですか)そこには、妻と再婚相手との間の子どもがいて泣いている。「この子の名は?」と元夫が聞くと、「アントニオ」とこたえる。「ぼくの名前を付けてくれたのか」という夫に、ジョバンニは「聖アントニオからよ」と、実に微妙な表情で答えた。この映画でもっとも印象に残った場面です。喜劇ですね。元夫は、一緒にどこかへ行こうと誘うのは、いかにもデ・シーカ監督らしいというべきか。まじめに演技しているからなおさら、喜劇の色が強く出る。イタリア映画の面目というものですか。

 「ひまわり」というタイトルは、何の暗示なんでしょうか。あまり深い意味があるとは思われません。墓地を管理している女性だったか、広大なひまわり畑の墓地をさして、このひまわりの下には「ロシア人と他の国の人々の遺体が埋まっている」といったように記憶しているのですが、そんなをこといえば、人間の住んでいる地面を掘れば、かならず遺骨がでてくるのですから、とりわけひまわりの下(日本の作家は「満開の桜の下に死体が埋まっている」という小説を書いています)という必要もないように思うのです。 

 (戦争とそれがもたらした運命の行方(ゆくえ)を考えるときに、以前にも触れたかもしれませんが、石原吉郎という詩人を想起します)

◉ 石原吉郎( いしはら-よしろう)=1915-1977 昭和時代後期の詩人。大正4年11月11日生まれ。昭和14年応召,敗戦でシベリアに抑留され,28年帰国。鮎川(あゆかわ)信夫らにみとめられ,30年「ロシナンテ」を創刊。39年抑留体験に材をえた「サンチョ・パンサ帰郷」でH氏賞。48年エッセイ「望郷と海」で藤村記念歴程賞。昭和52年11月13日死去。62歳。静岡県出身。東京外国語学校(現東京外大)卒。【格言など】痛みはその生に固有なものである 死がその生に固有なものであるように(「北条」)

 ぼくが、いいたいのは、この元夫婦に起ったような運命のいたずらというか、神の「思し召し」というか、戦争に駆り出された兵隊のだれにも、そのような悲劇や喜劇、つまりは人生の不思議が生じていると考えると、この映画は、別の一面を持っていると言いたくなるのです。ぼくは「戦争映画」なるものを好まない。あるいは「戦争ドキュメント」も好きになれない。そこに描かれているのは、一方の当事者の視点だったり、歴史観だったりするのがすべてといっていいほどだからです。つい先日にも触れた「僕の村は戦場だった」でもいえることです。戦争の非人間性を描くのに、大量殺りく兵器を使う必然性も必要もないのではないでしょうか。「ひまわり」という映画は、デ・シーカ監督作品のものでは評価は高くないのは当然ですね。ただ劇中に流れる「主題歌」は、いいものでした。

 例によって、この駄文には結論はありません。「戦争」や「大震災」などの大事件や大災害から時間が経つにつれて、事件の内容や事実の意味合いが変わってくる、いや変えられてくるということをしみじみ感じさせられています。3・11後の復興がどの程度進んだのか、全体が見通せませんから、確かなことは言えませんが、これが五十年も百年も過ぎたならどうなっているのか、それをしきりに考えるのです。「ひまわり」公開はは、戦後二十五年です。もうすでに「歴史事実の風化」は避けられなかった。その証拠に「ひまわり」があると言えば、映画ファンには石を投げつけられるでしょうね。今も地球上のあちらこちらで行われている「戦争」は、言葉で言い表せない運命によって、人々の生活そのものを翻弄しているということ、それは敵も味方も含めて、戦争に参加させられている無数の人々の「人生」を狂わせているのです。ぼくたちは、テレビやネットを通して、お茶を飲みながら、あるいは会食しながら、被弾したり殺戮される映像を見ているとするなら、それは自らに許してはいけない「退廃」であり「「堕落」であると、ぼくは受け止めているのです。それに、あらためて気づかせてもらったという点では「ひまわり」鑑賞も、ぼくには意味があったというべきです。(映画を記憶するということは、ぼくには本当に困難なことです)

 映画の中で主人公は、自分の命を救ってくれた、現地の女性と結婚したことを、元の妻に詰(なじ)られて、弁解する。「戦争は残酷だ。私は死んだ。そして別の人間になった」と。そう言いながら、自らの行いを正当化しようとします。それが本当であるとは信じられないのは、彼はイタリア人だからか。これはイタリア人への偏見になるのかどうか。そうまで言っていながら、互いに、つれあいや子ども(家族)がありながら、「このままどこか遠くへ行こう」と永六輔さんみたいなことを言う。このあたりの演技は「抜群」だったね、マストロヤンニさん。喜劇ですね。戦争は喜劇ではない、悲劇中の悲劇だけれども、それを後から振り返れば、「喜劇にしたい」「笑い話で済ませたい」そんな人が腐るほどいるんじゃないでしょうか、この島にだって。

 戦争は認めるわけにはいかない、しかしその「戦争を始めた奴」は断じて許せない、そんなことを「ひまわり」の音楽(ヘンリー・マンシーニのピアノ演奏)を聴きながら、しきりに想っていました。もし「思い出」というものが「歴史」になるなら、ずいぶんと手前勝手な、独善的な「歴史」が幅を利かせるのでしょうね。過去の栄光を祭り上げ、、過去の過ちを消去してしまう、こんな歴史があってたまるかという怒りのようなものも、ぼくにはあります。 

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