かくすればかくなるものと知りながら

 【筆洗】近代以降、どこの国でも戦争を始める際、時の責任者が必ずと言っていいほど使う言葉があるそうだ▼どんな言葉か想像していただきたい。皮肉な話なのだが、「われわれは、戦争を望んでいるわけではない」だという▼試しに一九四一年十二月八日の東条英機首相の開戦表明の演説を引く。「(平和を願う)帝国のあらゆる努力にも拘(かかわ)らず、遂(つい)に決裂の已(や)むなきに至つたのであります」「帝国は飽(あ)く迄(まで)、平和的妥結の努力を続けましたが…」。なるほど、「戦争を望んでいるわけではない」のニュアンスが読める▼事情は想像できる。戦争はしたくないが、ここにいたってはやむを得ないと説明することで戦争に対する国民の理解を求めているのだろう。非は相手にあるとも強調できる。戦争はいやだ、望まない。そう唱えながら。こうして戦争という沼に足をとられていく▼七十七回目の終戦の日を迎えた。ロシアのウクライナ侵攻や米中の対立を挙げるまでもなく、国際情勢は緊張に向かう。戦争は遠い過去のものとは言い切れぬ時代にあって二度と戦争にかかわらぬために必要な呪文はやはり「戦争はいやだ」だろう。その「いやだ」を最後まで「しかたない」「むこうが悪い」に変えない頑固さだろう▼<戦争と畳の上の団扇(うちわ)かな>三橋敏雄。畳の上の団扇という平和。そこへ「しかたない」は気づかぬ間に忍び寄ってくる。(東京新聞・2022/08/15)(ヘッダー:ロイター/アフロ)

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 生意気を言えば、本日の「筆洗」は、じつに面白いし、的を射ていますね。「止むを得ず」「止むなきに至った」「止むに止まれず」「(戦争ではなく)平和を願っているにも関わらず」とかなんとか、いかにも唆(そそのか)され、戦を仕掛けられたからには「応戦せずばなるまい」と、「来るなら来い」と言ってみたいが、「きたら逃げるさ」と、上手を行くことができないのだ。いかにも、一端の口を利くが、中身は空想・妄想だし、せいぜいが観念の迷妄です。「戦争は遠い過去のものとは言い切れぬ時代にあって二度と戦争にかかわらぬために必要な呪文はやはり『戦争はいやだ』だろう。その『いやだ』を最後まで『しかたない』『むこうが悪い』に変えない頑固さだろう」という、コラム氏のその「呪文云々」の言を、ぼくは固く堅持してほしいと、報道の任にある方々に願うばかりです。戦後になってからだったか、朝日新聞の重鎮で、政界にあっても一目を置かれていた緒方竹虎さんが、もう少し新聞社(朝日)がしっかりと言うべきことを言っておれば、なんとかなっただろうに、というような意味のことを言っておられたと記憶しています。戦前、戦中にこそ、表明すべきだった覚悟ではなかったか。

 ぼくは、このよう「止むなきに至った」などという「口からでまかせ」の強がり(強弁)を方言し、勝つ見込みのない戦いに挑むのが「勇気」だと錯覚(勘違い・早とちり)している「頓珍漢」、ある種の観念過剰主義の典型は「国粋主義者」に多かったろうと思います。(もちろん、共産主義者にも、たくさんいた)今でも腐るほどいますが、その先輩は平田篤胤ということになっているようですが、ぼくはもう一人、吉田松陰を思い出しています。若い頃は、無理してというのも変ですが、ぼくは松蔭をよく読みました。死後は「神」として祀られるほどの人物(松陰神社)だと評価する向きが少なからずいたことは事実ですが、「短慮の人」だったという気もします。もっとも、なくなったのは三十でしたから、まだまだ変わる可能性はいくらもあったでしょう。「死ぬ必要がなかった」「打首になるような罪ではなかった」、それはまるで「ソクラテスの死」を想起させるものがあります。そう、ぼくは今でも考えています。(松蔭について書きたくなっていますが、この場は、それにふさわしくありませんね)

 松蔭はわずか二十九歳で一期を終えます。ある種の狂気であり、純粋な陽明学派が、直情径行、衝動に動かされるとどういう仕儀に至るかを絵に書いたように見せてくれました。学者としての松蔭の仕事は評価できても、「尊王攘夷」に直結する「短絡」には、ぼくはついてはいけませんでした。一人でアメリカに乗り込んで行って、「大和魂だぞ」とでも言うつもりだったのか。松蔭といえば、それこそ「大和魂」でしょうが、死の直前に認(したた)めた「留魂録」の冒頭に、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留め置かまし大和魂」と詠むほどの「国粋(国の美点とされるものを信奉すること)」に殉じようとした人物でした。同じ「大和魂」を言うにしても、「大和心」といった宣長さんとは大違いです。「朝日に匂う山桜花」と国学の大家は詠んだが、松蔭は「尊王攘夷」をこそ、というのです。これこそ、「日本(大和魂)陽明学」というべきでした。大和魂は、まるでお題目のごとく、衆庶の身動きを封殺(脳拘束)し、「右に習え」の号令のように機能したのでした。松蔭の影響力と言うより、人々の中に「一致団結」したい、「縛られたい」という、「いつでも号令を」という、ある種のゲス(下衆・下種)の根性があるからなのでしょう。

 松蔭の獄死からわずか八十年後に「日米戦争」が始まります。まさに「昭和の尊王攘夷」でした。「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」という、松蔭の毒に当てられた「大和人」は少なくありませんでした。あるいは「一億火の玉」というのは「一億大和魂」ということだったかもしれない。戦時中にたくさんの翼賛短歌を乱造した斎藤茂吉氏に「ひとつなるやまとだましひ深深と対潜水網をくぐりて行けり」という、なんとも言えない「貶められた短歌」というほかない、下劣で下卑たものが残されました。短歌が啖呵ではなく、銃器にもなる、武器にもしてみせるという戦争讃歌のお粗末でした。戦後で言えば、作家の三島由紀夫さんだったでしょうか。

 そして、翻って考えるのは、ぼくの中にもこのような「大和魂」が流れているのか、ということであり、流れているぞ、そう思うと、ガックリきますね。(この駄文集録のどこかで、大和魂と大和心について触れています。今でも、基本の考え方はまったく変わりありません。一人一人に「大和魂」、あるいは「大和心」というものが(表現はともかく)、強弱濃淡さまざまに、あるのではないですか。これぞ「大和魂」というのはマヤカシ、幻影だな。

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● 大和魂(やまとだましい)=日本民族固有の精神として強調された観念。和大和心,日本精神と同義。日本人の対外意識の一面を示すもので,古くは中国に対し,近代以降は西洋に対して主張された。平安時代には,和魂漢才という語にみるように,日本人の実生活から遊離した漢才(からざえ),すなわち漢学上の知識や才能に対して,日本人独自の思考ないし行動の仕方をさすのに用いられた。江戸時代に入り,国学者本居宣長は儒者の漢学崇拝に対抗して和魂を訪ね,「敷島のやまとごころを人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠んで,日本的美意識と,中華思想に対する日本文化自立の心意気をうたいあげた。幕末にいたり,対外危機の深まるなかで,佐久間象山橋本左内らによって「西洋芸術」に対比された「東洋道徳」の思想内容は大和魂であり,吉田松陰の詠んだ「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」は,尊皇攘夷の行動精神を熱情的に吐露したものとして有名である(→攘夷論)。明治天皇制国家のもとでは,大和魂はナショナリズムの中核的要素として重視され,内容的にも芳賀矢一らによって天皇への忠誠,国家と自然への愛として強調され,さらに新渡戸稲造によって武士道の国民的規模への展開として説かれた。その後は日本民族の発展のための対外拡張を美化する精神的支柱としての色彩を濃くし,昭和の戦時には軍人の士気高揚のスローガンとして用いられた。(ブリタニカ国際大百科事典)

● 吉田松陰=没年:安政6.10.27(1859.11.21) 生年:天保1.8.4(1830.9.20) 幕末の長州(萩)藩士。尊攘派の志士。諱は矩方,通称寅次郎,松陰は号。父は藩士杉百合之助,母は滝。山鹿流兵学師範の吉田家を継ぐ。嘉永3(1850)年九州を遊学。翌年江戸に出て安積艮斎,山鹿素水,佐久間象山に経学,兵学を学ぶ。12月,友人との約束により藩から許可を得ないまま東北を遊歴,咎められて士籍を削られ,杉家育となる。同6年江戸に赴き,折から来航中のペリーの黒船を視察。象山の勧めもあり海外渡航の志を立てる。翌安政1(1854)年3月下田に停泊中のペリーの艦隊に同行を求め拒絶されて自訴,江戸伝馬町の獄に送られ,次いで萩の野山獄に移される。このときより「二十一回猛士」の別号を用いる。生涯21回の猛心を発しようとの覚悟である。時に25歳。また同獄の人に教授を行う。唯一の女性の友人ともいうべき高須久との交流が始まるのもこのときである。12月出獄し杉家に幽居。 安政3年宇都宮黙霖からの書簡に刺激を受け,一君万民論を彫琢。天皇の前の平等を語り,「普天率土の民,……死を尽して以て天子に仕へ,貴賤尊卑を以て之れが隔限を為さず,是れ神州の道なり」との断案を下す。翌年11月,杉家宅地内の小屋を教場とし,叔父玉木文之進の私塾の名を受けて松下村塾とする。高杉晋作,久坂玄瑞,吉田稔麿,山県有朋,伊藤博文らはその門下生である。同門下生のひとり正木退蔵の回顧によれば,身辺を構わず常に粗服,水を使った手は袖で拭き,髪を結い直すのは2カ月に1度くらい,言葉は激しいが挙措は穏和であったという。安政5年7月日米修好通商条約調印を違勅とみて激昂,藩主毛利敬親に幕府への諫争を建言,また討幕論を唱え,老中間部詮勝暗殺を画策。12月藩命により下獄。翌6年6月幕命により江戸に送られる。10月25日死を予知して遺書を書き始め,翌日の暮れにおよぶ。冒頭に「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留め置かまし大和魂」の句を置き,全編を『留魂録』と命名。その翌日,斬に処せらる。年30歳。<著作>『吉田松陰全集』<参考文献>徳富蘇峰『吉田松陰』,広瀬豊『吉田松陰の研究』(朝日日本歴史人物事典)

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 戦争を始める理由には事欠きません。「止むに止まれず」ですから。なんとでも理屈をつけてやろうと思えば、始められるのが戦争。しかし、仕掛けられた方はたまりません。「止むに止まれず」といって黙っているわけには行かないのです。目下、熾烈な「殺戮」が行われている「ロシアのウクライナ侵略戦争」を見るまでもないでしょう。「戦争」(とP大統領は言わない)を仕掛ける理由は二転三転、いまは理由も曖昧なまま「止められなくなったから続けている」という最悪の指導者ぶりです。ウクライナにとって「仕掛けられた戦争」であるからこそ、戦争を続けなければならない。止めるという選択肢はない。止めれば国がなくなるのですから。

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 本日は「終戦記念日」だという。数えて七十七回目。「(平和を願う)帝国のあらゆる努力にも拘(かかわ)らず、遂(つい)に決裂の已(や)むなきに至つたのであります」といって戦を始め、「惟フニ今後帝国ノ受クヘキ困難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所耐ヘ難キヲ耐ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」(「終戦詔勅」)「帝国の努力にもかかわらず、戦の思うに任せない状況に鑑み」て、「終戦」の「やむなきに至ったのであります」といって終わりを告げたのでした。この戦争による犠牲者は幾千万ともいうべく、国内外に甚大な被害・災厄をもたらした。「止むを得ず開始し」「止むを得ず敗戦を受け入れる」というのではなく、どんな状況にあっても「武力行使しない」「戦争の手段としての軍事力を持たない」、そのことを内外に、自他に明らかにするための「一日」であり、「終戦」の覚悟を銘記し直す日であってほしい。「敗戦」の意義があるとすれば、その一点にこそ、ですよ。負けたからこそ「憲法」が生まれさせられた。いわば「憲法を負け取った」のだといいたい。

 「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」(「憲法前文」)

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 我々が生死を共にした記録が世界平和への…

 【滴一滴】きょう8月14日は日本がポツダム宣言を受諾した日である。終戦を翌日に控えたその日の日記にこうある。〈今日もまた暑い日だ〉〈廊下の患者は減ったが、まだ便所や階段の下へ患者がつめこんでいる〉▼原爆投下から9日目。自らも重傷を負いながら、広島逓信病院長として被爆者の治療に当たった岡山市出身の蜂谷道彦さん(1903~80年)の「ヒロシマ日記」だ。被爆後56日間、医師の立場で被爆の惨状を克明に記録した▼〈一夜のうちに十六名の死人があった〉〈口がくさり熱がでて白血球が激減し遂(つい)に死という経過を辿(たど)る者がありだした〉―。日記は10年後に米国で出版され、十数カ国語に翻訳されて世界に衝撃を与えた▼第2次世界大戦開戦時のルーズベルト米大統領夫人は「世界初の原爆投下が何をもたらしたかを語っている」と書評に書いた。英国の哲学者バートランド・ラッセルは「これまでで最も心を動かされた本だ」と言っている▼時代の振り子は今、揺り戻しているのだろうか。世界で再び戦争が起こり、核使用への言及や核抑止力に頼る動きも目立つ。広島、長崎の今年の平和祈念式では、両市長が危機意識をあらわに核廃絶を訴えた▼〈我々(われわれ)が生死を共にした記録が世界平和へのささやかな捨石となれば私の本望〉。日記のあとがきに込められた最後の言葉は重い。(山陽新聞・2022/08/14)(ヘッダー写真は「敗戦を伝える昭和天皇の放送を聴く人たち=1945年8月15日、大阪市・曾根崎警察署前」:https://globe.asahi.com/article/14417433)

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● 蜂谷道彦(はちや-みちひこ)(1903-1980)=昭和時代医師。明治36年8月9日生まれ。昭和17年広島逓信病院長となり,20年病院の近く被爆被爆者治療にあたったその時の体験を「ヒロシマ日記」として出版,英訳されて海外でも反響をよんだ。昭和55年4月13日死去。76歳。岡山県出身。岡山医大(現岡山大)卒。著作に「卒中物語」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

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 世に「十五年戦争」と言われる長い戦いに敗れ、この国が「敗戦」を認めた時(「終戦」に到った時)、ぼくは十一ヶ月の乳児だった。それから年令を重ね、どのようにして「戦争の歴史」を学んできたか、よく思い出せない。学校時代に「社会」「歴史」に代表される多くの授業があったが、そこで、縄文人や弥生時代、あるいは鎌倉幕府の成立や江戸時代の政策を学んだように、明らかに記憶に残されるような(現代史の)「学習」はなかった。これは、ぼくの不勉強だけのせいではなかったと思う。「現代史」とは、どこから始まるのかも定かではなく、まして「歴史事実」というものが確定していない状況下では、使われる資料も限られていたでしょう。

 ここで、ぼくが言いたいことは、曲がりなりにも「十五年戦争史」についていくらかの経過を知るに至ったのは、すべてといっていいほど「自習」「自学」「独学」だったということです。それは、一面では不幸なことだったかもしれませんし、他面では「歴史を学ぶ」(それは「歴史」に限られないこと)というのは、端的に言うなら「独学」に尽きると言えるのではないでしょうか。そして、この「独学」には終わりはないということです。「教えられる」のでは足りないものがあり、その不足を満たすのは「自ら学ぶ」ということです。

 「敗戦」を「終戦」と言い募る、あるいは「『敗戦』という事実をごまかす、『終戦』という表現」と言われてきました。敗戦か、または終戦か、どちらが、この国の歴史の事実に即しているのか、大いに「論争」が展開された経緯があります。ぼくにはどうでもいいこと、多くの識者たちには捨てておけない大問題だったのでしょうな。それで、今に到って決着がついたのかといえば、そうではありません。決着のつけようがないからです。どういうことでしょうか。面倒な議論は避けたいのがぼくの常、口が裂けても「負けた」と言えるかよ、と誰かはいうのでしょう。だから「勝ち負けを争ったにも関わらず」(それに蓋をして)「戦いは終わった」と言いたい人がかなりいるのです。いてもかまわないし、いないほうが可笑しいと言うばかりです。しかし、真実に近いのは「無謀な戦争を仕掛け、長い間続けてきたが、ついに戦争状態(戦時体制)を維持できないほどに疲弊して、この国は戦いに敗れた」、だから「終戦」というのではないでしょうか。「戦に敗れた」から、「戦争が終わった」というのです。(どういう表現を工夫しようが、表している内容はまったく同じこと)しかし、「戦争の惨禍・惨状」はいたるところに刻印されていました。ヒロシマ・ナガサキへの「原爆投下」と、その余波はその典型例です。歴史は、表向きは「大文字の歴史」であるが、深いところでは、庶民の「なけなしの経験の蓄積」そのものだと、ぼくは考えています。「被爆者の体験」がなければ、「原爆」などというものは、風船玉が割れたようなものでしかないからです。

 小学校時代、ぼくは「原爆投下」と「被爆者」の映像を、授業の一環として観たことがあります。その段階では、無慈悲(鬼畜米英)、悲惨(ケロイド)などという「決まり文句」に動かされて、ほとんど実態・状況がわからなかったと思う。今日の学校教育では、いろいろと「国家の犯罪にかかわる不都合な事実」は授業では扱わないようなことになっているようです。それだからということではないけれど、「日米戦争」とか「第二次大戦」という歴史の事実を知らない人々がたくさん生まれていると聞きます。そうならないための「歴史教育」をというのですが、「自虐史観」だとか「敗北の歴史」ばかりを教えては、国家に対して「誇りが持てなくなる」と杞憂する向きがたくさんおられます。「国家に誇りを」というのは、どういうことを指すのか。そもそもの出発点から、国家が大事であって、その国家の一員として国民(個人ではない)を育てるということが針小棒大に語られる時代になっているように、ぼくには感じられてならないのです。紙風船のように軽んじられている「人情」「厚誼」が浮遊している時代や社会を指して、どこを突けば「美しい国」と言えるのでしょうか。誰にも、どこにも、美・醜は切り離し難く結びついているのですのに。

 人間は過ち繰り返す存在です。個人であれ、集団であれ、何度でも過ちを犯す。どんなに間違いをしないと誓ったところで、間違ってしまう。ぼく自身の経験から言っても、そうであります。そこから、ぼくは何を学んだか。どうにかして「同じ過ちを繰り返さない」ようにする、そのためには、過ちを犯した時点(地点)に立ち返る、あるいは「間違った記憶」を失わない、この二つを、なんとしてでも守ろうとしてきたと、言えなくもありません。間違いを犯しそうになった時、それ以前に間違いをを犯したところに立ち返る(間違いのオリジン)こと、これをなんとかして学び取りたいと願いながら生きてきました。

 原爆投下によって引き起こされた「惨禍」、そこから「人間の尊厳を回復する」ための弛(たゆ)まない努力、このような人間の足跡(軌跡)を刻した資料は数え切れないほどあります。コラム氏が挙げられている「ヒロシマ日記」は、その中でも代表的なものでしょう。自ら被爆しながらの、蜂屋さんの献身的な医療行為が克明に記録されています(ナガサキの永井博士に重なります)。「終戦」か「敗戦」かという議論とは著しくかけ離れた場所で、生きるために「懸命な(それは、厳かでもありました)」営為に、ぼくたちは「人間の深遠さ」を感じ取ることができます。人間であることはた容易(たやす)くない、しかし「人間にふさわしい厳(おごそ)かさ」を維持することは、果てしなく困難でもありのです。こんな状況下でありながらも、かかる存在が居たと知ること、それによって、ぼくたちは、少しは自分を立て直しながら生きていけるのではないでしょうか。(昨日触れた美谷島邦子さんもまた、そのような力をぼくたちに与えられてきたと思う)

 素晴らしい歴史と伝統を持った、誇りを持てる国、美しい国、そのために求められる「学校教育」があるのかどうか。そんな(歴史)教育とは別種の「歴史を学ぶ」方法や内容は、無数にあるのです。他人を思いやる心、自らを含めた人々の「平等」「幸福」「平和」を願う感情、そんな人間の「尊厳」を育てる教育は、学校でしか、あるいは、教師からしか学べないのではないのですね。歴史を学ぶ、歴史に学ぶ、それはいつでも、どこでも発見することができる(善悪交々の)人間の営みを知り、それを学ぶことに重なるのです。

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 いのちあるものは、尽きる時がきっと来る 

 【談話室】▼▽音楽活動は順風満帆だった。「愛の告白」「そよ風の誘惑」が全米1位となり世界ツアーで飛び回る日々。そんな時、歌手オリビア・ニュートン・ジョンさんの元にミュージカル映画「グリース」の主演依頼が届いた。▼▽当時28歳で、高校生役を演じるのは無理と断るつもりだった。もう一人の主役に内定していたのが気鋭の俳優ジョン・トラボルタさん。相手役はオリビアさんしかいないと惚(ほ)れ込み、自宅を訪ねて説得する。「俳優の中で実年齢を演じる人は一人もいない。普通のことだよ」▼▽背中を押されたオリビアさんはハリウッドでスクリーンテストに臨み、決断する。「決めたわ。私、やる」-。今年6月に出版された自伝で、出演までの経緯を振り返っている。映画「グリース」(1978年公開)は世界的に大ヒットし、歌姫は新たな境地を切り開いた。▼▽乳がんの再発と闘いながら音楽活動を続けてきたオリビアさんが73歳で旅立った。「心の誓い」という曲を歌う際は観客にこう語りかけた。「自分自身に負けないよう、元気づけるために書いた歌よ! 困難に負けては駄目!」。透き通った歌声に励まされた人は多かろう。(山形新聞・2022/08/10)

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*Have You Never Been Mellow(https://www.youtube.com/watch?v=1B2_Vyvazts

*Take Me Home, Country Roads(https://www.youtube.com/watch?v=uHOTmMpux9E

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 歌手のオリビア・ニュートンジョンさん死去、73歳…「フィジカル」「そよ風の誘惑」 【ロサンゼルス=渡辺晋】「そよ風の誘惑」「フィジカル」など世界的なヒット曲で知られる歌手のオリビア・ニュートンジョンさんが8日、米カリフォルニア州で死去した。73歳だった。家族がSNS上で公表したと、AP通信が報じた。/ 英国生まれのオーストラリア育ち。1966年に英国で歌手デビューし、「愛の告白」で74年度の米グラミー賞最優秀レコード賞を受賞した。爽やかな高音が魅力で、「そよ風の誘惑」は全米ヒットチャート1位に。日本では「カントリー・ロード」「ジョリーン」なども人気を集めた。音楽ビデオでのレオタード姿も話題になった「フィジカル」は、82年の米国の年間チャートを制した。/ 女優としても、ジョン・トラボルタさんと共演した78年のミュージカル映画「グリース」などで脚光を浴びた。歌手・杏里さんの「オリビアを聴きながら」で歌われるなど日本で愛され、2015年の来日時には福島市でも公演。昨秋、旭日小綬章を受章した。/ 40代で乳がんを患い、がん早期発見の重要性を訴える啓発活動も行い、環境問題にも取り組んでいた。17年、がんの再発を公表した。(読売新聞・2022/08/09)

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 歌謡曲大好き人間、それも根っからド演歌に狂ってきた人間として、オリビアさんの訃報には隙間を突かれた気がしました。彼女について、ぼくは、通り一遍のことしか知らない。よく聞いた曲も「そよ風の誘惑」と「カントリー・ロード」だけでしたから、その死を受け止めかねています。しかし、歌手として、俳優としての活動よりも、むしろ「がんの早期発見」にかかわる先駆者として、その活躍ぶりは音楽活動に比しても劣ることのない、大変に貴重な啓蒙活動だったと、その点で、ぼくは彼女の生涯が忘れられないものになっていたのでした。文字通りに「身命をとして」の啓発行為だったからです。人生の後半生は「がんとの闘い」(そのものだったと思う)に明け暮れたし、その厳しい人生の歩みを、彼女は一歩も忽(ゆるが)せにしなかったという、その点でぼくは(もちろん、ぼくだけではない)、大きな励ましを受けていたといえます。彼女の歌う「カントリー・ロード」もよく聴きました。それにもまして「そよ風の誘惑」は、自らの人生の行く末を、じつに明白に明示していたという意味でも、ぼくにとっても、忘れられない一曲になったのではなかったかと思う。(この歌をレコード化した時、彼女はまだ三十前でしたから、曲想に思いが込められるには、その後の、何年にもわたる人生が必要だったのではなかったか、と今の年齢にして、ぼくは自問しているのです)

Have You Never Been Mellow                                       There was a time when I was
in a hurry as you are.
I was like you.
There was a day when I just
had to tell my point of view.
I was like you.
Now I don’t mean to make you frown.
No, I just want you to slow down.

Have you never been mellow?
Have you never tried
to find a comfort from inside you?
Have you never been happy
just to hear your song?
Have you never let someone else
be strong?

Running around as you do
with your head up in the clouds,
I was like you.
Never had time to lay back,
kick your shoes off, close your eyes.
I was like you.
Now you’re not hard to understand
you need someone to take your hand. 

Have you never been mellow?
Have you never tried
to find a comfort from inside you?
Have you never been happy
just to hear your song?
Have you never let someone else
be strong?

 いのちあるものは、きっと、尽きる時が来る。死は生の反対ではなく、そのピリオド(完結点)ではないでしょうか。永らえてきたいのち(そこまでの人生)の句読点(punctuation marks)。「終わってしまった」「命尽きる」と、多くの人は考えますが、ぼくは、その、打たれた「句読点」を忘れない。そこから始まる「人生」もあるのだ、という想いが強くあるからです。それが残されたものへの「余韻」となって、いのちある限り、生者の心に響き続けるのではないでしょうか。昨日は、現代では稀有な「精神科医(臨床医)」だった中井久夫さん、その前は年下の畏友だったK君と、ぼくにとっては大切な人の死を知らされました。いま、ぼくの耳にはオリビアの「リフレイン」が聞こえている。

Have you never been mellow? Have you never tried
to find a comfort from inside you?
Have you never been happy
just to hear your song?
Have you never let someone else
be strong?
 

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 異国の一人の歌手の死。ぼくにはまったくの赤の他人だったし(もちろん、彼女にとっては、ぼくは「無」そのものでしかない)、忘れられないほど強く憧れたわけでもありません。しかし、いまから四十年以上も前に、一瞬耳にした一曲が、ぼくには強く印象付けられたのです。これをもし「出会い」というなら、ぼくは、海の向こうの未知の歌手と遭遇したのです。そして、この三十年、いつとはなく、彼女の「がんとの闘い」が、ぼくの脳裏に刻印されてきたのでした。ぼくはいま、「Have you never been happy just to hear your song?」と口ずさみながら、彼女にお別れをいう。

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 花火とは遠くに在りて思うもの

 長岡花火、夏の夜空に大輪の花 新潟、3年ぶり  新潟県長岡市で2日、日本三大花火大会の一つとされる「長岡まつり大花火大会」が開かれた。新型コロナウイルスの影響で中止が続き、3年ぶりの開催となった。/ 夜空に直径650メートルの大輪の花を咲かせる「正三尺玉」や、2004年の中越地震からの復興を願って打ち上げられる「フェニックス」などが披露されると、川沿いを埋めた観客から拍手が上がった。3日も開催する。/ 市によると、花火大会は1879年に始まり、戦時中の中断期間を経て1947年に再開した。2019年には過去最多の108万人が訪れた。(共同通信・2022/08/02)(ヘッダーの写真も同記事より) (*「長岡花火」公式WEB:https://nagaokamatsuri.com/

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● 長岡大花火大会=新潟県長岡市で行われる花火大会。「長岡まつり」内で開催。2005年、前年に起きた新潟中越大震災の復興を祈念して行われた「復興祈願花火フェニックス」や花火の大きさが直径約600mにもなる3尺玉が見もの。画家山下清が同大会をモチーフに制作した「長岡の花火」は代表作となっている。(デジタル大辞泉プラス)

 中学生ころまでは、花火はほとんど見なかったし、花火大会と称するような大掛かりなものはまったくなかったような気がします。一時期、嵐山の渡月橋付近で挙行されたが、岩田山のお猿さんが驚くからと、直ちに取りやめになったことがある。人間ではなく、猿に気を使うんですね、そんな時代でした。当節は、猫も杓子も「花火、花火」で大賑わいです。悪いことでもなく、かといって、いいことでもないようにも思われます。結婚して以来、親戚の住まい(荒川区在)の屋上からの「隅田川の花火」見物に誘われ、何度か「目と耳」にする機会がありました。ぼくには「花火」を見る趣味というか、才能がなかったから、いつだって積極的でもなく、遠くで打ち上がる花火の音に、ある種の「郷愁」を感じることがあったし、それでじゅうぶんでした。

 この「郷愁」が、ぼくには曲者なんですね。それほど花火で遊んだ記憶はなく、花火大会などという見世物に興味が湧いたのでもありません。おそらく、ぼくの勝手な想像ですが、幼少の頃の、年に一度の「村祭り」や地域の行事としての秋祭り(ぼくが生まれた熊木村の祭り。これは今ではとても有名になりました)の「太鼓」の音の余韻が、花火が打ち上げられるときの「轟音」が、遠くから聞こえてくるのに重ね合わされたのではないでしょうか。この祭りは、村中が総出で、河原に集合して、一種の地区対抗の技くらべでもありました。おふくろの兄貴は、この祭りの「英雄」で、喧嘩早いのでは有名な人だったという。この神社や河原は健在で、今でも写真・ビデオを見ると、体が勝手に動き出します。その昔は、祭りには大きな意味がこめられていました。しかし今では、その形のみが受け継がれているのですね。内容がない、空虚な祭り事。(お熊甲祭り:https://www.hot-ishikawa.jp/event/6870)(youtube:https://www.youtube.com/watch?v=gLiv-GDI7vQ

 日本三大花火大会の一つが「長岡」で、もう一つはおそらく「隅田川」だとすると、残りはどこか。秋田か? 一時期、テレビで「隅田川花火」の中継をしていたことがあります。興ざめというのでしょうね。かと言って、仰山の見物客に紛れて見物するというのもいやなこと。ぼくには大勢で何かを見るとかするというのが大嫌いという「癖」があります。人間としては「付和雷同的」だと自分では思うのですが、現実には、そんなところに入り込みたくない、けったいな人間だという気がします。夜空に打ち上がる花火を、なぜ人々は見物したがるのか、それを考えてみようとしているのですが、その理由らしきものがさっぱり考えられないんですな。一つだけ、それらしいと思われる理由は、「群衆の一人になりたい」という願望でしょうか。とにかく固まりたいんですね。寄らばかたまりの中へ。花見でも、花火でも、現場へ言って、場所の空気を吸いたい、臨場感を味わいたいと。それだけではないかもしれませんが、そんなことしか浮かび上がらない。

 それではあまりにも身も蓋もないので、思いっきり「当て推量」を言ってみれば、「花火は遠くに在りて思うもの」ということです。まるで「虹」を見るようなもので、その渦中にいると、轟音と暑さや人いきれで、大童(わらわ)ですが、うんと離れて、「花火の姿・形」が見えたときに、打ち上がる音がする、そんな現象が、ぼくにとっての花火なのだという、経験と観念の合体されたものが、ぼくの中に出来上がっています。多くの人は「大童(夢中)」が好きだし、ぼくはその「夢中」の塊(かたまり)から、一歩でも離れていたいという違いはあります。今では、季節も時間もお構いなく、場所も問わないで、いたるところで「花火」が上がる時代です。ますます、ぼくにとっては「遠くに在りて思うもの」になってきました。(拙宅のすぐ近くのリゾートホテルで、夏休み限定なのかどうか、ある時刻(よる七時半か)にほんの一瞬、数発の花火が上がり、ものの数分で終わりです。これは家の中からよく目えますが、ぼくは音だけで済ませています。近くにあっても「遠くに在りて」なんですね)「一瞬の現在」をどのようにして記憶に留められるのでしょうか。だから、花火は、いつしか、ぼくの脳裏にある「陰影」が、瞬時に消えてしまった幻の花火を再現してくれるのです。

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 華やかな一瞬、間髪をいれず、たちまちの不在(闇)。その華やかさの「余韻」が音と色(形)のかすかな陰影となって、ぼくたちの記憶に残るのでしょう。おそらく、その「余韻」こそが花火の醍醐味だと言ってもいいかもしれません。長岡の花火といえば、山下清さんの「ちぎり絵」を思い出します(下右写真)。膨大な作品を作られたのですが、花火の作品は圧巻、というよりは「華やかさ」と「儚(はかな)さ」の「陰影」の刻印をぼくは、強烈に感じます。その作品を眺めていると、打ち上げられるときの轟音と、一瞬にして消え去る「色と形」、それをじつに「静かなもの」として、小さな色紙の破片で表しています。見事というほかありません。山下さんの「花火」のちぎり絵を見ていると、遠くの方から、遠くの方でかすかに打ち上がる花火の音がしている。一瞬で消えるはずの「花火」が、記憶の襞(ひだ)に克明に記されている、それが作品だとぼくは観てきました。

 この駄文録のどこかでも触れましたが、ぼくは、山下さんが大好きでした。彼の言行録には、強い親しみを覚えたからでした。小学生の頃、担任の教師が「特別教室」担当を兼任していたこともあり、しばしばそのクラスの子たち(友人)と遊びました。教師の家に遊びにいったこともしばしばでした。そこには「特別教室」の子も何人もいた。そのような交流は、その教師ひとりきりでしたから、教師の人柄と「特別教室」の友だちが結び付けられ、ぼくにはそれ以降も何人もの「知的障害」を持つ友人が、いつでもいることになったのです。( K先生、ぼくは学校の教師に親しみを感じたのは、この人だけだった)山下さんに親近感を覚えたのには、そのような事情もあったのでしょう。それと、八幡学園時代の式場隆三郎氏と彼との繋がりも、ぼくの興味の一因になりました。精神科の医者だった式場さんは、ゴッホ研究では高名な方でしたから、ぼくは早くから式場さんの仕事に興味をいだいていました。その方面からも山下さんに深く近づこうとしたのでした。(山下清さんが亡くなってから半世紀以上が過ぎました。彼の存在は、ぼくには「一閃(いっせん)の花火」(flash)のように思えてきます。「咲く」と「散る」が、ほぼ同時のように、ぼくには感じられましたから)

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● 山下清(やましたきよし)[生]1922.3.10. 東京 []1971.7.12. 東京=画家。小学校に入学するも,知的障害のため級友にいじめられ,何度か刃物を振回すなどの行動を起したため,1934年に知的障害者擁護施設,八幡学園に入る。ここで張り絵 (ちぎり絵) を習得し画才を発揮,精神科医師でゴッホ研究家の式場隆三郎らの紹介で 39年に銀座画廊で展覧会を開き,に認められた。記録的な観覧者数で,会場の床が抜け落ちたというほどの盛況ぶりだった。翌年,徴兵されることを恐れて突然施設を抜け出し,3年の間各地を放浪。この間に記した『放浪日記』が 56年に出版されるが,55年の『山下清画集』の出版と相まって,一種ブームを引起し,全国で展覧会が催された。 58年には山下をモデルにした映画『大将』が制作され,純朴で愛すべきキャラクターが人気を呼び,以後芦屋雁之助主演のテレビドラマがシリーズ化された。生涯,学園での絵の制作と,放浪の日々を送った。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 信仰は空模様、信心・信念・崇拝と変幻自在だ

 【北斗星】「A君を帰せー」。学生時代、住宅街の一角で仲間と共に大きな声を上げたことがある。学生運動が既に下火の1980年代初め。それでもアジ演説をするヘルメット姿の学生はまだ残っており、その言い方をまねて叫んだ▼A君は同じ下宿の学生。約1カ月も学校に行かず、下宿に帰らず、統一教会の建物で合宿生活していた。息子の異変を知って駆け付けた両親に「何とか連れ戻して」と懇願され、冒頭の行動に及んだ▼当時、学生が入信の勧誘を受ける機会はそれほど珍しくはなかった。教団関連のサークルから辛うじて抜け出した体験を語る同級生もいた▼安倍晋三元首相を銃撃し、命を奪った山上徹也容疑者の犯行の背景には世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への強い恨みがあったという。霊感商法で社会問題となった旧教団名を耳にしないと思っていたら、いつの間にか名称変更していた。何事もなかったかのように存続していたことに驚く▼国会議員らが教団の「広告塔」を務めてきたことが問題視されている。政治と教団の関係を見直すのが当然だろう。ところが自民党幹部からは「何が問題か分からない」との発言が飛び出した。何とも理解に苦しむ▼40年前は教団側と押し問答した末、どうにかA君を取り戻すことができた。ただ彼の手には教団関係の本が大切そうに抱えられていた。退学して実家に帰ることになった彼がその後どうしたのかは分からない。いまだに忘れられない鮮烈な体験だ。(秋田魁新報・2022年7月31日 )

 昨日も触れました。教師まがいの仕事をしていて、授業以外でも、学生と付き合うことは多かったと思う。ぼくは教職課程の授業をずっと担当していたので、自分の所属学部以外の、全学の学生(担当授業の履修者)との交流がありました。それなりの相談や悩み事を打ち明けられたことも多かった。中でも、楽しい思い出ではないものとして、第一に、学生と新興宗教(と言っていいのか、あるいはカルト集団と断定すべきだったか)の関わりに関して、当人からも親からも相談を受けたことがあった。今問題になっている「世界平和統一家庭連合」(旧名は「統一教会」、この名称変更には卒業生で、元文部大臣を務めた政治家が関与していると報道されています)は、おそらくぼくが、この種の問題で関わりを持った初めてのことでした。詳細については、話す気もしません。大学は「人拐(さら)い場」であり「安寿と厨子王」の世界でした。

 当たり前に考えれば、「雨が降れば天気が悪いのだ」と納得しますが、「信仰」と一言で言っても、そこにはいろいろな要素が含まれます。「教祖は偉大だから、雨を止めることができる」、あるいは「金輪際、雨を降らさないのだ」ということがあるのかどうか、その昔は「雨乞(あめごい)」と称して、村びとが挙(こぞ)って、祈ったという。何度か祈れば、一回ぐらいは祈りが通じたかもしれない。それが「信仰」の根拠になったとは思えませんが、そんな素朴なものから、この壺を買えば、このネックレスを買えば、たちまち金運がついて回る、そんな商売が後をたたないのです。この世には「霊感商法」まがいが溢れています。「美人になれる」というものから「気持ちよく痩せられる」「いつまでも年を取らない」などなど、当たり前に生きていれば、騙されようがないにも関わらず、人間には「騙されたい願望」があるのです。それが信心、信仰ということになると、なかなか面倒でもあります。大学に入りたての頃、急性の病気で入院したことがありました。その病室の隣のベッドの患者のところに、今は政治も兼業しているある教団の信者がやってきて、「こんな病気になるのは信仰信心が足りないからだ)とか、悪口の限りを尽くしていのを聞いたことがあります。これが「折伏か」と、ゾッとしたことがあります。その後、まもなく、ぼくはその教団の開祖だった牧口常三郎氏のものを読む機会がありました。「創価」という主張でした。彼は教師であり、また民間伝承研究の徒でもあり、柳田國男さんの研究会の常連でした。(話が逸れました)

 「どうせわたしを騙(だま)すなら、騙し続けてほしかった」(バーブ佐竹「女心の唄」?)「結婚」を詐欺の手段にする手合が消えてなくならないのも、その証拠の一つです。「騙されやすい」から「騙されたい」に、そして「信じたい」から「信じるものは救われる」というところまで、一直線に行き着いてしまうのでしょう。人間の「心理」、あるいはそれは「弱さ」でもあります。「自分の足で歩くぞ」という人は、驚くほど少ない。「正直者に神が宿る」とばかり、正直に信心するから、「騙されている」とは微塵も思わないのです。信仰、と一口に言うのは危険でもあるでしょう。信仰を出汁やネタにして、いろいろな奸計(策略)が張り巡らされている、それが世の中です。こんな事を言うと信仰者に怒られれそうですが、依存心の現れでもあるのが信仰、それは酒や薬に頼るのとは決定的に異なるのでしょうが、でも、「頼る」「依存」という一点では、五十歩百歩か。自由であるとは、別の表現を使うと「不安」です、その不安から逃れたいために飛び込むのが「信心」で、それは自由の放棄でもあることはほとんどですね。

 ここで、それを簡単に分類するのは誤解を生みやすいのですが、辞書を借りて言っておきます。信仰とは①〔神信心〕faith;②〔一般に信念,信心〕belief;③〔崇拝〕a cult などを表していると見られます。問題の「家庭連合」は、はっきりと言うなら③の「カルト」に該当するのでしょう。

  カルトとは、以下のように概説できるでしょう。カルトかカルトでないか、その区別は明確ではありません。キリスト教とみられるものでも、ときには武器を持って「反社会的行為」に及ぶ場合があるからです。少し視点が変わりますが、同じキリスト教徒でも、「中絶」は死んでも反対という強烈な過激派もいる。信仰自体は変幻自在・融通無碍でもあるでしょう。何でもあり、それが実態です。「イワシの頭も信心から」という習慣がこの社会では、隅々まで生きていました。ある人は宗教は麻薬だといった。目がさめるときもあるし、そのまま無自覚で頼り切る、依存状態に落ち込む人もいる。したがって、信仰の一種である「カルト」はどこまで言っても「カルト」であるのではなく、人により、ときにより、それは「依存と自立」の葛藤であるとも言えるでしょう。「統一教会」(現「家庭連合」)などは、外部から見れば、どうしようもない「反社会的な疑似宗教」です。しかしそれに取り憑かれると「至福」の状態をもたらす「絶対宗教・絶対信仰」となる。両者の距離は親子兄弟でも埋まらないほどに深く決定的でもあるのです。

  1. 1Cカルト(◇反社会的な擬似宗教),狂信的教団;狂信的カルトの信者たち
  2. 1aC異教,にせ宗教;〔集合的に〕異教徒
  3. 1bCU((形式))(ある特定の)祭儀,礼拝形式
  4. 2C(…の)礼賛,極端な崇拝;(一時的)熱中,流行,…熱≪of≫;崇拝[礼賛,熱中]の対象(デジタル大辞泉)

 ぼくは、何人もの学生が、この「カルト」に率先して入信してゆくのを傍観していたわけではありません。しかし、結果的には「為すすべがなかった」というほかありません。暴力に訴えてでも、「入信」を止めるべきであったともいえますが、ぼくが止めることができたとして、その「カルト」が存在する限り、同じ轍(てつ)を何百回も踏ふまなければならないのですから、最後は、当事者の判断する力に頼ることしかできないのです。公称(というのか)、現在の信者数は三十万人とも言われています。日本におけるカトリック信者の数十倍、いや数百倍です。誰が見てもとはいえませんが、ごく普通の感覚を持っていれば「怪しい」「危ない」というような「集団」から、多くの政治家が献金や選挙応援やその他の供与を受けていたと言われています。それを、堂々と公表し、「そのどこが問題かわからない」と嘯く政治家も一人や二人ではない。ここまで、腐りきった政治社会になっているともいえます。家庭不和、一家離散、自殺などなど、多くの悲劇が生じているにも関わらず、この有様です。挙げ句に「銃撃」事件の勃発です。

 並べるのは悪い(どちらにか)ようですが、この集団と暴力団、名前を変えれば、ただの社会集団だと言い募ることもできるのです。それをいいことにして、さまざまな供与を受けていたかもしれない、その見返りは何か、それを(関係する人たちの)誰も知らない、誰も考えないはずはありません。この教団の発端に深く関わっていたのが、銃弾に倒れた元総理の祖父であり、元右翼の「大物」とされた「日本船舶振興会」代表だった人物です。その関係が断ち切られないまま、戦後も続いていて、はしなくも今回の「銃撃事件」発生という不幸を招いて、初めて多くの民衆が知ったというのも、ぼくには驚きです。じつは、政治家などの殆どは事情を知っていて、権力とタッグを組んでいるから、やばい橋も平気で渡れるのだ、その程度の認識で付き合っていたのでしょう。「ネズミ講」などの悪徳商法で、被害者が続出しているにも関わらず、その「悪徳団体」から有形無形の援助を受けて、恬として恥じないのが、多くの政治家です。

 信仰の自由は、当然認められるべきです。しかし、その「信仰」にはいくつものグラデーション(gradation)があり、それを明確に分離することはできないと、ぼくには思えるのです。辞書的には既述したように、「①〔神信心〕faith;②〔一般に信念,信心〕belief;③〔崇拝〕a cult )となりますが、自らの信念が神の信仰に重なる場合が当然あるし、絶対的な崇拝の対象が「(啓示宗教や仏教の)神や仏」、あるいは教団を創設し教派を開いた人物などということも当たり前に見られることです。ぼく個人で言うなら、道元や親鸞は大好きです。しかし、彼らが開いた教団(曹洞宗や浄土真宗)の信徒ではありません。信徒になる必要性を感じないでも、彼らの教えから学ぶことができるのです。 

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 このような問題を考える時、ぼくはいつでも「イエスの方舟」に呼び戻されます。詳細は以下の記事を参照。「『イエスの方舟』の娘たちは今 中洲のクラブ、38年の苦楽乗り越え幕」西日本新聞・2019/12/25)(*https://www.youtube.com/watch?v=UfdH2HhoUE8

この「イエスの方舟」報道も、実に下品なものでした。詳しくは書きませんが、宗教や信仰が絡むと、人間(すべてとは言いませんが)は平気でいられなくなるのかもしれません。おもしろおかしく報じ、しかし当の本人たちは「真剣そのもの」だということは痛いほどわかるのです。だから、この種の問題は、人間存在のエアーポケットのようで、なかなか超えがたい課題でもあるのです、信仰と狂信の誤差は。当人にとっては「紙一重」であるのでしょう。「尊敬」と「崇拝」も同様で、興味がない者には分かり難いのです。しかし、ことは「反社会的な行動」を取る集団(教団)だったらどうか。「イエスの方舟」事件当時も、問題の発生から社会問題の様相を呈してくると、社会全体が「勧善懲悪」の権化のようにバッシングに走るのでした。ぼくにはよくわからないところです。おそらく、この島の往時、「キリシタン禁制」に際して取られた政策・制度にも、今に変わらない「邪宗」「邪教」「異宗」「異門」叩きがあったのです。あるいは鎌倉時代の「新興宗教・仏教」弾圧もそうです。これを「正統と異端」といいます。「正統」を巡る争いでもあります。負ければ「異端」です。でも「正統」は、いつでも「正当」であるとは限らないのです。まるで「勝てば官軍、負ければ賊軍」のような扱いでもあります。

 もう二十年以上の昔、ある要件で福岡に出向いた時、当地の校長たちに誘われて、その当時、中洲にあった「シオンの娘」という店に誘われた。なんだかとても懐かしい気がしたことを覚えています。店の従業員は、すべてが「イエスの方舟』の信者でした。店の経営者は千石イエス氏の奥方。(この中州の店は2019年に閉店。現在は別の場所で開業中とのこと)ぼくの知り合いの校長たちは、夜な夜な、この店に通っていたんですね。「イエスの方舟」の元信者さんたち「シオンの娘」たちの狂信的な信者だったか。ぼくは、このお店で、ゆったりと「シオンの娘」さんたちのご商売を堪能していました。

 この他、「オウム事件」に関しても、ぼくなりのささやかな実体験があります。学生で、麻原教祖の側近だったものから、一度彼と面会してほしいと頼まれたことがありました。おそらく学内で講演会をしたい(選挙活動)ので、力を貸してほしいということだった。ぼくはその話は断ったが、学生の何人かが、千葉の拙宅まできて、信仰などについて話していったこともありました。ぼくは、信仰心が薄い人間であり、自分の頭でしか考えたくない人間ですから、「何教に入信する」ということはまずありえないとずっと思っていました。実際、その通りの生き方・行き方を、まずいながらも通しました。コラム氏が書かれているような「取り戻し」に加わったこともありました。「そっちの水は甘いぞ」という声あり、「こっちの水は、もっと甘いぞ」と叫ぶ声あり、現下、劣島でも「ほーたる来い」とばかりに、甘言を弄して呼びかけや囁きが耐えない。そんな折から、まるでゾンビのごとくに「金や票」になるならと、目もくれずに陣地獲得に狂奔しているのが、現下の政治家の無様です。

 「権力と宗教」問題は、奈良時代以来、連綿と続いてきたのです。その歴史は凄まじい、権力を有する側の「弾圧の歴史」でもあったでしょう。明治以降でも大本教や天理教に代表される「大弾圧」は、身の毛もよだつと言わぬばかりの凄惨さがありました。逆に、権力との距離を縮めておくと、弾圧どころか、便宜供与は天からの貰い物のごとくにあるのです。弓削道鏡はその典型。要するに「取引」「物々交換」、これが成り立ってきたところに「統一協会」(現「世界平和統一家庭連合」)の得意・特異な戦略があったし、その戦略の一角に、この島の権力中枢が食い込んでいた(利用されていた)のです。亡くなった政治家は「国葬」に値する政治家だったか。ぼくは「国葬」を云々するのではありせん。「葬儀」の序列・順位をとやかくいうのではなく、生きているときに何をし、何をしなかったか、これが大事であり、もちろん、人それぞれの評価がありますから、「毀誉褒貶」は雨の降るよう、風の吹くように、それを阻止することはできません。アコギ(*「しつこく、ずうずうしいこと。義理人情に欠けあくどいこと。特に、無慈悲に金品をむさぼること。また、そのさま」デジタル大辞泉)でなければ、アコギなことをするなら、ぼくの判断は、この一点にあります。

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 おごれる人も、おごれざる人も久しからず

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の禄山、是等は皆旧主先皇の政にもしたがはず、楽みをきはめ、諫をも思ひいれず、天下の乱れむ事をさとらずして、民間の愁る所を知らざツしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、此等はおごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人の有様、伝へ承るこそ、心も詞も及ばれね。

其先祖を尋ぬれば、、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原親王、九代の後胤(こういん)、讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛朝臣の嫡男なり。彼親王の御子、高視の王、無官無位にして失せ給ひぬ。其御子、高望の王の時、始て平の姓を給はッて、上総介になり給ひしより、忽に王氏を出でて人臣につらなる。

其子鎮守府将軍良望、後には国香とあらたむ。国香より正盛にいたるまで六代は、諸国の受領たりしかども、殿上の仙籍をばいまだゆるされず。(「平家物語・巻一 祇園精舎」)

 「平家物語」には深い思い出があります。もちろん他人には大したことではありませんでしょうが、ぼく個人には、その後にもいろいろな影響を与えることになる、とはいえ、実に「ささやかな体験」ではありました。大学に入った当時、一般教養の授業で「日本文学」という科目があり、あまり考えないで、おそらく時間割の都合か何かで選んだのかもしれません。それほどたくさんの学生がいたのではなかった。授業内容は、たしか、岩波文庫版の「平家物語」の購読だったと思います。担当教師は四十歳ほどの若い男性教師で、後年、彼は「平家物語」などの「戦記・軍記物語」研究の第一人者になられた。彼の恩師はたしか「佐々木某(なにがし)」という中世の軍記・戦記文学研究の大家でした。(ヘッダー写真は林原美術館(岡山県)所蔵の「平家物語絵巻」)

 授業に参加していた段階でも「平家物語」に大いに刺激され、さらに担当教師の「朗読」にいたく感動したことを今に至って記憶しているのですから、知らないうちに、ぼくの内部では「平家」は生き続けていたんですね。もうこの時期に、ぼくは岩波版の「日本古典文学大系」をすべて購入していたと思う。高校までは野外プレイに明け暮れて、本らしいものなどは一切読まなかったし、高校の古典や現代文の授業もつまらないとしか感じられないものでした(ぼくが身を入れなかったから、つまらないと感じたのは自己責任ともいえそうです)。後年に分かったことで、担当教員はいずれもその道の第一人者になられた教員でした(何人かは、高校教員から大学教員になられた)。後に筑波大の教授になられた、万葉研究の I さんなど。あるいは女性教員では、当時の古典文学研究の大御所だった池田亀鑑さんのお嬢さんが在職されていた。ぼくはこの M 先生には「徒然草」では、自分の不勉強のために恥ずかしい目に合っていました。(それは今もって秘匿しております)

 まず大学入学早々の授業で「古典文学」に身を置く(というのは大げさですね)ための「洗礼を受けた」といっていいような経験をしたのが K 先生の授業でした。「平家物語」(に限らず)は読むのでは足りず、声を出して「朗読」するものだということを知らされました。これは後年、芭蕉の「奥の細道」で再確認したことでした。要するに、日本の古典文学の多くは「朗読」するために書かれているということだったかもしれません。その典型が「平家物語」であったのは言うまでもない。書かれた当時から「琵琶法師」による「弾き語り」がその主筋だった。授業では、さすがに「琵琶」の演奏はなかったが、Kさんの優しい、か細い声で読み上げられる調子は、まさしく「栄枯盛衰」物語にふさわしい抑揚を持っていたようでした。(実は、下の「辞書」に解説を書かれているのが「K」氏、つまりは梶原正昭さんだった。

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 ● 平家物語(へいけものがたり)中世初期の軍記物語。12巻。成立の過程 平清盛(きよもり)を中心とする平家一門の興亡を描いた歴史物語で、「平家の物語」として「平家物語」とよばれたが、古くは「治承(じしょう)物語」の名で知られ、3巻ないし6巻ほどの規模であったと推測されている。それがしだいに増補されて、13世紀中ごろに現存の12巻の形に整えられたものと思われる。作者については、多くの書物にさまざまな伝えがあげられているが、兼好(けんこう)法師の『徒然草(つれづれぐさ)』(226段)によると、13世紀の初頭の後鳥羽院(ごとばいん)のころに、延暦寺(えんりゃくじ)の座主慈鎮和尚(じちんかしょう)(慈円)のもとに扶持(ふち)されていた学才ある遁世者(とんせいしゃ)の信濃前司(しなののぜんじ)行長(ゆきなが)と、東国出身で芸能に堪能(たんのう)な盲人生(しょうぶつ)なる者が協力しあってつくったとしている。後鳥羽院のころといえば、平家一門が壇ノ浦で滅亡した1185年(寿永4)から数十年のちということになるが、そのころにはこの書の原型がほぼ形づくられていたとみることができる。この『徒然草』の記事は、たとえば山門のことや九郎義経(よしつね)のことを詳しく記している半面、蒲冠者範頼(かばのかじゃのりより)のことは情報に乏しくほとんど触れていないとしているところなど、現存する『平家物語』の内容と符合するところがあり、生仏という盲目の芸能者を介しての語りとの結び付きなど、この書の成り立ちについて示唆するところがすこぶる多い。ことに注目されるのは、仏教界の中心人物である慈円(慈鎮)のもとで、公家(くげ)出身の行長と東国の武士社会とのかかわりの深い生仏が提携して事にあたったとしていることで、そこに他の古典作品とは異なる本書の成り立ちの複雑さと多様さが示されているといってよい。(下に続く)(右上写真は「延慶本」五島美術館蔵)

語物としての流布 本来は琵琶(びわ)という楽器の弾奏とともに語られた「語物(かたりもの)」で、耳から聞く文芸として文字の読めない多くの人々、庶民たちにも喜び迎えられた。庶民の台頭期である中世において、『平家物語』が幅広い支持を得ることができたのもこのためで、国民文学といわれるほどに広く流布した原因もそこに求めることができる。『平家物語』をこの「語物」という形式と結び付け、中世の新しい文芸として大きく発展させたのは、琵琶法師とよばれる盲目の芸能者たちであったが、古い伝えによると『平家物語』ばかりでなく、当初は『保元(ほうげん)物語』や『平治(へいじ)物語』も琵琶法師によって語られていたらしく、また承久(じょうきゅう)の乱を扱った『承久記』という作品もそのレパートリーに加えられていたといい、これらを総称して「四部の合戦状」とよんだ。しかし他の軍記作品は語物としては発展せず、『平家物語』がその中心とされるようになり、やがて琵琶法師の語りといえば『平家物語』のそれをさすようになっていった。この琵琶法師による『平家物語』の語りのことを「平曲(へいきょく)」というが、この平曲が大きな成熟をみせるのは鎌倉時代の末で、この時期に一方(いちかた)流と八坂(やさか)流という二つの流派が生まれ、多くの名手が輩出した。これらの琵琶法師たちが平曲の台本として用いたのが、語り本としての『平家物語』で、一方流系と八坂流系の二つの系統に大別される。これらに対して、読み物として享受されたのが読み物系の諸本で、『延慶(えんぎょう)本平家物語』6巻、『長門(ながと)本平家物語』20巻、『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』48巻などがある。[梶原正昭](以下略)(ニッポニカ)(左上写真は「七十一番職人歌合絵巻・琵琶法師」東京国立博物館蔵)

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 昔も昔、六十年近くにもなろうかという過去の思い出を、今どうして取り出したのか。本人もはっきりしないままで、「平家物語」を読んでみたいと、漠然と思ったのでした。「平家」とくれば、大学時代の授業と、その担当者に触れないわけにはいかないだろうという予想は立っていました。四十歳くらいの若い担当教師、それが梶原正明さんだった。後年、ぼくは個人的にも梶原さんから、いろいろな話を伺うことができた。これは、ぼくにはとても幸いなことでした。梶原さんは、七十過ぎに亡くなられた。在職中から病を得ていたように記憶しています。お住まいは横須賀で、かなり高いところにご自宅があり、階段を昇るのが身に応えるといっておられた、その「(優しさを失わなかった)声音」が、今でも聞こえてきそうな気がします。とても小柄な方で、語り口は柔らかく、ガサツな人間から見て、なるほど「静かな紳士」なんだ、という風情を印象深くされていました。その梶原さんは、たくさんの研究業績を上げられ、ぼくは、そのほんの一部を拾い読みするのが関の山でしたが、著書を手にするたびに、彼の人柄を偲(しの)ぶのです。亡くなられたのが一九九八年でしたから、七〇を出たばかりでした。もはや四半世紀もたったのかと、ここでもまた「去る者日々に疎し」の感慨を深くします。だからこその「平家物語」再読だったかもしれません。

 「平家物語」とくると、あれはいつでしたか、木下順二さんの「子午線の祀り」の芝居を観たことを思い出します。もちろん山本安江さんも出演されていました。四〇年も前になるでしょうか。岩波ホールだったと思う。またこの芝居では「群読」という実験を取り入れられていたのも印象的でした。知盛と義経を並べ、一の谷から壇ノ浦合戦にいたるまでの平家の滅亡を描いた、波乱万丈の「盛者必衰物語」でした。まさに、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」ですが、ぼくはこの物語を読んで、強く感じ得たのは「盛者必衰」、「おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし」「たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ」という「平家物語」の通奏低音ともいうべき「人生の哀れ」でしたのはいまでもありません。でも、それを超えて痛感させられたのは、「盛者」以上に「弱者」「貧者」、あるいは「おごれるれる人」に負けず劣らず「おごれざる人」もまた、「弱者必衰」であり、「春の世の夢の如しである」という主題でした。「たけき者も」「たけからざる者」も、いささかの変わりもなく「風の前の塵に同じ」という「人生の摂理(providence)」でした。だから、どうして「そんなにおごれるのか」「おごりたいのか」という、疑念を抱かせてくれるものがありました。ここでも、ささやかな生にこそ、ぼくは立ちたいと念願するんですね。

 「奢れる人」だけが「必衰」であって、「奢らない人」がいつまでも苦しみながら生きるというのは、いかにも不条理ではないか、どんな人間(生命・人生)も、きっと滅びる、それがこの人生に与えられた「褒美」だなどというと、叱られそうですが、「有限な人生」「人生の有限性」、それであればこそ、生きることに、ある種の切実さというものが生まれるのではないか、そんなことを言いたいのです。もっと言えば、人に負けたくない、他者に劣りたくないというところから、負けてたまるか、勝ちたいという、「競争の人生」が生まれるとするなら、「いくら奢っていても」「どんなに権勢を恣(ほしいまま)にしていても」、「盛者必衰」という「理」に膝を屈せざるを得ないのが、だから人生なんだというのが平家の主調(通奏)低音でした。そこからぼくは、「盛者必衰」とは異質の生きる方法。つまりは、「どう生きるか」という選択を迫られている人の姿勢を思うのです。

 そして、ここにもまた、「露の世は露の世ながらさりながら」という一茶の、呻吟しながら得た「直観」が共鳴しているように、ぼくには思われてくるのです。儚(はかな)いのが人生であると、なんだか悟ったようなことを言いますが、「儚さ」に何を思い描くか、それこそが「ひとりの生き方」を決めるのではないでしょうか。「咲けば散る」「散れば萌す」「萌せば咲く」、それは自然界における不動の摂理、別の観点から言うと「輪廻」「転生」でもあります。あるいはまた「盛衰栄枯」といってもいいでしょうか。まさに「露の世は露の世ながらさりながら」ではあります。

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