わが心やさしくなりぬ赤のまま(青邨)

 【日報抄】秋の日はつるべ落としだ。きのうの日の入りは17時46分。1カ月前より50分ほど早まった。今の時季は毎日1~2分ずつ早くなる。6月の夏至の頃はほとんど変わらない日が続くから、たそがれ時が早くなると感じるのも当然だ▼手元の辞書によると「たそがれ」は「誰(た)そ彼(かれ)」が語源だという。今の言葉なら「あれは誰」という感じか。薄暗くなって、人を見分けるのが難しくなる夕暮れ時を意味するようになったようだ▼万葉集には、こんな和歌が収められている。〈誰そ彼と我(われ)をな問ひそ九月(ながつき)の露(つゆ)に濡(ぬ)れつつ君待つ我を〉。「あれは誰かと、私のことを尋ねないでください。九月の露に濡れながら、あなたを待つ私なのに」(岩波文庫「万葉集」)という切ない心情を詠んだ▼闇の世界が迫り人や物が見分けにくくなる夕暮れ時を、人は古くから怪異と出合いやすい時間帯と考えた。「逢魔(おうま)が時(とき)」である。あながち迷信の類いとはいえない。現代では交通事故が多発する時間帯として知られている▼現代の逢魔が時を示す新たなデータが明らかになった。警察庁が2017年から5年間に全国で発生した交通事故を分析したところ、日没後1時間以内に道路を横断中の歩行者が死亡した事故は7~9月に比べて10~12月は2・1倍に増えていた▼自転車に乗った人が車と衝突した死亡・重傷事故も1・8倍だった。ドライバーの視覚を鈍らせる、魔の時間帯であるのは間違いない。気を引き締め、早めのヘッドライト点灯で魔よけとしたい。(新潟日報デジタルプラス・2022/09/20)

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 毎朝起きがけに、お茶をいっぱい。日本茶に限ります。日の出を見ながらというのが習慣になっています。しかし日の出が見られないときでも、お茶は欠かさない。今の時刻で言うと、四時か五時、昔風に言うと「明け六つ前」というところでしょうか。昔の「一刻(ひととき・いっとき)」は今の約二時間です。ほとんど毎日、四時か五時には起床していますから、世間の習慣からすれば早いのかもしれません。しかし、その時刻にはもう畑に出ている方もおられますから、「朝飯前」の野良仕事は当たり前にされているんですね。ぼくの「朝飯前」は猫の食事準備と、その後片付けです。だいたい一時間ほどかかります。

 八月十日ころに生まれた子猫(家の隣のハヤシの中で出産したようです)が、そろそろ離乳食を始めるので、これまでよりは時間がかかりますが、まあ、六時前にはパソコンに向かってニュースを見たり、BGMを流しながら、なにやらかにやらをしています。この「無駄な時間」が、ぼくにはとても大事というか、ある点では「命の洗濯」の時間になっています。尤(もっと)も、一日中が「命の洗濯」だという方が正しいのですが。かみさんはまだ、爆睡中。八時過ぎに朝食、かみさんといっしょ。

 朝日(🌅)に挨拶はしますが、夕日(🌇)は、残念ながら雑木林の影になって見えづらいので、ついつい見逃してしまいます。時々、びっくりするような日没に遭遇し、まるで洗濯した命が「乾ききった」というか、今日も無事でしたな、という殊勝な気分になることがあります。夕日よりも朝日が、どちらかというと好みにあっているようで、これまでに「日の出」を拝むためにあちこち出かけましたが、「日没」を見るための旅行はしたことがないんです。まあ、数時間すれば、また「朝陽(あさひ)」が見られるからという思いからでしょうか。「日の出」も「日の入り」も人間界の都合で作った表現で、太陽は「出入り」などはしない。自然現象としてはひたすら「太陽」の周りを地球が回っていることに変わりがない。(本日の「日の出」は5時25分、「日の入り」は17時40分です)(千葉地方)。

 コラム氏の指摘のように、「逢魔が時(刻)」とか「黄昏(たそがれ)時」に交通事故が多いというのはよくわかります。免許を取得してほぼ半世紀。運転は上手か下手か、自分ではわかりませんが、もう何十年も「無事故・無違反」を続けています。その期間は、恐らく四十年くらいではないか。違反切符は、若い頃にはよく切られたし、「反則金」もそれなりに取られたので、これ以上は取られたくないという気が起こったのでしょう。運転は時と場合によって、丁寧でもあり、乱暴でもあるのは、今も昔も変わりません。

 ある時期から、ぼくは日没後と降雨時は運転しないと決めました。もちろん原則ですから、時には緊急事態で運転することはあります。でも大抵は、この二つの、自分で作った規則は、かなり厳守している方だと思う。おどろくほど出鱈目な運転をする人が増えてきたことも「規則」を守ろうという態度を取らせていると考えています。十年ほど前、雪の降るなかをタクシーに乗りました。ちょっとした上り坂にかかって、運転手はこわなくなって「運転してくれないか」と、客であるぼくに懇願した。(ぼくがどうしたかは、ここでは言えません)若い頃から雪道に馴れていました。スキーに出かけた経験からです。(これがプロ(=金を取る)だというのです。「どこそこへ」と行き先を告げたら、「今日、乗ったばかり」「初めてのお客さんです」という運転手に何度か出会った)

 つい最近(今年の二月頃か)も、雪の上り坂で自動車が渋滞していました。よく見ると、懸命にアクセルを踏んで(スリップして)いるものや、手回しよくレッカー車を呼ぶものもいましたが、ぼくはノーマルタイヤで当たり前に坂道を登りました、「お先に失礼」と。つまり、運転の上手下手は、何事でも同じでしょうが、それまでの経験が生きているかどうか、経験がなければ論外です。それにオートマ車が大半の自動車時代ですから、車の知識がゼロでも乗れるという、まことに危険に満ちた自動車社会を生きているのです。

 暗くなったら乗らない。雨が強いときは運転しない。当たり前のルールです。いつも思いますが、「今やらなければ、どうにもしようがない」ということは、日常的にはまず起こらないんですね。そこから「今日やれることは、明日でもやれる」という格率をぼくは守ってきました。一例でいうと、ぼくには「締め切り」というのがなかったと言ってもいい。これまでも原稿を頼まれたことがあり、大抵は締切がありました。締切に間に合うように書こうとしますが、書く気が起こらなければ、提出は止めたし、締切が過ぎても受け付けるというときには、それに間に合うように書きました。でも「間に合わせるために、徹夜して」ということは一度もありません。原稿だけではなく、もろもろのことがらにも、「締切」があるのが世の習いです。でもぼくはその「世の習い」には習わないことのほうが多かった。

● 逢魔が時(刻)「…たとえば,神の間,納戸(なんど),便所,軒,門,神社,寺,辻,橋,峠,村境などは,そうした境界の主要なものであり,これらの境界は物理的・社会的境界のみならず,神や妖怪のすむ他界との境界とも考えられていたので,こうした境界領域に妖怪たちが出没する傾向が強く認められる。また出没の時についても同様で,〈逢魔が刻(とき)〉と呼ばれた昼と夜の境の夕方と明け方に,妖怪はこの世界に出入りするとされている。妖怪たちのおのおのの姿形や性格は多様性に富んでいるが,一般的には妖怪たちの姿形は,現実に存在する人間や動物,器物を異様な形に変形したり,これらの事物を合成しつつ変形したり,既存の妖怪たちの姿形を利用しながらつくり出されているといえるであろう。…」(世界大百科事典)

● たそ‐がれ【黄昏】=〘名〙 (古くは「たそかれ」。「誰(た)そ彼(かれ)は」と、人のさまの見分け難い時の意)夕方の薄暗い時。夕暮れ。暮れ方。たそがれどき。また、比喩的に用いて、盛りの時期がすぎて衰えの見えだしたころをもいう。→かわたれ。(以下略)(精選版日本国語大辞典)             ● こう‐こん クヮウ‥【黄昏】〘名〙① (形動タリ) 日の暮れかかること。夕やみのせまること。また、そのさま。夕暮。たそがれ。② 戌(いぬ)の刻のこと。(同前)

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 「秋の日は釣瓶落とし」といいます。「日が落ちるのが早い」ことの例え。「釣瓶」を知らない人がいるでしょ。関西人の「鶴瓶さん」とは違います。釣瓶とは「《「瓮(へ)」の意》井戸水をくむために、縄や竿(さお)などの先につけておろす」(デジタル大辞泉)で、ぼくは小学生の頃までは毎日使っていました。水道ではなく、井戸水が「生活用水」だったからです。夏は冷たく、冬は暖かく感じるようなもの(水温)だった。スイカなどは井戸水で冷やしていました。現役の俳人で、ぼくの好きな鷹羽狩行さんの句に「つるべなど見ぬ世の釣瓶落しかな」があります。「いろいろなものを見ぬ世」になったのは、文明の進歩のお陰らしいが、すべてが「歴史」になるということは、一面においては「暗記」や「学習」の対象になり果せることでもあるのでしょう。「釣瓶」は知らないが、「鶴瓶」はよく知っていて、「家族で完敗(変換ミスではない)」などとは困ったことでもあるでしょうね。

 秋の日は釣瓶落としのように「早い」ということには無関係で、この季節にも、あちこちで、地味な輝きを見せている草花の「あかのまま」(別名、イヌタデ。谷崎潤一郎の小説に「蓼喰ふ虫」がありました)その草花が、どういうわけか、秋の頃に似合うものとしてぼくは記憶しているのです。「あかのまんま」ともいう。中野重治さんの「歌」という詩にも「赤まゝの花」がありました。青春の息吹(意気込み)というか、あるいはまた暗い時代を映す鏡のような詩でしたね。

  歌              中野重治

お前は歌ふな
お前は赤まゝの花やとんぼの羽根を歌ふな
風のさゝやきや女の髪の毛の匂ひを歌ふな
すべてのひよわなもの
すべてのうそうそとしたもの
すべての物憂げなものを撥(はじ)き去れ
すべての風情を擯斥(ひんせき)せよ
もつぱら正直のところを
腹の足しになるところを
胸先を突き上げて来るぎりぎりのところを歌へ
たゝかれることによつて弾ねかへる歌を
恥辱の底から勇気をくみ来る歌を
それらの歌々を
咽喉(のど)をふくらまして厳しい韻律に歌ひ上げよ
それらの歌々を
行く行く人々の胸廓にたゝきこめ

 「もつぱら正直のところを/ 腹の足しになるところを/ 胸先を突き上げて来るぎりぎりのところを歌へ」と歌った中野さんは二十四歳だったと言う。学生でした。なかなかに困難な道を歩こうとしていたとも伺えます。前途は多難、そんな世の中に青年は闘いを挑むような、「叙情」ではない「激情」を歌おうとしたのです。その後の人生の難行を、若い詩人は予想していたでしょうか。いや、その予想を遥かに超えて、凄惨な時代を生きたのではなかったか。ある一時期、この詩人もまた、いまでいう「カルト」に誘引されたのでした。それは、彼自身の苦悩を癒やすためというよりは、「世のため、人のため」という「大義」によってだったでしょう。中野さんにとって「モルヒネ」は却って、痛みや苦悩を深めたものだったかもしれない。ぼくが彼に惹かれたのは、その「理由」のつかない「カルト」への惑溺とそれとの決死の戦い、および国家権力との軋轢、それらの二重三重の葛藤に苦しんだのではなかったかということにありました。

 「たゝかれることによつて弾ねかへる歌を/ 恥辱の底から勇気をくみ来る歌を/ それらの歌々を /咽喉(のど)をふくらまして厳しい韻律に歌ひ上げよ /それらの歌々を/ 行く行く人々の胸廓にたゝきこめ」

 その中野さんには比べるべくもなく、ぼくの青年時代は「軟弱」「惰弱」「怯懦」「懦愚」そのものだったということを、中野さんを熟読することで嫌になるほど見せつけられたのでした。

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● 中野重治【なかのしげはる】=詩人,小説家,評論家。福井県生れ。東大独文科卒。金沢の四高で窪川鶴次郎らと知り合い,短歌や詩,小説の習作を発表するようになる。またこの時期に室生犀星を知る。東大入学後,1926年には窪川,堀辰雄らと《驢馬》を創刊する一方,新人会に入会,マルクス主義,プロレタリア文学運動に向かう。日本プロレタリア芸術連盟,〈ナップ〉,〈コップ〉の結成に参加。運動の方針をめぐる議論のなかで多くの評論,詩,小説を発表。《中野重治詩集》に収められた詩はほとんどこの時期までに書かれた。1931年日本共産党に入党,1932年検挙,投獄され,1934年〈転向〉し,執行猶予の判決で出所。再び筆をとり,《村の家》《歌のわかれ》《空想家とシナリオ》《斎藤茂吉ノオト》などを1940年代初頭にかけて書きつぐ。敗戦後,間もなく日本共産党に再入党。また中心メンバーとして《新日本文学》を創刊,平野謙らとの〈政治と文学論争〉は戦後文学の開始を告げるものとなった。1947年―1950年参議院議員。《むらぎも》《梨の花》,共産党〈徐名〉後の《甲乙丙丁》など,評論も含めての旺盛な文学活動を死の間際まで続けた。(1902―1979)(マイペディア)

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 台風十四号の余波ではなく、その本体の影響がまだまだ続いています。空は暗く、風は時に強く、油断のならない日ではあります。台風の被害者として、何人かの方が亡くなられたと報道がありました。異国では「やんごとなき方の国葬」とやら。内国では「正直ではなかった方の国葬」反対で、一万を超える人々が台風のさなかに行進したとも。異国にも「王室制度」があります。ぼくは、どこの国であれ、これには異論があります。誰であれ、亡くなられたということには、当たり前の感情として、悼む気持ちがあります。その「皇室」「王室」制度という政治の道具は「時代の遺物」。だから残すべきなのか、いや廃れるに任せるのがいいのか。いずれ、これについては駄文を綴るかもしれません。

 中野さんの全集(確か筑摩書房版だったと記憶している)が書庫に眠っているような有様です。この機会に再読三読に及びたいですね。数奇な、あるいは波乱万丈の人生を送られた人という印象がぼくには強いし、学生時代から、特に気になる作家(文学者)でもありました。いろいろな意味で、時代の奔流に弄ばれながら生きた人ではなかったでしょうか。また、柳田國男さんとの交友にも興味を持ったことでした。戦後に復活した雑誌「展望」にはよく中野さんの文章が出ていて、この雑誌もぼくには背伸びしながらの「愛読誌」とはなったのでした。二十代末までの時期、ぼくはとびきり背伸びをしていたなあと、今でも思います。それがよかったとは言いませんが、背伸びするから見えるものがあったという意味では、必要な経験ではあったでしょう。それ以降は、一切背伸びをしなくなり、等身大の我が儘を通してきたことになります。

 朝、ラジオを聴いていたら「悔いはあるけど、後悔なし」というプロ野球選手の言葉が耳に入りました。ぼくには「悔い」も「後悔」もあるけど(二つの語はいっしょじゃない?)、それもまた人生、とひばりさんのように謳いたいところ。「ああ、川の流れのように」です。

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 病者には秋分もなし臥(ね)るばかり (源義)

 【斜面】出版人の五輪汚職 敗戦から3カ月後。角川源義(げんよし)(1917~75年)は自宅を事務所に角川書店を創業する。49年5月に創刊したのが角川文庫だ。第1回の配本はドストエフスキーの「罪と罰」。翌年には現在のサイズに改装し、文庫ブームに火を付けた◆今も刊行が続く文庫の巻末には源義の発刊の辞がある。敗戦を〈自由な批判と柔軟な良識に富む文化層として自らを形成することに私たちは失敗してきた〉と総括。〈出版人の責任〉を顧み、文庫を〈学芸と教養との殿堂として大成せん〉と誓っている◆子どものころから文学に親しみ、親の反対を押し切って大学の国文学科に進んだ。戦争が始まると繰り上げ卒業になり、2度召集された。発刊の辞には文化によって国の礎を築き直すとの熱い思いがほとばしる。その源義の次男歴彦(つぐひこ)氏は東京五輪にどんな価値を見ようとしたのか◆スポンサー選定を巡る汚職事件の贈賄容疑で逮捕された。新時代のコンテンツを開拓し、業績を飛躍させたKADOKAWA会長である。受注した公式ガイドブックに文化的な価値があるとは思えない。五輪利権に群がる人々の列に加わっただけなのか◆源義は秀句を多く詠んだ。〈くらがりへ人の消えゆく冬隣〉。本紙「けさの一句」で土肥あき子さんは解説している。「くらがり」は不気味な口を開いている冬の象徴。避けようもなく吸い込まれていく人の背をなすすべなく見送っている、と。次男の背を源義はさぞ不安げに見ていよう。(信濃毎日新聞・2022/09/16)

 角川源義さんに抱いた印象は「いかにも文人だなあ」でした。それが書店の創業者でもあったのですが、いつまでもぼくの中では、「角川のカラー」は地味だった気がします。俳句・和歌の出版には定評があったし、それなりの著者(文学者・俳人など)が揃っていたようにも思います。ぼくは柳田國男さんの角川文庫版はすべてもっていましたし、その他の人のものでも同様に、文庫本では揃えてみようという邪念が起こったんですね。若気の至りでした。店主の源義さんのものもよく見、よく読みました。彼の師匠は折口信夫(釈迢空)さんで、あるいは、師から受けた薫陶は思わないところで匂いだしていたことでしょう。また、源義さんは飯田蛇笏をこよなく尊敬していたということを知り、ぼくはまるで自分のように嬉しくなったことを覚えています。俳句がまるで「真剣」のような営為な切れ味を期待していたのでしょうか。「寸鉄人を刺す」という具合に「俳句」を捉えていたのかもしれません。

 二代目(春樹さん)、三代目(歴彦さん)に関してはほとんど知るところはありません。二代目は俳句をよくしていた方だということは早くから知っていたし、それらのいくつかを、ぼくは好んでいました。人物に寄せられた世評とは大きな裂け目がある句作品の雰囲気だった。しかしそれが一点、本業の「商売」となると驚くばかりの「やり手」だったという印象があります。映画に思い切り突破口を開いた方だった。出版というものに対して、父親の描いた軌跡とはまったく方向が違っていたようです。

 三代目になると、なぜだか、あらぬ方向に走ったという気がしないでもありません。二代目が(麻薬」で捕まった直後に登場した際、じつに地味に写ったものでしたが。実際は、二代目よりも遥かに「やり手」だったということでした。出版業は先細りだから「角川」という看板は古い、だから「KADOKAWA」と名称変更(看板の架替)が行われたのでしょう。看板が変わっただけではなく、中味も一変したかもしれません。その途中での出来事が「五輪疑惑」だったのでしょうか。まだ「容疑」の段階ですから確かなことは言えません。しかし、生き馬の目を抜くような他業種と伍して「五輪スポンサー」に名乗りを上げるほどでしたから、それだけ、出版界の現状を打破したいという「覚悟」はあったのでしょう。文学や文化もいいけれど、とにかく「勝負」には勝たねばならぬと言う気性がいつしか芽生えていたのでしょうね。

 ぼくは商売っ気はまったくない人間ですからから、売上第一、盛業一途に走る企業家の信条がわかりません。会社の売上げを二倍、三倍にしたいというのは、どんな商売人でも持つ野心なのかもしれないし、それは当たり前の「経営哲学」に基づくのでしょう。あるいは同業他社との生存競争に勝つためには、異業種への転身をも図らなければならぬということだったかもしれない。出版業の行末を見据えたら、この際は、従来の慣行やしきたりに縛られてはならないということだったのかも。ニコニコ動画との共同事業の話を早い段階で聞いた時(ニコ動の内部の人から伺った)、「よくやるね」と思った。でも、どんな理由があるにせよ、「羽目を外す」というのは論外ですね。現段階で、事件の顛末は不分明のことばかりですから、いずれ事態が明らかになった暁には、話したくなることがあれば、なにがしかを駄弁るつもりです。「売家と唐様で書く三代目」だったか。(右下写真)

 東京五輪の当初の予算は七千億円余でした。決算が公開されていない(そもそも、五輪関係の金の出入りは一切明らかにされていないのは「組織委員会」が「財団法人」だからだと言う、理不尽な。(巨額すぎる税が投入されていたのですよ)巷間言われている説では、五輪関係の資金は「3兆円超」だとも。好き放題に税金投入を要求し、済んでしまえば、後の祭りと言うらしい。この後はまた、大阪万博であり、札幌冬季五輪が来る予定というから、よほど金になるイベントらしいし、それを招き寄せる「招き猫」が由緒ある「取り仕切り屋」だったんですな。それに巻き込まれる業界人も後を絶たないし、魑魅魍魎を右往左往させる「DEN✖✖」は、さらに、ますます健在だと言う。この島国の行末も五里霧中といえばいいのか。昔「陸軍」、今「DEN✖✖」というようだ。(今に判明したのですが、実は「東京五輪」は「神宮外苑」という不動産のお宝、言うなれば、東京都以外の他者には手の出しようのない「金城湯池」だった、最後の大規模再開発計画の、その序の口・突破口だった。今は亡き都知事は早い段階から、再開発の青写真ならぬ、黒写真を描いていたのです。これも全貌が明らかになるときには、もうすっかり時効というか、「噂」の賞味期限が切れているのです。今外苑のイチョウだったかなんだかを「千本切る」という、その騒動に惑わされませんように)

 広告会社を看板にしてきたこの会社は「吸血鬼」の如く、満州事変以来、この劣島の「生き血」を吸い続けています。国も地方も、そのために「重度の貧血症」に罹患しているのですが、病膏肓に入(い)るという言葉通り、手のうちようがないほどの弄ばれ方です。故元総理の「国葬」も、この会社案件でしたな。満洲事変時は電報会社でしたが、政界の人脈作りに執心した結果、ついにはシロアリのごとくに「国家」の土台ごと食いつぶしてきたのです。マスコミ(新聞テレビなど)は言うに及ばず、今では防衛省の武器調達でもすさまじい増殖力を見せている。コロナ禍も「千載一遇の好機」と見た。あらゆる領域で根を張るという点では、雑草なんでしょうが、この雑草は他の草種を完膚なきまでに枯らしてしまうという、まるで有毒性除草剤「ラウンドアップ」も顔負けと言うべきだろうね。

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 源義さんの句を少しばかり。

・灯ともせば雨音渡る茂りかな 

・秋風のかがやきを云ひ見舞客 

・鳥影や遠き明治の冬館 

何求(と)めて冬帽行くや切通し 

篁(たかむら)に一水まぎる秋燕

 それにしても「角川」が「KADOKAWA」に変わったのは、転生でもあったろうし、変容(変身)でもあったのでしょうが、脱皮が思わぬ「醜悪な姿」を生んでしまったのか、「角川」の一読者としては、残念というほかない。「文庫発刊の辞」がいまさらに思い出されてきます。初心と言うか、初念というか、そこへ戻ることはできないんですか。 

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● 角川源義(かどかわげんよし)(1917―1975)=角川書店の創立者であり国文学者。大正6年10月9日富山県生まれ。1937年(昭和12)、当時国学院大学教授であった折口信夫(おりくちしのぶ)の学風にひかれ入学、1941年卒業。角川がたまたま手にした河合(かわい)栄治郎の著書の欄外に「目がつぶれるほど本が読みたい」という書き込みがあるのに感動し、1945年(昭和20)11月に角川書店を創業したといわれる。1949年角川文庫を発刊。第二次世界大戦後の第一次文庫ブームの端緒になる。1952年『昭和文学全集』全60巻を発刊、爆発的売れ行きで全集ブームの契機をつくる。角川の学問への情熱は厚く、1961年『語り物文芸の発生』で文学博士の学位を受ける。1964年以降、国学院大学文学部講師を務める。句集ロダンの首』などがある。昭和50年10月27日死去。(ニッポニカ)

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 秋草の名残の匂い身にしみて(無骨) 

 九月三日、「誕生日の花」は蔓穂(つるぼ)で、「花言葉」は「誰よりも強い味方、流星のような、不変、志操堅固、我慢強い、風情ある、寂しさ、悲しみ」などなど、なんでもありのよう。(早朝、ラジオからの「花だより」から)ものは見ようで、いろいろな見方ができますから、それを言葉で表せば、これまた「なんとでも言える」というもの。草花は大好きですが、「花言葉」などにはまったく興味はありません。それはまるで、自然に咲いている、あるいはそこに植わっている草花に、好き勝手に「洋服を着せる」ようなもので、言ってみれば「悪趣味」だという気がします。あくまでもぼく個人の感想です。その様子は犬や猫にシャツやパンツを着せたり履かせたりして、もてあそびものにする飼い主のような、ある種の「玩弄物」化の気配さえ感じてしまうのです。困るのは、そのことに「自覚」がないということ、犬や猫が望んだのでもないのに。花よりも花言葉が、表に出る(目立つ)とろくなことはありません。名よりも実、ということでしょうね。これは「人間」についても同じことではないですか。

 それはともかく、田舎に住んでいると、街中の生活では得られなかった好運や不運が、応接の遑(いとま)もなく舞い込んできます。運不運の割合は半々などではなく、圧倒的に「運」の方が多いのは言うまでもありません。「果報は寝て待て」というようですが、ぼくはそんな悠長な「果報」には恵まれなかった。いつだって、歩く、歩き回ることから得られるものばかりでした。犬も歩けば棒に当たる、そういうことだったでしょうか。その第一は「景観」というか、「風景」というもの。なんでもない、「平凡」そのものが目に入ると、ぼくはすっかり嬉しくなるのです。野山には、いのちがあふれていると言いたいですね。この「蔓穂(つるぼ)」も付近でよく見られます。つい最近までは、猛暑のために外歩きはしませんでしたが、いい時候になってきましたので、歩き回る(徘徊する)のが楽しみで、農道や畦道(あぜみち)、あるいは獣道(けものみち)(と言うのは大げさですが)にも入り込みます。いたるところに、「いのち」が横溢しているのです。

● ツルボ(つるぼ / 蔓穂)[学] Barnardia japonica (Thunb.) Schult. & Schult.f. Scilla scilloides (Lindl.) Druce=ユリ科(APG分類:キジカクシ科)の多年草。染色体はA、Bと異なるゲノムの組合せからなる同質および異質倍数体からなる複合種で、外部形態もきわめて変異に富む。鱗茎(りんけい)は卵球形または楕円(だえん)状球形で黒褐色の外皮に包まれる。葉は春先と開花期の7月以後、二度地上に展開するが、倒披針(とうひしん)状線形、上面はへこみ、軟質で厚い。花期には葉を伴わないこともある。花茎は直立し、高さ30~50センチメートル、総状花序に淡紫色花を上向きに多数つける。北海道南西部、本州から沖縄の日当りのよい原野や道端に生育し、朝鮮半島から中国に分布する。(ニッポニカ)

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 もうすぐ見られるのが、「吾亦紅(吾木香)」、ワレモコウです。これが誕生花となるのは「8月25日、10月28日、11月19」)とされています。年に数度も。花時でもあるのでしょうが、それ以上に「花屋の作戦」かもしれないと、品のない想像をしたりします。この花の、花言葉は「変化」「移ろい」「もの思い」などが代表ですが、これも各種あって、各人の好みに合わせられるような塩梅です。ぼくには「誕生花」も「花言葉」も不要で、視界に入れば、もうそれだけで至福です。ぼくの「徘徊の理由」のすべては(健康のためではなく)、花々・木々との邂逅(逢着)です。いつもの歩き慣れた道なら、この先になにが、右に曲がれば、あれがあると、ほぼわかります。しかし、歩くコースを変えれば「未知との遭遇」があり、楽しみも、さらに湧こうというものです。「物思いに耽る花」って、どんな花ですか。

・吾亦紅さし出て花のつもり哉(一茶)

 (この句には、「五木香(ごもくこう)」という語が使われているものがあります。それが「吾木香」かどうか、不明)

(*「五木香 (ゴモクコウ)植物。キク科の多年草,薬用植物。モッコウの別称:動植物名読み方辞典)(*もっこう【木香】=漢方薬に用いる生薬(しょうやく)の一つ。キク科モッコウのを乾燥したもの。健胃鎮痛利尿抗菌などの作用がある。高血圧、動脈硬化肩こりに効く九味檳榔湯(くみびんろうとう)、更年期障害月経不順に効く女神散(にょしんさん)などに含まれる。:漢方薬・生薬・栄養成分がわかる辞典)

● ワレモコウ(吾木香) ワレモコウ Sanguisorba officinalis; burnet=吾亦紅とも書く。バラ科の多年草。高さ約 1.5mになり,茎は直立して上部はまばらに分枝し,長楕円形で,円頭,粗鋸歯の小葉から成る奇数羽状の複葉をつける。晩夏,穂状の花序を茎頂につけるが,花序は短球形で暗紅色,マツの球果 (松かさ) 状で,この形からボンボコの地方名がある。花序は黒紅色のと黒い葯 (やく) を有する小花の集りで,花弁はない。塊状の根には一種のサポニンを含み,吐血の止血薬として用いられる。漢方ではこの根を地楡 (ちゆ) という。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 面倒なことは言いません。ぼくが野山に咲く草花などに大いに惹かれるのは、幼児からのことであり、その多くは田舎住まい(現、石川県七尾市)のおかげでもあります。おふくろの影響が大きかったといえますが、この野山の草花の殆どが「生薬」として、実際に利用されていたからでした。ゲンノショウコやドクダミなどは代表例ですが、多くは煎じ薬として常用されていました。ぼくも服用した経験がある。いまでは、まったく薬用という意識はないものの、どこかしらでその香りや味覚が、ぼくの感覚に訴えてくるのかもしれません。そういえば、ぼくは独り歩きができるようになって以来、いつだって野山を歩き回っていた。兎や狐や狸などは友だちだったとは言いませんが、親しい生き物でした。数多くの昆虫も鳥も知り合いでありました。七十年以上も昔の経験と記憶が、あるいは「人間の感覚の源になる」といっても間違いはなさそうに思う。

 (これらの山野草は、一体どれほどの時間を生きているのか、ぼくには見当も付きません。その大半が「生薬」「漢方薬」として重宝されてきたことは「医心方」に詳しい。「医心方」については、どこかで述べておきました。翻訳された槙佐知子さんについて触れたときに)

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● 医心方(いしんほう)=現存する日本最古医書。平安中期の医家丹波康頼(たんばのやすより)が984年(永観2)に円融(えんゆう)天皇に奉進した。全30巻。内容は医学全般を包括して養生、房中に及ぶ。すべて中国の六朝(りくちょう)・隋(ずい)・および朝鮮の医薬関係書からの引用で構成され、多くは隋の『諸病源候論』によって項目を分けている。引用書は100余種に及ぶが、そのなかの多くが亡失して伝わらないため、中国医学史研究上、きわめて貴重な文献となっている。また古態(こたい)を残していることから現伝の古医書を考訂するうえでも重要な資料となっている。(⤵)

 秘蔵されたため幕末まで人目に触れることがなかった。伝本に主として半井(なからい)本系と仁和寺(にんなじ)本系の2系統がある。半井本は、正親町(おおぎまち)天皇が典薬頭(てんやくのかみ)の半井瑞策(ずいさく)に賜ったもので、同家は代々これを秘蔵したが、安政(あんせい)年間(1854~60)幕命によって供出させられ、江戸医学館で校刻された(安政版)。原本は半井家に返却され今日まで伝わり、1982年文化庁の所轄となり、84年国宝に指定された。ただし巻22は早くに流出してお茶の水図書館にあり、これも国の重要文化財。仁和寺本は、幕末まで全30巻中20巻が残存していたが、今日、仁和寺には5巻分しか現存しない(国宝)。しかし流出部の内容は国立公文書館所蔵ほかの幕末の模写本によってうかがうことができる。半井本系と仁和寺本系では記載にしばしば異同がある。(ニッポニカ)

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 「想像を膨らませる必要がある」、と仰るが

 【小社会】核への想像力 「記者失格」とお叱りを受けるかもしれないが、取材現場で目にしたものを文章や言葉で語り尽くすのは正直難しい。多くの人にとって、未知の出来事であればあるほど。▼例えば東日本大震災。記者自身が被災地で痛感した。目の当たりにした光景が過去の報道や記録から思い描いた被害より、はるかに悲惨であると。もちろん報道には力を注いできたが、どれだけ伝えることができたのか…。▼戦争もある。筆舌に尽くし難いのは報道だけではない。評論家の故加藤周一さんがかつて高知市の夏季大学で語っていた。「戦争体験者が話したがらないのは、話しても伝わらないと思うからです」▼医師でもあった加藤さんは終戦から約2カ月後、原爆の影響の日米調査団に加わり、広島に入った。だが壮絶な被爆体験をした住民は口をつぐんだという。▼「当人さえもそれを言葉であらわすことができなかったとすれば、どうして私にそれを理解することができたろうか」(回想録「続羊の歌」)。語り継がれてきた体験談も多いが、それとて惨劇を表し尽くせてはいまい。私たちはもっと想像を膨らませる必要がある。▼被爆国日本でさえそうだから、外国はさらに思いを巡らせてほしい。核拡散防止条約(NPT)再検討会議がまたも決裂した。ウクライナでは原発への攻撃が続く。想像力が恐ろしく欠如している。鎮魂の8月の最終日、改めて考えたい。核と平和の行方を。(高知新聞・2022/08/31)

 「百聞は一見に如かず」と言われます。「百聞」は、たくさん聞くこと。一見は「自分で見る」です。どんなにたくさんのことを(他人から)聞くよりも、自分の目で、一度でも見るほうが確かだ、と言うそうです。ある辞書にいう、「一〇〇回聞くより一回見るほうがよくわかる。何度繰り返し聞いても、一度実際に見ることに及ばない。※新聞雑誌‐一三号・明治四年(1871)九月「右は所謂百聞不一見の理にして」 〔漢書‐趙充国伝〕(精選版日本国語大辞典)。なにかと見聞を広めるのもいいけれど、実際に自分の目で確かめるほうがよく分かるというのでしょう。類語に「見ると聞くでは大違い」があります。人から聞くだけでは駄目で、自分で、直接に見なければわからないこともある。確かにそうもいえますが、しかし、そうとばかりは言えないのではないか、それがぼくの言いたいことです。それはぼくの小さな経験からでも言えることです。(ヘッダー写真は「アサヒグラフに見る昭和前史1(大正12年)」より。右奥は丸の内方面)

 言わなくてもおわかりのように、ぼくは「寡聞少見(かぶんしょうけん)」の人間です。見聞も経験も極めて少ない・拙(つたな)いという点では人後に落ちないでしょう。そのような人間だからこそ、「百聞は一見に如かず」には批判的になるのです。ある事柄(地震の被害状況や、原爆被災者の苦悩など)について、実見に及ぶという貴重な機会を持ったとしても、それを支える背景(受け止める手段・感性も知性も動員して)がなければ、どうしようもないのではないですか。「百聞」というものを広く「学習」と理解するとどうでしょう。ある事柄について、多くのことを聞く、それによって「知るもの・知識」が自分の中に蓄積される。そんな「百聞」があって初めて、実地に目にする機会を得ると、眼前の事柄がより深くわかろうというものです。一切の見聞なしでも、一見のほうが確かだというのなら、犬や猫が、人間と同じ場面を見るのと、どこが違うのか。網膜に映るものは同じ景色(対象)であっても、それを読み取り、その意味を知るための手がかりはどこにあるというのか。「一見」が意味を持つのは、「百聞」があってのことなのだ、そうではないでしょうか。「百聞」とは「学習」そのものです。それを経ない人間の「一見」に、どのような価値があるというのか、ぼくには疑問です。

 「戦争体験者が話したがらないのは、話しても伝わらないと思うからです」「当人さえもそれを言葉であらわすことができなかったとすれば、どうして私にそれを理解することができたろうか」という加藤周一さんの言葉は、いろいろな事柄を考えさせてくれます。「原爆の被害者」は数え切れないいほどおられました。その「被爆」によって亡くなった方々は数万人。あるいは関東大震災では死者は十万人を超えると言われています。東日本大震災も同様に、数多くの被害者がありました。それぞれの「被災」や「被害」の状況は同じようであって、それを経験した人それぞれに、受け止め方(被災体験)は異なるでしょう。見える部分の被災・被害状況は同じであっても、それを実際に身に受けた人によって経験された内容は異なるし、それを言語によって表現する(語る・書く)とさらに個人差がきっと生まれます。その結果、悲惨極まりない原爆投下や大震災の「被害」「被災」を風化させないために「語り継ごう」ということになるのですが、「見ると聞くでは大違い」が、いたるところで生じているのです。そのさまざまな「違い」を、真相・真実に即して受け止めるためには、どうしても「百聞」は欠かせない学習なのではないか、ぼくはそのように考えています。言い過ぎのようですが、「百聞は一見に伍する」ものだとも、ぼくは言いたい気がします。

 「語り継がれてきた体験談も多いが、それとて惨劇を表し尽くせてはいまい」というコラム氏の指摘は「的を射た」ものです。仮に経験したものが「100」あったとして、語り表せるのは、その何分の一でしかないかもしれないのです。語りきれなかった、残りの部分どうすればいいのでしょうか。その事自体は被災者自身において起こっているのですから、それを後から「また聞き」で学ぶ者には、もっと大事な部分が伝えきれない(受け止められない)ままで消えてしまうでしょう。その欠損を補うためにも「私たちはもっと想像を膨らませる必要がある」といわれるのには、大いに同感します。しかし、「想像力」を膨らませるにはどうするか、想像力は勝手には膨らんではくれないのです。その際の「元手(ふくらし粉)」になるのは、自分流の「百聞」でしかないのだと、ぼくは言いたいのです。知りたい事柄について、必要なものは書物から、映像から、伝言から、そして体験談から、さまざまな手段を尽くして「未経験」「未体験」の事柄を知ろうとする作業は不可欠となります。その「百聞」があってこその「一見」なのだ、このことを肝に銘じておきたいですね。「見ると聞くでは大違い」です。しかし「大違いの中味」はなんですか。それをこそ、ぼくたちは知ろうとしなければならないのではないか。

 「歴史を学ぶ」というのは「過去との対話」「現代と過去との対話」だと高名な歴史家が言いました。別の表現をすると、今を生きている自分が行う「現在と過去の対話(出会い)」だと言えるでしょう。よりよく過去と対話をしうる(歴史を学ぶ)人が、よりよく未来にも遭遇するのかもしれません。(未来は過去にあり、過去は未来にあるですから)「過去との対話」に努めるということは、再び「過ちを侵さない・犯さない」ための最良の生き方(学習)ではないでしょうか。(過去とは「過ぎ去った(人間の)あやまちのこと」ですよ)(本日は「防災の日」だという。九十九年前の、大正十二年九月朔日、東京・神奈川を中心に「関東大震災」が発生。多くの被害が出た。折しも、沖縄地方に「最大級の台風が襲来」しています。とんでもない「被害」が出ないように、祈るのみです)

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 ロシアが引き下がるほかに「終結」の道はない

 ウクライナ侵攻開始から半年、ロシア世論は今も分断 2022年8月24日 12:35 発信地:モスクワ/ロシア【8月24日 AFP】ロシアのウクライナ侵攻は24日、開始から半年を迎えた。ロシア人の間では、侵攻は「必要」だったとの声が上がる一方、「悲しみ」を感じる人もおり、世論は今も分断している。/ 2月24日、親欧米路線をとる隣国ウクライナでロシアが開始した「特別軍事作戦」について、首都モスクワ周辺でAFPが取材した人々の意見は分かれたが、すべての人に共通していたのは、戦争の早期終結に対する願いだった。(以下略)(https://www.afpbb.com/articles/-/3420392)(ヘッダー写真は:https://jp.wsj.com/articles/russia-relies-increasingly-on-missiles-artillery-to-pressure-ukraine-11647901407)

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 まさか、半年経っても「侵略戦争」が終わらないとは想像もできませんでした。いろいろな理由がありますから、簡単な話ではないということは理解しているつもりです。しかし、「大義のない侵略」が全面的に受け入れられてきたとは考えられません。もちろん、ロシアに対する批判や非難が、世界中で巻き起こっているかと言えば、決してそうではないことも事実です。ロシアは「ウクライナのロシア人」を救うための戦いと言って「侵略」をはじめたのです。しかし、その間、「侵攻」の動機はどこかへ雲散してしまい、今では、ひたすら「ウクライナ」を世界地図から消すためだけに、無駄に自国の兵士の命を失い、ウクライナに対しては兵隊はもちろん、市民に対する無差別の殺戮を繰り返しています。どこまで行くのか、見当もつかない迷路にはまり込んだ「ロシア」です。「侵略を止める」とロシア(プーチン大統領)が宣言すれば、まずは、ひとまず「終わり」です。しかし、今となれば、ウクライナは「クリミアも取り戻す」と、戦いの困難さを認めた上で、国運を賭けた闘争に入っています。ロシアの「戦争犯罪」にも審判を下すことは避けられません。

 ロシアが負けることを願っているのではありません。無謀な「大義なき侵略」を即刻中止すべきだと、今も考えているのですが、今となれば、それも不可能かもしれません。国連ではなく、どこかから「仲介の名士」が現れないものでしょうか。まるで「神頼み」のような心境になっている。ロシアが仕掛けた「侵略」ですから、ロシアが「停止」「取りやめ」を言う他にケジメがつかないでしょう。それでもなお、一体、どれだけの人々が戦争犠牲者になったのか。この「戦死者」に対する責任を誰が、どのように取るのでしょうか。そんなことをも考えていると、気が狂いそうになるばかりです。

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 ロシアのウクライナ侵攻から半年、キーウ市民の思いは  ウクライナの首都キーウでは、8月24日のウクライナ独立記念日に中心部で大規模な軍事パレードが行われる。/ しかしロシアのウクライナ侵攻からちょうど半年に当たるこの日、攻撃の標的にされるとの懸念から、キーウでは公のイベントが禁止された。/ キーウ市民に、この半年について話を聞いた。(https://www.bbc.com/japanese/video-62669464

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 戦禍の激しさになすすべもなく、ひたすら「戦争中止」を願い続けてきた半年でした。この先も、いたたまれない気持ちになりながら、「終戦」を待つばかりです。まだまだ続くという予感がします。その一番の理由は、ウクライナが仕掛けられた「侵略戦争」に徹底抗戦するのは当然であり、そのウクライナを西側の多くの国々が物心両面で援助しているからです。まるで「東西対戦」の様相を見せてきましたから、ロシアは、アメリカ側の軍門に下るわけにはいかないというメンツでも戦い続けるでしょう。終わりのない「戦争」という事態(泥沼)に進んでいくことを恐れます。

 二月の「ロシアの侵略」以来、ぼくはロシアが「引き下がること」を願い続けてきました。今もその気持は、一層強くなっています。半年間の「戦い」で、何がわかり、何が見えてきたのか。次に触れるときには、そのことを綴るつもりです。

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