空を押し上げて 手を伸ばす君 五月のこと

 当地へ来る前の自宅庭(猫の額ほどもなかった)にもいろいろな花木を植えていました。最初は庭園業のプロにおまかせして「白樺」なども植えたが、何年もしないうちに虫害で駄目にした。その後に植えたのが、二本の「ハナミズキ」でした。これは途中で枯れもしないで育った。当地に越すときには移植できない程に大きくなった。一般に「ミズキ」というと、文字通りに多種多彩で、整理するだけで大変な作業になります。ぼくの知っているだけでも「トサミズキ」「クマノミズキ」「ヤマボウシ」などなど、それなりの数になります。近くの雑木林には何本もの「ヤマボウシ」があり、人知れず大きく育っている。容易には手の届かない、近寄りがたい雰囲気さえ漂っています。その木に「フジ」などが絡んでいるのは、見ごたえがあるというもの。房総半島には小高い丘程度の山しかありませんから、少し離れてみれば、その丘に植生している植物がはっきりと確認できます。少し前に触れたヤマザクラなどもその仲間です。(ヘッダー写真は:https://lovegreen.net/languageofflower2/p22692/)

 このハナミズキは、下に引用した辞典にもあるように、アメリカ原産。アメリカからこの島に持ってこられた経緯については、辞書の簡単な解説でわかります。一方のミズキは日本原産です。育つと相当な高木になり、街路樹や公園などに植えられることが多い。普段の散歩道(農道や田んぼの畦道)にも、何本ものミズキが屹立していて、見るからに堂々としている。狭い庭にはとてもそぐわない樹木で、嘗ての家に欅(けやき)を植えて大失敗したことを思い出します。身分相応、身丈にあったという「分際」をわきまえるのは、なかなか簡単ではなさそうです。

 ハナミズキを持ち出したのは、早朝のラジオ深夜便で「誕生日の花」と紹介されていたからです。「誕生日の花」も「花言葉」もかなりいい加減で、なんとでも言える代物、おそらく商売繁盛を願っての約束事にしたのでしょう。そんなこととは無関係に、「季節の草花」「木や花の見頃」というものがありますので、それだけでもたくさんの種類の花や木が楽しめるのです。それにしても「ハナミズキ」は鮮やかですね。ピンク色と白色と。大木にしとやかな、しかし色鮮やかな花をつけるところは、なんとも言えない魅力です。花だと思われているのは、実際の果房を守る壁のようなもので、それがなお、趣を加えてもいるようです。

● ハナミズキ(はなみずき / 花水木)(flowering dogwood)([学] Cornus florida L.)= ミズキ科(APG分類:ミズキ科)の落葉高木。北アメリカ原産で、花が同属のヤマボウシに似るので、アメリカヤマボウシともいう。アメリカヤマボウシとハナミズキの名を混ぜ合わせてアメリカハナミズキという場合があるが、アメリカの名を冠する呼称は適切ではない。高さ5~12メートル。樹皮は灰黒色で縦に溝があり、小枝は緑白色または紫褐色である。葉は短い柄があって対生し、楕円(だえん)形または卵形で長さ8~15センチメートル、先は短くとがり、縁(へり)に鋸歯(きょし)はない。葉裏は白色を帯び、脈上に微毛がある。秋、美しく紅葉する。4~5月、小枝の先に頭状花序をつくり、黄緑色で小さな4弁花を集めて開く。花序の基部に白色で花弁状の大きな総包片が4枚あり、倒卵形で長さ4~5センチメートル、先はへこむ。核果は枝先に数個つき、楕円形で長さ約1.2センチメートル、先端に宿存萼(がく)があり、10月ころ深紅色に熟す。ヤマボウシのような集合果にはならない。前年の秋には、擬宝珠(ぎぼし)状のつぼみが枝に頂生する。/ カナダのオンタリオ州、アメリカのマサチューセッツ州からフロリダ州、テキサス州と、メキシコの一部に分布する。アメリカではドッグウッドと称し、バージニア州の州花になっている。日本への導入は、1912年(明治45)、当時の東京市長尾崎行雄(ゆきお)がサクラの苗木をワシントン市に寄贈した返礼として、1915年(大正4)に贈られたのが初めである。現在も、東京の都立園芸高等学校に原木が残っている。園芸品種に、総包片が淡紅色から濃紅色までの変異があるベニバナハナミズキ、果実が黄熟するキミノハナミズキ、総包片が6~8枚あるヤエハナミズキ、葉に淡黄色の斑(ふ)が入るキフハナミズキなどがある。庭園、公園に植栽される。(ニッポニカ)

● ミズキ=ミズキ科の落葉高木。北海道〜九州,東アジアの山地に広くはえる。枝は水平に広がって独得な樹形を示す。葉は互生し,広楕円形で先はとがり,弓形に曲がった7〜10対の側脈があって,裏面は白い。5〜6月,新枝の先に白色4弁の小花を多数,散房状に開く。果実は球形で秋に青黒色に熟す。材は柔らかく,器具,細工物,下駄などとされる。本州〜九州の山地にはえるクマノミズキは,葉が対生し,卵状楕円形。花は1ヵ月ほど遅く,ふつう6〜7月に開き,果実は紫黒色に熟す。(マイペディア)

 ハナミズキの仲間にトサミズキがあり、ヤマボウシがあります。これもよく見かけます。右上写真がトサミズキです。同属異種というのか、人間の種分けのようで、本来は同種だったもので、長い時間を要して、少しの違いが際立ってきたとも考えられますね。いずれにしても「五月の花」として「ハナミズキ」。時節にふさわしい印象を強く与えてくれます。また、その爽やかな印象をさらに強くするバネになったのが「一青窈・ハナミズキ」ではないでしょうか。ぼくは彼女のことはよく知りませんが、その姓「一青(ひとと)」に関心がありました。ぼくの生地の隣りの鹿島郡中能登町に地名「一青」があり、彼女の母親の出身地だったと言う。ぼくの生地は、JR七尾線の少し先の駅「能登中島」でした。ただの偶然です。それでも、彼女という存在の受け止め方に、なにがしか反映していないとも言えません。「ハナミズキ」は2004年だったかに発表されたもので、二十八歳のことでした。以来、しばしば、ぼくはその曲を耳にはしていましたが、姓である「一青」にばかり気を取られていたと思う。日本人の母と台湾出身の父。両親は彼女が成人する前に亡くなられた。(曲については一度、触れたことがありますが、再度)

「空を押し上げて 手を伸ばす君 五月のこと どうか来てほしい 水際まで来てほしい
つぼみをあげよう 庭のハナミズキ

「薄紅色の可愛い君のね 果てない夢がちゃんと 終わりますように
君と好きな人が 百年続きますように」

(「ハナミズキ」詞・hitoto you:曲・mashiko tatsurou:https://www.youtube.com/watch?v=TngUo1gDNOg&ab_channel=HitotoYoVEVO

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

 誰の言葉でしたか、「この世で花ばかりが美しい」という「科白」がぼくの記憶の襞(ひだ)にくっついています。美しいのは花ばかりではないし、人それぞれに「美しさ」も「好みの花」も異なります。同じ人にとっても、「美しさ」や「好きな花」は、時に変わることもあります。それでいいのでしょう。「花の美しさ」といったのは誰だったか。プラトンやソクラテスの哲学の核心にあった「イデア」、花々に共通している「美しさ」、それが「美しさ」の根源(イデア)なのかも知れません。どんなに美しい花も、盛りをすぎれば枯れる。でも、ぼくたちにはその「美しさ」の記憶が残る。それを、彼は「イデア」と唱えました。こんな細かいことはどちらでもいい。美しい花と花の美しさ、そのは別のものではなく、同じ現象や本質を言い表す二つの表現だと考えたほうがいいようです。名前を知らなくても「花の美しさ」を感受することは出来ます。人でも花でも、誰かの中に残される「記憶」こそが「その人」であり「あの花」なのだという気もします。(右はヤマボウシ) 

 「記憶」ということを心理学で学びました。かなり昔のことになります。今では、その当時とは様変わりした「脳科学」の隆盛期です。単なる「記憶」ということだけでも厄介な問題になっています。人名を忘れる、時間感覚が損なわれる。そういう「障害」が起こっていても、「花の美しさ」というものは記憶に留まり続けるのでしょうか。逆に、「美しい花」をも見ても、いささかの感情の揺らぎもない人もいるかもしれない。昔から「花より団子」などと申して、即物主義の旺盛さを言い当てたのかもしれない。とするなら、当節はさらに「花より団子」は変容して、「花なんかよりも金銭」だということになってしまったのかも分かりません。いやしくも「美しい花」に心が動いてやまない、そんな「みずみずしい感受性」を失いたくないですね。

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 「去る者は日に以て疎し」というが

 近所に点在する他家の庭に「コデマリ」が小さな花をいっぱいにつけて、爽やかな風に吹かれています。我が庭にも一本、いや一株だけ育っています。このところ、見ること聞くこと、ことごとく煩わしくもあり、鬱陶しくもあることばかりが多すぎる。勢い、庭先の花や木々に身も心も寄せる機会が増えるのです。もう、何日も「雑草取り」と称して、荒れ放題の庭に腰をかがめ、懶惰に託(かこ)つけて放置してきた庭の様をゆっくりと眺める。「なんとも荒れてるなあ!」と、他人事のように感心する。あれもしたいこれもしたいと思いながら、結局は、なにもしないままでいつまでも荒れるにまかせてきた。その報いでしょうか、荒れに荒れて、でも草花は時期に合わせておのれを顕わすの止めないのです。そのコデマリがあれば、同属種でないのに、オオデマリもある、といかにも安易な命名でもあるけれど、それが次第に人々の耳にも目にも馴染んでくる。奇妙といえば奇妙です。何事によらず「名は体を表す」というように、はじめは違和感があったものの、やがて「その名」でなければならぬとまでに思われてくるのも習慣というか、馴れというものの効用かも知れない。

 コデマリは放っておいてもかまわないくらいに育ちやすい木です。でも、その樹形を整えるのは以外に難しいという経験を持っています。沢山の花を付けたものを、少し離れて鑑賞する分には、人でも花でも樹木で、粗(あら)が目立たないだけに美しく可愛らしく見えますが、わずかでも近づくと、細かいところまで見えるので、なかなか面倒なことにもなります。もうじき、オオデマリが咲き、そしてアジサイが花時を迎えます。これらは、種類は異なるものの、なんとも格好が似ていて、区別がつきにくい。他人の空似ならぬ、他花の酷似ですな。いま「連続テレビ小説」では「牧野富太郎」をやっています。この手の「作り事」はまず観ないぼくです。彼の残してくれた数冊の本があれば、それで十分。なかなかの偏屈者でしたね。まるで「雑草」の勁さを持った人でした。

 小さい頃には、今思うと、自分でも不思議な気がすることを盛んにしていました。その一つです。わずかばかりの空き地に「種」を播き、草花を実らせるのが楽しみでした。きれいに咲いた花を新聞紙に包んで学校(教室)に持って行き、花瓶に活(い)けたことは何度もあります。小学校時代でも中学校時代でも。よくそんな「趣味」を持っていたと、我ながら驚きつつ思い出している。おそらく、おふくろの影響だったろう。野菜を植えたりすることも、学校に入る前からしていたように記憶している。住んだ家はどこも土地は狭かったので、おのずから山野を歩き回る癖もついたのかもしれない。これも能登中島時代からのもので、当時は、薪を拾いに年中、村の里山に入っては枯れ枝を背負って帰った。まるで「二宮金次郎」そのものだった。ぼくは歩きながら「本」は読まなかったが。田んぼと里山、村の山々、それが田舎の小さな村を囲んでいるような、野性味溢れた景観を持っていました。

 長じてからも、草花好きはつづいた。殊の外、素朴な花々を好んだ。職場の前にあった喫茶店にはよく通ってはコーヒーを楽しんだ。日に何倍も飲むほどのコーヒー党だった。ある時、我が狭い庭にたくさん咲いたユリの花を、新聞紙でくるんで、その店に持って行ったことがある。店主(女性)は驚いていた。「いいご趣味をお持ちだこと」とかなんとか言われた。すでに連れ合いは亡くされていた店主でした。つれあいさん(故人)は六大学野球(神宮球場)のスター選手だったと聞いたことがある。いまでも名を出せば多くの人は知っているような選手でした。花に纏(まつ)わる話というなら、この他にもいくつでもでてきます。それほど、何気ない仲間内という感覚で、ぼくは樹木や花々と付き合ってきたのでした。一種のストレスからの解放作用があるんですね。

 このところ、寒い日と暑い日が交互に来るような気候です。筍(たけのこ)も、掘ろうと思えばまだいけそうですが、そろそろ時期も終わりかけています。例年になく、よく食べたようだ。隣接する林から、庭にまで竹の根がが侵略してきます。いつの間に、あんなところに木が、と気づいたらタケノコだった。そんなことが今年も数回ありました。敷地は隣地より一メートル以上も高く盛り土をしているのですから、その生命力の強さには恐怖すら覚えます。庭のあちこちに竹の根が張り巡らされているような事態です。人が住まなくなれば、竹が密生するのは目に見えています。この房総半島全体の大きな課題になっているのが「竹藪問題」です。利用方法を考えているのでしょうが、なかなか効果が上がらないままです。その事情はは我が家でも同じです。孟宗竹の宝庫のような混み具合です。竹利用に関する名案はなさそうですね。

【談話室】▼▽今年は福島県出身の詩人草野心平の生誕120年に当たる。蛙(かえる)の視点で独特の世界を描いた作品で有名だが、酒と食を愛したことでも知られる。都内に開いた居酒屋「火の車」ではカウンター内で自らが包丁を握った。▼▽食にまつわる随筆も多彩だ。岩魚(いわな)のはらわたの串焼き、野バラのサンドイッチ、コケモモの塩漬け…。思い出を重ねた文章からは、贅(ぜい)を尽くすより野趣を好んだ通人の横顔が浮かぶ。中でも多く触れているのが山菜で、数ある種類からタラノメと山ウドを双璧に挙げている。▼▽1977年刊行の「酒味酒菜」では東京でも山菜を提供する飲み屋が出始めたと記し、こう続ける。「けれど東北に生(うま)れ故郷をもってる人たちは、東京では鮮度がだめになるからホントの山菜は味わえないと、これも同じようなことをいう」。東北人のささやかな優越感か。▼▽草野は前著で5月を山菜の季節と書いた。今年は芽吹きが早い。深山はこれからだとして、里山しか歩かない筆者は危うく採り頃を逃すところだった。その日のうちにご近所などに配り、残りは東京の親族へ送った。ホントの山菜を味わってほしいから割高でもクール便で。(山形新聞・2023/04/28)

 季節の花を語りたいわけではなく、それが流行りだとは思えない問題、でも、取り立ててとやかく言う筋合いではない問題に、少し足を止めて愚考してみようという魂胆です。「談話室」氏は「草野心平の生誕120年に当たる」と書かれています。察するに、この記者は草野さんのご親戚かとも思われるし、いや、ひたすら心平ファンでもあるので、区切りの生誕年・日を祝おうというおつもりなのかも知れません。よほどの方でないと、草野さんが生まれて125年だと知る気遣いもないからです。生誕と忌日(命日)をどちらも記憶しているというのは、なかなかの「仏様」思いではないでしょうか。ぼくなどのような不信心者は両親の命日も誕生日もよく知らないままで生きてきました。改まって考えれば、親父は明治四十三年生まれだから(記憶は、怪しい限りです)、誕生日から数えれば「生誕113年」となる。(誕生年も月日も忘れています。この罰当たりめ!)おふくろは大正七年(1918年)だったろうから、「生誕105年」となるのか。それにしても年齢差がありましたな、と今頃気づく始末です。この迂闊さはぼくだけのものなのかどうか。どちらにしろ、親の命日も誕生日も覚束ないことおびただしいのです。

 故人を偲ぶ方法にはいろいろな場合があり、どれか一方法で片付けられないものでしょう。仏教界では五十回忌以上を遠忌と言うそうです。親鸞聖人1200年遠忌などと、たまげるほどの仰々しさですね。そこへ行くと、「生誕500年」などは驚くに値しないのかもわかりません。「生誕百年」など、まるで赤子同然といいたくもなります。要するに、故人をお祀りし斎(いわ)う姿勢の問題ということになる。ぼくにはほとんど経験がないものだったから、大いに戸惑ったのが「生誕何年記念」という形式の集会の案内を過日、ある出版社から戴いたからでした。出欠の返事を何日までに出してほしいとありましたが、ぼくは放置していた。気がとがめたわけでもなく、昨日、その出版社にお断りの電話を入れたのです。「故人への追悼の気持ちは、ぼく一人で毎年行っています」、だから「集まって」というのはご遠慮しますと伝えたのでした。この出版社と深い関係もなく、十年前に転居した知らせも伝えていなかったのに、「どうしてぼくなんかのところにまで」と尋ねたら、担当者いわく「〇〇さんから教えていただきました」という。ありがたいと言うべきか、それとも…。

 お釈迦さんの誕生日は「4月8日」、「花祭り」という表現でぼくは記憶していました。「甘酒の日」とも。「ぶっしょう‐え ブッシャウヱ【仏生会】=〘名〙釈迦の誕生日の陰暦四月八日(現在は多く陽暦の同日)に修する法会。灌仏会。仏誕会。《季・春》」(精選版日本国語大辞典)不思議でもないのか、釈迦の生まれた日はわかっているが、生まれた年はわからないそうです。毎年の「4月8日」ばかりが盛大に祝われるのも、誰かの企みだったかな。誕生日祝は誰でもが行います。それに対して、亡くなった日について、いろいろと約束が宗教の世界ではあります。面倒でもあり、だから「儀式」というのでしょう。一般的には「忌日(きにち・いみび)」などといいます。あるいは「命日」のほうがよく知られているでしょう。何回忌というのがそれにあたります。何回忌というときの、「忌」とは「忌む」「斎み」です。汚れを慎む、精進潔斎、物忌を表していたのです。

 今日、「忌日」「命日」の受け止め方はずいぶんと俗化、軽薄化しました。それはそれでいいのですが、どうも本来の「忌」「斎」をほとんど空洞化させた「空騒ぎ」のようです。「それもまたあり」だとも思いますが、ぼくには同化・同調しがたいものがあります。「生誕何年」ならお目出度く、「没後何年」ならしめやかにというのでしょうか。よく理解できないところです。今日の「お葬式」もどんどん合理化され、形式化されていきました。企業の専断で運ばれるのは、いかにも忌まわしいという気もしないではない。「弔う」とか「「斎(いわ)う」という感情が十分に尊重されない雰囲気があって、ぼくにはこれまた違和感ばかりを覚えてしまう。人それぞれの「弔い方」「斎い方」があっても一向かまわない。でも哀悼とか追悼という感情は、それなりの要素を失ってしまえば、単なる「行事」に堕してしまうというばかりです。「何、それでいいのだ」という声も聞こえてきそうですね。

●「忌日【いみび】=行いを慎み,汚れを避ける日。忌は斎(いわい)と元来同語で,ともに神祭に心身を清める意であったが,のち祭の斎と物忌とが分離した。また陰陽道(おんみょうどう)の影響で暦に吉凶の日を定め,大安,仏滅,友引など(六曜)としたため忌日は数も多くなり複雑化した。苗日(なえび)に田植えをせず,7日,9日は旅立ちせぬなど各地に特有の忌日がある」(マイペディア)

 面倒は省きます。「人生百年時代の到来」だから「生誕百年記念」も大いに結構です。文句のつけようはない。でも没後十五年と生誕百年が重なるなら、「百年祭」にしましょうというのかもわかりません。故人を偲ぶ縁(よすが)になるなら、どちらがどうでもいいのだと言えそうです。問題は「偲び方」「悼み方」の方法・内容でしょうか。誤解されそうですが、ぼくは単純に捉えています。親しい方、お世話になった方を偲ぶのは、ぼく個人の意識や感情からの問題です。お葬式もしかりです。「祀る」「祭る」「祀り」「祭」等々、いずれも神仏を、あるいは祖先をまつることに発しています。ぼくは仏教徒ではないから、ぼく流の「祀り」をと、いつも心がけているのです。

 例によって、この駄文に結論があるわけではない。少なくとも想定されるのは「百歳誕生日」がさらに増えてくることです。だから「生誕百年」も当たり前に祝(斎)われる時代に入っているということかも知れません。ぼくの中には、ある意味では、矛盾した心情が存在しています。「去る者は日に以て疎(うと)し、生くる者は日に以て親し」(「文選―古詩十九首・一四」)(Out of sight, out of mind.)という心情です。単純に「去る者」は亡くなった人ではないし、「生くる者」は生存者のみを指すのではないと考えています。ぼくの心情においては、「生きていて、去る者」もあれば、「死して、生くる者」もあるのですね。ぼくの意識の作用次第ですが、忘恩の徒には堕ちたくないことだけを念じています。

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 酒は静かに飲むべかりけり

【小社会】また飲酒運転か 激しく焼損した車の後ろに止まる、「高知」のロゴが大きく描かれたトラック―。あの衝撃的な現場の映像は今も忘れない。まるで「高知」全体が加害者になったような。1999年、都内の東名高速道路で高知通運のトラックが飲酒運転で乗用車に追突し、女児2人が亡くなった。▼この事故は後にいろいろな轍(わだち)を残していく。一つは危険運転の厳罰化で、危険運転致死傷罪の新設につながった。一方、同社では4年後に役員の、さらに3年後には関連会社の社長の飲酒運転が発覚。重なる負のイメージに、「高知」のロゴの主(あるじ)だった県園芸連や、本県の運送業界全体が批判を受けたこともある。▼そして、4度目の不祥事である。管理職が昨年、摘発されていたことが分かった。東名事故の教訓はまたほごにされた。▼県内ではほかにも、罪深い飲酒運転が相次ぐ。酔鯨酒造の社長、県中体連理事長の中学教員…。なぜ、後を絶たないのか。お酒の怖さと言えばそれまでだが、無力感を最も感じているのは東名事故の遺族の両親かもしれない。▼両親は事故後、飲酒運転の撲滅活動に身を投じてきた。「力が抜ける思い」。今回の一件にそう応じた心中を察する。あなたたちの活動で防げた事例もあるはず、とでも言えば、少しは支えになるだろうか。▼大型連休が近づき人々は開放的になる。コロナ禍が明ければ、酒席も増えよう。酒の国土佐。その悪癖も自覚せねば。(高知新聞Plus・2023/04/28)

「高知さんさんテレビ】高知市の運送会社高知通運の管理職だった男性が去年飲酒運転で摘発されていたことが分かりました。高知通運は過去に社員が、東名高速で女の子2人を死亡させた飲酒事故を起こしています。 高知市の高知通運は、1999年東名高速道で大型トラックのドライバーが飲酒運転による事故を起こし、幼い女の子2人が亡くなりました。 会社によりますと去年7月、管理職の男性社員が高知市で酒を飲んだ後、運転しているところを摘発されました。男性はその事を知らせず直後に自主退職しましたが、今月(4月)に入って外部から会社に指摘があり、本人に確認したところ事実を認めたため、諭旨解雇処分としました。 高知通運では、2003年に役員による飲酒事故、2006年には関連会社の社長による飲酒運転が発覚しています。今回飲酒運転した管理職の男性は、東名高速の事故当時から在籍していて、高知通運の曽志崎雅也社長は「社を挙げて飲酒運転の根絶に取り組んできたがこのような事態になって責任を痛感している」としています。(2023/04/27)

 このとんでもない自動車事故が発生して、すでに二十三年以上が経過しました。犠牲になった、二人の幼い子どもたちは、立派に成人した人生を刻んできました。それにしても、このあり得ないような飲酒運転の歴史がこの「高知通運」には刻まれていたと言うべきでしょう。小さなきっかけがあって、この東名高速道路で大きな事故に遭遇した井上さんご夫妻と知り合いになった。今もなお、かろうじて付き合いは続いています。お二人のことは、一年のうちに何度も記憶に上る。それだけ、悪質な飲酒運転が絶えないし、飲酒運転による死亡事故等がなくならないからでしょう。交通事故が起こり、報道されるたびに井上さんお二人の活動と、その後の姿が思い浮かんできます。一時期、一家はオーストラリアに住まわれていました。数年前に帰国し、現在は都下三鷹市に住まわれていると聞いています。ここで、「危険運転致死傷罪」新設に奔走された井上さんたちの活動には触れません。それ以前の「酒酔い運転」による死亡事故は、ほとんど「微罪」とでも言う他ない扱われ方をしてきました。飲酒には、誠に寛容な国柄だったと言うべきか。

 ぼく自身も、半世紀以上もハンドルを握り、まったくの偶然で事故を起こしたことはなかったが、交通違反で反則金を課されたことは一度や二度ではなかった。ある時期から、まるで模範運転手のような振る舞いを身に着けたのか、この三十年、あるいはそれ以上の期間、無事故無違反でした。自慢なんかではなく、当たり前に細心の注意を払って運転することに専心したからでしょう。近年、ある時期までの年間自動車事故死者数から比較すれば、驚異的な減少を見せてはいますが、しかし、危険運転致死傷罪を適用されるような事故はけっして減少してはいません。刑法に「人を殺してはいけない」と書かれてはいない。だから殺しても構わないとはならないのは言うまでもない。そこまで書かなければ人間は手に負えない存在なのか、殺人行為を犯さない程度の「善性」は持っているという前提があったのです。しかしどうでしょうか。法律に書かれていないから、何をしてもかまわないのではない。「酒を飲むな」、とは言わない。だが、「飲んだら、乗るな」と。他者や法律で示されなければ、それをやってしまうという「人間の弱さ」を思い知るばかりです。

 高知の会社は、全社挙げて「飲酒運転」に取り組んでいたのでしょうか。つねづね思うことがあります。野球やサッカーのプロ選手が、飲酒しながらグランドやピッチに出るでしょうか。毎日のように車に乗っていて、いつも気になるのがダンプなどの大型車の運転手ののべつの「法律違反」です。「プロなんだろ?」といいたくなる。一旦停止はしない、通行禁止道路を走行する、携帯を使いながらの運転などなど、もちろん素人もそれをするが、ぼくのいいたいのは「職業人」であるなら、その程度のことは自己管理しなければ…、そんな思いが募るのです。あらゆる方面での「職業人意識」が劣化していることを知らされる。高知新聞が書いている記事と同じ紙面に「教員の飲酒運転」が報道されていました。素人がプロ並みになり、プロが素人程度に堕落している、この社会の現状は、けっして看過できない事態に陥っていると考えてしまう。(飲酒運転の死亡事故は、飲酒していない場合の八倍の確率になるという。↑ のグラフ)(飲酒運転の件数はずいぶん減少しているからと、安心しがちでが、そこに錯覚があるんですね。減ればいいのではなく、ゼロにならなければ、話にならないと言うべきでしょう)

 土佐は「酒飲みの土地」と言われてきました。あの坂本龍馬はあまり酒は飲めなかったとされますが、それでも一升や二升は飲んだと言う。今はどうか知りませんが、かなり前まで高知市内の飲み屋で「仲居さん募集。年齢学歴不問。ただし、一升以上飲める方」なる募集の張り紙が出ていたと聞いたことがあります。別に、酒好きは土佐に限らず、到るところに「飲兵衛」はいるものです。ぼくも十年ほど前までは飲兵衛の序の口くらいではありましたから、酒の旨さは舌が覚えています。だから、その旨い酒を、突然の事故などで「不本意」に断たれないためにも「飲んだら、乗るな」を徹底してきた。焼き芋だの、羊羹なら、いくらお腹に入れても酔っ払うことはない。要するに、自制心の問題でしょう。

 自己制御、これは早い段階からの道徳教育の眼目です。それが出来ていないままで「大人」になってしまったなら、残念だけれど、外的な力で、矯正・強制しなければならないのです。厳罰罪の施行以前、飲酒運転で何人殺傷しようが、せいぜい「懲役五年」程度であったのは、どうしてかも合わせて考えてみたい。いまは、場合によりますが「死刑」「無期懲役」もある。つくづく、人間というのは愚かだし、脆(もろ)いと痛感する。その「愚かさ」と「脆さ」を、まちがいなく、ぼくも持っているということを忘れたくない。

 ・白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり(牧水)

(牧水を好きな人は多いですね。ぼくの知人にも短歌をされる人が何人かいます。そして「牧水賞」受賞者もおられます。牧水は宮崎の人でした。こよなく酒を愛した歌人でしたが、そのためもあって、彼は四十四歳だったかで早逝しました)(牧水や山頭火は、車社会ではない時代に生き死にした歌人でした。ひたすら「歩いた」んですね。「歩いていて運送業ができるか」という啖呵が飛んできそうですが、だったら「飲むな」「飲んだら、乗るな」でなければ)(牧水のお嬢さんいわく、「父の酒は静かなものでした」)

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 白い艶を放して田打櫻の咲く見事さ

【正平調】新聞社を定年退職し、故郷の四国に帰って農業にたずさわる友人から季節の便りが届いた。一足早く田植えを終え、2週間ぶりの休日を過ごしているそう。添えられた水田の写真に「お疲れさま」とねぎらいの言葉をかける◆遠く青森生まれの詩人、福士幸次郎が「早春の花」に「田(た)打桜(うちざくら)」のことを書いている。それはコブシの花で〈丁度この花の咲くあたりから、百姓は烈(はげ)しく働き出し〉とある。なるほど清楚(せいそ)な白い花は北国の春の始動にふさわしい◆朝刊の地域版を繰り兵庫の春を彩る花の話題を楽しむ。シバザクラにボタン。深紅の花が緑に映えるヒマラヤシャクナゲ。養父市の市花のミズバショウも見頃を迎えた◆神戸では、ブラジルの国花「イペ」の黄色い花が元町の通りを明るく染める。かつて丘の上の移住センターから波止場へ、ブラジルに渡る人たちが巡った道だ◆明日からはチューリップの花を使って絵を描く「インフィオラータこうべ」が市内で始まる。昨年は中学生が描いたハトの絵や「平和」の2文字が共感を呼んだ◆ウクライナにスーダン。世界各地で反戦歌「花はどこへ行った」で歌われる光景が広がる。〈いつになったら、人は愚かさに気付くの?〉。静かに語りかけてくる花のメッセージに耳を澄ます。(神戸新聞NEXT・2023/04/21)

 このコラム「正平調」に目が止まらなければ、最北の詩人の記憶は眠ったままだったろう。記憶の底に堆積しているが、再び引き上げられる気遣いのない人物だったかもしれないのです。だから、コラム漁りは止められない。田打櫻とは言い得て妙、ですね。人口に膾炙(かいしゃ)した「北国の春」にも、「コブシ」が謳われています。この花は、拙宅の近辺ではすっかり盛りを過ぎましたが、散歩道のあちこちにあり、まるで田舎世界の「ランドマーク」のように、そそり立つ風情が、いかにも堂々としていて、見るからに、心に落ち着きを与えてくれます。そこが「ソメイヨシノ」とはまったく違うところ。桜を観ると、人は気狂(きぐる)いを起こしかねないような心境になるのでしょうか。「花見」といえば「桜」、「観桜」、それもほとんどが「ソメイヨシノ」でしかありませんでした。この「辛夷(こぶし)」の花見とはあまり聞いたことがない。「こぶし」は「モクレン科」とされます。この花(シモクレン)(左上)の「紫」も豊かな色合いに染められていて、ぼくはとても好んでいる)

 ぼくの垂れ流す「駄文」は、ぼくは確実に年令を重ねた、その老齢の証である、剥落する記憶力を拾い集めるため、いやそれはもう取り返しは出来ませんね、でも落としそびれた何がしかの無用の散り花があるとすれば、ぼくにとっては物怪(もっけ)の幸い、他人様には無用・無意味な徒花(あだばな)をこそ、ぼくは、この年齢になって大切にしたいと、心底実感するものです。悪文、拙文、無用の雑文ではありますが、綴ることにこそ、ぼくは確かな手応えを感じ取っているのです。つまりは、今のところは、「テニヲハ」を忘却してはいないと、まるで、やれるはずもない大量の宿題を課された小学生の心境にあります。文が書けるというのは、ぼくにはなかなか至難の業でした、今も昔も。(右写真は「ハクモクレン」)

 断るまでもなく、これは書き下ろしではなく、書き殴り、垂れ流しの「牛の涎(よだれ)」です。牛は咀嚼し、咀嚼する生き物ですが、ぼくは咀嚼なんかしないで、吐き出すばかりの恥知らずです。咀嚼知らずを何年か続けて、もしまだ幾ばくかの元気が残されているなら、文章を書くというのは、あるいは推敲するとは、かかることを申すのだという、そんな文章を書いてみたいというのが初期の願いでしたが、どうやら。咀嚼なしでしか、綴れないことが歴然とする日々の垂れ流しです。とにかく、読んでくださる方々には「悪しからず」と、お断りをここで再言する次第であります。

 「早春の花」、「田打櫻」である「辛夷」、なんとも難しい漢字を当てたものです。「しんい」と読む。「辛」はからい、つらい、「夷」は「い」「えびす」と読み、懲らしめる、平らげるという含意があります。この名を生んだ理由はなにか。「しんい」とは漢方における呼び名で、鼻の病に効くとされた「鼻薬」です。「辛い鼻の症状を平らげる」といったことだったか。また「田打櫻」の他に「田植え桜」「種まき桜」「芋植え花」などなど、農作業における、仕事開始の印(サイン)でもあったことが伺われます。各地に残る「雪溶けの山容」(駒ヶ根とか駒ケ岳とか)に同じ「暦の用」をなしていたのです。

 「雜木林をチヨビチヨビ並べて一と筋につらなる村々の低空(ひくぞら)に、遠眼にもてらてらと白いを放して田打櫻の咲く見事さは、奧の日本を未だ知らぬ人には想像がつくまい。それは今も蝦夷の凄涼な俤を殘す此處いらの娘の齒のやうに、淨(きよら)かに白くかがやくのである」とある、それは何を指しているのでしょうか。「蝦夷(えぞ)」の後裔たちである娘らの「清らかに輝く白い歯」を思わせる、それが「田打櫻」だというのでしょうか。

「早春の花」

 融雪期が進行していつて其の遠い果てが海まで續くひろびろとした津輕平野で、去年の枯草と今年の新らしい黒い土とが春の日光を浴びる時、またこの平野を圍む山腹のそちこちの澤や、谷が薄い靄を棚引かせて、その奧に山肌の荒い(ひだ)を藍色におぼめかせるとき、わが郷土の農村の空はコブシの花で飾られる。
 コブシはこの地方では普通田打櫻(たうちざくら)と言ひならして居る。丁度この花の咲くあたりから、百姓は烈しく働き出し、岩木川沿岸のひろびろとした平野では到るところ田打ちを始めるからである。
 雜木林をチヨビチヨビ並べて一と筋につらなる村々の低空(ひくぞら)に、遠眼にもてらてらと白いを放して田打櫻の咲く見事さは、奧の日本を未だ知らぬ人には想像がつくまい。それは今も蝦夷の凄涼な俤を殘す此處いらの娘の齒のやうに、淨(きよら)かに白くかがやくのである。      (「日本現代文學全集 54」所収・講談社 1966年刊)

● 福士幸次郎(ふくしこうじろう)(1889―1946)= 詩人。青森県弘前(ひろさき)に生まれる。国民英学会卒業。1909年(明治42)、人見東明(とうめい)の推薦で『自然と印象』第八集に『錘(おもり)』などの詩を発表。以後『創作』『新文芸』『スバル』などに寄稿。12年(大正1)、千家元麿(せんげもとまろ)らと『テラコツタ』、翌年には『生活』を創刊した。詩集『太陽の子』(1914)、『展望』(1920)で人道主義風な生命の歌を平易な口語体で書いた。『日本音数律論』(1930)、『原日本考』(1942)などの特色のある研究評論書もある。(ニッポニカ) 

 詩人は若干十六歳で上京し、佐藤紅緑方に奇遇。息子のハチローとは終生交友を結んだ。余談ですが、このサトウハチローさん(右写真)とは、袖擦り合うも他生の縁というなら、ぼくが上京し、しばらく住んだ本郷の隣町、文京区千駄木だったかにサトウさん住まわれていた。その孫に当たる男の子とぼくの従姉妹が同級生で友達だったこともあり、しばしば、その「お爺さん」と会ったと言うだけ。また、この青森の詩人は最晩年は千葉県館山の兄の家に住み、病を癒していたが、ついにその地にて死去。戦後一年目のこと、五十六歳でした。(弘前市HP:https://www.city.hirosaki.aomori.jp/bungakukan/2014-1211-1219-71.html)

 話が乱れています。「コブシ」にまつわる記憶なら、数限りなくあるというお粗末でした。本日の「正平調」にはたくさんの花々が登場しています。「花のある暮らし」などと言われ、いかにも清々しい気分が尊ばれるのも故なしとしません。生活に花、それはある種の「ゆとり」「豊かさ」のもたらす心持ちでもあるでしょう。ぼくはこれまでも、今も、かつかつの生活を送っています。金銭的には余裕のないことおびただしいのですが、気持ちだけは「ゆったり」、そんな気概を失いたくないのです。だから、どんなものにせよ、花となれば、我が所有にすることは微塵もなくて、ひたすらそれを探し求めるという「彷徨」感覚を尊重してきました。散歩に出かけるのは、さまざまな季節の花に出会うためであり、その花によって季節の転変を感じ取れると思うからです。

 これまでにもよく方々を散歩(彷徨)してきました。木々や花々、それらが目に入るという偶然の幸福を楽しむためでもあります。中には、通行人に「どうぞ、御覧ください」というかのように、開放的なお庭を持つ方々もおられました。(滅多にはなかったが)その反対も、言わずもがな。「観てはならぬ」と睨みつけるような、そんな御仁が「花好き」であるものかと思いたくもなります。

 シバザクラ、シャクナゲ、ボタン、ハナミズキなどと、それぞれの花々に、大袈裟に言うなら、ぼくの「古往今来」の記憶の花園に咲き乱れていた、大小さまざまな想い出が蘇ります。もちろん嬉しいこと楽しいことばかりでないのは言うまでもありません。思い出すのも嫌な、そんな事ごともいくつもありました。でも、それだけなら、そんな記憶に結び付けられた花が迷惑するもので、同じ花でも記憶の中では「喜怒哀楽交々」と言っておくばかりです。切り花は好まない。つまりは「生花(いけばな)」という「芸術」ですか、あまり理解できません。切ったり張ったりと、生き物を切り刻むのが「芸術ですか」と、ときには叫びたくもなる。自然環境にかなった、目に見えない「額縁」を掛けるのはいいでしょうが、それを床の間やショしょううぃんに飾るのは、ぼくにはない趣味ですね。その多くは「私有欲」に発するんでしょうね。

 花々と同じように、ぼくの単純な細胞は「歌」に惹きつけられ、そのメロディの調べに沿って「記憶の貯蔵庫」が据え付けられています。学校の音楽の授業は、すべてが「忘却の彼方」に消えましたが、不思議に唱歌や童謡ばかりは生き続けています。ある時、何人かの方に指摘されましたが、「唱歌や歌謡曲が好きなんですか?」と。「大好き」と言うばかりです。若い頃には、明治以降の「小学校唱歌」の沿革来歴や、個々の作品の成り立ち過程を熱心に調べたことがありました。それが戦時中には大きく「戦意高揚」の行進曲風に換えさせられたという嫌な歴史も刻まれていました。そして、戦後、「戦意高揚」「国威発揚」に貢献し助太刀したことなど、すっかり忘れ去って、またぞろ「学び舎の灯火」を続けてきたのが唱歌でした。ぼくが、唱歌を偏愛するのは、そこに謳われた「景観」「景物」「景色」「遠景」「背景」「借景」「叙景」「情景」などなど、少なくとも謳って心がなごむような、この島社会の「在りし日の人間の生活」を実感できるからです。今でも、親しくその景色を探し求めていると言っても過言ではありません。

 ぼくにすれば、唱歌は「敷島の歴史」でもあるということです。歌の中に「歴史性」「人間の暮らし」が感じられなければ、ぼくには実に軽薄空虚の作り事に思われてきます。歌謡曲も好きですが、理由は同じです。「涙」「恋」「別れ」などなど、個々の人間には大切な感情が謳われているとしても、そこに歴史や暮らしが刻まれていなければ、ぼくには、気安く近づけないんですね。(本日は、昨日にもまして「駄文」のレベルが嵩じているようです)(最近はまっているのが「赤いスイートピー」です。なんと、これが「ドラえもん」の挿入歌だった。それでぼくは知っていた。「心に春がきた日は 赤いスイトピー」です。そして、もうじき咲き出しますね、「ハナミズキ」、「君と好きな人が 百年続きますように」)

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 想えば遠くへ来たもんだ、と言うけれど

【水や空】背中の景色 湖に浮かべたボートをこぐように人は後ろ向きに未来へ入る。フランスの詩人バレリーの言葉という。ボートをこぐ人が見るのは通り過ぎた風景ばかりで、ボートが向かう先、未来の景色は見えていない▲詩人の言葉ほど格調高くはないが、先は読めないものだとつくづく思う。マスク着用は人それぞれの判断で-という時が来たが、今更ながら個人的な「マスク問題」に突き当たる。コロナ禍の初めに買った数箱が今も自宅の隅に眠ったままで、すっかり持て余している▲その頃はマスク不足で、店先で見つけては手に入れていたが、着けていると耳が痛くなる。やがて掛けひもが柔らかいマスクが登場し、先に買った分は出番を失う…▲「不足」のはずが、3年後には「余剰」の物と化す。背中の未来はまるで見えていなかった▲振り返れば、全世帯に配られた「アベノマスク」は大量に余り、政府は処分に手を焼いた。3年前、大阪市長が医療現場で不足する防護服の代わりに雨がっぱを募ったが、集まりすぎて持て余した。はやる気持ち、勇み足は時に「余剰」を生む▲3年前、手作りマスクを地域のお年寄りに配る動きが盛んだった。雨がっぱもそうだが、不足は「余剰」だけでなく「心遣い」も呼び寄せた。小舟から見た美しい景色をいま一度、思い起こす。(徹)(長崎新聞・2023/03/16)

 

 「呼び水」という。ぼくはしばしば、それを、有形無形のかたちで使います。いくつかの解釈(説明)がありますが、辞書には次のように出ています。「 1 ポンプの水が出ないとき、またはポンプで揚水するとき、水を導くために外部から入れてポンプ胴内に満たす水。誘い水。 ある事柄をひきおこす、きっかけ。誘い水。「不用意な発言が議会混乱の―となる」 漬物の漬け水の上がり方をよくするために加える塩水」(デジタル大辞泉)もちろん、もともとは、水くみポンプなどの用水不足を補うために上から注入される水のことです。このポンプは、今ではすっかり見られなくなったようですが、とてもおもしろい機械仕掛けのもので、幼い頃には拙宅でも、井戸水と共用で、手押しポンプを使っていました。

 その「呼び水」です。もう何年も、ほぼ毎日、ぼくは地方紙を含めた新聞の「コラム」に目を通してきました。理由は単純です。書かれている内容に刺激を受けたいという、その一存です。何十人の記者がいくつかのテーマについて、その知性を傾けるのですから、ぼくのようなやわな精神でも、どこかしらから大いなる「刺激」や「啓発」を受けるのは当たり前ということでしょう。いくらポンプの柄を上下したところで、一向に水が上に揚がってこないことがあるように、ぼくの渇水状態の脳細胞も、そのままではうんともすんとも反応しないとうことが年柄年中あります。そんなときに、格好の刺激剤として、知的な「呼び水」として、各紙のコラムを使わせてもらうという段取りです。もちろん、ひたすら読むだけというのがいいのですが、駄文を綴ることに、脳細胞(記憶力)の鈍化と老化を同時に防止しようという欲張った願いがあってことですから、まるで向こう見ずの暴挙ともいえます。

 本日のコラムの中で、ぼくの脳細胞への「呼び水)」となったのは固有名詞です。「バレリー」。それこそ、大学入学の頃から三十前まで、わからなくても読んだ。時には歯がたたないことを百も承知で、フランス語で読もうとさえした。無謀とはこのことでした。邦訳されているものはほとんど読んだと思う。当時(今も、か)フランス書籍の輸入元も兼ねていた「白水社」という出版社が都内神田にあり、間を置かずにそこに出かけていっては、読めもしないのになんやかやと物色していました。(ヴァレリーと表記していたので、そのままに使います)おそらく、一種の「知識人カブレ」「ジンマシン」が、当時のぼくには起こっていたのかもしれません。この本は誰それが読んでおられたとか、アンリ・ゲオンの「モーツアルト」は誰々が買われていきましたと、その時代の高名な学者や文人の名前が本屋の社員から次々に出てきました。そのカブレは、それ程長くは続かなかった。ぼくはやがて、日本の「歴史」「文化史」に興味や関心を移したからでした。その張本人は柳田國男さんだった。

 ぼくは、一時期、ヴァレリーを暇にあかせて読んでいました。何がわかったか、今から考えてもとても怪しい。しかし、読んだ(つもり)という事実ばかりは残った。ぼくは修士論文のタイトルを「ジャン・ジャック・ルッソオの方法への序説」としたが、それはヴァレリーの「レオナルド・ダ・ビンチの方法への序説」からの剽窃だった。ぼくの論文の内容はお粗末で、話にはならないものだったが、ルッソオをひたすら読んだという経験には満たされるものがあった言っておきます。コラム氏が書かれている「湖に浮かべたボートをこぐように人は後ろ向きに未来へ入る」という表現は、ヴァレリーの何という本に出てくるか、まったく記憶にない。しかしヴァレリーなら、そんな言い方をするだろうとは思う。ボートを漕ぐ人は進行方向に背を向けている。しかし、過ぎゆく景色は手にとるようにわかる。それが「生きる」ということじゃないですかと言ったのかもわかりません。

 大きな視点で「歴史」を見れば、ある事柄をすでに経験してしまった人もいれば、今経験中の人もいる。これから経験しようとするものもいます。世代間の経験の違いと言えるかもしれず、時代の違いであるとも言えそうです。本当にしばしば、今から三十年ほど前、ぼくの先輩(二十歳以上も年上の人)たちはさかんに「まるで、時代(今)は戦前のようだ」と話されていた。戦時経験をされた方々だったから、時代感覚を直感していたに違いありません。しかし,若輩のぼくは「そんな事があるものか」という反発・反感のようなものを抱いていました。今から見れば、ぼくの「鈍感」「愚かさ」の証明になるのですが、「戦時」の未経験者は、後ろ向きに漕ぐボートの上から、よそ見をしていたに違いない。あるいは後ろ向きになっていたのかも。だから「年寄は」というふうには感じたことはなかったが、「まるで、戦前のようだ」という景色にお目にかかったことがなかったものにとって、過ぎ去る前景の中に「歴史」、これからぼくたちが生きていく「歴史」が遠く近く見えていたはずだったのだと、今になって思い知る。そんな愚かな経験から、ぼくは「今は、新たな戦前なのだ」という地点に立つようになったのです。

 「ボートをこぐ人が見るのは通り過ぎた風景ばかりで、ボートが向かう先、未来の景色は見えていない」とヴァレリーに倣って、記者がいうのでしょうか。「過去」にあるのは過ぎ去ったことばかりであるのは、そのとおりです。でも、その「過ぎ去ったこと」の中に「現在」も「未来」もあるとは考えられないのでしょう。「現在」というのは「過去と未来の逢着の場(接点)」です。過去と未来が相接する瞬間、それが「現在」だとは考えられないのはどうしてでしょう。「現在」という一瞬の時の場は「永遠」でもあると、どこかでヴァレリー言っていそうです。「時は永遠の鏡である」といったのはアランでした。アランという思想家もまた、過ぎ去る景色の中に現在や未来を見通していた人だったと、ぼくは懐かしく思い出します。

 若さに任せて、無駄な時間を随分と読書に費やしたという気がします。ヴァレリーを読むというのはその典型ではなかったか。格好よく言うなら、一種の「青春の彷徨」だった。でも「彷徨」は青春時代の専売ではなかったことは、その後の人生が示しています。成年の放浪もあり、熟年の彷徨もあったでしょう。それが今では、老年の放浪、いや老人の徘徊ですね。自分がどこに向かっているのか、さっぱりわからないのです。前を向いているのか、後ろを向いているのかさえも判然としない。まさに、過去と未来が渾然一体となっている「現在」に深沈しているのではないかと、われながら愚かしい感想を抱いている。昨日も触れました、渡辺一夫さんにもヴァレリーに関しての文章がいくつもあったと記憶している。独特の諧謔と皮肉を重ねたかでの「人生の真贋」を語られていました。「寛容は不寛容に対して、寛容でありえるか」などという問い掛けをされたこともあった。「敗戦日記」を熟読したことがもります。時代の悪に対して、あるいは政治の愚かさに対して、痛烈な言葉の礫が飛び交っていました。また、「狂気」についてというエッセーもありました。いずれもヴァレリーに連なる趣のものだったという印象が残っています。

 本日は「呼び水」の一例を示したもので、「アベノマスク」や「大阪の雨合羽」にはいささかの興味もありません。呼び水に使う水はどこから来ているのか、考えてみれば、組み上げる水は地下水であり、それはいたるところから集まっているもので、なんとも不可思議な感に襲われます。いろいろな水は混合されており、あるいは「海水」のごとく、西洋と東洋も一つながりであるのかもしれないという気もしてきます。まあ、一種の「幻想」ではありますが。だから、この年になるまで、随分遠くまで歩いてきたものだという感想を持ちますが、いや、実は生まれてこの方、ほとんど居場所は変わっていないという気もしてくるのです。

● バレリー(Paul Valéry)(1871―1945)= フランスの詩人,評論家,思想家。地中海の港町セート生れ。マラルメの門下に入る。創作の意識的方法論を述べた評論《レオナルド・ダ・ビンチの方法への序説》と小説《テスト氏との一夜》(1896年)を発表後,突然筆を捨て深い思索生活に沈潜する。1917年女性の夢から目ざめへの意識を歌った長詩《若きパルク》を発表,詩集《魅惑》に収められた詩がこれに続き,象徴主義の最後を飾る大詩人とうたわれる。1925年アカデミー会員となり,ヨーロッパ各地で講演,フランスの知性を代表する存在となる。文学,哲学,政治などにわたる分析的精神に貫かれた文芸批評を書き,これが《バリエテ》5巻となる。その他未完の遺作の戯曲《わがファウスト》,生涯書き続けられた覚書《カイエ》など。ド・ゴール政府により国葬。(ニッポニカ)

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 「鎮魂」を掻き消す、暴力と闘った十二年

【日報抄】3月11日 東日本大震災が発生した3月11日の午後2時46分、東北では震災時と同じサイレンを鳴らす自治体がある。あの日の記憶を忘れず、命を落とした人の冥福を祈る趣旨だ。一方で、当時に引き戻されるような気持ちになり、いたたまれないと耳をふさぐ遺族もいる▼先日の本紙おとなプラスが、そんな人々の思いを伝えていた。ある女性は小学生だった息子を亡くした。津波を知らせるサイレンは怖かっただろうと推し量る。その場面に自分が入り込む感覚になるのが苦しく、当日は寺にこもって念仏を唱えるという▼女性にとってサイレンは「死へのカウントダウン」のように聞こえる。別の女性も音を聞かないよう努めており「周囲との温度差を感じるのも嫌」と打ち明ける。音が響き渡る前は身構えてしまうという人や、トイレに駆け込んでやり過ごした人もいたようだ▼空襲犠牲者の鎮魂の思いが込められた長岡花火にも複雑な思いを抱く人がいた。火の海の中を逃げ回る中で娘を亡くした女性は、花火の意義に理解を示しつつも「空襲を思い出すから苦手」と話していた▼花火の音と光は焼夷(しょうい)弾のそれにそっくりだという。作家で旧制長岡中学出身の半藤一利さんも東京大空襲で九死に一生を得たことから「どうしても空襲を思い出してしまう」と花火嫌いを公言してはばからなかった▼鎮魂のサイレンや花火に込められた思いは真摯(しんし)なものだ。ただ、そんな音などを苦痛に思う人がいることも忘れずにいたい。大震災から12年である。(新潟日報デジタルプラス・2023/3/11)

 【天風録】ホープツーリズム 時が止まっているかのようだった。事故を起こした東京電力福島第1原発がある福島県双葉町を貸自転車で回った。新しい駅舎や役場があるJR双葉駅前を抜けると崩れかけた民家や商店が残る。干したままの洗濯物が窓越しに見える。すぐ戻れると思ったのか▲事故で町民全てが地元を追われ、昨夏やっと一部区域で避難指示が解除された。戻ったのはまだ60人ほど。ほとんどが高齢者で、できたばかりの公営住宅はひっそりとしていた。避難先で生活を立て直した現役世代の帰還はどれだけ進むのだろうか▲「ホープツーリズム」という言葉を現地で何度か耳にした。福島県全体で7年前に始まり、参加者が増えている。「ダークツーリズム」と呼ばれる被災地の旅に前向きな響きをもたらす▲各地の伝承館や災害遺構を巡り、古里の再生に携わる人々との対話を通じて希望を感じてもらう趣向だ。沿岸部は地震、津波、原発事故の複合災害に見舞われた。復興の道は険しく全国からの後押しはなお欠かせない▲東日本大震災から12年。干支(えと)が一回りし、人々の記憶は薄れる。現地に足を運んでこそ見えてくる課題がある。その一歩が被災者の希望につながればいい。(中国新聞デジタル・2023/03/11)

 原子炉爆発の映像を目の当たりにして、人々は何を感じたでしょうか。このことはもう、何度も書いたことです。地震発生の直後、影響の及ぶ範囲のあまりの巨大さに驚愕を覚えつつ、ぼくは自宅二階の書棚を抑えつつ、瞬間的に福島発電所の原子炉のことを考えていました。あんなにおびただしい数の配管や配線が張り巡らされているのだから、どこかが破損しないはずはないという思いからでした。案の定、という以上にすごい爆発が続き、数日経って、はじめて事態の深刻さ、事件の重大さ、身に及ぶ危機の恐怖に、ようやく多くの人々が気づき出したのです。 

 当時はまだ勤め人の身分でしたから、在学生の安全の確認や、入学予定者の安否の確認で数日間は電話にかかりきりでした。被害に襲われた地域出身の学生たちの確認のための、さまざまな支援も合わせて進めていた。もう十二年が過ぎたというのは事実ですが、ある場面では、また、ある人々にとっては「時計は止まったまま」だともいえます。爆発直後の福島に一歩足を踏み入れただけでしたが、この先の「復興」が思いやられるという思いが、強くぼくの心中に刻印された。

 昨日も書きました。「喉元すぎれば熱さを忘れる」ということだったと思う。あんなことは二度と起こらないし、起こったところで、「あの程度」という高の括りかたが、官・民に蔓延しているのではないですか。もちろん官が誘導するからこそ、民が靡(なび)くだけなのですが。ぼくの実感では、「喉元」さえ過ぎていなかったという、度し難い態度が、官界・産業界にありありと見えます。おそらく核戦争が起ころうとも、「核シェルター」がすでに用意されているのではないか。そこに入れば、しばらく(ほとぼりが冷めるまで)は大丈夫という、天をも畏れぬ態度が伺えるからです。原発はもうゴメンだといったところで、死なばもろともという道行なのです。でも「小悪も大悪」も足掻きに足掻く、とことん足掻くのですね。この島の「為政者」は数万年という稀有の時間を視野のうちに入れているかのごとき、振る舞いを見せています。どんなに長く生きたところで、数十年のものではないかと、どうして思い及ばないのか。人生のある時期に「一瞬の煌き」があれば、大満足という輩が跋扈しているというほかありません。(以下の表は東京新聞・2021年3月11日)「福島事故から10年 世界の原発は微増」(https://www.tokyo-np.co.jp/article/90743

 既存の原子力発電所が戦争の道具になっている、ロシアの戦争を見るまでもないでしょう。ミサイルとまったく同じ攻撃武器として、ロシアはその原発の威力・暴力性を最高度に弄んでいるのです。核ミサイルは攻撃用としては強力な武器になる。しかし、原子炉に固定されている「原子核」は攻撃の的にはなっても、それをもって反転攻勢に出る訳にはいかない。この小さな島国に運転休止中も含めて「五十四基」の原子炉があるということは、何を示していますか。馬鹿な総理に聞くだけ野暮かもしれない。ドローンが一基、どこからか飛んでくるだけで、この島社会は息を呑むしかないのです。核の亡者たちは、脅迫に晒されることを願っている、そういうことでしょう。死ねばもろとも、というなかれ。

 以下、あくまでも余談ですよ。 牧村三枝子さんが歌った曲に「道連れ」がありました。好きな人といっしょなら、「道連れ」もなくはないと思うけれど。無能な政治家や欲ボケの産業人と「道連れ」は金輪際、御免被っておく、こんなことをもう、ぼくは半世紀以上もいい続けています。能がないこともまた、おびただしいナ。「原発は安全だ」と言い張るなら、都内の永田町や霞が関に作って呉れとも言ってきました。東電本社も近いし。冷却水には、東京湾の海水があるじゃないか、と。「永田町に原発を」、そのための徒党さえも作ろうとしました。(言うまでもなく馬鹿臭いので、それは止めましたが)              (*牧村三枝子「道連れ」:https://www.youtube.com/watch?v=5AkzZb_7rIU&ab_channel

 とまれ、本日は「福島原子炉爆発」から十二年目です。十年一日というのはどういうことでしょうか。十年変わらないのは、原発政策なんですか。あるいは、「原発安全神話」の垂れ流しですか。無辜の民の多くの死を強いておきながら、あるいは、住民や関係者の生活や人生を破壊するような事故を起こしておきながら、原発は「安全である」と嘯(うそぶ)く、「無神経」とは、どんな「神経」なのか。ぼくの体内にもあるものなのでしょうか。

 そして、この十二年の歳月は直接間接の被害を受けてなお生き延びた無数の人民の「亡き人ひと」に対する時々の「鎮魂」の想いを政治暴力によって無にしてきた歳月でもあったのです。だからこそ、人命を軽んじ壟断する暴力には断じて魂を明け渡すわけにはいかないと、自らに誓い続ける十二年であり、新たな誓いの旅の一歩を記す「一日」でもあるのです。

 *参考 ロシア、ザポリージャ原発を「核の盾」に 地元市長インタビュー(写真は「ウクライナ・ザポリージャ原発に入っていくロシアの軍用車両」(2022年5月1日撮影)。(c)Andrey BORODULIN / AFP  【3月11日 AFP】ウクライナ・ザポリージャ(Zaporizhzhia)原子力発電所はもはや電力を生み出しておらず、ロシアの軍事基地に成り下がってしまった──。地元エネルホダル(Energodar)のドミトロ・オルロフ(Dmytro Orlov)市長(37)はAFPのインタビューで、こう嘆いた。/ ウクライナ南東部の同原発をロシア軍が占領したのは昨年3月4日。軍事侵攻開始後、まだわずかしかたっていなかった。/ 国際原子力機関(IAEA)は、原発周辺が攻撃されている点を懸念。安全区域の設定を呼び掛けている。/ オルロフ市長は、「(ロシアは)1年に及ぶ占領期間中に欧州最大の原発を軍事基地に変えてしまった」と語った。/ ザポリージャ原発はこれまでに何度もトップニュースになり、1986年にウクライナで起きたチョルノービリ(チェルノブイリ、Chernobyl)原発事故と同じような大惨事が再現されるのではないかとの懸念が広がった。/ そうした大惨事に至るのを回避するためウクライ側は「反撃してこない」という「事実」にロシア軍は付け込んでいると、モルロフ氏は話す。(AFP BB News ・2023/03/11: https://www.afpbb.com/articles/-/3454137?pid=25442355&page=1)

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