沖縄復帰50年など祝いたくない

 <金口木舌>「残念では済まない」日本復帰50年の東京式典に出席した与党議員がインターネット上の投稿サイト(SNS)に書き込んでいる。「日本全体でお祝いする意味を込めて努力してきたことから、残念に思いました」▼残念だったのはテレビ放送を見てのことであるそうだ。「沖縄復帰50年など祝いたくない」「日米地位協定が見直されたら祝う」。そんな県民の声に「残念」という▼施政権返還という政治の捉え方に賛否あるのは健全な民主主義の現れだろう。日米地位協定については、その「不平等」の痛みを県民の負うケースが多いのはあえて差し置くとしても、協定の適用範囲は国全域だ。改定は国民課題ではないか▼1951年に締結された旧安保条約と行政協定(地位協定の前身)の交渉に臨んだ外務省の担当者も当時の米側草案を読んで、後に感想を記す。その不平等さに「一読不快」と▼そんな「一方的な義務ばかり」を負担し、日本の主権を阻む駐留米軍への特権条項が今もほぼ温存されている。沖縄だけの課題のごとく、矮小化されて「残念」と言われては困る。(琉球新報・2022/05/20)

 沖縄返還から半世紀が経過した。この五十年は、沖縄にとっても日本全体にとっても「独立不可」「自立無理」を時間をかけて認めさせられてきた時間でもあったでしょう。「核抜き・本土並み」とか言って、大々的に「復帰宣言」を天下に表明したが、実はそれが真っ赤な嘘であったことが直後に明らかになります。いわゆる返還交渉における「密約」の存在でした。その半世紀、この「密約」はどうなったのか、ほとんどそれに触れないままで、本土の沖縄並み「米軍基地化」と「沖縄米国基地恒久化」がひたすら進められてきました。沖縄返還は、日本の米軍基地化の別名でもあったし、それは半世紀が経過した今も、少しも変わらないままで促進されています。(それにしても、何時も感じることですが、政治家が「一世一代の嘘」を平気の平左でつきとおすという、そのあきれた行状です)

 沖縄にはたくさんの友人や知人がいます。今では互いに歳を取り、行き来はほとんどなくなりましたが、その思いは明らかだと、ぼく自身は考えています。沖縄(琉球)には、若いころから強い関心を持ってきたし、沖縄・琉球の歴史や文化にはとりわけ時間をかけて親しみ、学んできました。伊波普猷や佐喜眞興栄さん、謝花昇をはじめとした沖縄の近代化に大きな役割を果たした人々には、たくさんのことを学んだし、日本の柳田国男や折口忍などからも、琉球に関しては、大いなる刺激を受けてきました。

 ぼくはある時期から盛んに「沖縄独立論」なるものを口にしてきた。沖縄・琉球は明治以前の「琉球処分」前の姿に、さらに進化した状態で戻るべきだというものです。詳細は述べませんが、沖縄の歴史をを知れば知るほど、「独立」説に傾いてくるのでした。こんにち、それを口にする人はほとんどいなくなったのかもしれませんが、それは沖縄があるおかげで本島(ヤマト)がなに不自由なく暮らして行けるという錯覚があるからです。沖縄は返還以前も返還後も、この劣島の「属領」だという感覚が、多くの人のうちにあったし、その劣島本体は、戦後は間違いなくアメリカの「属領」になりさがっています。基地にかかわるすべてを、この島が賄(まかな)って、初めて「日米安保」なる不平等条約が成立してきたのです。

 「沖縄返還なくして、日本の戦後は終わらない」と時のソーリは言ったが、アメリカに、この島社会を売り渡したという宣言でもありました。(その甥っ子は、同じように北方四島をロシアに売り渡しました、返還を口にしながらの大嘘だった)こと基地問題や軍事力に関して、この島が独自に判断し、自己決定できることはほとんど残っていないのです。外交はもちろん、内政の全般にわたっても、枢要なところはほとんど「宗主国」、「元鬼畜」の意向をうかがうのが、政権与党の政治行動であったし、今もあり続けている。

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(下写真:沖縄の日本復帰から50年 式典会場付近で抗議・「沖縄復帰50周年記念式典」の沖縄会場付近で、抗議の声を上げる人たち=15日午後、沖縄県宜野湾市)( 共同通信・2022.5.15 17:26)

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 (以下は五月十五日発刊の琉球新報です)

 「復帰50年特別号」作成の舞台裏…琉球新報が伝えたかったこと【WEB限定】(2022年5月20日 18:30)

 琉球新報が沖縄の日本復帰50年の節目に当たる15日に発行した特別編成号が反響を呼んでいる。特別号では、50年前の1972年5月15日付琉球新報1面を復刻し、その紙面と同じ横の主見出し「変わらぬ基地 続く苦悩」を付けて現在も変わらない沖縄の基地負担を指摘した。当時の縦見出し「いま 祖国に帰る」は「いま 日本に問う」とした。発行後、県内外から取材や問い合わせがあったため、発行に至った社内での経緯や議論を17日付で紹介した。デジタル版では、発行に至るまでの裏舞台も紹介する。(琉球新報編集局次長兼報道本部長・新垣毅)(中略)

■「祖国」か「日本」か

 復刻版と並ぶラッピング紙面の記事内容、見出しに関する詰めの議論は5月9日の紙面会議から取り組み、詰めていった。それまでの議論で、横の主見出し「変わらぬ基地 続く苦悩」は現状本記でもそのまま同じ見出しを付けることがすぐに決まったものの、復刻版の縦見出し「いま、祖国に帰る」については、「『いま、祖国に問う』かな?」という意見が出ると、すぐに複数の部長から異論が出た。「祖国? 日本でしょ!」

 その理由は、県民投票などで何度も米軍基地の整理縮小や新基地建設反対の民意を示しても、無視する日本政府、その政府を支える多くの日本国民がいる―という問題意識だ。50年前と異なり「祖国」と呼ぶことへの違和感が湧くほど、基地が集中する沖縄の現状は厳しい。

▼「特別な日」「素直に喜べない」…復帰50年沖縄各地の表情

 かつて沖縄出身の保守系政治家・西銘順治氏(1978―1990沖縄県知事在任)は「沖縄の心とは?」と問われ「やまとんちゅ(大和人)になりたくて、なりきれない心」と。今も語り継がれ、県民が抱いている感覚とも重なる。沖縄の問題を「自分ごと」として捉えてほしい、そのような願いも込めて「いま、日本に問う」とした。(左は西山太吉さん、右はその著書)

  沖縄では、「やまとんちゅ(大和人)」と、「うちなんちゅ(沖縄人)」を区分けしたり、県外の人々を「ないちゃー(内地の人)」と呼んだりする習慣が根強くあり、県外の人々と心理的距離感を抱いている人々が少なからずいる。「日本」を「祖国」と見なせば、違和感を抱く県民読者も多いのではないか。違和感の源泉は、沖縄の声を届けようと、訴えても訴えてもヤマトに冷たくされ、苦しむような、そんなヤマトと沖縄の関係性が胸のうちに突き刺さっているような感覚だ。そのような感覚を「日本」という表現に込めた。(中略)

 15日の琉球新報を、沖縄県内外の多くの方々に読んでいただくことで、今なお基地の過重負担の不条理を抱える基地の島・沖縄への認識や関心を強め、沖縄の現状を変えるきっかけになってほしい。沖縄の現状を伝え、本土に問う特別号の本記原案を書くなど、紙面作成に携わった一人として、そして沖縄県民の一人として切に願っている。(琉球新報・2022年5月20日 18:30)

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 ある時期にぼくは沖縄の新聞を、都内の自宅で購読していた時期があります。知人も何人かいましたから、沖縄問題が本土(日本)問題であるという認識を共有することが、ぼくには欠かせない義務だと痛感していたからです。沖縄を訪ねた際にも、深夜に及んで飲み屋で隣同士が「沖縄どうする?」と議論していた光景を今もって忘れることはできない。いまもなお、沖縄は外交というよりは防衛・自衛の「最先端基地」であることに変わりがありません。この問題についてなにかをいうのは、ぼくの気分としてはけっして心持がいいものではない。沖縄を踏み台にしてきた本土の人間、高みの見物よろしく、拱手傍観してきた一人の人間として、「辺野古移設反対」などとは大きな声で叫べないような後ろめたさがある。普天間基地の一角に、沖縄の歴史と現在を象徴するかのようにして「佐喜眞美術館」が屹立している、そんな風情を、館長の風貌とともに、ぼくはしばしば思い起こすのです(左写真)。

 昨日は、アイヌの知里幸恵・真志保姉弟のことを思い起こし、本日はまた、謝花昇さんを、ことのほか懐かしい人として思い出しています。これも思っただけで、実現はしませんでしたが、一時期謝花さんのことを一冊の本にすべく、いろいろと資料を集め、少しばかりの原稿を書いたことがありました。かわいそうな人でもあったと思うと、なおさらに懐かしさがこみ上げてきます。そして、沖縄の今日の状況を見るにつけ、本土政府と国民は、今また「今日的琉球処分」をしているのだという思いを深くするばかりです。

 「沖縄だけの課題のごとく、矮小化されて『残念』と言われては困る」とはコラム氏の言です。米軍基地は沖縄が請け負う、そのような「返還協定」であったし、日米安保条約だったのですが、そこには一指も振れないで、「復帰」「返還」「五十年」だから、お祝いするのが当然だとするのが、嘘偽りだらけの政治家の、行政官の、そして多くの国民の「正直な」感慨であろうと思う。沖縄だけが我慢すれば済むことじゃないか、沖縄復興費もつけていることだし、という薄汚い「沖縄切り捨て」ではないでしょうか。ウクライナの「ジェノサイド」を見るにつけ、「沖縄戦」の地獄図を消すことのできない記憶として、ぼくは育ててきました。佐喜眞美術館には丸木位里入さん夫妻の「沖縄戦の図」が消えることのない「歴史」を物語っています。

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● 琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)=明治政府のもとでなされた沖縄に対する強行的な廃藩置県。政府は,明治5 (1872) 年に琉球国を廃して琉球藩とし,中央政府の管轄とした。 1875年には内務官僚松田道之を処分官として琉球に派遣し,中国との関係を廃絶することを要求するなど,政府の処分の方針を伝えた。政府のこの措置に対しては,地元の士族層を中心とする反対運動があったが,政府は軍隊と警官を差向けてそれを押え,79年3月,琉球藩を廃し,沖縄県を設置する旨通告した。旧国王は東京移住を命じられ,ここに琉球王国は約 500年にわたる歴史を閉じて,日本の一県として措定された。 (ブリタニカ国際大百科事典)

● 謝花昇【じゃはなのぼる】=沖縄県の行政官・社会運動家。島尻郡東風平(こちんだ)村の農家に生まれる。1882年第1回県費留学生として上京,1891年帝国大学農科大学卒業。帰郷して県技師に任命され高等官となり,農業技術の指導や,貢糖制度の廃止に尽力。沖縄の近代化を専制的に推し進める鹿児島藩出身の県知事奈良原繁の施策にしばしば抗し,農民層の立場から県政の革新をめざした。1898年官職を辞して県民の参政権獲得運動を展開,また沖縄倶楽部を結成し機関紙《沖縄時論》を発行して奈良原批判・参政権要求等の論陣を張った。これらの活動から沖縄における自由民権運動の指導者と評されている。運動で家産を使い果たし,奈良原一派から徹底的に弾圧されて生活の道も絶たれ,1901年新任地の山口県に赴く途中に神戸駅で発狂して帰郷,貧窮と狂気のうちに死亡した。(1865-1908)(マイペディア」

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 話せば分かる 問答無用 戦争が唯一の方法

 【滴一滴】「話せば分かる」「問答無用、撃て!」。この有名なやり取りが本当にあったかは分からないらしい。ただ、襲撃者が去った後、流血しながらも「あの若者を呼んでこい、話せば分かる」と繰り返したとする証言はある▼1932年5月15日、海軍の青年将校らが首相官邸などを襲い、犬養毅首相の命を奪った。これで政党内閣は終わり、日本は軍部独裁へと向かう。戦前最大の分岐点ともいわれる「五・一五事件」から90年になる▼この年月は長い。事件現場に遭遇した人たちはもう残ってなかろう。昭和の記憶もすっかり歴史になった。だが忘れ去るわけにはいかない▼なぜ青年将校たちは事件を起こし、政党政治は終わったのか。サントリー学芸賞を受けた小山俊樹帝京大教授の近著「五・一五事件」(中公新書)は、犬養個人への恨みでなく、あくまで権力の象徴として狙われた―などと事件の謎を掘り下げる▼顕彰も続く。岡山市北区川入の生家跡に隣接する犬養木堂記念館は15日から、首相在任5カ月間の足跡を改めて紹介する▼「話せば分かる」の情景はともかく、最期まで思いを言葉で伝えようとしたのは“憲政の神様”犬養らしい。翻って現代。政治や暮らし、国際社会の各場面で、相手を言葉で説得しようとする努力は十分だろうか。泉下の先人が厳しい眼光を向けていないか。(山陽新聞・2022年05月12日 08時00分 更新)

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● 五・一五事件【ごいちごじけん】=1932年5月15日に起こった海軍急進派青年将校を中心とするクーデタ事件。井上日召らと関係のあった海軍将校が大川周明から資金援助を受け,陸軍士官学校生徒と協力,首相官邸,内大臣官邸,政友会本部,日本銀行,警視庁などを襲撃,犬養毅首相を射殺した。一方,愛郷塾生の農民決死隊も東京近郊の変電所を破壊して戒厳令を出させ,その間,大川周明らによる改造政権の樹立を企図したが失敗。日本ファシズム台頭の契機となる。(マイペディア)

● 五・一五事件(ご・いちごじけん)=1932年5月 15日海軍将校山岸宏,三上卓,黒岩勇らが中心となって起したクーデター計画。首相官邸を襲い犬養毅を射殺。一方,橘孝三郎の愛郷塾生が東京周辺の変電所を,陸軍士官学校生徒らが牧野伸顕内府邸,警視庁,政友会本部,三菱銀行,日本銀行などを襲った。市中混乱に乗じて大川周明の改革案の実行を企てたものであった。のち,軍籍をもつ犯人は憲兵隊に自首。軍法会議において海軍は被告らに 10~15年の禁錮,陸軍は全員禁錮4年を申渡した。民間では橘孝三郎が無期懲役,ほかは3年6ヵ月~15年の懲役に処せられた。(ブリタニカ国際大百科事典)

● 日本ファシズム(にほんファシズム)=満州事変以降第2次世界大戦終了までの十五年戦争の期間における,日本の国家の形態をさす言葉。中国における革命運動の進行や,1929年世界大恐慌の影響による社会的経済的危機の増大,階級矛盾の激化を,軍部独裁による民族排外主義の鼓舞と,国民の強権的統制による侵略戦争への動員によって乗切ろうとした一連の動きを支えたイデオロギーであり,天皇制ファシズムとも呼ばれる。その背景には,政党内閣の無力による国家的展望の喪失があった。次のような特色をもつ。 (1) ヨーロッパのように小ブルジョアの民間における独自な組織化とそれによる権力の奪取として進行したのではなく,上からの再編としてなされていったこと,(2) 天皇制をイデオロギー的支柱とし,天皇制を支える伝統的社会集団,統治機構をファシズム的に再編したものであること。したがって民間,在野における右翼国粋主義の活動も,大衆を組織することはできず,五・一五,二・二六事件などの青年将校によるクーデターもそれ自身の展望をもつものではなく,上からの再編への圧力にすぎなかった。(ブリタニカ国際大百科事典)

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チャップリンの独裁者(The Great Dictator)=アメリカ映画。監督チャールズチャップリン。1940年作品。チャップリンの映画監督作品のなかで、もっとも政治色が前面に押し出された作品。1930年代なかば、国際的ファシズムが台頭し、1941年にアメリカが第二次世界大戦に参戦すると、ハリウッド映画市場でも戦争関連作品がブームとなり、本作も同年のアメリカ国内興行成績のベスト10入りした。当時、ハリウッド映画作品は、まだドイツやイタリアにも輸出されていたが、チャップリンは本作で、ユダヤ系理髪師とナチスドイツのヒトラーを想起させる独裁者の一人二役を演じ、ファシズムを滑稽(こっけい)かつ痛烈に風刺してみせている。チャップリン作品で初のトーキー映画。また本作以降トレードマークである浮浪者衣装はみられなくなる。このトーキー導入以降、チャップリンが監督する作品は減少し、俳優としてのみの出演が増えていく。1960年(昭和35)日本公開。(ニッポニカ)(https://www.youtube.com/watch?v=0RoEu2OxPxc

● チャップリン=英国国籍の映画俳優,監督,製作者。ボードビル役者の子としてロンドンの下町に生れ,早くから舞台に立つ。次いでパントマイム喜劇のF.カーノの一座に加わる。米国巡業中にM.セネットに見いだされ,1914年の《成功争い》から映画に出演,自ら監督も行い,多くの短編喜劇に続いて,1917年から長編《犬の生活》(1917年),《キッド》(1921年),《黄金狂時代》(1925年),《街の灯》(1931年),《モダン・タイムス》(1936年)などを発表,独特の扮装(ふんそう)とすぐれた人間観察,鋭い社会風刺で名声を得た。トーキーになってからは《チャップリンの独裁者》(1940年),《チャップリンの殺人狂時代》(1946年),《ライムライト》(1952年),《ニューヨークの王様》(1957年),《伯爵夫人》(1966年)などを製作。1952年訪欧後,米国入国を許されずスイスに定住。1972年訪米,アカデミー特別賞を受けた。著書《自伝》(1964年)がある。(マイペディア)

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 その後の劣島を長く覆いつくすことになる「日本ファシズム」の「とばくち」に入る号令・号砲になった五・一五事件から、まだ百年もたっていないのは、ぼくには大きな驚きであります。この事件がその後の歴史にいかなる色合いを配してきたか、まことに「鮮やかな」「強烈な」といいたくなるような軍部による政治制度の略奪・拉致であり、暴力と抑圧の制度的完成への道を開いたのでした。事件発生時、ぼくはまだ生まれてはいませんでしたが、その雰囲気はわかりそうに思われてくるのです。その前夜は「大正デモクラシー」と称して、民主主義(民本主義)を謳歌せんばかりの軽躁に逸(はや)る「宴」時代であったのです。しばしば指摘されてきたドイツにおける「ワイマール時代」がナチを準備し、ヒトラーを生んだといわれるのと同じように、この島社会でも、、大正デモクラシーがファシズムを呼び込んだともいえるのです。歴史経過の詳細には触れませんが、日本ファシズムは確かに、人心を惑乱させるだけの要素、いや毒素を振りまいてきたのは事実でしょう。

 ここでいくつかのことに関して、駄弁を弄するのを、ぼく自身は恥ずかしいこととしています。政治的暴両で封殺されたが故に、各人の言葉が力を失い、単なる記号になり下がったかに思われる時代にあって、一人の映画人は、アメリカにおいて、いったい欧州で何が起こり、いかなる状況が展開していったのかをまさしく「予言する」かのように、一本の作品を作った。この映画作品を鑑賞していただきたいと思うばかりです。最後の「演説」は、ナチによってパリが陥落した、その時期に、まさにチャップリンは「推敲」に辛苦していたといわれています。

 ぼくはくりかえしこの「演説」を聞きますが、そこには、なにか奇抜なことが言われているのではないでしょう。当たり前の願いや希望が語られているのです。その当たり前に過ぎる願いが、この「全体主義(ファシズム)」の圧政下にあっては、文字通り窒息させられてしまうのです。ぼくたちは、毎日のありふれた生活のなかに、ウクライナで敢行され、繰り返されているロシアの無謀な戦争(殺戮と破壊)という、限りない悪辣な所業による「無辜の民の無数の殺戮」をテレビやネットを通してみている。その戦禍にないと、誰もが信じているのでしょうか。無残にも殺害され、ぼく激されているのは、ぼくたちの隣人であり、友人・知人であるといえないのでしょうか。

 まるで、食事のさなかに、就寝前に、ひと時の憩いの間に、あるいは起き掛けの天気予報の確認のついでに、「ウクライナの惨劇」「ミサイルによる大量殺戮」を垣間見る。それがいけないというのではありませんが、このチャップリンの映画で語られる「当たり前の願いや希望」も、時には死を賭して、いや、文字通り「死」と引き換えに、確かに訴えているのだということを、ぼくはたまらない悲しさと怒りに翻弄されながら、今日の「無謀な独裁統治」が一瞬でも早く「潰える」ことを衷心より願いながら、その光景に目を凝らしているさなかに教えられています。あたり前が、当たり前に通用する「時と場」を、失いかけている今だからこそ、あらためて、その「当たり前」の中にある価値に思いを寄せたいと思う。(以下は、「チャップリンの独裁者」の「最後の演説」から任意に抜粋したものです)

 (いうまでもなく、ぼくには「独裁者」「独裁権力」にありつきたいという「欲望」は微塵もないし、犬や猫を支配したいとさえ考えたこともありません。だから、ロシアの「帝王」、虚妄の「皇帝」の神をも恐れない「ふるまい」(彼はロシア正教の最高権力者とされる者を配下に持っている)を見て、いったい何がうれしいのか、何が楽しいのか、そんなに権力や金を身に着けて、どうしたいのか、人を殺して、自分が「何様」であることを、誰に誇ろうとするのか、あるいは、こんな愚行は「やむにやまれず行っている」のであり、「私怨を晴らす」ための行為なのだとでもいうのかしら。あるいは、誰かに対する「復讐」のための蛮行なのだろうか、いずれは、確実に死ぬ運命にある人間のすることなのだろうかと、次々に、陳腐な疑問ばかりがぼくを襲ってくるのです)

We think too much and feel too little,
more than machinery we need humanity,
more than cleverness we need kindness and gentleness,
without these qualities, life will be violent and all will be lost.

Don't give yourselves to these unnatural men, machine men, with machine minds and machine hearts.
You are not machines. You are not cattle.
You are men.
You have the love of humanity in your hearts.
You don't hate, only the unloved hate. Only the unloved and the unnatural.
Soldiers! Don't fight for slavery, fight for liberty.

In the seventeenth chapter of Saint Luke it is written "the kingdom of God is within man" -
not one man, nor a group of men - but in all men - in you, the people.

You the people have the power, the power to create machines, the power to create happiness.
You the people have the power to make life free and beautiful, to make this life a wonderful adventure.

Then in the name of democracy let's use that power - let us all unite.
Let us fight for a new world,
a decent world that will give men a chance to work, that will give you the future and old age and security.

By the promise of these things, brutes have risen to power, but they lie.
They do not fulfil their promise, they never will.
Dictators free themselves but they enslave the people.(The following is omitted)

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 海棠の しずかに散るや 石畳 (吟江)  

 本日の句、二つ三つ(いささかの時期遅れになりましたが)

・行く春を 近江の人と 惜しみける (芭蕉)

・行春や むらさきさむる 筑波山  (蕪村)

・石楠花の 紅の蕾の ゆるみたる (椎花)

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 昨日は「ハナミズキ」でした。本日は、少し時期が過ぎてしまったかもしれませんが、「海棠(かいどう)」を、記憶の底から呼び起こしてきました。この木も、いつでも拙宅の小さな庭にありました。今の住まいには、いろいろと探してはいるのですが、これはと気に入ったものがなく、まだ植えられていません。しかし、これまでに見てきた、たくさんの海棠を記憶の淵からよみがえらせては、堪能し嘆息しています。「海棠」といえば、まず最初に鎌倉のいくつかの寺を思い出します。詳しくは知りませんが、鎌倉の花木は「海棠」だと聞いたことがあります。そのいわれはわかりません。鎌倉・寺・海棠とくれば、若い日の小林秀雄と中原中也の邂逅の場面に「妙本寺の海棠」が出てきます。一人の女性を巡って、二人が争うような形になって、何とも気まずい雰囲気の中での語りと別れでした。大学生になったばかりのころ、ぼくたちの中では、小林秀雄が「一つの事件」のような具合でした。「あれを読んだか」、「まだか、すぐに読めよ」というように、東京生まれの友人が盛んに「小林風」を吹かしていたのです。なんとも幼かったですね。今でも「そう」ですが。

 右も左もわからない、若気だけで背伸びをしていた時代、この「中也の思ひ出」を読んで、誘い合って鎌倉に出かけたような、かすかな記憶もある。行かなかったに違いないが、そんなあやふやな記憶を残して「ボーヨー、茫洋」という中也の言葉だけははっきりと覚えているのでした。そのときの「海棠」は、実に見事なものだったろう。現実に存在する妙本寺のものは、小林たちが語ったものから三代を経ているということでした。この樹木は、桜とは似ています、もちろん「バラ科」だから当然ですが、桜よりも可憐というか、小ぶりの花が美しい。家に植えたものは、まだ幼木に近いもので、それでも、さらに小さな花を咲かせては、行く春を彩っていたのです。

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 「中原中也の思ひ出」
 晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた。花びらは死んだ様な空気の中を、まっ直ぐに間断なく、落ちていた。樹蔭の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた。あれは散るのじゃない、散らしているのだ、一とひら一とひらと散らすのに、屹度順序も速度も決めているに違いない、何んという注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた。驚くべき美術、危険な誘惑だ、俺達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考えか、愚行を挑発されるだろう。花びらの運動は果しなく、見入っていると切りがなく、私は、急に厭な気持ちになって来た。我慢が出来なくなって来た。その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいよ、帰ろうよ」と言った。私はハッとして立上り、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。「お前は、相変らずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。彼は、いつもする道化た様な笑いをしてみせた。 

 二人は、八幡宮の茶店でビールを飲んだ。夕闇の中で柳が煙っていた。彼は、ビールを一と口飲んでは、「ああ、ボーヨー、ボーヨー」と喚いた。「ボーヨーって何んだ」「前途茫洋さ、ああ、ボーヨー、ボーヨー」と彼は眼を据え、悲しげな節を付けた。私は辛かった。詩人を理解するという事は、詩ではなく、生れ乍らの詩人の肉体を理解するという事は、何んと辛い想いだろう。彼に会った時から、私はこの同じ感情を繰返し繰返し経験して来たが、どうしても、これに慣れる事が出来ず、それは、いつも新しく辛いものであるかを訝った。彼は、山盛りの海苔巻を二皿平げた。私は、彼が、既に、食欲の異常を来している事を知っていた。彼の千里眼は、いつも、その盲点を持っていた。彼は、私の顔をチロリと見て、「これで家で又食う。俺は家で腹をすかしているんだぜ。怒られるからな」、それから彼は、何んとかやって行くさ、だが実は生きて行く自信がないのだよ、いや、自信などというケチ臭いものはないんだよ、等々、これは彼の憲法である。食欲などと関係はない。やがて、二人は茶店を追い立てられた。(「中原中也の思ひ出」「人生について」所収。中公文庫版)

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 このエピソードは今から一世紀ほども前のことになりました。ぼくが読んだ時からでも、すでに半世紀以上が過ぎています。すべてが過ぎ去り、残るものも皆、何時とは知れず姿を消し去ります。有為転変というべきか、流転無常なのかどうか。花は咲けども、散りぬるを、ですね。大学に入ってから、ぼくは手当たり次第に本を読みました。当たるを幸いという心意気だった。わけもわからずに読んだ。しかし、ある時期から、それは「読んだ」のではなく「読んだ気になった」だけのことであるということに気が付いた。だからその読書は無駄だったとは思えません。「読んだつもり」の経験もまた、ぼくにはかけがえがないものだったからです。ぼくは五十になるくらいまで、あるいは四十過ぎまで、小林さんを熱心に読みました。いろいろなものがありましたが、中でも江戸の思想家である徂徠や仁斎などについて書かれたエッセーには、たくさん教えられました。「考えるヒント」がその中心でした。そしてその当時すで連載されていたはずの「本居宣長」も、時々は読んでいました。

 それ以前は一端(いっぱし)の「西洋かぶれ」だったものが、一気に西洋離れを果たしたというのではありません。ぼくは三十を過ぎてから、柳田国男さんをひたすら読んで、「この島の先輩(常民)」たちの歴史にのめりこんだ。だから西洋離れは意外と早く、「もののあはれ」を極めるつもりなどはなくとも、自分が生まれた地域の「人民の生活・思想」を訪ねることに時間とエネルギーを注いだのでした。それはまた、先祖たちの歴史を学ぶことでもありました。本を読むことがどんな意味を持っているのかさえも分からないで、濫読の限りを尽くしていた時代は、半世紀を隔てて顧みると、何とも乱暴であった、無駄な時間を過ごしたなあ、という「無駄の効用(あるとすれば)」を身に着けたように思われました。さらに言えば、「役に立つこと」ではなく「役に立たないこと」のほうが、ぼく一個の人間にとっては大きな値打ちをもっていたと、今でも言えそうです。

 まわりの大人たちから、「君はまじめに研究をしていない」といつも言われていたような塩梅でした。身の危険を感じたことはなかったが、組織にいる人間としては、いかにもまずいらしいという意識は常に働いていましたが、いやなことより、自分のしたいことを、それだけを意固地になって貫こうとしていたのではなかったか。それもこれも、過ぎてしまえば、なんということもなく、「行春や むらさきさむる 筑波山」という心境ではあるんですね。(ものの本によれば、蕪村は茨木結城の俳人・砂岡雁宕に私淑したような格好で当地を歴訪、なんと十年に及ぶ滞在だったという。その期に詠んだ句です。ぼくの仕事場に、結城出身の先輩(二人)がいて、何くれとなくお世話になった。その縁もあって、ぼくには結城は懐かしい土地になりました)

HHH

 もう初夏ですね。沖縄では、昨日が梅雨入りだそうです。何処においても「豪雨」の被害がないことを祈るばかりです。「春は名のみの風の寒さや」と口ずさんでいたのはほんの二か月ほど前、「侵略戦争」の便りとともに、今なお「冷たい風」が吹き荒んでいるところがあります。わが心の内にもまた、春の嵐が時には吹くこともあるのです。八十八夜も過ぎ、「野にも山にも若葉が茂る」、我らが心のうちにも、青々と茂ってもらいたい(茂らせたい)ものです。「前途茫洋」というのは、小さな存在の人間にこそ似つかわしいのかもしれません。

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● かい‐どう ‥ダウ【海棠】〘名〙=① バラ科の落葉低木。中国原産で、日本では古くから観賞用に栽植されている。幹は高さ五~八メートルに達し、は多数に分かれ紫色で垂れ下がって広がり、先端が刺(とげ)になることがある。葉は互生し、先のとがった楕円形で、若葉のうちは色を帯びる。四~五月頃、長い花柄にリンゴの花に似た三~五センチメートルの紅色の五弁花が開く。果実は径五~八ミリメートルの球形で、黄赤色に熟す。漢名、垂糸海棠。はなかいどう。《・春》 〔尺素往来(1439‐64)〕※俳諧・猿蓑(1691)四「海棠のはなは満ちたり夜の月〈普船〉」② =みかいどう(実海棠)〔大和本草(1709)〕③ なよやかな美女をたとえていう。※俳諧・犬子集(1633)二「海棠のねむる鼾か風の音〈正直〉」(精選版日本国語大辞典)

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 「コスタリカの奇跡」ってなんですか

コスタリカの奇跡 ~積極的平和国家のつくり方~(https://www.cinemo.info/movie_detail.html?ck=48)

 南米の(面積が)小さな国「コスタリカ」、この国について、ぼくたちはどれほどのことを知っているでしょうか。「軍隊を持たない国」あるいは、「コスタリカ方式」というようなことを耳にしたことは何度もありますが、果たしてその先について、どれだけ知ろうとしたか、ぼく自身に関して言うならば、それは、実にお粗末極まりない為体(ていたらく)でした。コスタリカと訊けば、まず、ぼくが記憶の棚から取り出してこようとするのは、一人の青年の話になります。以下に、少し古い記事ですが、これも記録の箱から取り出してきました。

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 一人の青年、ロベルト・サモラさん。当時はまだ大学生だった。ある月刊誌に掲載されていたインタビュー記事によって、ぼくは、その青年に引き付けられたのでした。十五年以上も前のことでした。以下はその内容(概要)です。

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 ― 軍隊を持っていることによる安心感と、軍隊 ―人権を軽視する組織ですから、もっとも非民主主義的な組織だと言えるでしょう ― を持つことによるセキュリティの危機を考えた場合、どちらが基本的に安全か、という問題になります。

 サモラ 軍隊を持っている国=戦争の準備が出来ている国ということですね。軍隊とは、目的ははっきりしていて、戦争に行くことしかないんです。戦争にいく体制の国とは、すなわち、人を殺す体制にもあるということ。それは他国民だけでなく、自国の同胞を殺す場合もあるわけです。そこに安全があるの、というと、ない。とても簡単なことだと思います(笑)。

 ― おっしゃるように簡単なことですが、その簡単なことがなかなか世界に広がっていかない。それは不安だとか、脅威だとかを人々が観じているからです。/ 日本の場合だって、たとえば北朝鮮や中国など、現実的脅威ではないにもかかわらず、その脅威が煽られる。そういうところから、やはり軍隊は必要なのではないか、という議論になってしまう。

 サモラ 逆に、なぜ日本の人は、北朝鮮が攻めてくる、と思うんですか?

 ― たとえばミサイルを発射されるんじゃないか、という不安ですね。それから、向こうの考えていることがよくわからない、ということもあります。

 サモラ ということは、向こうのことをよく知らないのに恐れている、ということですか? 

 ― そうです。よく知らないからこそ、恐れるんです。

 サモラ 知らないから、恐がり、知らないから、悪いことをたくらんでいる、と考えてしまうですね。/ 不思議なのは、外交関係がないなら、外交関係をきちんと創っていこう、と考えずに、どうして軍隊を作ることを考えるのか、です。問題が生じて、その国と外交関係がないなら、まず、外交関係を作って問題の解決を図るべきでしょう。軍隊は外交関係とは全く関係なく、問題解決につながらないわけですから。

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 (コスタリカは日本の約7分の一の面積で、人口はおよそ430万人。1502年にコロンブスにより「発見された」。1949年制定の憲法で「軍隊保持の禁止」を明示しました)

 サモラさんは中米のコスタリカ共和国の大学生5年生でした(掲載当時)。04年9月に、コスタリカ政府がアメリカのイラク攻撃を支持したのは憲法違反だと提訴し、最高裁判決で勝訴した人です。(判決「憲法・国連・コスタリカが受け入れた国際人権規約に反する、との結論をもって、2003年3月19日に行政府がイラク戦争及びそれに付随する全ての行為について行った合意を無効とする」)(『世界』2005年5・6月号)(左上の記事:毎日新聞・2019/12/10)

 <日本の場合は、あれだけ大きな戦争で、甚大な被害があった。それゆえに、軍隊を放棄し、平和を守ろうと決意したわけですよね。軍隊を持たずに平和を保つことが、平和の維持にもっとも有効だと判断したわけで、そのことをもう少し考えてみればいいのに、と思います。「なぜ持たなかったのだろう」と。…たとえば、どこかの国がコスタリカを攻めたとしたら、国際的に非難が起こるでしょう。そう考えると、コスタリカを攻める、という行為が政治的にいかに愚かな行為なのか、理解できます。だからこそ、コスタリカはどこからも侵略されない、ともいえますが。>(同上) 

 (このような「無防備国」として、国際的な監視のもとにあっても、あるいは「コスタリカ」を攻撃する、侵略する国(たとえば、アメリカやロシアのような)「超野蛮国」がないとも限りません。その時はどうしますか、といったこともまた、ぼくたちの生きている「世界」の現実の課題でもあるのでしょう。純真無垢の「赤ちゃん」に暴力をふるうような人間はいないといいたいけれど、掃いて捨てるほどいるし、そのために多くの「乳幼児」が、その未来を犠牲にされ続けているのです)

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 ことは単純、でも事情は複雑? いや、そうじゃないんでしょう。「戦争をしたい」、そんな物騒な人がたくさんいるということではないんですか。この劣島に限定しても、憲法を「改正」し(「改正」しなくても)、他国と戦争できる、普通の国にしたい。(同盟国)がやられたら、仲間に対する「仁義」をはたすために「共同戦線」(集団防衛=「集団的自衛権」だというらしい)を張る。そんな理屈にもならない屁理屈で「好戦国」ぶりを発揮してきたのが、この十数年でした。もちろんそれ以前から、その傾向はありましたが、この十年は特に加速して「好戦国」になろうとしてきたのです。言葉もまやかしも目につきます。「敵基地攻撃能力」ではあからさますぎるから「反撃能力」というというごまかしです。武力そのものが「能力」だというのですから、開いた口が塞がらないというべきです。ぼくは「コスタリカ」の国是に痛く共感してきました。武力ではなく対話のたちから(外交・交渉・交際力)(これを能力というのです)にこそ、活路を見出し、友好関係への道を歩こうとするべしというのです。「武力」に物を言わせると、そこからは、際限のない「殺戮合戦」しか生まれない。それが戦争です。でも「言葉」を駆使した「戦争」は、殺し合いには絶対(と自信をもってと、いいたいね)にならない。(それは、長年にわたって、ぼくは経験済みですから。ぼくの場合は「内乱」でしたが)

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 雑誌のインタビュー記事以来、サモラさんについては、しばしばその活動を耳にすることがありました。近年で度々来日され、各地で講演などの活動をされています。その際にも、きっと「コスタリカの奇跡」が話題にされてきました。ぜひとも見るべきドキュメントであろうと思われます。ここでは、その前段階の「予告編」的なものを二編ばかり紹介しておきます。Ⅰコスタリカ国会の刻板 - 映画『コスタリカの奇跡 ~積極的平和国家のつくり方~』特別編(1)(https://www.youtube.com/watch?v=pnxGYapjZME) Ⅱコスタリカの平和教育“ビー・ピース” 映画『コスタリカの奇跡 ~積極的平和国家のつくり方~』特別編(2)(https://www.youtube.com/watch?v=awLll2S_1FY

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 戦争繰り返さぬために 軍隊を持たない国から学ぶ コスタリカの弁護士が講演 

軍隊を持たない中米コスタリカから学ぼうと、同国の弁護士ロベルト・サモラ氏を招いた講演会が11日、長崎市内であり、参加者が日本の改憲の動きや国民の役割について考えた。/ 高校生1万人署名実行委や市民団体などでつくる実行委が主催。約170人が参加した。/ コスタリカは永世中立を宣言し、軍隊保有を禁じる平和憲法を制定している。2010年に隣国のニカラグアが侵攻してきたが、国際司法裁判所に提訴して阻止した。サモラ氏は「1人の死者も出さず、お金も銃も使わず、また自衛の兵も作らなかった」と強調した。/ コスタリカの大統領や内閣がイラク戦争を支持したり、核兵器製造を提案したりした際には、サモラ氏が裁判所に提訴。裁判所の命令で戦争支持を撤回させたり、核兵器を製造禁止に追い込んだりしたと説明した。/ サモラ氏は日本の憲法九条改正の動きについて「政府が国民を欺いている」と批判。高校生平和大使らの活動報告を聞き「失敗しても希望を持ち続け、不可能だと思うことに取り組んでほしい」とエールを送った。/ 参加した第21代高校生平和大使で諫早高3年の山西咲和(さわ)さん(18)は「戦争を二度と繰り返さないために(戦争の)原因についても貪欲に学び続けていかなければならない」と語った。(長崎新聞・2019/06/13)

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〇 コスタリカ=正式名称−コスタリカ共和国Republic of Costa Rica。◎面積−5万1100km2。◎人口−430万人(2011)。◎首都−サン・ホセ(34万人,2006)。◎住民−白人系(スペイン系がほとんど)97%,黒人2%など。◎宗教−カトリック(国教)が大部分。◎言語−スペイン語(公用語)。◎通貨−コスタリカ・コロン。◎元首−大統領,ソリスLuis Guillermo Solis(2014年5月就任,任期4年)。◎憲法−1949年11月制定。◎国会−一院制(定員57,任期4年)。最近の選挙は2014年2月。◎GDP−298億ドル(2008)。◎1人当りGNP−4980ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−18.6%(2003)。◎平均寿命−男77.8歳,女82.2歳(2013)。◎乳児死亡率−9.0‰(2008)。◎識字率−96.3%(2011)。*中米,パナマの北に位置する小共和国。東はカリブ海,西は太平洋に臨む。国土は大部分高原状地形で,火山が多い。気候は太平洋側は乾燥,カリブ海側は高温多湿。住民の大部分が,スペイン系白人とその混血で,生活・教育水準は他の中米諸国に比して高い。農業が主で,コーヒー,バナナ,カカオを輸出,牛の畜産もある。米国資本の進出が著しい。1502年コロンブスがコスタリカ(豊かな海岸の意)と命名,16世紀後半からスペイン領となった。1821年メキシコ帝国の一部として独立,1824年―1838年中央アメリカ連邦に属し,連邦解体後は1848年正式に独立した。1949年制定の現憲法は武装放棄を宣言し,軍隊をもっていない。1987年アリアス・サンチェス大統領(国民解放党)は,中米紛争の和平合意への努力を評価され,ノーベル平和賞を受賞。中南米では最も政情の安定した国の一つ。(マイペディア)

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 約束は破るために結ぶという、国家がある

<あのころ>日ソ中立条約調

 モスクワで松岡外相(上写真】 1941(昭和16)年4月13日、モスクワで日ソ中立条約に調印する松岡洋右外相。右端にはスターリン書記長。南進を図り背後の脅威を除きたい日本と、ドイツに備えるソ連の利害が一致し、お互い相手の戦争に中立を守ると規定した。しかし、第2次世界大戦末期の45年8月8日、ソ連は対日宣戦を布告し条約を破棄。(共同通信・2022/4/13)

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 「人間は約束しうる動物である」といったのはニーチェだったと思います。若いころには、こんな言い草でも、おそらく哲学的な深みのある表現として、おそらく後生大事に記憶していたのだろうと思います。ニーチェに限らず、大したこともない事柄を針小棒大に言い募ることが、あるいはわかりにくく表現することが「哲学」の代名詞だったように見えてくるのですから、どうかしていたんですね。確かに犬や猫は「約束」はしないでしょう。だから「約束する」のは人間の特質だといっても、空約束はお手の物だったりする人もいますから、そんな手合いなど、犬や猫にも劣るとも言えます。「針千本飲ま」しても平気なんですから。約束は「守るかどうか」が問われるのです。持った大事には「自分に(と)約束する」ことですね。

 個人同士でも「約束」を「する」と「果たす」に大きなギャップがあることは、いつでも認められます。どんな約束でも必ず守るというのは、たぶん、とても稀なことなのもかもしれません。「国と国」同士ではどうでしょう。これも、個人間における場合と似たり寄ったりで、信用できたりできなかったりするのです。物を買うとか売るという程度のことならともかく、「戦争」に関して二国間で「約束」をして、それを互いが守ると、国家代表がサインし、条約・協定は発効します。それは「破棄されるまで」は、順調に遵守されているんです。このような事例は歴史を覗いてみるときりがありません。今回のウクライナ侵略にかかわらせて、旧ソ連(現ロシア)の結んだ「条約」に限ってみると、一つは「日ソ中立条約」(1941年)があり、もう一つは「独ソ不可侵条約」(1939年)です。そのどちらも、ソ連は白昼堂々と「条約破り」を敢行しました。条約破棄は、ロシアの昔からの「しきたり」「伝統」、つまりは「お家芸」であるともいえます。困ったものですよ。

 日ソ中立条約の内容は、以下の「解説」にある通り。しかし同条約は一方的な破棄通告がなされ、ソ連は第二次世界戦争にぎりぎりで駆け込み参戦し、今に至る「領土問題」の基礎を築くことになりました。第二次世界大戦中のことでしたから、この「条約」は、両国とも「自国の利益」という一点でのみ結ばれたものでしたが、利害得失のバランスが崩れれば、条約は弊履のごとく捨てられるのです。初めから支払いの気持ちなど持たないのに、「約束手形」を結び、それが明らかに「空手形」であったと、「臍を噛む」のは、より大きな利益を、身の程もわきまえずに狙う輩であるといってもいいでしょう。日本の場合、後悔は先に立たずで、ソ連と手を結ぶこと自体が奇怪であったのです。

 日ソ条約の扱われ方もどうしようもないものでしたが、それに輪をかけていたのは(時間的には、こちらのほうが先でしたが)独ソ不可侵条約です。前後関係から言えば、独ソ戦は避けられないとみていたスターリンは、形式的には「独ソ不可侵条約」を結んだうえで、ドイツとの不可避の戦争に専念できるように日本をコケにしたという体でした。この「不可侵条約」でヒットラーとスターリンは、他国の「分割」「割譲」(手前勝手な「山分け」)を図っていたのですから、実に「火事場泥棒」というほかありません。その際には、ポーランドやフィンランド、バルト三国などをソ連領土と目論んでいたのです。

 今回、フィンランドとスェーデンがNATOに加盟する方向で動いていることも、このような「略奪」「侵略」の前科者が闊歩しているのを見れば当然であるというべきでしょう。核攻撃を武器にして、加盟阻止へ圧力をかけているのが「P」です。お里が知れるとはこのこと。ぼくは落語の「らくだ」という話を、これまでどれくらい聞いたか。おそらく百回では足りないでしょう。いろいろな噺家で聞きましたが、やはり志ん生でしょうね。そして、元気な時代の松鶴さん。図体がでかく、のそのそしているが、やることが乱暴だという、人呼んで「らくだ」、通称うまさん。話の内容については触れません。とにかく手に負えないならず者が町内に越してきて、家賃は払わない八百屋・魚屋などの品物も好きなだけ持っていくのに、料金は一銭だって払わない。こんな「悪」がいるものだと感心するほどの「無法者」がいるものです。きっと江戸の長屋にも、この手の「やくざ」はいくらもいたし、その始末に困っていた庶民は、落語の中とは言え「らくだを殺し」(死因は「フグに中(あた)ったとされる)、積年のうっ憤を晴らしたのではないでしょうか。果たして今日のラクダは「ロシア」でしょうか。

 「らくだがくたばった」と、赤飯でも炊いて祝おうじゃないかという大家をはじめとする長屋の住人。そこに、ラクダの兄貴分、人呼んで「くまさん」がやってきて、ラクダ以上にでたらめの限りを尽くし始める。この悪友に取っ捕まるのが「くずやさん(きゅさん)」。商売に出かけた途端に、らくだの家の前に来ると呼び止められ、くまさんから無理難題を背負わされ、仕事に行けずしまいになるのです。町内から「香典(不祝儀)」を集めろ、お通夜のための「料理」を大家からもらって来い、死体を焼き場に運ぶのに樽がいるから、八百屋の「菜づけの樽」を借りてこいなどと言いつけるなど、さっぱりでしたが、その用事を済ませて、さて商売に戻ろうとすると、大家からお通夜の品が届き、その中でお酒があったので、くまさんは、屑屋さんに、「まあ、一杯」と盃を突き付けるが、仕事があるのでと、申し出を断る。「清めの酒だから」と、勧める。ところがきゅうさんは、仕事があるのでと断る。ついに、うまさんは怒り出す。…結局、このくず屋さんの働きで、らくだの通夜も済ませて一段落。(もとは上方のネタでした。最も得意としていた近代の噺家は、六代目、笑福亭松鶴さん(右上)。鶴瓶さんの師匠でした)(「松鶴「らくだ」:https://www.youtube.com/watch?v=u4nvboV1cPQ

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 悪い冗談ですが、「ラクダ」の登場人物をたどると、「らくだ」は手におえない乱暴で無法者の「ロシア」で即決ですが、悪友の「くまさん」は中国、いやベラルーシか。そして問題のくず屋のきゅうさんですが、適当な存在が見当たらないのが実際で、今日の暴力の拡大進行も、ここに原因がありそうです。一パイ酒が入ると、らくだの兄貴分も腰を抜かすほどの「啖呵」を切り、相手(ならず者)をへこませてしまう存在です。あるいは「インド」あたりが、とも言いたくなりますが、なかなかそうでもなさそう。思いもつかない人物や国が「きゅうさん」にならないとも限りません。八方手を尽くしてもいなければ、もう世界中の人や国が「(酒癖の悪い)くず屋のきゅうさん」になるほかないでしょうね。昔からよく言いましたね、「酒中に真あり」と。大好きなモットーでしたよ。

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● 日ソ中立条約(にっソちゅうりつじょうやく)Japan-USSR Neutrality Pact=日本とソ連が 1941年4月 13日松岡洋右外相とスターリン首相の間で調印,締結した条約。4ヵ条から成り,両国間で平和友好関係を維持し,相互の領土保全不可侵を尊重すること (1条) ,締約国の一方が第三国によって軍事行動の対象とされた場合には,他方はその紛争の全期間,中立を守ること (2条) ,有効期間は5年,期間満了の1年前に予告をもって廃棄通告しうること (3条) などを規定している。本条約は,日本にとっては北方からの軍事的脅威を弱め,南進に力を注ぐことができ,ソ連にとっては対独戦にのみ集中することができる効果をもった。その後ソ連は 45年2月のヤルタ会談の「秘密協定」で対日戦参加を決め,同年4月5日に廃棄を通告,日本は延長を希望したが拒否された。ソ連は中立条約の有効期間満了に先立つ8月8日に日本に対し宣戦布告した。(以下略)(ブリタニカ国際大百科事典)

● 独ソ不可侵条約(どくそふかしんじょうやく)Russo-German Nonaggression Pact 英語 Deutsch-sowjetischer Nichtangriffspakt ドイツ語=1939年8月23日モスクワで調印された独ソ間の条約で、秘密付属議定書が付せられる。条約は全文7か条。両国相互に攻撃せず、両国の一方第三国から攻撃された場合、他方はこの第三国を援助しない(第1条)、共通の利害に関する問題では協議する(第2条)などを約し、期間は10年(第6条)、調印と同時に発効する(第7条)という内容であった。両国は、秘密付属議定書において、東欧の領土的・政治的再編成の際、ポーランドを分割し、ナレウ、ビスワ、サンの各河川を境界として、フィンランド、エストニア、ラトビア、ベッサラビアソ連の、リトアニアをドイツの勢力範囲とすることを確認した。だがこの点は、ドイツの攻撃でポーランド国家が崩壊したのち、39年9月28日モスクワで調印された「独ソ境界・友好条約」の秘密補足議定書では若干修正され、リトアニアはソ連の勢力範囲とされるかわりに、ポーランドの分割線はほぼいわゆるカーゾン線に沿って確定された。(ニッポニカ)

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