「心の傷」が癒やされることはあるのか

【水や空】寄り添うことば その人は幼少の頃、自分のルーツが韓国にあると知り「僕は何者なのか」と考え続けた。人の心に関心を持ち、精神科医の道に進む。神戸大の付属病院に勤めていたとき、被災者になった▲同時に、被災者に寄り添う人にもなる。阪神大震災に遭い、打ちひしがれる人々の話をひたすら聞き続けた。ある日、避難所で女性に打ち明けられる。「助けてって、声が聞こえるんです」▲地震のとき、火の手から逃れる女性は叫び声を聞いた。「助けて、誰か助けて」。なにぶん必死で、声を背後に残して逃げた。それが今も耳の奥で鳴るのだ、と▲体とは限らない。人は災害や思いがけない出来事で、心にも傷を負う。2000年に39歳で病死した安克昌(あんかつまさ)医師の著書に基づく映画「心の傷を癒(いや)すということ」は、震災の頃はよく知られていなかった「心のケア」が物語の幹となる▲阪神大震災から28年たち、多くの人が慰霊碑に花をささげた。忘れられない。忘れてはならない。そう思う心に寄り添う人は、寄り添う言葉はあったろうか▲被災し、昨年亡くなった詩人の安水稔和(やすみずとしかず)さんは「これは」と題してつづった。〈これはいつかあったこと/これはいつかあること/だからよく記憶すること/…このさき/わたしたちが生きのびるために〉。寄り添う言葉を胸に刻む。(徹)(長崎新聞・2023/01/19)

 本日の駄文も「震災」に関わるものになりました。当時、ぼくは房総半島の一隅におり、けっして身近でこの大災禍を見聞したのではなかった。それだから、余計に、その災厄に翻弄された人々への思いが嵩じてくるのかもしれません。これは何処かで触れましたが、「震災後」に関して、先ず第一にぼくは中井久夫という精神科医のことを思い出す。彼が神戸にいたということは、いろいろな意味で大きな恵みだったと評しても過言ではないようにさえ思う。本日のコラムに出てくる安克昌氏も、その仲間の精神科医として忘れられない存在であります。大阪生まれの「在日三世」が、後年神戸大学で中井さんと出会い、いうに言われぬ「精神科医魂(psychiatrist mind)」を共有したことは多くの人が知っています。2000年11月に安さんが早逝した際の葬儀委員長を勤めたのが中井さんでした。「弔辞」の中で、中井さん、今は死者となった安さんに呼びかけ、問いかける。

 「きみは今死にたくなかったはずだ。切に死にたくなかったろうと思う。きみの仕事は花開きつつあったではないか。すでにきみはきみらしい業績を挙げていたけれど、それはさかんな春を予告する序曲だった。あたかも精神医学は二〇年の硬直を脱して新しい進歩と総合とを再開しようとしているではないか。きみは、それを、さらにその先をみとおしていたではないか。それをきみは私たちに示さずに逝く」(中井久夫(時のしずく」みすず書房、2005年刊) 〈左上は朝日新聞・2007年1月16日〉

 阪神淡路大震災が発生した直後から、安さんは精力の限りを尽くして働いた。もちろん、中井さんも同じことでした。その時の活動の結晶が「心の傷を癒やすということ」(作品社、1995年刊)となった。「弔辞」の中で、中井さんは「多くの患者はきみに支えられ、きみを命として生きていた。真実、多くの患者はきみに会って初めて本当の医者に会ったという。誰にもまして、きみの死を嘆き悲しむのは彼ら彼女らにちがいない」と、中井さんは、自身の嘆き悲しみを重ねるのです。(「弔辞」であることを考慮してもなお、哀切拭いきれない心情がここに出ているではないか。かけがえのない同志を失った悲しみが中井さんを襲う)

 昨日も、このコラム欄に引用されていた安水稔和さんの〈これはいつかあったこと / これはいつかあること / だからよく記憶すること /…このさき / わたしたちが生きのびるために〉という詩の叫びは、まちがいなく安さんの医師としての変わることのない姿勢でもあったはずです。災害は必ずぼくたちは襲う。準備があろうがなかろうが、必ず襲来します。その時のためにも「記憶する」ことはぼくたちに課された「努め」のようなものではないかと、愚かしくも考えているのです。

 「心の傷」が癒えることはあるのでしょうか。癒える、癒やすとはどのような状況をさしていうのでしょうか。恐らく答えはない。答えられる人もいないかもしれません。しかし目の前に「心の傷」を訴える人がいる限り、医師は、あるいは親しい人は、その「心の傷」を訴える人の側に立つ、立ち続けることしかできないのです。安さんを始め、もちろん中井さんもそうだったとぼくには思われますが、訴える人の側に立ち続けた人でした。癒やすとは、側に誰かがきっといるという実感・感覚を失わない状態をいうのではないでしょうか。「忘れられていない」「記憶されている」というのと同じことです。その意味では、安さんは言うまでもなく死ぬまで臨床医だったし、中井さんもまた、障害を通しての精神科臨床医だった。臨床とは、どんな場所であれ、「患者」とともにいることを自らに課す人です。助けを求める人の側(それは病院のベットの側とは限らない)に、あえて立ち続けることのできる人です。

 「患者」の病気を治すのは医者でもなければ薬でもない。「患者」自身の内なる「治癒力」という根本の生きる力によるものです。人間に内在する「自分を死なせない力」「生かせ続けようとするはたらき」、それを「病む人」が発揮できるためには、誰かが、なにかが「側にいる・ある」ことが欠かせないのでしょう。安医師が成し遂げようとした行為はそれだったと思う。それをして「精神科医」と人はいうのです。悩む人を見捨てない、その人に関心をいだき続ける、それだけの持続した「愛情」を持つ人を、ぼくは「医師」と言いたい。このような「持続するこころざし」が、一人の「患者」に向けられるとき、そこに信頼というか、見捨てられていない、忘れられていない「自分」を回復する〈取り戻す〉のでしょう。その時に、たとえそれが一瞬のものであっても「癒える」「癒えた」と受け取ることができるように思われるのです。〈左写真は神戸新聞より〉

 死に逝く息子と時間を共にした安さんの母堂は、病院に駆けつけた中井さんに向かって「(息子の死は)素敵でしたよ」といったそうです。「あんな素敵な死は見たことがありません」と。いのちあるものは生きている限り、その「死」は不可避です。生きることは死を俟(ま)って、初めて完結するのだとぼくは考えてきました。死があって初めて「生」は充足する〈いかなる死を迎えたとしても〉。医師として、あるいは人として、自らの死あることを忘れないためにも、〈これはいつかあったこと / これはいつかあること / だからよく記憶すること /…このさき / わたしたちが生きのびるために 〉という「記憶の確かさ」「確かな記憶」は誰にも求められているように、ぼくには思われるのです。〈安医師が亡くなられたのは、三番目の子どもが生まれた、二日後のことでした〉

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*追記 買い物に出かけて帰宅したら、神戸新聞の記事がアップされていました。それを以下に部分的に引用しておきます。

 「今も耳元で『助けて』」自分責める女性 PTSD、大震災以降広く認知 心のケアの必要性訴えた中井久夫さん「女性は涙ながらに訴えた。「今も耳元で『助けて、助けて』という声がするんです」/ 阪神・淡路大震災の発生からしばらくたった頃だった。避難所にいた女性は巡回ボランティアをしていた精神科医の紹介で、神戸大学医学部付属病院(神戸市中央区楠町)にやって来た。/ この話は、当時、避難所訪問に力を入れていた神戸大の精神科医、安克昌(あんかつまさ)さん(故人)が、著書「心の傷を癒(いや)すということ」(角川書店)に書きとめている。/ 彼女は激震の直後、迫る炎の中を逃げ回った。周囲で「助けて!」と叫ぶ声が聞こえたが、どうすることもできなかった。/ その光景が、その声が、心を離れない。余震におびえて眠れず、食事ものどを通らない。「私も死んでしまえば良かった」。自分を責め、涙を流した。

 「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」。彼女はのちにそう診断される。この言葉は震災以降、安さんの上司である中井久夫さんらが心のケアの必要性を強く社会に訴えたことで広まっていった。/ 中井さんはつづっている。

 「精神障害が誰にでも起こりうるという、当たり前の事実は、一般公衆にも、精神科医にも、この震災によってはじめてはらわたにしみて認識された」(以下略)(神戸新聞・2023/01/19;14:00)(https://news.goo.ne.jp/article/kobe/life/kobe-20230119013.html)(右写真は1997年3月、神戸大の「最終講義記念パーティー」であいさつをする中井久夫さん)(中井久夫教授退官記念誌より)(神戸新聞)

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 砕けた瓦礫に そっと置かれた 花 のくやしさ

【正平調】夜明け前、追悼の集いに向かう人の列に連なる。帽子に防寒着、手袋。背中にリュックサック。白い息を吐きながら無言で足を進めるうちに、あの年の冬に引き戻されるのを感じる◆28年前の冬、どこへ行くのもほぼ徒歩だった。昨年、訃報が届いた俳人の友岡子郷(しきょう)さんが〈倒(とう)・裂(れつ)・破(は)・崩(ほう)・礫(れき)の街寒雀(かんすずめ)〉と詠んだ震災後の街を、とにかく歩いた。一歩、また一歩、足を踏み出す日々◆追悼の集いでは黙とうに続き、震災で娘を亡くした上野政志さんが遺族代表のあいさつを始める。「まだ28年前の出来事です」。もう、ではなく、まだ。人によって感じる時の流れは違う。流れることなく止まったままの時もある◆あいさつを聞きながら、友岡さんの少し前、昨年の夏に亡くなった詩人の安水稔和(としかず)さんの四行詩を唱えてみる。〈砕けた瓦礫(がれき)に/そっと置かれた/花の/くやしさ。〉。あの冬は供えられた花にも感情が宿っていた◆その一方で差し伸べられた手に「ありがとう」と素直に口から出たこともあった。被災した人、離れた場所で家族や知人の無事を祈った人、支援に駆けつけた人、後に地域や学校で学んだ人。時の流れと同じく阪神・淡路大震災への思いはそれぞれ◆ならば、語ろう。明日もあさっても、もっと語り合おう。(神戸新聞・2023/01/18)

【正平調】アニメの長編映画「リメンバー・ミー」は死者の世界を描く。この国で人々は、楽器を奏でたり、みんなで食事を楽しんだり、陽気に暮らしている◆だがある時、死者の体が煙のように消えていく。「忘れられたんだ。生者の国で覚えていてくれる人が一人もいなくなると、『二度目の死』を迎える」。生者と死者の深いつながりを優しい語り口で伝えている◆きょう17日、神戸・東遊園地で催される「追悼の集い」で遺族代表を務める上野政志さんは28年前、神戸大の学生だった長女志乃さんを亡くした。がれきの中から志乃さんが創作したパラパラ絵本が見つかった◆1匹の魚がこいのぼりになり家族3人で仲良く空を泳ぐ姿が描かれていた。「絵本が広がれば、志乃は生き続けられる」。そう考え、父が出版したのは5年前。県内各地の小学校などに寄贈した。10秒ほどの物語に、志乃さんの夢が詰まっている。パラパラすれば、その優しさにいつでも会える◆神戸市立西灘小には昨年「アッコちゃん文庫」ができた。在学中に亡くなった浅井亜希子さんを題材にした絵本が2冊ある。ページを開けばそこにアッコちゃんがいる◆記憶をリレーする。あの顔、この顔を思い浮かべる。そうすれば、みんな、天国で笑顔になっている。(神戸新聞・2023/01/17)

【正平調】締め切り間際の原稿が残っていた。いつもなら徹夜だが、その日、作家の田辺聖子さんは集まった身内と酒席を囲み、「まあいいや」と寝床についた。1995年1月16日の夜である◆翌朝、激震。伊丹市の自宅にある仕事部屋を見れば、重たい書架がいすの背もたれをねじ伏せながら机にのしかかっていた。もしも夜通し仕事をしていたら、どうなっていたか分からなかったと、田辺さんが随筆につづっている(「楽老抄」、集英社)◆同じ被災地で、生と死を分け隔てたものは何であったか。わずか秒単位の揺れで突然断ち切られた多くの命。その無念を思う時、いくら胸に問いかけても答えは出ない◆阪神・淡路大震災の発生から364日後の1月16日。本紙夕刊が「大震災 それぞれの前日」という特集を組んでいた。誰もが明日の悲劇を知らず、いつも通りの日常を送っていたことを聞き取った記事だった◆夕飯の唐揚げを「おいしい、おいしい」と何度も言ってくれた大学生の息子。昼は庭木の手入れ、夜は娘との晩酌を楽しんだ父。何げない会話、笑みが最後の思い出になることを、そのときどうして知り得よう◆記事には、大きな見出しがついていた。「あの日の前に戻りたい」。変わらぬ思いで今日を過ごす人がいる。(神戸新聞・2023/01/16)

 被災したという記憶は消えない。阪神淡路地域の人々だけが被災したのではなく、この状況に直接間接に直面したものはすべてが被災したのです。自然災害の猛威というなかれ。如何にも自然の摂理(メカニズム)が働いたことは事実です。しかし、この地に集住して住んできた人々は、この災厄を逃れられなかったという意味では、大なり小なり、これは人災でもあるのです。人跡未踏地に「大地震」が発生したとして、それを「自然災害」というでしょうか。人間の歴史に含まれない「自然現象」は、それは人間や生命を毀損しないという理由から言うなら、「災害」ではないでしょう。

 ブラジル生まれの一人の思想家が言いました。彼は「識字教育」と称されるような教育実践をブラジル北部の地で始めていた頃のこと、1960年前後のことでした。一丁字も識らない農民に対して、「はるか彼方に、一本の松の木が立っている。その場所(野原)を『世界』ということができるだろうか」と尋ねた。すると農民は「いや、それは言えない。なぜならば、『ここは世界だ』という人間がいないからだ」といった。松の木を「松」と言い、海をみて、それは「海だ」という、そのように「名前を付ける(命名する)」ことこそが人間である証しではないかと、思想家は言った。「世界を命名する」、それが人間の独自性なのだとも言っていた。世界を広げること、そのために「命名する」、二十八年前の「あの大震災」と、ぼくは一人で言ってみる。人間が住み、そこで暮らすということは、「生活の場」が破壊されたとしても、その生活を再開する限り、そこには厳然とした「人間の世界」は存在するのです。「あの震災から立ち上がった人がいる」事実を知ること、それがぼくのいう「世界に名前を付けること」だと思う。

 「誰もが明日の悲劇を知らず、いつも通りの日常を送っていたこと」「何げない会話、笑みが最後の思い出になることを、そのときどうして知り得よう」「『あの日の前に戻りたい』。変わらぬ思いで今日を過ごす人がいる」(コラムより)

 悲惨な、無情で無慈悲な出来事に遭遇しても、誰もが「日常」を断ち切ることはできない。「大震災」の当日も、いつも通り「おはよう」と挨拶が交わされたに違いない。「おやすみなさい」と不安をいっぱい抱えて眠ろうとした人もいたでしょう。当時のある「避難所」に数日間、家族ともども寝泊まりした知人がいました。とても心安く「生活」はできなかったという。でも、そこにも「人間の生活」がある・あったという事実を、ぼくは忘れたくない。「被災したのはぼくだった」という思いを断ち切ることができないままで、ここまで生きてきたのです。(三日連続の同一「コラム」の引用です。この記事を読めたことを感謝します)(左の新聞写真も神戸新聞より)

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 朝に死に夕に生まるるならひ、ただ水の…

 

 あの日から二十八年が経ったという実感は、もちろんぼくにもあります。しかし、実際に被害に遭遇した人たちとはまったく異なる、疑似体験がもたらす実感であり、それをも「実感」といっていいのかどうか、大いに疑われるでしょう。発生当日の早朝、ぼくは無数の火煙が柱となって空高く上っていくのを、テレビ画面で見ていた。どうしてだったか、改めて考えるのだが、曖昧なままであります。恐らく京都のおふくろが「大変なことが起こった、テレビで観てや」と電話をくれたと、ずっと想っていた。しかし、今、その記憶は怪しくなっている。偶然に起きていてテレビをつけたのか。画面から届けられる映像はありありと目に焼き付いている。その後におふくろから電話があったか、こちらがかけたか。この震災で、知人や後輩を亡くした。他人事ではなく、震災の恐怖が身に纏わりついてきた。

 何年か後に被災地を尋ねたが、ごくごく表面的には「後遺症」は微塵も感じられませんでした。その後を含め、「自然災害」というにはあまりにも酷い事態が間髪をいれずに、この島国では連続してきました。やはり、それは「自然災害」と呼ぶには、あまりにも人的作為が働いていたと痛感してきた。その十六年後の東日本大震災でも同じような感情がぼくには生じていた。都市化というのか、文明化というのか、あるいはそれを含めて「近代化」といってもかまわない。都市に集中して生活の基盤が整えられる。市民とか都市を表す「 CIVIC、CIVIL」 とは野蛮(野生)状態を脱して、都市(便利になった生活環境)に住むということを指していた。それは、事の是非。善悪の問題ではなく、「生活の利便」「快適さ」への飽くなき願いや欲求が生み出した生活の方法でもあったでしょう。

 ぼくは兼好や長明の残した記録書を、あるいは評論文を早くから読んできました。そこに明らかにされていたのは、一面では、人間存在の情欲の深さ、自尊心の拡張意識、それは時代の新旧や前後を問わない、人間であることの宿命でもあるでしょう。また、そんな人間たちが住んで作り出している「社会」「世間」の頼もしさと併存してある「過当な競争意識」「優劣競争」でした。そのような競争意識が生み出したものには、いろいろな値打ちのあるものが含まれていたことは事実です。しかし、そのために生み出されたのは、身分意識であり、貧富の差であり、権力闘争の繰り返しでもあった。その上に、とくに「方丈記」に見られるように「天変地異」の無情な摂理に翻弄される人心の惑乱とその悲劇でした。一面では「阿鼻叫喚」とも言えるし、「地獄変」ともいいたくなるような惨状でした。このような「盛衰」を幾度も繰り返しながら、人類は、今日に至るまで営々と、あるいは汲々としながら、目には見えないような歴史の轍(わだち)、つまりは先人の足跡に自らの足跡を重ねてきたのです。歴史に参加させられてきたという事実を想起しておきたい。

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」

 

この大震災の直後に「地下鉄サリン事件」が発生しました。「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまるためしなし」です。このサリン事件に、ぼくも巻き込まれていたかもしれなかった。そうならなかったのは、一瞬の差であった。一本前の地下鉄に乗っていたという風でしたから。ことさらの事変や災害のことだけをいうのではないでしょう。人は、あるいは社会は、あるいは国家や地球人は「よどみに浮かぶうたかた」です。どんな栄耀栄華を遂げようと、哀れこの上ない悲惨を身にまとおうと、いずれも「久しくとどまるためしなし」といって、そこに諦念を認めたり、生きることの甲斐性のなさをいうのではないのです。その「うたかた(泡沫)」は「消える」運命にある、それゆえに、そこからまた「結ぶ」というのではないでしょうか。「望月の欠けたることなし」と強弁した平家の総大将もまた、「うたかた」でした。何に比べて大きい・小さいというのではなく、元来、「いのち」は卑小であり、儚(はかな)いものであるという前提(約束)で存在しているのであり、その事実をぼくは、このような悲しみの再確認されるべき都度、心に刻んできました。本日もまた、そうです。「よどみに浮かぶうたかた」それが、人に限らず「いのち」そのものの有り様です。

 「朝に死に、夕べに生まるる慣らひ、ただ水の泡にぞ似たりける。知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来りて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目をよろこばしむる。その、主と栖と、無常を争ふさま、いはば、朝霧の露にことならず」(「方丈記」浅見和彦校訂・訳、ちくま学芸文庫版)

 いろいろな思いがこもる「今朝の線香」でした。(あらためて、合掌)

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 【正平調】締め切り間際の原稿が残っていた。いつもなら徹夜だが、その日、作家の田辺聖子さんは集まった身内と酒席を囲み、「まあいいや」と寝床についた。1995年1月16日の夜である◆翌朝、激震。伊丹市の自宅にある仕事部屋を見れば、重たい書架がいすの背もたれをねじ伏せながら机にのしかかっていた。もしも夜通し仕事をしていたら、どうなっていたか分からなかったと、田辺さんが随筆につづっている(「楽老抄」、集英社)◆同じ被災地で、生と死を分け隔てたものは何であったか。わずか秒単位の揺れで突然断ち切られた多くの命。その無念を思う時、いくら胸に問いかけても答えは出ない◆阪神・淡路大震災の発生から364日後の1月16日。本紙夕刊が「大震災 それぞれの前日」という特集を組んでいた。誰もが明日の悲劇を知らず、いつも通りの日常を送っていたことを聞き取った記事だった◆夕飯の唐揚げを「おいしい、おいしい」と何度も言ってくれた大学生の息子。昼は庭木の手入れ、夜は娘との晩酌を楽しんだ父。何げない会話、笑みが最後の思い出になることを、そのときどうして知り得よう◆記事には、大きな見出しがついていた。「あの日の前に戻りたい」。変わらぬ思いで今日を過ごす人がいる。(神戸新聞NEXT・2023/01/16)(⇧ 火がともされ、浮かび上がった紙灯籠の「むすぶ」の文字=17日午前4時51分、神戸市中央区加納町6、東遊園地)(神戸新聞NEXT・2023/01/17)

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 戦争をしない国ではなかったのか

【斜面】国防色の近未来 緑がかった茶褐色を旧陸軍は「国防色」と定め、軍服に用いた。日中戦争のさなかの1940(昭和15)年には政府が勅令によって「国民服令」を制定。この色を使った詰め襟や折り襟の上衣やズボンなど「国民服」の普及を推進した◆日常着を統制し、国民の心を戦争に総動員する体制づくりである。当初は普及しなかったが、政府の指示や宣伝によって着用する人が増えた。敗戦間際の社会は国防色に染まっていたのだろう。出征する家族の服の国防色が忘れられない人も多いはずだ◆軍事が最優先されれば他の政策は二の次になり、従属せざるをえない。やがて予算や政策や国柄も国防色に塗り変わっていく。その道に踏み込んだのではないか。防衛費の大幅増に続く安保3文書の改定だ。他国領土を攻撃できる武器を持てば、戦争をかえって招き寄せかねない◆フランスの寓話(ぐうわ)「茶色の朝」は、心理学者フランク・パブロフ氏が極右勢力が台頭し始めた1998年、世に出した。茶はナチス初期の制服の色だ。舞台は政府が茶色以外の犬や猫を飼うことを禁じたファシズムの国。次第に新聞や本も茶色一色になる◆主人公は違和感を覚えつつ面倒に巻き込まれないよう流れに身を任せる。ある朝、家のドアを激しくたたく音が…。懸念を感じた時に声を上げなければ手遅れになるとの警鐘を発している。日本はファシズム国と違うと安穏に構えていられるのか。「国防色の朝」はいつだって戻ってくる。          

■あとがき帳■  集団的自衛権の行使を認める安保法制の際には、学生、学者、市民ら多様な人々が反対の声を上げ行動を起こしました。今回はあの時ほど市民運動が盛り上がりをみせていません。敵基地攻撃能力を持てば、米国の「矛」の一翼を担わされ、集団的自衛権を行使して戦争当事国になるリスクがあるにもかかわらず。ウクライナ戦争を機に周辺国の「脅威」を強調する政治家自身が浮足立っているように思います。彼らの手に委ねているだけでは、際限のない軍拡競争に突き進んでしまいます。私たちも不安にあおられるまま軍拡を追認すれば、後悔する日が来るような気がしてなりません。一度立ち止まって考えるべきです。政治家も、私たちも。「茶色の朝」(フランク・パブロフ著、大月書店刊)はそんな気付きを与えてくれる本です。戦時中の国民服については井上雅人著「洋服と日本人」などが参考になりました。(論説主幹 丸山貢一)(信濃毎日新聞デジタル・2022/12/17)  

● 国民服【こくみんふく】=日中戦争中の1940年から敗戦時まで,日本の男性の日常着・礼服として着用された服。政府の提唱した〈国民精神総動員〉の一環として1940年11月1日の勅令で制定された。色は国防色(カーキ),衿の形の違い,ポケットやベルトの有無などで甲号と乙号があり,いずれもチョッキ,ネクタイ,ワイシャツがなく,上衣,中衣,袴(ズボン),外套,帽子,靴で構成される。女性には1942年〈婦人標準服〉が定められた。洋服型の甲号と和服型の乙号のそれぞれに一部式・二部式があり,上衣にスラックスまたはもんぺの下衣という活動衣もあった。国民服・標準服とも材料難からあらゆる層に浸透するには至らなかったが,戦後に女性の洋装化が進むきっかけとなった。(マイペディア)

 少年時、しばしば「国防色」とか「カーキー色+」などという言葉を耳にしました。もちろん、それがどういうものかはよく知っていました。戦後しばらくは、その色の生地で作られた「国民服」として着用していた人もいた。カーキー色とは黄褐色を言うそうです。由来は、砂漠地帯での「保護色」になるからとか。今日では「迷彩色(服)」ということも多く、まるでカメレオンの生態に似せているようでもあります。しかし、やがては軍人(兵隊)もいらない時代が来る(あるいは、すでに来ているともいえます)。ミサイルにしろ、敵を攻撃する場面はなくなりませんが、わざわざ戦場に出かける必要もなく、AIですべて管理し、目標を外さないで射当てる時代が来ています。ドローンがいかなる目的で開発されてきたか、今となれば明らかでしょう。核弾頭を積んで、目標物に一直線です。(+カーキー色=《カーキはkhaki (土ぼこりの意で、もとウルドゥー語)から》黄色に茶色の混じったくすんだ色。軍服などに用いられる。枯れ草色》(右上の色)(デジタル大辞泉)

 二十世紀初頭に生まれた人は、今では存命していないでしょう。つまりは戦争(戦場)体験をした人は、もうほとんど尽きてしまいました。もちろん、幼児に原爆や(各都市の)空襲を経験した人は顕在ですが、まもなくいなくなる運命にあります。言いたいことは唯一つ、「戦場経験」もなければ、「被災経験」すらない国会議員が、それぞれの思惑(呉越同舟)で「軍備増強」を強引に決めました。内容は「増強にかかる費用の確定」のみという、実に驚くべき破天荒な決定でした。「軍事が最優先されれば他の政策は二の次になり、従属せざるをえない。やがて予算や政策や国柄も国防色に塗り変わっていく。その道に踏み込んだのではないか。防衛費の大幅増に続く安保3文書の改定だ。他国領土を攻撃できる武器を持てば、戦争をかえって招き寄せかねない」というコラム氏の指摘は肯綮に当たるものです。誰に、どこに向けて「攻撃」をするつもりでしょうか。

 しかし、この国が「戦争主導」をしたいとか、しているとかいうのではなく、むしろ「集団的自衛権」という無理筋の「戦争参加」によって、今回の一連の国防関係の宿題を決めたのでした。それはまた、とっくの昔に敷かれた既定路線であることは周知の事実です。政府与党が「防衛費倍増」の概要を決め、あわせて「安保関連3文書」改定を決めた、その「報告」を日本側から受けて、どういうわけだか、米国の政府・軍関係者から、「よくやった」「歓迎する」などという「お褒めのことば」がだされているのです。どういうことでしょうか。日本が独自に「国防費を倍増」したのを「同盟国」が喜ぶのとはわけが違って、「よくぞ、当方の指示を受け入れた」という塩梅です。以下はその報道。建前上ではあっても「専守防衛」を国防の中核としてきたのに、今回の3文書改定では、一歩も二歩も前に進んだことになります。「専守防衛」の思想から「攻撃能力」をどうすれば引き出せるのか。あるいは言葉の綾と取られかねませんが、やられる前にやってしまえ、そんな姿勢がありありと見えています。

 「日本政府が防衛力の抜本的な強化に向け、安全保障関連の3つの文書を閣議決定したことについて、アメリカのバイデン政権は歓迎する意向を表明し、軍事力を増強する中国などを念頭に、日米の連携を強化しながら抑止力を高めたい考えです。/ アメリカ・ホワイトハウスで安全保障政策を担当するサリバン大統領補佐官は、日本政府の決定について「日本は自由で開かれたインド太平洋を守るため、歴史的な一歩を踏み出した」と歓迎する声明を発表しました。/ また、オースティン国防長官は声明で、日本が敵のミサイル発射基地などをたたく「反撃能力」を保有することを支持するとした上で「両国の国防戦略の目標を支援するため、日本と協力することに全力を尽くす」と強調しました。/ 日米の安全保障問題に詳しいアメリカのランド研究所のジェフリー・ホーナン上級政治研究員は「アメリカは20年前に持っていたような支配力や優位性を失っており、日本が地域に積極的に関与し能力の高い防衛力を持つことは 大きな助けとなる。アメリカの資源を特定の役割や任務に使えるようになる」と述べ、日本の防衛力の強化はアメリカにとっても利益が大きいという認識を示しました。/ バイデン政権は、急速に軍事力を増強する中国などを念頭に日米の連携を強化しながら抑止力を高めたい考えです。(NHK・2022年12月17日)

 鬼畜米英と拳を上げて対峙した米国に、如何ともしがたく「無条件降伏」を強いられた、それは結果的には受け入れるべきだったことは間違いない。しかし、その後のこの国の外交戦略は「あってなきが如し」でした。とにかくアメリカ一辺倒、アメリカがクシャミをすれば日本は風邪をひくといわれたのは、まだしものこと、何が何でもくっついていくという「アメリカ追随・追従」でした。アメリカの影、そうでもいいたいような足取りでした。この方針は過去二十年、頓(とみ)に強化されてきま。誰かと仲良くなるのはいいことですが、必要以上に親密の度を深めると、周りから切り離されることにもなりかねません。まして一国の場合、ある国が覇権を狙う国家であるなら、尚更、その国と敵対関係にある国とは友好的ではなくなるのは避けられません。「坊主憎けりゃ、袈裟まで悪い」ということは、いつの世にも、どこにでもある感情ですね。「虎の威をかる狐か、狸か」(率直にいうなら、大枚が動くのだから、いわば「公共事業」です。この島社会で、公共事業は政治家にとっては、道に落ちている「宝物」ですな。宝物が手に入るなら、理由はなんだって付けられるというわけ)

 個人の場合とは異なり、国際関係では単純明快な交際術は存在しないかもしれない。しかし、一定の姿勢(距離)を保ちつつ、平和に徹する思想をなくさなければ、殆どの国とはうまくやれるのではないでしょうか。明治の初頭、「脱亜入欧」などという、現実には存在し得ないような「お題目」を大声で唱えていました。ある時期までは欧米の尻馬に乗って「大国」意識を強めて来たのは歴史の示すところ、その結果もまた、ぼくたちの忘れ得ない大きな誤ちとして刻印されてきたのです。にもかかわらず、またぞろ、「アジアの盟主」といいたいのか、それとも、究極の「脱亜入米(欧)」ともいえるだろう、アメリカと共同歩調(腰巾着)を取りたいのか、いずれにしても「善隣友好」とは逆の方針と方向を取ろうとしているのは一層明らかになりました。ぼくのような素人でさえも、いかにも拙い手法だといいたくなるのです。しかも、そんな大事なことを勝手に、「身内」だけで決めていいはずもないでしょう。いずれ、この島国は足蹴(除け者)(爪弾き)にされる時が必ず来ます。

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 窖(はか)ちかく雪虫まふや野辺おくり (蛇笏)

 【斜面】雪虫舞う 井上靖の自伝的小説として知られる「しろばんば」は、夕暮れに子どもたちが小さな虫を追いかけながら家路に就く場面から始まる。〈綿屑(わたくず)でも舞っているよう〉と描かれるのは雪虫だ。舞台の伊豆地方では「しろばんば」と呼ばれた◆秋が深まるころ、糸状のろう物質を身にまとって飛び交う。北海道では風物詩として初雪の予報とともに報じられる。綿虫と呼ぶ地域も多く、信州では「ゆきばんば」や「まんまん」の名も残る。1週間前、長野市内の公園で浮遊しているのを見つけた◆体長数ミリで羽がある。正体はアブラムシの仲間だ。普段は羽がなく、植物に吸い付いてほとんど動かず、雌が単独で子をつくる単為生殖で増える。秋になると羽を持つ個体が現れて別の植物へ移動。卵で越冬するために雄と雌が生まれる。宙を舞う雪虫は命をつなぐ一瞬の光景だ◆この不思議な生態を、フランスの博物学者アンリ・ファーブル(1823~1915年)も注目している。アリと共生したり他の虫の餌になったりする様子とともに昆虫記に書き留めた。当時は明確でなかった生態系の物質循環にも考えを巡らせている◆本紙の過去の建設標をたどると「雪虫を捕まえたり、つぶしたりすると、家がつぶれるほどの大雪が降るから放してあげなさい」と祖父から注意された思い出をつづる投稿があった。暖かい時季は爆発的に増えて植物を枯らす嫌われ者だが、冬を前に頼りなげに漂う姿はどこかいとおしい。(信濃毎日新聞・2022/11/20)

● ユキムシ(ゆきむし / 雪虫)=晩秋から早春にかけて現れる一部の昆虫の俗称であるが、大別して二通りのものがある。その一つは、晩秋から初冬のころに北海道や東北地方でみられるもので、白い綿状の分泌物をつけて飛ぶ小さな虫をいう。これらは半翅(はんし)類のアブラムシ科の一群(リンゴワタムシ、ナシワタムシ、トドノネオオワタムシなど)で、雪の降り出す季節に無数に飛び立ち、それが粉雪の舞うようにみえるので雪虫とよばれる。人々はこれを目当てにして冬仕度をし、俳句の季題にもなっている。これらの虫では秋が深まるとはねのある雌が産まれ、綿状の蝋(ろう)物質をつけて飛ぶ。ほかの一つは、雪国で早春に雪上で活動する昆虫のことを雪虫とよび、トビムシ類のクロユキノミなど、カワゲラ類のセッケイカワゲラなど、双翅類のユキガガンボ、クモガタガガンボ、イマニシガガンボダマシ、フユガガンボ、アルプスケユキユスリカなどが含まれる。(ニッポニカ)

● あぶら‐むし【油虫】1 (「蚜虫」とも書く)半翅目アブラムシ科の昆虫の総称。体は5ミリ以下でやわらかい。のあるものとないものとがある。草木に群れて汁を吸う。春・夏は雌のみの単為生殖で雌の幼虫を胎生する。秋になると雄を生み、有性生殖で卵を産む。排泄物は甘く、他の昆虫が好み、種類によりアリと共生するのでアリマキともいう。ゴキブリの別名。《 夏》「ねぶたさがからだとらへぬ―/汀女」 人につきまとってただで遊興・飲食をするものをあざけっていう語。「―といふは、虫にありてにくまれず、人にありてきらはる」〈鶉衣・百虫譜〉 遊里で、冷やかしの客。「本名は素見あざ名は―」〈柳多留・三七〉(デジタル大辞泉)

 この小説をいつ頃読んだのか、すっかり忘れています。はるかな昔ではなかったのに、その後、でたらめに無駄ごとを脳細胞に詰め込みすぎた、その祟(たたり)であろうと、臍(ほぞ)を噛んでいる。ぼくが毎日、各地各紙の「コラム」に触れるという日課は、忘却の彼方に追いやられている種々雑多な記憶を、普段ほとんど開けてみることもなくなった「記憶の物入れ」の扉を開けることで、その下手物知識(記憶)のいくつかが、ありありと蘇ってくる、そんな楽しみが忘れられないからです。ぼくは井上靖さんはかなり読んだし、その生き方がぼくには好感が持てる作家でしたから、なおさら「しろばんば」の「洪ちゃん(主人公)」に、突如再会したような懐かしさを覚えます。恐らく学生時代に読んだはずですが、ぼくには難しい小説(自叙伝)だった。今から思えば、大人社会の確執や闘争、あるいは柵(しがらみ)に翻弄される小学生(井上靖)が主人公だったから、なおさらに背伸びをしてまでも見たくなるような、「大人社会」ではなかったからでした。井上さんは、大学を八年かけて卒業した時には結婚していて、子どももいたといいます。文字通り、柔道一直線だったからか。伊豆は、若い頃に幾らか歩いたことがあります。それだけでもなんだか懐かしい。まったくの無防備で雨中の天城高原にも登りました。物を知らないというのは、恐ろしいことでした。(左は伊豆湯ヶ島「浄蓮の滝」)

 小説の内容はともかく。いったい「しろばんば(雪虫)」を見なくなってからどれくらいの時間が過ぎたのでしょうか。この昆虫の軍団を毎夕のように見たのは、石川県在住の頃でしたから、すでの七十年余が過ぎました。その時、これを「雪虫」と呼んでいたか、あるいは別の名前で読んでいたか、その記憶はありません。暮れかかること、かすかに一群の虫だかなんだかが降り注いでくるような、そんな光景を懐かしく思い出している。じつに物悲しい場面が浮かんでくる。雪虫にはさまざまな異称があります。「綿虫」「大綿」「しろばんば」その他。それに引き換え、今でもたまに遭遇する「蚊柱」、こちらはとにかく騒々しい。だからこそ、物言わず、静かに降ってくる雪虫の「怖さ」もまた独特のものだったと記憶を呼び覚ましているのです。

 打ち明けてしまえば、「雪虫」は「アブラムシ科」の一群だという。アブラムシを「ゴキブリ」というところがあるし、ぼくもそう読んでいました。ゴキブリは、これまた世界中に生息する昆虫で、何でもかんでも「ゴキブリ」と呼ぶような雰囲気があります。「あの野郎は、ゴキブリみたいなやつだ」などと、誰彼なしに罵ったりします。ご当人に悪いのか、ゴキブリに申し訳ないのか、どちらにしても目の敵、嫌われ者の最上位に位置するらしい。ぼくは決してこれらが好きではありませんし、いつだったか、南米のある地方ではこれを「食料」にすると聞いて、魂消(たまげ)たことがありました。ところが、これを食用にしているのは、日本を始め、各地にあるのですから、人間は驚くべき「雑食」動物なんですな。この島では「ゴキブリの唐揚げ」「佃煮」などが有名だそうです。

● ゴキブリ=ゴキブリ目に属する昆虫の総称。俗称アブラムシ。体は著しく扁平で,黒色ないし淡褐色。全世界に3700余種,熱帯に多い。陰湿な場所を好み,夜間活動して摂食する。チャバネゴキブリは体長10mm内外で日本全土に最も多く,ほかにクロゴキブリ,ヤマトゴキブリなど人家内に定住して病菌の媒介をし衛生害虫となる種類が少数いる。駆除法はトラップの使用,殺虫剤の塗布など。(マイペディア)

 「雪虫」から、があらぬ方向に無駄話が流れていきました。実際に「雪虫」を目にしなくなって数十年が経ったことを、あらためて知り、驚いています。この世界から消えるはずもないので、暮れなずむ刻限に外に出なくなっただけなのかも知れません。いや、これもまた「温暖化」の影響で、どこかに隠れてしまったのかも知れません。しかし北の地方からは「雪虫」の報告がいまなおなされていますから、きわめて限られた地方にのみ見られなくなったのでしょう。その昔、体についた「雪虫」を指で触ると、ネバネバした感触が残り、とても気分が悪かった。正しく「アブラムシ」の一種でしたね。家庭菜園で、トマトやきゅうりなどを植えていたりすると、必ずやってくるのが「アブラムシ」でした。それを指で摘みとったときの感触に、そういえば「雪虫」のときとよく似ていましたね。

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 気のせいですか、雪虫を詠み込んだ俳句も、なんだか物悲しい雰囲気のものが多いように感じます。そのうちのいくつかを。

・憂き日なり綿虫あまた飛ぶ日なり (相馬遷子) 

・漂ひて綿虫は死の淵に沿ひ (飯田龍太) 

・雪虫や俄かに君が他界せし (瀧井孝作) 

・雪虫を見てよりこころさだまらず (石川陽子)

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 思考する演奏家であるこの類い希なアーティスト(Bernstein)

 【日報抄】「『もっこ』だったからね」。亡き父について母はよく、愛情を込めて揶揄(やゆ)する。「もっこ」は佐渡弁で「へそ曲がり」や「変わり者」。家では無口で自己主張をしなかったが、長年連れ添った母には頑固な一面を見せたのだろう▼ことし生誕90年、没後40年を迎えたピアニストのグレン・グールドも正真正銘の「もっこ」だった。天才ぶりや端正な顔立ちとともに奇行が注目を集めた。夏でもコートを着込む。背を丸めたり足を組んだり、セオリーに反する姿勢でうなり声を上げて演奏した。独自の作品解釈を曲げず、周囲と衝突した▼名指揮者バーンスタインと共演した演奏会では、最後までテンポについて意見が合わなかった。納得いかないバーンスタインは聴衆に「これはグールドのテンポです」と前置きして演奏したという▼普通なら脂が乗る30代でコンサート活動から退き、専らレコーディングに取り組んだ。現在のようなデジタルの編集技術はない時代。録音テープを切り貼りし、最高の音を追求した▼彼の演奏は今も根強い人気がある。録音メディアを芸術と呼べる領域にまで高めた先見性も近年、改めて評価されている▼自分を曲げない人は、しばしば厄介者と見られる。だが、彼らの発想やこだわりは新しい価値を生み出してきた。アップル創業者のスティーブ・ジョブズも長岡藩家老の河井継之助も偏屈と言われた。近年はあえて「変人」を採用すると掲げる企業もある。今後「もっこ」は褒め言葉になるかもしれない。(新潟日報・2022/11/11)

協奏曲にあっては誰がボスなのか?(会場爆笑) 独奏者なのか、それとも指揮者なのか?(大爆笑)」(このライブ録音を、かなり前にネットで見たことがありました。バーンステインにとってはかなり深刻な場面であったと思われましたが、ユーモアの感覚を失わず、しかもグールドに対する彼自身の評価(敬意)も添えて、「テンポの不一致」を説明しました。これは「グールド氏のテンポだ」と。異例の「告白」でしたが、それはまた、指揮者の「良心」というものだったとも言えそうです。ぼくには好感が持てた。(バーンステインの内心穏やかならざる「心境(雰囲気)」も感じましたが)(https://www.youtube.com/watch?v=iHz2i6bhUXw

 「ボス云々」は、バーンステインのスピーチの触りです。グールドという音楽家、言うまでもなく、ぼくがもっとも好んだ人で、彼の右にも左にも、誰も出る人はいないというくらいに、彼を受け入れていたし、とにかく、このピアニストにははまり込んだ人生でした。ぼくは彼をすでに半世紀以上も聴き続けています。もちろん、バーステインも好きでした。彼は多彩な人でピアノも作曲もやり、指揮も本職として大いに評価されてきた人でした。「ウエストサイド物語」の音楽を作曲した。また小澤征爾さんをいの一番に評価した人としても忘れられない音楽家でした。彼は、若い才能を伸ばすことに大きな労力を注いだことでも知られています。

● バーンスタイン(Bernstein,Leonard)([生]1918.8.25. マサチューセッツ,ローレンス[没]1990.10.14. ニューヨーク=アメリカの指揮者,作曲家。ハーバード大学で作曲を学び,卒業後カーティス音楽院で F.ライナー,S.クーセビツキーに指揮を学んだ。 1943年ニューヨーク。フィルハーモニー交響楽団の指揮者 A.ロジンスキーに認められ,副指揮者となる。 45~47年ニューヨーク・シティー・センター管弦楽団の指揮者,58年ニューヨーク・フィルの常任指揮者。翌年同楽団監督となり,ニューヨーク・フィルハーモニックと改称するなど数多くの新しい試みを行なった。一方,作曲家としても『エレミア交響曲』で 42年ニューヨーク批評家賞を受賞。ポピュラー音楽にも手を染め,ミュージカル『オン・ザ・タウン』 (1944) ,『ウエスト・サイド物語』 (57) ,その他バレエ・映画音楽など幅広く活躍した。(ブリタニカ国際大百科事典)

 この「ブラームスのピアノ協奏曲一番」は曰くつきで、ぼくもこのライブ盤を持っています。(1962年4月6日、カーネギーホールでのライブ)もちろん録音はモノラルです。そのような器械的なレベルの低さが消えてしまうような、ぼくにとっては新鮮な演奏でした。この二人には多くの演奏(共演した)が残されています。おそらくバーンステインはグールドの天稟(てんぴん)を誰よりも認めていたのでしょう。ぼくがバーンステインを愛聴するのは、この度量の広さ・深さでした。この島の音楽家、ことにに指揮者で、彼の導きを受けた人はたくさんいます。

 グールドについては、何度もこの駄文集録で触れていますので、ここでは余計なことは言いません。もはや、没後四十年も過ぎたかという感慨はあります。訃報を聞いたときの衝撃のような驚きは今でもはっきりと記憶しています。ぼくは四十前でした。それ以前から、彼の演奏論を書いてみようと四苦八苦していたのですが、遂に書くことはありませんでした。ひたすら聴き続けるということに徹したのです。彼の記録で、公刊されたもののほとんど(レコードや書籍その他)を手に入れ、こんな天才が同時代に行きているという感覚をいつでも豊かに持っていたいと念じてきた。(このブラームスの「P.C.協奏曲一番」のエピソードについて触れている方がおられましたので、紹介しておきます。「クラシックのCD聴き比べ」)(https://www.youtube.com/watch?v=iHz2i6bhUXwl

 本日はここまでにします。グールドのレコード録音の方法などについても述べるべきことがありますが、それも別の機会に。「日報抄」の記者の導きにより、思わないところ、思わぬ時期にグールドに再会したような気がしましたし、こんな経験は今回が初めてでした。同好の士がどこにでもいるという驚きと共感を、同時に得たという貴重な機会を喜んでいます。

 モーツアルトは「神童」とか「天才」と称されてきました。ぼくはその実際は知りません。しかし、グールドは、紛れもなく「ジェニー(genius)」の名に値する音楽家だったと、同時代に生きて、彼の演奏を聴く機会に恵まれた人間として、身をもって信じてきました。

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