あのころのことを忘れていないか

【国原譜】の折り込みチラシを見ていたら、買い取りのオーディオの中に所有のスピーカーがあった。買ったのは10年以上も前だが、半値以上の価格が提示されている。◆普通の電機製品なら10年以上前の商品に価値がつくことは、ほとんどないだろう。趣味性の高い音楽関係ならではだ。このスピーカーは気に入っているので売却するつもりはないが。◆認知症で入院している知人女性の話。自室に閉じこもり気味だったが、音楽のリハビリに反応を示し、懐かしの音楽を聴きながら思い出話を語るようになったという。◆新型コロナ感染防止のため好きなカラオケを自粛していた高齢者の中には、仲間と交流できず、「コロナ鬱」になった人も多いようだ。今後は徐々に解消されそう。◆このように音楽が人に与える影響は大きい。趣味、精神の安定、生きがい、文化、コミュニケーションの手段。音楽嫌いではない限り、音楽は人間の心の糧に。◆先日、奈良フィルハーモニー管弦楽団演奏会のパンフを見て法人会員の少なさに驚いた。音楽文化を理解しない企業は一流とはいえない。(栄)(奈良新聞DIGITAL・2023/03/19)

 昨日の午後から、今朝まで、どれだけ聞いているか。一人の女性ピアニストの street piano 演奏です。場所はさまざまで、茨城や奈良などの駅に置かれているピアノを弾いていることもありました。何度か耳にし目にしていたが、ゆっくりと立ち止まって聴いたことがなかった、すっかりはまってしまった感があります。おそらくは、小さい頃からピアノを弾いていたと思われますが、なにかのきっかけで、クラシックは止めて、もっぱら JPops や歌謡曲などがメインになったのでしょうか。詳しいことはわからないが、プロの弾き手と見受けます。何枚かの CD も出されていたり、リサイタル・ライブ(?)もやられているようです。奈良県の出身で、なにかがしたくて、親元を飛び出したと言われている。現在は埼玉県所沢近辺が拠点のようで、所沢駅のピアノをよく引かれているように思われます。

 これまでにも何度か触れましたが、ぼくは歌謡曲もクラシックも、何でも聴いてきました。バッハから都はるみまでと、昔は言っていましたが、今ではジャンルを問わずと言っておきたい。ネットが普及しだした頃、盛んに「フラッシュ・モブ」なる路上(街頭)演奏や演奏会がアップされていたし、それにかなり惹きつけられていました。今でもやられているようですが、最近は「路上ライブ」が大流行という状況にあります。ぼくは、それを見ながら暇をつぶしている。この「いいしょう」さんは、「ストピ(ストリートピアニスト)」と言っていいのでしょうか。かなり鍛錬されている方だと思う。あるいは、相当に名を知られている方で、知らないのはぼくばかり、そういうことかもしれない。立派な演奏会場にはそぐわない、開放(解放)されたピアノの声が聞こえてきます。

 street piano は欧米でも盛んに行われている。決して見下した表現ではなく「大道芸」の一種だろう。戦前までは各地で「門付芸人」と言われて、盲目の三味線語りがおられた。有名なのは「瞽女(ごぜ)」でした。あるいは、高橋竹山さんなどは典型でした。何度か、彼のライブに出かけて心を打たれた。東北や北陸に多く見られたもので、今も亡くなった友人がこれらの記録を残すために何枚かのレコードにまとめて、世に出したことがあります。大道芸、あるいは吟遊詩人(a wandering minstrel)ならぬ、放浪ピアニスト、そんな感じがすると、ぼくはとても嬉しくなる。その昔、しばしばクラシックの「演奏会」に出かけていました。いかにも上品ぶった装いで、なんとも堅苦しいものがほとんどでした。音楽は文字通り「喜怒哀楽」の表現の一つで、それが「裃(かみしも)」をつけて演じ、聴くものになっていた。ぼくにはそぐわないものだったという気がしていた。今でももちろんクラッシクは廃れてはいないのでしょうが、ぼく流に言うなら、すべてとは言わないが、多くは「博物館所蔵品」の如きものではないですか。演奏会そのものが、遠くない将来に「歌舞伎」のような「無形文化財」として保存されることによって生き残れないのではないかと愚考しています。(歌舞伎だって、ことの始まりは、京都三条の鴨川堤で、出雲の阿国が待ったと言われている。遊芸の根っこになったものだったろう。文化・芸術(文芸)の解放が出発点にあった。それが、時の権力と結びつくことで囲われれものになっていたのです。庶民の芸、庶人の文化だったものですから、それが時代を遥かに隔てて、街中や駅中に生まれても、一向に違和感はない。

 そこへ行くと、ストリート・ピアノは、今日あまり見かけなくなった「流しのギター弾き」のようなものでもあるのではないか。ぼくの後輩に、作曲も演奏も歌唱もやる音楽家の K 君がいます。今でもどこかで路上ライブをしているのか、あるいはぼくが知らないが、その筋では名が売れた音楽家になっているのか。ある時、彼は、ぼくのところに来て、「ビッグになりたい」と言われた。名が売れるのは「交通事故に遭うみたいなもの」「それは、危険ですよ」といったことがあった。彼は納得しなかったが、今でも、ぼくはそう思っている。名を売る、名が売れるというのは、「名は商品(売り買いの交換品)である」ということ、商品はいずれ消耗品として消えゆく運命にある。それでもという覚悟に反対する理由を、ぼくは持たない。言いたかったのは、いつしか自分の存念が通らなくなり、やがては不本意を託(かこ)つことになるかもしれないという「老婆心」ならぬ「老爺心」の発する言でした。

 「いいしょう」さんはどうでしょう。彼女の YouTube を見ていると、カメラワークもプロで、どうも「相方(あいかた)」さん(ギタリスト)が撮られているらしい。本格的で、まさに「芸術」の粋・域に達していると思う。加えて、何よりもぼくが感心するのは、演奏中に流される彼女の「紡ぎ出される言葉」が、とても地についているというか、自らの音楽の感覚にピッタリ重なっているという感想を持ちます。あえて言えば、やはり「吟遊詩人」ですね。

 *「人生を変えたストリートピアノ」(①https://www.youtube.com/watch?v=ODYvFranuRQ&ab_channel)(②https://www.youtube.com/watch?v=BnVu__eybEQ&ab_channel

 上の演奏①②に関して。コメント欄に書かれているものも、演奏者に引けを取らずに「素敵」なもの、率直なものでした。その一つ・二つを拝借しておきます。

①「やっと見つけた、テクニックで弾く人より、心から弾く人優しく響く」️「今まで感じた事の無い様な入混ざった感情が湧いてきました 何か忘れてきた様な、新しい何かを探してる様な 見つめ直すのにとてもいい曲ですね」① 

②「初めまして。今日初めて見させてもらいました。 寂しそうなピアノに命を吹き掛けてる様な優しいメロディ そして流れるメッセージにも感動しちゃぃ泣いてしまってました。 心が温まる演奏素敵です」「人に感動を与えられる貴方は 素晴らしい方です。こらからも音楽の素晴らしさを伝えて下さい。応援してます」

 教室(教育実践の場)と同じで、そこに学び合う経験が生まれれば、どこであっても、そこが「教室(meeting room)」です。同じように、ピアノが置かれていて、それを弾く人がいれば、そこが演奏会場。それをどんなふうに聴こうが、それは聴き手の好みです。上にも書いた「ビッグになる」「名が売れる」というのは、行き(生き)方が狭められるということであり、言い換えれば、自由を剥奪されることになるんでしょうね。ぼくには「籠の鳥の自由」はいらなかった、とどこかで「ストピ」をしているかもしれない、若い友人の K 君(→)に、いまからでも届けたい、余計な一言です。もうかれこれ十年ですかね、彼と一別以来。「いいしょう」(井伊翔子?)さんの演奏がこれからも、いまと同じような気持ちで聴きたいし、聴けるといいですね。ここにも「人生の流儀」のひとつがあります。コバケンさんにも、どこか(ネットであれ)でお目にかかれるような予感がしています。多彩に音楽を(囚われ状態から)解放するための、多くの「吟(弾)遊詩人たち」のご健闘を祈ります。

__________________________________

 捨てる人あり、捨てなくてもという人あり

【編集日記】彼岸の入り 幼い頃の記憶はどこまでたどれるものだろうと、自分の来し方を思い返すことがある。中学、小学生の頃までなら何とかさかのぼれるものの、その先になると段々とぼやけてくる▼映像作家の萩原朔美さんが、古い物から大切な人の記憶が鮮やかによみがえるさまを、エッセー「段ボールの中身」に書いている。捨てようか取っておこうか一切迷わずに捨てる性格の萩原さんが、なんでも捨てずに取っておく母親と同居することになり、ごみとの格闘が始まる▼やがて、主(あるじ)のいなくなった母親の部屋を片付けているとき、数個の段ボール箱を見つけた。中には萩原さんの小学生時代からの、いたずら書きや学芸会で舞台に立つ姿などあらゆるものが整理、保存されていた。「私は沢山(たくさん)の自分を発見した」と記し母親に思いをはせる▼幼い頃の写真を手にしたとき、一緒に納まっている人にとどまらず、向こう側で写真を撮ってくれた人の存在が呼び起こされることがある。何げない物にも、関わった人たちが一緒に織り込まれている▼大切な存在だった人を思い起こせば、その当時の自分に出会うこともある。話し足りなかったことを伝え、静かに手を合わせてもいい。きょうは彼岸の入り。(福島民友新聞・2023/03/18)

【編集日記】捨てなくとも いまは七十二候の「桃始笑(ももはじめてさく)」をちょうど過ぎた時期。桃の花の咲き始める様子がほほ笑むように見えることから「笑」の字が当てられている。季節のわずかな移ろいにも心を寄せる、日本人の感性を表す言葉だ▼わが家の花瓶の桃はすでに満開を迎えている。水を吸いやすいよう枝の下部に十字の切れ込みを入れ、毎日水を取り換えて1カ月余り。朝起きたら、前日までのつぼみが淡いピンクの花びらを広げていた▼じつはこの枝、知り合いの果樹農家で山積みにされていた剪定(せんてい)枝。「捨てるか風呂の燃料にする」というのを分けてもらい、初めて育ててみた。おかげで殺風景な部屋に春の華やかさが漂っている▼本県の2020年度の1人当たりのごみ排出量は2年連続で全国ワースト2位だった。震災がきっかけになった面はあるにせよ、なかなか下位を抜け出せない。本紙「窓」欄には減量に対する意識の低さを指摘する声が複数寄せられている▼最近はリサイクルのほか、廃棄ビニール傘をバッグに作り替えたりするアップサイクルが注目されている。捨てていたものを工夫して生かしてみる。案外楽しいし、得した気分にもなれる。次は何に挑戦しようかな。(福島民友新聞・2023/03/17)

 春の彼岸の入りです(3月18日~24日)。実に正直ですね、天候は。昨日までは初夏を思わせる陽気が、一転して「寒の戻り」というのか、雪すら降りそうな寒さです。いつでも思い浮かべるのは「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」という句です。子規が詠んだとされますが、明治25年11月、母と妹を東京に呼び寄せ、根岸で同居を始めます。実際には、この「彼岸の入りに寒いのは」は、母の言葉。それを子規が拝借したものでした。「お彼岸だというのに、寒いね」(子規)「毎年よ、彼岸の入りに寒いのは」(母八重)という顛末。毎年のように彼岸には「お墓参り」をしましたが、このところ、コロナ禍もあって、無精を決め込んでいます。

 珍しいこともあります。本日は福島民友新聞のコラムを二編。まるで「季語」のような内容が気になったからです。「暑さ寒さも彼岸まで」とは誰が言ったものか。江戸時代の本には、すでに諺(ことわざ)として出ています。すくなくとも、今年の春の彼岸の入りは、子規の母親の言うように「寒い」こと、冬に逆戻りのようです。開花した「ソメイヨシノ」は、早まったと悔しがっているでしょう。桜についても、少しばかり駄弁りたいのを堪(こら)えています。拙宅にも十本ほどの桜木がいろいろと取り混ぜて植えられている。すべて、移住してきてから植えたもの。開花には、まだ少し間がありそう。

 コラムのテーマは「捨てる」「捨てなくても」です。生きているといつかしらものが溜まる。手に負えないくらいに溜まる。それもこれも、定住という住まい方が原因でしょう。引っ越しを繰り返す人は溜めないし、溜まる前に越す。溜まらないために移住する、そんなところでしょう。ぼくは、これまでに六回移り住みました。多いのか少ないのか。それでも、気がつけば、嫌になるほどもの(本)が溜まっていました。ヤドカリだったらよかったのに、そんな思いが今更のように強くします。半分は道楽、半分は商売道具、そのようにして溜め込んだ本の数は万に達している。一度、大掛かりな整理をしたのですが、気がつけば、元の木阿弥です。それ以外は、物品はそんなにない。

 

 元々写真は嫌いだったのは、親譲り、だから、見るべき写真は殆どない。一種の「形見」のようにして思い出す縁(よすが)にするは事欠ききます。 「私は沢山(たくさん)の自分を発見した」という経験はまったくない。これは「彼岸」だからというのではなく、いつかおふくろに、「五歳くらいまでの自分」はどんな子どもだったか、ゆっくり聞いてみたいとしきりに思った時期がありました。もちろん、そんなことは訊きもしなかったし、時々の自分を知るにつけ、幼少の頃がどうであったかは歴然としている。

 「大切な存在だった人を思い起こせば、その当時の自分に出会うこともある。話し足りなかったことを伝え、静かに手を合わせてもいい」とコラム氏は書く。ぼくには、絶えてない経験です。大切な人はたくさんいましたが、折に触れて思い出すことはあっても、「その当時の自分」を発見することなんかないのです。天邪鬼ですね。思い出すというのは「歴史」ではなく、歴史を超えることでしょう。めったにないことですけれど、なにかの折に小学校の卒業アルバムを見ることがありました。五十年も六十年も前の自分と同級生が写っている。

 それを眺めると、ぼくの記憶は一気に半世紀前に遡(さかのぼ)る。その後に生きられた時間をすべて忘れて、「小学生」になるのです。誰とどんな話をしたか、そんなことはどうでもいい。喧嘩した連中も写り込んでいる。それも今はすべて「お蔵入り」です。ぼくには「彼岸」とは、こちら側(此岸)が存在ししている(ある)のだから、向こう側(彼岸)もあるに違いないというだけの想像裏の物語です。そこには美しい「蓮の花」が咲き匂っているのかどうか。(右上の写真は日比谷花壇から。彼岸に合わせて、この花屋さんに三件分の「花の贈り物」を注文しました)。

● 彼岸=〘名〙① (pāramitā 波羅蜜多を漢語として意訳した「到彼岸」の略) 仏語。絶対の、完全な境地、悟りの境界に至る修行。また、その悟りの境地。生きているこの世を此岸(しがん)として、目標となる境界をかなたに置いたもの。〔勝鬘経義疏(611)〕 〔大智度論‐一二〕② 春秋二季の彼岸会(ひがんえ)。また、その法要の七日間。俳諧では、秋の彼岸を「後の彼岸」「秋の彼岸」という。《季・春》③ 向こう側の岸。転じて、(こちら側の)人間的な世界に対して、それを超越した世界をいう。⇔此岸(しがん)。④ 植物「ひがんざくら(彼岸桜)」の略。(精選版日本国語大辞典)

 よく使われる流行り言葉に「断捨離」というのがあります。曰く因縁は、下記に引用しておいた辞書に譲ります。要らないものは溜めない、溜まったものは思い切り捨てる、物欲しそうな顔をしないこと。要諦は「物事に執着しないこと」です。この「断捨離」は商標登録されているということですから、物事に執着しないのは、どんなに困難であるか、この登録者は、その見本でもあるのでしょう。いわば、物事の「ストーカー」である執心を捨てなさいという。ぼくたちは、どんな些細なものでも「我が所有」にしたくなるのですね。

 大学卒業後、ある都内の大学の教員になった。そこに図書館司書だったと思うが、吉田さんという方がおられた。その父親が詩人の吉田一穂さんでした。「難解の三乗」くらいの難しさが詩になっているような文人だった。ぼくは何度か挑戦したが、弾き返された。ある時、その詩人の書斎らしいものを写真で見た。小さな文机が一丁、それきりで、書棚はおろか、一冊の本もなかった。仰天したことを覚えている。それを紹介していたのが(記憶違いかも知れないが)、音楽評論家の吉田秀和さんだった。こんな空間で仕事をしている、そんな人はどこにもいなかったし、むしろその反対に、これみよがしに書籍で溢れる書斎の真ん中で写真のポーズを取っている人ばかりだったから、正しく、驚天動地の経験をした。息子さんも難解な文を書いておられたようでした。この「断捨離」に徹するような生活の仕方、それは西洋にもあります。むしろ、ぼくにはこちらの方が親しい。「ミニマリスト」という言葉が示す「生活の流儀」でもあります。断捨離と似て非なるものかもしれませんが。

 断捨離やミニマリストという現象は、きわめて今日的風景でもあるでしょう。ことさらにそう言われるのは、「豊かに暮らす」ためには物をたくさん所有するという現実の生活態度の徹底ぶりを証明しているかもしれない。それはしかし、生活の貧しさを表しはしても、豊かさを示すとはとても考えられません。「方丈記」の作者の鴨長明はミニマリストでしたし、方丈庵はプレハブだった。持ち運びが容易だったのです。だから、ある時期からの長命さんは「ホームレス」と言ってもいいような生き方をしていました。リヤカーに家財道具と「家」を積んで、何度か宿替えをしています。ホームレスとは、文字通りに「住む家を持たない」生活者を言います。究極の生活スタイルだと思う。家を持たないのに「宿借り」があります。俗に「居候」でしょう。自分では家を持たないけれども、住む場所を誰かに借りる(厄介になる)人です。「居候三杯目にはそっと出し」という川柳がありますが、肩身が狭いのが相場でした。そこへ行くと「ホームレス」は納税の義務(強制)もなく、その日を暮らすという意味では、気が楽だともいえそうです。しかし、この節、世知辛い時代というものは酷いもので、この「ホームレス」を寒風吹きすさぶ街中に放り出すんですね。「家なし人」を抹殺しかねない時代であり社会です。

 「桃始笑(ももはじめてさく)」とばかり、果樹農家にあった桃の剪定枝をもらってきて、少し工夫をこらして花瓶に活ける。それが一ヶ月余も保ったというのですから、コラムの記事にしたくなる気持ちはわかります。「捨てていたものを工夫して生かしてみる。案外楽しいし、得した気分にもなれる。次は何に挑戦しようかな」と、期待されているのがよくわかります。「最近はリサイクルのほか、廃棄ビニール傘をバッグに作り替えたりするアップサイクルが注目されている」と言われています。ぼくの愚想はあまり美しいものでもないのが残念ですが、福島には捨て置かれて、行き場に困っているものがたくさんあります。「核燃料デブリ」「汚染土」「汚染水」「崩壊家屋」、その他、さまざまなものが捨て置かれている。少し工夫し、そこから楽しみが味わえ、得した気分になれるかどうか、直ちには分かり難いが、「次の挑戦」はこれだとなりませんでしょうか。もっと直截に言うなら、「福島原発」そのものを「活かす」「活ける」花瓶を作りませんか。常日頃から、ぼくも、ない知恵を絞っている問題(課題)です。(二年前の七月三日に発生した「熱海土砂崩壊」の中から放射性物質が発見されたという。以下の記事を参照)

 熱海盛り土、内部から放射性物質 福島由来か、大規模土石流の起点 静岡県熱海市で2021年7月に発生した大規模土石流を巡り、静岡大の北村晃寿教授(地質学)は17日、土砂崩落の起点となった土地に残った盛り土の内部から放射性セシウムが検出されたと明らかにした。11年3月に起きた東京電力福島第1原発事故で飛散したものとみられるという。/ 北村氏は静岡市内で記者会見し、地表から約2メートル下層で放射性セシウムが検出されたと説明。「11年3月以降も盛り土が続いていたことになる」と指摘した。/ 11年2月に起点の土地を取得した「ZENホールディングス」元代表取締役麦島善光氏は「盛り土のことは知らず、敷地に木を植えただけだ」と繰り返し主張していた。(東京新聞・2023/03/17)

● 断捨離=モノへの執着を捨て不要なモノを減らすことにより、生活の質の向上・心の平穏・運気向上などを得ようとする考え方のこと。2009年刊行の『新・片づけ術「断捨離」』(やましたひでこ著、マガジンハウス)により提案された。断捨離はヨガの「断行・捨行・離行」から生まれた言葉で、「断」は入ってくる要らないモノを断つこと、「捨」は家にあるガラクタを捨てること、「離」はモノへの執着から離れることを表す。本書の刊行時から注目を浴び、16年4月時点で、やましたの著書は累計300万部を突破し、断捨離の公式メールマガジン登録者は8万2000人になっている。なお「断捨離」は、やましたひでこの登録商標となっている。(知恵蔵ミニ)

● ミニマリスト= 持ち物をできるだけ減らし、必要最小限の物だけで暮らす人。自分にとって本当に必要な物だけを持つことでかえって豊かに生きられるという考え方で、大量生産・大量消費の現代社会において、新しく生まれたライフスタイルである。「最小限の」という意味のミニマル(minimal)から派生した造語。物を持たずに暮らす人の意味では、2010年前後から海外で使われるようになり、その後日本でも広まったと見られる。何を持ち何を持たないかは人それぞれだが、少ない服を制服のように着回したり、一つの物を様々な用途に使ったりするほか、誰かと共有したり借りたりすることで、自分が所有する物を厳選している点が共通している。少ない物で豊かに暮らすという考え方自体は、環境問題の深刻化などを背景に以前からあった。近年は、物だけでなく多くの情報が流通する中で、たくさんの物を手に入れても満たされなかったり、多くの物に埋もれて必要な物が見えなくなったりして生きづらさを感じる人たちが増え、自分にとって本当に大事な物を見極めて必要な物だけを取り込むことで楽に生きたいと共感が広がっているようだ。必要な物だけを持つミニマリストの思想は、10年頃から流行した整理法「断捨離(だんしゃり)」などにも通じる考え方と言える。(同上)

__________________________________

 

 手触りの感覚を手放さない生き方を

【新生面】生きるために「創る」「手仕事がどんどん無くなって、これからどんな時代になっていくのでしょうか」。最晩年まで料理や裁縫を楽しんだ作家の故石牟礼道子さんは、手仕事が失われていくことを憂いていた▼かつて手仕事は暮らしの基本にあり、人間の営みそのものだった。今やほとんどが機械化され、家事はもちろん、絵や文章、アートの制作まで人工知能(AI)がやってくれる時代になった▼在熊作家の坂口恭平さん(44)は時代に逆らうように、あらゆるものを自分で作る。本を書く、絵を描く、曲を作るといったことに加え、毎日の料理に使う野菜、食器、革靴、セーター、バッグ、家具、ギターまで手作りする▼創作することは、自身の躁鬱[そううつ]病の治療として始めた。世間の反応や評価に流されず、自分が好きなことをやり続ける。躁と鬱の乱高下で死にたくなり、やりたいことや考えがくるくる変わってしまう自分が、社会で生きのびるために見つけた術だという▼2020年5月から日課として描くパステル画は1千枚に上る。作品制作というよりも、日常の中で「いいな」と思ったり、身体が楽になったり、うれしくなったりする瞬間の風景を自分を通して外に出したいだけだと語る▼熊本市現代美術館で開催中の「坂口恭平日記」展は、パステル画700枚と坂口さんの手から生まれた「もの」たちが並ぶ。季節のように変わっていく自分を堂々と喜べる人間になりたい-。生きるために描き続けられた絵は人を包み込む光にあふれ、優しい風が吹いている。(熊日新聞・2023/02/18)

 ここに出てくる「手仕事」という語感、ぼくのもっとも好きな感覚(感触)です。手触りと言ってもいいでしょう。もちろん「手仕事」という語がどんな意味を持ってきたかを知るだけでも、人間の生活の歴史を知る、それも根本から知る切っ掛けになるといえます。この「手仕事」がどんどん失われてゆく、あるいは見向きもされなくなっていくという趨勢が、人間の置かれる環境・世界の一方向への傾斜をしますし、それはまたけっして豊かな環境ではないことを明示も暗示もしているでしょう。石牟礼さんの「これからどんな時代になっていくのでしょうか」と嘆きとともに語られた、その時代や社会への懸念は間違いなく、人間性を著しく蝕むものであることは間違いのないところです。「手」を粗末にした結果の当然の報いかもしれません。「手に負えない」機械化、あるいはAI 化は、それだけ人間の活動の幅や範囲を狭め、軽薄なものにしてゆく、それが便利だという「錯覚」の驚異です。ボタンを押すだけが人間の役割ですかと、詮方のない問いをぼくは出してしまう。道具の二面性を忘れると、ぼくたちは「道具の奴隷」に堕ちざるをえないのです。道具の奴隷とは、人間は「もの」になるということですな。

 実に酔狂で頓狂な話ですが、「手」という字を含む表現はどれほどあるでしょうか。面倒なのでいちいち数えはしませんが、ぼくのような無学なものでさえも、百や二百は何時でも思い出すことができるのです。それぐらいに「手」は体の一部というよりは、体全体を示し、その体を持つ人間を含む、何とも豊かな表現世界を作ってきたのです。この「手のなす仕事」が失われ、捨てられるというのは、間違いなく、人間そのものを使い捨てる過酷な社会の到来を意味するでしょう。情けないし、悲しいことでもあります。「手仕事」とは「手芸」とも「手業(技)」とも「手工」などとも言われてきたもので、日常生活の細部を作り出す「あらゆる仕事」を指していました。

 大正時代の終わり頃から柳宗悦さんが作ったとされる「民芸」という言葉にしても、「手仕事」という基盤がなければ生み出されなかったものでしょう。もちろんこの「民芸」は少なくとも「民芸品」というように、工芸作物を指しました。民芸とは日常生活、民衆の生活に必要な工芸品という意味ですね。柳さんの「発見」された「民芸」の曙時代に、幾つかの逸話が残されています。彼が京都時代に、しばしば骨董市なるものに出かけると、そこには「手作りの食器」が並んでいた。店番の主婦たちは「ゲテモノ(下手物」だよ」と言っては笑っていたという。そのゲテ(下手)とは「上手(うわて)」に対置させる言葉であり「品物」でした。

 柳さんの書かれているものを読み、ぼくは懐旧の情に絆(ほだ)されたことがしばしばでした。彼も出かけていた「東寺の骨董市」「北野天神の古物市」、あるいはぼくの家の近所だった太秦(うずまさ)の「夜店」などの光景がありありと浮かんできたからでした。我が家には、たくさんの「古物」や「骨董」がありましたが、その大半は「下手物」だった。おふくろはなかなかの女性で、古道具市や道具屋から「水屋(台所用品入れ)」やタンスなどをリヤカーに乗せて買ってきたこともあります。昭和三十年代初め頃です。文字通り「民芸」によって生活していたのだといえます。しかし、「民芸」はある種の学術語であり、よそ行きの表現でしたから、むしろぼくは、どうしても「手仕事」という表現を使いたい。ぼくの親友の一人が「教育という手仕事」といい出したことがあります。言い得て妙だと、ぼくはすっかり気に入った。入試のための準備教育は、残念ながら「手仕事」ではないし、むしろ、「手仕事」を軽侮するような人間づくりに見合っているようにも思われたのです。

 本日のコラムの「主人公」は坂口さんという、うつ病に足元を掬われかけている人の根底に根を張り出そうとしている「手仕事」ではないかとぼくは考えたくなりました。「手塩」にかけるという加减の微妙さも、受け取れる人には感じられる「温(ぬく)もり」であり、「厳しさ」でもある、それもまた人との付き合いの一つのあり方だともいえます。「手段」というときの「手」は、ある狙いを果たす方法であり、手立てであり、やり方を指します。いい表現だと思いませんか。この「手」は私の手であり、あなたの手です。この手を「省く」ことがどういうことを結果するか、言わないくてもいいでしょう。いい加減な仕事を指して「手抜き」といいます。この時代、手抜きが充満・蔓延している気がしてなりません。その第一に「教育」における手抜きです。「手仕事」から手を取れば、残るのは「仕事」だけ。それはロボットでも器械でも代替可能です。

 「季節のように変わっていく自分を堂々と喜べる人間になりたい」と言うのは坂口さんでしょうか、コラム氏でしょうか。いずれにしても、季節の移り変わりを肌で感じ取れる生き方は、きっと「手触り」を大切に生きている人間のことでしょう。水温、気温、体温、風の寒さ、空気の暖かさなどは、どんなときにも肌感覚で身に感じるもの。温度計も風力計も叶わない、微妙な気風・気配はまた、「手」を出し、手で触れて感じ取るものでもあります。

● げて‐もの【下手物】〘名〙=① 人工をあまり加えない安価で素朴な品物。大衆的あるいは郷土的な品。また、粗雑な安物。げて。⇔上手物(じょうてもの)。※工芸美論の先駆者に就いて(1927)〈柳宗悦〉六「あの『大名物(おおめいぶつ)』と呼称せられるものを『下手物(ゲテモノ)』と蔑まれる器の中に発見した」(精選版日本国語大辞典)

 

 「民芸」という語にはいろいろな思いが込められているのでしょう。「一般民衆の生活の中から生まれた、素朴で郷土色の強い実用的な工芸。民衆的工芸。大正末期、日常生活器具類に美的な価値を見出そうと、いわゆる民芸運動を興した柳宗悦の造語」(デジタル大辞泉)これに似た言葉に「手芸」という表現があります。今では「編み物」などに限定されましたが、元来はもっと広く用いられていた。「一般には家庭内で布や糸,針などを用い手作業によって加工,加飾を行い,室内装飾品や衣服などの装飾品を製作することをいう。手わざ,手仕事,手工,手技(伎),技芸,マニュアル・アートmanual art,ハンディクラフトhandicraft,ハンディワークhandiworkなどの呼称がある」(世界大百科事典第2版)という具合です。

 これを別の角度から見ると、人間の手がどれほど大事な役目を「生活」のなかで果たしていたかということです。「手は口ほどに物を言う」と言ったらどうでしょう。この「手」を使うことによって生活実感を確実に濃厚にしていたとも言えるでしょう。反対に「手」を使うことがなくなれば、それだけ、生きている「実感」が感じられなくなるのは当たり前です。まるで空中を浮遊するような「生活」を、正しい意味で「生活」と言ってもいいかどうかとすら、ぼくは迷う。二人いた娘たちに「なにか作ること」をするといいねと、小さい頃から言い続けてきた、そのせいで、今ではすっかり「手仕事」から離れてしまいましたが。でも、家事労働が、誰にとっても生活における手技であり、手芸であることに変わりがないのですから、可能な限りで、手を使う、手を入れる、手出しするのがいいでしょうね。こんなことを言うのは余計なこと。でも、日常生活のなかに便利さを最優先することがいかに、人間性から活力や水分を奪い取っていることか、ぼくたちははっきりと気づいてもいいのではないでしょうか。

 便利は不便、これは、まるで判じ物のような、ぼくの言い草です。便利を追求してゆくと、最後はどうなるのでしょうか。便利さの追求の結果、人間性の喪失に必ず行き着くのではないか。それは「手づくり」「手仕事」という人間の感覚が生み出す経験を奪ってしまうからです。一例です。その昔、江戸ー京・大坂間は徒歩でした。少なくとも、どんなに健脚をもってしても十日以上は擁しました。それが明治以降に鉄道の導入で、一日もかからない旅程でした。ぼくが大学に入るために上京した昭和三十年代末には、急行列車で十時間ほどかかった。やがて新幹線ができて、三時間とか四時間になった。距離が変わらないのに、到達時間が驚異的に少なくなるというのは、ある意味では便利でしょうが、その反対に大事なものは失われました。つまりは「経験」です。一定の時間を使うとは、別の表現を使えば、経験を重ねるということです。徒歩からリニアになったとして、一体何が得られて、何が失われたのか。一考に値しませんか。笑い話ですが、ぼくのおふくろは初めての新幹線乗車で、「こんなの嫌や、窓が開かんし、弁当が買えん」と、新幹線(便利さ)を拒否した人でした。 

 なにがいいたいんですかと言われそうですね。特になにもありません。いつもの通りで「便利は不便」「不便は便利」ということの真意をじっくりと考えてみたいね、それだけですな。 遥かに離れた安全な場所にいて、一つのボタンを押すだけで「殺戮」が行われる。これは「便利」ですか。「科学・技術の勝利」ですか。バベルの塔のごとくに、都心では高層マンションが林立しています。快適な生活でしょう。でも電気が止まれば、「便利」は「不便」に瞬時に暗転します。それもまた「愛嬌」と言って笑っていられない時代ではないでしょうか。便利さの追求に突き動かされた時代は、あるいは機械化の時代でもあります。機械化が進めば、人間は手足をもがれた状態に置かれます。それがさらに進むと、なにもしない、なにもできない、そのことに対する不信や不満や不安に苛まれるのではないでしょうか。この島に限って言うなら、「こんな狭い日本、そんなに急いでどこに行く」となるでしょう。どこにも行かない、便利さを楽しんでいるだけだと言うなら、人間を廃業したも同然ということになります。

 「小人閑居して、不善をなす」とは、往古に限らず、人間の心の置き方にかかわる真理ではないかな。

(*参考までに柳さんの「手仕事の日本」から少しばかりの引用を) 

 「元来我国を「手の国」と呼んでもよいくらいだと思います。国民の手の器用さは誰も気附くところであります。手という文字をどんなに沢山用いているかを見てもよく分ります。「上手」とか「下手」とかいう言葉は、直ちに手の技を語ります。「手堅い」とか「手並がよい」とか、「手柄を立てる」とか、「手本にする」とか皆手にんだ言い方であります。「手腕」があるといえば力量のある意味であります。それ故「腕利」とか「腕揃」などという言葉も現れてきます。それに日本語では、「読み手」、「書き手」、「聞き手」、「」などの如く、ほとんど凡ての動詞に「手」の字を添えて、人の働きを示しますから、手に因む文字は大変な数に上ります。/ そもそも手が機械と異る点は、それがいつも直接に心とがれていることであります。機械には心がありません。これが手仕事に不思議な働きを起させる所以だと思います。手はただ動くのではなく、いつも奥に心が控えていて、これがものをらせたり、働きに悦びを与えたり、また道徳を守らせたりするのであります。そうしてこれこそは品物に美しい性質を与える原因であると思われます。それ故手仕事は一面に心の仕事だと申してもよいでありましょう。手より更に神秘な機械があるでありましょうか。一国にとってなぜ手に依る仕事が大切な意味を持ちすかの理由を、誰もよく省みねばなりません。/ それでは自然が人間に授けてくれたこの両手が、今日本でどんな働きをなしつつあるのでしょうか。それを見届けたく思います」(柳宗悦「手仕事の日本」「柳宗悦全集・第十一巻」筑摩書房、1981年刊)

___________________________

 これは寝すぎたしくじった(兎)

【斜面】ウサギとカメ うさぎ年を迎えると笑い話を思い出す。「兎(と)に角(かく)」を「ウサギにツノ」と読み上げてしまったと、学生時代に友人が頭をかいていた。受験勉強では出合わぬ読み方か。今の筆者にしても同じ。常識を知らずに赤面する場面は数知れない◆「兎角亀毛(とかくきもう)」は実在しないことを例えた言葉。ウサギに角などないし、カメの甲羅にも毛は生えない。世界中が知っているイソップの寓話(ぐうわ)、ウサギとカメの競争だってあり得ない話だ。日本では近代化してゆく明治以降の学校で道徳の教材にされてきた◆才能はあっても他者を侮り、油断して負けたウサギ。能力で及ばないが、着実に歩んで不利な戦いに勝ったカメ。敗北も勝利も、心構えと努力次第だという「神話」を学校も家庭も教え込んできた。そういう面もあるだろうが、競争ばかり強いられ、精神論を説かれるのはつらい◆教育学者の府川源一郎さんは大学生に寓話の「書き換え」をさせたという。ウサギがカメを待って一緒にゴールしたり、協力し合って仲良くなったり、寝たふりをしたウサギにカメが感謝したり。現代の若者らは競争と勝敗に重きを置かない話を作った◆大事なのは視野の狭い勝敗観でなく、互いに関係しながら個性を発揮して生きることだと府川さんは著書に書いている。目の前の結果を性急に求め、見識を広げる機会もなく、互いを理解する余裕を失ってこなかったか。効率とスピード重視の世情を離れ、ゴロンと天井を仰ぎ見る寝正月。■あとがき帳■ 元日の斜面は干支(えと)を絡めることが少なくありません。/ 獲物を狩る爪も牙もなく、長い耳で危険を察知し、素早く逃げるウサギ。世界各地の民話では悪知恵が働く者として描かれることも多い動物で/ 生態などを調べて題材を探しましたが、お正月の話題としてはどうもしっくりきません。/ 「ウサギとカメ」を軸に教育と社会を論じた府川さんの「『ウサギとカメ』の読書文化史 イソップ寓話の受容と『競争』」(勉誠出版)が興味深く、自分の来し方も反省しながら、年初の斜面を書きました。(論説副主幹 五十嵐裕)(信濃毎日新聞デジタル・2023/01/01)

 ぼくは「童話」や「お伽噺」の類(たぐい)は好きではなかった。そのすべてとは言わないが、兎角(うさぎにつの)、教訓調であったからです。調子なら単調や長調が好みでしたね。「勧善懲悪」「信賞必罰」「優勝劣敗」など、いわゆるお説教の類がほとんどではなかったか。「こういう人間になってはいけませんよ」「最後までやり抜けば、きっと成功する」「裕福ではないが、そこそこの幸せはやってくるから、高望みしないように」とか。本当に小さい頃から、その「絡繰(からく)り」が見え透いていたのです。ウサギとカメが、どうして競争しなければならないのか、それも駆けっこで、と。人間と馬が百メートル競争するというなら、「そんなバカな」と世間はいう。「小さな嘘はつくな、つくなら大きな嘘を」とよく言われたらしい。小さな嘘は、如何にもありそうだから、でしょ。勧善懲悪も信賞必罰も、きっと「因果応報」などというものの焼き直しかも知れません。それを宗教とか仏教などからの受売りとは言いたくないけれど、こういうことをすると、地獄に落ちる、信心が足りないから、「罰(撥)が当たったのだ」などと、未だにそんな「荒唐無稽」「虚仮(こけ)威(おど)し」を売り物にし、信者だか患者だかを虜にしようという、「虜」になる人間がいるからですね。この種の「似非宗教(カルト教団)」が政治を撹乱していました。あるいは政権与党に入り込んでもいる。

 「童話」ではなく「寓話」、それが大きな流れを作って学校教育の現場に一つの世界を占めた理由はいろいろに考えられますが、如何にも学校教育の説教や教訓主義に符号していたからではなかったか。また寓話の殆どが動物を登場させているのは、それが人間(こども)であるなら、あまりにも生々しい影響を与えるので、それを避けたからでしょう。「小説」でもかまわないが、学校に持ち込まれると、どうしても教訓や道徳臭を帯びてしまう。一例として「走れメロス」はどうでしょう。この短編は教科書に採用され「友情の尊さ」の典型教材として扱われる始末です。ありそうにない話、それが寓話(Fable)の含意(元意)だったとぼくは考えますが、もっと遡れば、それは「作り話」でした。だから、まるで「落語」の世界を、現実界に置き換えて、熊公や八五郎のようになってはいけませんと教え諭す「愚」なら、誰だって冗談だと見破るのですが、「寓話」はそうではなかった。

● 寓話【ぐうわ】= 話の意のfabula(ラテン語)を語源とするfable(英語)の訳。教訓や風刺を含んだ短い話。登場人物はおもに動物で,彼らは人間の象徴であっても,動物としての特有な外観と特性を保持している。《イソップ物語》(イソップ)《狐物語》やラ・フォンテーヌのものが知られる。(マイペディア)

 日本昔話などとして劇画(アニメ)にもされた、その大半は「民話」「伝承」の類(たぐい)でした。「昔々、どこそこにおじいさんとおばあさんがあったとさ」と耳で聞き流す程度のものだったと思う。それが学校に入ると、道徳倫理の教科書に載せられるんですね。「木口小平は死んでもラッパを放さなかった」というやうです。戦時英雄として、教室では「語り草」になったのではなかったか。学校(教育)にはいくつかの「美しくない面」がありますが、その一つが「教訓」「説教」「道徳」などの独占がありますね。「価値観」の押し売りです。専売特許、それは学校の命綱でもあった。「教諭」と書いて、教師を指すのはその証明でもあります。何でもかんでも「教え諭す」のが商売で、学校で習うのは「正」であり、自己流は「邪」だという俗説が今でも罷(まか)り通っているようです。

●木口小平(きぐちこへい)(1872―1894)= 日清(にっしん)戦争で戦士した陸軍兵卒。明治5年8月8日、岡山県川上郡成羽(なりわ)村(現、高梁(たかはし)市)に農家のひとり息子として誕生。小学校を中退、鉱山で働き、1892年(明治25)広島の歩兵第二一連隊第三大隊第一二中隊に二等卒として入営。ラッパ手となり日清戦争に従軍、1894年7月29日緒戦の成歓の戦闘で戦死した。22歳。国定修身教科書で「シンデモラッパヲクチカラハナシマセンデシタ」と「義勇忠義」が紹介され著名となる。しかし「美談」のラッパ手は当初、同県出身の白神源次郎(しらがげんじろう)と報道されており、事実は不明である。(ニッポニカ)

 「才能はあっても他者を侮り、油断して負けたウサギ。能力で及ばないが、着実に歩んで不利な戦いに勝ったカメ。敗北も勝利も、心構えと努力次第だという『神話』を学校も家庭も教え込んできた」というのはコラム氏です。「油断大敵」という教訓の教えですかな。「一心不乱」に物事に挑めば、大岩も動かせると言わぬばかり。もし「教育」や「人生」が競争(勝ち負けの争い)なら、そういうこともいえようかが、でもね、残念ながら、教育は点取競争ではなく、「自分が賢くなるための練習」なんだな。他人とは無関係とは言わないが、要は、一人が自分の足で立ち、自分の頭で考え、「おかしいことはおかしい」「間違いは間違い」と自他にはっきりと指摘できる力(思考力とか判断力)を育てる機会ですよ。その育てられた力を「人権」という。意見を発する権利です。そこに「教育の真意」とでもいうものが宿っているんですね。「成績抜群で、能天気」、「偏差値一番で、意地悪の権化」、あるいは「学歴は高いが、人間性は低劣」といった、そんな箸にも棒にもかからない者を作り出してきたのが学校じゃなかったか。

 学校なんか行かなくたって、自分の「頭と足」で生きている、立派に(というのは、人間的に優れているという意味です)生きている人がいると、ぼくは涙がでるほど嬉しくなります。そういう人になれなかった自分を甚(いた)く可愛そうに思ったりする。「目の前の結果を性急に求め、見識を広げる機会もなく、互いを理解する余裕を失ってこなかったか。効率とスピード重視の世情を離れ、ゴロンと天井を仰ぎ見る寝正月」という指摘には首肯(合点)します。だから、ぼくは「毎日が寝正月」の気分です。一人の人間なら、とても賢く生きられます。しかし、この賢い人が集団になると「付和雷同」「付和随行」という状態になる。自分を失うんですね。誰だって、失いたくない自分を求めているにもかかわらず、集まると「烏合の衆」(カラスさん、ごめんよ)になるのも理由がある。自分を突き出して生きるのはしんどいからですね。自分を隠し、自分を偽って生きていたいという「願望」が常にあるのかもしれない。マスクをかぶるというやつです。マスクを掛けるのではなく、「被(かぶ)る」、そうすると、もう一つの自分になれた気がするんでしょうね。それがいけないというつもりはないが。覆面を被って生きるのも辛いよ。何と言っても「すっぴん」です、どうです、「素のママ」で生き、暮らしたくないですか。

```````````````````````

 江戸期の、「田舎俳人」が「老いの身」をさらして生きている、その姿に、ぼくは満腔(まんこう)の敬意を表するものです。ここでいう「値ぶみ」とは「値段を見積もってつけること。評価。値積もり」(デジタル大辞泉)です。(いまだって、世間は「老人」「高齢者」にはきわめて冷淡ですね)

老が身の値ぶみをさるるけさの春 (一茶)

___________________________

 

 でこぼこ道や 曲がりくねった道

 【日報抄】車の販売店や電器店からカレンダーが届く。筒のように丸められ、ビニールに包まれて出番を待つ。その姿は師走ならではの一こまである▼〈カレンダーの巻き癖強し応接間の隅に重ねて広辞苑載す〉。ある短歌雑誌に昨年投稿された1首だ。ビニールから取り出したばかりのカレンダーは、すぐにまた丸まってしまう。真っすぐにして壁にかけたいという、きちょうめんな人が作ったのだろうと感心した▼それとともに、分厚い辞書にこんな使い道があったのかと驚いた。手元の広辞苑第七版をはかりに載せたら、2・4キロだった。これならば重しの役目を十分に果たせそうだ▼紙の辞書は便利か不便かと問われれば、不便かもしれない。周囲を見回すと、パソコンで検索している人が多いようだ。しかし、である。目的の単語に行き着くため3千を超えるページを1枚ずつ、はがすようにめくる。すると、見知らぬ単語に出合うことがある。その楽しみは何物にも代えがたい▼京都大学の川上浩司教授は「不便であるからこそ得られる益」を「不便益」と呼び、事例を集めている。川上さんによると、紙の辞書は不便だが「うれしいこと」がある。「目的の単語のページが一発で開いたら、なぜかうれしい」というのだ▼いつでも、どこでも新型ウイルス感染の心配をしなければならない。食品やガソリンの値上げは財布に響いている。何かと不便な暮らしは、年をまたいで続きそうだ。せめて何げない日常の中に小さな益を見いだしたい。(新潟日報デジタルプラス・2022/12/13)

 便利とか不便の「便」という漢字はなかなかに手強い。およそ結びつけることが困難なものにも使われるし、その意味するところは、実に多彩多用だからです。例えば、音読みでは「べん・びん・へん」があり、訓読みでは「たより・いばり・よすが・へつら(う)・すなわ(ち)」など。その意となると「音信・排泄物・都合よい・よすが(よりどころ)・慣れる・へつらう・すなわち」などなど。音信と排泄物は、便り(通じ)がある、つまりは「便通」といい「通信」ということで、まるで兄弟のよう。便利とよすが(よりどころ)も近いでしょう。こんな遊びをしていると、なかなか終わりそうにありません。

 本日の「日報抄」です。宣伝も兼ねた恒例の贈り物である「カレンダー(暦)」を枕に使い、さてどんな展開になるかと読んでいくと、あまり滑らかではない展開になりました。丸まったカレンダーを伸ばすには「広辞苑」だという。今日、辞書も紙派とパソコン派が併存しているが、この紙の広辞苑の使い勝手は「不便」だけど、カレンダーを伸ばすには「便利」だという。なあんだ、といいたくなる始末です。

 さらに続けて、「紙の辞書は不便だが『うれしいこと』がある。『目的の単語のページが一発で開いたら、なぜかうれしい』というのだ」という大学教授の感想を引いています。再び、なあんだ、といいたくなる。

 「便利は不便だ」と、どうして言わないのでしょうか。その逆に「不便は便利だ」とも。ぼくの勝手な理解です。ある人にとって「便利」であっても、別の人には「不便」であることはいくらもある。あるいは、始めは「便利」だと思って喜んでいたが、やがて「不便」に絶えられなくなる、そんな経験は誰もがしているのではないですか。「ステマ商品」を買って喜んだのもつかの間、すぐに不便で不要になるものが家の中に転がっているということもある。

 コロナ禍や物価高で生活は「便利」ではなく、むしろ「生きにくい」という点では大いに「不便」です。生活するのに「不便」な時代や社会は、どうすれば「便利」に変換できるのかというところが、この「コラム」の「ミソ(味噌)」だったのに、「何かと不便な暮らしは、年をまたいで続きそうだ。せめて何げない日常の中に小さな益を見いだしたい」と、いかにも馴れた書き手が陥りがちの結びです。偉そうなことを言って申し訳ないと頭を下げながら、ぼくなら「どう書くか」を考えるのが、この手の文章を読む喜びというか、効用というか。いやでも、書き手の、いろいろな「寸法」がよく分かるように思われるのです。

 「便」は「へつらう」と読ませます。「諂う/諛う」という字を当てるのが普通です。先ず目にすることがなくなった熟語に「阿諛便佞(あゆべんねい)」というのがあります。相手に媚びを売り諂って、まったく誠意が欠けていること(人)を指します。「佞」はへつらい、取り入るが、誠実さがない人をいう。ぼくの周りにもたくさんいましたね。いまだって、肩で風切るような「先生たち」は「便佞」がほとんどだと言っていいでしょうね。

 「不便益」という言葉は、誰かの発明ではないでしょう。人知れず使われてきた言葉ではないか。それとまったく同じ用法は「不利益」です。「不利」が「益」だというのです。「不便」という「益」、同じですね。不利益は、一方的に否定されるべき状態かといえば、どうもそうではないらしい。「利益にならないこと。損になること。また、そのさま」(デジタル大辞泉)とありますが、「損」とはなにか、そういう問題です。「損して得取れ」というではないですか。

 「初めは損をしても、それをもとに大きな利益を得るようにせよ」と辞書(同上)はいう。たしかにそういうことでしょう。でも、さらにいいたいのは「損」は、そのままで「儲け」」になる、と。ぼくの好きなことわざに「骨折り損のくたびれ儲け」があります。せっかく努力して頑張ったのに、うまくいかなかったと、多くはがっかりするんでしょうが、ぼくは「骨を折るという損をした」が、「くたびれが儲かった」ではないか、と受け止めてきた。経験はきっと身になるのだということかも知れません。金勘定の「損得」ばかりでは、人生が薄っぺらで、美しくないのではないですか。徒労というのも「無駄骨」「無駄足」というばかりで、そこからは損をしたということしか得られないのは、なぜでしょうか。「楽あれば苦あり」ともいう。「禍福は糾(あざな)える縄の如し」ともいう。

 なんか変な駄文の進み具合になりました。「便利」ばかりもなければ「利益」ばかりもないということ、それが人生というか、世の中なんでしょう。禍福(かふく)もまた同じ。いつまでも禍は続かないし、幸福だけが続くこともない。そうであったらどんなにいいことかと、ぼくたちは願うのですが、そうは問屋がおろしませんよ。でも、風雨や嵐ばかりでもないのも知っています。「待てば海路の日和あり」、それもまた人生、ああ川の流れのように、です。 

 

*美空ひばり「川の流れのように」:https://www.youtube.com/watch?v=Pb-N5VPy-40&ab_channel=jfiy123451

歌:美空ひばり  作詞:秋元康  作曲:見岳章 (1989年)

知らず知らず 歩いて来た 細く長いこの道 振り返れば 遥か遠く 故郷が見える でこぼこ道や 曲がりくねった道
地図さえない それもまた人生 ああ川の流れのように ゆるやかに いくつも 時代は過ぎて ああ川の流れのように とめどなく
空が黄昏に 染まるだけ(
以下略)

_______________________________

 「NIMBY」はいつでも起こる

【談話室】▼▽春に生命の息吹を感じさせ、盛夏に緑陰の癒やしを与えてくれた木々もすっかり葉を落とした。天気予報によれば、県内は週明けから雪の季節に入りそう。晩秋から今頃にかけてはどうしても寂寥(せきりょう)感に駆られてしまう。▼▽先月下旬、西川町に住む92歳の女性の投稿が本紙「やましんサロン」に載った。概要はこうだ。久しぶりに訪れた近くの公園。枯れ葉を踏み歩き、椅子に座って辺りを眺めると孫を連れて来て地域の皆と一緒に遊んだ昔が思い浮かぶ。だが、目の前の公園は何とも寂しいと。▼▽彼女は地元の小学校が他に統合されたことにも触れ「グラウンドも公園も人の姿が見られない、本当に寂しい時代となりました」と書いていた。長野市で現在、子どもの声がうるさいとの近隣住民1世帯の苦情をきっかけに公園の廃止を決めた市の判断が物議を醸している。▼▽市は対策を重ねてきたが、それでも受忍できないほどの騒音ということなのか。廃止反対の意見が全国から寄せられている一方、苦情元の住民への誹謗(ひぼう)中傷が懸念される事態に。国を挙げた子育て支援が求められる中、誰も笑顔になれない結末を想像すると物悲しさが増す。(山形新聞・2022/12/11)

 一人の意見を大事にしすぎる ~ 近年にない「朗報」というべきでしょうか。あるいは「凶報」というべきなのか。長野県内のある地域で、自宅そばの公園で遊ぶ子どもの声がうるさいという「一住民(国立大学名誉教授)」の苦情で、長野市は「公園廃止」を決定したという。公園は多くの住民の希望に沿ったもので、2004年に開設された。「地域住民のエゴ」という受け止め方が大勢を占めていますが、行政も譲っていない。ごく一部とはいえ、住民の犠牲を慮(おもんぱか)る必要があったという。永野市長は冬季五輪の金メダリストだった元アスリート。長年の「ご迷惑」を、これ以上は放置できないというのでしょう。果たして、地域のそれぞれの方は、どちらに「軍配」を上げるのでしょうか。投票をしてみたらどうでしょう。

 さまざまな「公共施設」に対して、いろいろな意見や批判があります。「ごみ焼却場」「葬儀場」「し尿処理場」その他の施設に対して、その一つ一つは住民の生活には不可欠のものです。たしかに大事なものですが、よりによって「自分の家のそば」には来てほしくない。これを「住民エゴ」というか、「正当な権利の主張」というか。

 今はどうか知りませんが、英米諸国では、ある時期から「NIMBY(ニンビイ)施設」といって、大いに物議を醸したことがありました。もちろん、今でも続いています、この劣島でも。ぼくがこの長野市の公園問題で注目したのは、「青木島遊園地」という公園そのものが「NINBY案件」となったということでした。

● ニンビー   【英】Not In My Back-Yard  [略]NIMBY  解説 公共のために必要な事業であることは理解しているが、自分の居住地域内で行なわれることは反対という住民の姿勢を揶揄していわれる概念。/ 正確には、NIMBY症候群。「(必要なのはわかるけど)自分の裏庭(=In My Back-Yard)ではやらないで(=Not)」という意味の英語からきている。/ いわゆる迷惑施設の建設等に際していわれることが多く、具体的には、ごみ焼却場、し尿処理施設、産業廃棄物処理施設、リサイクル施設、埋立処分場、精神病院、葬儀・火葬場などがあげられる。これらの施設が嫌われる背景には、環境負荷の発生や地価下落のおそれや、感情的な嫌悪や不安などがある。/ 一見、住民エゴ、地域エゴにも見えるが、施設の受益者と被害者との乖離という問題が存在している。例えば、ごみ焼却場は、施設建設計画の持ち上がった地域住民のごみを処理するためであるよりも、都市で発生する大量のごみを処理することが目的となる。これは、公共性を問い直すものであり、問題解決には、施設そのものの安全性や環境保全対策に万全を期すると同時に、施設が快適な環境の維持・増進に役立ち、熱供給や福祉施設の提供など地元の地域社会への便益還元など、実施計画者や受益者と近隣住民とのコミュニケーションを図り、理解を得ることが必要となる。(一般財団法人環境イノベーション情報機構)(https://www.eic.or.jp/ecoterm/?act=view&serial=2070)

 「一人ひとりの意見を聞く」という民主主義の建前から言えば、長野市当局は「一人の意見を」聞いたのですから、民主主義のお手本のような話、といえないところが、なかなか難しいですね。今住んでいる拙宅の地目は「宅地と山林」となっています。もともとは山林だった一部を地目変更して宅地に変えた。だからその周囲はほとんどが「山林」です。このような地域に「産業廃棄物処理場」や「解体屋(自動車置き場)(名目上は)」などの、都会地にはまったくふさわしくない施設が多く見られます。行政には、山林よりも「固定資産税」収入が見込まれるなら、少々の目的外使用も見ぬふりをするという風潮はあるでしょう。家の隣に「ゴミ処理場」ができるとして、「君はどうする?」と問われたら、「構わないよ。即移転するから」と言って済む話でしょうか。

 苦情を寄せた住民をネット上で中傷する動き 長野市の公園廃止巡り 市議会でも懸念の声  長野市の青木島遊園地の廃止方針を巡って、インターネット上で、市に苦情を寄せた住民を特定し、誹謗(ひぼう)中傷する動きが見られる。遊園地周辺の様子を動画投稿サイト「ユーチューブ」に投稿する目的で撮影に訪れる人もいる。8日の市議会一般質問でも、こうした動きを懸念する声があった。/ 誹謗中傷はネット上の掲示板サイトで目立ち、「迷惑クレーマー」「心の狭い、悲しい人」「民衆の敵」といった書き込みが見られる。住民の経歴などを調べ上げようとするサイトもある。/ の一般質問では「さまざまな関心が集まっている。周辺住民の生活への悪影響はないか」と市議の質問があった。地域・市民生活部の宮岡靖部長は「地区外の人が遊園地周辺に興味本位で入ってくることで、普段通りの生活が送れなくなることへの不安を訴える意見が寄せられている」と答弁。「必要に応じ関係機関と連携して対応する」と述べた。(信毎新聞・2022/12/09)

 おそらく、今日でも「原発」はもっとも大きな「ニンビー施設」ではないでしょうか。あまりにも大きすぎるのは、施設だけではなく、一旦事故が発生したら、それがもたらす被害も想像を超えるものがあります。だから「原発立地」地域には莫大な保証料が、いろいろな名目で落とされてきたのです。なんだかんだと文句は言うけれど、「結局は、金じゃないか」と、誰がいうのでしょうか。とするなら、長野市は「騒音迷惑料」を払わなかったのですね。児童公園が、あるいは「サーキット場」や「射撃場」並になっているのかも知れません。この両施設とも、近所(茂原市と市原市)に存在しています。なかなかの騒音ですよ。気にすれば、文句も言いたくなる。でも年中無休のコンビニではないのですから、ぼくはそのように考えているし、騒音がひどくて心臓が止まりそうだとは思わないのです。(左は日本經濟新聞・2019年4月8日)人によれば、コンビニだってニンビーでしょうが。そんな「自己中心君たち」が寄り集まって社会・集団を作っているのですよ。

 今ではあらゆる施設・建物が「迷惑施設」になっている感があります。行政の「腕のふるいどころ」だと思うのですが、大きい声の方や固定資産税の額によって「右顧左眄」していないかと、ぼくはいぶかるのです。

 子どもの声に苦情、公園廃止へ 長野市、市長「苦しい決断」 利用する子どもの声がうるさいと近隣住民1世帯の苦情をきっかけに、長野市が公園を来年3月に廃止すると決め、長野市議会で9日、この判断を巡る論戦が繰り広げられた。存続を訴える市議は「1世帯の機嫌取りを優先させた」と批判。荻原健司市長は「非常に苦しい判断だが、手続きを進める」と説明し、理解を求めた。  廃止が決まったのは、青木島遊園地。近隣には小学校や保育所などがあり、市が民有地を借り上げて04年4月に開設した。  苦情元の住民は、共同通信の取材に「普通に遊ぶ分には文句はない。大勢が家の前で一斉に遊ぶ状況は経験しないと分からない。その点は理解してほしい」と話した。(共同通信・2022/12/09)

 同じ一つの騒音を「うるさい」と聞く人と、「仕方がない」と受け入れる人がいます。どちらが正しいという問題ではないでしょうが、それを決めるには多くのな視点が必要だということです。この長野市の「公園」に関して、ぼくはじゅうぶんな判断材料を持っていないので、こうであると、断言することはできません。「君が公園のそばに住んでいたら」という仮定の話なら、いいですよ!となるでしょう。でも、それでどうなるものでもない。どこまで行っても「不満」「不平」がのこるもので、それを、それぞれの立場の人間がどのように受けとめるかという問題でもあるでしょう。エゴだけでもなければ、子どもたちのため(公共)という理由だけを取り上げることもできない。これは、本当に「ニンビー」だったのか。

 少し問題が広がりすぎますが、「飛行場」のために追い出された三里塚農民の戦いの軌跡を考えれば、「公共施設」どいうゴリ押しも、ぼくには無条件では受け入れられないのです。(ぼくは、いまだに成田空港から飛行機に乗ったことはない、個人の「義理」「義憤」みたいなものですね)

______________________________