noblesse obligette、一つの「矜持」か

 今時、こんな「古手形」だか「印籠」などを持ち出せば、おそらく笑止千万でしょうね。しかし、たしかに「西洋社会」にはあったし(ひょっとして今でも、あるのかしら)この小さな島社会でもそれに擬した「華族制度」をでっちあげ、明治維新の論功行賞よろしく、偽物の「家」に偽物の「文化」をくっつけた塩梅でした。幸いに、敗戦後に「偽装華族制度」はご破算になりましたが、染みついた心持は、一気には消えてなくならなかったかもしれません。残されたのは「家門」「家柄」「血統」などという忌まわしくもある「血脈」「血族」などという遺産でした。今でもあらゆる機会につかわれるのが「名門」、ついにはラーメン屋にも「名門」が現れる時代ですから、「名門」変じて「通用門」となった感があり、それはそれでいい世の中だともいえそうです。

 この「noblesse obligette(ノーブレス‐オブリージュ)」、辞書の説明には「身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観。もとはフランスのことわざで「貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ」とあります。(デジタル大辞泉)「欧米社会の基本的道徳観」という理解には違和感を覚えますが、なに、「身分の高い人間は気位も高いので、ほっておくと、人を人とは思わない傍若無人の働きもあるから、キリスト教の戒めを現代風にアレンジして、身分が高い分、それに見合った道徳観を大事にせよ・身につけよ」」とでも言ったところだったでしょう。社会奉仕やライオンズクラブなどの社会(貢献)活動もこの流れにあるようです。

 もう一つ、似たような「古手形」というべきか、やはり古い「印籠」を思い出します。これは中国伝来で、欧米流の「高貴なものは義務を持つ」という人間観の上下を示したものではなく、むしろ「超人間」たる存在はかくあるべしという「noblesse obligette」でした。貴人と庶人ではなく、人民を統治するほどの政治家たるべきものの政治姿勢を示したとも理解されます。この「先憂後楽」というモットーを残した范仲淹(はんちゅうえん)(989―1052)は、文字通り八面六臂の活躍をした政治家でしたが、思うに任せずに挫折したようなところが伺えます。まあ、ある種の政治家の「政治姿勢」を示したともいえそうです。長い歴史を誇ろ中国の「現代政治家」ははたして、いまなお「先憂後楽」を実践しようとしているのかどうか。そこには人民は眼中にないという恐ろしい事態が生じているのではないかと、大いに危惧しているのですが。「先楽後楽」という、許すべからざる惨状は、いたるところの政治の場面で認められるのです。

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● せい‐じん【聖人】〘名〙① 知識や徳望がすぐれ、世の模範と仰がれるような人。神のように万事に通暁している人。特に儒教では古代の堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)・湯(とう)・文王・武王・周公・孔子などをあげていう。ひじり。② 天子をうやまっていう語。中国では、唐以後にみられる。〔新唐書‐李沁伝〕(精選版日本国大辞典)

● せんゆう‐こうらく〔センイウ‐〕【先憂後楽】=《范仲淹「岳陽楼記」の「天下の憂えに先んじて憂え、天下の楽しみにおくれて楽しむ」から》国家安危については人より先に心配し、楽しむのは人より遅れて楽しむこと。志士や仁者など、りっぱな人の国家に対する心がけを述べた語。(デジタル大辞泉)

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 いきなりかかる「古手形」を持ち出したのも、ほかでもなく昨日の山形新聞「談話室」を読んだからでした。そこには緒方貞子さんの「国連難民高等弁務官」時代の広く、疲れを知らない「五フィートの巨人」の活動が記されていました。彼女が早い段階から国連などで活動されていたのは知っていました。遠くから見るに、「偉い人がいるものだ」という実感でした。ぼくがこんな感想を抱いた人はほんの数人でしたが、それはすべて女性。

 氏より育ちといいます。あるいは「栴檀は双葉より芳し」などとも言います。どちらも似たような受け止め方ができそうですね。家柄や出自が問題にされない時代が来ているにもかかわらず、逆にそれにこだわる向きがあるのはどうしてか。時に聞こえてくる「名門」とか「一流」という残滓は、おそらく人間個人の中にも残されているのかもしれません。その表れの一片が「noblesse obligette」であったりするのかもしれません。しかし、あくまでも「水平」への飽くなき願いとあこがれを抱いて生きてきた緒方さんしたかえら、やはり「牛より育ち」だったのでしょう。人より優れていたいという希望や欲望は理解しますが、社会制度として「身分制」などのようなものがない時代や社会がさらに続くことを希求しています。

 「私たちは同じ地球に住んでいて困っている人がいたら助けたいと思う。人として当たり前のこと」という緒方さんの精神に満腔の賛意を表しながら、彼女の高等弁務官時代の活躍を、陰ながら応援していました。高等弁務官名で何度か彼女のお葉書をいただいたりしましたが、「困っている人がいたら」「自分より恵まれない人がいたら」「自分にできる範囲で」という、ささやかな「思いやり」、そうです「矜持」や「プライド」などではなく、困っている人がいたら助けられる、そんな人間になりたいという、じつにささやかな「思いやり」なんですね、それが、これからいっそう求められると思う。優越感などではなく、「相身互い身」ですね。(もう少し書こうとしているのですが、体調が許してくれませんようで、今回はここまで)

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【談話室】▼▽緒方貞子さんは1991年から10年間、国連難民高等弁務官を務めた。紛争が頻発し、難民の救援が世界的課題となった時代である。イラクのクルド難民危機では、国内避難民も保護の対象にするという決断を下した。▼▽第2次チェチェン紛争が勃発した99年11月にはロシアに飛び、プーチン首相(当時)との会談に臨む。市民への攻撃抑制を求め、国内避難民の帰還を支援する用意があると伝えた。難民キャンプを訪ねるとチェチェンの人々は口々に「自分の家に帰りたい」と訴えたという。▼▽天上の緒方さんもさぞ悲しんでいることだろう。世界各地で難民が増え続けている。昨年末の時点で国内外に避難を強いられた人々は過去最多の8930万人に上り、10年連続で増加した。さらにロシアによるウクライナ侵攻によって難民が急増し、総数は1億人を超えた。▼▽人道支援の根幹について緒方さんはこう論じた。「私たちは同じ地球に住んでいて困っている人がいたら助けたいと思う。人として当たり前のこと」。地球の仲間が故郷に戻るために、どんな手助けが必要か。それを考え続けていくことが温かい支援につながるはずである。(山形新聞・2022/06/20)

● 緒方貞子(おがたさだこ)[生]1927.9.16. 東京,東京 [没]2019.10.22. 東京=国際政治学者。1951年聖心女子大学を卒業後,アメリカ合衆国のジョージタウン大学で国際関係論の修士号,カリフォルニア大学バークリー校で政治学博士号を取得する。1974年国際基督教大学準教授に就任。1976年女性として日本初となる国際連合日本政府代表部の公使となり,国連総会の日本代表である国連日本代表部特命全権公使を歴任。1980~88年上智大学教授,1989~91同大学外国語学部部長。この間,国連児童基金 UNICEF執行理事会議長を務め,また日本政府派遣のカンボジア難民救済実情視察団団長として現地入りしたり,国連人権委員会(→人権理事会)の日本政府代表としてミャンマーの人権状況の実施調査を行なったりするなど,人道的活動に情熱を傾ける。1991~2000年第8代国連難民高等弁務官(→国連難民高等弁務官事務所),2001~04年アフガニスタン復興支援総理特別代表に就任,アフガニスタン復興支援国際会議では共同議長を務める。2003~12年国際協力機構 JICA理事長,2012~14年同特別顧問。1994年読売国際協力賞,1996年ユネスコ平和賞,1997年マグサイサイ賞など内外の受賞・受章多数。2001年文化功労者に選定,2003年文化勲章受章。著書に『満州事変と政策の形成過程』(1966),『戦後日中・米中関係』(1992),『難民つくらぬ世界へ』(1996),『紛争と難民 緒方貞子の回想』(2006)などがある。(ブリタニカ国際大百科事典)

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隠れ蓑夏至の雨だれ伝ひけり (高澤良一)(終日曇天の「夏至」の日ではありました。この後の大雨が予感されます。左写真は「隠れ蓑」)

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 心にあいた穴を埋めるのは自分自身だ

 宮沢賢治の作品に『ツェねずみ』という童話がある。古い家の真っ暗な天井裏に住み、<償(まど)うてください>を口癖にするねずみの話だ。いたちから金平(こんぺい)糖がこぼれている場所を教えてもらい、お礼も言わずに一目散に走っていく。ところが蟻(あり)の兵隊が先に到着していて追い返される▼ねずみは、<私のような弱いものをだますなんて、償うてください>といたちを責め立てるが、いたちはもちろん怒る。<ひとの親切をさかさまにうらむとは>と。こんなことの連続で、最後はねずみ捕りにかかってしまう▼東京都世田谷区で一家四人が殺害されて今日で丸七年になる。犯人は捕まっていない。隣家に住んでいた被害者の姉、入江杏(ペンネーム)さんが自著『この悲しみの意味を知ることができるなら』で、ツェねずみの話を取り上げている▼事件後、何度も「償ってください」と叫びたくなった。奪われたのは愛する妹一家であり、心にぽっかりと大きな穴があいた。だが、<誰に償ってもらえるはずもないのだから>と、ツェねずみにはならないと誓ったという▼悲しみが消えることはおそらくない。毎朝カーテンを開けるときが、一日のうちで一番寂しい。朝の光が、「もう妹たちがいないんだ」と告げてくるからだ。それでも喪失を学びとし、<敢(あ)えて人生を肯定的に捉(とら)えていきたい>のである▼どうしたら、ツェねずみにならなくてすむのだろう。<ささやかなことに目を瞠(みは)って、ただごとに感動し、一瞬一瞬をいとおしんでいきたい>。入江さんの言葉が心に染みる。(東京新聞「筆洗」・07/12/30)(記録された日付は、大いなる「旧聞」ですが、その内容はいつでも「新聞」なんです。これが「本当に「旧聞」になる時が来るのでしょうか)

HHHHHHHHHHHHHH

 入江杏(あん)さん著『この悲しみの意味を知ることができるなら 世田谷事件・喪失と再生の物語』春秋社刊。07年12月)《10年に近い海外生活ののち帰国した2000年12月31日未明、「世田谷一家殺人事件」に遭遇し、妹一家を失う。その後、犯罪被害からの回復・自助とグリーフケア(家族・友人など大切な人を亡くして大きな悲嘆に襲われている人に対するサポート)に取り組みながら、絵本創作と読み聞かせ活動に従事している〈ミシュカの森〉主宰。著書『ずっとつながってるよ こぐまのミシュカのおはなし』(絵本、くもん出版)。》(同書の著者紹介より)

 入江さんの語られる物語に『スーホの白い馬』がでてくる。お読みになった方もおれるでしょう。スーホという名の羊飼いの少年に一頭の白い馬がいた。その白馬は大きく成長し、国中でいちばん速く駆ける馬になった。しかし、殿様が主宰する大会で優勝したために、スーホは殿様に取り上げられてしまった。スーホのもとへ逃げ帰ってきた白い馬は身体中に矢を受け、傷ついていた。そして、とうとうスーホのもとで死んでしまった。

 悲しさにうちひしがれたスーホの夢のなかに現れた白い馬は、彼に語るのだった。

 「そんなに悲しまないで。わたしの骨や皮、筋や毛を使って、楽器をこしらえてほしい。

そうすれば、いつでもあなたのそばにいて、あなたをなぐさめてあげられるから」

 夢で告げられたとおりに、スーホは楽器を作りました。それが馬頭琴です。スーホが奏でる馬頭琴は広い広いモンゴルの草原に鳴りわたり、たくさんの人びとのこころをなぐさめたのでした。

  「なんのために生きているのだろう、なぜ生き残ったのだろうと自問していた。そんな私に、にいな(妹の長女)が遺してくれたもの。それが悲しくも美しい再生の物語だったことに、不思議な符号を感じざるを得ない。/ この再生の物語は道しるべなのだろうか? 私のグリーフケア(悲嘆の克服)の途上に与えられた道しるべ」(同上)

  亡くなる少し前に、にいなちゃんが遺したのが「スーホの白い馬」の詩画だったという。

 この『スーホの白い馬』の引用のあとに『ツェねずみ』の話がでてきます。

 「私も何度も『まどってください!』と叫びたくなることがあった」

 「夢や情熱、挑戦する勇気、自分を信じて進んでいこうとする誇り。まどってほしいものは、形のあるものではなく、形のないものだった」

 やがて、入江さんはもう一歩先に歩かれました。

 「誰にまどってもらわなくてもいい。それ以上に、自分の中にまどってほしいと願うツェねずみがいることがたまらなく嫌だった」「私はツェねずみにはならない、そう誓った。心にあいた穴を埋めるのは自分自身だ、自分で自分の人生の意味をもう一度見出さなければ。私の人生の創り手は私以外の誰でもないのだから」

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(「いたちさん。ずいぶんお前もひどい人だね。のような弱いものをだますなんて。」
「だましゃせん。たしかにあったのや。」
「あるにはあっても、もう蟻が来てましたよ。」
「蟻が、へい。そうかい。早いやつらだね。
「みんな蟻がとってしまいましたよ。私のような弱いものをだますなんて、うてください。償うてください。」
「それはしかたない。お前の行きようが少しおそかったのや。」
「知らん、知らん。私のような弱いものをだまして。償うてください。償うてください。」
「困ったやつだな。ひとの親切をさかさまにうらむとは。よしよし。そんならおれの金米糖をやろう。」
「償うてください。償うてください。」
「えい、それ。持って行け。てめえの持てるだけ持ってうせちまえ。てめえみたいな、ぐにゃぐにゃした男らしくもねえやつは、つらも見たくねえ。早く持てるだけ持ってどっかへうせろ。」いたちはプリプリして、金米糖を投げ出しました。ツェねずみはそれを持てるだけたくさんひろって、おじぎをしました。いたちはいよいよおこって叫びました。
「えい、早く行ってしまえ。てめえの取った、のこりなんかうじむしにでもくれてやらあ。」
 ツェねずみは、いちもくさんに走って、天井裏の巣へもどって、金米糖をコチコチ食べました。
 こんなぐあいですから、ツェねずみはだんだんきらわれて、たれもあんまり相手にしなくなりました。(以下略)(『ツエねずみ』(青空文庫版)

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  一瞬にして妹一家四人を奪われた姉の悲しみと嘆き。

 「この悲しみの意味を知ることができるなら」

 事件から七年が過ぎました。

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 上の文章を書いたのは、入江さんとお会いし、いろいろとお話を聞くなかで、この「事件」を、ぼくが担当している授業で扱い、多くの学生に関心をもってもらおうとしているときでした。もう十五年も前になります。「どうしてこんなに無慈悲な出来事が起こったのか、しかも、私の妹一家に」と、大きな嘆きを抱えておられる入江さんの心中を思えば、胸が張り裂けるばかりでした。その後にも何度かお会いし、彼女が各地でされている講演などの情報をもとにして、さらに、一歩先に入江さんは歩かれていると実感したのでした。

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事件20年を前に思いを語る被害者遺族の入江杏さん=東京都内で

 事件当時、現場の隣に暮らしていた入江さんは「私が逝ってしまえばよかったんじゃないか…」と、生き残った罪責感にさいなまれる日々だったという。集いを通じて出会い、支えとなった人たちや出来事、言葉や気付きがあまたある中で「生きていて申し訳ないなんて思う必要はない。誰に遠慮することなく、どこまでも、どこまでも、幸せになっていい」との若松さんの言葉は、本の帯にもなった。(左は、事件20年を前に思いを語る被害者遺族の入江杏さん=東京都内で)/ 入江さんは、事件で亡くなっためいのにいなさん=当時(8)=と、おいの礼ちゃん=当時(6)=が大切にしていたクマのぬいぐるみ「ミシュカ」を主人公にした絵本を06年に出版。集い「ミシュカの森」は絵本にちなんで名付けた。/ コロナ禍の今、入江さんは「誰かが悲しんでいる時に、そっと手を差し伸べられる社会になってほしい」と願ってやまない。(以下略)(東京新聞・2020/12/08)

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 どんな人であっても、外側からは近づくことができない、大きな悲しみや苦しみを身に背負って生きておられます。ずいぶんと昔のことになりましたが、ある男子学生から「母親ば死んだというのに、誰も悲しんでなんかいない。ぼくはこんな世の中を呪っている」と手紙をもらったことがあります。「葬式」の隣で「お祭り騒ぎ」というのは金子みすゞでした。「お祭り騒ぎ」をしている人だって、「耐えられない悲嘆」を心中深くに宿しているのです。喜びや幸せいっぱい、そんな人は一人もいないと、ぼくには思われます。

 「誰にまどってもらわなくてもいい。それ以上に、自分の中にまどってほしいと願うツェねずみがいることがたまらなく嫌だった」「私はツェねずみにはならない、そう誓った。心にあいた穴を埋めるのは自分自身だ、自分で自分の人生の意味をもう一度見出さなければ。私の人生の創り手は私以外の誰でもないのだから」

 入江杏さんのような方が前に向かって歩いておられる、それを知るだけでぼくは真摯に生きていきたいと念ずるようになるのです。彼女の悲しみや苦しみは、彼女一人のものではないでしょう。ある人がそれを受け止められる限り、人間の共通の「痛み」となるのです。その「痛み」の了解は、しかし、時に、他者の苦しみの質を変えるのかもしれないのです。このような、言わず語らず「教えられる」「導いてくれる」生き方の流儀、ぼくは多くの方々に出会うことで、この、決して派手ではないが、誠実な軌跡を描くような人生の「流儀」を学んできました。

 「誰かが悲しんでいる時に、そっと手を差し伸べられる社会になってほしい」

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 麦茶だろうが何だろうが、酔えればいいさ

 【日報抄】新商品だと思って確かめもせずに買ったビールを飲もうと、プシュッと開けた時のことだ。缶に「ノンアルコールです」と書いてあるのに気がついた。既に遅し。開けてしまったのでゴクッとやると、これはこれで十分おいしい▼後日、改めて店で陳列棚を眺めると、見た目がビールや缶酎ハイと似たノンアルコール商品が増えていた。片や、子どもが喜びそうなかわいいイラストが付いたビールもあれば、「これはお酒です」と明記したジュースみたいな缶もある。これは区別が難しい▼ノンアルが増えているのは、飲めるけれどあえて酒を口にしない生活スタイルが受け入れられてきたからだという。「しらふ」と「好奇心」を組み合わせた「ソーバーキュリアス」という造語と共に、若い世代を中心に広まっている▼背景には健康志向の高まりがあるらしいが、飲酒をしないことで、パワハラやセクハラなど宴席で起こりがちなマイナスな出来事を回避したい意識も働いているという。飲酒運転を避けられるから時間を気にせずに出掛けられ、自由な時間が増えたように感じる人もいる▼厚生労働省によると、飲酒の習慣がない人は2019年に55%となり、微増傾向にある。日常的に飲むという人の方が少数派になってきた▼流行に便乗して、たまにはノンアルに置き換えてみようか。リラックスできれば同じこと。缶本体にアルコールをグラム単位で表示する動きも進んでいる。飲み過ぎて健康や人間関係を損なっては元も子もない。(新潟日報・2022/06/12)

 長年の「純米派」から、ぼくは毎晩ではありませんが、時々「ノンアル派」に転向して、かれこれ十年近くになります。「転向」の理由は特にあるというのではありません。思想転向といえば格好はいいけれど、酒を飲まなくなるというのはそんな「大それた」ことなんかではありませんで、一言で済ますなら、飲むのが面倒になったという話です。だから、ありていに言えば、ぼくは「左党」から「甘党」に変わったともいえそうですから、やはり一種の「転向」であることは間違いありません。酒飲みはどうして「左党」といわれるのか、異説もあって騒がしいのですが、要するに大工さんの仕事では「左手」は「鑿(のみ)手」で、だから左党=呑み助・呑兵衛を指した、これもまたある種の符丁なんでしょうね。

 おそらく半世紀以上、人並みに酒は飲んできました。大学生になってからは「晩酌」を始めていたし、近所(本郷界隈)の居酒屋にもよく通っていました。勤め人になってからは、昼飯時に少し足を延ばして上野や神田の蕎麦屋に入り、そこでお神酒を少々いただき、そのついでに盛り蕎麦を食べるということが習慣になっていきました。日本酒は「盛り」にあうというのか、「盛り」は日本酒にぴったりというのか。

 ネットを見るとはなしに眺めていたら、人気食堂とか名物蕎麦屋などといった番組があり、そこになんと「赤門そば」が収録されていました。そこの店主はHさんという「双子」の兄弟で、ぼくは、その蕎麦屋の少し奥まった路地に住んでいましたので、出前を頼んだり、お店に出向いては「太いうどん」や「名物蕎麦」を食べていました。数えてみれば、ぼくが本郷を離れたのは半世紀前になります。店主は御年八十四歳で、娘さんが店を切り盛りしていました。兄弟の一人は亡くなり、店主(Kちゃん)のかみさんも亡くなられていた。五十年の星霜は、人を変え時代を変え、社会まで変えて、しかし残された人々の佇まいは少しも変わっていないという「奇跡」にあったような感じがしました。

 酒は嫌いではありませんでした。たくさん飲むというのではなく、おいしいと感じるようなお酒(日本酒)と、まぎれもないおいしい肴を用意して、ぼくは毎日、仕事帰りに飲んだものでした。若いころは何かと酒類を漁ったものですが、ある時期からはひたすら「純米酒」(それも金沢の酒)しか飲みませんでした。理由は単純、値段は張らないし、二日酔いには縁がなかったからです。おそらくこの「純米」ばかりを三十年は飲んでいたでしょう。勤めに行かないときは家で飲むのですが、それも「純米」でした。この山間地に転居するまで、あるいは引っ越ししてしばらくは、やはり「純米」で、それは九十九里の純米酒でした。これもまたケース(一升入りを十二本)ごと注文し、一人でゆっくりと飲むようになったのです。しかしやがて、おいしい「肴」がないこと、毎日のように口に入れていた納豆や豆腐や油揚げの良品が手に入らなくなったので、間もなくぼくは酒を、瞬時に断ってしまいました。

 「豆腐一丁で二合の酒」と言われたのは、初代陸軍大臣の大村益次郎でした。ぼくもその口で、三十年間、同じ豆腐屋さんのものを毎日食べていました。しかし、山の中にきて、酒は手に入るけれども、魚がダメだし豆腐もダメ(スーパーのものは口に合わない)、それで何の未練もなく酒を止めたのでした。自分でも意外でしたね。タバコは止められても、酒は無理かなどと、勝手に思い込んでいたから。しかし、「酒肴(しゅこう)」などというように、両方がそろわないと、なんだか間が持てないという気がするのです。酒もたばこもやめてかれこれ十年近くになるか。

 この山間地に一人で住みだしてから、四、五年経って、かみさんが来ました。直前に大きな病気(手術)をしその後の養生が大変だということで共同生活(同棲)を再開しました。彼女はあまりというか、まったく飲まないが、食事時に、少しは酒類が必要らしい。いろいろと試行錯誤(というほどではないが)の結果、ある時に「ノンアル」にたどり着いたという次第です。しかし、そのノンアルコールでさえも、350㎖間、府たちで飲みきれないことの方が多いんですよ。ぼくが酒を止めたと伝え聞いた友人の多くはそれを信じないで、山の中まで見に来たものもいたほど。それが事実だと知ったら、「酒を飲まない君は、君じゃないよ」と、いまだに昔の飲み屋からお誘いが来るのです。ありがたいことですが、飲みたくないのに、わざわざ東京まで出向くこともなかろうからと、そのままで放置しています。

 いろいろな資料などを漁っていると、喫煙習慣を持たない人が大変に多くなったといわれるし、飲酒の方も習慣化しない人が増加中だそうです。特に若い人々にその傾向が強いといいますから、だから「ノンアル」と方向転換を図ってきたのは「酒造メーカー」だったわけです。この先も同じような傾向が続きそうな気もします。それはそれでいいことだし、酒の上での事故が減るなら勿怪(もっけ)のさいわいともいえますから。ぼくは「酔える」なら、なんだって(ウーロン茶でも、番茶でも)構わないほどの「酒飲まない人間」になってしまいました。往時は「一升」は当たり前でしたのに。

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(ある新聞記事から)英語の「sober(しらふ)」と「curious(好奇心が強い)」を組み合わせた「ソーバーキュリアス」は、英国出身のジャーナリスト、ルビー・ウォリントンさんが2019年刊行の著書で打ち出したとされる。日本でも今年11月に「飲まない生き方 ソバーキュリアス」のタイトルで方丈社から翻訳出版され、売れ行きは好調だ。/ ソーバーキュリアスは特に若い世代で支持を集める。厚生労働省の19年国民健康・栄養調査で、酒を飲まない層は55%と半数を超え、元々飲めるが「ほとんど飲まない」と「やめた」の合計は18%。20代に限ると27%だった。/ ニッセイ基礎研究所の久我尚子さんは「若い世代の消費行動は合理的で、時間を有効活用したい思いが強い。飲酒は費用対効果が低いと考える」と分析。コロナ禍で健康意識が高まったこともあり、「全世代で今後、実践者が増えていくだろう」とみる。

販売されているノンアルコールや低アルコールの飲料

飲酒習慣 内外で問い直し ノンアル商品等拡充飲酒習慣への警告は、世界的な潮流だ。世界保健機関(WHO)は10年、過度な飲酒を減らす指針を採択。国連のSDGs(持続可能な開発目標)でも「アルコールの有害な摂取を含む、物質乱用の防止・治療を強化する」としている。 /このため、酒販業界では近年、「適正飲酒」の取り組みが進んできた。アサヒビールは「スマートドリンキング」、サントリーは「ドリンク・スマート」、キリンは「スロードリンク」と銘打ち、ノンアルや低アル商品の拡充、アルコール量の記載などを展開中だ。こうした動きもソーバーキュリアスを後押しする。/ 民間の調査機関「酒文化研究所」の山田聡昭さんによると、仕事の付き合いなどで、周囲から飲酒を強要されることが減っていた上、コロナ禍で人付き合いが限られ、飲酒自体の意味を問い直す機運も生まれたという。「飲む人だけでなく、飲まない人や、TPOや体調に合わせて上手に使い分けたい人にとっても、好ましい環境が整ってきた。飲酒文化が成熟したとも言える」と指摘する。(読売新聞生活部 福士由佳子)(https://otekomachi.yomiuri.co.jp/lifestyle/20211221-OYTET50002/)

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(下図は「繊研新聞」:https://senken.co.jp/posts/non-alcohol-211018)

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・椹(くはのみ)や花なき蝶の世捨酒 (芭蕉)

・月花もなくて酒のむ独り哉 (同上)

・朝顔は酒盛知らぬ盛り哉 (同上)

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 かうありたかつたと願ふ自身の姿を描き出した

 人間の「感情」や「期待」「欲望」などは「履歴書」や「経歴欄」には収まらないもので、できれば、自分で好きなように記述するのがまっとうなのかもしれませんね。ぼくたちは、ついついその人となりを知るためにと、「履歴」や「略歴」を見ます。そこで書かれていること(語られていること)は、虚実を取り混ぜて、あるいは場合によっては、虚偽事実ばかりが書かれているのかもしれないし、それで何の問題もないとは言いませんが、本音を言えば、正直に「ありのまま」を書く(語る)というのは、存外に難しいものです。これは、ぼく自身の実感でもあります。今、一人の「(在日)作家」のことにすこしばかり触れようとして、はからずも人生の難問に遭遇したという風情です。いったい、「年譜」というのは、一人の人間の、どういう問題なんでしょうか。ある種の「既成事実」「偏見」を植え付けるもとになっていはしないでしょうか。(これは決して、一個人に限らないことで、企業や国においてもしばしばみられることではあります、歴史の改竄・捏造です)(ヘッダーは慶尚北道=「紀元前三韓の一つだった辰韓の領土であり、三国を統一して千年の王祖と燦爛たる文化を花咲かせた新羅の本土であった」:https://www.gb.go.kr/jpn/page.jsp?largeCode=about&LANGCODE=Japanese)

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 昭和二年一月六日朝鮮慶尚北道大邱市の母の生家永野家で出生。戸籍上の届け出は大正十五年一月六日。父は金井慶文、母は音子。父母ともに日韓混血で父は李朝末期の貴族李家より出て金井家に養子にやられ、はじめ軍人、のち禅僧になった。(中略)/ …昭和十四年春、神奈川県立横須賀中学校の入試を受けて合格せしも、三月末、四歳年上の少年の嘲罵を受けて短刀で相手の胸を刺して重傷をおわせ入学をとり消さる。六月、横須賀市立商業学校に編入を認められる。(立原正秋「自筆年譜」より)

 立原正秋さん(1926~1980)の死後十年余を経て、親しい友人だった高井有一さんが書かれたのが評伝『立原正秋』(1991)でした。あるとき、生前の立原の自宅に出版社の編集者といっしょに行き、そこで上の「年譜」を見たことがあった。

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  「私は冒頭の「父母ともに日韓混血」といふ記載に、強い印象を受けた。これは立原正秋が小説以外の場所で、「混血」の事実を公けにした最初であらう。やつぱりさうだつたのか、と思つた」(高井有一『立原正秋』新潮社刊)

 「日韓混血」に強い印象を受けた理由は、それ以前に刊行されていた小説『剣が崎』が主人公と朝鮮との関係を明かしていたからでした。お二人が無二の親友であったかどうかはわかりません。でもその昵懇の友人だった高井さんにも、立原正秋さんはみずからの「素性」は明かされていなかったというのです。誰にもありがちなことでもあると同時に、あるいは自らをも欺くような「人生の波浪」を渡ってきたということなのかもしれません。どうしてか、その理由はなんでしたか。

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 「立原正秋が死ぬまで、私は、この年譜の記述が多少の修飾はあるにしても大筋では事実だと信じてゐた。しかし、実際はさうではなかつた。彼の両親は混血ではなく、共に純粋な朝鮮人であつた。李朝末期の貴族李氏と血の繋がりはない。正しい生年月日は、年譜では戸籍上の届け日とされた大正十五年一月六日である。そのほか多くの点で、この自筆年譜は事実と相違してゐる。いくつかの固有名詞の一部が故意に変へられてもゐる。立原正秋がかうありたかつたと願ふ自身の姿を描き出した一種の小説だと言つた方が、むしろ適当かも知れない」(同前)

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 父が軍人であった形跡もなかった。また年長者から罵られたので傷つけて「入学をとり消さる」とした横須賀中学校は受験していませんでした。だからそのような傷害事件もなかったことになります。 「日韓混血、李朝貴族の血を引くと称してゐた彼が、実は韓国の庶民の出である事を跡づけて、彼が必死に築いた虚構を暴く形ともなつたが、十六年に及ぶ交遊を通じてずつと抱き続けた親愛の感情は、自づと溢れ出てゐたと思ふ。発表後、主に彼に好意を持たなかつた人たちの中から、立原はあんな男ぢやなかつた、と言ふ声が聞えて来た。これは仕方のない事である。私は、私にとつての立原正秋をしか語らうとはしなかつたのだから」(高井有一『夢か現か』筑摩書房。2006)

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 「日韓の歴史の狭間で生涯に六つの名前を持たねばならなかった一生。年譜さえも自ら創作せざるを得ないほど、文学と実人生の間で苛烈な闘いを続けた軌跡」(前掲帯より)

 今では想像することさえ困難な一人の「在日」文学者の生き方をわが身につきつけて考えてみるのです。戦後数年して彼は日本人女性と結婚し、日本国籍を取得されますから、その段階からは「在日」という表現は正確なものではなくなります)

 わたしたちはなにを誇りとし、なにに苦悩して人生を生きようとしているのか、生きているのか、生きざるを得ないのか、と。

 以下、立原さんの「経歴」とされるものを、なんと三点並べてみました。まことに珍しいことかもしれない、それぞれに書かれている「事実」が異なるのですから。どなたの「履歴書」だって、すべてが客観的な事実に基づいているとはいいがたいのが相場ですから、この異動・差異に何事か批判めいたことを言うのは野暮であるかもしれません。それにしても、堂々と「虚偽」「捏造」と判明しているものを、「捏造」そのままを踏襲して「履歴」としているのも、考えてみれば、研究者という存在も、なかなかえげつないこと(食わせ物)ですね。(高井さんの「北の河」は、ぼくにとってはもっとも「秀逸」な短編の一つだと思われます。若い頃にこれを読んで、ぼくにはいささかの文才(天稟)もないことを思い知らされたという意味でも、画期的な作品だといいたいですね。一読をお勧めしたい)

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*参考までに:【立原正秋=経歴は複雑で、1926年(大正15年)1月6日朝鮮慶尚北道(現・大韓民国慶尚北道)安東郡西後面台庄洞に、父・金敬文、母・権音伝の長男として生まれる。名は金胤奎。その後、野村震太郎、金井正秋と名乗り、米本光代と結婚して日本国籍を得て本名・米本正秋、通り名はペンネームの「立原正秋」で、亡くなる2ヶ月前に「立原正秋」への改名が認められこれが本名となった。大酒飲みと美食好みが祟り1980年(昭和55年)8月12日、食道癌のため54才の若さで死去。鎌倉・瑞泉寺に墓所がある。】(Hatena Diary)

● 立原正秋(たちはらまさあき)(1926―1980)=小説家。韓国大邱(たいきゅう)で生まれる。両親は日韓混血、父金井慶文は李朝(りちょう)貴族末裔(まつえい)である。1932年(昭和7)父は自決、35年母再婚のため親戚(しんせき)に預けられ、37年内地に帰り市立横須賀商業学校を経て、44年京城帝国大学予科に入学したが、病気のため帰国。45年早稲田(わせだ)大学専門部法科に入学したが、作家を志し49年(昭和24)中退した。この間米本光代と結婚、世阿弥(ぜあみ)に傾倒し古典に親しむ。56年処女作『セールスマン・津田順一』を発表後、『薪能(たきぎのう)』(1964)、『剣ヶ崎(つるぎがさき)』(1965)などが芥川(あくたがわ)賞候補となり、『白い罌粟(けし)』(1965)で直木賞を受賞。以後その中世美への愛着を軸とした甘美な虚無感と鮮烈な叙情をたたえた作風は多くの読者を得たが、昭和55年8月12日、食道癌(がん)のため死去。(ニッポニカ)

● 立原 正秋(タチハラ マサアキ)昭和期の小説家 生年大正15(1926)年1月6日 没年昭和55(1980)年8月12日 出生地旧朝鮮・大邱 本名米本 正秋 学歴〔年〕早稲田大学国文科〔昭和23年〕除籍 主な受賞名〔年〕近代文学賞(第2回)〔昭和36年〕「八月の午後」,直木賞(第55回)〔昭和41年〕「白い罌粟」 経歴 昭和6年父が死去、10年渡日、12年母の再婚先の横須賀に移る。25年から鎌倉に住む。放浪生活を続けたあと31年ごろから小説を書き始め、33年「他人の自由」で文壇に出る。36年「八月の午後」で第2回近代文学賞を受賞、41年には「白い罌粟」で第55回直木賞を受賞。そのほか「薪能」「剣ケ崎」「の花」「冬の旅」「きぬた」「冬のかたみに」などを間断なく世に問い、特異な作風でベストセラー作家の地位を築いた。39年から「主宰、44年には第7次「早稲田文学」編集長となったが、酒と女とけんかという“無頼派”の一面も。小説のほかに、随筆集「坂道と雲と」「旅のなか」、詩集「光と風」がある。59年「立原正秋全集」(全24巻 角川書店)が刊行された。(20世紀日本人名大辞典)

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● 高井有一【たかいゆういち】=小説家。本名田口哲朗。東京生れ。田口掬汀(きくてい)の孫。早大英文科卒業後,1975年まで共同通信社の文化部に勤務。その間,同人誌《犀》の創刊に参加,同誌発表の《北の河》は《文学界》に転載の後,芥川賞を受賞した。私小説的な題材を古典的で端正な文体で対象化する筆致は高い評価を得た。《夢の》で芸術選奨文部大臣賞,《この国の空》で谷崎潤一郎賞,《夜の蟻》では読売文学賞を受賞している。(1932~2016)(マイペディア)

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 若いころ、ぼくは立原さんを「読もう」としましたが、どうしても受け入れられなかった。小説というものに託す願いや望みというものが、ぼくの求めていたものとはまったく違っていたのでしょう。恋愛小説は嫌いではありませんが、そこには何かが足りなかったのかもしれません、ぼくにか、立原さんにか。生意気なことを言うようですが、相性(好き嫌い)みたいなものがあって、それはなんとも致し方ないんですね。立原さんの小説を前にして読破できなかったのとは別の意味で、ぼくは大江健三郎さんの作品にも歯が立ちませんでした。無理に読むと、気が狂いそうになる、そんな感想を持ったのは事実です。立原さんには、それとはまったく別個の感情が働いたのだと思います。彼の作品のタイトルを並べてみると、読まないでもいいやという気になり、ぼくの入り込む世界ではないなという感覚が先に立ってしまうのでした。

 ぼくの勝手な当て推量です、立原さんはかなり無理を重ねて「背伸びして」生きていたのではなかったか。(激しい苦労の末に勝ち得た)売れっ子作家だったし、「酒豪」「剛直」という人物評も雪だるまのように膨らんでいたし、李朝の末裔だというおぞましい「亡霊」までひけらかしていたのですから。読みもしないでこんなことを言うのは気が引けますが、彼は「自画像(他人の目に映る像)」を必要以上に深く繊細に、かつ真っすぐ(純粋)豪胆で、そして偉丈夫にするために、どうしても肝を据えて虚構を貫こうとしていたように思われてくるのです。彼の亡くなる前の、ある新聞連材(人物伝記風)でしたが、ある時、まだ幼かったお嬢さんと自宅近くを散歩していた。そこへ一匹の「野良犬」だったかが、吠えて、お嬢さん目掛けて飛びかかろうとした。それをみて立原さんは、とっさに持っていた竹刀(木刀だったか)で一太刀のもとにその犬を撲殺したという記事が出ていました。

 それを読んだとたん「嘘だ!」と、ぼくは唸ったような気がしました。(「自筆年譜」の「四歳年上の少年の嘲罵を受けて短刀で相手の胸を刺して重傷をおわせ」という部分を想起します。こういうことが「世間」に向けて書けるという、その心情はぼくには分かりきらないところがあります)(犬の件は事実だったかもしれないが、それをどうして、ここ(新聞)に書くかという問題ですな)詳しいことは忘れましたが、そこまでして、自らをして潔く、しかも無骨なものとして虚飾しなくてもと感じたし、その半面で「焼き物」や「陶器」「料理」などにも、繊細で美的な傾向が濃厚で、それらに対して、蘊蓄(うんちく)を傾ける、そんな「一家言」を持っていると称しておられた。また、これはぼくの先輩が鎌倉の梶原という地で、立原さんの近所に住んでいたので、しばしば「自慢話」として先輩の「立原談義」を聞いたことがありました。実につまらないことでしたね。

 「君、立原さんはすごいんだ」と、それを語っている自分の「凄さ」を言わず語りに話していたのを、いやな思い出として記憶しています。その人は天気の話をしていても、何時か「自分の自慢話」に変わっていく人でしたな。「自分を大きく、偉く見せたがる」、そんな大人でした。どんな話題にも、いつの間にか自分が出ているんですね。「こんな大人には断じてならないぞ」と、ぼくは誓ったものでした。「スノッブ」というものを自覚した最初だったか。まだ三十前でした。(これは「立原正秋」さんの作品の評価とはいささかも関係しないことです)

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 「がんでないなら、ないとはっきり言って下さい」

 〔本日の対談〕(かなり古いころの記事です。二人の呼吸のあった語り具合を、もう一度聞いてみたくなりました)

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 徳永 野の花診療所では死を前にした患者さんに何かしたいことを尋ねて、実現するようにお手伝いしています。「たんぼの土を踏みたい」「焼き肉を食べたい」「空をみたい」「道を歩いてみたい」…。

 生きているときは、日常の暮らしより理想や主義主張、仕事、金もうけが大事だが、死を前にすると価値が逆転する。ありふれた日常の暮らしが生命の根本だとわかる。今の社会は主義主張の方が肥大化しすぎているから、修正する必要がありますね。

 鶴見 日常の暮らしというのはそれだけ、すごいんだ。

 徳永 ベルトコンベヤーにのった人生はつまらない、と死ぬときにわかる。それでは遅いんだけどね。ところが、例えば好きな山登りをやったという人は「死の野郎がもうちょっと遅くきたらいいのに。でも山登りもいっぱいしたし、しょうがないかな」と、どこかで手を打つ。死と取引できたりする。だが、ベルトコンベヤー人生では取引できるものがないので、死んではならない。死は悪で、遠くにおくもの、となる。(中略)

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 鶴見俊輔さんと徳永進さんとの対談。(「生き死に 学びほぐす」2006年12月27日・朝日新聞)徳永さんは現在、鳥取県でホスピスケアのある野の花診療所を運営している。  

その徳永さんとガン患者の女性との会話。

 「がんでなかったら、がんでないとはっきり言って下さい」「ええ、がんじゃありません」「ああ、よかった」(その患者は自分ががんであることをしっているが、信頼する医者からそうじゃないといってほしかったのです)鶴見さんはこのことを次のようにいう。

 《 医者は「あなたはがんです」というのが正しいのかもしれない。しかし、徳永が「がんではありません」というのは、死に臨む人が語り残したことばをくみ取り、まなんだからである。/ 戦前、私はニューヨークでヘレン・ケラーに会った。私が大学生であると知ると、「私は大学でたくさんのことをまなんだが、そのあとたくさん、まなびほぐさなければならなかった」といった。まなび(ラーン・learn)、後にまなびほぐす(アンラーンunlearn)。「アンラーン」ということばははじめて聞いたが、意味はわかった。型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像された。

 大学でまなぶ知識はむろん必要だ。しかし、覚えただけでは役には立たない。それをまなびほぐしたものが血となり肉となる。

 徳永は臨床の場にいることによって、「アンラーン」した医者である。アンラーンの必要性はもっとかんがえられてよい 》(同記事より) 

 鶴見さんはみずからの大学体験(学生として、教師として)から、「大学でまなぶ知識はむろん必要だ」といわれるのですが、はたして必要なのかどうか。今日ではまことに疑わしい。それは大学にかぎらない話で、学ぶことが成りたっていないのが学校教育なんだから、まなびなおしもありえないという恐ろしい状況が浮かびあがってきます。

 知識をまなぶというよりは符丁や単語を受けいれるだけが生徒の仕事で、その符丁や単語を受けいれさせるのが教師の天職だというのが、まるでそれぞれの相場になってしまっているんじゃないでしょうか。他人から与えられて行う「学ぶ」と、それをその後に、自分で必要に迫られて「学びなおす」、この二つの「学習経験」はどちらが重要だというのではなく、両者が相まって初めて、自らの「学ぶ経験」が生きてくるのです。学ぶことが生きた経験になるのです。徳永さんが「あなたはがんじゃありません」と患者に言う。「ああ、よかった」とかんじゃ。この府たちの間位には正解も誤答も介在する余地はありませんでしょう。この時三問われているのは、問われた医者から患者は何を求めているか(何を求めていないか)です。これはマニュアルには出てこない。自らの臨床経験からしか生み出せない回答ではないでしょうか。

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● 徳永進 とくなが-すすむ 1948-=昭和後期-平成時代の医師。昭和23年4月13日生まれ。鳥取赤十字病院勤務のかたわら,執筆や社会活動にとりくむ。昭和57年患者や家族の闘病記録「死の中の笑み」で講談社ノンフィクション賞。平成元年鳥取市に私設公民館「こぶし館」をひらいた。鳥取県出身。京大卒。著作に「隔離」「形のない家族」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

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