「日日是好日」を貫く、それはなんなのでしょうか 

 【有明抄】2人の命日に「今」を思う 今夏開かれた「相田みつを全貌展」には「没後30年」の副題がついていた。30年前のきょう12月17日が命日。67歳だった。「つまづいたっていいじゃないかにんげんだもの」「一生勉強一生青春」などの作品を思い出す◆寒さが厳しさを増す時季の死去。ふと思い出して調べるとやはり…。この欄を担当していた大先輩の(徹)さんの命日が12月19日だ。享年55。突然の訃報が信じられなかったあの日から、もう21年になる◆悲しいことだが、誰にでも必ず「あした」がくるとは限らない。相田さんの生涯も長かったとはいえない。だからこそ「今」を大切に生きなければならない。相田さんの作品で、もう一つ心に残るのは「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」。幸せの定義は人それぞれ。今はつらくても「生きていてよかった」と思う日が来るだろう◆「日日是好日」という言葉がある。「にちにちこれこうにち」「にちにちこれこうじつ」などと読み、毎日をよき日として過ごすことが大切、と解釈される。日常はほぼ同じことの繰り返しだが、コロナ下で、同じ日を繰り返せることが幸せと思わされた◆21年前のきょう、(徹)さんの最後となった有明抄は落語の「芝浜」を題材に、夢に浮かれないようにと説いた。何かとせわしない師走だが、一日一日を大切にと気合を入れ直す。(義)(佐賀新聞 Live・2021/12/17)

**************************

 数日前にも「相田みつを」さんに触れました。今なお、さかんに「展覧会」が各地で開かれています。没後三十年といいますが、いよいよ「盛名」は遍(あまね)く馳せるという感がします。しかし、これは存命していたみつをさんとは無関係です。そのいい悪いをいうのではありません。「死して名を遺す」人もいれば、「死に先立って名を遺す」人もいます。あるいは「生前」も「死後」も名を残さない人もいます。こ場合の「名」とはどういうことでしょうか。ぼくにはよくわかりません。どんなものにも「名」がありますから、あえて「名を遺す」などという必要もなさそうですのに。生きた証を「名」というのでしょうか。それが「名」であるなら、残すのは当人ではなく、関係者でしかありません。これを「顕彰」というのかもしれない。ぼくにはよく理解できません。この地上には「遺(された)名」ばかりが立てられています。それがお墓であったり、石碑であったり。残された人たちの仕業です。それの「是非」はともかく、です。

 「誰にでも必ず『あした』がくるとは限らない」と、コラム氏は言われます。「今やりたくない、あしたにしよう」「あした逢おうか」という、その「あした」が来るとは限らないというのでしょうが、どんな人だって、何時までも「あした」が来るとは言えないのが「人生」「生涯」ですから、生あるものには、きっと、必ず、不可避に「あした」は来なくなると言うべきでしょう。 これの「表現」はともかく、です。

 このコラム氏の文章を読んだ際に、ぼくは、親鸞さんの作と言われる「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」というのを想起しました。これは比叡山の座主だった慈円のもとに「得度」を願い出たとき、慈円は「今夜はもう遅い、明日にしよう」といったのに対して、親鸞が答えたものとされている(もう少し、曲折。尾鰭(おひれ)があるのですが、今は触れない)。この時、親鸞は九歳だったという。よく「法事」で聞かされる親鸞の「お言葉」に「散る桜 残る桜も 散る桜」がありますし、「朝に紅顔ありて夕べに白骨となる」(これは親鸞の言葉でなく、「和漢朗詠集」にあるもの)があります。いずれも「「行く川の流れは絶えずして…」というようなもので、いのちの「儚(はかな)さ」「移ろいやすさ」を言うのでしょう。(昨日、大阪の中心街にあるクリニックで「放火事件」がありました。「あした」のための「心のケア」に通院されていた方々が多数亡くなられました。合掌するのみ)(左の写真は「お寺の掲示板」。右上も:https://diamond.jp/articles/-/282515)

● 慈円 じえん=1155-1225 平安後期-鎌倉時代の僧,歌人。久寿2年4月15日生まれ。藤原忠通(ただみち)の子。九条兼実(かねざね)の弟。天台宗。覚快(かくかい)法親王の弟子となり,明雲(みょううん),全玄にまなぶ。4度天台座主(ざす)に就任したほか,無動寺検校(けんぎょう),四天王寺別当などをつとめる。大僧正。「愚管抄」をあらわして公武協調を主張。歌が「新古今和歌集」に92首のる。家集に「拾玉集」。嘉禄(かろく)元年9月25日死去。71歳。法名ははじめ道快。通称は吉水僧正,無動寺法印。諡号(しごう)は慈鎮。【格言など】おほけなく憂き世の民におほふかなわが立つ杣(そま)に墨染の袖(「小倉百人一首」)(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

+++++++++++++++

 日々是好日といいます。「毎日がいい日です」ということのようです。いや、どんなにいいことがあった日でも、どんなに辛いことがあった日でも、禅の世界(教え)では、寸分の違いも(差)ないという意味だそうです。「絶対」「真言」という見地からすれば「五十歩百歩」ということでしょうか。身長が百五十センチであろうが、百八十センチであろうが、別の尺度(無限)からすれば、どっこいどっこい。生きていることが「好日」だというのかもしれません。これは素人向けの「箴言」ではなく、プロ僧侶のための「諭し」でしょうね。同じようなことを、良寛さんはこう言いました、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく、死ぬ時節には死ぬがよく候」と。良寛さん、そんなもんですかなあ、と一言したくなりそうですが、しかしあたふたしても始まらない、いっそのこと、「どうなとなれ」「好きにさらせ」という心持も(いや、むしろ「捨て鉢」か)、また大事ですよということでしょうか。ぼくなんか、何時まで経っても「日日是口実」ですなあ。ここで、「芝浜」について一席、ご機嫌を伺いたいのですが、お日柄がよろしくなさそうですので、日を改めて。(右上は東浦奈良男さん)

####################

● 日日是好日=来る日も来る日も、楽しく平和なよい日が続くこと。一日一日を大切に生きる心構えをいう。[使用例] 普通にでいうところの虚空的な心の自由が得られて、日々これ好日の生涯を経るという程度の幸福なら、格別欲しくもなかった[岡本かの子*宝永噴火|1940][使用例] 一切の社会的罪悪から脱して、日々是好日の世界に暮して居ることを、自覚せよとの警示である[久保田万太郎*にわかへんろ記|1953][由来] 「碧巌録―六」に出て来ることば。九~一〇世紀、唐王朝が滅びる前後の時代の中国に、うんもんぶんえんという禅僧がいました。彼はあるとき、弟子たちに向かって、こんなことを問いかけました。「夏の修行が終わる七月一五日までのことは問題にしない。その日以後のことを、一言で言い表してみよ」。そして、弟子には答えさせないまま、自分で「日々是好日(毎日がよい日だ)」と答えた、ということです。[解説] ❶「碧巌録」は、禅問答の書物ですから、このお坊さんが何を言いたいのか、一般人にはよくわからないのも当然です。ただ、禅の無の境地に達すれば、どんなにいいことがあった日でもどんな災難に見舞われた日でも、なんら違いはないのだろうと思われます。❷だとすれば、「日日是悪日」でも、結果的には同じことになるはず。それを上向きに「好日」と表現しているところが、このことばが広く愛されてきた理由なのでしょう。「毎日をありがたく生きていく」といったニュアンスで用いられます。❸「日日」は、禅の世界では「にちにち」と読むのが習慣ですが、故事成語としては「ひび」とも読むこともあります。(故事成語を知る辞典)

HHHHHHHHHHHHH

 ある人の本を読んでいたら、「捨てるだけ強くなる。得られる。自由になれる。捨てただけ強くなる」とありました。この言葉の主は「東浦奈良男」さん、故人です。会社を定年退職した翌日から「一万日連続登山へ挑戦」された方。(近々、この方のことについて書いてみたい)人はどうして「千日行の十倍の修業」を求めるのでしょうか。これが「日日是好日」というものなのでしょうか。東浦さんは退職の日の日記に「自由」と書かれていたと言います。(左は「山と渓谷」2007年1月号)一万日とは二十七年五か月弱です。何故、「毎日登山」を一万日もか、と聞かれて、「①両親に話す、冥土へのお土産 ②供養と償い ③奥さんへのプレゼント」と答えた。こういう人が、実際に存在されているんですね。表向きの理由はそうかもわかりません。しかし、この異様な「毎日登山」に駆り立てるもの(情熱)は、彼の身中に燃え滾(たぎ)っていた、その熱源は何だったのか、ぼくは、恐ろしくなるほどの執念(信念ではなく)を感じるのです。

 歩く人、走る人、そして登る人、今の時代だからこそ、身一つで、わが身を動かすことに集中する、そんな時代でもあることを、ぼくは教えられています。我が身一つで、あるいは、裸一貫で。それを「孤独」「孤立」というなら、どうぞ。その「信念」というか「執念」というものを支える柱はどのようにできているんでしょうか。中から育つのか、あるいは、外からいただくのか。

JJJJJJJJJJJJJJJJ

●千日回峰行=天台宗総本山・比叡山延暦寺に伝わる比叡山の山中などで行われる荒行。平安時代から続いている修行で、比叡山の礼拝場所などを巡り約4万キロを歩く。修行700日を終えた後には9日間、食事や水を断ち不眠不臥(ふが)で不動明王真言を10万回唱え続ける「堂入り」を行う。これを終えた行者は「當行満阿闍梨(とうぎょうまんあじゃり)」と称され、生き仏として信仰を集める。その後2年間修行を続け、すべての修行を終えるまで7年間、1000日を要する。2015年10月21日未明、同寺一山善住院の釜堀浩元住職が、8年ぶり・戦後13人目となる「堂入り」を終えた。(知恵蔵mini)

_____________________________

 世の中のあらん限りやスエコ笹

 【三山春秋】▼園芸店をのぞいたらシクラメンがずらりと並んでいた。本県は昨年の出荷量が全国6位、出荷はいま最盛期を迎えている▼原産地は地中海沿岸で、明治初期に日本に入ってきた。和名はカガリビバナ。歌人の九条武子が「篝火(かがりび)のよう」と話すのを聞き、植物学者の牧野富太郎が命名したという▼植物分類学の世界的権威だが、学歴と学閥の壁に阻まれ苦労の人生を送った。東京帝大の植物学教室に出入りを許されたが、主任教授から教室の書物や標本を見ることを禁じられた。抗議は聞き入れられず帰郷。教授が学内の権力争いに敗れて罷免され、月給15円の助手として呼び戻された▼結婚し、子どもが13人生まれたが給料は据え置き。家族が多いうえ、大量の標本と書物があって小さな家には住めない。借金は2千円に膨らみ、家財道具を競売に掛けられた▼篤志家の援助で救われたが、研究成果を発表するようになると、教授にねたまれ、悪口を言いふらされるようになった。困ったのは昇給を阻まれたこと。最後は大学から辞めるよう引導を渡された。47年間勤めて月給は75円。大卒の初任給と変わらなかった▼妻の寿衛子は文句を言わずに支えた。亡くなると新種のササを「スエコザサ」と名付けた。〈草を褥(しとね)に木の根を枕、花と恋して五十年〉。生涯に発見した新種は1千種、新変種は1500種。植物への恋心は最期まで冷めなかった。(上毛新聞・2021/12/06)

++++++++++++++++++++++

〇 牧野富太郎(まきのとみたろう)(1862―1957)=植物学者。土佐国(高知県)佐川(さかわ)村(現、高岡郡佐川町)の酒造家の生まれ。幼くして父母、祖父を失い、祖母に育てられ、6歳で明治維新を迎えた。9歳のとき寺子屋に入り、植物に興味を覚え始めた。1872年(明治5)寺子屋廃止に伴い藩校の名教(めいこう)館に入りヨーロッパの科学に接した。2年後、学制発布に伴い名教館は廃止となり、新制の小学校に入学(12歳)。2年間で教程を終えて退学、植物の調査・採集に熱中した。1879年、17歳で師範学校教諭永沼小一郎(ながぬまこいちろう)に師事、近代科学の精神について自覚、本草(ほんぞう)学から植物分類学へと転進、1881年、東京で勧業博覧会を見学の際、田中芳男(たなかよしお)に面接、東京大学植物学教室を訪ね、標本と海外の文献に接した。郷里に帰り理学会を創立、科学思想の普及に努めた。/ 1884年、再度上京、東京大学教授の矢田部良吉に認められ植物学教室に出入りを許され、植物分類学の専門的研究頭した。1888年『日本植物志図篇(へん)』創刊。以後、精力的に新植物の発見命名、記載の業績を積み、植物分類学の第一人者となった。1890年、一時、教室出入りの差し止めを受けるなど圧迫があったが耐え、1893年帝国大学助手、1912年(明治45)講師となる。教務のほか、民間の植物同好会による採集会を指導し植物知識の普及に尽力し影響を残した。1927年(昭和2)65歳で理学博士、1939年77歳で退職した。1950年(昭和25)日本学士院会員、翌年文化功労者、1953年東京都名誉都民となり、95歳で死去するとともに文化勲章を受章。[佐藤七郎]『『牧野富太郎選集』全5巻(1970・東京美術/複製・2008・学術出版会)』(ニッポニカ・再掲出)

OOO

〇 シクラメン(Cyclamen persicum; sow-bread)=カガリビバナとも。地中海東部沿岸地方原産のサクラソウ科の多年草。扁球形の球根から群生する葉は柄が長くハート形で,表面には銀灰色の紋があり裏面は紫色。冬〜春,次々に花柄をのばして咲き続ける花の花筒部は下向きだが,5裂した花冠の裂片は上にそり返る。鉢植草花として普通にみられるのは園芸的な改良品種で,代表的な巨大輪のパーシカム咲,花弁の縁が縮れているパピリオ咲,花弁の縁に細かい切れ込みのあるロココ咲などがあり,花色も白,緋紅(ひこう),(さけ)肉色等で,八重咲もある。さらに近年は,小輪系品種(ミニシクラメン)の人気も高い。栽培は9月に種子をまき温室内で育て,次第に小〜大鉢に植え替えると翌年末には花をつける。(マイペディア)

#############################

 拙宅の窓際にも、シクラメンの鉢植えが四つか五つほどあります。かみさんがとても好きな花で、毎年何かと世話をしている。ぼくは嫌いではないのですが、むしろ花を落としてしまった後の処理をすることを旨としています。というとなんだか、本格的に花弄りをしていそうですね、実はそんなものではなく、また次の暮れに咲かせたいという、それだけの「花好き心」だというばかりです。この花がどうして人気があるのか、おそらく「胡蝶蘭」ほど高価でもなく、手入れも難しくないからでしょう。以前に住んでいた近所には、この花をハウスで育てている花屋があり、ときどきそこに出かけては育ち具合を眺めていました。はからずも、牧野富太郎さんの名前が出ていたのを目にし、またまた、彼に触れてみたくなりました この雑文集では三度目ではないでしょうか。この人の「生涯」を、書物を介してみるとき、植物好きが高じて「花の精」になったと言われたほどの、花(植物)への打ち込み方でした。コラム氏が書いておられるように、「艱難辛苦」「波瀾万丈」「千辛万苦」「悪戦苦闘」といった形容がふさわしいような「牧野富太郎」の生涯だったのでしょう。ご本人も、あちこちでそのように述べておられます。

 牧野さんの生き方というものを表現するのは簡単ではないと思われます。明治十七年に郷里の土佐から上京、二十四年にはいったん帰京します。さらに二十六年に再上京し、帝国大学の助手に任命される。月給は十五円だったという。当時と比較することはあまり意味はなさそうですが、参考までにいうと、明治半ばころの一円は、現在の二万円相当だとされます。年季のは入った職人の給料が二十円程度だったとされますから、牧野さんの十五円がどれくらいであるか、想像はされます。

 しかし、ぼくが言いたいのは、他人の人生を根掘り葉掘り、こと細かく詮索するのはいかがですかという話です。あまり興味はないし、それで彼の人生の何がどのように測れるのかということです。貧しい生活を強いられたにもかかわらず、牧野さんは見事に人生の花を咲かせたと言いたいのかもしれないし、ご本人にも、そういう点がまったくなかったとは思われない。しかし、そんなのは当たり前じゃないですか。彼自身の記述によれば、植物学に興味を持ち、様々な標本や関係資料を収集するのに、実家から相当な出費を重ねたとあります。土佐のつくり酒屋の一人息子だったから、それなりの余裕があったのです。でもそれ以上に出費がかさんだけれども、土佐出身の三菱財閥や田中光顕(伯爵)らの計らいで、膨大な借金も帳消しにできた。帝国大学の並みいる総長(菊池大麓、浜尾新など)の助力を得たし、杉浦重剛などの助言などもあって、貧窮塗炭の苦しみを経験することなく、植物学に専心できたともいえそうです。もちろん、これは牧野さんの性格や人柄にもよったでしょうし、彼の持って生まれた天稟などが大きく影響したと思います。

 「捨てる神あれば、拾う神あり」(「神」もいろいろであって、なかなか油断はできなんですよ)というように、世の中にあって、「禍福は糾(あざな)える縄のごとし」だったということもできるでしょう。牧野さんが裕福であり、さらに帝国大学の教授であったら、「牧野植物(分類)学」が成就していたかどうか、それは怪しいと言えるのです。まして、そんな想像・空想は無意味でもあります。つまり、人生は、いずれにしても「一巻」であり、「一貫」なんだろうと、ぼくは言いたいですね。その牧野さんを「捨てた神」は帝国大学のケチな根性で意地悪が生き甲斐のような教授連中であったし、「拾った神」の第一は妻の寿衛子さんであったろう。この間の事情を詳細にたどったのが、大原富枝さんの「草を褥(しとね)に」でした。雑誌連載を一本にまとめられたもので、これが彼女の絶筆だったという。残されていた「夫婦の手紙類」を丹念に読み解いて書かれた小説で、「手紙や日記」も小説のネタになるのですから、よほど気を付けたいと、ぼくはひとり勝手に考えています。この書物を読めば、牧野さんがどんなに破天荒で性格破綻を来していたか、それが納得できます。「一将功なり、万骨枯る」というのは適切な言葉ではありませんが、枯れる万骨がいてこその、一人の人生というものもあるという一例でしょう。(万骨にしてみれば、たまったものではない)

 いかなる人生にも「両面」があるでしょう。世間に通用している(通用させている)「表向きの顔」と、外では見せない「内向きの顔」があるのです。それを「外面(そとづら)」と「内面(うちづら)」とも言いますし、「公的」「私的」と言い換えることもできます。多くの場合には外にはいい顔をして、うちでは強情な、わがままな顔をして、というようですが、いかがでしょう。よほどの付き合いや興味がない限り、「外面」あるいは「仕事ぶり」で人を判断します。それでいいのでしょう。「一将功成り万骨枯る」という、凄いことにも視野が及ばないことはざらにあることです。(「《曹松「己亥歳」から》一人の将軍の輝かしい功名の陰には、戦場に命を捨てた多くの兵士がある。成功者・指導者ばかりが功名を得るのを嘆く言葉。」(デジタル大辞泉)「一人の将軍」の戦功はおおくの兵士の犠牲によって成り立つというなら、一夫の功績は、妻をはじめとする家族の「犠牲」「支え」によって成り立つと言えるでしょう。ぼくには才能は皆無ですけれども、妻や子を犠牲にして(苦労を掛けるばかりで)、おのれの成功を期するという気は、微塵もありませんでした、幸か不幸か、そんな人間には生れつかなかったんですね。第一、将も兵もあるものかという、そんな感覚が染みついているんですよ。

 仕事さえできれば、大きな業績が上げられるならば、その他は問わないというのも、人生の選び方だし、人物を判断する、一つの方法でしょう。でも、業績を上げるために、誰かを犠牲にするという人生は、ぼくにはまっぴらで、つまり、そうまでして、「業績」を求めたくないし、成功を期したくもないというのです。ぼくがそんな人生を選ばなくとも、誰かがそれを大々的に遂行してくださるでしょうから。それぞれに「持ち分」というか、「持ち場」というものがある。あるいは「分際(ぶんざい)」という言葉を使ってもいい。ぼくが一貫して求めてきたのは「分際」を弁えるということでした。ここで、ぼくが好きな「風情(ふぜい)」という語も使いたいですね。「お前風情に」という気味あいで、妻子を犠牲にしてまで人生を賭けるようなことが許されるかという、一種の「自問」がついに消えなかった。この場合の「風情」とは「他人を卑しめる、あるいは自嘲」して使うような例としてです。「お前ごときが」と、きっと誰かが言うはずだという気分です。人を踏み台にしてまで、自分を突き出したくないという、それだけの意気地なしの生き方を、ぼくはしてきたというのです。

 この駄文には結論はありません。人でも物でも、どこから見るか(判断するか)、それによって実に雰囲気や景色、さらには評価までもが変わってきます。「表」専門の人もいれば、「裏」専門の人もいます。できれば、一人の全体をとらえたいと願ってはいるのです。昵懇の仲であれば、それは可能でしょうが、それ以外はまず不可能です。だから余計なものを材料にして詮索するのでしょう。それを「研究」「作品」と言っていいんですかという、一種の「後ろめたさ」もぼくにはありますし、昔もありました。「著作権」というものの理解が行き届いていなかったから書かれた論文や文学作品はきわめて多いでしょう。著作権の有効期限が切れたから書かれたというものもあるでしょう。これは、ぼくにとってはなかなかの難問題で、「評伝」ものや「人物論」には、かなり怪しいものが混じっているのは避けられないという気がします。(右の写真は、ぼくの好んだ著者の、もっとも好んだ著書です。「書名」が粋ですね。民俗学の泰斗だった柳田国男さんに「本屋風情めが、…」と罵られたように感じられたことがあった、その岡さんが、みごとに「切り返した」一番でした)

 牧野さんのこと(に限りません)を語ると、いつでも、語るに落ちるところに逢着します。つまりは「牧野さんを語る」のではなく、自らの「卑しい魂胆」を白状してしまっているということです。この、「表現」は面白いというか、含蓄があって、なかなか「人情の機微」というものを穿っています。「《「問うに落ちず語るに落ちる」の略》問い詰められるとなかなか言わないが、かってに話させるとうっかり秘密をしゃべってしまう」(デジタル大辞典)ぼくなんかは、まさにそのままであって、この駄文がそれを証明していますよ。「業績は凄いけれど、私的な生活もまた見事である」という存在がいるのでしょうが、寡聞にしてぼくの耳目には届いてこないですね。ここに、「類は友を呼ぶ」という慣用語を持ってくるのは不適切ですかね。(参考文献:牧野富太郎「花物語 続植物記」ちくま学芸文庫版。2010年刊)

__________________________

 戦争への参加は不可避で、人それぞれだった

 【卓上四季】画家と戦争 「出陣の前」と題した日本画。正座した兵士が刀を脇に置き、野だて用の茶道具を使い一服の茶をたてた。じっと前を見る。戦地に訪れた一瞬の静寂と緊張が伝わる不思議な絵である▼作者は小早川秋聲(しゅうせい)(1885~1974年)。きょうまで東京都内で開催されている大規模な回顧展を見た。鳥取県の寺に生まれ、国内外を旅しながら詩情豊かな作品を描き、名声を得た▼だが従軍画家として多くの戦争画を残したことが生涯に影を落とす。敗戦を迎え戦犯容疑での逮捕も覚悟したという。戦後は体調を崩したこともあり、ほそぼそと画業生活を送った▼95年、戦争画を特集した「芸術新潮」誌に作品が紹介され、再評価につながる。代表作「國之楯」は闇の中に横たわる将校の遺体を描き、顔は寄せ書きされた日章旗で覆われた衝撃的な構図だ▼44年に天覧に供するために陸軍省の依頼で制作したが、厭戦(えんせん)的と見られたのか受け取りを拒まれたと伝わる。後に改作された際、遺体に降り積もるように描かれていた桜の花びらが黒く塗りつぶされた▼英霊をたたえた鎮魂の1枚から長い時を経て戦争協力への悔恨を表す1枚へ。そんな解釈もできるが、作者の意図も軍の拒否の理由もはっきりとは分からない。名画は人の魂を揺さぶる。それ故に、戦争に利用された歴史がある。豊かな才能を持ちながら時代に翻弄(ほんろう)された画家の運命に思いをはせた。(北海道新聞電子版・2021/11/28)

++++++++++++++++++

 昨日迄、東京駅のギャラリーで開かれていた、その展覧会に行きたかったが、現下の状況もあり、断念しました。今でも、あまり名を知られていない日本画家(知られないことは悪いことではないと、ぼくは思います。むしろ願わしいことかも)、小早川秋聲(1885-1974)。ぼくも、それほど作品を観ているわけではありませんでしたから、是非とも、と願っていたのでした。勤め人の頃は、都心だったこともあって、しばしば展覧会に出かけたものです。「実物主義」というか「本物」でなければ夜も日も明けぬとは言いませんが、近間で見られるならと、気軽に(出勤の行き帰りに)出かけたものでした。小早川氏は「特異な画家」とされてきました。僧籍を持ち、画業に身を寄せた。戦争には兵士として、あるいは従軍画家として戦地に赴きもし、多くの作品を画いています。こんな画家は他にもたくさんいます。一々、その名を出しませんが、相当な人が出かけているのです。画家に限らず、文化・芸術・芸能一般にわたり、有名無名を問わずということでしょうが、ずいぶんと出かけています。まさしく「体制翼賛」であり、「銃後の守り」「前線の参加」、それを身をもって示したということでしょう。あるいは「強いられた」ということもあった。すべてが「戦意高揚」という偽装のためだったといっていいのかもしれません。

 小早川さんは「旅する画家」と称され、国の内外に足繁く出かけた人でした。ぼくの手持ちの材料は、別冊太陽「戦争と画家」(平凡社刊)と「小早川秋聲」(求龍堂刊)の二冊ばかりです。そこにはほとんど、触れるべき事項や人物像が掲示されていると言っていいでしょう。ここでは「小早川秋聲」に軒を借ります。特異な画家と言われた、彼の画業はもちろん、その履歴にも灯りを当てて、ぼくにはとても適切な案内役になっています。彼に関して何事かを、書肆のHPから拝借します。「今、最も注目が集まる近代京都日本画家、小早川秋聲の全貌が明らかになる。/ 近年、東京都内での展覧会もあり注目度が上昇している。代表作の戦争画《國之楯》がひときわ目を引くが、その作品の多くはほとんど知られてこなかった。/ 本書は秋聲の初の大規模回顧展となる「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌(レクイエム)」の公式図録兼書籍で、約110点の作品とともにその画業を追う。/ 幼い頃に寺に衆徒として入り、複数回にわたり兵士として、画家として従軍した異質な経歴と、国内外を問わず旅行を繰り返した生涯から生まれた、清新で抒情的な作品と特異な戦争画を一堂に紹介する。/ 多数の初公開作品を新撮し掲載、その作品の魅力を存分に伝える。最新の調査結果を反映した詳細な年譜・文献目録に加え、研究者・遺族による多くのコラムも所収し、作品だけでなく、人間・小早川秋聲の素顔も明らかにする。今後の秋聲研究の基礎となる充実の一冊。(「小早川秋聲 旅する画家の鎮魂歌」求龍堂刊 2021.08)

 従軍画家として「令名」を馳せた代表は、なんといっても藤田嗣治でした。彼の作品はたくさん観に出かけたものです。戦後は長くパリにとどまっていたが、なぜだか、その画業は年を追うごとに高くなっていった。さらに、ぼくがよく観た画家では、宮本三郎、小磯良平、さらに向井潤吉さんなどでした。これらの人々について、拙劣ではありますが、いくつか愚見はありますし、さらに戦後の画業にもぼくは割と好意を以て目にしてきたものでした。向井さんは、民家を画く画家としていまなお、高い人気を誇っています。一方で、シベリヤに抑留された画家たちもいます。もっとも知られたのは香月泰男さんでしょうか。ぼくは、どれくらい彼の絵を観たか。どうでもいいことですが、香月さんは、ぼくの父親と同年生まれ(1911年)で、親父も彼の絵をいたく好んでいたこともあって、早くから家には画集があった。香月さんは山口出身でした。小早川さんは鳥取出身で、香月さんより三十数年の先輩でした。尾崎放哉居士も鳥取でしたね。

 こんな調子で書いていくと、「戦争」をはさんで、兵隊に召集された側と従軍画家として戦争に参加した人々の、画業と生き方、戦後の履歴を書きたくなりますが、本日は止めておきます。どこまで行っても、何時まで経っても「戦争」という国家最悪の愚行(犯罪)を抜きにして、何事も語れないということでしょうか。歴史を軽視したり無視したりしない限り、ぼくたちは、この島社会の「汚点」であり「現在の礎・足掛かり」ともなった戦時中の一々の記録を記憶に留めておく必要があると、痛感するばかりです。中村草田男は「降る雪や明治は遠くなりにけり」と詠みましたが、ぼくごときにおいては、「皇(すめらぎ)の戦(いくさ)学びに歳を経し」というばかりです。「戦争史」を削除したら、この島には、歴史は存在しないことになり、島自体の存立も疑われるのです。

 歴史を否定することはできるし、望むなら、堂々と無視することもできるでしょう。しかし、「事実として生じたこと」を無にすることはできません。なぜならば、歴史は一人合点では生まれないし、続けられないからです。これは一個人の場合でも、事情は同じです。自分だけで何事かを、他人に知られないで、行うことはあり得ます。しかし社会的存在である限り、ぼくたちはたった一人で、どんなに些細な事々もなすことは不可能であることは、日々経験していることです。家族の一員であったとしても、他者であるのは間違いのない事実です。歴史は他者との交わりや衝突、あるいは触れ合いや闘争の中から紡ぎ出されてくるのです。国と国とのつながりからしか「歴史」は生まれはしないということもできます。社会の歴史、あるいは国の歴史という言葉自体が、あからさまに、それを示しています。「一国史観」というものがありうるとするなら、おそらく「古事記」「日本書紀」の類を免れないのではないか。いままた、「現代版古事記」あるいは「今日風日本書紀」を書きたがっている輩が輩出しています。

 なぜ、歴をを学ぶか、それはみずからが、意識のあるなしにかかわらず、何時だって実践していることです。昨日を知らなければ、今日を生きるのは容易ではないし、今日一日が明日の道しるべになる、ぼくたちは、それぞれの歩き方で、このように時の流れに即して生きているのです。これが歴史であると言って、少しも構わないんじゃないでしょうか。ことさらに「戦争」を取り上げたいのではありません。この国の始めた戦争で「犠牲」になった人々がいる限り、あるいは「犠牲になった記憶」が残る限り、戦争を仕掛けた側が「戦争の歴史」の記録や記憶を放棄することは許されないでしょう。ぼくは、このようにして、「歴史意識」というものを、わが身に育ててきました。そこにはいつも「戦争を強いられた側」「戰爭で犠牲になった側」の嘆きや痛みが伴っています。それを除外(度外視)して、ぼくたちにつながる(結びつく)「戦争」を学ぶことはおろか、それを語ることさえできないのです。(下の画は1944年(昭和19年)に描いた「國之楯」・京都霊山護国神社所蔵、今は鳥取県の日南町美術館に寄託されているという)

__________________________________________

 200年300年先を考えると芸術はどうでもいい…

 【三山春秋】▼久しぶりに帰省した際、書庫で見つけた古びた写真集に目を奪われた。日本の風土や日本人の姿を追い続けた写真家、故浜谷浩さんの『詩のふるさと』。前橋ゆかりの詩人、室生犀星が雑誌に連載した詩友11人の回顧録を踏まえ、12人の詩の世界を写真で表現した一冊だ▼写真はいずれも1958(昭和33)年撮影。犀星を生涯の友とした萩原朔太郎の章は前橋市内、山村暮鳥は高崎市内と終焉(しゅうえん)の地である茨城県大洗町の風景が並ぶ▼木造家屋の間に火見櫓(やぐら)が立つ街並みや赤城山・地蔵岳からの眺望は、半世紀の時の経過を感じさせるとともに、朔太郎の「才川町―十二月下旬」「冬」の詩情が浮かんでくる。暮鳥の「山上にて」をイメージした、榛名湖畔で馬が水を飲む構図に息をのんだ
▼「いくつかの課題に当面し、いくつもの難題にあいながら…」とあとがきにある。不慣れな詩を数十年後の風景で表現することは、写真界のノーベル賞と言われるハッセルブラッド国際写真賞を受賞した浜谷さんにとっても挑戦的な取り組みだったようだ▼同時に犀星の回顧録にも目を通した。詩友たちの姿が赤裸々に描写されており、朔太郎との関係の深さを再認識した▼来年の犀星没後60周年を前に、回顧録と写真集を一体化した『写文集 我が愛する詩人の伝記』(中央公論新社)が来月刊行される。本を手に撮影地を巡り、写真と見比べるのもいい。(上毛新聞・2021/11/26)

***************

 飽きもしないで、よくもまあ毎日駄文(や雑文)が書けますね、と古くからの友人が言います。ぼくが駄文の山を築くのは、誰かに見せたいからではなく、また自分を見せびらかすからでもなく、何度も言いましたように、「著しい記憶力の衰え」を、手遅れであることを知りながら、医者にかからず(かかれば、衰えは加速することは間違いない。これは尊敬できる兵庫県の開業医が常々言っておられるし、ぼくもそうだと思っている)、心身をだらけさせないで少しでも自分の身を、心を、自分自身の責任で、あまり損なわないで現状を維持していこうという、極めてささやかな、かつ欲のない願いというか、望みから始めた、自主トレーニングの一環でした。そう言っている尻から、わが記憶力は、さかんに崩壊しています、壊れてゆく音がするような塩梅で。

 何事にも「余得」というものはあり得る。これはネット時代の慶賀すべき出来事だと思うのは、毎日、各地の新聞の「コラム」(もちろん記事も読めますが)が一望のもとに眺められ、なおかつ読みたいものはじっくりと読めるということです。ぼくのような暇人には格好の「時間稼ぎ」というか、いやその反対の「時間潰し」でもあります。その余得は、このコラムで「人や物」が記事になっていなければ(なっていても、当方が目を通す機会を持たなければ)、まったく何事もなく(知らないで)通り過ぎてゆくことばかりですのに、一瞬でも目に触れたおかげで、その人や物に注意が及ぶ(記憶が回復する)ということです。ぼくたちは、一瞬であれ、些細なことを含めて経験した出来事をすべて「記憶の貯蔵庫」に保存しています。「物心」がついてからのすべては、保存されている。見たり聞いたりしたものは、ひとつ残らず「記憶」される仕組みになっている。問題はこの「記憶の貯蔵庫」から取り出す仕組み(手続き)が、徐々に毀損されてゆくことにあります。(この部分は、脳科学というか、脳生理学の問題であり、何時か触れる予定です、でも記憶力が怪しいので、どうなりますかな)

 記憶力の衰退とか減衰などと言いますが、記憶されているものを「取り出す」「思い出す」、その機能というか能力が衰えるんですね、これが「老衰」です。歳をとることは「老衰」が避けられないんでしょうね。思い(想い)出せない、度忘れした、喉元まで出かかっているのに、何時でもぼくたちはこのように言い訳をして、記憶はあるのに、たまたまそれを瞬間的に忘れてしまった、そのように言ったり弁解したりします。三時間もたってから思い出す、それが日常の当たり前の景色でしょう。学校のテストでも、試験時間が終了した途端に、忘れていた記憶を取り戻したりします、これが「後の祭り」なんですが、中には、往生際が悪くて「横を盗み見する」「カンニングする」などして、記憶力を補っているんでしょうか。中学や高校でこうなるのを「若年性認知症」というらしい。でも何時だって、はやく回復するんだね。

 本日の「三山春秋」からの「余得」は濱谷浩さんでした。ぼくの最も好きな写真家でもあります。本当に久方ぶりに彼の名を目にし、ほとばしるように何冊かの写真集と、彼の容貌の記憶が蘇ってきました。探せば、数冊はある写真集の、どの一冊も、ぼくには懐かしいし、その一齣ごとは、取りだすのが怪しい、記憶の貯蔵庫に畳み込まれている。「雪国」「裏日本」「學藝諸家」などなど。そのどれもが、けっして華やかでもなければ、先進的でもない、まるで、この島に根の生えたような人々や風景が活写されています。彼はある時期から、文化というか生活、土にへばりついた生活・文化の姿を切り取ろうとしたと言われます。いわゆる民俗学の仕事です。ここでも、ぼくは宮本常一さんを想起しています。

 さらにぼくが、彼に引き付けられたのは、「200年300年先を考えると芸術はどうでもいい気がする それより写真がちゃんと残っていることが僕には貴重に思える」という「偽らざる告白」を聞いたからでした、ぼくはそのように受け止めました。あるいは衝撃を受けたと言うべきかもしれません。「俺が撮った写真だ」「自分が描いた絵です」という、当たり前には、そのような自己主張が通用している世界です。でも、作者や画家、写真家の名前などいつまで記憶されるか。それよりも、「この一枚」が残されるほうが大事であると、濱谷さんは言われています。

 これと同じような発言を作家の志賀直哉が言っています。「法隆寺はいいな。これを作ったのはだれかなど、そんなことは少しも気にならない。それが大事だことなんだ」という意味のことでした。作者が消えて、作品だけが残る、残された作品から、作者は削ぎ落されて、消し去られてゆく、しかし、その作品すら、やがて、あるいはいずれ無くなる、そんな思いで生きている、仕事をしている、そのような人生を、若い頃には実に大したものだと考えたのですが、この年齢になると、それが生きているということだし、その人生こそが誰にも使ってほしい生きている(流れている)時間だと、染み入るように、身に応えるのです。明治初期の人の名前を、仕事と結び付けて、ぼくたちはどれだけ知っているか。たかだか百五十年ほど前に過ぎません。固有名は「娑婆の通行手形」ぐらいのものですね、それも地域限定の。

 「人✖物✖録」という番組に濱谷さんの発言が記録されています。「あの人に会いたい」というタイトルです。(https://www2.nhk.or.jp/archives/jinbutsu/detail.cgi?das_id=D0009250378_00000

OOOOOO

● 浜谷浩【はまやひろし】(1915-1999)=写真家。東京生れ。関東商業卒業後,航空撮影に従事。1933年オリエンタル写真工業に入社。1937年退社後,フリーの写真家として活動する。1940年,木村伊兵衛の招きで東方社写真部入社,主に対外宣伝誌《FRONT》のために陸海軍関係の撮影に従事する。戦後も1956年まで疎開先であった新潟県高田にとどまって撮影。戦後日本を独自の視点で見直そうとした。1954年より日本海側の各地を数十回にわたって旅し,写真集《裏日本》(1957年)としてまとめ,代表作となる。以降も,日本の風土ジャーナリスティックな視線で記録する手法は一貫して作品の核となり,その成果は写真集《日本列島》(1964年)をはじめとする多くの写真集と雑誌に発表された。1955年には,ニューヨーク近代美術館で開催された《ザ・ファミリー・オブ・マン(人間家族)》展に出品。1960年,マグナム・フォトスに寄稿写真家として契約。1960年代以降は,国内のみならず海外での撮影も多く,内外で旺盛に活動した。毎日出版文化賞(1958年)ほか写真賞受賞多数。(マイペディア)

OOOOOO

 誰もが写真家になれるのではないし、音楽家になれる人も限られています。自分はならなかった、なれなかった、だからこの人の芸術・仕事の達成(それは何でもいい、農業でも建築でも、つまりはあらゆる職業に当てはまります。人はいくつもの仕事を掛け持ちできないのが普通です)にこそ、ぼくたちは万感の思いを募らせるでしょうし、感嘆の念をあからさまに示すのでしょう。それにしても「写真」はいいな。写真家がいいという以上に、写真がいいなと、ぼくは言いたくなります。それは論理や推理の働きより、直に視力に訴える、映像の迫力(迫真)の訴求力というものでしょう。だから、それを撮った人の名前はなくても構わない。知らなくてもいい。

 自然の風景・景観・景色(この語は人間が関わっていなければ生れなかった)には作者はいない。いや、そこに人間が存在している、と言いたくなるのは、それを加工したり模倣したりする人間があるからであって、その人々は決して作者ではありません。(例えば、どこかのお寺の「紅葉をライトアップ」するような愚か者がいるけれど、それは「紅葉」の作者じゃない)「200年300年先を考えると芸術はどうでもいい気がする それより写真がちゃんと残っていることが僕には貴重に思える」という濱谷さんの発言は、どう受け取れるか。「芸術はどうでもいい」というのは、それを「芸術」として生み出した人間なんですかね、あるいは「写真家」というプロが生み出すから「芸術」ということになるのか。それは、しかし、どうでもいい、「写真」が残っている方が貴重だというのです。「その写真もいつか消える、それでいい」とは言われないけれど、そこまで含んでいるんじゃないですか、この発言は。(下は「写真集・詩のふるさと」より)

_______________________________

 「物言えば唇寒し秋の風」、そうなんですか

 【明窓】人生の妙味を知り尽くす 「作家として私は生きている限り書き続けます」。今年3月11日付の本紙に載った東日本大震災10年の特別電話インタビューでの締めくくりの発言だ。その言葉の主、文化勲章を受章した作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが亡くなった。徳島市出身の99歳。書くという業を生きたような人生だった▼『夏の終り』『美は乱調にあり』など情熱的な愛と女性を描いた小説や『源氏物語』の現代語訳など、幅広い分野で数多くの著作を手掛けた。自らも、東京女子大時代に結婚した後、夫と幼い娘を捨てて愛に走るなど、波瀾(はらん)万丈の生き方を経験。2年前に出した著書『寂聴 九十七歳の遺言』でも「生きることは愛すること」「愛することは許すこと」と説いた▼51歳の時に出家して、本名も晴美から改名。京都・嵯峨野の寂庵に暮らし、岩手県天台寺の住職も兼ねた。東日本大震災の後には被災地を訪ね、避難者のつらい体験に耳を傾けて一緒に涙したり、原発の再稼働に抗議してハンストをしたりするなど社会活動にも参加し、発言もした▼長年続けた法話は、人生の妙味を知り尽くした人の言葉だけに、多くのファンや悩みを抱える人たちを勇気づけた。テレビ番組で紹介された、90歳を超えてなお肉好きだった一面も、どこかほほ笑ましい▼何より印象的だったのは、ちゃめっ気のある、あの温かい笑顔。長い間、本当にお疲れさまでした。合掌。(己)(山陰中央新報・2021/11/)

OOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO

 長い人生行路を、少しも無駄にしないで、みごとに生き抜かれ、様々な方面で思う存分の活動をされた、とはた目には映ります。お見事というほかなさそうです。京都の嵯峨嵐山の近くに住まわれて、多くの著作をものされもした。何かと教えを受けた瀬戸内さんに、いろいろな思いを込めて、深く哀悼の意を表します。ぼくはが毎日のように「閲覧」している地方紙の多くが瀬戸内さんんの死を悼むコラムを書かれていました。当然のことですね。おそらくニ十紙は下らない各紙が、彼女の人生に満腔の賞賛を送っていると読みました。上に掲げた山陰中央新報のコラム氏の「人生の妙味を知り尽くした人」というのも、その代表的な一つです。ぼくごときが、瀬戸内さんの死について、あるいはその生き方について、とやかく言う資格もなければ、義理もありません。ひたすら、哀悼の想いを重ねるばかりです。

 どんな人間の生涯、あるいは存在にも「毀誉褒貶」はつきもの。彼女は、そのような喧しい世間を無視したというより、その中にあって、敢然と思うがままに生きようとされたと思う。評判を気にするのも「一つの生き方」なら、それを乗り越えて、あるいはそれに打ち勝って、その都度、自らの活力を蓄えて生きるのも、また「一つの人生」、彼女は、まさしくそのように生きた人という気がします。だから、ぼくが彼女の「一挙手一投足」になにかを言うというのではなく、彼女の言動を細かに報道する周囲の扱い方に、あるいは異を唱えたくなるのかもしれない。それは「揚げ足取り」というものではないつもりで、以下に、たった一点だけ言及しておきたいのです。(誰に対してであれ、ぼくは「プライヴァシー」には言及しないようにしています。最大限に尊重されるべきもの、それは「私権」ですから)

HHHHHHHHHHHHHHHH

 死刑や憲法9条改正の反対運動も 瀬戸内寂聴さん

「法話の会」を開く瀬戸内寂聴さん=平成27年9月
(平成27年9月)

 9日に99歳で死去した作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんは、女性の業(ごう)を描いた小説の執筆や法話を通じた多彩な活動を続ける一方で、死刑や東日本大震災後の原発再稼働、憲法9条改正に反対する運動にも積極的に参加していた。/ 平成28年10月に福井市内で開催された日本弁護士連合会の死刑制度に関するシンポジウムでは、ビデオメッセージで「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。殺したがるばかどもと戦ってください」と発言。犯罪被害者支援の関係者から批判が上がり、後に「お心を傷つけた方々には、心底お詫(わ)びします」と謝罪した。

 東日本大震災をめぐっては、義援金活動や被災地訪問を重ねつつ、原発再稼働に抗議するハンガーストライキに参加したこともあった。被災地支援について、「お見舞いや寄付などできることはなんでもしてきましたが、それは、仏教徒ゆえの義務です」と語っていた。/ 憲法9条改正にも反対の立場で、25年に東京都内で開かれた宗教者による集会では「今後も日本は戦争をしない国として生きるべきです」とのメッセージを寄せた。27年には国会前の安全保障関連法案反対集会に参加した。(産經新聞・2021/11/11)

########################################

 「人間が人間の罪を決めることは難しい。日本が(死刑制度を)まだ続けていることは恥ずかしい」「人間が人間を殺すことは一番野蛮なこと。みなさん頑張って『殺さない』ってことを大きな声で唱えてください。そして、殺したがるばかどもと戦ってください」このようなメッセージを認(したた)められた、彼女の心中はどうだったのか。本人ですら、後になって、それを忖度することは困難かもしれないのですから、まして他人がとやかく言うことは、よほど気を付けないと…、そんな気持ちを十分に持っているつもりです。(あくまでも「つもり」ですから、それがまちがいのもとになるのでしょうね)。

 この発言が物議を醸したのですが、直ちに瀬戸内さんは「謝罪」(弁明・弁解)をされた。それに関しても特に何かを言う必要性を、ぼくは感じません。要するに、「謝罪」するのは当然であると認めたうえで、その「謝罪」には、きっと「弁明・弁解」が含まれていることがありますので、それを見逃したくないのです。「謝罪」はいいけど、「弁明」はダメというわけではありません。どうしても、その二つ離せないんですね。さらにいえば、ともすると「弁解」や「弁明」は「開きなおり」になります。瀬戸内さんの場合がそうだというのではありません。「謝罪」には幾分かの「言い訳」が混じっているから、謝罪できるんですね。「いい分・申し開き」と言うものです。自分の言いたかったのは、「ホントはこういうことだった」「真意が伝わらなかったのなら、言葉が足りなかったとしたら、申し訳ない」「誤解されたとしたら、その点はお詫びします」、こんな物言いは、ぼくたちはしょっちゅう政治家の会見で聞かされてきました。「もし誤解を与えたとしたら、謝ります」というんですよ。「誤解を与えたのなら」、でも本当は、「誤解する方がおかしいんじゃ」と言いたいらしい。

 よく注意して聞くと、「あの人は謝っていないじゃないか」「話を聞きそこなった、そっちの方が悪い」と言いたい気持ちがありありです。瀬戸内さんの「謝罪の言」にも、ぼくはそれを嗅ぎ取るのです。だから許せないというほど、ぼくは人が悪くはないつもり。ぼくだっていつ何時そうなるか、いつでもそんな思いで「自戒」するのです。この「自戒の念」が宿るようになるのが、成熟というか老成というか、年齢を重ねるということでしょう。寂聴さんは「若かった」んでしょうね。歳の取り方が足りなかった。「弁解」や「弁明」を言うこと自体が、そもそもの間違い。「94歳にもなって、こんな発言をする私はおおバカ」とか。そのとおりです、だから、発言は控えればよかったと言っても、時はすでに遅いんですね。

+++++++++++++

 「94歳の作家で老尼の口にする言葉ではないと、深く反省している」「発言の流れからしても『バカども』は当然、被害者のことではないと聞けるはずである。でなければ、言葉に敏感な弁護士たちが、そのまま流すはずはないだろう。これまでも私は文学者としても出家者としても被害者のために論じ、行動してきている。過去の私の言行を調べてくれればわかるはずである」

 「もの言えば唇寒し秋の風」
     「だから長生きは厭(いや)なんだ」

 「そんな誤解を招く言葉を94歳にもなった作家で出家者の身で、口にする大バカ者こそ、さっさと死ねばいいのである。耄碌のせいだなどと私は逃げない。お心を傷つけた方々には、心底お詫びします」「恨みをもって恨みに報いれば永遠に恨み尽きることなし」(引用は;https://www.j-cast.com/2016/10/14280702.html?p=all)

********************

 瀬戸内寂聴さんという「稀有の存在」にして、この「過ち在り」ということでしょうか。「もの言えば唇寒し秋の風」「だから長生きは厭(いや)なんだ」、寂聴さんにして、この言あり、なんですね。そう言いたくなる、彼女の気持ちは、いったい何だったのか。「物書き」にしてこの弁明ありですから、世の中に、自尊心を持して生きるというのはなかなか難しいよ、誤解の種を蒔くようなものですから。きっと「己に対する悔しさ」だったか、あるいは、わが意を受け止め損ねた「世間」への当てつけであったか。「謝罪」なのか「弁解」なのか、混然としていますね。人間は、何処まで行っても「唯我独尊」という邪気から解放されないようです。「作家で僧侶」と言われていますが、くっついているんですね。「表裏一体」だったと思う。それは彼女の、世間に「生きる方便」であったかも。「物言えば唇寒し」と、芭蕉は言いましたが、その真意はどこにあったか。寂聴さんは、この句を「謝罪」の道具にして、実は、自己の発言を誤魔化されています。

 「芭蕉の句で、貞享年間(一六八四‐八八)に成ったといわれる「座右の銘」、「人の短をいふ事なかれ 己が長をとく事なかれ」のあとに添えられているもの。人の短所を言った後には、なんとなくさびしい気持がする。転じて、なまじよけいなことを言えば、そのためにわざわいを招くということ。口は禍の門」(精選版日本国語大辞典)

 これも言わないでもいいことに属します。でも一言したい。ぼくの疑問とするところですから。彼女は「殺したがるばかども」とは「死刑制度を温存している、国家権力」という趣旨で述べたと言われました。その「殺したがるばかども」が、栄誉として、優秀な「国民」に配る「文化勲章」を受けられています。これも、ぼくには解せない行動の一つ、さらに「僧侶」なのだから、「文化勲章はおかしい」というのではないのですが、寂聴さんは「両刀使い」だったか、すこし怪訝でもありますね。はたして、どうでもいいことなのかどうか。

 「人生の妙味を知り尽くした人」ということが出来る、そんな存在は、人間の中にいるのでしょうか。(合掌)

____________________________