児童には各自各位の個性があって

 いつの時代から、学校は「優劣を競う」アリーナ(闘技場)になってしまったのか。あるいは「成績(点数)」が人間を計る尺度になってしまったのか(土台、そんな滑稽なことはあり得ないにもかかわらず)。このことを根っこの部分から考えるために学校教育の歴史の最初期から教職にかかわってきた(児童生徒として、教師として)芦田恵之助さんに焦点を当てて考えてみたいと思う。(芦田さんは、けっして学校優等生ではなかった。それはとても大事な教師の資質ですね、自分を優等生だとみなしている人は教師には向かない)

 「生活綴方」という教育実践を通して、彼は何を成し遂げようとしたのか。生活綴方とはどんな教育だったのか。日本における「生活綴方」の源流に位置するひとりだった彼の求めたものはなんだったのか。

 随意選題の提唱

《 私の随意選題による綴り方教授は、当時漸く抬頭して来た自由思想の影響をうけたのではありましょうが、その根抵をなしたものは、従来の綴り方教授、即ち課題によるものが、自分でも興味がなかったし、担任学級に課してみても、児童が少しも喜ばなかったという事実でした。興に乗っては、何事にも夢中になる児童が、いかなければ生ける屍のごとく、その苦痛をすら訴え得ぬことをしみじみあわれに思いました。何とかして児童をその拘束から脱して、文を綴る喜びに浸らせたいと思いました 》(『恵雨自伝上』)   

 決められた題を与え、決められた形式の文章を書かせようと「どんなに骨折ってみても子供が作文を書かん」それならいっそのこと、「お前ら書きたいことを勝手に書け」となったというのです。押しつけではなく、強制でもない作文教育の方法は窮余の一策だった。行くところまでいって、その先一歩も進めないときに、道は開かれた。道元の言葉だったでしょうか、「百尺の竿頭、進一歩」というのがあります。ながい竿の最先端まで登っていき、先のないところをさらに一歩を進めと。無理難題なのですが、万策つきる地点までいたらなければ、なにかが生まれるはずもないのです。(外からの強制ではなく、内からの動機がなければ始まらないという、当然の理屈を芦田さんは見出した)

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劣等児と優等児 教師が神経過敏になって、児童の学業を督励し、児童も孜々として学業に勉強する。その結果は神経過敏の劣等児と神経過敏の優等児を生ずる。優等児は級の平均点を高める者として尊重せられ、劣等児は之を低める者として軽侮せられる。然し両者その相距る事は甚だ遠くない。何となれば両者共に学問の真意義を知らず、学習の態度が確立していない。又教育時期を過ぎて、知識の剥落する傾向をもっている事も亦甚だ相似ておる。余の意見にして若し幾分の真理があるとしたら、間違った教授のために、児童は日夕不幸の運命を自ら作りつつあるのではあるまいか。

学科の成績  心なき父兄は学科に対して器械的な考えを持っている。教師の中にもないではない。学科の全部が優良であるのを非常に喜ぶ傾きがある。したがって全課を優良ならしめようために、種々なる方法を以て督励する。余は心窃かにその真意を解するに苦しむ。多くの児童中には研究心うちに旺盛して、学習の態度も確立し、恰も坦々たる大道を虚心平気に歩むがようにして、而も全科優良の好成績を収める者がある。そは優良なる天賦と真意義の教育をうけた者の享有する特権である。他の督励により、強度の努力によって得た全科の優良などは、全く似而非なる者である。

 即ち真の教育をうけた者の研究心は、独り学科の上のみならず、社会万般の上に働いて、向上発展その停止する処を知らぬものがある。督励による研究心は、学科の優良がその到達点で、ここに到達すると共に衰頽の兆を示すものである。要するに学科の全部が優良であるという事実は父兄が喜ぶほど尊いものではない。したがって学科に長短のある事も、さして憂うべきことではない。児童には各自各位の個性があって、真の研究心が何科にその萌芽を発するか知れぬ。吾人はその萌芽を培養することが任務である。児童がいかなる門より入るも、確固たる研究心が樹立せば、一切の真理はいたる所に発見することが出来る。今後の教授は知識の伝達よりも、研究心の養成を重んじなければならぬ。(芦田恵之助『読み方教授』大正五年)

●芦田恵之助(1873‐1951(明治6‐昭和26))=大正・昭和初期に活躍した国語教育者。号は恵雨(けいう)。兵庫県に生まれる。兵庫県、京都府訓導などを経て、1899年(明治32)東京高等師範付属小学校準訓導、のち訓導。樋口勘次郎(ひぐちかんじろう)(1872―1917)の思想的影響を受け、綴方(つづりかた)教授の改革にあたる。また坐禅(ざぜん)主義者岡田虎二郎(とらじろう)(1872―1920)について静坐(せいざ)を修行、自己内省の方法を改革に生かそうと試みる。旧来の課題主義による範文模倣的な綴方教授に対し、自由に課題を選ばせ、自由に記述させる随意選題主義を唱え、後の生活綴方教育運動の一源流となる。また読みと思考を中心にした読み方教授法の改革をも試みた。1917年(大正6)文部省嘱託を兼ね『尋常小学国語読本』を編集し、また1921年、朝鮮総督府編集官として『普通学校国語読本』の、また1924年には南洋庁嘱託として『南洋諸島国語読本』の編集にあたった。1925年の退職後はもっぱら全国を授業行脚(あんぎゃ)した。『同志同行』誌(1930創刊)を発行。主著に『綴り方教授』(1913)、『綴り方教授に関する教師の修養』(1915)、『読み方教授』(1916)などがある。[尾崎ムゲン](日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

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 上に示した、二つの記述を熟読するまでもなく、そこに今日(これまで)の学校教育の悪弊がどのようにして萌芽し、のさばるかを芦田さんは如実に示しているのではないか。「優等生」「劣等性」の「相距たる事は甚だ遠くない」。どちらも「学問の何たるか」も知らないし、「学習態度」ができていないからだという。子どもの不幸は教師によって生み出され、さらに培養される。自分で学ぶ「方法」をこそ、児童が見つけられるように教師は尽力する必要があるのだ。誰ができて、誰ができないかを自他に明らかにするなどは、下の下の下の仕事だけれど、それだけが(といいたいほど)教師の教育目的になっているんじゃないですか。ぼくは一貫して劣等生だったから、このことはよくわかるつもりです。人より優れていたいという感情は否定しないが、自分を高めるために他人を貶めるような、成績獲得競争には一利もないし、それを強制しようという教師の振舞いは全否定されなければならない。人に敬意を持つ気分がいつの間にか消えてしまうという、学校教育の惨状をこそ、肝に銘じておかなければなるまい。(並みいる政治家や官僚や大企業の幹部たちは、この「学校優等児の成れの果て」かね)

 子どもをまともに教育しようとするなら、まず親を再教育すべきであると、ぼくは言い続けてきました(まあ、ほとんど手に負えないのが通常です。もう「育ってしまった」「育ちたくない」と固く信じているんだから)。学校という場所は「子どもを人質」にして、「親を鍛え上げるところ」だと。うちの子はだれちゃんより頭がいいのだと願うのはいいが、引合いに出された子どもには迷惑な話です。自分の子中心でしか学校教育を考えられない親の子どもが、どんな子に育つか。己(親)を越えて子どもは「優れる」ことはないのです。別に卑下する必要もない。子どもは子どもの道を見つけるように条件を整備するのが親の責任じゃないですか。

 ここに、芦田さんを持ち出したのは、学校制度の開始以来、いつでも学校は「優劣競争」「成績獲得争い」に明け暮れていたという状況に、時にはそれは間違いだ、子どもの力を、その独自性において見出す、それが教師の天職だという、まことにご苦労な仕事を引き受ける教師がいたということであり、ある意味では両派(優劣顕在派教師対優劣似たりよったり派)に割れた教師たちの戦いの場であったということを示したかったからです。数の上では圧倒的に芦田派は少数でした、いつの時代も。だから、存在の意義は厳としてあるんだ。悔しかったら、「優劣似たりよったり派」になって御覧な。なかなかいい汗がかけるかもしれないね。

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 ゆきが ゆうゆうふって来た(承前)

 あるとき、加藤さんは四年生の担任から「いちど綴方の授業をみてください」と頼まれたことがありました。授業をすすめていると「ただひとり、窓のほうを見ている女の子がいる。ボタボタ雪が落ちている。黙って見ているんですよ」気になったけれども、そのままにして授業を終わらせた。すると、その女の子がスーッと前に出てきて、「わたしの前に紙を上げていたのです」

ゆきが
ゆうゆうふって来た
あばが
なんぼなんぎしてゐるべ
おど
やまさえがねば
なんのごともないども
あら
ゆきがはれた
えがたなあ
こだ
げんきにふいでいるべ
おど
やまさえて
ふるまのままくたべか (河辺、上北手、四年女)

 「こらあっ、どこ見てる、こっち見てろ!って、いわないでよかったなあ。この子はとっぷり自分の気持ちに浸っていたわけだね」                    

 加藤学級には、こんな子どもたちもいました。

 清之助の家は「極貧」だった。「清之助はいつも、窓きわの前から二番目の机で、だまってよだれで字をかいている体の少年」だった。病弱で留年してこのクラスに入った豊美という子がいました。その子はじっと清之助を見ていた。

木のなみだ                                豊美

秋がきたら
木がないた
はのなみだ
ばらばら
おとしてる。

めんこ                                    清之助

豊美は わたしのところを先生
のめんこだといへます。
私はただ笑ってる。

 その豊美さんは卒業を待たないで亡くなりました。

 同じ時期に、南秋田の金足西小学校に鈴木三治郎さん(1908~75)という教師がいました。クラスの子どもたちにはいつもいっていた。「言葉など飾らなくていい。ありのまま、感じたままをその通りに書くのだ」

そして昭和六年、次の詩がクラスから生まれたのでした。(既出)(右下写真は金足西小の歌碑) 

きてき                         金足西小、四年 伊東重治

あの汽笛          
たんぼに聞こえただろう
もう あばが帰るよ
八重蔵
泣くなよ

 「これが北方教育の叙情だ」といって、たくさんの教師たちの前に「きてき」をつきつけたのは山形の国分一太郎でした。その国分さんは昭和九年十一月、仲間をさそって「北日本国語教育連盟」を結成。翌年には機関誌「教育・北日本」を創刊することになります。

 《子どもたちは生活の危機にさらされ、かつかつの生存権の確保のため、学習の権利をすら奪われがちである。このような状態から子どもたちを救い、彼らの将来の幸福を保障するためには、子どもたちの教育の上でも、現実におし流されてしまう子どもをつくるのではなく、どんな状態のなかでも生き抜いていく意欲の旺盛な子どもを作らねばならないし、この現実を変革していく方法を追求する知性をもった子どもに育てなければならない》(国分一太郎「北方性教育」『生活綴方事典』所収)

 《どこまでも、生活にしがみついて、自分をうちたてていこうとする意志は、現実なる諸条件のうそでない認識から明朗に発足すべきものだ。/皮肉と風刺の中におちこむ超越的態度を警戒しよう。/おっかぶせて子どもを引きづる観念的な盲信を反省しよう。/ここにのみ、ぼくたちの子どもたちとともに、彼らの生活を愛する情熱が生まれてこようというものだ。この情熱的実践行を、ぼくたちは時代の教育者として態度する》(成田忠久「実践の方向性」『北方教育』第十四号。昭和九年八月)(既出)

 東北の寒村にもたくさんの「子どもと歩く」「子どもと生きる」教師たちがいました。世に「北方教育」といわれた教育・生活の実践者でした。彼ら・彼女らは、やがて「権力」の弾圧によって一網打尽にされ、辛酸を舐めるのです。

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 先生がみんなの生徒になって…

    日曜日記(丸山金三郎作)

  アサ
     ニハ ハキ
      カヤテノ クズカタツケ
      トリ ダシ
      ウサギニ モノクレル
      オモテ ハキ
  フルマ
      エビ スキ
      クリ ヒロイ
      アヅキ モギ
      センフリ トリ
    バン
     ママ タキ
     オツケ ニリ
     ニハ ハキ
     ミズ クミ
     オモテ ハキ
     トリヲ イレル
     ウサギニ モノクレル
     イモ ニリ
     エビ イリ
      フナ アブリ

 丸山金三郎は当時(昭和九年)、秋田県由利郡亀田小学校四年生だった。担当教師は田村修二さん(1906~97)。時に、修二先生は二十八歳だった。「日曜日記」というタイトルは後に付けられたそうです。

 その時代、カタカナ学習は小学校一年生からでした。四年生でありながらのカタカナ書きは、それだけ学習が遅れていた印でした。田村先生はいいます。(すでに「戦争」の惨禍はこの地にも及んでいました)

 「お客様であった彼が、彼をお客様のままにさせていた担任教師のTにむしろつきつけた一篇である」「TはそれまでMを見失っていた。彼の生活の実情と実態を見ようともしなかった。Mを見失っていただけではなく、教師であり担任である自分を見失っていた。その間に教育は行われる筈はなかった」

 ここにもまた、子どものしあわせを願い、心魂を傾けて子どもとつきあった教師がいました。

 もうひとつ、ふたつの「生活詩」を紹介します。いわゆる「北方教育」の物心両面におけるかけがえのないリーダーであった成田忠義さんの片腕ともなって「北方教育」を実践していた若い教師のひとりに加藤周四郎さん(1910~2001)がいました。このひとの仕事も忘れてはならない貴重なものだったとおもわれます。はじめて教師になったのは昭和四年、秋田県河辺郡上北手尋常高等小学校(現、秋田市立上北手小学校)のことで、当時彼は十八歳でした。この後すぐ、田村修二さんと出会うことになる。

 秋田市内で育った加藤さんが勤務したのはこれまで生活経験のまったくなかった農山村の子どもたちが通学する学校でした。言葉もわからず、子どもたちの生活もみえない。

 「彼等は別世界の子どもなのだろうか」言葉がとどかない毎日に加藤先生はほとほと困りました。困りぬいてたどり着いたのは「子どもたちに聞く」ということだった。

 「先生はなあ、百姓のくらしのこと何もしらないんだ。みんなが家でどんなこといって、どんな気持でくらしているかも何もわからないんだよ。だからきっと、加藤先生のしゃべることは、みんなの心の中へ入って行かないんだと思うんだ。そこでだ、今日は先生からみんなへのたのみごとがあるんだ。どんな紙ぺらでもいい、白い紙をみつけたら、鉛筆にタンパ(つば)をつけて濃く、みんなのいいたいことや先生ヘの注文や家の人たちのいってることを、何でも書いて教えてくれろ。今月は先生がみんなの生徒になって百姓勉強したいのだ。今日からみんなが先生で、私は生徒、いいかな、たのむよ」

 次の日からたくさんの紙切れが集まりました。しかし読めない字やなにが書いてあるのかさっぱりわからない内容ばかりでした。「ありのまま」「自分の言葉で書いてくれ」「自由に書くんだ」といった手前、かんたんにまちがいだと指摘することはできなかった。必死になって文字をたどり、他の教員にも教えられながら、子どもたちの「紙切れ」を読み込んだ。そのなかから、想像を絶する子どもたちの過酷な生活が現れてきたのです。

  太い鉛筆のあとから、ボソボソとたぐられる彼等の家庭生活は、およそ、学習だの、運動だの、思索だの一切の文化的な要素を忘れたかのような、はげしい労働だった。

 そのときに子どもたちが書いた文章は一枚も残っていない。なぜなら、提出された紙切れの一枚一枚に赤で書き入れをして子どもたちに返したからです。しかし、どの子の生活も「日曜日記」と変わらないものだったのです。

 加藤先生には、

    私はきのふ朝ごはんをたべてちとやすんで居ると、おばあさんがだいこんをはこんでゐました。私もおてつだいをしました。(中略)するとおひるになりましたのでごはんをたべてこんどは稲をしょいました。十三回しょいました。十三回しょいますとばんになりました。(二年 嵯峨栄治郎)

 「わたしの学級の四月の調査では、分数四則計算のできない子が四十八名中十八名、五十音のひらがなを正確に書けない子が十二名、九九を知らない子が五名でした」(加藤)

 「ほんとうの生活を見ろ、それが教育のスタートだ」これは加藤さんの肺腑の言だった。

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 ここにも「職業」(既述)で述べられた、学校教育を受け付けなかった子どもの生活苦があった。はるかな昔のある地方の一コマでしかないと見過ごすことは簡単です。だが、ぼくはこのようなか国極まる生活苦に襲われている子どもたちやその家族はいつの時代にもいたし、いるのだ、それを見ようとしないぼくたちの怠慢こそが問われなければならないと思い続けてきました。(何年も前に、ぼくは「北方教育の教師たち」の実践の跡(歴史)をたどるために秋田県のあちこちを歩きました。表面上は穏やかであったが、一皮むけば、過酷だった歴史の顔貌がいつでも覗けそうな気になった。この島の「近代化」は東北地方を踏み台にし、人民を犠牲にして成し遂げられようとしてきた。戦争への加担も、この地に重く求められたのでした。こんな現実に若い教師たちは、まさに悪戦苦闘し、その挙句に暴力(権力)によって、完膚なきまでに打倒されることになるのでした。(つづく)

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● 北方性教育運動 1929年秋田市に創立された北方教育社を拠点として,東北地方で展開された生活綴り方を中心とする教育運動。この運動に参加した教師たちは,生活綴り方を方法の中心に,窮迫した東北農村の生活現実に根ざす教育実践を展開した。 34年には東北地方を襲った大凶作を契機に北日本国語教育連盟を結成し,翌 35年『教育・北日本』を発刊,盛んな生活意欲と生きた生活知性をもった子供の育成を目指したが,第2次世界大戦時下の弾圧に屈した。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)(左写真は成田忠久)

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 現実のなかに正路を開拓しよう

 《 あらゆる学校のあらゆる学級に何人ものサキがゐる。彼等に対して、教師はどのやうな態度で接しなくてはいけないか。その理論を堅固(けんご)に作り上げない限り、解決はあり得ない筈(はず)であつた。傷口に膏薬を貼るやうな姑息な方法ではなく、傷を根治させるための、更には滅多に傷を負はぬ強靭な体質に育てるための理論の構築。しかし、果してそんな事が可能であらうか。

 教室での教育には、当然ながら限界がある。教科書がなくて教師の裁量に任される場面の多い綴方は、指導を通して子供の生活に触れる部分が大きく、それ故に教師の情熱の対象ともなり得たのだが、サキの例は、それにも限界があるのを教へて呉れたやうでもあつた。本当に教育者であらうとすれば、先刻も不充分ながら議論されたやうに、学校教育からはみ出した部分にまで触手を伸ばして行かなくてはならないだらう。若(も)しかすると、生活綴方の根本は、もともとさうした教室内の綴方科からはみ出した部分に求めるのが本来であつたのかも知れない。だが、六十人もの生徒を相手にして、果して誠実が貫けるだらうか。彼はそこでまた堂々巡りをしないわけには行かなかつた。どうすれば、何をすればいいのだ、この惨めな土地の教師は 》(高井)

 サキの仕事さがしは困難をきわめました。男鹿の話はまとまらず、子守奉公くらいがせいぜいでした。それは「職業」といえるものではなかった。サキの担任教師は父親を説得して「小学校の補習科」に進学させた。二年修了の補習科では主として裁縫の指導をすることになっており、就職に有利だと考えたからでした。しかしその一年後、サキは補習科を辞めた。金がつづかなかったからだ。

 それからは由利郡前郷の教師の家に「女中奉公」に出ますが、「女性として居たたまれないやうな事情」もあって、一年後にはそこから逃げだします。その後、金浦の菓子屋に一年、薬屋に四年。そして、二十三歳で塗装業の男性と結婚した。三人の子どもを育てるのに、ソバ屋の手伝い、保健の勧誘員、二十㌔もの昆布を背負って行商にもでました。ようやく生活が落ち着くのは昭和も四十年代だったそうです。生活苦との闘いは何十年もつづいたのでした。

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 「北方教育」と呼ばれた教師たちの実践

 秋田を中心として、大変な課題に挑戦した教師たちの実践を考えてみることにようとしています。この教育実践の「狼煙(のろし)」のように評価され、多くの教師たちに衝撃を与えたた小さな詩、まず最初に、その詩(生活綴方詩)を読んでください。(この情趣はきっと分かりづらいだろうと想像しています)

   汽 笛(きてき)   (秋田県金足西小学校4年生)

 あの汽笛          

 たんぼに聞こえただろう

 もう あばが帰るよ

 八重蔵 泣くなよ

  北方教育の中心となって困難な仕事を導いたのは成田忠久という人だった(1897年9月~1960年10月)。1929(昭和4)年に「北方教育社」を興し、翌年には雑誌「北方教育」を創刊。北の地方から全国に「生活教育(=子どもの生活に密着し、子どもの生活を子ども自身でつかみなおさせるための教育)」の実践を呼びかけた人でした。今、日本海に面した秋田県山本郡八竜町の役場前に「記念碑」が立っている。しばらく八竜町の浜田尋常小学校の代用教員をつとめた縁からです。

 (十年ほど前だったか、ぼくは秋田県を取材に訪れた。その際、成田さんの「記念碑」を探して、その近くの役場(三種だったか)に入った。理由を説明して、「どこにあるのでしょうか」と尋ねたら、職員さんは成田もしならければ、北方教育も知らなかった。昭和は遠くなりにけり。帰ろうとした瞬間、一人の方が「石碑でしょ」と声を出し、「あのバス停にあるのがそれじゃない?なんか大きなのがあるから」といった。役場前の停留所の横に大きな碑が建っていた。碑文を読み、写真を撮った。確かに記念碑だった「北方教育の父」と成田忠久さんを湛えていたが、ぼくは悲しくなった。役場のだれ一人、興味も関心もなかったのです。そんなもんだな、と何か寂しくなりながら、役場を出たのでした。職員さんを非難するのではありません。写真はフィルムのままカメラに入って、今も手つかず)

 成田は後に「北方教育の父」などと称されるようになった。幼児期に両親を亡くし、母親の実家で育つ。第一次世界大戦では通信兵として従軍、青島(ちんたお)に滞留しました。復員後の代用教員経験が成田さんを学校教育の裏方(支え役)に導いたのです。

 《 子どもの自主性、創造性をのばそうとする大正自由教育に打ちこむ青年教師だった。グループ学習や童謡劇、綴方も取り入れた。運動会では午前中の記録をガリ版で刷って速報として配り、自分が作詞した校歌に振り付けしたマスゲームを披露し、村民を驚かせた。が、校長の不義を偶然見たという理由で退職させられる 》(佐藤国雄『人間教育の昭和史「山びこ」「山芋」』朝日新聞社刊。1991年)

 代用教員を退職した後、秋田市内(市内には秋田連隊があり、そこが得意先だった)で豆腐屋を開業。その利益で「北方教育」を支えます。彼のまわりにはたくさんの教師たちが集まった。東北はいうにおよばず、関東や北陸、そして全国から有形無形のつながりを求めた教師たちでした。滑川道夫、近藤国一、佐々木昂(こう)、加藤周四郎、鈴木正之、佐藤忠四郎ら。さらには、国分一太郎、鈴木道太、池田和雄、平野婦美子、近藤益雄、寒川道夫などなど。成田さんが「北方教育社」を起こした昭和4年当時、東北地方の生活状況は厳しさの度を増していた。宮澤賢治が「雨ニモマケズ」を書いたのは昭和六年。亡くなったのはその二年後だった。

 《 成田らが北方教育をめざした二九年、世界大恐慌が起こり、米価の下落、不景気…。翌年には日本にも波及、さらに全国的な凶作で、とくに東北の農山村の生活は崩壊寸前だった。長期欠席、身売り、欠食児童など、を目の前にして東北の教師たちはもの言わぬ子どもたちの生活環境(生活台)にとび込み、生活のありのまま、本音をつづらせ、そのなかから子どもたちに生きる意欲をもたせようとした 》(佐藤・前掲)

 《 百姓の子は都会の子どものように感覚が浮動していない。鋭敏でない。悪くいえば牛のように鈍重(どんじゅう)だ。鈍重な牛を動かすほど農村の鞭は深刻で凶暴な風格をしているのだ。/ 百姓には都市生活者のような虚飾がない。食われなくなれば馬を売る相談を子どもの前で実直に話している。せわしくなれば乳飲み子を三年や四年の子どもの首にぶらさげて田畑へ出る。/ 十か十二の女の子に父親の昼飯の心配させるような家庭なのである。こうした家庭だけなのである。

 子どもとおとなの境はない。子どもはおとなの言葉をあたりまえに使っている。「不景気、不景気」という言葉をあたりまえに言っている。ただ関心の程度が深いか浅いかである。/ 子どもの自己凝視はまず自己批判としてしだいに批判精神を増大していく。(中略)  客観的な現実と特殊的な個人との統一の上に一切の幻覚を清算し、生活の真実へ緊迫してきた。ここでもう一度われわれは文学と綴方(重要な部分)の一致した動向をみなければならない 》(佐々木昂「菊池勇氏の文藝運動と綴方教育」『北方教育の遺産』所収。日本作文の会編集。百合出版刊)

《 どこまでも、生活にしがみついて、自分をうちたてていこうとする意志は、現実なる諸条件のうそでない認識から明朗に発足すべきものだ。/ 皮肉と風刺の中におちこむ超越的態度を警戒しよう。/ おっかぶせて子どもを引きづる観念的な盲信を反省しよう。/ ここにのみ、ぼくたちの子どもたちとともに、彼らの生活を愛する情熱が生まれてこようというものだ。この情熱的実践行を、ぼくたちは時代の教育者として態度する 》(成田忠久「実践の方向性」『北方教育』第十四号。昭和九年八月)

 「現実のなかに正路を開拓しよう」貧困を極めた子どもたちを前にして、教師たちは「宣言」した。

 (「サキさん」の後日談があります。高等小学校を中途でやめて、さまざまな苦労を重ねながら、彼女は東京に出ます。そこでも辛酸をなめながらの生活は続きました。やがてようやく家庭がが落ち着き、ほっとしていたころです。テレビの取材があり、彼女は「北方教育」の経験者として語りだしていました。その様子を遠くはなれた秋田県由利本荘の地で臥せりながら観ていた人がいました。それは誰あろう、鈴木正之さんでした。涙を流しておられました。

 鈴木正之の「綴方」の授業を聞かれてサキさんは、感慨深げに「これまで、いろいろと大変な生活だったけれど、今このようにして生きているのは、やはりあの時の先生方のおかげだった」と。もう少し詳しく述べられればと、機会を改めて書こうと考えています。

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 教師の仕事はどこで終わるのか

「綴方生活」は小砂丘忠義さんの編集で出版されていました。この目次に名前のある教師たちは、綴方教師としてそれぞれが大きな足跡を残されました。

 《 父親がろくに働けない生活をしながら高等科まで進めたのは、サキ自身の言ふ通り〈幸福〉だつたのに違ひなく、それだけ卒業したあと家計を扶ける義務が、サキには重たく感じられたのであらう。だが同時に、サキは〈職業〉に夢を賭けてもゐるのだ、と鈴木は思つた。裁縫を習ひたい、交換手になりたい、産婆の学校へ行きたい、と言ふとき、サキは何か一つ技術を身に付けて、現在の境遇から脱出しようと願つたのではなかつたらうか。「百姓は性質に適してゐない」「百姓は嫌ひだ」としつこいくらゐに書くのも、百姓になれば現在と同じ生活がずつと続くばかりだといふ懼(おそ)れの反映であり、それと対照に、〈職業婦人〉の未来が美しく見えてゐるのに違ひなかつた 》(高井)

 鈴木正之は仲間の教師たちにサキの「綴方」を突きだした。

 「昂(こう)さん、どう思ふ」と問われた佐々木昂はすぐには答えられなかった。この綴方はまさに自分が目指すリアリズムに徹した優れたものであることを彼は疑いませんでした。「だが、それは称賛するだけで終つてしまつていいやうな性格のものではないのは確実であった」

 「この娘(わらし)なば、悩んでゐる」

 「今まで俺たちがやつて来たみたいに、この文章の、どこがいいの、どこが悪いのと、突ついてみたとて、片が付かないのでねえか」

 「銭がかからなくて、私に適した職業で、家の手助けのできる職業」と、鈴木正之はサキの文章の一節を諳んじていました。

 「これなば、サキの言ふ通り、夢のやうな事だ。虫のいい望みだと言つたつていいかも知れねえ。だども、そいつを親身になつて考へてやる、サキの望みにどれだけかでも近い職業を探し出してやる、それが出来ねえば、なんぼ立派な事を言つたとて、サキに生き方を教へてやれねえのでねえか」

 正之はそのように言いました。

 佐々木昂は「俺たちの手で、この娘(わらし)さ、職業を見付けてやらなくてはなんね」

  「俺たちが、サキの生活さまで入って行かなくてはな」とくりかえすのでした。

 それをじっと聞いていた若い教師が言った。「昂さんの言ふ事は判るす」「判るども、それは学校の教師の仕事からは、はみ出した事でないすか。教師が、生徒一人ひとりの生活の責任まで負へるものだかどうか、俺なば疑問あるす」

 昂は若い教師に向かって言葉を返した。

 「教師はそこまでやるものでねえ。普通の場合にはな。だども、その教師の役割からはみ出した所で問題が起こつたとき、俺の知つた事でねえと外を向いたら、子供(わらし)ら、どう思ふべ。先生なば、それまで嘘こいてゐたと思ふでねえか」

 学校内で、あるいは教室のなかだけで「教育」は終わるのか。終わらせてもいいのか。教師の仕事は「教室で教える」ことにつきるのかどうか。これはけっして七十年以上も前の田舎教師たちだけの問題ではないように思われてきます。

 生きるためにもがき、生活を切り開くために救いを求める子どもたちを前にして、傍観者のように振る舞う教師とは何者だろう。いかにも無慈悲な官僚か、さもなければ、教育にも生活にも興味をもたない鉄面皮だといわなければならない。表面上のちがいはあるにせよ、いつの時代にも生きることに苦労しない子どもたちはいない。時代や社会が変わっても、そのような子どもたちの側に立ちつくす人間こそが教師であり、そのような仕事を教職というのではないか。ここに集まった教師たちは、そのような思いで身につまされていたのです。

 「正之の指導のおかげで、これだけの激しい訴へが、子供(わらし)から生れた。それをきちんと現実に即して受け止めてやれなければ、綴方の指導そのものが、虚しい事になりはしないか。教師の役割を外れたやうに見えるところに、実は教育の本質があると言へるんでないのか」

 いつ終わるとも知れない議論が延々と続いて、「男鹿(おが)さ知つた家がある」という成田忠久の一言で一応のけりがついたのは夜の八時でした。厳冬の二月のことだった。遅い汽車に間に合うように凍りついた夜道を歩きながら佐々木昂はずっと考えあぐねていた。(つづく)

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 この時期(昭和初頭)、学校の教科書はほとんどが「国定教科書」を使うことが求められていたし、その教授法もまた、教科書の内容を過不足なく教授するのが教師の仕事でした。唯一、「綴り方」だけが教科書のない教科だったのです。教師たちは、ここにおいて、自らの仕事に懸けるように使命を見出していたのでした。後年に「綴方教育」と称されるようになった教育方法はこの頃から一斉に各地で展開されるようになりました。すでにわずかばかり述べた土佐の教育実践もまた、上田さんや笹岡さんたちに導かれた教育運動でもあったのです。

「教師の役割を外れたやうに見えるところに、実は教育の本質があると言へるんでないのか」、教室(学校)内で教師の仕事は完結するのか。苦悩にあえいでいる親や子どもを前にして、いったい教師にできることは何だろうか、これはいつの時代にも眼前に立ちはだかる教師の宿命ともいえる課題です。

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● 高等小学校=〘名〙尋常小学校の課程を修了したものを入学させて、さらに高度な初等普通教育を施すことを目的とした学校。明治一九年(一八八六)の小学校令によって設置。修業年限は四年だったが、同四〇年、小学校令の改正によって二年となり、場合により三年のものも認められた。多くは、尋常小学校に併設され尋常高等小学校と称した。昭和二二年(一九四七)廃止され、新制の中学校に代わる。高等小学。高等。高小。精選版 日本国語大辞典の解説

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 北方教育、貧困と闘った教師たち

 職業

父「サキ、何職業さつく気だ。」

私「ドゝ(父)さ聞いだどもだまつてんもの。俺だて分らなくて農業つて書いだ。」

父「農業でもする気か。」

私「…」

 この頃先生が自分の職業を書く紙をよこした時、どの職業につけばよいやら分らなかつたので、「自分の望む職業」と書いてある所へは「農業」と書き、将来希望する職業」へは「裁縫」と書いてやつたのであつた。

 けれども父はもう五十になつた。酒によふたときは元気でも、めつきり顔のしわがふえて手の筋が目立つた。母は耳が遠い上に、尚この頃は眼が悪くなつて困つている程であつた。

 私の下の弟は未だ十三だから少なくとももう六年も父は働かなければならない。だが五十にもなつた父がどうして体が長く続くだらう。

 今だつて寒い日や雪の降る日は「俺は仕事することが出来ない。」といふのであつた。又余り寒い日など体をこごえらせてくると

 「俺の体はとても続かない。あしたから仕事を止める。五十もなつて土方してんなは、赤石の人と俺とたつた二人だ。んがだ(私達のこと)かて(糧)(のために)俺はかうして仕事さねまねなだぞ。俺はまるで、んがだかて使はれてゐるなだ。俺は何の因果でかう働かねばならねだ。」

といふのです。かういふ父がもう六年も労働を続けることが出来るだらうか。いや出来ないのがあたりまへなのだ。

 さうなつたら私の家は亡びるより他にないのだ。父が十七年かゝつて作つた土地も、家も、皆人手に渡らなければならない。これ等は皆父と母の結晶だ。父の苦しんでゐるのを見てゐて、どうして私は農業の手助けをしてゐることが出来よう。私には又農業が性質に適してゐない。

 私はやはり職業婦人となつて家に少しでも手助けをしなければならない。私はぐづぐづしてなどゐられないのだ。

 少くとも一労働者の子としてとして生れた私は、外の家に生れたならば高等科にも入ることが出来ないであらう。是等は少しでも私の幸福といふものだらうと、人々の上級学校へ行くのをうらやましいと思ひながら、半ばあきらめてゐた。

 私はやはり職業婦人になるのが一番よいのだ。遂に決心して「交換手にでもなつて、休みだ日は徳さんの家さ行つて裁縫でも習ふと思つたども。」と言つた。(高井有一『真実の学校』より) 

(「職業」をめぐる、この親子の話し合いは延々とつづいた)

 この綴方を同人の前に突きだしたのは鈴木正之でした。当時、彼は秋田県由利郡金浦(このうら)町の小学校に赴任していました。金浦は漁師町、ここの子どもたちはまるで大人と同じように小さなからだをはった労働にかり出され、昼夜の別ない仕事に追われていた。ある子どもは午前二時には小型底引動力船に乗り込む船員の家を廻って出漁をつげて歩く。岸壁にかけつけ桶に汲んだ飲料水や漁具、漁箱を船に積み込む。前日使った漁具の手入れ、魚をいれるカン集めなど。伝馬船を漕いで帰港する漁船を迎えに港口までいくと、もう日が暮れている。それから…。家に帰り着くのは夜半過ぎ。海があれないかぎり、毎日のようにこんな苛酷な労働がつづくのです。

 生活苦と闘う子どもたちが学校(勉強)から離れていくことはとめようがない、そんな現実に、教師たちはなすすべを持たなかった。「彼等の生活が、学校教育を受付けなかつたのである」(高井)

 佐藤サキは鈴木正之の担任ではなかった。綴方の苦手な学級担任に頼まれて週に二回の授業を受け持っていたのです。「生活というものはかならず変えられる。だから貧乏に挫けるな」と彼は教室で言いつづけていた。そこに出てきたのがサキの綴方だった。正之は自分のことばに責任を感じていた。サキの将来をどうするか、なんとしても道を開いてやりたかった。だが、その道はまったく見えなかった。思いあまった正之は作品研究会に集う同人(仲間)に一切を投げ出してみようと決心した。

 教師の仕事とはなんだろう。読み書きや計算ができるように子どもたちを導く。もちろんそれは当然のことだ。しかし、大人に混じって朝の二時から夜中まで働きつづける五年生に「学校教育」はどんな意味をもち、学校教師になにができるのだろうか。これはけっしてその子どもたちの家庭の貧困だけの問題ではないはずです。「彼や彼女の生活が、学校生活を受けつけなかった」という現実に対して、教師たちは手をこまねいているだけでいいのか。

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【解説】明治以降に始まった日本の学校教育のなかで、いまでは「国語」科といわれる教科の一領域に綴方(つづりかた)と呼び習わされた分野がありました。今では「作文」と称されるものです。この文章に記された話は実際にあった出来事です。

 今から八〇年以上も前(昭和一〇年前後)の東北地方で「綴方」教育を通じて、子どもたちの生活力を育てるために懸命に教職に打ち込んだ教師たちが何十人もいました。その中心になっていたのが成田忠久(右写真→)で、彼の周りにはたくさんの若い教師たちがいました。佐々木昂(こう)、鈴木政之(まさゆき)もその仲間でした。貧困にうちひしがれている子どもたちと真剣に交わり、子ども自身がみずからの生活(貧困)をとらえなおすために、教職に身命を賭(と)していたといっていいでしょう。

 同人(仲間)たちが月に何度か集まりを持ち、それぞれの教室から生みだされた「綴方」をめぐってその批評をするのがつねでしたが、あるときに鈴木政之が持ち込んだ、ひとりの生徒(高等小学校・現在の中学校二年生)の綴方が同人の間に大きな波紋を引き起したのです。(つづく)

〇参考・引用文献 高井有一著『真実の学校』新潮社刊、一九八〇年)

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 まるで「悪夢」のような学校教育史の一コマです。たかだか八十年余の過去、劣島の北方(秋田・青森・宮城・福島・岩手・山形など)といわれる地域に、ぼくたちの想像を絶した、若い教師たちの格闘があった。相手は「子どもたちの救いがたい貧困」だった。いまなら、「生活保護」だ「児童手当」だなどどいうネットがあるといいますが、貧困とそこから生み出される「困難な人生」は、今も昔もまったく変わっていない「過酷そのもの」なのだと、ぼくは言いたいのです。

 ここで「生活綴り方」や「北方教育」などと言おうものなら、まるで河島英五(時代おくれ)だぜ、と非難されそうです。学校教育もいまではずいぶんとハイカラ(上品?)な顔つきをしていますが、はたして「時代遅れ」だなどと揶揄していいのか。表面は新奇をてらってはいるが、その内容は驚くほど浅薄じゃないかという声がしてきます。

 「彼や彼女の生活が、学校生活を受けつけなかった」、それほどに「貧困」は、戦うには困難を極める相手であったし、必ず教師たちは敗北に打ち負かされるほどの強敵であった。教師仲間から自死するものや、権力に扼殺されるもの、長期にわたって拘禁されるものたちが続出したのです。教師の仕事はなんであるか、疑うべくもない自明の理に翻弄された教師たちの闘いの跡をたどり、今につながる学校教育の、もう一つの歴史を手探りで実感してみたいのです。「死屍累々」とは、この教師たちの闘いのあとに残された「万骨枯る」さまをいうのでしょうか。

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