
【有明抄】手を挙げる勇気 梅雨入り後、高校生の娘を車で送ることが増えた。普段より早い朝の街は、いつもとは違って見える。交差点には交通指導の住民が立つ。毎日お疲れさまです。入学式の日、ランドセルに背負われているかのようだった1年生も、だいぶさまになってきた。入学から1カ月半。学校生活には慣れただろうか◆小学校の授業では、先生が「この問題分かる人」とみんなに聞く。多くの手が挙がるが、筆者は答えが分かっても、手を挙げる勇気が出なかった。対照的に、みんなの手が挙がらない時に勢いよく手を挙げ、先生が指名すると「分かりません」と大声で答えた級友がいた◆元教師の蒔田晋治(まきた・しんじ)さんが現役時代に作った「教室はまちがうところだ」という詩を紹介する。「まちがいだらけの僕らの教室/おそれちゃいけないワラッちゃいけない/安心して手を上げろ/安心してまちがえや/まちがったってワラッたり/ばかにしたりおこったり/そんなものはおりゃあせん」といった言葉で子どもたちの学びを応援する◆最初から正解することは少ない。いろんな考え方を認め合い、互いの意見を参考にする中で、正しいと思う答えを見つけ出す◆振り返ると、「分かりません」と言って笑わせた級友にも、自分一人ではなかったと勇気づけられた。安心して間違えていい、そんな教室をつくろう。(義)(佐賀新聞・2021/05/23)

世の中には「正しい」と「まちがい」のふたつだけがあるのではないでしょう。「瓢箪から駒が出る」ように、まちがいから「正解」が生まれることがあるのです。大発見や大発明なども、多くはまちがいや勘ちがいから生まれたりすることがある。世の中にも、そのようなまちがい・勘違いから、物事の真の姿が現れることはいくらでもある。というより、これが「正しい」と、最初から決められているのは「教師の出題」あるいは各種の「試験問題」ぐらいで、そんなことは滅多に生きているうちに生じることはなさそうです。まちがいというのは、その次の「正しさ」につながるステップ(階段の一段)で、それがなければ次の段に上がれないことだってある。まちがいは人生には欠かせない条件でもあると、ぼくは言いたい。
黒か白か、「二つに一つ」というのは、まずない、黒に近い白から、白に近い黒まで、さまざまな段階があり、そのどれを黒といい、どれを白というか、時によってことなるのです。昨日の「正答」は今日の「誤答」であり、その逆もまた真であるということを、教室にいる子どもたちが察するというか、直観する、そういうことがあり得るという「感受性」をなんとか育てたいですね。それが教師の導いていきたい、いこうとする方向じゃないですか。宝くじなら、当たりか外れの二つしか想定していないけれど、それは作り事、生きていく中で、ある人の「正しい」は別の人の「まちがい」ということもよくある。また、変な例になりますが、「ところ変われば品代わる」というように、時代や場所によっても、正答と誤答は入れ替わることもあります。つまりは「まちがいは、どこまで行ってもまちい」ではないし、「正しいは、どこまでも正しい」ということでもないのです。この機微(ニュアンス)を獲得(自得)することそこ、生きる知恵につながる大事な能力にもなる。テストで測れない、生の感覚ですね。

「瓢箪から駒」という、その駒とは馬です。植物の瓢箪から、あり得ないことですが、大きな馬が出るという、あり得ないことも起こるのが生きている世界です。「石が浮かんで木の葉が沈む」というのは、ただ今の、ぼくたちの現実社会です。嘘から出た実(まこと)、これもいくらでもあり得ます。夫婦がケンカをして、ついつい言わなくてもいいこと言ってしまう。「お前なんか大嫌いだ」という口の裏には、死ぬほど好きだという告白というか白状があるのですから、とかくこの世は分かりづらい。「死んでしまえ、お前なんか」、という過激な言葉も、実は死ぬほど好きだという裏の意味が隠されているということもあるでしょう、ぼくは経験したことないけれど。○☓だけで片が付くのは、はおとぎの国のおとぎ話です。だから、今の学校の多くは「おとぎの国の学校」なんでしょうね。
時に「失敗は成功のもと」あるいは「…成功の母」などと言います。確かにそれは言えるようで、まちがいから正解が生まれることを言い当てているようでもあります。でも、ぼくは敢えて「成功は失敗のもと」と言いたいですね。成功体験というものが、どれほど当人を誤らせることか、成功の味が忘れられないので失敗を重ねる。ういうい調子に乗るんだね。その成功は偶然だったかもしれないし、たった一回だけのことだったかもしれない、とは考えたくない。一度上首尾だったら、その快感が忘れられないというのが人間の常とも言えそうです。「成功の罠」というものがあるのでしょうね。一回の成功は、その度に「ご破算」にするのがいいようです。ぼくはそんな風に生きてきた。というより、「成功」あるいは「失敗)に拘(こだわ)らなかったという気がするのです。
蒔田晋治さんの「教室は教室はまちがうところだ」を読んでみる。

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この詩について、何かいうことは無駄でしょうね。何を言わなくてもいい。ここに書かれていることが果たして「まちがい」か、「正しい」か。それともどちらでもない、問題だらけの詩なんだろうか、それは読む人が判断すべきじゃないですか。ぼくのささやかで浅はかな経験、学校経験では「教室はまちがえてもいいところ」「まちえる方が、つまらない正解より、はるかに考える力を求める」ことを知る場所なんだ。なんだか、ぼくはまじめに教室に腰掛けていたような錯覚を自他に与えそうな雰囲気になりかけています。ぼくにとって「教室は入らなくてもいいところ」でした。ある時期から手ぶらで学校に通うことを覚えたし、授業中には眠ってもいいし、弁当を食べてもいい、まるで公園のようであったらいいなあと思ったり、そのようにふるまったりした。もちろん、教師は当たり前に怒った。それでいいんですね。何をしてもいいのなら、あるいはどんなことでも教師が許すなら、それは「教育」ではなく「無秩序」「荒廃」のすゝめでもあるからです。
まちがえるところは「教室」に限らないでしょう。生きていくというのは「まちがえること」ですから、いたるところに教室が存在すると、ぼくなら考えるし、考えなくてもそうでしょう。まちがることは避けられないし、時にはまちがいとう「薬を飲む」のは大事な一服です。肝心なのは「まちがい」をそのままにしない、誤りに気がつけば、それを自分流になんとかまちがいのもとを探そうという、姿勢というか態度です。だから「教室はまちがうところだ」という詩の核心は「まちがえなければ、何がそうでないのかを考えようとしない」というところにあります。問題を出すのも、答えを知っているのも教師、これが多くの学校でくりかえされてきた「八百長」です。「これ知っている人」と教師は尋ねる、これも八百長です。「知っている人」なら聞かなくてもいいじゃないですか。これが答えだと、誰にもわからないからそこ、授業が成り立つんだと思う。そうでなければ、授業は「八百長」「紙芝居」「無観客の五輪」みたいなもの。本来の姿を失っているのです。

蒔田さんが力説したかったことは何か。この詩を読んでもよくわかりません。蒔田さんもわかっておられたかどうか。でもこの「絵本」が多くの人々に受け入れられたというのは、いろいろな意味で深く考えなければならないと、ぼくは思っている。だれかが正しいというから、自分は正しいと思い、誰かがまちがいだというから、自分もそうだという、そんな姿勢を破壊するには何が必要か。自分で考える力、判断力はどのようにして育つか。「次の中から正しいものを選べ」などという人を虚仮にしたような問題に神経を摺り減らさない、どこまで行っても答えが容易に出てきそうにない、そんな問題を教師自らが作れなければ、おそらく教師失格ですね。子どももダメになることは確実です。そうならないために大切なことは何か。(この続きは、近々の雑文で述べるつもりです)
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まちがったって誰かがよ / なおしてくれるし教えてくれる
困ったときには先生が / ない知恵絞って教えるで / そんな教室を作ろうやあ
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