まちがいから生まれるものはなんだ

【有明抄】手を挙げる勇気 梅雨入り後、高校生の娘を車で送ることが増えた。普段より早い朝の街は、いつもとは違って見える。交差点には交通指導の住民が立つ。毎日お疲れさまです。入学式の日、ランドセルに背負われているかのようだった1年生も、だいぶさまになってきた。入学から1カ月半。学校生活には慣れただろうか◆小学校の授業では、先生が「この問題分かる人」とみんなに聞く。多くの手が挙がるが、筆者は答えが分かっても、手を挙げる勇気が出なかった。対照的に、みんなの手が挙がらない時に勢いよく手を挙げ、先生が指名すると「分かりません」と大声で答えた級友がいた◆元教師の蒔田晋治(まきた・しんじ)さんが現役時代に作った「教室はまちがうところだ」という詩を紹介する。「まちがいだらけの僕らの教室/おそれちゃいけないワラッちゃいけない/安心して手を上げろ/安心してまちがえや/まちがったってワラッたり/ばかにしたりおこったり/そんなものはおりゃあせん」といった言葉で子どもたちの学びを応援する◆最初から正解することは少ない。いろんな考え方を認め合い、互いの意見を参考にする中で、正しいと思う答えを見つけ出す◆振り返ると、「分かりません」と言って笑わせた級友にも、自分一人ではなかったと勇気づけられた。安心して間違えていい、そんな教室をつくろう。(義)(佐賀新聞・2021/05/23)

 世の中には「正しい」と「まちがい」のふたつだけがあるのではないでしょう。「瓢箪から駒が出る」ように、まちがいから「正解」が生まれることがあるのです。大発見や大発明なども、多くはまちがいや勘ちがいから生まれたりすることがある。世の中にも、そのようなまちがい・勘違いから、物事の真の姿が現れることはいくらでもある。というより、これが「正しい」と、最初から決められているのは「教師の出題」あるいは各種の「試験問題」ぐらいで、そんなことは滅多に生きているうちに生じることはなさそうです。まちがいというのは、その次の「正しさ」につながるステップ(階段の一段)で、それがなければ次の段に上がれないことだってある。まちがいは人生には欠かせない条件でもあると、ぼくは言いたい。

 黒か白か、「二つに一つ」というのは、まずない、黒に近い白から、白に近い黒まで、さまざまな段階があり、そのどれを黒といい、どれを白というか、時によってことなるのです。昨日の「正答」は今日の「誤答」であり、その逆もまた真であるということを、教室にいる子どもたちが察するというか、直観する、そういうことがあり得るという「感受性」をなんとか育てたいですね。それが教師の導いていきたい、いこうとする方向じゃないですか。宝くじなら、当たりか外れの二つしか想定していないけれど、それは作り事、生きていく中で、ある人の「正しい」は別の人の「まちがい」ということもよくある。また、変な例になりますが、「ところ変われば品代わる」というように、時代や場所によっても、正答と誤答は入れ替わることもあります。つまりは「まちがいは、どこまで行ってもまちい」ではないし、「正しいは、どこまでも正しい」ということでもないのです。この機微(ニュアンス)を獲得(自得)することそこ、生きる知恵につながる大事な能力にもなる。テストで測れない、生の感覚ですね。

 「瓢箪から駒」という、その駒とは馬です。植物の瓢箪から、あり得ないことですが、大きな馬が出るという、あり得ないことも起こるのが生きている世界です。「石が浮かんで木の葉が沈む」というのは、ただ今の、ぼくたちの現実社会です。嘘から出た実(まこと)、これもいくらでもあり得ます。夫婦がケンカをして、ついつい言わなくてもいいこと言ってしまう。「お前なんか大嫌いだ」という口の裏には、死ぬほど好きだという告白というか白状があるのですから、とかくこの世は分かりづらい。「死んでしまえ、お前なんか」、という過激な言葉も、実は死ぬほど好きだという裏の意味が隠されているということもあるでしょう、ぼくは経験したことないけれど。○☓だけで片が付くのは、はおとぎの国のおとぎ話です。だから、今の学校の多くは「おとぎの国の学校」なんでしょうね。

 時に「失敗は成功のもと」あるいは「…成功の母」などと言います。確かにそれは言えるようで、まちがいから正解が生まれることを言い当てているようでもあります。でも、ぼくは敢えて「成功は失敗のもと」と言いたいですね。成功体験というものが、どれほど当人を誤らせることか、成功の味が忘れられないので失敗を重ねる。ういうい調子に乗るんだね。その成功は偶然だったかもしれないし、たった一回だけのことだったかもしれない、とは考えたくない。一度上首尾だったら、その快感が忘れられないというのが人間の常とも言えそうです。「成功の罠」というものがあるのでしょうね。一回の成功は、その度に「ご破算」にするのがいいようです。ぼくはそんな風に生きてきた。というより、「成功」あるいは「失敗)に拘(こだわ)らなかったという気がするのです。

 蒔田晋治さんの「教室は教室はまちがうところだ」を読んでみる。

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 この詩について、何かいうことは無駄でしょうね。何を言わなくてもいい。ここに書かれていることが果たして「まちがい」か、「正しい」か。それともどちらでもない、問題だらけの詩なんだろうか、それは読む人が判断すべきじゃないですか。ぼくのささやかで浅はかな経験、学校経験では「教室はまちがえてもいいところ」「まちえる方が、つまらない正解より、はるかに考える力を求める」ことを知る場所なんだ。なんだか、ぼくはまじめに教室に腰掛けていたような錯覚を自他に与えそうな雰囲気になりかけています。ぼくにとって「教室は入らなくてもいいところ」でした。ある時期から手ぶらで学校に通うことを覚えたし、授業中には眠ってもいいし、弁当を食べてもいい、まるで公園のようであったらいいなあと思ったり、そのようにふるまったりした。もちろん、教師は当たり前に怒った。それでいいんですね。何をしてもいいのなら、あるいはどんなことでも教師が許すなら、それは「教育」ではなく「無秩序」「荒廃」のすゝめでもあるからです。

 まちがえるところは「教室」に限らないでしょう。生きていくというのは「まちがえること」ですから、いたるところに教室が存在すると、ぼくなら考えるし、考えなくてもそうでしょう。まちがることは避けられないし、時にはまちがいとう「薬を飲む」のは大事な一服です。肝心なのは「まちがい」をそのままにしない、誤りに気がつけば、それを自分流になんとかまちがいのもとを探そうという、姿勢というか態度です。だから「教室はまちがうところだ」という詩の核心は「まちがえなければ、何がそうでないのかを考えようとしない」というところにあります。問題を出すのも、答えを知っているのも教師、これが多くの学校でくりかえされてきた「八百長」です。「これ知っている人」と教師は尋ねる、これも八百長です。「知っている人」なら聞かなくてもいいじゃないですか。これが答えだと、誰にもわからないからそこ、授業が成り立つんだと思う。そうでなければ、授業は「八百長」「紙芝居」「無観客の五輪」みたいなもの。本来の姿を失っているのです。

 蒔田さんが力説したかったことは何か。この詩を読んでもよくわかりません。蒔田さんもわかっておられたかどうか。でもこの「絵本」が多くの人々に受け入れられたというのは、いろいろな意味で深く考えなければならないと、ぼくは思っている。だれかが正しいというから、自分は正しいと思い、誰かがまちがいだというから、自分もそうだという、そんな姿勢を破壊するには何が必要か。自分で考える力、判断力はどのようにして育つか。「次の中から正しいものを選べ」などという人を虚仮にしたような問題に神経を摺り減らさない、どこまで行っても答えが容易に出てきそうにない、そんな問題を教師自らが作れなければ、おそらく教師失格ですね。子どももダメになることは確実です。そうならないために大切なことは何か。(この続きは、近々の雑文で述べるつもりです)  

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 まちがったって誰かがよ / なおしてくれるし教えてくれる

  困ったときには先生が / ない知恵絞って教えるで / そんな教室を作ろうやあ

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 かつて遠藤友介という詩人教師がいました

 〔本日の詩、いくつか〕

 傘のない子は はるさめついて 蕗のはかむってはしってこい

 木綿糸(もめど)で ぬうたゴムぐつ けうもはいてきた くつずれ くつまめ すあしがいたいなあ

 子守して行(え)ぐと がっこ厭(や)んだ やんだ 小便たれられ はらまで ぬらされ みんなからからかわれ 

 あすは とほく こもりにやられるといふ おまえ おほきいゴムぐつ あめなかをゆく からかさかたむけ さようなら さようなら さようなら

 すあしで つめたくないかときくと にっこりして あたらしい足袋はかず ふところにしまってるの これとみせられた

 けふも ひるめしに味噌つめてきた マサヲの眼(まなこ)となりの塩引(しおびき)じろじろ にらめながら はしうごかしている          (『遠藤友介歌集』)

 はるかに遠く、「山びこ」はこだました?

 遠藤友介(1907-1955)という教育者がおられました。今ではほとんど忘れ去られてしまった人です。山形県は山元村国民学校の訓導(旧制小学校の正規の教員の称。学校教育法により現在は教諭)(広辞苑)で、敗戦直前には村の「移民推進員」を勤めていました。食糧難と貧困に勝てず、村はこぞって海外移民を模索していたのです。その移民募集係を、教員が担わされていた時代でした。

 遠藤さんは敗戦直後まで同国民学校時代最後の校長を務めていました。その後、山形県教職員組合の委員長を務められて、1949(昭和25)年に亡くなられました。49歳でした。遠藤さんは歌人としても、上に紹介したようなリアルな色彩の強い歌を作られ、経済学者だった大熊信行さんが主宰していた「まるめら」に作品を寄せていたのです。それは戦前のことで、戦争が始まるといっさい歌は作らなくなったそうです。ぼくは、遠藤さんについて調べていました。なかなか資料も見つからず、いい加減に諦めていたのですが、紹介した「歌」に詠まれている子どもたちへの限りない愛おしさ、優しいまなざしに心を奪われ、いまもなお憧憬に近い感情をいだいているのです。

 ぼくの手元に一冊の詩集があります。『遠藤友介歌集』(遠藤友介歌集刊行会編、昭和三十二年刊)編集委員には多くの高名な方の名があります。大熊信行、結城哀草果、真壁仁、須藤克三、その他。県内はいうまでもなく、県外でも仕事を通して知られた方々でした。この人々にぼくはたくさんのことを教えられてきました。

 「遠藤友介はすぐれた教師であった。最後は、新設山形市立第六中学校の初代校長として、創業の困難なしごとに心身をかたむけ、三年間で、みごとに新しい校風をきずきあげたのであったが、二年前の三月なかば、卒業式で生徒にはげましのことばをのべながら仆れてしまった。そして学校の宿直室にはこばれたまま入院もできない重態で、ついに恢復をみることもなく死んだのである。寝食を忘れるほど学校創設に奔走した疲れが大きな原因のひとつと考えられ、その最後を思うと、まことにいたましい殉職であった」「かれの歌のなかでは、清らかな恋愛と、貧しい山村の子供のくらしとが、二つの大きなテーマとなっている。遠藤友介はある時期に、教育と文学とを、みごとに統一されたエネルギーとして生活の中に持つことが出来たのであった」(同書、「まえがき」真壁仁)

 こんな時代に、戦前戦後期の一教師の仕事に思いを寄せようとするのは、流行らないどころか、常軌を逸していると思われるかもしれません。でも常軌を逸しているといわれるようなことをしなければ、この出鱈目な学校教育時代を討つことはできないのではないか。ぼくにはそんな思いが滾っているのです。どこにあっても、戦火の中でも日常生活は止められない。「おはよう」「おやすみ」という当たりまえの生活があるからこそ、人間はそこに、自分の根を張ることができるのです。根を張るための「地盤」、それが教育の土壌です。遠藤さんに代表される生活派の教師は、そこに自らの仕事の核心部を見出していたし、そこに向かって意識を集中させていたというのです。(この項、続く)

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 91歳まで続くとは思わなかった

10歳から81年間書き続けている日記を前に語る北村知久さん=東京都武蔵野市で

 どういう北風の吹き回しか、このところ思い出したように定家の「明月記」を拾い読みしています。大学入試に備えるわけでもなく、研究成果を発表するでもなく、まして定家の親戚筋でもないのですから、それこそ気紛れの思い付きとしか言いようがありません。念のうちに、いつか何かの拍子に無性にあるものが読みたくなるという悪習があるのです。

 ぼくは大学に入った瞬間に、当時岩波書店から出ていた「日本古典文学全集」(全百巻)を衝動買いした。(同時に「筑摩現代文学大系」を全巻揃えた。これは刊行開始早々でしたから、月一冊当てでそろえたと思う)何かはっきりとして目的や当てがあったのではなぃ、もちろん金もなかったのに、「本を読むぞ」という漠然とした気分を入学以来持っていた、それを確かめるつもりだったとしか思われなかった。よくぞ、そんな向こう見ずの、文無し若造に後払いで買わせてくれた大人がいたことに感動しました。図書館には全部そろっていたのに。今もって、その時の「興奮」を肌で感じることができます。いったい値段はいくらだったか、当時は「定価」で買うのが当たり前だったし、古書でという趣味も生活の算段(知恵)もなかった。岩波本、たしか生協の書籍部で分割購入したと記憶しています。

 それが半世紀を過ぎても、今もなお貧弱な書棚の幾段かを占めています。本やレコードだと、それを買った時代がいつでも鮮明によみがえるのですから、記憶装置付きショッピングという、なんか儲けものをしたような気にさえなります。その時は「定価」から「定家」は連想できなかった。百人一首の定家は知っていた。ぼくは京都時代に今出川にあった「冷泉家」ー明月記」が保存されているーの前を何度も通ったことがあり、その先に同志社大学(同級生の多くが在学していた)もあったから、その景色にも親しんでいたのです。後年、古典「明月記」の一部が岡山で発見されたいう報道に驚嘆したことも思い出します。(右下写真 いかにも時代の「ちぐはぐ」が現れている「冷泉家」。前面が今出川通)

 それはともかく、定家は「明月記」という、驚くべき退屈な日記を、十九歳から始めて、なんと六十年も書き綴っていたというのが、若いぼくの肝を冷やすのに十分でした。彼は応保二(一一六ニ)年に生まれ、仁治二(一二四一)年に亡くなっていますから、生涯八十年余の、ほとんどが日記に録されていることになります。(いずれこのことは別の機会に)こんな人は他にいるはずがないと考えてもあながち無理もありませんね。

 だからぼくは、本日の東京新聞に目と耳を奪われたのです。「タヌキの朝帰り」にも目を射られましたが、こちらはコロナ化は人もタヌキも、災難であるのは同じだという詩興がありますが、八十一年の日記継続には「震撼」させられましたと、正直に言っておきます。いるんですね。一を以てこれを貫く、という信念の人が。十歳から始めたといいますが、わが身に照らせば、いったい僕は何をしていたか。一人の野生児として野山を終日駆け回り、ひたすら自然に還ることを希求していたのではなかったか。遊び場は兼好・長明をはじめ、平安鎌倉の早々たるメンバーの足跡も傷跡も鮮やかに残されている都の辺地でした。

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 「花丸の人生」つまった93冊 81年間書き続けた日記帳で振り返る、武蔵野市の91歳北村和久さん

 81年間つけてきた日記は93冊になった。東京都武蔵野市の北村知久さん(91)は、1940年から手帳や日記帳などに日々の出来事や思いをつづっている。戦争と復興、高度経済成長、災害…。自らの目を通して見た時代の断片と、人生の喜怒哀楽がつまったページをめくりながら「当時の記憶がよみがえり、過ぎ去った人生をもう一度味わうことができる」と語る。(長竹祐子)

「生きているうちは続けたい」という北村和久さん

 初めて手にした日記帳は、神武天皇即位2600年を記念した「小学生日記」(博文館)。東京市四谷区(現東京都新宿区)の尋常小学校5年だった10歳のとき、両親に買ってもらったことがきっかけで日記を書き始めた。

 ◆駆け抜けた昭和-平成-令和 軍国少年は良き父に

 軍国少年だった。真珠湾攻撃のあった41年12月8日の日記は、「来た。いよいよ日米戦争!! ああこの日」と興奮した様子で記している。その後も「比島に上陸」「万歳を叫ばずにはいられない」など威勢のいい言葉が並ぶ。北村さんは「当時の雰囲気だと、みんなこうなっちゃうね」と振り返る。45年5月25日、山手空襲に遭った。翌日の日記には、自宅の焼け跡を掘り起こし天をにらむ自身のイラストを描き「敢然と焦土より立て。焼けた物は焼けたんだ」と添えた。

 「生きているうちは続けたい」という北村和久さん 戦後は食糧難に苦しんだ。46年6月21日、「もう明日の米は一粒もない。(中略)ねころんでそっと腹をなでてみると肋骨ろっこつばかり」と骸骨のような自身の姿を描いた。「あのころを経験している身として、おなかがすくってどんなにつらいかがよくわかる」 51年に帝国銀行(現三井住友銀行)に入行し、10年後に32歳で佳子さん(84)と結婚。日記には「男児が誕生した」「パパー、パパーと言った。感激!」などと家族の記録も。

 ◆金婚式の日に東日本大震災 そして日記は82年目へ

 71年7月15日、米大統領が初の訪中を宣言。いわゆる「ニクソン・ショック」だ。2日後の日記は「世界の動きが大きく変わりそうだ。日本はどうなるんだろう」とつづった。 結婚50年の金婚式だった2011年3月11日、東日本大震災が起きた。「東京でも震度5以上の揺れで玄関の扉をあけて立ちすくんだ。(中略)明日もどうなるかわからない」。不安な思いが文面ににじむ。 子どものときから文章や絵が好きだったというが、「日記を書き始めたころは、91歳まで続くと思わなかった」と北村さん。昭和、平成、令和と時代を経て積み上がった日記を前に「奇跡の花丸の人生でした。生きているうちは続けたい」。年が明けると、82年目の日記が始まる(東京新聞・2020年12月6日) 

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 中唐の大詩人白居易(白楽天)(772-846)。ぼくは、これも若さに任せて彼の「白氏文集」を読んだことがあります。ことに「長恨歌」は愛読した。いうまでもなく「玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋もの」で、はたしてわかって読んだのかどうか、今でも怪しい。分かりきらなかったから、余計に興味をそそられたのかもわかりません。その白居易に「劉十九 同じく宿す」と題した詩がある。その詩に、若かった定家が魅かれていたのでしょう。

 紅旗破賊非吾事、黄紙除書無我名。唯共嵩陽劉處士、圍棋賭酒到天明。

 「明月記」中に「世上乱逆追討耳に満つと雖も、之を注せず。紅旗征戎吾が事に非ず」と記す。源平合戦の最中に成人した定家です。清盛が福原遷都をした年(治承四年・1180年)に、「日記」を書き始めます。定家は十九歳でした。殺し合いなんか知ったことかと、政変に背を向けて、官職の多忙の合間に、ひたすら私事に徹する。何を想いい、日記を書き続けたのか。謎ですね、ぼくには。

 今日の定家である、北村さんはどうだったか。軍国少年が、幾星霜を経て九十一歳を過ぎたのです。彼個人にとっては「八十三冊の日記」には感慨深いものがあるはずです。多くの「日記」は他者に読まれることを想定も期待もしていない。だからあけすけに言えば、どんな事柄も細大漏らさず書けるのでしょうが、世間には、そうでない日記もあるようで、ぼくなんかには気が知れないのです。だから、いまでも他人の日記なんかを読もうという趣味がない。永井荷風のものなども大いに評価されているが、それだけ「覗き趣味」を持つ人がいることの証明でしょうか。(このあたりの好悪・機微についても、今後の「明月記」雑記において、愚考の後を書いてみますか)

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 つち澄みうるほひ 石蕗の花咲き

冬の訪れ、ツワブキ鮮やか 南さつま・坊津

 初冬の季語であるツワブキの花が鹿児島県内で咲き始めている。南さつま市坊津町久志の平尾集落では12日、アコウの巨木の根元に、鮮やかな黄色い花がひっそりと咲き、道行く人の目を楽しませている。/ 近くに住む尾辻孝一さん(81)は「緑の葉の中に黄色の花が際立っていてきれい。冬の訪れを感じる」と笑顔。つぼみも多く、今月いっぱいは楽しめそう。/ 鹿児島地方気象台によると、大陸にある高気圧の影響で県本土は14日までおおむね晴れる。週明けからは雲りがちとなり、南から暖かく湿った空気が流れ込み、気温は平年より高くなる見込み。(南日本新聞・2020/11/13 06:30)

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 この植物をとても好んでいます。拙宅の裏庭にもたくさん花を咲かせてくれています。寒ければそれだけ鮮やかな濃緑色で厚手の葉を茂らせる。厳寒にも怯まないで、すっくと立っている姿が健やかに感じられてきます。小さな庭にも座りがいいし、野原や山中でも、似合う。このツワブキ(石蕗)を見ると、きっと口をついて出るのが室生犀星の詩です。もう何十年来の習慣になりました。まるでぼくの季語のようでもあります。これもまたじつに鮮やかなのもので、失礼ながら、まさかあの犀星が詠んだものかと疑わしくなるくらいにみごとなものです。「鮮やかなお点前」と降参します。

つち澄みうるほひ
石蕗の花咲き
あはれ知るわが育ちに
鐘の鳴る寺の庭 (「抒情小曲集」

●室生犀星(1889~1962)=詩人,小説家。本名照道。私生児として石川県金沢に生まれ,僧室生真乗の養子となった。給仕,新聞記者を転々としながら詩を作り,萩原朔太郎を知ってともに1916年詩誌《感情》を創刊。1918年《愛の詩集》《抒情小曲集》を出し,新進詩人として認められた。翌年,独特の感覚的表現を用いた自伝風の小説《幼年時代》《覚める頃》で散文の世界に入り,《あにいもうと》《女の図》などを書いた。第2次大戦後に《杏っ子(あんずっこ)》や,王朝ものの《かげろふの日記遺文》,評伝《我が愛する詩人の伝記》など。(百科事典マイペディア)

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「芥川龍之介なら百発百中、作に当たり外れはないものだが、犀星の場合はそうはいかない。おそらく百発一中といったところであるが、この「寺の庭」がまさに、「一中」だ」というような(意味の)、ひどい、しかし過大な評価を三好達治さんが下しておられていたのをぼくは若い頃に読んで、ぼくのとらえ方はやっぱり間違っていなかったんだと、ただちに、この詩が好きになった。単純そのものでしたが、歳をとるとともに、この詩の含んでいる凛とした厳しさや悲しさや、あるいは美しさまでが感じられるようになりました。犀星が養子に出されたのは金沢の雨宝院というお寺でした。「あはれ知るわが育ち」という、犀星の第一歩、生の元始が記されたお寺でした。

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 おれは雑草になりたくないな

  みみず      大関松三郎(1926-44)
何だ こいつめ
あたまもしっぽもないような
目だまも手足もないような
いじめられれば ぴちこちはねるだけで
ちっとも おっかなくないやつ
いっちんちじゅう 土の底にもぐっていて
土をほじくりかえし
くさったものばかりたべて
それっきりで いきているやつ
百年たっても二百年たっても
おんなじはだかんぼうのやつ
それより どうにもなれんやつ
ばかで かわいそうなやつ
おまえも百姓とおんなじだ
おれたちのなかまだ
 
   雑草
おれは雑草になりたくないな
だれからもきらわれ
芽をだしても すぐひっこぬかれてしまう
やっと なっぱのかげにかくれて 大きくなったと思っても
ちょこっと こっそり咲かせた花がみつかれば
すぐ「こいつめ」と ひっこぬかれてしまう
だれからもきらわれ
だれからもにくまれ 
たいひの山につみこまれて くさっていく
おれは こんな雑草になりたくないな
しかし どこから種がとんでくるんか
取っても 取っても
よくもまあ たえないものだ
かわいがられている野菜なんかより
よっぽど丈夫な根っこをはって生えてくる雑草
強い雑草
強くて にくまれもんの雑草

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 私は今、諸君にひとりの友だちを紹介しよう。

 大関松三郎が、それだ。

 松三郎は、真実を語ることのできる少年だった。まれなほどしっかりした「自分」をもっている少年だった。諸君は友だちとしてテヲとっても損をしない人間だった。いや「自分をもっていた」というより、「自分をもとうとしていた」といったほうが正しいだろう。「自分をもつ」ということは、決してかんたんなことではない。松三郎は、その「自分」をもとうと努力していた人間といったほうがいいだろう。松三郎の目は、外のものにむかっても、くいこむようにするどかった。じっと、「自分」をみつめた目は、何にもまして、もえるようにはげしかった。(寒川道夫「―指導記録―いのちの歌」)

 「指導教師」の寒川さんは「みみず」「雑草」について、以下の記録を残しています。(「解説 松三郎の詩」)

 「みみず」 これはいたましい百姓のうたである。私は前に、盲になった百姓に、時代への目覚めをあたえる「もぐらのうた」というのをかき、「たとえ野ざらしの風に身をさらされようと、一度土をけって青空の下に出よ。そしてつぶれたまなこをひらき、大空にもえる太陽を仰げ」とうたったことがある。それは、光をおそれ、氷をおそれ、土の底へ底へとくぐり、弱いはだかもの、幼虫などを餌食にし、目をひらくことを怠り、人の臭いだけかぎわけて生きる陰惨な前世紀的な動物に托して、百姓をはげましたものだった。松三郎はそれをしっかり覚えていた。(中略)

 この「みみず」には、その「もぐらのうた」からの考え方がふくまれているけれも、松三郎はそれを、百姓の立場から感じうたっている。「はだかんぼうのやつ」とののしっているのは、このかわいそうな生物だけでなく、自分のみじめさを、泣きながらむちうっているのだ。「おまえも百姓とおんなじだ。おれたちのなかまだ」ということばには、いたましいまでのすごさがこもっているではないか。

 「雑草」 「おれは雑草になりたくないな」ということばは、しんからに雑草をきらう心持をあらわしている。しかし、同時に雑草の野性的な強さにうたれ、人にかこわれて育てられる野菜のひよわさもにくんでいる。ここにはいろいろこみ入り、矛盾しあう問題がふくまれている。ある時、私たちのクラスで二宮金次郎が「尊徳夜話」に書いていた、雑草を悪玉とみて、悪玉を刈るのが天道をあらわすものだということについて議論がはじまったことがあった。そして、善とか悪とかというものが根本的にどうしてきまるのかということで、だいぶ問題がこんがらがってやかましくなった。その時、松三郎は「イソップ物語なんかみると、狼は羊を食ったから悪い動物のようにいってるけれども、もし羊を食うなといったら、何を食ったらいいんだ。羊が草を食っても悪いやつといわれないのは、草が黙っているからだ。草だって心ではおこっているだろう」というような事をいった。

 この「雑草」には、そういう黙っている雑草、抗議することのできぬ雑草がふくまれているようだ。しかし、そういう雑草になりたくないなといっている心には、松三郎の、人間的な希望が強く動いていたように思う。それは、一種の社会的倫理感と もいうべきものであった。社会的に意義のある人間にならねば、という、少年らしい清潔な大志がもえていたというべきではなかったか。

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 今回は上掲の「二つの詩」だけを載せておきます。これまでに、いったい何百回読んだことでしょう。いささかの詩心もない人間だからこそ、この詩はどんな人が書き、どんな思いをこめたのだろうと、繰り返し考えつづけているのです。寒川道夫という教師の指導の下、大関松三郎という小学生の詩の輝きが放たれたあかしとされてきたものです。よき(熱心な)教師と隠された才能を開花させた児童(生徒)の、たぐいまれな合作でもあったでしょう。「生活綴方」教育の頂点に位置すると評価されてきました。だが、毀誉褒貶が激しく、多くの批判や非難が投げつけられても来たのです。(つづく)

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 生活こそ人間をつくるのだ

   山芋      大関松三郎
 
 しんくしてほった土のそこから
 大きな山芋をほじくりだす
 でてくる でてくる
 でっこい山芋
 でこでこと太った指のあいだに
 しっかりと 土をにぎって
 どっしりと 重たい山芋
 おお こうやって もってみると
 どれもこれも みんな百姓の手だ
 土だらけで まっくろけ
 ふしくれだって ひげもくじゃ
 ぶきようでも ちからのいっぱいこもった手
 これは まちがいない百姓の手だ
 つあつあの手 そっくりの山芋だ
 おれの手も こんなになるのかなあ

《一九三八(昭和十三)年、日中戦争がだんだん大きくなり、国民あげて戦争に熱中していたときに小学六年生が作った詩。驚くべきことだ。

 「松三郎の目の鋭さは六年生になってぐっと肥え、力をつけました。その目は百姓の生活と、その暗い運命にむけられていった。それはまぎれもない自分の生活であり、運命だったのだ。貧しい者ほど、成長の準備期間は短い。それは下等動物や昆虫のように、短い時間に一人前の力をもたねばならないからだ。人間の場合は、くらしがそれを追いたてている。生活こそ人間を作るのだ。『山芋』の詩は、そういう生活の中から生まれてきた」と、寒川は指導記録で書いている」(佐藤国雄『「山びこ」「山芋」―人間教育の昭和史』)

  寒川道夫。1909(明治42)年、新津市で生まれる。両親は小学校教師。長岡中卒業後、代用教員。その後、高田師範卒。一之貝小学校に赴任。すぐに黒条小に転勤。1931年9月のことでした。転勤は校長の画策だといいます。《寒川道夫は黒条小学校にきて、最初は五年生の担任だったが、教科書が『サクラ読本』にかわったその年の新学期から一年生の担任になった。「だれの手にもそまらないうちに君の手で育ててもらいたい」と校長はいった。その子らを六年生まで持ち上がり、その1人に大関松三郎がいた》(佐藤・同上)  大関松三郎は1926(大正6)年、古志郡黒条村下下条に小作農大関仁平次の三男として生まれる。10人兄弟。黒条尋常小学校で寒川道夫に出逢う。1941年、新潟鉄道教習所に入所。卒業後は機関助手になる。その後に海軍志願。1944年、南支那海で魚雷攻撃を受けて戦死。1951年、寒川は松三郎の詩を集め、詩集『山芋』として出版。

  虫けら              大関松三郎
 
 一くわ
 どしんとおろして ひっくりかえした土の中から
 もぞもぞと いろんな虫けらがでてくる
 土の中にかくれて
 あんきにくらしていた虫けらが
 おれの一くわで たちまちおおさわぎだ
 おまえは くそ虫といわれ
 おまえは みみずといわれ
 おまえは へっこき虫といわれ
 おまえは げじげじといわれ
 おまえは ありごといわれ
 おまえらは 虫けらといわれ
 おれは 人間といわれ
 おれは 百姓といわれ
 おれは くわをもって 土をたがやさねばならん
 おれは おまえたちのうちをこわさねばならん
 おれは おまえたちの 大将でもないし、敵でもないが
 おれは おまえたちを けちらかしたり ころしたりする
 おれは こまった
 おれは くわをたてて考える
 
 だが虫けらよ
 
 やっぱりおれは土をたがやさんばならんでや
 おまえらを けちらかしていかんばならんでや
 なあ
 虫けらや 虫けらや

 「センチメンタリズムの一かけらもない現実的なきびしい思考は、これまでの感傷的な田園詩人たちの頭には到底宿り得なかった質のものだ。生活感情の中に、よほどの抵抗がなければ、こういう論理が抒情として生かされる筈がない。童心の詩ではない」(小野十三郎)

 以前に紹介した「山びこ」の時代と前後します。教師の寒川道夫さんは後に(戦後)、無著成恭さんと、東京で出会います。明星学園で、でした。二人の関係は学校経営者として、現場の教師としていずれも互いに意識しながら、実践を重ねていきます。この時期(戦前・戦中)、寒川さんは新潟において、生活綴り方教育の一方の旗手として、重要な役割を果たしていました。また、そのことが「治安維持法違反」という犯罪につながる道を歩いていたことになります。(この項は続きます)

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