雲も…自分のやうに…途方にくれてゐるのだ…

 【有明抄】天上界の怒り 秋の空には鰯(いわし)や鯖(さば)が泳ぎ、羊もいる。倉嶋厚さん監修の『風と雲のことば辞典』を開くと、秋に限らず、さまざまな雲の呼び名が載っている。人は空を見上げて天候を読み、形や流れを変える雲の様子に想像を膨らませた◆詩人の山村暮鳥は〈おうい雲よ〉と呼び掛けたが、歌手の武田鉄矢さんも「雲がゆくのは」で歌った。〈きっとどこか遠い国で僕よりつらい心の人がいるのだろう/おーい雲よ/僕はいい/我慢できるよ/その人の瞳に浮かんでくれ〉と◆この歌は映画「ドラえもん のび太と雲の王国」(1992年)の主題歌だった。のび太君たちが迷い込んだ天上界は地上の大気汚染に苦しみ、人間や動植物を避難させた上で大洪水を起こし、文明を破壊する計画を進めていたという設定。30年前の作品だが、近年の気候変動による大雨を予見したような話である◆快適な生活が天上界にどんな影響を与えているのか。「温暖化のおかげで北海道のコメがうまくなった」と発言した政治家がいたが、天上界が聞けば怒り心頭だろう◆気候変動に関する国連会議COP26が英国で開かれている。岸田文雄首相も出席した首脳会合では、各国が温暖化対策の前進を強調した。秋空の雲は穏やかな印象だが、天上の異変は続いている。地上の一人として、快適、便利の代償に思いを寄せたい。(知)(佐賀新聞・2021/11/09)

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 倉嶋さんのお名前が出てきました。懐かしさと同時に、ぼくが気象というか天気のあれこれに興味を持つきっかけをくださった方として、忘れがたい。さらに長期間、「うつ病」を罹患されていたことも、倉嶋さんの想い出と密接に結びつけられています。さいわいに、というべきか、ぼくは「うつ病」になったことがない。「あんたは先ずならないよ」と、誰彼となく言われてきましたが、内心では「あるいは、…」という気分に襲われないでもないのです。温厚そのものだったような倉嶋さんです。気象庁の予報官を務め、各地の気象台に勤務して退官。その後、ある放送局の気象解説をされていた。ぼくは、この時に気象の基本について丁寧に説明(解説)される倉嶋さんに、とても関心を寄せていたし、好感を持ちました。

 昔から、理由は不明でしたが、「天気」に関してはなにかと気になっていた。朝焼けや夕焼けをみて翌日の天気を占ったり、気温や湿度などの加減にも神経を使うようになった、そのきっかけけは何だったか。ひょっとして、外遊び専門の子どもだったから、天候の加減はいつも気になっていたのかもしれない。ぼくの印象を言えば、倉嶋さんは、いわば「文人」だったと思う。粋だったんですね。少年の頃、ぼくは輪島測候所に遠足だったかで訪問し、いろいろな機器が天気(気象)を観測しているのに驚いた。まだまだ、「予報」の当たり外れが多かった時代です。やがて「ひまわり」が打ち上げられ、格段に観測の精度は上がったと思います。倉嶋さんの時代から、今はだれもが気象予報士になる時代になりました。大金には五万という(というのは大げさです)気象衛星が各国によって打ち上げられ、地球にさまざまな情報を送信しています。日本劣島近くに接近する台風の進路予想も、各国のものが当たり前に比べられることが出来るのです。確かに便利、でも「便利は不便」でもある。まるで車の運転にカーナビが果たすのと同様の役割を、「気象衛星」が果たしているのです。ぼくたちは、自然現象に関心を強く持っているのか、その反対なのか。

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● ひまわり=日本の気象衛星。1977年7月14日米国のケープ・カナベラルから打ち上げられた1号は日本最初の静止気象衛星となった。以後1981年2号,1984年3号,1989年4号,1995年5号,2005年6号,2006年7号,2014年8号がいずれも種子島宇宙センターから打ち上げられた。(マイペディア)(上の写真は日刊工業新聞:2017年7月14日より)

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 お天気キャスターの倉嶋厚さん死去 エッセイも人気

 気象庁主任予報官を務め、気象キャスターの先駆けとして活躍した倉嶋厚(くらしま・あつし)さんが亡くなったことが4日、分かった。93歳だった。/ 長野市出身で、気象庁に入庁後、札幌管区気象台予報課長や鹿児島地方気象台長を歴任。定年退職後はNHKの解説委員として「ニュースセンター9時」の気象キャスターを担当し、エッセイストとしても人気を集めた。/ うつ病を克服した自らの体験を記した著書「やまない雨はない~妻の死、うつ病、それから…」はドラマ化されるなど話題を集め、自殺防止を呼びかける講演活動に力を注いだ。朝日新聞の連載「患者を生きる」でも自身の体験を紹介していた。(朝日新聞・2017年8月4日 19時55分)

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 本日山村暮鳥さんについて少しばかり雑感をと、駄文を始めました。日本の詩人の中でも、けっして「本流」でもなければ「傍流」でもない、いわば、詩の世界(あるいは詩壇か)からは屹立して生きた詩人だったように、ぼくは考えています。わずかに四十歳で死去。結核にのために茨城の地で療養、そこで「雲」編纂中に最期を迎えたという詩の刊行はその翌年でした。この先どういう仕事をされたか、見当もつかない生き方を求めていたと、あまり確かな根拠もなく、ぼくは言いたい気分です。信仰と芸術、いわば「大正自由主義」の時代の波を真正面から受けて、斬新な詩と敬虔な生活を交わらせようとしていたのかもしれません。でも、「雲」を読むと、そこには、ゆったりとした、あるいはおおらかな、自然への賛歌が読みとれるようにも思えるのです。自然への賛歌が、そのままで「信仰」になっているようにも見受けられてくる。

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HHHHHHHHHHHHHHHHHHH

       雲                            山村暮鳥

  序

 人生の大きな峠を、また一つ自分はうしろにした。十年一昔だといふ。すると自分の生れたことはもうむかしの、むかしの、むかしの、そのまた昔の事である。まだ、すべてが昨日今日のやうにばかりおもはれてゐるのに、いつのまにそんなにすぎさつてしまつたのか。一生とは、こんな短いものだらうか。これでよいのか。だが、それだからいのちは貴いのであらう。/ そこに永遠を思慕するものの寂しさがある。

 ふりかへつてみると、自分もたくさんの詩をかいてきた。よくかうして書きつづけてきたものだ。
 その詩が、よし、どんなものであらうと、この一すぢにつながる境涯をおもへば、まことに、まことに、それはいたづらごとではない。/ むかしより、ふでをもてあそぶ人多くは、花に耽りて實をそこなひ、實をこのみて風流をわする。/ これは芭蕉が感想の一つであるが、ほんとうにそのとほりだ。/ また言ふ。――花を愛すべし。實なほ喰ひつべし。/ なんといふ童心めいた慾張りの、だがまた、これほど深い實在自然の聲があらうか。/ 自分にも此の頃になつて、やうやく、さうしたことが沁々と思ひあはされるやうになつた。齡の效かもしれない。

 藝術のない生活はたへられない。生活のない藝術もたへられない。藝術か生活か。徹底は、そのどつちかを撰ばせずにはおかない。而も自分にとつては二つながら、どちらも棄てることができない。/ これまでの自分には、そこに大きな惱みがあつた。/ それならなんぢのいまはと問はれたら、どうしよう、かの道元の谿聲山色はあまりにも幽遠である。/ かうしてそれを喰べるにあたつて、大地の中からころげでた馬鈴薯をただ合掌禮拜するだけの自分である。

 詩が書けなくなればなるほど、いよいよ、詩人は詩人になる。/ だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。/ 詩をつくるより田を作れといふ。よい箴言である。けれど、それだけのことである。/ 善い詩人は詩をかざらず。/ まことの農夫は田に溺れず。/ これは田と詩ではない。詩と田ではない。田の詩ではない。詩の田ではない。詩が田ではない。田が詩ではない。田も詩ではない。詩も田ではない。/ なんといはう。實に、田の田である。詩の詩である。

 ――藝術は表現であるといはれる。それはそれでいい。だが、ほんとうの藝術はそれだけではない。そこには、表現されたもの以外に何かがなくてはならない。これが大切な一事である。何か。すなはち宗教において愛や眞實の行爲に相對するところの信念で、それが何であるかは、信念の本質におけるとおなじく、はつきりとはいへない。それをある目的とか寓意とかに解されてはたいへんである。それのみが藝術をして眞に藝術たらしめるものである。
 藝術における氣禀の有無は、ひとへにそこにある。作品が全然或る敍述、表現にをはつてゐるかゐないかは徹頭徹尾、その何かの上に關はる。/ その妖怪を逃がすな。/ それは、だが長い藝術道の體驗においてでなくては捕へられないものらしい。/ 何よりもよい生活のことである。寂しくともくるしくともそのよい生活を生かすためには、お互ひ、精進々々の事。         茨城縣イソハマにて      山村暮鳥(青空文庫)

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 「藝術のない生活はたへられない。生活のない藝術もたへられない」「何よりもよい生活のことである」という、この「生活」はもちろん、信仰に裏打ちされ、支えられているのであるでしょう。しかし、この「雲」一編を繰り返し読んでいると、暮鳥自身が「雲」であり、自然であることがはっきりしてきます。「雲もまた自分のやうだ / 自分のやうに / すつかり途方にくれてゐるのだ」それを「自然への回帰」というのがいいのか、あるいは「自然との一体化」と言うべきだろうか。
                                                                               

  

丘の上で
としよりと
こどもと
うつとりと雲を
ながめてゐる

  おなじく

おうい雲よ
いういうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平(いはきたひら)の方までゆくんか

  ある時

雲もまた自分のやうだ
自分のやうに
すつかり途方にくれてゐるのだ
あまりにあまりにひろすぎる
涯はてのない蒼空なので
おう老子よ
こんなときだ
にこにことして
ひよつこりとでてきませんか
病牀の詩

朝である
一つ一つの水玉が
葉末葉末にひかつてゐる
こころをこめて

ああ、勿體なし
そのひとつびとつよ

● 山村暮鳥(やまむらぼちょう)(1884―1924)=詩人。明治17年1月10日、群馬県に生まれる。本名土田八九十(はくじゅう)。東京・築地(つきじ)の聖三一神学校卒業。伝道師として東北各地を放浪のかたわら、前田林外らの『白百合(ゆり)』に木暮流星の筆名で短歌を投稿、創作活動を始め、1910年(明治43)人見東明(ひとみとうめい)らの自由詩社に参加、機関誌『自然と印象』に『航海の前夜』その他を発表する。以後『文章世界』『創作』『早稲田(わせだ)文学』などを舞台に、精力的に詩作を続けた。処女詩集『三人の処女』(1913)を刊行後、萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)、室生犀星(むろうさいせい)らと人魚詩社(1914)をおこし、『卓上噴水』(1915)を創刊するなど、文学と信仰のはざまを大きく揺れ動きながらも、生の苦悩と覚醒(かくせい)を基調とした独自の詩風を確立した。おもな詩集にシュールな詩風で知られる『聖三稜玻璃(せいさんりょうはり)』(1915)、「人間」キリストを主題とした『風は草木にささやいた』(1918)、『梢(こずえ)の巣にて』(1921)のほか、『雲』(1925)、遺稿詩集『月夜の牡丹(ぼたん)』(1926)などがある。小説、童話なども手がけた。大正13年12月8日没。(ニッポニカ)

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 拾った命。好きなことをしてみたい

「家族新聞70年」ギネス申請 高知市の松本さん一族、編集長100歳記念号発刊

編集長の松本健夫さん=中央=を執筆メンバーで囲む。おいっ子の孫の女の子=手前=らが手にする「百歳記念号」(写真はいずれも高知市一宮中町の松本さん宅)

 25人が多様な記事

 高知市一宮中町の松本健夫(たてお)さん(100)の一家親族が戦後70年にわたって書き継いだ家族新聞「マスコット」。3年前に休刊していたが、親族が久々に原稿を寄せ、100歳となった健夫さんを祝う記念号を8月に発刊。親族の一人はギネス記録にも申請した。「世界一長く続いたファミリーペーパー」と認定される日は近い?かもしれない。/ マスコットは南方戦線のラバウルから安芸郡和食村(現芸西村)へ帰還し、地域の川柳誌を発行していた健夫さんが「拾った命。好きなことをしてみたい」と、1949年8月に兄弟姉妹や母親、妻らと作り始めた。/ 高知市のほか四万十市、香川、岡山、大阪、北海道など各地の親族や子や孫にも広がり、年数回のペースで休まず発刊。50人以上が日々の出来事や文芸作品、漫画、コラムなどを思い思いに書き、健夫さんの家で冊子に編集。戦後の創刊号から2018年6月まで154号を作った。

(⇦)記念号の表紙や裏は10代の健夫さんの絵が飾る。カラー紙面も配し、「本当に面白くて毎日読んでます」と妻の幸恵さん。手前は平成半ばのマスコット

 「世界で一番長く続いた家族新聞ではないか」と考えた親族の1人はこの6月、英国のギネス・ワールド・レコーズ社に申請。先ごろ同社から、申請の登録が済んだことと、これから正式審査に入る旨の書面が届いた。/ 編集長の健夫さんは4月で100歳になり、妻の幸恵さん(92)と自宅で元気に過ごす。「もしギネスに認められたらびっくりじゃ。戦争から生きて帰って、こんなに続くと思わなかった」

 家族新聞の原点にあるのは草創期のメンバーが共有する戦争体験だ。兄と編集を担った松本紀郎(みちお)さん(92)=高知市東秦泉寺=は「今読み返すと、戦争を振り返る貴重な記録も多い。満州から奇跡的に生きて帰れた乳飲み子たちは、その後大きくなり、マスコットの書き手にもなった。みなの成長、近況を知る便りの場であり、自分を飾らずに出せる場でした」。

 記念号は週刊誌サイズで90ページ。100歳を祝う集まりをコロナ禍で持てず、「一番喜ぶ家族新聞を久しぶりに作ろう」と一決した。/ 小学4年生、大学生から100歳まで25人が寄稿。わが子を巡る爆笑記、母となった日の神秘体験や会社員時代の秘録、ライトな近況報告、時事コラム、戦争や戦後の随想など多種多様の記事を満載。紀郎さんらが編集し、40部を作った。/ 健夫さんは「見てオッと驚いたよ。ようできてます」とさわやかに笑った。(石井研)(高知新聞・2021.08.31)

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 「日記文学」というジャンルが、長期にわたって成立している社会です。おそらく数えきれないほどの「日記」がこの島のいたるところで蓄積されてきたし、今も営々と重ねられていると思います。自分だけの日記、これが本来の用途だったかもしれませんが、その自分の心覚えのような記録を、なんと八十何年も続けてきた方がおられました(このブログのどこかで触れています)。三日坊主の典型として「日記」の継続は困難であることが挙げられますが、理由はそれぞれです。書きたいものがホントにあるのか。とはいえ、人間は何かと「記録」に残したいという、ある意味では深甚な欲求を持っているともいえます。いろいろな人が日記を残しています。現代では、もっとも有名なのは永井荷風でしょうか。

 『断腸亭日乗』はしばしば、いろいろなところで何かと引用されてきました。ぼくも何かの折に、何度も読みだしたことがあります。「断膓亭日記巻之一大正六年丁巳九月起筆 永井荷風」と記して、「日乗」を開始しています。ここまでくると、一つの文学といってもいいのでしょう。偏屈男、四十二年間の時代史でもありました。

〇九月十六日、秋雨連日さながら梅雨の如し。夜壁上の書幅を挂け替ふ。碧樹如烟覆晩波。清秋無尽客重過。故園今即如烟樹。鴻雁不来風雨多。姜逢元等閑世事※(「さんずい+冗」、第4水準2-78-26)。万古滄桑眼底収。偶□心期帰図画。□□蘆荻一群鴎。王一亭先考所蔵の畫幅の中一亭王震が蘆雁の図は余の愛玩して措かざるものなり。
◯九月十七日。また雨なり。一昨日四谷通夜店にて買ひたる梅もどき一株を窗外に植ゆ。此頃の天気模様なれば枯るゝ憂なし。燈下反古紙にて箱を張る。蛼頻に縁側に上りて啼く。寝に就かむとする時机に凭り小説二三枚ほど書き得たり。


◯九月十八日。朝来大雨。庭上雨潦河をなす。
◯九月十九日。秋風庭樹を騒がすこと頻なり。午後市ヶ谷辺より九段を散歩す。
◯九月二十日。昨日散歩したるが故にや今朝腹具合よろしからず。午下木挽町の陋屋に赴き大石国手の来診を待つ。そも/\この陋屋は大石君大久保の家までは路遠く徃診しかぬることもある由につき、病勢急変の折診察を受けんが為めに借りたるなり。南鄰は区内の富豪高嶋氏の屋敷。北鄰は待合茶屋なり。大石君の忠告によれば下町に仮住居して成るべく電車に乗らずして日常の事足りるやうにしたまへとの事なり。されど予は一たび先考の旧邸をわが終焉の処にせむと思定めてよりは、また他に移居する心なく、来青閣に隠れ住みて先考遺愛の書画を友として、余生を送らむことを冀ふのみ。此夜木挽町の陋屋にて独三味線さらひ小説四五枚かきたり。深更腹痛甚しく眠られぬがまゝ陋屋の命名を思ふ。遂に命じて無用庵となす。

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▽ 断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)=永井荷風(かふう)の日記。1917年(大正6)9月16日から死の前日59年(昭和34)4月29日に至る42年間の記録。46年3~6月の『新生』掲載の「罹災(りさい)日録」で注目され、その後『中央公論』などに数次発表、また刊行された。起筆当時の住居「断腸亭」にちなむ命名。傍観者的な眼(め)によって、四季の風物、時勢のようす、風俗の推移、女たちとの交渉の顛末(てんまつ)、読書感想などが記されている。記録者の「偏奇」を貫く強烈な個性が、観察のいちいちに沁(し)み透(とお)っている。しかし、45年(昭和20)3月10日東京大空襲・偏奇館(その後の住居)炎上に始まる罹災日記は、一個の特異な文学者の記録であるだけでなく、国民的体験を写し残したものというべきであろう。[竹盛天雄]『『永井荷風日記』全七巻(1958~59・東都書房)』▽『『断腸亭日乗』全七巻(1980~81・岩波書店)』(日本大百科全書)(右は「日乗」中に挿入されている荷風自筆の挿絵)

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 高知の松本さんたちの「家族日記」は、当初はいざ知らず、ついには一家眷属の「総合雑誌」の感がしてきます。多分、このような種類の記録も、世に知られていないだけで数限りなく残されているし、今もなお記録されているでしょう。実に貴重なことだと思います。これと類似した「記録」に写真があります。まして今日のような誰もがスマホを持つ時代になると、何でもかでも「写」ですから、人それぞれに、自分史家族史友人̪史などを記録していることになります。ぼくの好みから言えば、記録は「文字」に限るとは言わないまでも、文章にはいろいろな余韻が漂うという点で、写真よりも好ましいように思われます。昨日駄文をのこした「徒然草」も、一面では兼好さんの「日記」であるし、「方丈記」もまた長明の日録であるとも言えます。短編長編取り混ぜての文学作品は、その多くは、筆者の「日記」だと理解できなくもありません。それほどに人は「自分の内側」を語りたいだけではなく、他人の目に触れてほしいという願望を持っているのかもしれません。

 理屈はこれくらいにして、「マスコット」の初期は、やはり戦争体験であり、戦友の消息便りでもあったでしょう。「大文字の歴史」などと称して、権威や権力がある意図をもって書く歴史がありますが、とくに「戦争史」になると、読むに堪えないものが多くあるのは理由のないことではありません。「戦事武勲」を求めて、軍人らが記録者に無理難題を要求したという話はよく耳にします。戦争そのものの是非ではなく、己の勲功を競って膨らませるのが「戦史」であったからです。こんなに「優秀な軍人たちがいた」にもかかわらず、なぜ負けたのかという奇怪な事態を招来してきました。大将たちが勲章をもらうための「戦争」だったという、実に怪しからん成り行きだったかもしれません。

 そこへ行くと、「マスコット」に限らず、個人レベルの、戦争体験の記述は、「それなりに正確」であったろうと思われます。たとえ誇張や歪曲があったとしても及ぶ影響は、公的な「戦争史」の比ではなかったのです。この「マスコット」はまた、戦後を一貫した「家族を核とした世代間の精神の交換」ともなったであろうことは容易に想定できます。機会を見つけて、このような様々な立場で書かれた「日記」の読書体験をゆっくり楽しみたいものだと願っているのです。

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<中隊長は開口一番「なんで逃げ帰ったんだ。皆が死んだのだから、おまえも死ね」と言う。体は疲れてフラフラだったが、一日の休養もくれない。それ以来、中隊長も軍隊も理解できなくなり、同時に激しい怒りがこみ上げてきた。>

これは、「水木しげるのラバウル戦記」(ちくま文庫)に書かれた、漫画家の水木しげるさんの回想だ。

2015年に93歳で亡くなった水木さんは、太平洋戦争の最前線であるニューブリテン島のジャングルで、九死に一生を得た経験がある。ゲリラの襲撃で所属部隊が水木さんを残して全滅、命からがら生還したのだ。当時22歳だった。(https://www.huffingtonpost.jp/entry/mizuki-shigeru_jp_5f37817dc5b6959911e4dd57)

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〇総員玉砕せよ!=水木しげるによる漫画作品。ラバウル10万の将兵の捨て石としてバイエン支隊500名が玉砕するまでを描いた、自伝的戦記。描き下ろし作品。講談社から1973年に全1巻で刊行された。副題は「聖ジョージ岬・哀歌」。2009年アングレーム国際マンガ祭遺産賞、2012年アイズナー賞国際賞アジア部門受賞。2007年NHKで「鬼太郎が見た玉砕水木しげるの戦争」のタイトルでドラマが放映された。(デジタル大辞泉プラス)

 戦時下の昭和十五年、内地では「南洋航路」という唄が流行りました。後に「ラバウル小唄」と改題されて、昭和二十年に再発売されました。この時期、現地では死線を彷徨(さまよ)いながら、死地に活路を見出すべくもない、数多の兵士が死に向かって行進していたのです。今なら断言できます、「いい気なもんだ、銃後の連中は」と。銃後の守りとか、「欲しがりません、勝つまでは」という威勢ばかりがよくても、根拠も何もなかった、「空元気」で、内地も殺気立っていたのではなかったか。それを見抜いていても、大ぴらには言えなかった。じつに狂気が充満・沸騰していた時代でした。(昭和二十年、ぼくは「虫けらのような状態」で生かされていた)これを「軍歌」(どうみたって、「お座敷小唄」でしょう)とは言わないでしょうが、ぼくは小学校入学前には口遊(ずさ)んでいたのです。何が、ぼくの受信機に届いたのでしょうか。いまもって、「謎」です。 

(本駄文の「冒頭部」はパプアニューギニアの海中写真)
ラバウル小唄 作詞:若杉 雄三郎 作曲:島口 駒夫

さらばラバウルよ 又来るまでは
しばしわかれの 涙がにじむ
恋しなつかし あの島見れば
椰子の葉かげに 十字星

船は出てゆく 港の沖へ
愛しあの娘の うちふるハンカチ
声をしのんで 心で泣いて
両手合わせて ありがとう

波のしぶきで 寝れぬ夜は
語りあかそよ デッキの上で
星がまたたく あの星見れば
くわえタバコも ほろにがい

赤い夕陽が 波間に沈む
果ては何処ぞ 水平線よ
今日も遙々 南洋航路
男船乗り かもめ鳥
(元歌は昭和十五年の「南洋航路」(作詞・作曲は同じ)

 この「ラバウル小唄」を、ぼくはさかんに歌っていた記憶があります。歌詞も何もわからないままで「椰子の葉かげに十字星 ♪」「 声をしのんで 心で泣いて ♪」などと唸っていたのです。今考えても、ゾッとしますね。空恐ろしいというべきか。ぼくだけがこのような趣味を持っていたのではなかっただろう。周りの大人たちが事あるごとに酒宴を開き、そこで蛮声を張り上げて歌っていたのを、門前の小僧、習わぬ「小唄」を歌うということだったか。あるいは「南の島に雪が降る」という芝居(俳優・加東大介作)によって、その記憶が増幅されたのかもしれません。ぼくはこの芝居を観たように思います。加東さんは沢村貞子さんの弟でした。ニューギニアで戦争体験がありました。戦後しばらくは、この島では「戦時体験」の嵐だったようにも思われてきます。

 その後の水木しげるさんの「ラバウル戦記」が、決定的な影響を多くの人に与えたのでした(初版は1994年)。水木軍曹の描く戦時体験は、およそ「ラバウル小唄」とは似ても似つかない、阿鼻叫喚の世界でした。戦地での全滅を隠蔽するための、内地における「陽動小唄」だったという感が強くしてきます。「侵略」が「進出」に、「全滅」が「玉砕」に、これもまた、なまなましい「歴史改竄」の現場風景であったのです。

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✖ 教科書事件(きょうかしょじけん)=1982年と 1986年に日本の歴史教科書をめぐって生じた日中間の外交事件。1983年から高等学校で使用される歴史教科書の検定(→教科書検定制度)において,文部省が,「華北侵略」を「華北進出」に,「中国への全面侵略」を「中国への全面進攻」に修正させ,南京大虐殺発端を「中国軍の激しい抵抗にあい,日本軍の損害も多く,これに激昂した日本軍は多数の中国軍民を殺害した」と変更させたと,1982年6月に報じられた。これはのちに誤報と判明したが,中国はこの歴史教科書検定の報道をうけて「歴史の真相を歪曲するものであり,同意できない」と抗議し,文部省の検定した教科書の誤りを正すよう日本政府に要求した。この問題は同 1982年9月以後,日本側が教科書を修正するかたち決着をみた。また 1986年,中国は「日本を守る国民会議」が編集した高等学校用教科書『新編日本史』の多くの記述が歴史の事実に反するとして日本に抗議し,修正を求めた。中曽根康弘内閣総理大臣は文部省に再検討を要請し,教科書の修正によって問題の発展は回避された。(ブリタニカ国際大百科事典)

✖ 玉砕(ぎょくさい)=第2次世界大戦中の 1943年5月 30日,アッツ島の戦いで日本軍守備隊が全滅したことを大本営が発表するときに使った言葉。以後部隊が全滅したり,壊滅すると,「瓦でまっとうするより,玉のように美しくける」というの「瓦全」「玉砕」という言葉を用いた。『北斉書』元景安伝から取ったもの。(「寧ろ玉砕すべきも瓦全する能(あた)わず」(同上)

(藤田嗣治画・1943年5月の北太平洋アリューシャン列島「アッツ島における戦闘」を描いた「Final Fighting on Attu」1943年制作)

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 まちがいから生まれるものはなんだ

【有明抄】手を挙げる勇気 梅雨入り後、高校生の娘を車で送ることが増えた。普段より早い朝の街は、いつもとは違って見える。交差点には交通指導の住民が立つ。毎日お疲れさまです。入学式の日、ランドセルに背負われているかのようだった1年生も、だいぶさまになってきた。入学から1カ月半。学校生活には慣れただろうか◆小学校の授業では、先生が「この問題分かる人」とみんなに聞く。多くの手が挙がるが、筆者は答えが分かっても、手を挙げる勇気が出なかった。対照的に、みんなの手が挙がらない時に勢いよく手を挙げ、先生が指名すると「分かりません」と大声で答えた級友がいた◆元教師の蒔田晋治(まきた・しんじ)さんが現役時代に作った「教室はまちがうところだ」という詩を紹介する。「まちがいだらけの僕らの教室/おそれちゃいけないワラッちゃいけない/安心して手を上げろ/安心してまちがえや/まちがったってワラッたり/ばかにしたりおこったり/そんなものはおりゃあせん」といった言葉で子どもたちの学びを応援する◆最初から正解することは少ない。いろんな考え方を認め合い、互いの意見を参考にする中で、正しいと思う答えを見つけ出す◆振り返ると、「分かりません」と言って笑わせた級友にも、自分一人ではなかったと勇気づけられた。安心して間違えていい、そんな教室をつくろう。(義)(佐賀新聞・2021/05/23)

 世の中には「正しい」と「まちがい」のふたつだけがあるのではないでしょう。「瓢箪から駒が出る」ように、まちがいから「正解」が生まれることがあるのです。大発見や大発明なども、多くはまちがいや勘ちがいから生まれたりすることがある。世の中にも、そのようなまちがい・勘違いから、物事の真の姿が現れることはいくらでもある。というより、これが「正しい」と、最初から決められているのは「教師の出題」あるいは各種の「試験問題」ぐらいで、そんなことは滅多に生きているうちに生じることはなさそうです。まちがいというのは、その次の「正しさ」につながるステップ(階段の一段)で、それがなければ次の段に上がれないことだってある。まちがいは人生には欠かせない条件でもあると、ぼくは言いたい。

 黒か白か、「二つに一つ」というのは、まずない、黒に近い白から、白に近い黒まで、さまざまな段階があり、そのどれを黒といい、どれを白というか、時によってことなるのです。昨日の「正答」は今日の「誤答」であり、その逆もまた真であるということを、教室にいる子どもたちが察するというか、直観する、そういうことがあり得るという「感受性」をなんとか育てたいですね。それが教師の導いていきたい、いこうとする方向じゃないですか。宝くじなら、当たりか外れの二つしか想定していないけれど、それは作り事、生きていく中で、ある人の「正しい」は別の人の「まちがい」ということもよくある。また、変な例になりますが、「ところ変われば品代わる」というように、時代や場所によっても、正答と誤答は入れ替わることもあります。つまりは「まちがいは、どこまで行ってもまちい」ではないし、「正しいは、どこまでも正しい」ということでもないのです。この機微(ニュアンス)を獲得(自得)することそこ、生きる知恵につながる大事な能力にもなる。テストで測れない、生の感覚ですね。

 「瓢箪から駒」という、その駒とは馬です。植物の瓢箪から、あり得ないことですが、大きな馬が出るという、あり得ないことも起こるのが生きている世界です。「石が浮かんで木の葉が沈む」というのは、ただ今の、ぼくたちの現実社会です。嘘から出た実(まこと)、これもいくらでもあり得ます。夫婦がケンカをして、ついつい言わなくてもいいこと言ってしまう。「お前なんか大嫌いだ」という口の裏には、死ぬほど好きだという告白というか白状があるのですから、とかくこの世は分かりづらい。「死んでしまえ、お前なんか」、という過激な言葉も、実は死ぬほど好きだという裏の意味が隠されているということもあるでしょう、ぼくは経験したことないけれど。○☓だけで片が付くのは、はおとぎの国のおとぎ話です。だから、今の学校の多くは「おとぎの国の学校」なんでしょうね。

 時に「失敗は成功のもと」あるいは「…成功の母」などと言います。確かにそれは言えるようで、まちがいから正解が生まれることを言い当てているようでもあります。でも、ぼくは敢えて「成功は失敗のもと」と言いたいですね。成功体験というものが、どれほど当人を誤らせることか、成功の味が忘れられないので失敗を重ねる。ういうい調子に乗るんだね。その成功は偶然だったかもしれないし、たった一回だけのことだったかもしれない、とは考えたくない。一度上首尾だったら、その快感が忘れられないというのが人間の常とも言えそうです。「成功の罠」というものがあるのでしょうね。一回の成功は、その度に「ご破算」にするのがいいようです。ぼくはそんな風に生きてきた。というより、「成功」あるいは「失敗)に拘(こだわ)らなかったという気がするのです。

 蒔田晋治さんの「教室は教室はまちがうところだ」を読んでみる。

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 この詩について、何かいうことは無駄でしょうね。何を言わなくてもいい。ここに書かれていることが果たして「まちがい」か、「正しい」か。それともどちらでもない、問題だらけの詩なんだろうか、それは読む人が判断すべきじゃないですか。ぼくのささやかで浅はかな経験、学校経験では「教室はまちがえてもいいところ」「まちえる方が、つまらない正解より、はるかに考える力を求める」ことを知る場所なんだ。なんだか、ぼくはまじめに教室に腰掛けていたような錯覚を自他に与えそうな雰囲気になりかけています。ぼくにとって「教室は入らなくてもいいところ」でした。ある時期から手ぶらで学校に通うことを覚えたし、授業中には眠ってもいいし、弁当を食べてもいい、まるで公園のようであったらいいなあと思ったり、そのようにふるまったりした。もちろん、教師は当たり前に怒った。それでいいんですね。何をしてもいいのなら、あるいはどんなことでも教師が許すなら、それは「教育」ではなく「無秩序」「荒廃」のすゝめでもあるからです。

 まちがえるところは「教室」に限らないでしょう。生きていくというのは「まちがえること」ですから、いたるところに教室が存在すると、ぼくなら考えるし、考えなくてもそうでしょう。まちがることは避けられないし、時にはまちがいとう「薬を飲む」のは大事な一服です。肝心なのは「まちがい」をそのままにしない、誤りに気がつけば、それを自分流になんとかまちがいのもとを探そうという、姿勢というか態度です。だから「教室はまちがうところだ」という詩の核心は「まちがえなければ、何がそうでないのかを考えようとしない」というところにあります。問題を出すのも、答えを知っているのも教師、これが多くの学校でくりかえされてきた「八百長」です。「これ知っている人」と教師は尋ねる、これも八百長です。「知っている人」なら聞かなくてもいいじゃないですか。これが答えだと、誰にもわからないからそこ、授業が成り立つんだと思う。そうでなければ、授業は「八百長」「紙芝居」「無観客の五輪」みたいなもの。本来の姿を失っているのです。

 蒔田さんが力説したかったことは何か。この詩を読んでもよくわかりません。蒔田さんもわかっておられたかどうか。でもこの「絵本」が多くの人々に受け入れられたというのは、いろいろな意味で深く考えなければならないと、ぼくは思っている。だれかが正しいというから、自分は正しいと思い、誰かがまちがいだというから、自分もそうだという、そんな姿勢を破壊するには何が必要か。自分で考える力、判断力はどのようにして育つか。「次の中から正しいものを選べ」などという人を虚仮にしたような問題に神経を摺り減らさない、どこまで行っても答えが容易に出てきそうにない、そんな問題を教師自らが作れなければ、おそらく教師失格ですね。子どももダメになることは確実です。そうならないために大切なことは何か。(この続きは、近々の雑文で述べるつもりです)  

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 まちがったって誰かがよ / なおしてくれるし教えてくれる

  困ったときには先生が / ない知恵絞って教えるで / そんな教室を作ろうやあ

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 かつて遠藤友介という詩人教師がいました

 〔本日の詩、いくつか〕

 傘のない子は はるさめついて 蕗のはかむってはしってこい

 木綿糸(もめど)で ぬうたゴムぐつ けうもはいてきた くつずれ くつまめ すあしがいたいなあ

 子守して行(え)ぐと がっこ厭(や)んだ やんだ 小便たれられ はらまで ぬらされ みんなからからかわれ 

 あすは とほく こもりにやられるといふ おまえ おほきいゴムぐつ あめなかをゆく からかさかたむけ さようなら さようなら さようなら

 すあしで つめたくないかときくと にっこりして あたらしい足袋はかず ふところにしまってるの これとみせられた

 けふも ひるめしに味噌つめてきた マサヲの眼(まなこ)となりの塩引(しおびき)じろじろ にらめながら はしうごかしている          (『遠藤友介歌集』)

 はるかに遠く、「山びこ」はこだました?

 遠藤友介(1907-1955)という教育者がおられました。今ではほとんど忘れ去られてしまった人です。山形県は山元村国民学校の訓導(旧制小学校の正規の教員の称。学校教育法により現在は教諭)(広辞苑)で、敗戦直前には村の「移民推進員」を勤めていました。食糧難と貧困に勝てず、村はこぞって海外移民を模索していたのです。その移民募集係を、教員が担わされていた時代でした。

 遠藤さんは敗戦直後まで同国民学校時代最後の校長を務めていました。その後、山形県教職員組合の委員長を務められて、1949(昭和25)年に亡くなられました。49歳でした。遠藤さんは歌人としても、上に紹介したようなリアルな色彩の強い歌を作られ、経済学者だった大熊信行さんが主宰していた「まるめら」に作品を寄せていたのです。それは戦前のことで、戦争が始まるといっさい歌は作らなくなったそうです。ぼくは、遠藤さんについて調べていました。なかなか資料も見つからず、いい加減に諦めていたのですが、紹介した「歌」に詠まれている子どもたちへの限りない愛おしさ、優しいまなざしに心を奪われ、いまもなお憧憬に近い感情をいだいているのです。

 ぼくの手元に一冊の詩集があります。『遠藤友介歌集』(遠藤友介歌集刊行会編、昭和三十二年刊)編集委員には多くの高名な方の名があります。大熊信行、結城哀草果、真壁仁、須藤克三、その他。県内はいうまでもなく、県外でも仕事を通して知られた方々でした。この人々にぼくはたくさんのことを教えられてきました。

 「遠藤友介はすぐれた教師であった。最後は、新設山形市立第六中学校の初代校長として、創業の困難なしごとに心身をかたむけ、三年間で、みごとに新しい校風をきずきあげたのであったが、二年前の三月なかば、卒業式で生徒にはげましのことばをのべながら仆れてしまった。そして学校の宿直室にはこばれたまま入院もできない重態で、ついに恢復をみることもなく死んだのである。寝食を忘れるほど学校創設に奔走した疲れが大きな原因のひとつと考えられ、その最後を思うと、まことにいたましい殉職であった」「かれの歌のなかでは、清らかな恋愛と、貧しい山村の子供のくらしとが、二つの大きなテーマとなっている。遠藤友介はある時期に、教育と文学とを、みごとに統一されたエネルギーとして生活の中に持つことが出来たのであった」(同書、「まえがき」真壁仁)

 こんな時代に、戦前戦後期の一教師の仕事に思いを寄せようとするのは、流行らないどころか、常軌を逸していると思われるかもしれません。でも常軌を逸しているといわれるようなことをしなければ、この出鱈目な学校教育時代を討つことはできないのではないか。ぼくにはそんな思いが滾っているのです。どこにあっても、戦火の中でも日常生活は止められない。「おはよう」「おやすみ」という当たりまえの生活があるからこそ、人間はそこに、自分の根を張ることができるのです。根を張るための「地盤」、それが教育の土壌です。遠藤さんに代表される生活派の教師は、そこに自らの仕事の核心部を見出していたし、そこに向かって意識を集中させていたというのです。(この項、続く)

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 91歳まで続くとは思わなかった

10歳から81年間書き続けている日記を前に語る北村知久さん=東京都武蔵野市で

 どういう北風の吹き回しか、このところ思い出したように定家の「明月記」を拾い読みしています。大学入試に備えるわけでもなく、研究成果を発表するでもなく、まして定家の親戚筋でもないのですから、それこそ気紛れの思い付きとしか言いようがありません。念のうちに、いつか何かの拍子に無性にあるものが読みたくなるという悪習があるのです。

 ぼくは大学に入った瞬間に、当時岩波書店から出ていた「日本古典文学全集」(全百巻)を衝動買いした。(同時に「筑摩現代文学大系」を全巻揃えた。これは刊行開始早々でしたから、月一冊当てでそろえたと思う)何かはっきりとして目的や当てがあったのではなぃ、もちろん金もなかったのに、「本を読むぞ」という漠然とした気分を入学以来持っていた、それを確かめるつもりだったとしか思われなかった。よくぞ、そんな向こう見ずの、文無し若造に後払いで買わせてくれた大人がいたことに感動しました。図書館には全部そろっていたのに。今もって、その時の「興奮」を肌で感じることができます。いったい値段はいくらだったか、当時は「定価」で買うのが当たり前だったし、古書でという趣味も生活の算段(知恵)もなかった。岩波本、たしか生協の書籍部で分割購入したと記憶しています。

 それが半世紀を過ぎても、今もなお貧弱な書棚の幾段かを占めています。本やレコードだと、それを買った時代がいつでも鮮明によみがえるのですから、記憶装置付きショッピングという、なんか儲けものをしたような気にさえなります。その時は「定価」から「定家」は連想できなかった。百人一首の定家は知っていた。ぼくは京都時代に今出川にあった「冷泉家」ー明月記」が保存されているーの前を何度も通ったことがあり、その先に同志社大学(同級生の多くが在学していた)もあったから、その景色にも親しんでいたのです。後年、古典「明月記」の一部が岡山で発見されたいう報道に驚嘆したことも思い出します。(右下写真 いかにも時代の「ちぐはぐ」が現れている「冷泉家」。前面が今出川通)

 それはともかく、定家は「明月記」という、驚くべき退屈な日記を、十九歳から始めて、なんと六十年も書き綴っていたというのが、若いぼくの肝を冷やすのに十分でした。彼は応保二(一一六ニ)年に生まれ、仁治二(一二四一)年に亡くなっていますから、生涯八十年余の、ほとんどが日記に録されていることになります。(いずれこのことは別の機会に)こんな人は他にいるはずがないと考えてもあながち無理もありませんね。

 だからぼくは、本日の東京新聞に目と耳を奪われたのです。「タヌキの朝帰り」にも目を射られましたが、こちらはコロナ化は人もタヌキも、災難であるのは同じだという詩興がありますが、八十一年の日記継続には「震撼」させられましたと、正直に言っておきます。いるんですね。一を以てこれを貫く、という信念の人が。十歳から始めたといいますが、わが身に照らせば、いったい僕は何をしていたか。一人の野生児として野山を終日駆け回り、ひたすら自然に還ることを希求していたのではなかったか。遊び場は兼好・長明をはじめ、平安鎌倉の早々たるメンバーの足跡も傷跡も鮮やかに残されている都の辺地でした。

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 「花丸の人生」つまった93冊 81年間書き続けた日記帳で振り返る、武蔵野市の91歳北村和久さん

 81年間つけてきた日記は93冊になった。東京都武蔵野市の北村知久さん(91)は、1940年から手帳や日記帳などに日々の出来事や思いをつづっている。戦争と復興、高度経済成長、災害…。自らの目を通して見た時代の断片と、人生の喜怒哀楽がつまったページをめくりながら「当時の記憶がよみがえり、過ぎ去った人生をもう一度味わうことができる」と語る。(長竹祐子)

「生きているうちは続けたい」という北村和久さん

 初めて手にした日記帳は、神武天皇即位2600年を記念した「小学生日記」(博文館)。東京市四谷区(現東京都新宿区)の尋常小学校5年だった10歳のとき、両親に買ってもらったことがきっかけで日記を書き始めた。

 ◆駆け抜けた昭和-平成-令和 軍国少年は良き父に

 軍国少年だった。真珠湾攻撃のあった41年12月8日の日記は、「来た。いよいよ日米戦争!! ああこの日」と興奮した様子で記している。その後も「比島に上陸」「万歳を叫ばずにはいられない」など威勢のいい言葉が並ぶ。北村さんは「当時の雰囲気だと、みんなこうなっちゃうね」と振り返る。45年5月25日、山手空襲に遭った。翌日の日記には、自宅の焼け跡を掘り起こし天をにらむ自身のイラストを描き「敢然と焦土より立て。焼けた物は焼けたんだ」と添えた。

 「生きているうちは続けたい」という北村和久さん 戦後は食糧難に苦しんだ。46年6月21日、「もう明日の米は一粒もない。(中略)ねころんでそっと腹をなでてみると肋骨ろっこつばかり」と骸骨のような自身の姿を描いた。「あのころを経験している身として、おなかがすくってどんなにつらいかがよくわかる」 51年に帝国銀行(現三井住友銀行)に入行し、10年後に32歳で佳子さん(84)と結婚。日記には「男児が誕生した」「パパー、パパーと言った。感激!」などと家族の記録も。

 ◆金婚式の日に東日本大震災 そして日記は82年目へ

 71年7月15日、米大統領が初の訪中を宣言。いわゆる「ニクソン・ショック」だ。2日後の日記は「世界の動きが大きく変わりそうだ。日本はどうなるんだろう」とつづった。 結婚50年の金婚式だった2011年3月11日、東日本大震災が起きた。「東京でも震度5以上の揺れで玄関の扉をあけて立ちすくんだ。(中略)明日もどうなるかわからない」。不安な思いが文面ににじむ。 子どものときから文章や絵が好きだったというが、「日記を書き始めたころは、91歳まで続くと思わなかった」と北村さん。昭和、平成、令和と時代を経て積み上がった日記を前に「奇跡の花丸の人生でした。生きているうちは続けたい」。年が明けると、82年目の日記が始まる(東京新聞・2020年12月6日) 

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 中唐の大詩人白居易(白楽天)(772-846)。ぼくは、これも若さに任せて彼の「白氏文集」を読んだことがあります。ことに「長恨歌」は愛読した。いうまでもなく「玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋もの」で、はたしてわかって読んだのかどうか、今でも怪しい。分かりきらなかったから、余計に興味をそそられたのかもわかりません。その白居易に「劉十九 同じく宿す」と題した詩がある。その詩に、若かった定家が魅かれていたのでしょう。

 紅旗破賊非吾事、黄紙除書無我名。唯共嵩陽劉處士、圍棋賭酒到天明。

 「明月記」中に「世上乱逆追討耳に満つと雖も、之を注せず。紅旗征戎吾が事に非ず」と記す。源平合戦の最中に成人した定家です。清盛が福原遷都をした年(治承四年・1180年)に、「日記」を書き始めます。定家は十九歳でした。殺し合いなんか知ったことかと、政変に背を向けて、官職の多忙の合間に、ひたすら私事に徹する。何を想いい、日記を書き続けたのか。謎ですね、ぼくには。

 今日の定家である、北村さんはどうだったか。軍国少年が、幾星霜を経て九十一歳を過ぎたのです。彼個人にとっては「八十三冊の日記」には感慨深いものがあるはずです。多くの「日記」は他者に読まれることを想定も期待もしていない。だからあけすけに言えば、どんな事柄も細大漏らさず書けるのでしょうが、世間には、そうでない日記もあるようで、ぼくなんかには気が知れないのです。だから、いまでも他人の日記なんかを読もうという趣味がない。永井荷風のものなども大いに評価されているが、それだけ「覗き趣味」を持つ人がいることの証明でしょうか。(このあたりの好悪・機微についても、今後の「明月記」雑記において、愚考の後を書いてみますか)

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