生きた子どもたちと、魂の触れあいをして…

 以下の文章は、戦前戦後を通じて、ある地域・地方を中心して隆盛をみた「生活綴り方」教育界の「重鎮」だった人の文章です。この文章で言われていることは、時代の古今を問わずに、いつでも指摘されることではないでしょう。参考までに言いますと、この著作は今から七十年前に刊行されたものでした。(ヘッダー:http://www.ybc.co.jp/tv/sougatotudurikata/)

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 〔先生の言葉遣い〕

 もしも、意地悪の録音家がいて、先生のコトバを、こっそりと、そっくりそのまま録音したとすれば、どんなことになるのでしょうか。わたくしは、あるとき、こんなことを考えて寒む気をもようしたことがありました。

 ―何なにしてはいけません。

 ―何なにするのはいけないことです。

 ―それはダメです。

 ―しなければなりません。

 ―するものです。

 ―したらいいでしょう。

 ―するように注意しなければなりません。

 ―しなさいよ。

 教師のコトバの語尾というものは、どうして、こうも、禁止や覚悟や命令義務感や道義に関係するもので結ばれるのでしょうかしら・・・・

 あまりにも芸術性に乏しい、概念のコトバのら列とその終結にわれながら驚くということもしばしばありますので、外国映画の画面のすみにかかれる日本語訳のみじかい、気のきいいた文章に、思わず心うたれて、ハッとするというようなこともありました。

 生きた子どもたちと、魂の触れあいをしているところが学校の教室なのですから、どうにかもう少し感動的なコトバのとりかわしを、わたくしたちはできないものでしょうか。このこともまた、わたくしたちの古い型からの解放のために、ぜひ自覚してみたいことだと思われます。(国分一太郎『君ひとの子の師であれば』東洋書館刊、1951年)

 国分さん(1911~85)は山形の出身、もと小学校教師であり児童文学者でもありました。戦前・戦後の「生活綴方」実践の第一人者と自他ともに認めていたひとです。国分さんの指摘はけっして教師にだけあてはまるものではなさそうです。親もそうだし、警察官もそうです。たいていの大人は子どもに対して、そのような口をきくのではないでしょうか。まあ、すべてが命令口調なんですね。ホントにいやになるほどです。

 さらに国分さんはつづけます。

 「また、教師のコトバには、よく「だから」とか、「それだから」とか、「そのために」とかいうコトバが出てきます。けれども、よく聞いていると、そのコトバも、どうして「だから」なのか、何のために「そのために」なのか、どうだから「それだから」なのか、よくわからないことが多いようです。

 つまり、教師たちが、ほんとうにわかっていて、事実をつみかさねて、「それ故に」というコトバを使用していないようなことさえ多いことに気がつくのです。そのくせ、子どもたちに対してだけは、「もっとはっきりといいなさい」とか、「正直にいいなさい」とか、「どういうわけで、そうなのか、よく考えていいなさい」とか、勝手な注文をしているときが多いようです」(同上)

 今だって、このような指摘がなされていますでしょう。親や教師の「常套句」がいくつかありそうですが、ぼくには「静かにしなさい」と「早くしなさい」が「双璧」だと思われます。もちろん、時と場に応じて「静かに」「早く」は必要ですし、それを子どもたちも飲み込んでくれればいいのですが、親や教師の思い通りに、都合よく「早く」「静かに」といかないことの方がほとんどでしょう。だからこの「常套句」が飛び出してくるのです。

 ある時期に、ぼくは国分さんの仕事をまとめて本にしようと原稿を書き溜めたことがあります。その時、よくお会いしていた編集者が、この部分は「事実とは違う」というようなことを繰り返し言われました。Mさんという方で、彼の父親は高名な「生活綴り方教育」の実践家・指導者であり、国分さんの同僚のような方でした。またそのMさん自身も国分さんと親しく、いわば故郷の先輩であり、いつでも親しく語り合うという関係にありましたから、ぼくは国分さんのことを書くのを止めてしまいました。国分さんの著作からの引用に、ことごとく、「あれは違う」「それは事実ではない」というダメ出しが出たのですから、見ると聞くでは大違いだなあと、つくづく考えたことでした。大学生になり、国分さんの書かれたものを何冊か読み、生活綴り方教育というものの歴史や人物(実践家)を知りましたが、その人々の残された「仕事」を明らかにするという作業は、ぼくにとってはいまだに宿題となって、目の前に「放置されて」あるのです。

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● 国分一太郎(こくぶんいちたろう)(1911―1985)=児童文学作家、評論家。山形県に生まれ、山形師範学校を卒業。教員生活中、非合法な組合運動で検挙される。第二次世界大戦後、現在の日本児童文学者協会設立(1946)、日本作文の会結成(1950)に参加する。『の町の少年』(1954)、『リンゴ畑の四日間』(1956)など、民主主義的人間像確立の過程をわかりやすく読みやすい物語で描き、若い作家たちに大きな影響を与えた。また『生活綴方(つづりかた)読本』(1957)などで綴方運動にも主導的役割を果たす。(ニッポニカ)(国分一太郎HP:http://www.hinayusa.net/kokubun/index.php?FrontPage)(左写真:左から巽聖歌・今井誉次郎・滑川道夫らと)(下写真:左は無着成恭氏)

●生活綴方【せいかつつづりかた】=児童・青年,さらには成人にに取材したまとまった文章を書かせることによって,文章表現能力または,表現過程に直接間接に現れてくる知識,技術,徳目,権利意識,意欲,広くはものの見方,考え方,感じ方を指導しようとする教育方法,またその作品,あるいはその運動。大正初期に発生以来,時代,指導者の違いにより,どこに力点を置くかが異なってきた。その原型をうちだしたのは芦田恵之助鈴木三重吉,小砂丘(ささおか)忠義など。昭和初期の小砂丘以後の運動は,秋田県の成田忠久ら東北地方の教師たちの北方教育運動等と呼応,綴方生活指導を通じて子どもの生活・学習意欲をつちかうことをめざし,生活綴方運動と呼ばれた。1929年10月に,運動の母胎となる雑誌《綴方生活》創刊。その伝統は戦後に継承され,1951年3月刊の無着成恭編《山びこ学校》や国分一太郎著《新しい綴方教室》はその再興といわれた。(マイペディア)

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 国分さんの指摘を待つまでもなく、他者(自分以外と)とていねいに話をすることは、殊の外むずかしいようです。おそらく、それはきっと、自分と話すことを十分にしていない結果だと思っています。つまりは、「自問自答」の欠如ですね。ぼくたちは、いつでも「決まり文句」「陳腐な表現」などを、まるで速射砲の連弾のように発射しています。それで不都合がないと考えているのですが、じつは問題があるのだということに気が付かないだけなのですね。やたらに早口で話すのが得意な人がいますが、はたしてそれらの言葉は、十分に吟味されて(探し求めて)使われているかどうか、実に怪しいものです。繰り返し、この駄文でも言ってきましたが、「人間は言葉からできている」ということを、今一度、腹の底から徹底して納得したいものだと痛感しています。どなたとも、言葉を吟味して、吟味した言葉によって「話す」(それが「話す」ということです)、それこそが「暴力」を生まない最良の方法であり手段ではないでしょうか。相手が犬であれ猫であれ、そうありたいと、日々苦労しています。果たして、この「苦労」の実る時が来るのでしょうか。「問答無用」は、言語使用(言葉遣い)において不自由している人間の「常套句」「クリシェ( cliché)」=常套手段なんですね。

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 書かせるべきですね、子どもに作文を。

 <あのころ>「山びこ学校」刊行 無着成恭氏指導の文集 1951(昭和26)年3月5日、無着成恭編「山びこ学校」が出版され反響を呼んだ。山形県・山元中学校の生徒43人が貧村に生きる家族を克明に記録した「生活つづり方」文集。戦後民主主義教育の典型と評価されベストセラーに。映画にもなったが、地元の恥をさらしたと批判され無着氏は村を去った。(共同通信・2022/3/5)

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 「やまびこ学校」が出版されてから、すでに七十年が過ぎました。これまでにもいろいろと批判の的になってきたともいえますが、今からみて、いったい「やまびこ学校」とは何だったのだろうという視点が必要になってくるともいえます。ぼくは、「教師の真似事」を始める前から、この実践記録は知っていました。単純に、いいとか悪いとかいうことができない問題を含んでいるという感想を抱いていました。戦後の「劣島総貧乏」時代、それも山形県の山中の寒村での教育実践、しかも、それが師範学校を出たばかりの若い教師によって達成されたというので、多くの関心を集めたことは事実でしょう。新制中学校(「九年間の義務教育」が実現したのです)という「初めての現場」で、破天荒ともいえる教室運営を行い、これまでに見ることのできなかった「新しい教育」がそこに花開いたというような、もろ手を挙げて受け入れる風潮があったと、ぼくは考えています。一青年教師は、大げさではなく「時代の寵児」となってしまったのです。

 さらに言えば、教育・実践というのは、一人の教師と子どもたちの交わりの中で生じる、両者の共同作業であり、それは一面では「たった一回きりの出来事」でもあるのです。新米教師が三年かけて作り上げた子どもたちとの共同作業、それが「やまびこ学校」でした。その文集の中には、たしかに貧しい家の事情が赤裸々に描かれていた。それに対する強い批判があったの当然でした。しかし、それを超えて、この無着さんの仕事が評価されたのは「民主主義と教育」という積年の課題に対する一つの、疑いようのない解答であったという、多くの関係者の賛同が、思わない反響を呼んだということもできそうです。

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◎ 無着成恭【むちゃくせいきょう】=教育家,僧侶。山形県生れ。山形師範学校,駒沢大学仏教学部卒業。1948年山形県山元村立山元中学校教師となり,生徒の生活記録文を編集した《山びこ学校》を1951年に刊行し,生活綴方再興と評された。1956年私立明星学園勤務,1970年《続・山びこ学校》を刊行した。1983年千葉県の曹洞宗福泉寺住職。〈新教育〉に基づく社会科学習の非現実性を批判するなど独特な教育評論でも知られ,著書に《無着成恭の授業》(1982年),《無着成恭の昭和教育論》(1989年)などがある。1927年生まれ。(マイペディア)

◎ 山びこ学校(やまびこがっこう)=中学生の生活記録集。無着成恭(むちゃくせいきょう)編。1951年(昭和26)青銅社(1956年『新版・定本山びこ学校』百合出版刊)。山形県山元村(上山(かみのやま)市)山元中学校の学級文集『きかんしゃ』の作品を中心に編まれた実践記録文集で、学級全員43名の散文、詩、日記、版画などが収められている。日教組文集コンクールで文部大臣賞を受賞した江口江一の作文『母の死とその後』などが代表的。貧しい山村の実生活のなかで、子供たちが感じる疑問を率直に取り上げ、学級で話し合い、ときにはデータを調べて書いたもので、担任の無着成恭は「あとがき」で「私は社会科で求めているようなほんものの生活態度を発見させる一つの手がかりを綴方(つづりかた)に求めた」「貧乏を運命とあきらめる道徳にガンと反抗して、貧乏を乗り超えて行く道徳へと移りつつある勢いに圧倒され」たと述べている。綴方を書くことによって自分たちの貧しい生活や現実社会に対する鋭い洞察力と論理的な思考力を養い、豊かな村づくりを目ざして率直に自分の考えを述べ合う子供たちを育て上げたところに、綴方教育を超えた人間教育があったと評価され大きな反響をよんだ。生徒の一人佐藤藤三郎(とうざぶろう)(1935― )は農業問題評論家、地域のリーダーとして活躍。(ニッポニカ)

◎ 山びこ学校=1952年公開の日本映画。監督:今井正脚本八木保太郎、撮影:伊藤武夫。出演:木村功岡田英次金子信雄、和澤昌次、河崎保、西村晃、杉葉子ほか。教育者、無着成恭による中学校の学級文集『山びこ学校』を題材とするヒューマンドラマ。(デジタル大辞泉プラス)

 上の記事によると、「地元の恥をさらしたと批判され無着氏は村を去った」ということになっていますが、その要素はあったことは間違いないでしょうが、それ以上に、無着という青年教師は、山中の学校は自分の活動の場ではない、あるいは世界が狭すぎると考えて、思い切り羽ばたきたくなったのではなかったか。そんなに単純な話ではないことはわかった上で、田舎にとどまることができない情念が無着さんの心中に生じていたのでしょう。当時の生徒たちの何人かが、異口同音に「先生は、俺たちを捨てた」というような発言を残しています。これと同じようなことが、ずいぶんと後になって、関西のある地域の小学校教師についても起こったと、ぼくはみています。

 これもどこかで触れましたが、灰谷健次郎さんは苦労されて教師になった。神戸だったかの小学校教師になり、優れた実践を記されました。ぼくも彼からはいろいろと教えられた。時期的に、鹿島和夫さんと重なっていました。子どもたちも心を開き、灰谷さんに、安心して寄りかかっていた、そんなときに、彼はいくつかの理由をあげて「教師を辞めた」のです。その時、一人の子どもが「先生、何すんねん」といった。子どもを二階に挙げておいて「はしご」を外したんやな、そう言いたかったのでしょう。灰谷さんには積年の願望があった、それは作家になること。それを果たしたおかげで、ぼくたちは彼の残した多くの作品を読むことができました。

 では、無着さんの年来の宿願は? これについて、ぼくがとやかく言うことではありません。その後の彼の描いた「軌道」を丁寧に眺めれば、あるいは見えてくるかもしれません。ただ、灰谷さんについても、無着さんについても、同じような教育実践に対する思いがあったように、ぼくには想像されます。わかりやすく言えば、骨身を削るような仕事、同じことは二度と不可能」、そんな教育に対する深い感慨があったのではないでしょうか。

 「やまびこ学校」という教育、子どもと教師の共同作業は、たった一回限りの、あの時期の、あの学校でしか生まれるものではないことを、当たり前ですが、無着さんは知っておられた。だから「逃げた」のか、「村を追い出された」のか、それは受け取る側の判断によります。ある意味では逃げたのであり、一面では「村におられなくなった」ともいえますが、さらに言うと、彼はもっと広い世界、それが東京であったのは偶然だったかどうか、つまりは「新天地」を求めたのです。山元村という狭い村の教育に渾身の力をふるって、無着さんは思いのほか、素晴らしい実践ができた。彼は村の「土俵(教育の現場)」が褪せまいとみなし、もっと広い土俵で勝負を懸けたかったのでしょう。ぼくに言わせれば、どこであろうと「土俵の広さ」=教育の難しさは変わらないものであることを、まさか失念していたのではなかったと思います。しかし、無着先生は故郷を後にして、再び戻ろうとはしなかった。

 その後の彼の仕事に、ぼくは長く関心を持ってみてきました。しかし、彼の中にあった「夢よもう一度」は生み出されなかったのです。「夢」とはなにか? 東京という都会における「やまびこ学校」の再現ではなかったか、ぼくはそんな間の抜けた推測をしていました。しかし教育が成り立つ(成り立たない)条件が、あまりにも違いすぎたということではなかったか。ぼくなりに、無着先生の「悪戦苦闘」の姿を見ていました。思うに任せない、周囲の無理解もあったのでしょう。彼は現場を放棄して、別の道を歩き出したのでした。今の時代に、願わしい教育は不可能だという、そんな感想めいた発言が近年の無着さんの口から出ていたように思います。その言辞は、何を意味しているのでしょうか。 

 子供の心見える 綴方のススメ(略)以前、TBSラジオの「全国こども電話相談室」の回答者をしていましたが、平成に入った頃から子どもたちの質問がつまらなくなった。問題意識を持たない子どもが増えたからでしょう。例えば、家にいてもスイッチを押せばすぐに電気がつくが、なぜそうなるのか大事なところは全部壁の中に隠されている。内部構造を知らなくても、スイッチ一つで自分が望む状況にできる。そうした環境が疑問を持たない子どもを生み出しています。
 生活綴方は内部構造を見えるようにする教育です。今の日本の教育は、子どもを機械の部品のように育てるシステムになっている。
 私たち坊さんは人間を「じんかん」と読みます。人と人との間、つまり関係が人格を作るんです。でも今は、子どもとさえも関係を築けない親が多い。
 ヒトは犬や猫と違い、人格を持つ「人間」になれますが、餓鬼にもなる。犬や猫は欲望が満たされればそれでおしまいですが、ヒトは死んでからも財産を残そうとするなど徹底的に欲求を満たそうとする。金もうけして何が悪いと言った投資家がいましたね。日本の教育は今や餓鬼を大量生産するシステムになっている。餓鬼にならないためには何をすべきか、人間になるにはどうしたらいいのかを考える力をつけるのが綴方なんです。
 綴方に取り組む教師が減っているそうですね。教師が忙しくなりすぎているし、個人情報にうるさくなり、子どもに家庭のことを書かせづらくなったのもあるでしょう。「山びこ学校」ができたのもあの時代だったからで、家庭のしんどい部分が全部暴露されている。たまに読み返しますが「オレはここまで書かせたのか」なんて思うこともあります。
 でも、心ある教師は綴方をやるべきです。作文を書かせることで、子どもがどんな気持ちで生活し、授業を受けているのか見えてくる。「そんなこと考えてたのか。ごめん、ごめん」と謝りながら作文を読む。子どもの気持ちが見えないと自分の側からしか言葉を発することができない教師になってしまう。
 書かせるべきですね、教師は。子どもに作文を。(朝日新聞・2016/04/24)(http://www.asahi.com/area/osaka/articles/MTW20160425280700001.html)

「内部構造を知らなくても、スイッチ一つで自分が望む状況にできる。そうした環境が疑問を持たない子どもを生み出しています」「生活綴方は内部構造を見えるようにする教育です。今の日本の教育は、子どもを機械の部品のように育てるシステムになっている」「日本の教育は今や餓鬼を大量生産するシステムになっている。餓鬼にならないためには何をすべきか、人間になるにはどうしたらいいのかを考える力をつけるのが綴方なんです」「心ある教師は綴方をやるべきです。作文を書かせることで、子どもがどんな気持ちで生活し、授業を受けているのか見えてくる」

 無着さんの「片言(かたこと)」「片言隻語(へんげんせきご)」に類する言辞をとらえて、何か批判をしようというのではないのです。無着さん自身が、「やまびこ実践」とは、時代や環境の質的な違いとでも言いたいような変貌を知悉しているからこそ、学校教育や教師にないものねだりをしているのです。まるで、ぼくでもいえそうな「空想的教育実践論」を述べておられるのではないでしょうか。教師たちの苦しみがどこにあるか、時代や環境と、両親を持って闘うには、まったく条件の悪い立場に追い込まれているのです。もちろん、この時代に「やまびこ学校」が無用であるとは言えません。それどころか、汲めども尽きせぬ「泉」のように、暗示は無尽蔵にあると、ぼくは考えています。その「泉」から何をく汲み出すか、それこそが個々の教師、そして教師集団にかかっているのだと言いたい気が、いつだってぼくの中に募っているのです。

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 だから ぼくはとうだいのこどもです

 【斜面】せんせいあのね「わたしのせんせいはてつぼうを/10かいさせます/せんせいは/いっかいもやりません」。小学1年生の鋭い指摘に担任だった鹿島和夫さんは苦笑しただろう。家で詩を書いて先生に渡す「あのね帳」は子どもが心を開いてゆく窓のよう◆昭和50年代半ばの神戸の小学校。鹿島さんは「あのね帳」の詩を集めて、教室で撮った写真と合わせて「一年一組せんせいあのね」という本にした。当時も子どもたちが背負う事情はさまざま。悲しい話もあるけれど、学級には確かな結び付きが見える◆全国の公立校で今、教員が足りないという。休職者が増えて、補充も難しい。県内は昨年4月時点で5人の不足だ。そもそも教員志望の人が減った。かつて県内で2千人を超えた小中、特別支援学校の志願者は今春採用の試験で1500人を割り、倍率は小学校で3倍を下回った◆保護者からの相談、時に不満や苦情に対応し、長引く会議や教材準備…。指示される作業は増えて、労働時間は長い。心を病み休職する人は全国で5千人も。先生が疲れて子どもの心の窓もよくのぞけない教室から、先生に憧れる子が出てくるだろうか◆「あのね帳」で一人一人を見つめ、教師からの一方通行でない関係が成立した―。鹿島さんは子どもと学び合うことを尊んだ。今春、高校を含め県内で約530人が新たに採用される。初めて教壇に立つ人もいる。「せんせいがんばれ」。あえて教職に進む人たちに敬意とエールを込めて。(信濃毎日新聞・2022/02/03)

 「信毎」は一つの理由で(それだけでは決してないのですが)、とてもよく知られた新聞です。ぼくも、人並みにこの新聞を読むことが多かった。とりわけ信州に縁あがるわけでもなかったが、しばしば登山やスキーに出かけたり、友人や知人が当地の出身だったということもあって、他の地域より、ぼくには親しい土地でした。また、後輩で教職についている人もかなりいました。この「斜面」も何十年も前から読んでいました。ある時期、少し読まないでいるきに「斜面」が紙上から消えていた。その穴埋めではなかったでしょうけれども「考」というコラムが続いていた。ぼくにはなじめなかったのは、長野の現実を知らなかったからかもしれない。そうこうしている内に、最近になって「斜面」が復活した。右の表紙写真は「斜面」担当者だった方の著書です。「生きるって素晴らしい」といえる、いいたい、いおう、そんな「コラム」担当者の意気というか使命感が書かせた本だろうと思います。読んで元気になる、気分が改まる、それが活字を読む理由の上位に来るのではないですか。知識や情報を得るというのは、ぼくには二の次で、やはり書いた人の心や吐息、心意気が感じられるものを読みたいと願っているのです。新聞の「コラム」は、まさしく、その注文にかなう機会の多い読み物です、ぼくにとっては。だから「当たり外れ」は当然あります。

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 さて、久しぶりに鹿島和夫さんの名前を目にしました。ご健在なのかどうか。ある時期まで、この人や、早くに亡くなった灰谷健次郎さんに、ぼくは教育という「畑」、「土」の匂いをかがせてもたったと思っています。教室という畑にはいろいろな種がまかれ、それぞれの時期を得て成長し実をつけ花を咲かせる、それが教師の仕事だったといいたのですが、思いは半ば、花も実もつけないままで、その土地(畑)では枯れてしまった種子もあったでしょう。しかしまた次の畑ではどうなるか、それは誰にもわからないことです。「教育の可能性」ということをしばしばいわれるのですが、それはどんなことを指しているのか。いつだって、育とうとするし、育ちたがっている「種」は、自己生育は困難で、他人の助力を求めるものです。教育の可能性という表現は、本人と教師(他人)との合作の行方を含んだ言い方だったでしょうね。農家の人にとって、育てやすい野菜もあれば、なかなか苦労するが、そのわりにはうまくいかないものもあるでしょう。教師の仕事がそれとそっくりだと言うつもりはありません。しかしよく似ているのは、その種(可能性)にあった地味や土壌の性質を、できるだけ生み出そうとする、整えるところではないですか。この種は「ここには合わん」と植えつけることを捨ててしまってはおしまいです。野菜ならまだしも、それが子どもであれば、…。そんなことを根っ子の方から教えてくれた(ぼくが学んだ)のが鹿島さんや灰谷さんたちの仕事でしたね。

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 「一年一組 せんせいあのね」はどれだけ繰り返し読んだか。その内容は読んで感じ取っていただきたいですね。ぼくはこの本からも学んだし、本の背後にあると想像できた「鹿島和夫」という、生きている書物からもたくさんのことを得たと言えるでしょう。その何ほどを実際の場面で自分の仕事として生かせたかは、実に心もとないのですが、確かに「教育の手ごたえ」を感じ取ったのです。その時期、鹿島さんほぼ同期だった灰谷さんからも同じようなことを得た。彼は年来の志だった、小説家になるために中途で教職を辞したが、生涯「学び続ける」という姿勢を貫こうとしていたと言えるかもしれません。晩年に、ぼくの後輩が沖縄まで彼を訪ねて行った際の話を、しばらく後で聞いたが、文学よりも教育の方が彼の生き方には見合っていたのになあ、そんな感想を持ちました。(それはまた、別の話です)

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 鹿島さん(灰谷さんも)が、相当な貧乏であったことは、教に生活に不可欠な要素を、彼に与えたのではなかったか。軽々には言えませんが、裕福であったり、稼ぐ苦労がいらない人に、教職は向いていないというより、その境遇に見合うような職業ではないと、ぼくは感じてきました。自分から進んで「貧乏」になることは無駄ですが、いつでも、どこかに足りない部分、手に入れられないものを持っていないようでは、教職の大事な部分が見えなくなるような気がするのです。そのことは鹿島さんや灰谷さんたちの仕事ぶりを、あるいは、それ以前の先達(とくに「生活綴方教育」の教師たち)の経験を見ていると、ぼくにはそのように思われてくるのです。それは何か。鹿島さんのように、子どもたちの目線でとか、子どもの位置に立つという無理がいらない、自分の目の届く範囲で子どもたちが存在しているという意味です。子ども目線が何であるか、ぼくにはわかりませんが、子どもが困るのと同じ困難を肌で感じることができる、そんな物心両面の経験があるということです。

(記事は神戸新聞に連載されたもの。2013年1月~2月)

 彼らの時代からみれば、学校や教室は、はるかな場所にまで動いてきたようです。まるで学校という場所から受ける「印象」は様変わりしたと言えます。それは当然のことであり、だれにも、どうしようもない「時の変化」です。時の移り変わりに、無駄な抵抗をすると「時代遅れ」となり「時代錯誤」と非難されます。だから、いつでも時代の要請や要求に歩調を合わせることは必要でしょうが、それを認めたうえで、「子どもの教育」という仕事で何が肝要なのか、それはそう簡単に「時代の変化」に見合ったものでもないと言えます。時代に合わせる「教育」というのは、わかりやすい表現でいえば、それは一種の流行に流されているだけであるともいえるもので、その変化や流行に動かされないもの、表面には見えにくい深部に、いつの時代にも「成長を待つ「素質」というものがあり、それを育てる、あるいはそれを踏みつぶさない、そんな繊細な心配りが、教師には大切なのではないでしょうか。ぼくは鹿島さんから、強く感じ取れるのはそのことでした。「せんせいあのね」と、子どもたちはいつでも教師に語り掛けたのですね。確かこれは鹿島さんの言葉だったようにも記憶しているのです(あるいは別の人も同じようなことを言っていたが)。

 「子どもにとって、いい先生というのは、いつでも子どもが手紙を書きたくなる」、そんな先生なんだと。表現は違っていたが、「一人でいる時、先生はなにをしてるかな」「風呂に入っていると、先生はどうしてるやろ」と、心のどこかに先生が住み着いているというものでした。確かに、そのような気持ちを持つことができる人間というのは、そんなにいないでしょうね。灰谷さんが学校(教師)を辞めると知った時、何人かの子どもたちが「何すんねん、俺たちを放っておくのか」といったそうです。裏切られたと感じたのでしょうか。子どもたちから、そんな言い草が出るのも、一面では教師冥利に附合するともいえますが、やはり貫徹しなかったのはどうしてかという疑問が、ぼくにも残りましね。これはあくまでも個人の判断でしたから、他者がとやかくは言えないことです。

 「今春、高校を含め県内で約530人が新たに採用される。初めて教壇に立つ人もいる。『せんせいがんばれ』。あえて教職に進む人たちに敬意とエールを込めて」とコラム氏。激励を送るというのですね。でもどうなのかな、なんで「せんせいがんばれ」なのか。「あえて教師になる」というからには、なかなか容易ではない職業を選んだというりかいはもっておられます。しかしいったい、何を頑張るのか。挫折しないようにがんばれや、こどもに負けないようにがんばれや、というのか。とにかく、「がんばれ」が多すぎますね。子どもを育てるのに「がんばれ」はないですね。それこそ、ゆっくり歩こう、アンダンテで。(ここでいうことではありませんが、念のために。「せんせい あのね」は子ども(たち)と鹿島さんの共同作業が生み出した作品です)

 「鹿島さんは子どもと学び合うことを尊んだ」というなら、「がんばれ」ではなく、子どもと歩こうよ、そういったら、どうですか。(お節介のようですが、いわずもがなの一言を。思わず飛び出す「がんばれ」が目に余ります)

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 雲も自分のやうに途方にくれてゐるのだ

 【有明抄】天上界の怒り 秋の空には鰯(いわし)や鯖(さば)が泳ぎ、羊もいる。倉嶋厚さん監修の『風と雲のことば辞典』を開くと、秋に限らず、さまざまな雲の呼び名が載っている。人は空を見上げて天候を読み、形や流れを変える雲の様子に想像を膨らませた◆詩人の山村暮鳥は〈おうい雲よ〉と呼び掛けたが、歌手の武田鉄矢さんも「雲がゆくのは」で歌った。〈きっとどこか遠い国で僕よりつらい心の人がいるのだろう/おーい雲よ/僕はいい/我慢できるよ/その人の瞳に浮かんでくれ〉と◆この歌は映画「ドラえもん のび太と雲の王国」(1992年)の主題歌だった。のび太君たちが迷い込んだ天上界は地上の大気汚染に苦しみ、人間や動植物を避難させた上で大洪水を起こし、文明を破壊する計画を進めていたという設定。30年前の作品だが、近年の気候変動による大雨を予見したような話である◆快適な生活が天上界にどんな影響を与えているのか。「温暖化のおかげで北海道のコメがうまくなった」と発言した政治家がいたが、天上界が聞けば怒り心頭だろう◆気候変動に関する国連会議COP26が英国で開かれている。岸田文雄首相も出席した首脳会合では、各国が温暖化対策の前進を強調した。秋空の雲は穏やかな印象だが、天上の異変は続いている。地上の一人として、快適、便利の代償に思いを寄せたい。(知)(佐賀新聞・2021/11/09)

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 倉嶋さんのお名前が出てきました。懐かしさと同時に、ぼくが気象というか天気のあれこれに興味を持つきっかけをくださった方として、忘れがたい。さらに長期間、「うつ病」を罹患されていたことも、倉嶋さんの想い出と密接に結びつけられています。さいわいに、というべきか、ぼくは「うつ病」になったことがない。「あんたは先ずならないよ」と、誰彼となく言われてきましたが、内心では「あるいは、…」という気分に襲われないでもないのです。温厚そのものだったような倉嶋さんです。気象庁の予報官を務め、各地の気象台に勤務して退官。その後、ある放送局の気象解説をされていた。ぼくは、この時に気象の基本について丁寧に説明(解説)される倉嶋さんに、とても関心を寄せていたし、好感を持ちました。

 昔から、理由は不明でしたが、「天気」に関してはなにかと気になっていた。朝焼けや夕焼けをみて翌日の天気を占ったり、気温や湿度などの加減にも神経を使うようになった、そのきっかけけは何だったか。ひょっとして、外遊び専門の子どもだったから、天候の加減はいつも気になっていたのかもしれない。ぼくの印象を言えば、倉嶋さんは、いわば「文人」だったと思う。粋だったんですね。少年の頃、ぼくは輪島測候所に遠足だったかで訪問し、いろいろな機器が天気(気象)を観測しているのに驚いた。まだまだ、「予報」の当たり外れが多かった時代です。やがて「ひまわり」が打ち上げられ、格段に観測の精度は上がったと思います。倉嶋さんの時代から、今はだれもが気象予報士になる時代になりました。大金には五万という(というのは大げさです)気象衛星が各国によって打ち上げられ、地球にさまざまな情報を送信しています。日本劣島近くに接近する台風の進路予想も、各国のものが当たり前に比べられることが出来るのです。確かに便利、でも「便利は不便」でもある。まるで車の運転にカーナビが果たすのと同様の役割を、「気象衛星」が果たしているのです。ぼくたちは、自然現象に関心を強く持っているのか、その反対なのか。

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● ひまわり=日本の気象衛星。1977年7月14日米国のケープ・カナベラルから打ち上げられた1号は日本最初の静止気象衛星となった。以後1981年2号,1984年3号,1989年4号,1995年5号,2005年6号,2006年7号,2014年8号がいずれも種子島宇宙センターから打ち上げられた。(マイペディア)(上の写真は日刊工業新聞:2017年7月14日より)

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 お天気キャスターの倉嶋厚さん死去 エッセイも人気

 気象庁主任予報官を務め、気象キャスターの先駆けとして活躍した倉嶋厚(くらしま・あつし)さんが亡くなったことが4日、分かった。93歳だった。/ 長野市出身で、気象庁に入庁後、札幌管区気象台予報課長や鹿児島地方気象台長を歴任。定年退職後はNHKの解説委員として「ニュースセンター9時」の気象キャスターを担当し、エッセイストとしても人気を集めた。/ うつ病を克服した自らの体験を記した著書「やまない雨はない~妻の死、うつ病、それから…」はドラマ化されるなど話題を集め、自殺防止を呼びかける講演活動に力を注いだ。朝日新聞の連載「患者を生きる」でも自身の体験を紹介していた。(朝日新聞・2017年8月4日 19時55分)

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 本日山村暮鳥さんについて少しばかり雑感をと、駄文を始めました。日本の詩人の中でも、けっして「本流」でもなければ「傍流」でもない、いわば、詩の世界(あるいは詩壇か)からは屹立して生きた詩人だったように、ぼくは考えています。わずかに四十歳で死去。結核にのために茨城の地で療養、そこで「雲」編纂中に最期を迎えたという詩の刊行はその翌年でした。この先どういう仕事をされたか、見当もつかない生き方を求めていたと、あまり確かな根拠もなく、ぼくは言いたい気分です。信仰と芸術、いわば「大正自由主義」の時代の波を真正面から受けて、斬新な詩と敬虔な生活を交わらせようとしていたのかもしれません。でも、「雲」を読むと、そこには、ゆったりとした、あるいはおおらかな、自然への賛歌が読みとれるようにも思えるのです。自然への賛歌が、そのままで「信仰」になっているようにも見受けられてくる。

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HHHHHHHHHHHHHHHHHHH

       雲                            山村暮鳥

  序

 人生の大きな峠を、また一つ自分はうしろにした。十年一昔だといふ。すると自分の生れたことはもうむかしの、むかしの、むかしの、そのまた昔の事である。まだ、すべてが昨日今日のやうにばかりおもはれてゐるのに、いつのまにそんなにすぎさつてしまつたのか。一生とは、こんな短いものだらうか。これでよいのか。だが、それだからいのちは貴いのであらう。/ そこに永遠を思慕するものの寂しさがある。

 ふりかへつてみると、自分もたくさんの詩をかいてきた。よくかうして書きつづけてきたものだ。
 その詩が、よし、どんなものであらうと、この一すぢにつながる境涯をおもへば、まことに、まことに、それはいたづらごとではない。/ むかしより、ふでをもてあそぶ人多くは、花に耽りて實をそこなひ、實をこのみて風流をわする。/ これは芭蕉が感想の一つであるが、ほんとうにそのとほりだ。/ また言ふ。――花を愛すべし。實なほ喰ひつべし。/ なんといふ童心めいた慾張りの、だがまた、これほど深い實在自然の聲があらうか。/ 自分にも此の頃になつて、やうやく、さうしたことが沁々と思ひあはされるやうになつた。齡の效かもしれない。

 藝術のない生活はたへられない。生活のない藝術もたへられない。藝術か生活か。徹底は、そのどつちかを撰ばせずにはおかない。而も自分にとつては二つながら、どちらも棄てることができない。/ これまでの自分には、そこに大きな惱みがあつた。/ それならなんぢのいまはと問はれたら、どうしよう、かの道元の谿聲山色はあまりにも幽遠である。/ かうしてそれを喰べるにあたつて、大地の中からころげでた馬鈴薯をただ合掌禮拜するだけの自分である。

 詩が書けなくなればなるほど、いよいよ、詩人は詩人になる。/ だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。/ 詩をつくるより田を作れといふ。よい箴言である。けれど、それだけのことである。/ 善い詩人は詩をかざらず。/ まことの農夫は田に溺れず。/ これは田と詩ではない。詩と田ではない。田の詩ではない。詩の田ではない。詩が田ではない。田が詩ではない。田も詩ではない。詩も田ではない。/ なんといはう。實に、田の田である。詩の詩である。

 ――藝術は表現であるといはれる。それはそれでいい。だが、ほんとうの藝術はそれだけではない。そこには、表現されたもの以外に何かがなくてはならない。これが大切な一事である。何か。すなはち宗教において愛や眞實の行爲に相對するところの信念で、それが何であるかは、信念の本質におけるとおなじく、はつきりとはいへない。それをある目的とか寓意とかに解されてはたいへんである。それのみが藝術をして眞に藝術たらしめるものである。
 藝術における氣禀の有無は、ひとへにそこにある。作品が全然或る敍述、表現にをはつてゐるかゐないかは徹頭徹尾、その何かの上に關はる。/ その妖怪を逃がすな。/ それは、だが長い藝術道の體驗においてでなくては捕へられないものらしい。/ 何よりもよい生活のことである。寂しくともくるしくともそのよい生活を生かすためには、お互ひ、精進々々の事。         茨城縣イソハマにて      山村暮鳥(青空文庫)

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 「藝術のない生活はたへられない。生活のない藝術もたへられない」「何よりもよい生活のことである」という、この「生活」はもちろん、信仰に裏打ちされ、支えられているのであるでしょう。しかし、この「雲」一編を繰り返し読んでいると、暮鳥自身が「雲」であり、自然であることがはっきりしてきます。「雲もまた自分のやうだ / 自分のやうに / すつかり途方にくれてゐるのだ」それを「自然への回帰」というのがいいのか、あるいは「自然との一体化」と言うべきだろうか。
                                                                               

  

丘の上で
としよりと
こどもと
うつとりと雲を
ながめてゐる

  おなじく

おうい雲よ
いういうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平(いはきたひら)の方までゆくんか

  ある時

雲もまた自分のやうだ
自分のやうに
すつかり途方にくれてゐるのだ
あまりにあまりにひろすぎる
涯はてのない蒼空なので
おう老子よ
こんなときだ
にこにことして
ひよつこりとでてきませんか
病牀の詩

朝である
一つ一つの水玉が
葉末葉末にひかつてゐる
こころをこめて

ああ、勿體なし
そのひとつびとつよ

● 山村暮鳥(やまむらぼちょう)(1884―1924)=詩人。明治17年1月10日、群馬県に生まれる。本名土田八九十(はくじゅう)。東京・築地(つきじ)の聖三一神学校卒業。伝道師として東北各地を放浪のかたわら、前田林外らの『白百合(ゆり)』に木暮流星の筆名で短歌を投稿、創作活動を始め、1910年(明治43)人見東明(ひとみとうめい)らの自由詩社に参加、機関誌『自然と印象』に『航海の前夜』その他を発表する。以後『文章世界』『創作』『早稲田(わせだ)文学』などを舞台に、精力的に詩作を続けた。処女詩集『三人の処女』(1913)を刊行後、萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)、室生犀星(むろうさいせい)らと人魚詩社(1914)をおこし、『卓上噴水』(1915)を創刊するなど、文学と信仰のはざまを大きく揺れ動きながらも、生の苦悩と覚醒(かくせい)を基調とした独自の詩風を確立した。おもな詩集にシュールな詩風で知られる『聖三稜玻璃(せいさんりょうはり)』(1915)、「人間」キリストを主題とした『風は草木にささやいた』(1918)、『梢(こずえ)の巣にて』(1921)のほか、『雲』(1925)、遺稿詩集『月夜の牡丹(ぼたん)』(1926)などがある。小説、童話なども手がけた。大正13年12月8日没。(ニッポニカ)

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 拾った命。好きなことをしてみたい

「家族新聞70年」ギネス申請 高知市の松本さん一族、編集長100歳記念号発刊

編集長の松本健夫さん=中央=を執筆メンバーで囲む。おいっ子の孫の女の子=手前=らが手にする「百歳記念号」(写真はいずれも高知市一宮中町の松本さん宅)

 25人が多様な記事

 高知市一宮中町の松本健夫(たてお)さん(100)の一家親族が戦後70年にわたって書き継いだ家族新聞「マスコット」。3年前に休刊していたが、親族が久々に原稿を寄せ、100歳となった健夫さんを祝う記念号を8月に発刊。親族の一人はギネス記録にも申請した。「世界一長く続いたファミリーペーパー」と認定される日は近い?かもしれない。/ マスコットは南方戦線のラバウルから安芸郡和食村(現芸西村)へ帰還し、地域の川柳誌を発行していた健夫さんが「拾った命。好きなことをしてみたい」と、1949年8月に兄弟姉妹や母親、妻らと作り始めた。/ 高知市のほか四万十市、香川、岡山、大阪、北海道など各地の親族や子や孫にも広がり、年数回のペースで休まず発刊。50人以上が日々の出来事や文芸作品、漫画、コラムなどを思い思いに書き、健夫さんの家で冊子に編集。戦後の創刊号から2018年6月まで154号を作った。

(⇦)記念号の表紙や裏は10代の健夫さんの絵が飾る。カラー紙面も配し、「本当に面白くて毎日読んでます」と妻の幸恵さん。手前は平成半ばのマスコット

 「世界で一番長く続いた家族新聞ではないか」と考えた親族の1人はこの6月、英国のギネス・ワールド・レコーズ社に申請。先ごろ同社から、申請の登録が済んだことと、これから正式審査に入る旨の書面が届いた。/ 編集長の健夫さんは4月で100歳になり、妻の幸恵さん(92)と自宅で元気に過ごす。「もしギネスに認められたらびっくりじゃ。戦争から生きて帰って、こんなに続くと思わなかった」

 家族新聞の原点にあるのは草創期のメンバーが共有する戦争体験だ。兄と編集を担った松本紀郎(みちお)さん(92)=高知市東秦泉寺=は「今読み返すと、戦争を振り返る貴重な記録も多い。満州から奇跡的に生きて帰れた乳飲み子たちは、その後大きくなり、マスコットの書き手にもなった。みなの成長、近況を知る便りの場であり、自分を飾らずに出せる場でした」。

 記念号は週刊誌サイズで90ページ。100歳を祝う集まりをコロナ禍で持てず、「一番喜ぶ家族新聞を久しぶりに作ろう」と一決した。/ 小学4年生、大学生から100歳まで25人が寄稿。わが子を巡る爆笑記、母となった日の神秘体験や会社員時代の秘録、ライトな近況報告、時事コラム、戦争や戦後の随想など多種多様の記事を満載。紀郎さんらが編集し、40部を作った。/ 健夫さんは「見てオッと驚いたよ。ようできてます」とさわやかに笑った。(石井研)(高知新聞・2021.08.31)

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 「日記文学」というジャンルが、長期にわたって成立している社会です。おそらく数えきれないほどの「日記」がこの島のいたるところで蓄積されてきたし、今も営々と重ねられていると思います。自分だけの日記、これが本来の用途だったかもしれませんが、その自分の心覚えのような記録を、なんと八十何年も続けてきた方がおられました(このブログのどこかで触れています)。三日坊主の典型として「日記」の継続は困難であることが挙げられますが、理由はそれぞれです。書きたいものがホントにあるのか。とはいえ、人間は何かと「記録」に残したいという、ある意味では深甚な欲求を持っているともいえます。いろいろな人が日記を残しています。現代では、もっとも有名なのは永井荷風でしょうか。

 『断腸亭日乗』はしばしば、いろいろなところで何かと引用されてきました。ぼくも何かの折に、何度も読みだしたことがあります。「断膓亭日記巻之一大正六年丁巳九月起筆 永井荷風」と記して、「日乗」を開始しています。ここまでくると、一つの文学といってもいいのでしょう。偏屈男、四十二年間の時代史でもありました。

〇九月十六日、秋雨連日さながら梅雨の如し。夜壁上の書幅を挂け替ふ。碧樹如烟覆晩波。清秋無尽客重過。故園今即如烟樹。鴻雁不来風雨多。姜逢元等閑世事※(「さんずい+冗」、第4水準2-78-26)。万古滄桑眼底収。偶□心期帰図画。□□蘆荻一群鴎。王一亭先考所蔵の畫幅の中一亭王震が蘆雁の図は余の愛玩して措かざるものなり。
◯九月十七日。また雨なり。一昨日四谷通夜店にて買ひたる梅もどき一株を窗外に植ゆ。此頃の天気模様なれば枯るゝ憂なし。燈下反古紙にて箱を張る。蛼頻に縁側に上りて啼く。寝に就かむとする時机に凭り小説二三枚ほど書き得たり。


◯九月十八日。朝来大雨。庭上雨潦河をなす。
◯九月十九日。秋風庭樹を騒がすこと頻なり。午後市ヶ谷辺より九段を散歩す。
◯九月二十日。昨日散歩したるが故にや今朝腹具合よろしからず。午下木挽町の陋屋に赴き大石国手の来診を待つ。そも/\この陋屋は大石君大久保の家までは路遠く徃診しかぬることもある由につき、病勢急変の折診察を受けんが為めに借りたるなり。南鄰は区内の富豪高嶋氏の屋敷。北鄰は待合茶屋なり。大石君の忠告によれば下町に仮住居して成るべく電車に乗らずして日常の事足りるやうにしたまへとの事なり。されど予は一たび先考の旧邸をわが終焉の処にせむと思定めてよりは、また他に移居する心なく、来青閣に隠れ住みて先考遺愛の書画を友として、余生を送らむことを冀ふのみ。此夜木挽町の陋屋にて独三味線さらひ小説四五枚かきたり。深更腹痛甚しく眠られぬがまゝ陋屋の命名を思ふ。遂に命じて無用庵となす。

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▽ 断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)=永井荷風(かふう)の日記。1917年(大正6)9月16日から死の前日59年(昭和34)4月29日に至る42年間の記録。46年3~6月の『新生』掲載の「罹災(りさい)日録」で注目され、その後『中央公論』などに数次発表、また刊行された。起筆当時の住居「断腸亭」にちなむ命名。傍観者的な眼(め)によって、四季の風物、時勢のようす、風俗の推移、女たちとの交渉の顛末(てんまつ)、読書感想などが記されている。記録者の「偏奇」を貫く強烈な個性が、観察のいちいちに沁(し)み透(とお)っている。しかし、45年(昭和20)3月10日東京大空襲・偏奇館(その後の住居)炎上に始まる罹災日記は、一個の特異な文学者の記録であるだけでなく、国民的体験を写し残したものというべきであろう。[竹盛天雄]『『永井荷風日記』全七巻(1958~59・東都書房)』▽『『断腸亭日乗』全七巻(1980~81・岩波書店)』(日本大百科全書)(右は「日乗」中に挿入されている荷風自筆の挿絵)

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 高知の松本さんたちの「家族日記」は、当初はいざ知らず、ついには一家眷属の「総合雑誌」の感がしてきます。多分、このような種類の記録も、世に知られていないだけで数限りなく残されているし、今もなお記録されているでしょう。実に貴重なことだと思います。これと類似した「記録」に写真があります。まして今日のような誰もがスマホを持つ時代になると、何でもかでも「写」ですから、人それぞれに、自分史家族史友人̪史などを記録していることになります。ぼくの好みから言えば、記録は「文字」に限るとは言わないまでも、文章にはいろいろな余韻が漂うという点で、写真よりも好ましいように思われます。昨日駄文をのこした「徒然草」も、一面では兼好さんの「日記」であるし、「方丈記」もまた長明の日録であるとも言えます。短編長編取り混ぜての文学作品は、その多くは、筆者の「日記」だと理解できなくもありません。それほどに人は「自分の内側」を語りたいだけではなく、他人の目に触れてほしいという願望を持っているのかもしれません。

 理屈はこれくらいにして、「マスコット」の初期は、やはり戦争体験であり、戦友の消息便りでもあったでしょう。「大文字の歴史」などと称して、権威や権力がある意図をもって書く歴史がありますが、とくに「戦争史」になると、読むに堪えないものが多くあるのは理由のないことではありません。「戦事武勲」を求めて、軍人らが記録者に無理難題を要求したという話はよく耳にします。戦争そのものの是非ではなく、己の勲功を競って膨らませるのが「戦史」であったからです。こんなに「優秀な軍人たちがいた」にもかかわらず、なぜ負けたのかという奇怪な事態を招来してきました。大将たちが勲章をもらうための「戦争」だったという、実に怪しからん成り行きだったかもしれません。

 そこへ行くと、「マスコット」に限らず、個人レベルの、戦争体験の記述は、「それなりに正確」であったろうと思われます。たとえ誇張や歪曲があったとしても及ぶ影響は、公的な「戦争史」の比ではなかったのです。この「マスコット」はまた、戦後を一貫した「家族を核とした世代間の精神の交換」ともなったであろうことは容易に想定できます。機会を見つけて、このような様々な立場で書かれた「日記」の読書体験をゆっくり楽しみたいものだと願っているのです。

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<中隊長は開口一番「なんで逃げ帰ったんだ。皆が死んだのだから、おまえも死ね」と言う。体は疲れてフラフラだったが、一日の休養もくれない。それ以来、中隊長も軍隊も理解できなくなり、同時に激しい怒りがこみ上げてきた。>

これは、「水木しげるのラバウル戦記」(ちくま文庫)に書かれた、漫画家の水木しげるさんの回想だ。

2015年に93歳で亡くなった水木さんは、太平洋戦争の最前線であるニューブリテン島のジャングルで、九死に一生を得た経験がある。ゲリラの襲撃で所属部隊が水木さんを残して全滅、命からがら生還したのだ。当時22歳だった。(https://www.huffingtonpost.jp/entry/mizuki-shigeru_jp_5f37817dc5b6959911e4dd57)

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〇総員玉砕せよ!=水木しげるによる漫画作品。ラバウル10万の将兵の捨て石としてバイエン支隊500名が玉砕するまでを描いた、自伝的戦記。描き下ろし作品。講談社から1973年に全1巻で刊行された。副題は「聖ジョージ岬・哀歌」。2009年アングレーム国際マンガ祭遺産賞、2012年アイズナー賞国際賞アジア部門受賞。2007年NHKで「鬼太郎が見た玉砕水木しげるの戦争」のタイトルでドラマが放映された。(デジタル大辞泉プラス)

 戦時下の昭和十五年、内地では「南洋航路」という唄が流行りました。後に「ラバウル小唄」と改題されて、昭和二十年に再発売されました。この時期、現地では死線を彷徨(さまよ)いながら、死地に活路を見出すべくもない、数多の兵士が死に向かって行進していたのです。今なら断言できます、「いい気なもんだ、銃後の連中は」と。銃後の守りとか、「欲しがりません、勝つまでは」という威勢ばかりがよくても、根拠も何もなかった、「空元気」で、内地も殺気立っていたのではなかったか。それを見抜いていても、大ぴらには言えなかった。じつに狂気が充満・沸騰していた時代でした。(昭和二十年、ぼくは「虫けらのような状態」で生かされていた)これを「軍歌」(どうみたって、「お座敷小唄」でしょう)とは言わないでしょうが、ぼくは小学校入学前には口遊(ずさ)んでいたのです。何が、ぼくの受信機に届いたのでしょうか。いまもって、「謎」です。 

(本駄文の「冒頭部」はパプアニューギニアの海中写真)
ラバウル小唄 作詞:若杉 雄三郎 作曲:島口 駒夫

さらばラバウルよ 又来るまでは
しばしわかれの 涙がにじむ
恋しなつかし あの島見れば
椰子の葉かげに 十字星

船は出てゆく 港の沖へ
愛しあの娘の うちふるハンカチ
声をしのんで 心で泣いて
両手合わせて ありがとう

波のしぶきで 寝れぬ夜は
語りあかそよ デッキの上で
星がまたたく あの星見れば
くわえタバコも ほろにがい

赤い夕陽が 波間に沈む
果ては何処ぞ 水平線よ
今日も遙々 南洋航路
男船乗り かもめ鳥
(元歌は昭和十五年の「南洋航路」(作詞・作曲は同じ)

 この「ラバウル小唄」を、ぼくはさかんに歌っていた記憶があります。歌詞も何もわからないままで「椰子の葉かげに十字星 ♪」「 声をしのんで 心で泣いて ♪」などと唸っていたのです。今考えても、ゾッとしますね。空恐ろしいというべきか。ぼくだけがこのような趣味を持っていたのではなかっただろう。周りの大人たちが事あるごとに酒宴を開き、そこで蛮声を張り上げて歌っていたのを、門前の小僧、習わぬ「小唄」を歌うということだったか。あるいは「南の島に雪が降る」という芝居(俳優・加東大介作)によって、その記憶が増幅されたのかもしれません。ぼくはこの芝居を観たように思います。加東さんは沢村貞子さんの弟でした。ニューギニアで戦争体験がありました。戦後しばらくは、この島では「戦時体験」の嵐だったようにも思われてきます。

 その後の水木しげるさんの「ラバウル戦記」が、決定的な影響を多くの人に与えたのでした(初版は1994年)。水木軍曹の描く戦時体験は、およそ「ラバウル小唄」とは似ても似つかない、阿鼻叫喚の世界でした。戦地での全滅を隠蔽するための、内地における「陽動小唄」だったという感が強くしてきます。「侵略」が「進出」に、「全滅」が「玉砕」に、これもまた、なまなましい「歴史改竄」の現場風景であったのです。

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✖ 教科書事件(きょうかしょじけん)=1982年と 1986年に日本の歴史教科書をめぐって生じた日中間の外交事件。1983年から高等学校で使用される歴史教科書の検定(→教科書検定制度)において,文部省が,「華北侵略」を「華北進出」に,「中国への全面侵略」を「中国への全面進攻」に修正させ,南京大虐殺発端を「中国軍の激しい抵抗にあい,日本軍の損害も多く,これに激昂した日本軍は多数の中国軍民を殺害した」と変更させたと,1982年6月に報じられた。これはのちに誤報と判明したが,中国はこの歴史教科書検定の報道をうけて「歴史の真相を歪曲するものであり,同意できない」と抗議し,文部省の検定した教科書の誤りを正すよう日本政府に要求した。この問題は同 1982年9月以後,日本側が教科書を修正するかたち決着をみた。また 1986年,中国は「日本を守る国民会議」が編集した高等学校用教科書『新編日本史』の多くの記述が歴史の事実に反するとして日本に抗議し,修正を求めた。中曽根康弘内閣総理大臣は文部省に再検討を要請し,教科書の修正によって問題の発展は回避された。(ブリタニカ国際大百科事典)

✖ 玉砕(ぎょくさい)=第2次世界大戦中の 1943年5月 30日,アッツ島の戦いで日本軍守備隊が全滅したことを大本営が発表するときに使った言葉。以後部隊が全滅したり,壊滅すると,「瓦でまっとうするより,玉のように美しくける」というの「瓦全」「玉砕」という言葉を用いた。『北斉書』元景安伝から取ったもの。(「寧ろ玉砕すべきも瓦全する能(あた)わず」(同上)

(藤田嗣治画・1943年5月の北太平洋アリューシャン列島「アッツ島における戦闘」を描いた「Final Fighting on Attu」1943年制作)

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