物値上げ人も音上げの神無月(無骨)

 <卓上四季>働けど物価高 刈り取った稲わらを撚(よ)って縄にする「縄ない」は、農家の収入源だった。広島県の実家を継いだ詩人の木下夕爾(ゆうじ)は、学生時代を過ごした東京に行きたくなり、旅費稼ぎに縄ないを始めた▼ところが、お金がまとまりかけると汽車賃が上がる。戦後すぐのインフレ期だった。「東京行」という詩で「縄ない機械を踏む速度ではとても物価に追いつけない/ないあげた縄の長さは北海道にも達するだろう」と恨んだ▼値上げといえば春だと思っていたが、そうとも限らなくなった。9月から食品や家電などの価格上昇が相次ぐ。道内の最低賃金をめぐる協議でも、物価高に賃上げが追いつかない状況が考慮された▼木下を苦しめたインフレを止めたのは、財政と金融の引き締めを図るドッジラインだった。1970年代の「狂乱物価」の際には当時の福田赳夫蔵相が、田中角栄首相の日本列島改造論で膨らんだ公共投資に大なたを振るう「物価安定世直し予算」を組んだ▼だが、いまの政府の予算は来年度概算要求で110兆円超えと膨らむ一方。物価の番人たる日銀は大規模金融緩和に固執する。岸田文雄首相は国民生活よりも政権の安定を優先したいのだろうか▼米連邦準備制度理事会(FRB)のグリーンスパン元議長は、物価の安定を「企業や家計が物価動向をほとんど気にせずに行動できる状態」と定義したという。目指すべき所はそこである。(北海道新聞・2022/09/05)

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 夭逝(ようせい)した詩人・俳人の木下夕爾さん。今ではすっかり忘れられた人かもしれませんし、存命中も決して派手な振る舞いはなく、郷里福山の薬屋さんの店主でもありました。同郷の先輩だった井伏鱒二さんを敬愛していたし、その影響もあってか、新宿のある大学付属の高等学校に入るも、親父さんの急逝で帰郷。爾来、地味ながらも詩作や俳句作りに勤(いそ)しまれた方。ぼくの好みにピッタリの一句を。

しその葉に秋風にほひそめにけり(木下夕爾)

 木下夕爾さんの五十歳の生涯は、当時にあっても、若死にだったと思う。彼の本領は詩人にあったが、ぼくは木下さんの俳句により強く興味を持ちました。なんでもない、当たり前の風景をさり気なく詠む、その姿勢や佇まいに、彼の人柄が忍ばれるという気もします。久保田万太郎氏に師事した経歴がわかるように思う。詩人にして俳人に「値上げ(インフレーション)」は、あまり似合いませんが、コラム氏の書かれた文章にも、夕爾さんの人柄が出ているか。「縄綯(な)い」は縄を作ることで、多くの農家の夜なべ仕事でした。ぼくも石川県の田舎にいあた頃に、少しはできるようになっていました。また草鞋(わらじ)や草履(ぞうり)づくりも賃仕事になっていたのでした。

 よほどのことがなければ、誰にとっても有り余るお金があるわけではないのですから、とりわけ農家にとっては、通常はお金は扱われなかったとされていますから(物々交換が主)、店で物を買うときには、ずいぶんと困ったことだったと思う。昭和初期の不況期でもあり、夕爾さんの東京行きは困難を極めたことでしょう。それもなんとか工面して東京へ出た。しかし、父親の願いもあり、帰郷を余儀なくされたのでした。 

 昔も今も、毎日のたつき(方便・活計=生活の手段)が立ち行かなくなるような「物価値上げ」の襲来は、慎ましく暮らしている衆庶にいいようのない苦しみを与えるでしょう。

●木下夕爾 きのした-ゆうじ(1914-1965)=昭和時代の詩人,俳人。大正3年10月27日生まれ。広島県福山市で家業の薬局をつぐ。昭和15年詩集「田舎の食卓」で文芸汎論(はんろん)詩集賞。短詩型の叙情詩にすぐれ,詩誌「木靴」を主宰した。久保田万太郎の句誌「春灯」同人。昭和40年8月4日死去。50歳。名古屋薬専卒。本名は優二。詩集に「生れた家」,句集に「遠雷」など。【格言など】家々や菜の花いろの灯をともし(「遠雷」)(デジ竜番日本人名大辞典+Plus)

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 結婚した年の秋(1973年3月に結婚した)、いわゆる「狂乱物価」という大津波に直面しました。今から思っても、ぼくたちは「狂乱物価」の荒波寄せくる海岸の遥か後方にいたようでした。海岸には近寄らなかった。トイレットペーパーがなければどうするという心配もせず、いずれ時期が来れば収まるさ、と高を括(くく)っていたというか、買い占め・買い溜めに走る愚かさを自らに禁じていたのではなかったか。まるで笑い話ですが、買い溜めたトイレットペーパー、その他の品物の重みで民家の二階の床が抜けたという逸話もできた時代でした。諸物価上昇、いや高騰する時代、その興奮を余所目に、ぼくたちは「霞を食っていた」わけではありません。雨や嵐に、いちいち大騒ぎしても始まらんでしょうという「いい加減な態度」を貫いたということだったと思う。一時期に、ある商品が20%も値上がりしたが、それがなければ死ぬんですかという、そんな無手勝流の姿勢を変えなかっただけ。どんなに買い溜めしても、使えばなくなる、当たり前です。少々の節約にはなっても、元に戻るのは時間の問題。そんな生活感覚で生きていました。若気の至りというものだったか。(右は山梨日日新聞・1973/11/21)

 五十年前とは様相は異なる「物価値上げ」の令和に四年ですけれど、その現象や現実に対する消費者の姿勢は、今も昔も変わりません。どんなに値上げをされても、買うしかないし、だから、そのつど「音を上げる」ということです。単純ではないのが経済の動向。世界が近く・小さくなりすぎた結果、一国で取れる手段には限界があります。それをいいことに政治は不作為を決め込んでもいる。そこに明確な道筋をつけるのが「政府・政治の役目」だといいたのですが、言っても無理だし、言うだけ無駄だと諦めてはいけないんでしょうね。自分の息子を「適材適所」で総理秘書官につけるという愚劣を平気でする現ソーリに何ができるのかという、諦念がどうしても否定できないんだな。

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 たしかに、値上げは台所を直撃する。ならば、台所をなくせばいいじゃないか、というのは冗談ですが、でも、そんな異常事態は何年も続かないだろうし、縦(よし)しんば、そうだとしても、続いている間に、少しは「生活の知恵」も出てくるだろう、そんな「軟弱な生活感」を持っていれば、それこそなんとかなると、今でも思っています。(ここに持ち出すのは気が引けますが、現在、ロシアの無謀な侵略を受けて町を破壊され、生活も破壊され、人生も毀損されていて、なおそこで「日常を営む」ウクライナ(現地)の人の様子を見るにつけ、なんとかなる、なんとしても生きていけるという気がしてくるのです。「戦時下」の民衆は、そんな諦念と覚悟の入り混じった思いで暮らしていたのではなかったか)

 (本邦における、コロナ禍の「マスク」不足時の情景を記憶されているでしょう。マスクがなければ、生きていけないと考える理由は少しもなかった。しかし、多くの人は「煽られ、煽られ」異常な高値で購入を迫られたのでした。そしてやがて、マスクの余剰が発生して今日に至っています。愚かだったのは誰でしたか。無用なマスクの発注で七百億円以上の税が投入されたともいう。コロナ禍に関わって政府が投入した税の総額は、この段階で七十七兆円という。それも増税で回収すると言われている、そこまで悪辣悪質な「苛斂誅求」に走る劣悪政治ですな)

● 狂乱物価(きょうらんぶっか)=急騰した物価の状態を指す。第1次石油危機を契機として,それまで落ち着いていた物価は,1973年以降2年ないし3年にわたって2ケタの上昇率を示すに至った。これをもたらした国内要因としては,第1に国際収支の黒字を背景に通貨供給量が増大し過剰流動性となったこと,第2に国際収支の黒字縮小を図るため,積極的な財政政策が展開されたことに加え,日本列島改造に端を発した株価,地価,卸売物価の上昇,第3に需給ギャップの縮小から一部の商品に不足現象が見られ,買い占め・売り惜しみなどの投機的行動を誘発したこと,さらに第4次中東戦争勃発による原油価格の高騰などがあり,これらが複雑に絡み合った結果といえる。(ブリタニカ国際大百科事典)

OOOOOOOOOOOOOOOOOO

 身に沁みて物みな値上げの春夏秋冬、こんな戯れ句を放り投げたくなるこの島の現実です。一人で心配しても始まりませんが、まもなく、この島社会は「債務超過」に陥ると(嫌なことをいうようですけれども)確信しています。世界情勢のしからしむる処といえば、「そうですね」と思わず納得させられかかるのですが、じつはこの島の現実は、あからさまに政府の、大間違いの「金融財政」政策(ともいえない)によるところが大です。「際限なき金融緩和」政策は、手の打ちようのないところに来ています。(この、忌まわしい緩和政策の地雷源は「アベノミクス」でした)驚嘆するばかりの「国債」発行額。その大半を日銀が買い入れている。日銀は、どこの国や社会にも見られないような株主、日本企業の多くの筆頭株主でもあるのです。もうすでに「日銀破産(破綻)」の状態にあるんじゃないですか。(この問題も書き出すとキリがないので、ぼくには面倒。ここで止めておきます。来年(以降)は「世界同時不況」という恐ろしい事態が予測されている)

インフレーション  (いんふれーしょん)= 世の中のモノやサービスの価格(物価)が全体的に継続して上昇すること。英語表記「Inflation」の日本語読みで、一般的には「インフレ」と略されて呼ばれることのほうが多いです。一般的には、好況でモノやサービスに対する需要が増加し、供給を上回ることで発生し、企業利益の上昇から賃金が増加し、消費が進むので、緩やかなインフレは望ましいといえます。一方で、同じ金額で買えるものが少なくなるので、お金の価値は下がることになります。短期間で物価が急騰するような「ハイパーインフレ」は物価の上昇に賃金の増加が追いつかず、経済が破綻します。インフレの水準を適正に管理することは中央銀行金融政策を担ううえでの最大の目的です。(大和証券「金融・証券用語解説」)

 日本の経済の現状がきわめて危険な水域にあることを、多くの内外の経済関係者が指摘しています。しかし、「聞く力」を目玉(売り)にしている現総理は、聞く力がないことを白状しているようなもので、問題の所在は聞いているが、「聞くだけ(野暮)総理」でしかないのです。この男も政治家が稼業の、二代目か三代目だったか。恐らく総理の椅子に、どんなことがあっても、どんなことをしても「座りたかった」だけの御仁でした。以下に、経済評論家の加谷(かや)さんが指摘するように、日本経済の先行きは「壊れた計器でのフライトを余儀なくされた飛行機のようなものだ」とするなら、パイロットは不在に等しいことになります。あるいは全自動運転の自動車(テスラ)のようなものか。日銀総裁は目も耳も不自由だし、財務官僚は金融財政に興味がなさそうだし。円安が加速して(外貨準備高の少なさを、投資家に見透かされていますから)、さあ大変と、見せかけの円買いを実施したところ「焼け石に水」で、やがて、その水までが熱湯になり、その後は蒸気になって、この島社会は干からびるのがお決まりです。

 (ここまで来て、この先を書く気力が失せてしまいました。政治や政治家は存在するだけで十分なのに、余計なことをするから、困難が次々に湧いて出るのでしょう。政治家の存在は認めても、彼や彼女が行動(政治)をすることは禁止したいね)

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 トリプル安の英経済より危険…「危機的状況」すら反映できない日本市場のマヒ状態 (加谷珪一

 日本においては、国債市場で2日連続で取引が不成立になるなど、市場が持つ価格形成機能が失われつつある。最大の原因は、日銀が一定以上に金利が上がらないよう無制限に国債を買い取る「指し値オペ」を実施していることであり、この状態では本当の金利が何%なのか誰にも分からない。/ 株式についても、上場企業の多くが日銀や公的年金が筆頭株主という異常事態が続いており、これらは全て異次元緩和の副作用である。/ 日本では3大市場のうち2つが機能不全となっており、国民は自国経済がどのような状態にあるのか判断できない。例えるなら、壊れた計器でのフライトを余儀なくされた飛行機のようなものだ。(ニューズウイーク日本版:2022/10/05)(https://www.newsweekjapan.jp/kaya/2022/10/post-204_2.php

 (右上図:(出所・総務省統計局「日本の長期統計系列」および「平成29年小売物価統計調査(動向編)」より野村證券作成)

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 「東京物価上昇率、消費税除き約30年半ぶり 9月の東京都区部消費者物価指数の上昇率は約8年ぶりの大きさで、消費増税の影響を除けば1992年4月(2・9%)以来、約30年半ぶりの大きさだった」(秋田魁新報・2022年10月4日)

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 世界がぜんたい幸福にならないうちは… 

 河北春秋:哲学者の谷川徹三(1895~1989年)… 哲学者の谷川徹三(1895~1989年)は27日が命日である。岩手県東山町(現一関市東山町)のヤマユリのユリ根を好んだという。縁を結んだのは、谷川が深く傾倒した宮沢賢治(1896~1933年)▼東山町の新山公園に高さ2・5メートル、谷川揮毫(きごう)の賢治の詩碑が立つ。「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」。谷川が自ら選んだ『農民芸術概論綱要』の一節を刻む▼賢治は31年、東山の東北砕石工場に技師として招かれ、石灰肥料の品質向上や販売に奔走した。同年の9月、東京出張で倒れる。郷里の花巻の病床で11月、谷川が「最高の詩」と称賛した『雨ニモマケズ』を書き留める▼詩碑建立は、敗戦で虚脱した青年たちが生きる指標にと発案し、賢治の弟清六氏の紹介で谷川に揮毫を頼んだ。1年をかけて書き上げた谷川は、48年12月の除幕で落涙しながら「まづもろともに」の精神を説いたという▼賢治は世界全体の幸福を念願し、生涯をささげた。童話『烏の北斗七星』で、敵を討った烏は星に祈る。「どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまひません」。9月21日、賢治忌である。(河北新報・2022/09/21)

おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である(「農民芸術論綱要・序論」)
「校本宮澤賢治全集 第十三巻(上)覚書・手帳 本文篇」1997(平成9)年刊。
曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ(同上全集)

● 谷川徹三(たにかわてつぞう)(1895―1989)=哲学者。明治28年5月26日愛知県に生まれる。1922年(大正11)京都帝国大学哲学科を卒業。1928年(昭和3)法政大学文学部哲学科教授。1951年(昭和26)理事、1963年総長(1965年辞任)を歴任。法政大学名誉教授。地中海学会会長、愛知県文化懇談会議長その他多くの要職につく。その活動は幅広く、世界連邦政府運動、憲法問題研究会、科学者京都会議に加わる。1975年芸術院会員。ゲーテの人間性と思想に深く共鳴し、美の深さと高さを探究している。宗教的立場は、ゲーテのいっさいのものに神をみる汎神(はんしん)論で、宮沢賢治(みやざわけんじ)への傾倒もそこに由来する。「生涯一書生」をモットーとする。書に『感傷と反省』(1925)、『享受と批評』(1930)、『生の哲学』(1947)、『宮沢賢治』(1951)、『人間であること』(1971)などがある。1987年文化功労者に選ばれた。(ニッポニカ)

 谷川さんという方は、戦後の思想界、というよりは知識人社会の旗頭という趣のあった人で、さまざまな分野において活躍の足跡を残した。ぼくは、谷川さんの書かれたものをよく読んだ方だと思う。その影響は、「これこれ、こういうところに」と指し示すことはできません。それほど、いわば「道理の哲学」を披瀝されていたからだと思う。彼の出発はドイツ観念論でした。やがて「生の哲学」に行く、京都派でもありました。谷川さんに深く動かされたとはいえませんが、ぼくにとっては、物事を深く徹底して考え抜く時間を持つ生活に憧れを持った、その方面への方向指示器のような役割があったと思います。と言っておきながら、つまらないことを言います。

 谷川さんの逸話でもっとも印象に残っているのは、九十前後の頃でも「地下鉄の階段を二段飛ばしで上る」という他愛のないものでした。これは誰だったかが書いておられたことで、ご自身は階段を一歩ずつ登っていると、その横を、浴衣がけの下駄履きで、颯爽(さっそう)と二段飛ばしで登っていく人がいた。「誰だと思ったら、谷川さんだった」というものでした。それを知って以来、そこ(階段の上り下り)に、谷川流の「自立」「自足」の哲学があると思ったし、自分も地下鉄の階段を上り下りするとき、いつもこの「二段飛ばし」が浮かんだものでした。そこのろ流行りだした「エスカレーター」などは利用しなかったものです。

 本日は宮澤賢治について駄文を綴ろうかと、前もって考えていました(正確に言うと、昨日の予定でした)九月二十一日は賢治さんの忌日だったから。誰かの誕生日でもありました。「死に往くあり生まれ来るあり彼岸花」(無骨)。ところが、今朝は九時前に動物病院に出かけた、避妊手術を予定していた猫を連れて。この子を入れると、どれだけの猫を病院に連れて行ったことだろう。今いる猫たちは、すべては近所の雑木林などで出産して、やがて家の近くに連れてきたものです。そうこうするうちに、当方で食事を出すようになって、さらに家の中で寝るようになった。しかし中には、家で宿泊しないで、食事だけ食べに来るものもいて、付き合いはなかなか大変。まるで「猫食堂」という雰囲気です。病院に行ったのは、今年の三月に生まれた子で、来週は同じ時期に生まれた二つの雄猫の「虚勢の手術」が予定されています。(ごくは手術なしでも、とっくの昔に「虚勢済み」です)手術前夜からは絶食させるのですが、これがなかなかの大仕事で、他の仲間は食事をしているのに、その子だけは「お預け」もできません。みんないっしょに「絶食」(朝九時前まで)です。本日も、大騒動をしながら、朝の三時から病院行きの子の横について、機嫌を取っていました。相当に怒っていたようです。

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 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない / 自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する」「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである / われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である」

 世界の中に「犬」や「猫」や「鳥」や、その他の生き物が入らないはずはありません。もう何十年も前のこと、一人の女性作家から「世界がぜんたい幸福にならないうちは」という言葉を聞いて、頭を打ち付けられるような震えを覚えました。もちろん、それが賢治のものだと知っていましたが、ぼくよりも二十歳以上も年上の人から、この言葉が発せられたことに衝撃を受けたのでした。谷川さんは、その作家(随筆家)よりも三十歳以上も年上でしたから、「ああ、賢治は、こんな先輩たちによって読みつがれてきたのだ」と直感・直観したのでした。宮沢賢治は「読書の対象」「研究の対象」などではなく、彼らにとっては「生への導き」「人生の磁石」のような存在だったのだとはっきりと悟りました。

 昨日は中野重治さん、本日は谷川さんを通して宮澤賢治に再会した気がします。道義も倫理も廃れきった「暴力社会」に生きる身にとって、はるか往時に生き死にした「先達」に、もう一度見(まみ)えることが求められているような気がしきりにします。お彼岸だから、ですかねえ。「われらは各々感じ 各別各異に生きてゐる」というところに、宮沢賢治という人間の新面目を見ませんか。

まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう
しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きてゐる
ここは銀河の空間の太陽日本 陸中国の野原である
青い松並 萱の花 古いみちのくの断片を保て
『つめくさ灯ともす宵のひろば たがひのラルゴをうたひかはし
雲をもどよもし夜風にわすれて とりいれまぢかに歳よ熟れぬ』
詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画
われらに理解ある観衆があり われらにひとりの恋人がある
巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす
おお朋だちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであらう(同上)

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 行き行きて 倒れ伏すとも 萩の原

 萩(はぎ)の季節になりました。好きな草花は数知れずあります。その中でもとりわけ好きなものの一つが「萩」です。どこがいいと言って、出しゃばらないというか、「名もあり 清く 美しく」という萩流(はぎりゅう)がいいですね。牡丹などが横にいると、萩は恥ずかしそうに、消え入らぬばかり隠れてしまいそう。そんな幹や枝葉、更には小粒の花が、なんとも言えずに、ぼくには好もしいのです。今風に言うと、まず「センター」を取ろうという邪念がないのがはっきりしている、いつでも背景に控える、その姿にぼくには惹かれる。それと直接結びつくものではないのは当たり前ですが、焼き物好きのぼくには「萩焼」の清楚な形(雰囲気)に通い合うものがあって、なおさらに好みが増すのです。

・雨の萩風の真秋とゆふべ哉 ・痩萩や松の陰から咲そむる ・咲日から足にからまる萩の花  
・せい出して散とも見へず萩の花 ・のら猫も宿と定る萩の花 ・山里や昔かたぎの猫と萩 
・露の世を押合へし合萩の花 ・秋萩やきのふこぼれた程は咲 (一茶の句から)

 「痩萩(やせはぎ)」と詠み、「足にからまる萩の花」と詠む。「せい出して散る」とは思えない、その遠慮がちな佇まいに、一茶(ばかりではない)は親しみを持ったのでしょうか。萩を好むのは人間ばかりではありません。一茶の句には「猫と萩」がしきりに出てきます。「のら猫の宿」となり、「山里」には猫と萩が似合うとも言う。ぼくの好まない「花言葉」ではありますけれど、萩は「思案」と「柔軟な精神」だという。細い枝に葉をたくさんつけ、いかにも垂れ下がりながらも、地を這いつつ、ゆっくりと花をつけるのです。

 いきなり芭蕉です。「一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月」「しほらしき名や小松吹萩すすき」「しら露もこぼさぬ萩のうねり哉」いずれも「奥の細道」のもの。石川県や福井県や近江あたりを歩いた際の作です。解説は無用で、萩の風姿を詠んだ、芭蕉の心持ちを想像してみるばかりです。連れは曽良でした。

OOOOOO

 「ハギ(萩)は秋の七草の一つとして古くから日本で親しまれてきた落葉低木です。万葉集でも多く詠まれて来ました。秋の花のイメージが強いですが、夏の盛りから咲き始めて秋の初めには満開になります。日本では山野に自生していたり、庭木としても使われています。ハギ(萩)はマメ科の植物なので根に根粒菌を持ち、土壌を肥沃にする特性があります。/ ハギ(萩)は枝垂れるように枝を伸ばして直径1~1.5㎝くらいの赤紫色の花をたくさん咲かせます。生育旺盛で刈り込んでもすぐに大きく枝を伸ばします。暑さ寒さに強く丈夫な性質で、病害虫の発生もほとんどありません。冬は葉を落としますが、春に再び芽吹きます。ハギ(萩)は株分けで増やすことができます。/ ハギ(萩)という名の由来は諸説ありますが、古い株の根元から新芽が良く芽吹くことから「生え木(はえき)」→「はぎ」に変化したと言われています。/ ハギ(萩)の「思案」「柔軟な精神」という花言葉は、ハギ(萩)の控え目な美しさや少し寂しげな風情に由来すると言われています。(LOVEGREEN)

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● はぎ【萩】〘名〙 マメ科ハギ属の落葉低木または多年草の総称。特にヤマハギをさすことが多い。秋の七草の一つ。茎の下部は木質化している。葉は三小葉からなり互生する。夏から秋にかけ、葉腋に総状花序を出し、紅紫色ないし白色の蝶形花をつける。豆果は扁平で小さい。ヤマハギ・マルバハギミヤギノハギなど。はぎくさ。《季・秋》※播磨風土記(715頃)揖保「一夜の間に、萩一根生ひき」※俳諧・奥の細道(1693‐94頃)市振「一家に遊女もねたり萩と月〈芭蕉〉」(中略)(⤵)

[語誌]「秋はぎ」とも呼ばれるように秋を代表する植物で、「万葉集」では秋の七草の筆頭に挙げられ、植物を詠んだ中で最も歌数が多い。もと「芽」「芽子」と表記され。/ (2)平安時代以降、鹿、露、、雨、風などと組み合わせて、花だけでなく下葉や枝も作詠の対象となり、歌合の題としても用いられた。特に鹿や露との組み合わせは多く、「鹿の妻」「鹿鳴草」などの異名も生まれた。一方、露は、萩の枝をしなわせるありさまや、露による花や葉の変化などが歌われ、また、「涙」の比喩ともされ、「萩の下露」は、「荻の上風」と対として秋の寂寥感を表現するなどさまざまな相をもって詠まれた。/ (3)「古今‐恋四」の「宮木野のもとあらのこはぎつゆをおもみ風をまつごと君をこそまて〈よみ人しらず〉」などから、陸奥の歌枕の宮城野との結びつきが強い。(以下略)(精選版日本国語大辞典)

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 萩は野生の草花で、あえて庭に植えるということをするようになったのは、きわめて新しい。それだけこの島の山野が荒れてしまったという証拠でもありましょう。これは萩に限ったことではなく、ほとんどのものは自生であり野生でありました。ぼくは桜が好きですが、だれもが行かない山の中に、時期になって咲き出そうとしているものを何度も訪ねてきました。誰かに見られるため、見せるために咲くのではなく、じつに淡々と、植物の本能の表出として咲き、散る。偶然のように、そんな桜花に出会うということは、じつに気分のいいものでした。「桜花爛漫」と言った風な見世物として、ぼくたちはそればかりを目当てに自然を評価しがちですが、人間の手の入らないところで、人間とは無関係に「植物」はそのものの生命力を保持してきたのでしょう。

 都会に住むということは、自然と切れるという意味であり、それは「不自然」であるということになるでしょう。人間は「自然の存在」だった。しかし、もはや自然と縁が切れてからは、向かう方向が皆目わからない難破船のように、右往左往というのが現実です。それがいけないとか、なんとかしろというのではない。どこかで精神の均衡を保たなければ、ついには精神の疲労(ストレス)が人間の生命力を削(そ)いでしまうのではないかと、ただひとり訝るばかりです。現役のサラリーマンをしてた時代、ぼくは「職住離間」、奇妙な言い方ですが、職場と住まいはできる限り離れていたほうがいいと考えていました。通勤時間は二時間弱。大きな川(隅田川・荒川・中川・江戸川など)を二つも三つも越えて通勤していたものでした。

 子どもたちが職場のすぐ近くに住んでいた時期がありました。しかし、ぼくは、そこには一度泊まったかどうか、どんなに遅くなっても帰宅しました(毎日が午前様だった)。かみさんが腹立ち紛れに鍵をかけて寝てしまっていたので、屋根に登り二階からようやく侵入した。時計は三時か四時。寝る間もなく職場に出かけたことも。それほどに「自宅」がいいというのではなく、帰宅する間に「ストレス解消」を求めていたからだし、猫の額にもならぬ箱庭にはすこしばかりの地面があり、そこに 申し訳程度に緑がありました。それを小一時間眺めているだけで、胃の痛いのが治ったものです。慢性の胃潰瘍が持病のようになっていましたが、それも胃薬や手術ではなく、植物の緑が治してくれた(今のところ)ようです。

 自然から離れれば、それだけ人間は足元がふらつくのでしょう。若い頃に、ルッソオという思想家をよく読んだ。彼は怪しい生い立ちと青年時代を送りながら、「社会契約論」「エミイル」「告白」などを書き、都市文明を呪い、自然を渇望した人間だった。歴史的には「フランス革命」を思想的に準備した思想家と評されたほどの人。その彼はまた、植物分類にも興味を持ち、リンネなどをとても評価していたほどでした。その彼から、ぼくは少なからず影響を受け、植物好きになったのです。もちろん、幼児からのおふくろの「感化」という土台もあったから、なおさら、植物が大好きになったといえます。

 秋の萩、そのこじんまりとした、柳のようなしなやかな、垂れ姿を見ているだけで、気分が落ち着いてきます。そのか細い枝にたくさんの葉をつけ、その葉に挟まれて、これまた小さな花が顔を出す。まるでその小さな花弁から、萩の香りが匂い立つような心持ちに誘われることがしばしばです。

行き行きて 倒れ伏すとも 萩の原(曽良)

 芭蕉と連れだって歩いていた曽良は、加賀あたりで体調を崩し、師匠とは別れざるを得なかった。元禄二年八月のこと。曽良は伊勢だったかに縁者がいるといっていた。芭蕉は曽良を置いて、先を急いだ。その際に、曽良が詠んだのが、この句です。まるで辞世の句です。救急車を呼ぶこともできず、医者にも出会えず、とにかく行けるところまで行って、命が尽きて倒れても、そこが「萩の原」であるなら、私は本望だと、そんな心境が透けて見えます。萩は人を引き付ける植物でもあるんですね。ときに、曽良は四十歳。芭蕉は五歳年上でした。(ちなみに、曽良は信州は諏訪出身でした)

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● 曽良(そら)(1649―1710)=江戸中期の俳人、神道家。信濃(しなの)国上諏訪(かみすわ)(長野県諏訪市)の人。高野家に生まれて岩波家を(つ)ぎ、岩波庄右衛門正字(しょうえもんまさたか)と名のる。曽良は俳号。若いころ伊勢(いせ)長島藩に仕官、1683年(天和3)ごろまでに致仕(ちし)して江戸に下り、幕府の神道方吉川惟足(よしかわこれたり)について神道(しんとう)、和歌などを学び、やがて芭蕉(ばしょう)に入門。このころ河合惣五郎(かわいそうごろう)を通称としたか。1687年(貞享4)秋、芭蕉の『鹿島詣(かしまもうで)』の旅に宗波(そうは)(生没年不詳)とともに従い、1689年(元禄2)の『おくのほそ道』行脚(あんぎゃ)にも随行。その間に書き留めた『曽良旅日記』は奥羽北陸旅行の実態を綿密に記録したもので、『おくのほそ道』研究上の貴重な資料である。神道家としての活動は分明を欠くが、芭蕉死没当時にはなんらかの公務に従事していたらしい。1710年(宝永7)3月、幕府の巡国使の随員として九州方面に赴いたが、5月22日壱岐(いき)国勝本で病没した。彼は隠逸閑雅を好む、温厚篤実な人物であったらしく、その俳風は温雅である。(ニッポニカ)(左の画は「師弟二人」)

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 我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず

 【三山春秋】▼深緑の木々に覆われた尾根一帯が、今年も鎮魂の思いに包まれる。520人が犠牲になった日航ジャンボ機墜落事故から12日で37年。遺族らが現場の「御巣鷹の尾根」(上野村)を訪れ、安全への願いを新たにする▼「また1年、ここから頑張ろう。そんな感覚になる」。遺族らでつくる8.12連絡会の事務局長、美谷島邦子さん(75)は慰霊登山への思いをこう語る▼仲間と会い、言葉を交わし、前を向く―。その積み重ねでここまでやってきたという。歳月を経る中で多様な交流が生まれ、今では他の事故や災害の遺族との支え合いも大切にする▼連絡会を中心に緩やかに連帯し、慰霊行事には近年、東日本大震災などの遺族も参加。大切な人を突如失うという共通する悲しみを抱える人たちにとって、御巣鷹が命や安全について考える場所の一つとなっている▼連絡会の会報「おすたか」の最新号には、知床半島沖の観光船沈没事故の遺族らに向けた言葉も掲載された。〈悲しみを社会が共に引き受けていくことで、失われた日常性を少しずつ取り戻すことができる。共に涙を流したい〉。同じ被害者家族として、決して孤立させないとの会員らの思いがにじむ▼きょうの慰霊登山も、さまざまな遺族が悲しみを分かち合いながら、犠牲者の霊を慰め、再発防止を願う。その思いに共鳴するように、尾根には「安全の鐘」の音が響くことだろう。(下野新聞・2022/08/12)(ヘッダー写真はgettyimages.co.jp/写真/御巣鷹山

IIIIIIIIIIIIIII

 日航機墜落事故の起きた年の四月、約十年ほど住んでいた家(千葉市)から、佐倉市に転居していた。理由は、単純で、ぼくは、その直前に「クモ膜下出血」症状で倒れた。瞬間的に意識を失いましたが、すぐに戻りました。検査の結果、「クモ膜下出血」のごく軽い症状と診断され、事なきを得た段階にありました。当時住んでいた家の前に県道が通っており、かなり交通量も多く、騒音がやたらに神経に響いていたので、「どこでも、静かであるなら」と、不動産屋に土地を探してもらい、まったく土地勘のなかった佐倉市に越したばかりでした。

 引っ越し直後に、恩師ともいうべきH先生の死去の報が入り、肝を冷やしたばかりでした。この人に関しては、この駄文録の何処かに、数度ばかり触れています。やがて八月、ぼくはテレビを見ていたと思う。テロップが流れ「日航123便が音信不通」という文字の流れに、一瞬、戸惑いました。まさかという思いと、どうしてまたという懸念が入り混じり、続報が待たれた。その瞬間から、もう三十七年が過ぎました。御巣鷹山には登ったことはなかったが、その麓は何度も行き来した。事故の原因には、複雑な要因が絡んでいるのではないかと思われたし、あまりにも初歩的な整備ミスが要因だとされ、まるで砂を噛む思いをしたことも記憶しています。

 事故直後、転居先の同町内に住んでおられた方が、事故機の機関士だったと知り、何度かお宅の前で合掌したものでした。犠牲者は、数名を除き、ぼくには未知の方々だった。有名無名合わせ、五百二十名が亡くなられたという。その後、時間を追って明らかにされてきた事実には、すべてに応接する暇もありませんでしたが、いくつかの記録や報告書を読み、今更のように、この「五百二十人は死ななければならなかったのか」という思いが募るばかりでした。天災も人災も含めて、誰にも「死の必然性」などあるはずもないのに。

 昨日の駄文で「死とは句読点ではないか」と書きました。しかし、誰もが自分の人生の句読点を、自分で打つことはできないのです。打とうとする(思う・願う)ことはできますが、打つ瞬間は、自らの意識や意思には関係がなくなるのです。誰が打つのか。「寿命」、というほかありません。この事情には、自死した(する)ときも、事故死の場合にも差はなく、すべて同じではないでしょうか。「もっと生きたかった」という思いを残す人がいるし、反面で、一瞬でも早く人生に「ケリ」をつけたいと念じる人もいます。寿命が尽きる(天寿を全うする)というのは、さまざまな「死の様相」(死に方)を通じて共通している、そのようにぼくは考えてきました。異論があるのは承知しています。しかし、ぼくにはそのように思われるのです。寿命(生きた時間)の長短にも関わりなく、「天寿」というものがあるのではないでしょうか。

 日航機事故の場合、亡くなられた方それぞれの「人生」というものを、当たり前ですが、ぼくは考えてみます。残された遺族が、その大事な人の死をどのように受け止められたか、いろいろな記録や手記などを通じて知ることができます。一人の人生は「死をもって終わる」のではなく、「死によって、また新たな『生涯』を生き始める」と、言いたい気がします。何年経ても、現実に死んだ人は、別の次元では「死んでいない」「死なない」のです、ある人たちにとっては。別の言い方をするなら、現実の死を受け止めることを通して、新たな存在(「霊」といい「魂」、あるいは「仏」と言ってもいいでしょう)が「自分」とともに生き始めるのでしょう。「死は終わり」ではなく、「あらたな始まりだ」と、ぼくが言うのはそういうことです。いかにも抹香臭い話であり、口ぶりですが、ごく当たり前の感覚から、ぼくは言っているつもりです。

 ヒロシマやナガサキに代表される「戦死者」もまた、遺族を含めた多くの人々の中に「生き続けている」のではないでしょうか。「戦後七十七年」という意味は、その期間をずっと、死者(犠牲者)ともに生き続けている人がいるということの刻印(証拠)です。人は「生まれる」というのは、生まれさせられるということであり、「死ぬ」というのは「生を全うする」ことです。「もっと生きていたい」という、自らの意思にかかわらず「命を奪われる」ことは否定できません。その死者の無念を引き受けて「もっと生きていたかったろう」「こんなこともしたかったに違いない」と、死者を弔う人が、その「生きたかった生」を引き受けるのではないでしょうか。

 「青柿が熟柿弔う」という言い方があります。ここで使うのは不適切の誹(そし)りを受けることを承知でいうと、誰もが死ぬという現実を射当てているのです。「われや先、人や先、今日ともしらず、明日とも知らず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」というよく知られた「御文章」にもあります。

 若い頃に学んだカントという人に「いつ人生の精算があっても、大丈夫なように生きる」という意味の言葉がありました。なんという辛気臭い表現だろう、いかにも堅物のカントだなと思ったのは事実でした。ソクラテスは「考えるとは、死の練習だ」と言いました。解釈はいろいろにできます。しかし、死が避けられない運命にあるのが「生きる」ということだというなら、その死に向かって、正直に生きようではないかと言うことだったと、ぼくは考えることにしてきました。ここには「阿弥陀仏」は出てきませんでしたが、彼らが言おうとすること、しようとすることは「自分一人で生きているのではない」ということの指摘だったと思うのです。ぼくも、ここに阿弥陀さんを持ち出そうとは考えませんが、することや言うことは、「御文章」に変わらないとも思うのです。ギリシアの昔にも、カントの時代にも、当然のように、あまねく「阿弥陀仏」は偏在していたことになるようです。

 三十七年前の「同時刻」が近づいてきました。ゆっくりと線香と蝋燭を立て、庭の花を「仏前」(霊前)に捧げようと思う。

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 いつの日か、人は死ぬものですが。

 八月五日のニュースをネットで見ていましたら、なにかと世話になっていた友人が亡くなったという記事が目に飛び込んできました。僅か二行の記事でしたから、詳しい事情を知るべくもなかったし、亡くなったのが一日だったとありました。長く付き合ってきたにも関わらず、ぼくは彼の年齢を知って驚愕しました。六十歳だった。憲法学の学徒で、素晴らしい仕事を重ねられていました。ぼくは、四十年近く担当していた「人権問題」の授業で、いろいろな方に助けていただいてきましたが、彼もその一人で、ぼくが辞職するまで十年以上は、ぼくの無理なお願いを聞いてくれました。憲法の観点から、あるいは、裁判の判例に基づいて、さまざまな人権問題を明らかにしてくれた。その意味では、Kさんの授業では,ぼくは一人の学生としていつでも授業に出席していたのでした。たくさんのことを教えられた。

 このニュースを知って以来、なにかと思い(想い)が、彼のところに戻っていくのが如何ともし難く、気がついてみると、よく付き合ってくださったなあと、感謝の念(言葉)しか、出てこないのです。ぼくは、筆無精で、年賀状も、頂いた人に返事を書くのがせいぜいでした。K君から、いつも丁寧は年賀状が届いた。いかにも真面目な(大阪人なんです)性格がにじみ出るような文面でした。ところが、今年は届かなかったので、あるいは忙しいのか、などと気にはしながら、電話をかけるという習慣がないものですから、そのままにしていたのです。そこへ、いきなりの死亡記事でした。(この山中に越して以来、以前にもましてぼくは人との付き合いをしなくなりました。まったくの没交渉。電話も、かける要件もないので、しないまま。そのために、今回のような、無作法な知り方になることもしょっちゅうです)

 事情はどうだったか、友人や知人に問い合わせることもできるのですが、ぼくの心情はそうならないままで、本日のお葬式がやってきました。山の中から都心にまで出向く勇気というか、それが今のぼくには欠けていますので、一人静かに、これまでのご厚情に御礼を言い、安らかな休息を願い、深く追悼しているのです。(奇遇ですが、もう何年になるか、やはり憲法学の研究者で、同じ大学の教員だったNさん。休暇を利用して山梨だったか長野だったかに出かけた帰路、深夜、中央高速で「自損事故」を起こし、警察に連絡した後に、高速道路を歩行していて、後続の車にはねられ亡くなったという事故がありました。彼にも、十年ほどは授業を助けていただいた。研究は言うまでもなく、加えて、なかなかの実践派で、人権問題の裁判にも関わって、これからという段階の事故でした。まだ、五十台半ばだった)

 いつになく、しんみりとして過ごしています。今朝は三時半前に起床、猫の食事を整え、五時から庭仕事(枝落とし、草刈りその他)に二時間ほど。シャワーを浴びて朝食、また庭仕事の続きをしているところに、電話。長野の病院に入院しているOさん。入院以来、約三週間余。声に張りが出てきて、元気に回復途上であることが電話でもわかります。健康を回復し、新しい仕事にゆっくりと挑戦されるといいというような話をして、電話を切りました。人の世の常です、一方に、若く亡くなる人あり、もう一方に病から生命力を回復する人あり、です。それにしても、六十と言うのは、若すぎますね、Kさん。残念だったことでしょう。思い切り生きられたと言っても、やはりもう少しは、という望みも持っておられたはずです。

 改めて、これまでのご友誼に対して、深甚の感謝を捧げます。(本日は、ここまでにします)

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 言葉の潰滅、潰滅の言葉。そこから何が生まれる?

 【雷鳴抄】「誤解」と「謝罪」 誤解を与えたのであれば申し訳ない-。政治家らが問題発言の幕引きを図る場合、この言葉が定番となってしまった。公人がこうした“謝罪とは言えない謝罪”を繰り返していては、社会全体の倫理観の欠如につながるのではないか▼最近では、日銀の黒田東彦(くろだはるひこ)総裁と、山際大志郎(やまぎわだいしろう)経済再生担当相の発言が記憶に新しい▼黒田氏は「家計の値上げ許容」発言、山際氏は参院選の街頭演説での「野党の話は、政府は何一つ聞かない」発言である。両氏とも批判が高まると「誤解を招く表現だった」などと釈明した▼黒田氏の場合は「申し訳ない」と陳謝しているものの、両氏の弁明に共通するのは誤解の余地がない発言であるにもかかわらず、自分に全ての責任はなく、誤解した方も悪いとの言いっぷりだ▼こうした現象は日本に限った話ではない。英語にも「non-apology apology」(謝罪なき謝罪)や「fake apology」(うわべだけのおわび)などの言葉がある。「誤解を与えたなら」と同様、「もし、あなたがそう受け取ったのなら」など条件付きのおわびを指す▼謝罪は弱者がするもの。強者は謝らない。「謝罪なき謝罪」横行の背景には、こんな考え方も見え隠れする。誠実さを失った為政者の言葉が、一般社会に影響を与えないことを願いたい。(下野新聞・2022/07/21)

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 下野新聞の「下野(しもつけ)」は、今日では大半が栃木県に、ごく一部が群馬県に残る「旧国名」です。これまでに何度か訪れたし、好い悪い取り混ぜた「記憶」「思い出」がたくさんある土地です。下野(しもつけ)は、またの名を「野州」ともいい、いかにも山や森林の多かったことが想像されます。今はどうなりましたか。明治の「元勲」山縣有朋は、この野州あたりに膨大な土地を占有しており、今もなお「末裔」に当たる人が住んでおられるといいます。この島国は国土の七割が山林で、一歩も里に足を下ろさないで、本島の北から南に行けるとまで言われた「山の国」でもありました。いまでも、山林王は世の中に何人かおられますが、山縣もその一人というべきでしょうね。彼の所有していたもので、後年に名が知れたのが、東京目白の「椿山荘」、立派なホテルが営業を続けている。もちろん、こんな話を展開しようというのではなく、「下野(しもつけ)」に少し触れてみたかったので、つい脇道にそれた次第。ちなみに、この「雷鳴抄」も数あるコラムの中では、ぼくの好む(贔屓する)もので、何かしら、知り合いの「お兄さん」が書いているという気分になることがあります。

 ぼくは半世紀も車を運転してきました。これまでに事故を起こしたことがないのが自慢ではありませんが、悔やまれる一件、この野州「矢板」のパーキングエリアで、20トントラックに接触され、車体を大きくへこまされたことでした。もう四十年も前になるでしょうか。まだ関越道路ができていない時代、国道17号線を新潟まで行く途中の出来事。もちろん、トラックの運転手の不注意でしたが、ぼくも、どういうことがあるかわからない、そのことに気が回らなかったという意味では「不注意」だったし、いい経験になりました。相手は職業運転手、「事故になる」と困ると懇願され、気を許したのですが、修理代(当時でも二十万くらいかかりました)のほとんどを踏み倒された、後味の悪い出来事、それが野州でのことでした。

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●しもつけ【下野】=東山道八か国の一つ。四世紀の頃に毛野(けの)国が二分されて下毛野(しもつけの)国が成立。大化改新のときに下野国と表記が改められた。平安後期に藤原秀郷(ひでさと)が土着し、子孫小山氏を称した。中世、小山氏とともに宇都宮那須両氏勢力をふるい、江戸時代には小藩分立。明治四年(一八七一)の廃藩置県後に栃木、宇都宮の二県が置かれ、同九年統合されて現在の栃木県となる。野州(やしゅう)。(精選版日本国語大辞典)(右地図は「関八州」)

 「ケノクニ」が二分されて、今の栃木と群馬にまで至るというのが「旧国名」の経歴です。こんな名称がつけられて以来、すでに千数百年になろうというのですから、長い(古い)というのか、短い(新しい)というのか。ぼくたちが足場にしている土地には、さまざまな歴史や文化がしみ込んでいるのであり、その歴史や文化を「受け継ぎ・守り・受け渡し」てきた「無数の民」がいたことを実感します。なにかというと、「この国は、歴史と文化と伝統の…」と言いたがる人がいますが、どれだけ自らの生活や環境において、それを実感しているか怪しいものです。そのように「いうだけの人(口先人間)」がいる、それこそが「口説の徒」の島の、「なれの果て」ではないですか。

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 「しもつけ」といえば、同名の植物があります。ぼくの好きな植物で、今も、少しばかり荒れ庭に育っています。いくつかの異名を持つ植物で、何とも言えない「花」を咲かせてくれます。「後の日に知る繍線菊の名もやさし」( 山口誓子)「しもつけ草東照宮のつくばひに」( 西本一都)「繍線菊の咲けばほのかに兄恋し」(黒田杏子)三者三様の詠みぶりではないでしょうか。いずれもが、静かなうちに、心に染み入るような雰囲気に囲まれていそうです。その名は、生育の地「下野」からつけられたとか。少しばかり怪しいというか、できすぎていますね。もう少し、自分で調べてみよう。(註 二句目の「しもつけ草」は、シモツケとは別種の植物です。紛らわしいですね)

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● しもつけ【下野】=〘名〙 バラ科の落葉低木。各地の山地に生え、観賞用に庭などに植えられる。高さ約一メートル。葉は互生し、短柄があり、葉形に変異が多いが、ふつう長さ五~八センチメートルの広卵形で両端はとがり縁に鋸歯(きょし)があり、裏面は粉白色。初夏、枝先に径七センチメートル内外のほぼ平たい花序を出して、径約五ミリメートルの淡紅色の五弁花を多数つける。漢名、繍線菊。きしもつけ。《季・夏》(同上)

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 「口説の徒」という表現があります。あまり褒められた言い方ではなさそうで、元来が「口説」という語はそういう一面を持っていたのです。「言葉。弁舌。また、口先だけのもの言い。おしゃべり。多弁」「言い争い。文句。特に江戸時代、男女間の痴話げんか」(デジタル大辞泉)ここでは「口先だけのもの言い」というのが当たっているんでしょうね。つまりは「誠意のないもの言い」のことであり、そんなことしか言わない人間の「不誠実」が言の葉になってまき散らされている、そんな世上、世相を痛感しています。右の写真は国会における不誠実の見本のような「答弁」ー 「募る」と「募集する」は違うと強弁、というよりは相手を舐め切った、答弁にならない暴言を「強弁」し、「屁理屈」をこねる「元総理」。実に正視に堪えませんでした。疚しさを抱えて、要職に就くと、どうしても尊大で高慢で横柄な態度を貫かざるを得なくなる、不誠実の見本、口説の徒のお手本のような人物だった、とぼくは深い疑いを持っていました。この手の人間が一国の「宰相」に登れるんだから、この島も民主化された、いやされすぎましたね。最近、非業の死を遂げられました。この「死」に対しては、迷わずに新人の哀悼の気持ちを、なんどでも表明しておきます。

 「誤解」と「謝罪」それぞれには、元は由緒正しい「言葉使い」があったはずですが(今だって、あるところにはある)、今日、これがもう出鱈目の限りを尽くしています。「言葉は(乱暴な)道具」と言わぬばかりに、言葉という刃物を振り回し、いたるところに「刃傷沙汰」が絶えないのです。「何とかに刃物」ということなんでしょうか。「言葉使い」の良しあしを言う、それは「刃物使い」と同様、細心の注意を要するものだと、ぼくなどは考えているのですが、今ではそんな「注意」などどこ吹く風で、当たるを幸いに、好き放題の「放言」「虚言」「讒言」の乱れ打ち、それがもっとも「醜悪さ」「軽薄さ」において顕著なのは「政治の世界」です。「シモツケ」の佇まいを頭に浮かべながら、こんな埒もないやくざな駄文を綴ろうというのですから、ぼくも酔狂だと、はっきりと感づいてはいるのです。

 昨日も触れました。「誤解を与えたのであれば申し訳ない」という捨て台詞・科白(せりふ)です。言うに事欠いて、言葉だけの問題にしておけば、首を奪われないとタカをくくっている節がありありです。(今では窃盗や強盗でも首が飛ばないと、永田町相場ができているんだろうね)実に嘆かわしい状況になったものと、ぼくは寒心に堪えぬ。とにかく、どんなことを言ってもいい、嘘八百大いに結構、追及の手をかわせばいいんだ、だから「煙にまけ」と。ぬらりくらり、知らぬ存ぜぬ、誤解を与えたなら、申し訳ないと、心にもないことを言い募るんだ、それが「金科玉条」になったのが政治の世界であり、永田町の家訓だか、憲法だか。嘘と詭弁が政治力、それが政治家の器量だと、人民も甘く見られたものですが、それも仕方がないほど、人民自身も「口説の徒」の取り巻き連なんだ、「同病相哀れむ」、あるいは「類は友を呼ぶ」、「割れ鍋(政治家)に綴じ蓋(国民)」なんだからな。

 「誤解を与えたのであれば申し訳ない-。政治家らが問題発言の幕引きを図る場合、この言葉が定番となってしまった。公人がこうした“謝罪とは言えない謝罪”を繰り返していては、社会全体の倫理観の欠如につながるのではないか」とコラム氏は、まるで「寝言」を、目覚めていながら言っています、しかも真顔で。とっくの昔に「倫理観の欠如」が生じているのだ。この「気味の悪い風潮」を作ったのは、あるいはそれが顕著になったのは「凶弾に斃れた元総理」の内閣時代でした。閣僚が「失言」「放言」「食言」のたびに辞めていたのでは内閣がいくつあっても持たないから、とにかく「辞任・辞職」はどんなことが起ろうとしないという「閣議決定」が行われたか、とにかく、言葉で胡麻化す、記者諸君も仲間・身内だから、適当にしゃべっていれば、時間切れ、追及の矢は打ち止めになる、まあ、そういう始末に至ったのです。以来、無能・不適切・不適任大臣(その任にある人材はとっくに払底していた、だから、例の御仁が総理にまでなったという嫌いさえある)の花盛り、言葉が道具にさえなっていないのですから、政治家は「読み書き」をやり直すべきだろうといいたくもなる。漢字が読めない、原稿が読めない、他人の気持ちが読めない、世界の動きが読めない、これすべて「KY」というべきか。(*食言=「《一度口から出した言葉を、また口に入れてしまう意》前に言ったことと違うことを言ったりしたりすること。約束を破ること」(デジタル大辞泉)

 誰だって、それを聞けば、「誤解」(それが、じつは「正解」なんだが)しかできない発言(「発言者が言うような「正解」は、だれもしようのない発言)をしておいて「誤解を与えたのなら申し訳ない」という、この醜悪さ、それがいたるところに蔓延し、瀰漫し、いたずらに方々で「接触感染」「空気感染」さえ発生している時代です。もう見るに堪えず聞くに堪えないにもかかわらず、それを「報道」と称して「垂れ流している」のがマスコミです。「謝罪なき謝罪」や「うわべだけのおわび」という、軽忽・軽薄・軽佻・軽骨・浮薄・浅短・無思慮・無分別…、どこまで行っても止まりそうにないくらいに、この手の「悪戯」を非難する言葉選びには事欠かない、そ肝は、いかにも「口説の徒」が引きも切らないほどに、烏合の衆の如くということでしょう。(前総理が官房長官時代、原稿棒読みで「内容に関して無知」だったにもかかわらず、質問されると、一言のもとに「答えるに値しない」「あなたには応える必要がない」とか何とか、嘘、誤魔化し、恫喝まがい、をいかにも「堂々と」やらかし、顰蹙を買うどころか、あろうことか、首班にまで指名された。ぼくに言わせれば、盗人と猛々しいとは、このことを指す。何が書かれているか、内容や問題にまったく興味がない人間が、官僚筆になる原稿読んでいる、それで官房長官が務まるんですよ。バカ臭いね!)

 「誠実さを失った為政者の言葉が、一般社会に影響を与えないことを願いたい」と、再びコラム氏は「寝言」を言うが、入り口と出口がとが間違っていますね。「雷鳴」の名にそぐわない、ゆるキャラなのかしら。為政者の出鱈目さが社会に悪影響を与えるのではありません。社会のかなりの部分が、「腐敗」「堕落」しているから、政治家になる前に、人間が腐ってしまうのではないですか。腐ってしまった人間が政治家になるのです。政治家になって「不誠実」になるのではない、はなから「不誠実」だから、それは何になっても「不誠実」ということを、政治家になっても証明しているだけなんだ。「政治家は社会の鏡になるべき」と、なんという恐ろしい「冗談」を真面目に言われるんですか、「雷鳴抄」のコラム氏さん。「社会(世間・選挙民)が政治家を生む」のであって、その反対ではない。「誠実な政治家」というのは二律背反か、矛盾・撞着か。さては、「誤解を与えたのなら、申し訳ありません」と、貴殿(コラム氏)も言われるか。「誠実さを失った報道者の言葉が、一般社会に影響を与えないことを願いたい」というのは、拙者です。

(蛇足です 「シモツケの花言葉」は「無駄・無益・整然とした愛・儚さ・努力・自由・気まま」と、まことに融通無碍です。いったい誰がつけるのか、どうも「口説の徒」のような気がします。ほとんど、花の印象からは、そのような「花言葉」は、ぼくには浮かびませんな。花に言葉を託すのもいいけれど、人間が使う「言の葉」が汚れ、傷ついていますから、花も薄汚く、枯渇しそうになってしまう気がします)

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