半信半疑?

 この日の午前中、わたしは、マハトマ・ガンジーが生活したこの小屋のなかにずっと座っていました。この小屋に息づいている精神を吸い込んで、それが伝えるメッセージがわたしのなかに浸透するにまかせたいと思ったのです。この小屋では二つのことがたいへんわたしの心を動かしました。一つはこの小屋の精神的な側面で、もう一つはその居心地のよさです。この小屋を作るときのガンジーの視点を、わたしは理解しようとしました。また、この小屋の単純さ、美しさ、きちんとした様子がとてもわたしの気に入りました。この小屋は、すべての人びとへの愛と、すべての人びととの平等の原則を表わしています。メキシコでわたしに提供されている家も多くの点でこの小屋に似ているので、わたしはこの小屋の精神を理解することができるのです。

ガンジーの小屋

 この小屋には七つの場所があります。まず入ったところに、靴を脱いで、小屋に入るためにからだと心の準備を整える場所があります。それから、中央の部屋があって、この部屋は、大家族でもゆうに泊まれるほど大きい部屋です。今朝も四時に、わたしがその部屋で座って祈ろうとしていると、わたしの横には一つ壁に背をもたれて四人の人間が座っていました。向い側にも、くっついて座れば同じくらいの人数が入れる空間がありました。この部屋は、だれもがやって来て他人と一緒にいることができる部屋です。三つ目の空間は、ガンジー自身が座って仕事をする部屋です。さらにあと二つの部屋があり、一つは来客用、もう一つは病人用です。それから、外につながるベランダと広い浴室があります。これらの場所は、それぞれに非常に有機的につながっています。

 金持ち連中がこの小屋にやって来たら、きっとこの小屋を鼻で笑うかもしれません。でも普通のインド人の目から見れば、どうしてこれ以上大きな家が必要なのかわたしにはわかりません。この家は木と泥から出来ています。これが作られたとき働いていたのは、機械ではなく人間の手です。わたしはこれを小屋と呼びましたが、本当は「ホウム[うち]」と言わなくてはいけません。家[ハウス]とホウムとは違います。荷物や家具を納めておくのが家です。家と言うとき、われわれは、人間自身より、家具の安全や便宜を考えています。デリーでわたしにあてがわれた宿は、多くの便宜を備えた家でした。そうした便宜の観点から建物が構築されていました。それはセメントと煉瓦で出来ていて、まるで、家具と他の便宜品をうまく納めることができる箱みたいでした。われわれが理解しなければならないことは、われわれが一生のあいだに集めつづけるすべての家具や品物が、けっして内なる力をわれわれに与えないということです。それらの品じなは、足の不自由な人が持っているいくつもの杖です。こうした便宜を持てば持つほど、それに頼ろうとするわれわれの依存心は大きくなり、われわれの生活力はますます制限されていきます。

 それに対し、ガンジーの小屋でわたしが見た家具の類は、違う種類のものです。というのも、それらの家具にわれわれが依存しなければならない理由は少しもないからです。あらゆる種類の便宜に合わせて作られた家は、われわれが弱いものになったことを示しています。われわれは、生活する力を失えば失うほど、手に入れた品ものにますます依存するようになります。ちょうど、われわれが、人びとの健康のために病院に依存し、子どもたちの教育のために学校に依存するようになったように。病院も学校も、残念ながら、一国民の健康や知性の指標ではありません。病院の多さは、現実には、人びとの不健康を示し、学校の多さは、人びとの無知を示しているのです。同様に、生活を便利にする多様な品じなは、人間の生活のなかで、創造性が発揮される場所を最後の最後まできりつめてしまうのです。(イバン・イリイチ『生きる思想』桜井直文訳、藤原書店刊・1999)

 このような経験をイヴァン・イリイチ(Ivan Illich 1926-2002)がしたのは半世紀ほども前のことだったか。「あらゆる種類の便宜に合わせて作られた家は、われわれが弱いものになったことを示しています。われわれは、生活する力を失えば失うほど、手に入れた品ものにますます依存するようになります」という指摘は物質・便宜至上主義の時代病を言い当てている。ぼくたちの生きている時代ははてしなく「弱いもの」になっていくぼくたちに欠かせないと「信じ込ませる」品々でいっぱいになっています。もうそれなしでは生きていけなくなっているのです。ものを「多く」持っている人ほど「弱い」というわけです。コンビニエンスストアは、ぼくたちの弱さに付けこんで繁茂した蔓草のようです。コンビニの多さを誇る時代や島国はどんなところなんですかね。

 病院がたくさんあるのはそれだけ社会に(病人というよりは)「患者」が大量生産されているという意味であり、その社会の不健康度を示しているという。本来は自分の足で立ち、自分の足で歩くのが自然なのに、とイリイチはいいたいのでしょう。「病人(患者)」は「病院」が作る。いまでも問題視されるのですが、「無医村」や「無医地域」とはどんなところだったか。そこに、病院が作られた途端に、この地域に「病人(患者)」がこれほどいたとは、とは驚くのです。病院が必要であるのをぼくは否定しないが、それがいかなる種類の「治療」をほどこす病院であるのかがまず問われるべきでしょう。「患者」を自立した人間として尊重するような姿勢があるかどうか。

 「学校の多さは、人びとの無知を示しているのです」といわれて、「もうたくさんだ」と言下に拒否する(学校信者や学歴信仰者のような)姿勢を自分がとらないことを祈るばかりです。ものを学ぶのにどうして誰かに依存しなければならないのか、それも何年も何十年も、というのです。学校こそが「無知な人間」を作る。三十や四十になっても、七十や八十になってもだれかに頼るというのは、文字通り、学校社会であり、学校信仰社会であります。同じ答えでも、自分で考えついたのはよくなくて、教師から教えられるのが本当に価値があるとでも思っているのでしょうか。

 この「病院」と「学校」の存在理由をイリイチが述べたくだりは、今以上に周囲がよく見えなかった愚か者だった時代に、じつに大きな衝撃をぼくに与えたのでした。「脱学校」「脱病院」という彼の姿勢・思想は、以来ぼくの深部に巣くったままです。長く病院にいるとはどういうことか。学校歴が長いのは自慢することなのか。病院も学校も一人の人間の成長や自立にどんなことをしているのか。「医原病」はイリイチが作った言葉のようです。医療によって生み出される病気。「校原病」は?それはどんな症状をみせるのか。故岡部伊都子さんと話していた時、彼女はいいました。「私は学歴はあらへんけど、病歴だけはだれにも負けへんえ」。いかにも楽しそうに言われた。あるいは自慢気ですらありました。

 《物を疑うことの価値にめざめるとき、はじめて人間は進歩するのに、そういう起点は「忠誠」の二字におしつぶされていた。善意の教師、まじめな学徒はその害毒に深くむしばまれた。おしきせの優等生意識にはまりこんでいたぼくも例外ではなかった。だから日本人でない教師に出会ったとき、痛棒をくらうのは当然だった。

 東京外国語学校にはいってやがて作文を書いたとき、ぼくは「半信半疑」という日本語を横文字に直訳してもちいた。それを見たスペイン人ホセ・ムニョス先生は、ぼくをゆびさして言った。

「半信半疑?おかしいではないか。信ずるってことは疑わないことだよ。たとい二分の一だろうと三分の一だろうと疑う気持ちがあったら、それは相手を信じていないことではないか。どうして日本人はそんないい加減な言葉づかいをするのか」

 ムニョス先生は、驚きと忠告の思いを全身で表現しながら語った。ぼくは顔をまっかにした。はずかしさの裏に、しかし快感があった。英語のエデュケーションも、スペイン語のエドゥカシオン(教育)も、ラテン語のエドゥカティオ(ひきだす)という動詞からうまれたが、そのときのぼくは自分の内側から大切なものをひきだされていると自覚した。そういう快感だった。また、人間の言葉は全身で発音できることも、そのときに知った》

朝日記者時代のむのさん

《人間の可能性を信じて、それをひきだそうとささえ合う者はみな教育者である。その努力を怠る者は非教育者である。ひきだそうとしないで、逆に人間をなにかにおしこめようとする者は、職称が教育学者であれ教育大臣であれ、実体は反教育者である》(話し手・むのたけじ/聞き手北条常久『むのたけじ 現代を斬る』イズミヤ出版2003年)

 むのたけじさん(武野武治・1915-2016)は百歳を超えて仕事をされていた。「ぼくの人生には老後も余生もない」という生き方をぼくはむのさんから教えられた。「物を疑うことの価値にめざめるとき、はじめて人間は進歩する」というのはどんな教科書よりも教師よりもぼくの足元を照らす一条の灯りでありました。

 まったく異なった生き方をしたイリイチとむのたけじ。この二人が出会う交差点(crossing)にぼくは長い間立ち続けていました。今は脚力が衰えたために、安全を期して歩道に上がりましたが、それでもなお交差点を見つづけています。

 洋の東西、古往今来、「同じ方向・地点」を凝視していた先人がいた。ぼくにもめざす方向をさし示している無数ともいえる先人・先輩たちがいました。これまでの人生ではなにほどのこともできなかったけれど、いまなおその方向に向かってもたもたしながら歩き続けているのです。

 ハタから表札を…

  表  札

 自分の住むところには / 自分で表札を出すにかぎる。

 自分の寝泊まりする場所に

 他人がかけてくれる表札は / いつもろくなことはない。

 病院へ入院したら / 病室の名札に石垣りん様と / 様が付いた。

 旅館に泊まっても / 部屋の外には名前は出ないが / やがて焼き場の鑵(かま)はいると

 とじた扉の上に / 石垣りん殿と札が下がるだろう / そのとき私がこばめるか?

 様も / 殿も / 付いてはいけない、 / 自分の住む所には / 自分の手で表札をかけるに限る

 精神の在り場所も / ハタから表札をかけられてはならない

 石垣りん / それでよい。

  このように断固と言い切った詩人は2004年12月26日に亡くなられました。石垣りんさん、84歳。彼女が銀行に事務見習いとして就職したのは昭和9年(1934年)、14歳のときでした。初任給十八円、昼食代支給だったそうです。

 「私は好きなことをしたくて働くことをえらび、丸の内の銀行に入社しました。以来三十年余り、同じ場所に辛抱しておりますが、職業と生活は、年月がたつほど私を甘やかしてはくれなかったので、結局そこで学びとらされたのは社会と人間についていでした。戦争も、空襲も、労働組合も、です。

 終戦後、労働組合が結成され、職場の解放と共に、働く者の文化活動が非常に活溌になった一時期、衣食住も、娯楽もすべて乏しく、人々は自分の庭や空地に麦、カボチャを植えて空腹の足しにし、演劇も新聞も自分たちの手でこしらえはじめたころがありました。

 戦前、同人雑誌など出し、詩や文章は職場とは関係のない、ごく個人的なものと割り切っていた私は、自分と机を並べている人たちから詩を書け、と言われることに新鮮な驚きを覚えました。私に出来るただひとつのことで焼跡の建設に加わる喜びのようなものがありました。同時に、人に使われている、という意識が消え、これは私たちみんなの職場なのだ、と思うことの出来た、わずかに楽しい期間がそこにありました」(石垣りん「花よ、空を突け」)

 石垣さんは苦労して一家を支え、営々とあるいは孜々として詩作に励まれた。その詩の多くは、ぼくにはある種の決意というか断固たる姿勢・態度の表明のように思われ、心して読んできました。「表札」はいかがですか。どなただって、自分の表札に「〇×▲◆ 様」と「様」をつけないでしょう。いや知らないのはお前だけで、〇様や▽博士や◆弁護士などと、麗々しく添え書きしている人がたくさんいるんだよ。たしかにずいぶん昔はあったのをぼくも知っていますが、さすがに今日ではないでしょう。

 ある大学で総長だった人物が入学式や卒業式で「おめでとう、この一流大学に…」といった祝辞の記録を読んで驚天動地というほどではないが、なんという無恥者めと呟いたことを今でも覚えている。そのように詐称(自称)したのは一人だけではなかったから、しばしばのなさけない経験でした。一流だ、名門だなどということ自体が当人の人品をあらわしているのですが、一向に気づかないから、本人は平気なんですね。「祝辞」さんはそんなに品のある風にはまず見えませんでした。それにしても、ランク付けも廃りませんね。みなさん(ではないが)、胸に表札(肩書付き)をぶら下げた気分になって街中を歩いていらっしゃる。ハダカかも困りますけど、表札や勲章・徽章はどんなものですか。制服だっていやでしたから、ぼくに「表札」は無用でしたね。一流ではなく末流、名門ではなく無名門、あえて言うならそれだった。

議員バッジ

 成績一番になりたい、業績は会社のナンバーワンだ、世界の一位に命を賭けて、社長になりたい、大臣になりたい、もっと上になりたいという目標はまちがってはいないし、それをぼくはとやかくいうつもりはありません。どうぞ、勝手におやりください。ただし他者に迷惑をかけないで、というばかりです。「なりたい病」は感染し、蔓延する性質をもっています。地位や肩書ばかりが目標になると、どうでしょう。苦節何十年、ついに社長になれた、そして会社はつぶれた。こんな事例がたくさんあるんじゃないですか。「目標千何百何十店、▽▼薬局」という薬屋さんがありましたが、近年はあまり見かけません。目標達成はどうなったか。「イキナリステキ」も素敵じゃなくなりました。どこで躓いたか。 

独鈷(どっこ)

 「自分の住む所には 自分の手で表札をかけるに限る」というのは精神の自立宣言のようですね。自分の足で立ち、自分の足で歩く。もっといえば、ぼくは自分のお尻の上に座ることにしています。小さいし、固いんで坐りごこちはとても悪い。まさか、お尻を貸しててくださいとは言えないからね。だから他人の尻はいうまでもない、他人の肩にのっかってなんて、というのはご免被るのを心情にしています。「ボロは着てても ココロの錦」(「いっぽんどっこ」の唄から)「どっこ=独鈷」密教の法具)と水前寺清子さんは謳われました。「行くぜこの道 どこまでも」と今でも歩かれているのでしょうか。遥かなる道を自足で歩くのもまた哲学です。(たまには休憩したい張三)

 

 United by Emotion

 またぞろあちこちでOne Teamっていってるでしょ。United by Emotion ともいったようです。これを耳にしてたまげました。どういう意味なんだか。言いたいことはわからない。分かりそうで分からない。懲りない面々だなと思う。「コリル」というのがどんなことかわからないんだね。「懲りる」の万世一系はないものか。ぼくは万世一系の「ワンチーム」は忌み嫌うね。暴力の万世一系ってのもある、いまもつづいてるでしょう。ぼくはそのチームの一員なのか。「お前なんか、入れないよ」といわれるだろう。それにかかわりなく「金輪際、おれはつるまないんだ」除け者になるのがいつでも夢だったから。「おい、仲間になれよ」といわれると、ぼくは逃げ出していたね。

 日本人ならだれでも「オリンピック」大歓迎だと勝手に思いこむやつがいるから世話はないね。日本人なら、旗を振るのは当たり前だ、とくる。それは誤解ですね。日本人といっても五万といますから、五輪が好きもいれば嫌いもいる。「何、嫌いだと。そんなの日本人じゃねえよ」と思い込んだら命懸けだけど、思いが醒めるのも早いんですね。ぼくは嫌いだからといって、妨害はしない。

大会後、ここでぼくらは体育祭に参加させられた(1964/10)

 ぼくの好きな都々逸にこんなのがあります。ちと、直截(direct)すぎますけれど。島国に生まれたから、こうなるのは当然と勘違い・勘繰りをしないでほしい、というだけです。

 裸で寝たとて惚れたじゃないよ お前のしらみがうつるから

 United by Emotion を google 翻訳に訊ねると「感情によって結合」とあった。別に google 翻訳でなくてもそんなところ。これが五輪のスローガン(モットー)だというのです。ご臨終だね。やがて、この旗が列島狭しとはためかされるそうです。「感情によって結合」だからこそ、御免こうむりたいのだ。歌え踊れと旗を振るのは一向にかまわないんですけれど、どこかでやってほしいという「感情」をぼくはいだいている。「みんな結合」「みんな一つに」「一致団結」「一糸乱れず」とかならず吠えたくなるのもどうかと思います。「乱れる」やつは許さない、血祭りにあげてやれと迫りくる。明治以降の戦争ではさまざまな悍(おぞ)ましくも勇ましい標語(旗)が現れました。

 挙国一致、尽忠報国、堅忍不抜、八紘一宇、一億抜刀、一億玉砕、鬼畜米英、神州不滅(ぼくはこれが好きとは言いませんが、「神州」という命名に思い当たります)たしか吉川英治氏の小説のタイトルは『神州天馬侠』だったと記憶しています。内容はすっかり忘却の彼方へ。「信州」でも「真宗」でもなく、神の州(クニ)とは。(今どきの交通標語はこれら(戦時標語)とそっくりですね。「交通戦争」だからですか。例を挙げたいのですが、やめておきます。「注意一秒、怪我一生」)(???)

 あげれば際限がないほど無数にあるといえます。ここでは恥ずかしくて掲げられないのもあります。文部省を通じて児童生徒から募集したのも。「ほしがりません勝つまでは」はたしか小学生の女児の作で当選したが、後で親が応募したことが判明、何というのもありました。言葉が旗になるのではなく、とにかく旗にする一大勢力が働いたんですね。これは「ハタメイワク」だ。

 「日本人なら、ぜいたくは出来ない筈だ!」という標語(?)ですか。「「生めよ殖やせよ國のため」(「赤子」という語も使われました)というのも。「ただいま、戦争中ですよ」と言い返したいね。戦力・戦士になるにはまだ二十年先ということは、それくらい戦争を続けるってことですか、本気かいな。「少国民」というのがもてはやされました。「常在戦場」と選挙を控えた議員さんや候補者たちはいつもいいます。「戦い」好みなんですね。抗戦、もとい好戦派かな。

 「頑張れ!敵も必死だ」と。たしかに勝負だからそういいたいが、すでにアメリカは島国と戦争する前(あるいは直後)に「占領政策(計画)」を立てていました。勝ち負け以前の話でした。その一環で『菊と刀』(R.Benedict)は書かれた(発刊は1946年)。「恥の文化」という日本及び日本人理解。いわばアメリカ版「日本人論」です。一読を薦めますね。

 勇ましすぎて、空回りしてるのがいっぱいあります。「撃つんだ 勝つんだ 貯めるんだ」「勝つまで要るだけ 貯めるぞ貯蓄」これはどこの銀行の標語(?)、あっ日本(帝国)銀行だったか。「貯蓄は 兵器だ 弾丸だ」といって、カネがタマだった。そういっておいて、カネを巻き上げる算段でした。敗戦時は紙くずになっていました。

 意味不明なのが「「世界の敵だ 白旗たてても 許すな米英を」です。(戦時)国際法を無視していますね。この旗の下、「捕虜になっても、敵を憎め」ということでしょうか(怨念の勧め)。きりがないので最後にします。「屠(ほうむ)れ!米英我等の敵だ」と。そういった相手にしがみついてきた戦後75年。「戦後レジーム」を総決算するためと出てきたのが「現大将」じゃなかったんですか。それは「占領体制」の払しょく、新たな「被占領体制」の構築だったようです。まことに信用できないというのです。

 まるで「五輪」は戦争なんでしょうか。ある人たちにとっては、そうなんでしょう。腹の中では、ここに掲げた数多の「スローガン」が響き渡っているにちがいない。「鬼畜米英」とかね。(日本人なら、そうするんだ)ちょっとぼくはしばしでもずっとでも「日本人」をパスしたいですね。 「感情で団結・結合」だというのです。頭を冷やせ、寝言は寝てからといいたいですね。(「頭寒足熱」も標語です。医者か薬屋か作成者は)運動というか、スポーツは好きだし、自分でもいくつかの球技を楽しみました。だから、五輪は止してくださいというのではありません。どうぞおやりください。でもだれかれかまわずに旗振りに集え応援しろというのは御免こうむります。 

 現下のウィルス問題にかかわらせて、あるいは五輪開催はどうなんだという声が内外に生じてきました。要路の人たちには「口が裂けても言えない」ことがあるのでしょう。「集会禁止」は五輪中止を連想させますからね。ぼくは静かに猫と遊ぶか。桜開花も間もなくです。昔なじみの新宿御苑にはいかない。近間の人の来ないところで。世間ではほとんど知らない・知られていない「枝垂れ」(樹齢350年)が早くこいこいと、手招きをしているみたいです。ぼくは「サクラ」で「税金」は使わない。

 心根が不誠実である

 ほとんどテレビを観ない。理由は明白です。ぼくは影響されやすい人間だから、画面に映し出される政治家・公務員や企業家、さらには有識者やテレビ常連の芸人さんの「不徳のいたす悪行」や「慇懃無礼な独善者の背徳」「内容空虚な言動の連鎖」にほとほと嫌気がさし、脳梗塞あるいは狭心症寸前にいたっているからです。つまるところ、「悪徳」「下品」「軽薄」に汚染されるのが嫌だからです。さらに言えば、テレビに関しては観ようという気力がない。垂れ流されるコマーシャルが品性下劣の見本(他人のことはいえないが)、制作者の意図が不快かつ不純であり、頭脳や身体に危害を及ぼすほどの醜悪なるものが大半だということ。売れればいい、収入があがればいいという極悪徳商法にうつつをぬかす当事者たちの脂下がった顔貌が見えるよう。それを操り人形師のごとく支配する広告媒介業者がまたとんでもない辣腕をふるって、マスコミ界を腑抜けにしている。番組の質に問題があるというのは論じるまでもない。今頃の若い人はテレビや新聞にアポローチするのかどうか。紳士淑女の皆さん、危うき(醜悪・背徳)に近寄らず、です。マッチ一本火事のもと、テレビ一台不義のもと。近藤マッチはドライバー。(なにこれ(?))

 若いころはテレビの前に座るときもあった。近年のぼくのテレビ嫌いはぼく自身に問題があるというよりは作る(流す)側にはっきりとした問題点があると断じたいね。公(国)営放送については話すのも無駄だが、あえて一言、組織の内部に大きな病巣があるんじゃないですか。人でも家でも企業でも国家でも長く続いたり、競争相手がいなければきっと腐る。かならず堕落・頽廃する。その中にいるものが腐敗・堕落に気づかないからだ。この腐敗や腐臭は消臭剤や防腐剤では防げない。

 テレビ界とそっくりなのが新聞界。宅配の新聞を購読しなくなって何年になりますか。いまはネットで世の中の「動静」(じゃなくて「動動」)をなぞることができるので、新聞もテレビもぼくには無用。現今の「新聞」はどこかの組織・組の「機関誌」「広告塔」のごとくです。雇用主と同様の嘘や偽りを無反省に書き写すだけ。ここで、胸糞が悪くなるような話題に触れようとしたのは、たまたま国会中継なるものを観てしまい(魔が差したんだ)、陳腐さ加減の衝撃を喰らい、まるで白昼に悪夢を見るような不快千万の気分に襲われたからです。愚かしい「大将」が嘘を吐けば、もろもろ(下々)は右にならい、上にならう。矜持というものが捨て去られてしまった無法状態。様々な場面で想像のつかない悪影響を及ぼしていると思う。愚の感染力は凄いんだ。

 ぼくが驚いたのは、とっくに「代替わり」しているにちがいないと早とちりした「某君」が同じ顔をし、同じ口から自己保身だけの御託を並べ立てていたことでした。恥も外聞もないとはこのざまを言う。いまから七年前でしたか、ぼくは頼まれて小さな雑文をどこかに書いた記憶があります。前回は不本意な「疾病」のために辞めたけど、今度は満を持し、あるいは捲土重来を期しての登壇だから侮れない、と。相当に作戦を練ってきたはずだから、「おのおの方十分に気をつけよ」という意味のことを書いた。もちろん、ご本人は小心で無能、だからか、自己肥大の宣伝ばかりにはたけている。その上「不誠実」のレヴェルは抜群だとぼくは感じていました。実がないというか、心がこもらないことおびただしいという謂です。これに有象無象が取り憑いたというのがこの劣等の政治状況でした。時を得たな。

 虚言癖(すでに性情ですな)がいまなお継続していたのを目の当たりにして驚愕した。嘘八百の言辞を並べるその神経たるや勲章(大勲位か)ものです。ぼくはうかつにも「そっくりさん」かと錯覚したほどです。この島でこんなことが延々とつづいていたというだけで、ぼくはすっかり悄気た。たまにはテレビの電源をいれるものだとも思った。こんな手合いが年間100兆からの予算を勝手放題にドブに捨てるようにして無駄遣いしていたのか(彼は傀儡だが)と考えると、悄気てもいられず、テレビを消しても存在は消えないという理不尽さに途方にくれかかっていた。糠に釘、暖簾に手押しというが、「そんなことは無駄だからよしな」という戒めではない、無駄かもしれないが、釘は打ち続け、手押しは続けなければならないといいたいのです。眉間に五寸釘ではありません。糠です、糠に釘。まるで糠じゃありませんか。「糠喜び」とはなんだか。この劣等の「大将」は糠であり、「暖簾」なんだというだけでは足りない。即刻お払い箱に、暖簾を下ろす時期が来た、今こそです。それを念じてやまない。

 この駄文の主題は「不誠実」とは、です。以下の引用には解説も解釈も不要でしょう。

 「…はっきりした言葉の敵は不誠実である。人が不誠実であって、自分の実際の目標を隠そうとする時、その人は本能的に長い言葉や決まり文句を次から次へと繰り出すのだ。普通の人間が自分たちの使っている普通の言葉ではっきりものをいう習慣を保とうと努力する時、その社会の政治の水準は、ある程度に保たれる。ここには、だれでもできる重大な政治的行動があり、…」(鶴見俊輔「オーウェルの政治思想」)

Billy Mayhew 詞・曲 1936年ーPatti Page,Billy holiday, Tony Bennetなどの歌声が今も耳に聞こえてきます。「嘘は罪」

 「バカも休み休み言え」と諫言する同士や手下がいないのはわかります。それは「天に唾」の所業だからです。俗耳にもよく入ってきた「嘘も方便」とは「嘘は罪悪ではあるが、よい結果を得る手段として時には必要であるということ」(デジタル大辞泉)とありますが、おのれだけにとって「よい結果」を得るためのウソであり、民衆には最悪の愚行でしかない。「不誠実」を感受(自覚)できないのが「小山の大将」です。自分を大きく、でっかく見せようとする算段が講じるとこういうバカみたいなおっさん(俗物)になるという見本・手本です。「一蓮托生」とはもと仏説の言。「よい行いをした者は極楽浄土に往生して、同じ蓮の花の上に身を託し生まれ変わること。転じて、事の善悪にかかわらず仲間として行動や運命をともにすること。▽もと仏教語」(デジタル大辞泉)この国の「中央議会」の先生たちはまさしく「一蓮托生」の愚連隊か、「与」も「野」も同じ空気をつねに吸っているのだから、仲間互助の意識が生まれないはずがない。そうでないなら、この「嘘」に凝り固まった御仁(痴れ者)がここまでナントカの椅子にしがみ続けるわけにはいかなかったから。おそらくは美しい「惻隠の情」がはたらいたにちがいない。アナ恐ロシア。

 「私は、このようにおもう。たとえまちがったことをしても、私には彼ら国家指導者ほどの悪をなしえない、ということです。繰り返しますが、どんなに私が悪いことをしても、かれらほど悪いことはなしえない。それを私は自信をもって言いきることができる。ここに、私と国家指導者との重大は違いがひそんでいるようにおもう。(略)」(以下の引用はいずれも鶴見俊輔「国家と私」より) 

 おそらく鶴見さんは「戦争」を起こし、戦時を指導した軍人・政治家を第一義(念頭)にこの文章を書かれたにちがいない。「戦時」であれ、「平時」であれ、国家指導者はぼくらとはけた違いの「悪」をはたらくとぼくはいいたい。同じ犯罪であっても、彼らははるかに罪が重いのは当然じゃないですか。刑法では量刑は同等でも、やはり罪の軽重は疑えないとぼくには思われるのです。その理由は(?)鼻たれ小僧(今は絶滅種か)が嘘をつくのと「大将が」嘘を吐くのは同罪ですか。嘘に変わりはないけれど、ね。

 「私たちは国家指導者ほどの悪をなしえないということの故に、私たちのほうが倫理的に優位に立っている。そのことによって私たちは、自由に国家指導者を批判できる立場にいる。ところが、やはり心の底のほうにあるわだかまりによるものか、その信念があとで簡単にひっくり返ってしまうことがある。結局、国家指導者の方が偉いのではないかといった漠然たるものが私のこころのそこにあると、危ない。」(同上)

 鶴見さんの文章がいつ書かれたか。時代の状況や背景は今日とはことなるのは言うまでもないが、人情は「紙風船」であることに変わりがないようにも思われます。損得が判断の基準になって何が悪いという、その心根が救い難いんだ。「義理が廃れば、この世は病み(闇)だ」(「人生劇場」令和版)

 「私は国家指導者ほどの悪をなしえない。したがって、その点において私のほうが国家の指導者よりも優位にあるという自信ーそれを忘れないでいたいと、私は考えます。」(同上)

 目が覚めたら、「大将」が変わっていたという発見(正夢)を夢想する。このままでは百害あって一利なしです。かような事態が永続するのは、愚弄しながらでも「大将」を弄ぶほうが、おのれの身になるとほくそ笑む輩(一連)(取り巻き)(サクラ・サクラ)が五万といるからだ。後は誰でもいいとはいわないし、いくらなんでも現「大将」よりはマシだろうという甘い考えは止した方がいい。「同じ穴の狢」ばかりだから。(むじなさんごめんなさい。「わたしは人間ほど質は悪くない」といわれるのはごもっとも)現状は「政治不信」などと洒落たことをぬかす水準に達していないのだから、「有象無象」に身を任せるな、自分の足で立て、ふりかかる火の粉はたたき潰せというだけです。この方面のウイルスの方が質が悪い、悪すぎるし、感染力もやわじゃなさそうです。ワクチンはない。歴史に学ぶだけです。その上で、「個人的自衛権」の着実な行使を心掛けるべし。「帝力何有於我哉」(なにが政治家だよ、服は着てから歩け、寝言は寝てから言え)

 言葉を弄するものは、おのれをも弄するにちがいない。(ぼくは厳に戒めている。たとえ雑文・駄文といえども言葉だから)嘘は嘘でしか向き合えない。嘘で塗り固める防御癖化した「御大将」。ここまで来てしまって、少しは困っているのだろうか。ナントカの面にナントカ、かもしれません。「嘘つきは泥棒の始まり」ならば、島国では「泥棒が大将」なんだね。世界に冠たる虚言王かな。こんな言葉が出てきました。「冠履倒易」その意味はいかが(?)上下が逆、ということか。一日も早く辞めてくれといいたい。それこそがなしうる最大の「社会貢献」ですから。(いっても詮ない千鳥かあ)(雑文にもならぬ)もうこんな手合いに関する駄文は書きたくないね。(「春よ来い来い。ウグイスよ啼け、啼いてくれ」)

 「勇気あることば」

 念仏して、地獄におちたりとも、

 さらに後悔すべからずさふらふ 

            ―親鸞 

 親鸞晩年、京にいるころ、かつて教化した関東の門人たちが念仏してはたして往生できるかと、根本義に疑念を感じてはるばるたずねてきた。その様子が〝歎異抄〟冒頭のうしおの鳴りうねるような名文のなかに出ている。

「おのおの、十余カ国の境をこゑて、身命をかへりみずして、訪ね来たらしめ給ふ御こころざし、ひとへに、往生極楽のみちを、問ひ聞かんがためなり」

 と親鸞は、まずその労をねぎらい、しかしながら、という。おそらく念仏の奥義秘伝などを親鸞は知っていると期待されてのことであろう。それならば大いにまちがいである。親鸞はなにも知らぬ。ただ一つのことを知っている。

 親鸞はいう。親鸞においてはただ念仏して弥陀にたすけられ参らすべし、という一事をよきひと(崇敬する師匠・法然)のおことばどおりに信じているだけである。そのほか、なんのしさいも別儀もない。  

 さらにいう。念仏すれば本当に浄土にうまれるのか、それとも逆に地獄におちてしまうのか、総じて親鸞は存ぜぬ。しかしながらたとえ先師法然上人にすかされ(だまされ)、そのため「念仏して、地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずさふらふ」。

 考えてもみよ、と親鸞はいう。弥陀の本願が真理であれば釈尊のご教説はうそではないであろう。釈尊のご教説がまことならば善導(中国における浄土教の祖)の御解釈は虚言ではあるまい。善導が虚言でなければ法然のおおせ、そらごとではあるまい。法然のおおせまことならば、親鸞が申すことまた空しかるべからず。

 宗教は理解ではない。信ずるという手きびしい傾斜からはじまらねばならない。その信ずるという人間の作用についてこれほど剛胆な態度と明解なことばを吐いた人間は、類がないであろう。

 しかも親鸞はいう。この上はおのおのの、念仏を信じようとも捨てようとも、おのおのの一存にされよー信とはそういうものであろう。             

さらに親鸞はいう。

「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」

 信仰はおのれ一念の問題であり、弟子など持てようはずがない。教団も興さず、寺ももたぬ。なぜならば弥陀の本願にすがり奉って念仏申すこと、ひとえに親鸞ひとりが救われたいがためである。

 右のようなことばの根源である親鸞の勇気は、かれがかれ自身を「しょせんは地獄必定の極悪人」と見、自分を否定し、否定に否定をかさねてついに否定の底にへたりこんだ不動心のなかから噴き出てきたものであろう。(昭和42年5月)『司馬遼太郎が考えたこと 3」、新潮文庫。2005年)

「散る桜 残る桜も散る桜」(良寛)

 いきなり結論が出てしまったような成り行きです。ぼくは若いころから司馬さん(1923-1996)を読み続けてきました。とにかく面白いからです。ぼくのいう「雑談(ぞうだん)」そのものが活字になっているという驚きと感心の両方がぼくの中に生まれていました。それと彼が関西(兵庫)出身だったことが、彼の文学や随筆にも、ぼくの司馬好みにもおおきな役割を果たしたと思う。

 たった一度だけ、司馬さんに会った、というより、一瞬のうちにすれちがったことがありました。たぶんぼくの25歳前後の頃でした。用事があって西武線の大泉学園に行った際、訪問先に着く直前に、狭い道路で司馬さん一行(おそらく編集関係者が2、3人いたと思う)と鉢合わせしたのです。まさにencounterです。どちらかが譲らなければ先に進めないような状況でした。すぐに司馬さんだとぼくはわかりました。(白毛でしたから)ここで声をかけるわけにもいかず、数秒間顔を見合わせて、やおら行き過ぎたのでした。たったそれだけ。後から思い合せて、司馬さんは当時大泉に住んでおられた五味康祐氏(1921-1980)のところに行かれた帰りだったのか、と気づきました。五味さんは『柳生武芸帳』で知られた剣豪小説の大家。私生活の部分でも世間を賑わせた方でした。また異常なほどの音響機器マニアで、大きなスピーカーの前にバスタオルをつるし、レコードの低音部を最大にしては「どうだ、震えただろ」などというバカげた逸話が残されています。小説よりもこの方面の五味さんに興味を持ったことがありました。音楽ではなく音響(機械)に、です。

 後年になりますか、この近所に藤澤周平氏((1927-1997)も居住され、数えきれないほどの作品を残されました。彼をもまたぼくは最後まで追っかけた作家で、全集はいうまでもなく、ほとんどすべての単行本や文庫本を今でも所持しているほどです。(バカみたい)藤澤さんは山形師範学校を出て、小学校の教師をされますが、胸(肺結核)を病み、療養のために上京。清瀬の結核療養所に長期だったか入院されました。この間の、言いようのない苦悩や葛藤が後の藤澤文学の骨格になったのではなかったか。教師時代の彼にぼくは興味を持ち、少しばかり調べたことがありました。今は遠い昔の物語となりましたが。『やまびこ学校』の無著成恭さんと同窓(数年先輩格)だったと思います。

 親鸞に戻ります。

「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おはせさふらひき」

「教行信証」のi一部分

 いわゆる「悪人正機」説とされる、もっとも多くの人士の関心を引いた箇所であり、同時につまずきの石になったところであります。「善人だって極楽に行けるのだから、悪人が往生極楽するのは当たり前ではないか」と親鸞はいうのです。その悪人こそ、だれあろうこの親鸞であって、ひたすら念仏を唱えるのも、わが身が救われたいがためだとにべ(鰾膠)もないことをいうのです。誰かのためになる、誰かを救うためなどという嘘偽りを彼は断じて否定したのです。自分を棚に上げて、悪人諸君、民衆よなどと人民を睥睨する(見下す)俗にまみれて俗を軽侮したつもりでいる悪人坊主(「悪人」という自覚はまったくなかったでしょう)の臭気は親鸞にはみじんもなかったとぼくには思われます。宗教宗派の破壊者・親鸞の真骨頂だったとぼくは一人でうなずくのだ。

 明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは(宗教破壊者の「宗教」?)

 善人なをもて往生をとぐ

 ぼくは真宗派はではない。わが家にも宗派はなさそうです。だがお墓だけは京都にあります。菩提寺というのか、菩提所というものがあるんですね。嵯峨は広沢の池そばのH寺(真言宗・空海さん一統)で、これは親父が亡くなったときにおふくろが案配して墓所を購入したからで、この寺の門徒(?)ではありません。「会員」かな。今は亡き両親が仏としておさまっています。この寺は古くて、十世紀末の創建とされる。この寺よりも少し東南方面の御室にある仁和寺派の一員です。仁和寺は吉田兼好さんにも親しいお寺でした。ぼくの通った学校の区域内にあったのでよく境内や裏山に遊んだものです。ぼくは学校よりもよほど野外好きで、暇に任せて近隣の山川を逍遥(だって)したのをいまにして想いだしています。

広沢の池。少年の頃、ここで泳いだものです。背後の山が寺の所領でした。

 ぼくは数年に一度墓参りに訪れる以外は寺に足を運びません。先代の住職はぼくたちの中学校の国語教師でした。二人の姉の担任でもありました。現住職はぼくの弟と同期らしく、麻雀の卓を囲んだそうです。何かあるとスーパーカブにヘルメットといういでたちでお経をあげに来られます。ぼくは「信心」というものをお寺さんにほとんど感じたことがないですね。住職のせいではない。

 ぼくはどういう背景があるのか、親鸞さんにはわりと早くから親しむというか、耳慣れていました。親戚の多くが門徒で、お葬式にはかならず親鸞さんの「遺言」(御文章)を聞かされたりしたからです。でも坊さんが語る親鸞の「お経」(仏説阿弥陀経)や「ことば」をありがたいと聞いたことも感じたこともない。分かって唱えてるんだろうか、といつも不信の念に満たされていました。

 第一、ぼくは寺が嫌いだ。島国に存在するほとんどの寺が「葬式」だけを生業にしているからです。その俗業(葬式仏教と呼ばれる)を離れて、ひたすら回向や礼拝に勤しんでいる坊さんたちもいるのでしょうが、なかなか出会うのはむずかしいようです。ちなみにおふくろの実家は能登にあり、一向宗派でしたが、日蓮さんの一派も元気でした。だから、これも「習わぬ経」を読むではありませんけれど、日蓮には親しんでいました。生意気に『立正安国論』なども読んでいましたよ。信者の集まりはいかにも騒々しいですね。何派にせよ、ぼくは「いかれる」のはいやでした。

 ここにだれでもが手にする『歎異抄』をだしたのはなにか深いわけがあってのことではありません。暇にまかせて「読み書きした」ときの親鸞に関するメモが出てきたので、少しはほこりを払って手を合わせようじゃないかという程度の「仏心」(邪心)を起こしたまでです。面倒なのでぼくはほとんど読んではいませんが、『歎異抄』の解説・読解の類は無数といっていいほど存在し、その気にさえなれば今でも読むことができそうです。明治以降だけでもちょっとした図書館ができるのじゃないかと思うほどに多くの人が書き、それを上回る人によって読み継がれてきました。その理由はなにか、ぼくには答えられませんが、まあこの列島の親鸞好きたちはまるで親鸞の弟子であるかのごとくに、唯円坊に自分を重ねて親鸞の祖述を自己流に実践してみようと(読み書き)したのかもしれません。

 現にぼくの手元にも十冊ばかり「歎異抄」の解釈本があります。探せばもっとありそうです。今はその中の数冊をいじりながら、「悪人」「善人」「往生」「阿弥陀」などなどのカギになるようなことばを手がかりにして親鸞入門のとば口に立とうという心算なんです。「悪人」とはだれか。「(決まってるじゃん)それはお前だ」という声がしきりにします。「悪人である自分」が「往生とぐ」というのですから、はて、いかにしてと、と問わざるを得ないわけです。親鸞いうところの「悪人」は半端じゃないようですね。生きている人間(衆生)はことごとく「悪人」だというのですから。

 「善人なをもて往生とぐ、いはんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をや。この条一旦そのいはれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆへは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。」 

 良寛さんの次は親鸞さんです。いくら「自撮り」「地堀」とはいえ、無謀も無謀、まるで犯罪に等しいぞ。親鸞というお方は「上人」ではなく「聖人」でした。(いずれも「しょうにん」と読みます)彼の師にあたる法然は「上人」と称されているのに、親鸞に対しては「聖」なる人とされたのはどうしてか。彼は自らをして「愚禿親鸞」とまで称していました。それは謙遜などではなく、心底からおのれは「愚」であるという確信をいだいていたにちがいない。先に触れた良寛さんの号は「大愚」でした。気取りや酔狂ではなく、真実、おのれは大バカ者であるという自信があってのことだったと思います。賢と愚、どっちを取る。若い時は「賢」さ。でも今じゃ「愚」っとくるね。ぼくは偏愚だと自認しています。

 つまらない理屈はともかく、ぼくはまるで気力も体力もなく、もっとも肝心の「知力」「地力」もなくて、南北両アルプスに聳え立つもろもろの高峰を普段着で登攀しようなどという無謀を犯そうとしている、浅はかな所業を仕出かそうとしている、その自覚ははっきりとあります。きっと登り切れない、かならず途中で遭難する、あるいは、悪くすれば下山さえおぼつかないという悲惨な結果を予感しないわけではないんです。「しかれども、自力のこころひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり」という、この聖人の言葉(人を誑かすんだね)にすがりながら、煽てられながらの暗中模索であり、嚢中無銭の奇行をはたそうと、狂気の沙汰に及ぼうとしているのです。止めるのはいつだ、今でしょ。(「煩悩具足」のわれ)