心に春が来た日は赤いスイートピー ♫

【正平調】〈春色の汽車に乗って海に連れて行ってよ〉。詞を見ただけでメロディーを口ずさんだ人もいるだろう。少女の切ない恋心を歌った松田聖子さんのヒット曲「赤いスイートピー」である◆この名曲が六甲山を走る摩耶ケーブルの出発メロディーになると聞き、お披露目式に行った。作詞した松本隆さんも訪れ照れくさそうに語った言葉がいい。「これが“春色の汽車”になったら、僕もうれしい」◆仕掛け人は「摩耶山再生の会」の事務局長、慈(うつみ)憲一さんだ。十数年前、閑古鳥が鳴きかけていた摩耶山を「大人の遊び場」に変えたアイデアマンである。昔から松本さんのファンで、山頂の施設で松本さんの詞の「朗読会」を開いたのが奇縁のはじまり◆行動の人である。今は神戸を活動拠点にする松本さんの快諾を得ると、知人の音楽家や造園家、地元住民に声をかけ、赤いスイートピーの栽培も始めた。〈線路の脇のつぼみは〉と歌詞にある通り、20個のプランターを摩耶ケーブル駅のホームに並べる◆実はこの曲が発表された当時、園芸用のスイートピーは白やピンクが主流で赤はなかったという。少女の恋心が咲かせた花なのだろう◆開花は4月中旬ごろになるという。春色のケーブルカーに揺られ、眼下に広がる海を眺めたい。(神戸新聞NEXT・2023/03/22)

 昨年三月、聖子さんが還暦を迎えたという。不思議でもなんでもありませんが、懐旧の情に絆(ほだ)されてしまいます。ぼくは彼女のファンでもない。しかし、デビュー当時から、その音楽は耳に入っていたし、テレビでも、しばしば幼い「怪物」「女傑」という感じで眺めていました。理由は単純で、家の娘たちがいろいろな評価を交えながら、彼女を鑑賞・批評していた、その影響を受けたからでした。当時、まだ小学生だった娘たち(ツィン)の追跡の的は「アルフィー」だった。特に、高見沢さんの大ファンだったようで、大変なネツの入れようですね。そのアルフィーに入れあげていながらの「聖子ちゃん」だったから、何かと小学生なりの言い分があったのでしょう。かの「アルフィー」も曲折を経ながら、結成半世紀超。彼らも古希ですね。ともかく、ポップス界の黄金時代を開いたのが、これらの若者(当時の)でした。もちろん、その裏にはものすごい暗闇がありました。若者の「捕食者」はジャニー喜多川さんだけではなかったと思う。

 神戸新聞のコラム「正平調」を読んで、六甲山の山肌を思い出しましたら、急に懐かしさがこみあげてきました。いつのことだったか、はるかの昔、まだ聖子ちゃんが生まれていなかった頃、六甲に登った。ぼくも小学生でした。以来、幾星霜がありました。そして、コラム氏に誘われて聖子さんを聴いてみた。詞は松本隆さん、曲は呉田軽穂(ユーミン)さん。この両名については言うまでもなく、赫々たる活動歴を誇っておられる。そして、二十歳前の聖子さん、とても大人びた歌を謳われていました。おそらく、この詞にある「感情」はすでによくご存知だった(お持ち)でしょうか。(https://www.youtube.com/watch?v=2Htj6AChzTE&ab_channel=FreeTime

 お彼岸だからというわけでもありません。でも、一昨年の師走に娘の沙也加さんが亡くなられたこともあり、なおさら、この時期に聖子さんを、という次第です。ぼくは、メロディとリズムがあれば、ジャンルは問わずになんでも耳を傾け、ついには魂を捕まえられてしまう。流石に、この年齡ではと思っていますが、なに、どうなるかわからんね。歌詞の一部ですが、以下に。

 その後の松田聖子さんを予感させるに十分な、余韻というか余情というものが行間いっぱい、歌声の背後に漂っていますね。そして赤いスイートピー。「実はこの曲が発表された当時、園芸用のスイートピーは白やピンクが主流で赤はなかったという。少女の恋心が咲かせた花なのだろう」(コラム)流石に聖子さん、というほかないのではないですか。(本日はここまで。「聖子の日」になりそうで、こわっ!)

好きよ今日まで
逢った誰より
I will follow you あなたの
生き方が好き
このまま帰れない帰れない
心に春が来た日は赤いスイートピー

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 何を守るための国防費増額なんだか

 不要不急外出するな忘れるな(無骨)誰彼なしに「不要不急の外出は控えてくれろ」と命じながら、いけしゃあしゃあと外回り。今週末には恒例の「米国詣で」だという。日程調整に手間取っていたのは、相手が来てくれるなと色よい返答をしなかったから。それを、「たくさんの手土産」を懐に、いそいそと出かけて、物笑いの種を作っているのだ。国民が哀れだな。今から六十年ほど前、時の池田総理が訪仏した際、「トランジスタ商人」などと揶揄(やゆ)する記事が、当地の週刊誌に出た。今はどうだろう。米国では何とも感じていないのか、それとも「いい金蔓(かねづる)」が来たとでも思っているのか。莫大な金額(数十兆に上る)の米国産武器(旧式・時代遅れのガラクタとも)を買っているし、これからも買い続ける。ローンの残高は増えるばかり。中身は何でも構わない。売り手の言い値で何でも買う国(同盟国)、こんなお気楽な同盟関係なら、相手は手放さないよ。何処を見て政治をしているの?

 加えて、「異次元の少子化対策」とは悪ふざけがすぎる。現総理は「箍(タガ)」が外れたらしい(あったとしたら、だ)。緩んだどころの騒ぎではないのです。この三世議員を自由自在に操っている「黒子(黒衣)(くろこ)」がいる。この二十年以上は「黒子(黒衣)政治」が花盛りで、官僚冥利に尽きるとほくそ笑んでいるのか、それともまだ足りぬと手綱を引き締めているのか。ある報道によると、このところ、現総理は異様な高揚感に襲われているという。「積年の難題」を片付けたのだからというのが、そのもとにあるらしい。有頂天とも。自己肥大がすぎると思う。まるで前々任者の悪霊が憑依したかのようだという報道もある。国会は無視され、国民は虚仮にされ、まさに、つかの間の「おらが春」を謳歌しているとしたら、とんだ勘違いだと言わねばならぬ。「金毘羅参り」ならぬ、バイデン詣でだが、何とも天文学的金額の「お賽銭」を払い込むのだ。

 素人ながら、この国が財政破綻(日銀は債務超過)しているのは明白で、赤字国債が市中で消化できない日が続いているし、金利を上げると、どうなるのか、当局は当然知っているから、当面は「お茶を濁す」しかできないのだ。しかし世界中の投機筋は足元を見ているので、円安が限度まで行き、その反動で日銀の姿勢(利上げ)を見て、一瞬の円高が続いているに過ぎない。「前門の虎、後門の狼」状態は変わらず、まるで落ちるのがわかっている「綱渡り」をしているのだ。こんな芸当には、誰も手を叩かない。(左上図は日経新聞・2022年8月1日 )(右図は東京新聞・対外有償軍事援助(FMS)・2019/12/21)

 おのれの首輪を繋いでいるリードを握ってもらいたくて、「アメリカのポチ」は飼い主の言いなりになってきた。言われるままに、言い値で古式武器を爆買いさせられ、挙げ句にその借金支払いのために財政破綻する、何のための「国防・軍事」なのかという、誰にもわかる理屈が頭にはないらしいのが、政治家の面々の知能なのだ。何とも「面妖な」というべきか。あるいは「笑止千万」というべきか。家族の食料を買いだめするために「背負いきれぬ荷物」を背負って、路傍で押し潰れるさまを思い描く。この四海小島をどう守るのか、もう一度、ご破産にすることができるなら、世話がないのだが。雨漏りがしているあばら家に、身の丈の何倍もの警報機や、防犯カメラや武器を備え、どこから来るか、来ないか分からない敵(侵略者)に備えて、家族が餓死寸前、そんな話がこの世にあるのかと、ぼくには悪夢を超越した「怪談話」に見えてくる。

 権力者を操り、傀儡師(くぐつし」のごとくに「人形」を手玉に取る、こんな政治は平安の昔から絶えたことはない。弓削道鏡などはその典型だった。あわよくば「天皇」(皇位を狙う)になろうという欲をかいて藤原一族や和気清麻呂らに阻まれた。今日の「官僚=道鏡」はどうか。まさかとは思うが、最高位を狙っているとは思われない。その昔、大変な政治力を誇示していた日本医師会の大ボス武見某が、「どうして政治家にならないのか」と問われ、「何人もの大臣を顎で使えるんだからさ」と豪語だったか、権勢を誇っていたのをよく記憶している。今日の官僚輩も、多分同じ感覚を持っているだろう。わざわざ苦労して選挙に出なくても、総理や大臣を顎で使う、手足のごとく使い倒す、しかし、なにが狙いか、自分でもわからないままに、やがて「権勢」の魔力に毒されるし、傀儡(総理)は、傀儡であれ、木偶(でく)であれ、位人臣を極めることだけが本望なのだから、右でも左でも向く。こうなると、流石に、バカにつける薬もなければ、治す医者もいないという惨状を呈することになる。(左図は東京新聞・2022/04/09)(GNPや人口の規模を無視した「国防費」の出現を他国はどう見るか。このシマノではなく、米国の「一部」としか見ないだろう。世界三位の国防費、狂気の沙汰であっても、米国の命令とあれば、従わざるを得まい。哀れを留めると、どうして報道しないのか)

 革命前のロシアにはラスプーチンという怪僧がいた。ニコライ二世の皇后の寵愛を得て権勢を恣にした。(いま、その「孫」が好き放題に国を支配している、というのは嘘)表舞台に出ると叩かれ、潰される。だから人形使い(黒子)に徹して、捩(よじ)れないように糸を操るに限ると、この芸を、いったいどこで学んだか。出身大学だったろうか。その昔は「摂政」「関白」なる役職があり、これまた権力の捌(は)け口となっていた時代があった。官僚党なるものがあるとは考えられないけれど、なかなかの逸材がいることは確か。権力に阿(おもね)って、その権力を手駒・手籠にしてしまう。理由は単純、大きな力を振るいたいだけというのかもしれない。「弱者」「納税者」「民草」に思いが及ぶということはまずないのである。

 政治家や官僚に「節操」を求めるのは、何処まで行っても「悪い冗談」の粋を出ない。もちろん例外はあるし、いる。でも例外はあくまでも例外で、あるいは「政治家」「官僚」の姿はしているが、その仲間ではないのだといいたい。仲間という自覚がないから、仲間として認められない。そんな奇っ怪な官僚が極めて稀に存在することは確かだ。そんな「稀官僚」に出会うと「地獄に仏」というような奇遇かもしれないと、同情しそうになる。その昔、通産官僚に佐橋某がいた。佐藤ノーベル賞かすめ取り総理に対して「沖縄密約」を諌言したし、その政治手法をして「それでも実力者か」と詰ったという。城山三郎さんの「官僚たちの夏」の主人公となっている。官僚が腐るのか、政治家が腐るのか。療法が腐るのだろう。同じ箱に、一個の腐ったりんごは入っていると、他のりんごも腐敗する」というのだ。この島社会の政治家は、すべからく、上から下まで「権力亡者」であり「金満・守銭奴志向」を隠さない魑魅魍魎。その魑魅魍魎の一員たらんとする面々の中にあって、清貧を志に据え、経世済民(「世を治め、人民を救うこと。経国済民」・デジタル大辞泉)に生きようとする、それこそが生涯の目標だという政治家がいるなら、ぼくは直ちに死んでもかまわないと思うほど、それほどに、歌謡な政治家は「絶滅種」なのだ。

 「節操がない」「無節操」というのは政治家のための「業界用語」だろう、そんな思いがさら増す。ぼくは以前から、この島社会には「与党と野党」があるが、共産党以外はすべて「与党」であると言ってきた。思想も志操も、ともに堅固などという御仁は何処を探しても、今の政界にはいないだろう。理屈をつけては「右顧左眄」、左右を眺めて「二股膏薬」、その他、限りなく木の葉の如き「軽薄の徒」が、口をついては「誰ひとり取り残さない」とかなんとか、衒学・幻術の限りを尽くした「虚言」を吐いて選挙に出る。政党を移り変わる。「風見鶏(an opportunist)」が聞けば怒り出すような尻軽なのだ。どうかすると、「昔の名前で出ています」というとんでもない輩もいる。しかし、政治を志す者にとって「政党・党派」は一つの「鞍」であって、乗替え自由だという感覚があるのだろう。右から左に鞍替えするというのは、似た者同士だからとも言える。乗り換えて、恬として恥じないというのも「政治家の厚顔」の程度を示しているだろう。お互いに「人を見る目」を曇らせたくないし、「軽薄人間」とは見られたくない、そのための精進が欠かせないと思う。(アメリカ国会下院議長選挙の無様を見るといい。どこもかしこも、陣取り合戦そのままの戦国時代が「議会内」で繰り広げられている。暴徒は議会を襲撃する、こんな場面が各地で、さらに起こるだろうよ)

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*中嶋彰子(ソプラノ)=「春への憧れ」(Sehnsucht nach dem Frühling、 W.A.モーツァルト作曲:https://www.youtube.com/watch?v=DzaZW4mAtDI&ab_channel=SopranoChannel

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 汝自身(の愚かさ)を知れということ

 暗き人の、人を量りて、その智を知れりと思はん、更に当たるべからず。                                                                              
 拙なき人の、碁うつ事ばかりに聡く、巧みなるは、賢き人の、この芸に疎(おろ)かなるを見て、「己が智に及ばず」と定めて、万(よろづ)の道の匠(たくみ)、我が道を人の知らざるを見て、「己れ、優(すぐ)れたり」と思はん事、大きなる誤りなるべし。文字(もんじ)の法師、暗証(あんしょう)の禅師(ぜんじ)、互ひには量りて、「己にしかず」と思へる、共に当らず。                                                                                                              
 己が境界(きょうがい)にあらざる物をば、争ふべからず、是非(ぜひ)すべからず。(「徒然草」第百九十三段」)(参考文献・島内既出)

 世に「有識者」が幅を利かせら(利用・悪用さ)れている。「私は有識者でございます」という人間の心根が見透かされているのですが、それを承知で、厚顔にも「わたしは有識者なんだ」と自称する、その根性が腐っているんじゃないですか。いたるところに「有識者会議」が蔓延っているのも、一種の「自己顕示欲感染症」だといっていい。政府や官庁(行政)が、おのれのやりたいことをストレートに出すと差し障りがある(と考えているとは思えない)から、ここはワンクッション、「有識者」という御用聞きにお出座し願って、すべては「お膳立て」して置いて、「答申」とか「具申」する・させるという茶番劇、この段取り(六方・六法)さえ踏めば、何だって好き放題に権力を行使することができ、税金は湯水の如く濫費できるというのです。あくどい政治(悪政・苛政)の露払いが「有識者」と尊称(一部では蔑称)されている面々だとするなら、この「愚かな賢者」も始末に悪いと言わねばなりません。

 以前に勤めていた職場で、企業で言うなら「社長」に位置する人間(民法学者)が、「我社の社員も、中央政府の審議会の委員になるくらいでないと」と政権への「擦り寄り」を盛んに奨揚していました。また友人の一人からは、ある審美会の「専門委員」に推薦しておくと言われ、赤面したことがある。ぼくはそんな程度の低い人間と見られていたのだ。(もちろん、断った)彼は「有識者の一員」で中央教育✖✖審議会に参加していた。事程左様に、自らをして「有識者」「知識人」と名乗りながら、この世に生息している人間がいる限り、政治家はそれを悪用しない手はないと考えるのは当然です。政治的な課題(防衛力増強など)に関して、政府が独断専行すると、大きな批判や非難を浴びる。浴びながら、ひどい法律を通す輩もいる。でも大抵は、一種の「ショックアブソーバ(緩衝材)(ダンパー)」として「有識者会議」なる看板を掲げ、呼び込まれるのを涎(よだれ)を垂らして待っている「自称有識者・知識人」を並べるのです。

 先述したように「結論」はすでに出されているのを「承認する」だけだから、「露払い」というのです。「太鼓持ち(幇間)」といったほうがいいかも知れません。「露払い」とは「貴人の先に立って道を開くこと。また、その役を務める人。転じて、行列などの先導をすること。また、その人」(デジタル大辞泉)そして、「幇間(落語では「一八・イッパチ」)」とは「 宴席に出て客の遊びに興を添えることを職業とする男性。幇間 (ほうかん) 。 人にへつらって気に入られようとする者。太鼓たたき」(同上)かくして、「有識者会議」の「お墨付き」をもらったといって、好き放題。このとき、「有識者」なる存在は「有害無益」「百害あって一利なし」というほかないでしょう。「自分は、世間からは有識者だと認められている」という御仁が、どんなに無知で不見識であるかを、ぼくはいくらでも証明できます。そんなことをしたところで仕方がないが。

 この兼好さんのお説を読みながら、ぼくは、プラトン著の「ソクラテスの弁明」を想起していました。「世の中で賢人だ、物知りだと言われている人ほど、無知で愚かだ」というのです。ギリシアの昔とすこしも変わらない、だから安心していいわけもないのです。ソクラテスの指摘は、兼好さんの見識にそっくり重なります。まあ、ソクラテスはアテネにおける兼好だったと言ってもいいし、その逆に鎌倉末期から南北朝期にかけて、京都にソクラテスがいたと考えるのも、ぼくのような「暇人」には面白い。しかし、ある人々にとっては迷惑な存在だったでしょう。世の中で価値が高いということを認めないどころか、それを若者に言い触らすんですからね。「偉いと思っている人ほど、貧しいのだ、心根が」と。

 「暗き人の、人を量りて、その智を知れりと思はん、更に当たるべからず」という書き出しは、まるで「我が愚」を言い当てられているようで、心苦しい。恥じ入るばかりです。「物を知らない人間が、勝手に推し量って、あの人の知識(賢明さ)のお里が知れるね」という。兼好という人は辛辣が売りでもあったが、そのとき、自分をどこに置いていたかが問われます。「put myself on the shelf)でなかったことは確からしいが。「碁うち」上手が、賢人が碁に暗いのを見て、「我が智に及ばず」と即断して、すべてをそのように判断するのは、なんとも大きな誤りであるという。そのと通りだと胸を打ちたいですね。「好きこそものの上手なれ」は本当です。でも「好きこそ」というのは何でもかんでもではないでしょう。特定の、一芸・一道に秀でることは、他のすべてに優れていることを意味しません。

 仏教(経文・経典)研究に勤しむ坊さんと、ひたすら修行する僧呂(経文の暗唱)たちが、互いに「オイラが勝ってるぞ」と言い合うのは間違いであるし、見苦しいというべきでしょう。「一分野には詳しい・明るい」のは悪いことではありません。でもそのことを勘違いして、世に優れている「有識者」だと思い込むのは、阿呆と違いますかと、兼好は断罪するのです。知らないことには「是非をするな」と、まるで、このぼくまでが非難されていると思ってきます。「知らないことは知らない」とはっきりと言うべきだとは、ソクラテスの言でしたね。何かを知っている、それは、知らないことが他にあるというのと同じことなんです。

 ここでは触れませんでしたが、以上の関連において、「学術会議会員」選定・選任問題が尾を引いています。それについて、関心を持つとか持たないという問題ではなく、学問研究の自由(人権)に、権力が介在するというのは、どういうことかというのです。もちろん、兼好の生きた時代にもありました。知識があるとかどうということではなく、「自分は権力者」だという傲慢な意識があらゆる「権利」を左右できるという、その横暴さが露骨に生じたのが、この「会員選任拒否」問題でした。自分の気に入らない人間(研究者)は排除するという「無知蒙昧」が政治の真ん中にいる・いたという事実は、この社会の現実をあからさまに明示している、そんな問題ではあります。

 (参照 「会員等以外による推薦などの第三者の参画など、高い透明性の下で厳格な選考プロセスが運用されるよう改革を進めるとともに、国の機関であることも踏まえ、選考・推薦及び内閣総理大臣による任命が適正かつ円滑に行われるよう必要な措置を講じる」(「日本学術会議の在り方についての方針」令和4年 12 月6日 内 閣 府)(https://www.cao.go.jp/scjarikata/20221206houshin/20221206houshin.pdf)

 権力者といえども、いや、権力者だからこそ、「己が境界(きょうがい)にあらざる物をば、争ふべからず、是非(ぜひ)すべからず」という、肝心要が病んでいます。おのれの不得手な事柄については「口出し」もせず、論評などもするな。詮索もせず、是非もいうべきじゃないのだ。単純素朴な世間知ですが、「餅は餅屋」という。その言わんとするところは、「餅は餅屋のついたものがいちばんうまい。その道のことはやはり専門家が一番であるというたとえ。餅屋は餅屋」(デジタル大辞泉)あるいは「蛇の道は蛇」ともいうではないか。現代の「有識者」乱用は、まるで「左官の垣根」に等しいというべきでしょう。(右絵は「餅は餅屋」・北斎漫画より)

 こんなことすら分からない、だから是非・理非の判断もできない人間たちが「政治の中枢」を占め、「政を独占」している、それがこの没落途上にある国・社会の不幸そのものの「現実」ですね。その悪影響たるや、測るを知らずです。奈落の底に向かってまっしぐら。一体どこまで突き進むのか。

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 物事は信じることから始まるの?

 【日報抄】もう初夢はご覧になっただろうか。現在の村上市の辺りには初夢にまつわる、こんな民話が伝わる。天から福を授かる初夢を見た、正直な若者が主人公である▼やぶの中でくわ仕事をしていると、土の中から金がめが出てきた。しかし若者は、自分には天から福が授かるのだからと金がめを拾いもせず帰った。周囲の若い衆がそれを聞き、探しに行ったが金がめは見つからず、あったのは蜂の巣だった▼若い衆は怒って、くだんの若者宅の窓に蜂の巣を投げ込んだ。すると蜂の巣は金がめに変わり、中から大判小判が飛び出した。若者は天から福が降ってきたと大いに喜んだ(水澤謙一編「越後の民▼この民話が伝えようとしたものは何だろう。いろいろ考えられそうだが、信じ抜くことの大切さもその一つではないか。若者は夢のお告げを信じ、それを貫いたことで福を手にした。いろいろな困難に直面しても、自分が信じた道を行くことは尊い▼この世には、信じたばかりに痛い目を見ることも少なからずある。一向に減らないオレオレ詐欺の類いがそうだ。うそや偽りを見抜く眼力は必要だろう。その上で、十分に検討して信じるに至った事柄なら、最後までつき合いたい▼ウクライナの戦火をはじめ、世界を覆う黒い雲は分厚いが、いつかは晴れると信じたい。そのために、できることを探して動きたい。簡単ではない。時間がかかるかもしれない。それでも年初、物事は信じることから始まるのだと自分に言い聞かせる。(新潟日報デジタルプラス・2023/01/03)

 「初夢」の話は多くあります。「ある物・者」を初夢に見ると、その年がうまくゆくという、夢見ベストスリーがあるそうで、「一富士、二鷹、三茄子(なすび)」などと言いました。つまり、一年の最初に見る夢によって「年占い」をしたのです。このベストスリーにも諸説あり、事程左様に、いろいろな場面で人々は、運勢を占い、人生の吉凶を知ろうとしたのではないかと、ぼくは考えている。ぼくは、ほとんど「夢」を記憶しない質(たち)で、袈裟までの三日間も、何やかやの夢を見ているはずですが、まったく忘れています。夢に観るのは、大体が「嫌なこと」で、だから忘れてしまうのでしょう。それでこそ、その日がなんとか過ごせるというものです。

 「夢判断(Die Traumdeutung)」(1900年刊)という本がフロイトにあります。如何にもフロイトらしい研究でした。その人がどんな夢を見るか、それによって診断(判断)したのです。「夢」はさまざまな意味を有する「潜在意識」であり、いかなる傾向の夢を見るかで「精神分析」をした。当たらずといえども、遠からずと言ったことではなかったか。今ではどういう具合になっているのか、不勉強でわかりませんが。ということは、日本でも欧米でも「夢占い」は広く認められていたということでもあるでしょう。「夢解釈」はフロイトに限らないことでした。もし、ぼくの見る夢をフロイトが診断したら、なんというか。今はすっかり見なくなりましたが、以前は「学校のテスト(試験)」の夢を見ていた。終了間際でも、なにも書けなかったとか、点数がやたらに悪かったとか、要するに、愉快な夢ではなかったし、その殆どは「試験」に関わっていたのです。この人間は、一種の「試験強迫症」だと診断されるかもしれない。普段、「点数なんて、どうでもいいんだ」などと勝手なことを言っているが、実は「優等生に対する劣等感」を持っていた、「性格卑屈人間」などと診断されるかも。

 ところで、コラム氏が触れている「民話」は「天福地福」という名称で親しまれているもので、けっして新潟に限定されるものではなく、またその内容も多彩です。詳細は避けますが、「花咲か爺さん」などもここに重ねられるでしょう。「ここ掘れワンワン」にも見られるように、貧しいけれども正直な人と、悪賢い人が登場してきて、最後には「正直爺さん、勝ったとさ」となる。詰まるところは、「勧善懲悪」のススメであり、「正直者の頭に神宿る」式の、ある種の教育的側面を持つものです。貧しいけれど、正直を通していれば、何時の日にか、幸せになるという「教育論」として広められたきらいがあります。これもまた、広い意味での「為政」の一環だったでしょう。

 それはさておき、コラム氏は「この民話が伝えようとしたものは何だろう。いろいろ考えられそうだが、信じ抜くことの大切さもその一つではないか。若者は夢のお告げを信じ、それを貫いたことで福を手にした。いろいろな困難に直面しても、自分が信じた道を行くことは尊い」と、なかなか洒落たことを仰る。「十分に検討して信じるに至った事柄なら、最後までつき合いたい」とも言われる。誰がなんと言おうと、「教祖の予言」を信じます。世間の人は信仰が足りないから、教祖は嘘をついていると非難する。あるいは、マインドコントロールを受けているんだと。でも、気にするな。「どこまでも、私は信じている」と、最後まで「信じ抜く大切さ」の尊さの意義を記者は主張されている。「カルト教団」が隆盛を誇るのは、このような「記者」がいるからだし、臆面もなく「若者は夢のお告げを信じ、それを貫いたことで福を手にした」と感服している。実に立派な「夢」と「民話」への信心を隠さない「民話信者」が、現実にいるという驚きをぼくは禁じえないのだ。しかし、それは「夢」だ、どうして「目が覚めないんですか」「作り話なんだよ」と叩き起こしてやりたいね。「夢」の話はどこかへ飛んでしまい、「信じる者は救われる」という与太話に塡(は)まり込んでいるのです。困ったものだというほかない、では済みませんね。

 この記者は「信じる」と「考える」を混同している。ありそうもない、荒唐無稽な噺を「信じる」と痛い目に遭う。でも信じるとは、そういうことでしょう、高額献金をしなければ「地獄に落ちる」と信じたから、多額の金(財産)を収奪されても「ありがたい」と目が覚めないのです。ここに「信仰」「信心」の核(ヤバいところ)がある。疑問の余地を一切残さないこと、それが「信心」の恐ろしいところ。「それでも年初、物事は信じることから始まるのだと自分に言い聞かせる」と、まさしく彼は夢を見ている。「ウクライナの戦火をはじめ、世界を覆う黒い雲は分厚いが、いつかは晴れると信じたい」というに至っては、ぼくは悲しくなってくる。分厚い雲はいつかは晴れる、それは間違いありませんが、記者が信じたから「晴れる」のではないでしょう。誰がどう言おうと「そう信じたい、信じている」と固まるところに、「信心」の闇・暗部があるんだね。

 この記者の最も根本的な勘違いはどこにあるか。それは実に単純です、「考える(疑う)」と「信じる(盲目になる。盲信する)」とを混同しているのです。「信じるのは私」、それはあなたの勝手、でもそれを信じないのは「ぼく」、「疑う」のは自由であるからです。主観と客観という語を使うと、余計混乱するかも知れません。でも「信じる」のは「あんたの勝手」であって、「考える」は、誰もがそう考えるように「考える」のです。また、考えるは、疑うと言い換えてもいいでしょう。ところが「信じる」は「考える」「疑う」を止めたところに生まれるのです。「愛(恋)は盲目】などと言いました。いろいろな意味がありますね。愛するというのは、計算しないことです。疑うことを放棄するのです。だから「愛が冷める」というのは「目が覚める」ことで、そこで初めて、疑ったり考えたりする働きが生まれる。離婚が多いのは、ここ(盲愛から懐疑に至る)にも理由があります。「夢から覚めないで」と言いたい気もしますが、冷めたほうが、しんどいけれど、人間らしいね。

 今の時代、「陰謀論」が流行る(信じられる)理由はがわかるような気がします。それは錯覚です。夢(ゆめ)と現(うつつ)の取り違えです。この劣島の政治が堕落の限りを尽くしていても、政権党が斃れないのは「夢幻の世界」に浮遊している有権者の根が絶えないからですね。さらにいうと、カルト集団が公認の「教団」であり続けるのも「信じる力」のおかげでしょうね。「物事は信じることから始まるのだと自分に言い聞かせる」とまでいうコラム氏。これを止める仲間はいないのですか。「疑うことから始めてくれ」と、ぼくは直接、電話で話してやりたいね。「赤ずきんちゃん、気をつけて」「やたらに、誰かのいうことを信じたらだめだよ」

 さて、「狼は誰で、赤ずきんちゃんはだれでしょう」とコラム氏に伺いたいな。

 (最後まで、このコラム氏は「初夢」ならぬ「初笑い」を演じようとしているのだと、疑っています。決して信じてはいません。でも、それくらいの「ジョーク」がコラム記事になったとしたら、ぼくは大喜びを隠さないでしょうね。まさか、そんな、この記者はマジで、「物事は信じることから始まるのだと自分に言い聞かせる」という「初夢、しかも悪夢」を見ているのだとも、ぼくは思ったりする。どっちなんですかね。もしそうなら、冷水をかけてやらないと)

OOOOOOO

追記 これもどこかで触れています。「半信半疑」という言葉(表現)はずいぶんと奇妙ですね。ぼく個人の意見からすると、半分信じる(言葉の綾としても)ということはありえない。一切の疑念の余地なく、自分を(対象に)預けること、それが信心・信仰です。対象が「人」ならば、絶対的愛であり、それが教祖的な人物であるなら「崇拝」になり、さらに進むと「帰依」となる。すべてを預けてしまうことです。「神仏を信頼して尊び、その教えに心から従うこと」(デジタル大辞泉)疑問の余地は無でしょう。その「心」を解き放すことは困難を極めます。そこから、宗教(religion)とは、ラテン語(religio)では「離される」ことを意味します。内と外とで話が通じないのは、それを指すでしょう。この島人の多くに見られる曖昧さは、「半分信じて」「半分疑う」という態度を許しています。でも、こと宗教では、それはすんなり通用はしないのではないでしょうか。一旦「なにかに帰依」すると、それから解放される(信仰を脱する)のは困難を極めるのは、日常の景色として、今でも、どこにでも見られることですね。文明の「進化」や文化の「洗練」とは関係ありません。

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 『天福地福』― 新潟県 ―(語り 井上 瑤 再話 六渡 邦昭) 「むかし、あるところに貧乏(びんぼう)なお爺(じい)さんがおったと。/「正月二日の晩に、宝船(たからぶね)の絵を枕(まくら)の下にして寝(ね)れば良い夢を見る」と聞いたので、爺さんはその通りにして寝た。/ 朝になると爺さんは、/「おら、天から福を授(さず)かる夢を見たや。天福(てんぷく)の夢だ。いい夢じゃった」と言って喜(よろこ)んで起きてきた。/ ほして春になって、爺さんは山の畑へ行って畑打ちをしていたら、鍬(くわ)に何か、カンカンと当たるもんがあった。/「はて、こら何だやら」と思うて掘(ほ)ってみたところが、金瓶(かながめ)が出てきた。「こら、金瓶でねか、金がいっぺ詰(つ)まっている。だどもこれは地から授かった地福だ。おらの授かったのは天福だすけ、これは家へ持って帰れねえ」/ こう言って、そのままそこへ埋めて帰ったと。/ほうしてその夜、隣の爺さんがもらい湯しに来たんだんが、畑の金瓶のことを話して聞かせたと。/ 隣の爺さんは、それを聞くとじっとしていられねえで、こっそり、堀に行ったと。/ ほうしたら、金瓶どころか、蜂(はち)の巣(す)のでっこいのが出て来て、蜂がブンブン飛んで、顔やら、手足やら、あちこちを刺(さ)されたと。」「民話の部屋」より:https://minwanoheya.jp/area/niigata_043/)

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● 民話【みんわ】= 民間に伝承される説話。狭義には昔話と同意。広義には伝説,さらに世間話を含めた意味に用いる。世間話は実話や経験談の形で話しつがれるが,実は昔話や伝説の改作であることも多い。(マイペディア)

● 初夢(はつゆめ)= 新しい年を迎えて初めてみる夢。その吉凶で年間の運勢を判断する「夢占(ゆめうら)」の習俗は古く、以前は節分の夜(立春の朝)の夢を初夢としたが、暦制の関係から除夜や元日の夜に移り、やがて「事始め」の正月2日の夜の夢に一定したらしい。すでに室町時代には正月2日夜「宝船」の紙を枕(まくら)の下に置いて寝る風習が始まっており、江戸時代に下ると「宝船売り」が江戸の風物詩として広く親しまれるようにもなっていた。七福神の宝船図、「ながきよのとおのねぶりのみなめざめ、なみのりふねのおとのよきかな」という回文の歌などもつとに固定したらしい。ともかく初夢に特別の関心が寄せられると、こうした「吉夢」をみようというまじないが生じ、また「悪夢」は宝船に添えて川に流す風習や、夢を食べるという架空の動物「バク」の絵を用いるといった「夢たがえ」の風習も生じた。「夢占」という、夢で吉凶を判ずる庶民の伝統は古いが、とくに年初の「初夢」には関心が強く、こうした「初夢」の習俗をおのずから生ずることになったのである。(ニッポニカ)

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 小さきものの声が聞こえるか

<速報>日本近代史家の渡辺京二さん死去、92歳 熊本市在住の日本近代史家で、作家の故石牟礼道子さんを編集者として支えた渡辺京二さんが25日、死去した。92歳。京都市出身。代表作「逝きし世の面影」や「黒船前夜」、「バテレンの世紀」など近代を問う著作で知られる。石牟礼さんと共に水俣病患者の支援組織「水俣病を告発する会」の結成にも関わり、「熊本風土記」や「暗河[くらごう]」、「炎の眼」などさまざまな雑誌を刊行してきた。本紙で昨年4月から週1回、大型評論「小さきものの近代」を連載している。(熊本日日新聞 | 2022年12月25日 13:06)(右写真は石牟礼道子さんと。文春オンライン)

 近代史の研究者で評論家でもあった、渡辺京二さんが亡くなられた。昨夜(二十五日)のニュースで知って、相当な高齢に達していたことが分かっていながら、いかにも「突然な」という感じがしました。緻密な論考というには当たらないが、かなり執拗な推敲を重ねて、一つの人物にしろ、時代にしろ、大きな、しかも深い「歴史の絵」を描かれた人でした。いつの頃だったか、「娘のために」と言って、イヴァン・イリイチの翻訳をされているのに出会って、驚いたことがあった。大きな意味では、世界史的な時代の中での「文明論」にイリイチと共鳴するところがあったのかも知れません。渡辺京二・梨沙共訳「コンヴィヴィアリティのための道具」です。

 まだ勤め人をしていた頃、教室で、一人の学生(女性)が、渡辺さんの「逝きし世の面影」を持っていた(読んでいた)のに出会い、本当に驚愕したことがあります。こんなところで、渡辺ファンがいるのかと、驚くと同時に嬉しく思った。その後、彼女は、ぼくが担当していたゼミに参加された。(ぼくが、別の授業で、渡辺さんを紹介したのだったかもしれない)その後、学生は「渡辺さんに手紙を書きました。返事がとどきましたよ」といっていたので、ここにも渡辺さんの一面を見る思いがしたことでした。熊本に限定されない「勁い存在」という感想(印象)をぼくは持っていました。数年前には、熊本市内にできた「橙(だいだい)書店」によく来られて、ここの店主を物書きに仕立てるようなところもあった、と聞いて、渡辺さんの別の面を教えられた。ぼくは、ある時期までは熱心は渡辺贔屓(びいき)でした。何よりも、渡辺さんは「無所属」という立場に居続けた人として、ぼくには尊敬おく能わざる人でした。石牟礼さんとの関係は、ぼくが言うまでもないことです。

 数々の著作の感想をいう気にはなれません。繰り返し渡辺史学・史論を学んできて、まず抱くのは、どこまでも「敗者の側」に立つ人という趣(印象)でした。中央と地方という、「中央」からの差別主義に、彼は徹底して抗うために、静かではあっても、けっして妥協しない強さを持っていた。今でも奇妙な錯覚だったと思いながら、あの人は誰だったろうという、しばしの邂逅に耳をつままれたような気がするのです。なにかの要件で福岡に出向いた。ぼくを呼んでくれた方が一席を設けて、しばしの会合の時間があった。そこにおられた方が、ぼくの友人の知り合いで、どうも大学の先輩だったと思う。その人が渡辺さんを呼ぼうか、と言われたのだった。その「渡辺さん」が京二さんだとわかったときには、その場はお開きなっていた。在野の思想家・歴史家として、その存在を知るだけでも、ぼくには十分だったし、まして、残された作品がまとめられて出版されてもいたので、語るに落ちた話ながら、渡辺京二という人の「名前」を聴くだけで胸が高鳴ったのでした。

 今でも、時にページを開くのは「日本近代の逆説」(「渡辺京二評論集成Ⅰ」・葦書房)です。ここに詳細は書けません。ある時代には「正説」が幅を利かすのは当然ですが、そこには、その裏のページに「逆説」が渦巻いているのです。歴史は表から観るのではなく、その表面にヒビやシワを付けた感のある「逆説」(稗史)がつきまとっている。それを無視して、一連の流れを「歴史」と呼ぶのは正しくないでしょう。正史と稗史(はいし)というだけでは捉えきれないものが、どんな「歴史事実」にも存在しているということです。「逆説」を透過して初めて、歴史の姿が立ち現れることがいくらでもある。渡辺さんの仕事を云々することはぼくにはできない。時間の許す限り、彼が書かれた作品を読み続けるばかりです。(合掌)

【新生面】荒野の泉 編集者の福元満治さんが熊本大の学生だった時のこと。自分たちの「全存在」をかけて水俣病患者の闘争を支援するという運動方針に、「全存在なんてかけられるはずがない」と口を挟んだ▼途端に「小賢[こざか]しいことを言うな! これは浪花節だ!」と渡辺京二さんから一喝されたという。水俣病問題で最初に訴訟に踏み切った患者らを支えた「水俣病を告発する会」で、中心的存在だった評論家の渡辺さんが92歳で亡くなった▼中国・大連などで小中学時代を過ごし、中2で文学との「革命的な」出合いをした。敗戦で内地に引き揚げ、旧制五高に入ったが結核のため1学期ほどしか通わなかった。会社員の「肩書」を持ったのは日本読書新聞の編集者だった2年間だけ。在野の編集者として多くの文学雑誌などを手がけ、熊本の文化をリードする存在でもあった▼在熊の作家石牟礼道子さんを「天才」と呼び、その創作活動を公私両面で支えた。「あの人の才能は異能。一種のシャーマンだもんね」。石牟礼さんをそう評し「僕は編集者だから才能に嫉妬しない。そこが取りえ」と語っていた▼自身も近代史の研究家として、名著の誉れ高い『逝きし世の面影』など数々の著作を生み出した▼明治維新で形づくられた近代国家を語る際にも、庶民ら「小さきもの」たちに目を向けた。よりよい人生を送るためには、身近なよき仲間をどうつくるかが何より大事だと呼びかけた。本人の言葉を借りれば、その発言は「荒野に湧く泉」のように私たちを潤した。(熊本日日新聞 | 2022年12月26日 07:00)

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 今の時代、「天災」は毎年やってくる

 夏の「線状降水帯」に続いて、冬は「線状降雪帯」が続発している、そんな記事が出ていました。公式には「日本海寒帯気団収束帯(JPCZ)」というそうです。当然、豪雨と豪雪のメカニズムはいささか異なります。でもどちらも「地球温暖化」の影響を直接受けている点では同じような理屈も成り立つのでしょう。昨年も、北陸地方では大変な豪雪が続き、日常生活が寸断されたという記憶が蘇ります。まさに、間をおかずの「豪雪」の再来です。(https://www.youtube.com/watch?v=h-f7qGdjXfI&ab_channel=ANNnewsCH) 

福島、新潟で記録的大雪 国道で車立ち往生も

福島、新潟で記録的大雪 国道で車立ち往生も 日本列島は19日、強い冬型の気圧配置と寒気の影響が続き、福島、新潟両県などで記録的な大雪が降った。新潟県では除雪作業中の2人がけが。柏崎市の国道8号では一部で車の立ち往生や渋滞が発生し、約22キロが通行止めになった。20日に雪のピークは過ぎるとみられるが、気象庁は引き続き積雪や路面の凍結による交通障害に警戒するよう呼びかけている。(以下略)(共同通信・2022/12/19 23:03)左写真:大雪の影響で車が立ち往生した新潟県柏崎市の国道8号=19日午後(にいがたLIVEカメラHPより)

 雪は冬の「風物詩」などと呑気が過ぎる受け止め方が、雪害に襲われている人にとってはどんなに情けない懐いをさせているか、一度でも、雪国に住んだ経験があれば、呑気が罪になると気づくはずです。ぼくにも、わずか数年ですが、石川と京都で暮らしていましたから、降雪・雪害の厳しさは忘れられない。しかし、近年の「JPCZ」がもたらす豪雪は、そこに住む人々には、もはや「死活問題」だというべきなのでしょう。二日(48時間)で百センチ以上も雪が降るというのは、異様というか異常というか。どんなに豪雪のメカニズムを説明されても、なるほど、そういうことだったかと納得して終わらないどころか、屋根の雪下ろし、道路の除雪作業と、想像を絶する重労働を厭っている場合ではないのです。昨年だった、島根県で、港に停泊していた漁船が、雪の重みで沈没したというニュースも覚えています。屋根の雪の重さで家が壊れる、雪下ろし作業中に、屋根から落下して死亡という悲報も絶えません。多くは、高齢者だというから、悲しさはひとしおです。かかる事故がかくも毎年続くと、雪の降らない場所に移住したくなると痛切に感じられるかも知れません。豪雨や豪雪のニュースをエアコンの効いた居間などで見ているのが、なんだか許されないような気になるのですから、ぼくなどでも、自然災害の猛威が骨身に答えているというのでしょう。

 たしかに豪雨や豪雪は、これまでは「自然災害」とされていましたし、今日でもその部分がまったく消えたわけではないでしょう。しかし、近年の豪雨や豪雪は、言うまでもなく「地球温暖化」が原因であります。この因果関係についてとやかく言う人がいますが、間違いなしに「温暖化と災害」の結びつきが証明されてきた以上は、必要以上に温室効果ガスを使い続けてきた「工業化」時代の弊害を、この段階ではっきりと認めて、さらなる温暖化防止のための戦術を実施すべきだと思うのです。個人だって、できることはある。便利は快適だという、根のない「便利さ」追求の生活も、大きな曲がり角に来ているのです。

 JPCZ(日本海寒帯気団収束帯) JPCZとは…Japan sea=「日本海」Polar air mass=「寒帯気団」Convergence=「収束」Zone=「帯」の頭文字をとったものです。/ 冬型の気圧配置が強まると、シベリア大陸から冷たい風が日本海に流れ込みます。この冷たい風は、朝鮮半島北部に位置する長白山脈(最高峰:白頭山2744メートル)によって、いったん二分されますが、その風下である日本海で再び合流し、収束帯(雪雲が発達しやすいライン)が形成され、雪雲が発達しやすくなります。/ この収束帯のことを「日本海寒帯気団収束帯(JPCZ)」と言います。こうしたJPCZの影響を受けるのは、主に東北南部や北陸、山陰などです。JPCZによって雪雲が発達しやすくなり、その雪雲が次々と流れ込むため、大雪となることが多々あります。 夏は「線状降水帯」冬は「JPCZ」に要注意! 近年、豪雨が続き急速に知名度を得た「線状降水帯」のように、毎年のように大雪が続けば「JPCZ」も市民権を得る日が近いかもしれません。/ 「JPCZ」と聞いたら大雪に備えるようにしましょう。(tenki.jp)(https://tenki.jp/suppl/tenkijp_labo/2022/01/13/30864.html)

 「天災(災害)は忘れた頃にやってくる」という趣旨のことを盛んに言っていたのが物理学者の寺田寅彦でした。以下に、彼の「天災と国防」という評論のごく一部を引用しておきます。よく読まれたもので、今でも、その内容からくる問題意識には十分に我々に与えるところが大きいように思われます。書かれたのは昭和九年。すでに大陸で戦争が始まろうとしていましたし、その前後の年でも「自然災害」が頻繁に起こっていた時代です。「国防」には必要以上のエネルギーを使うが、「防災」には、いまだに「後始末」に追われる「始末」という政治状況は、寅彦氏の描いた九十年前とどれだけの違いがあり、どこがどれだけ進んだのか、大いなる疑問を持つのです。

 「国家の安全を脅かす敵国に対する国防策は現に政府当局の間で熱心に研究されているであろうが、ほとんど同じように一国の運命に影響する可能性の豊富な大天災に対する国防策は政府のどこでだれが研究しいかなる施設を準備しているかはなはだ心もとないありさまである。思うに日本のような特殊な天然の敵を四面に控えた国では、陸軍海軍のほかにもう一つ科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時に備えるのが当然ではないかと思われる。陸海軍の防備がいかに充分であっても肝心な戦争の最中に安政程度の大地震や今回の台風あるいはそれ以上のものが軍事に関する首脳の設備に大損害を与えたらいったいどういうことになるであろうか。そういうことはそうめったにないと言って安心していてもよいものであろうか。
 わが国の地震学者や気象学者は従来かかる国難を予想してしばしば当局と国民とに警告を与えたはずであるが、当局は目前の政務に追われ、国民はその日の生活にせわしくて、そうした忠言に耳をかすがなかったように見える。誠に遺憾なことである」「人類が進歩するに従って愛国心も大和魂もやはり進化すべきではないかと思う。砲煙弾雨の中に身命をして敵の陣営に突撃するのもたしかに日本魂であるが、○国や△国よりも強い天然の強敵に対して平生から国民一致協力して適当な科学的対策を講ずるのもまた現代にふさわしい大和魂の進化の一相として期待してしかるべきことではないかと思われる。天災の起こった時に始めて大急ぎでそうした愛国心を発揮するのも結構であるが、昆虫や鳥獣でない二十世紀の科学的文明国民の愛国心の発露にはもう少しちがった、もう少し合理的な様式があってしかるべきではないかと思う次第である」(寺田寅彦「天災と国防」昭和九年十一月、経済往来。「寺田寅彦全集 第九巻 所収」岩波書店1961)

 もう一つ、これもすでにどこかで触れています。「山びこ学校」開巻冒頭の詩です。「やまびこ学校は」、山形県の山元村の中学校における「教師と生徒たち」の三年間の学習記録でした。この山元村もまた、豪雪地帯だった。今は、同じ県内の肘折温泉がこの劣島の最豪雪地として有名になりました。ありがたくない第一位ですね。雪は、人それぞれの思いや苦しさ・辛さの象徴でもあるようですが、はたして、現実に襲いかかっている豪雪は、それを経験している人にいかなる「記憶」を残すのでしょうか。雪よ、度を超えるな!と言ってみるが、いささかも通じないね。ぼくには念力がないからね。

● 山びこ学校=やまびこがっこう中学生の生活記録集。無着成恭(むちゃくせいきょう)編。1951年(昭和26)青銅社刊(1956年『新版・定本山びこ学校』百合出版刊)。山形県山元村(現上山(かみのやま)市)山元中学校の学級文集『きかんしゃ』の作品を中心に編まれた実践記録文集で、学級全員43名の散文、詩、日記、版画などが収められている。日教組文集コンクールで文部大臣賞を受賞した江口江一の作文『母の死とその後』などが代表的。貧しい山村の実生活のなかで、子供たちが感じる疑問を率直に取り上げ、学級で話し合い、ときにはデータを調べて書いたもので、担任の無着成恭は「あとがき」で「私は社会科で求めているようなほんものの生活態度を発見させる一つの手がかりを綴方(つづりかた)に求めた」「貧乏を運命とあきらめる道徳にガンと反抗して、貧乏を乗り超えて行く道徳へと移りつつある勢いに圧倒され」たと述べている。綴方を書くことによって自分たちの貧しい生活や現実社会に対する鋭い洞察力と論理的な思考力を養い、豊かな村づくりを目ざして率直に自分の考えを述べ合う子供たちを育て上げたところに、綴方教育を超えた人間教育があったと評価され大きな反響をよんだ。生徒の一人佐藤藤三郎(とうざぶろう)(1935― )は農業問題評論家、地域のリーダーとして活躍。(ニッポニカ)

 何十年も前に流行ったアダモの「雪が降る(Tombe La Neige)」も、この豪雪災害不可避の時代に聴くと、まるで「冗談」か「悠長悲恋物語」のように聞こえてきます。(https://www.youtube.com/watch?v=jzSGQxFESSA&ab_channel

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