世に言古りたるまで知らぬ人は、心憎し

雪をかぶった坂本龍馬と中岡慎太郎像(14日午前5時半ごろ、京都市東山区・円山公園)

  幕末の志士も雪化粧、京都の夜明け待つ 京都市内に積雪 14日午前6時に積雪6センチを観測した京都市ではさまざまな場所に雪が降り積もった。/ 14日午前5時半ごろの東山区の円山公園では、池に架かる石橋に雪が載り一部は凍っていた。/また、公園東部にある幕末の志士、坂本龍馬と中岡慎太郎の像も雪化粧した。像の頭や肩にも白く雪が載り、志士は寒さに耐えながら京都の夜明けを待っていた。(左写真:雪をかぶった坂本龍馬と中岡慎太郎像)(14日午前5時半ごろ、京都市東山区・円山公園)(京都新聞・2022/01/14)

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 「志士は寒さに耐えながら京都の夜明けを待っていた」と書いた記者は、美文なのか迷文なのか、どんなつもりだったのか、よくぞ書いたものですね。これを「いい記事だよ」と言いう人がいるかもしれないから、ぼくは何も言わない。でも、新聞がつまらなくなったと思い、嫌いになった理由の一つにはなるでしょう、このような記事が増えたんですから。この「銅像」の二人は慶応三(1867)年十一月に遭難死した。幕府側の刺客に狙われていたのだった。竜馬は三十二歳、慎太郎は三十歳の一期でした。明治になる直前でした。明治維新は、二十代から三十代の青年たちが主導した政治運動でした。先日過ぎたばかりの「成人の日」にも、ぼくはこの明治維新期の、青年(志士)たちの年齢ということを考えていました。

 降る雪や明治は遠くなりにけり(草田男) ー 本当にそうだろうか、明治からは遠くなって、江戸時代や室町・鎌倉時代に近づいていくのでしょうか。現実に、ありそうな気がしてきました。

 京都は、ぼくの記憶では、雪の多い地域でした。それに寒いことといったら、これを言っても誰も本気にしませんが、「犬が家の中で凍死」したことが、我が家で実際にあったほど、それくらいに寒かった。まあ、家の造りが粗末だったということにもなります。また夏の暑さたるや、と始めるときりがありません。京都の猛暑や、冬や雪に付き合っていると先に進めませんので、これくらいに。(ヘッダーの写真は、京都新聞・2021/12/18)

 「毒を食らわば皿まで」という俗諺があります。ここで使うのは不穏当かつ不適当でしょうが、まあ、そんなところです、本日もまた、兼好さんの登場です。兼好法師は「毒」であると言えば、そうかもしれないと思われてきます。その毒が毒のある発言を繰り返している、昨日の続きの「段々」を紹介しようという魂胆です。この作戦も、あまり洗練されているとは言えませんが、「毒」に免じてお許しを願います。

 本日は短いものですから、三連段です。

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 世の覚え、華やかなる辺りに、嘆きも喜びも有りて、人多く行き訪(とぶら)中に、聖法師(ひじりほうし)の交(ま)じりて、言ひ入れ、佇(たたず)みたるこそ、然(さ)らずとも、と見ゆれ。然るべき故、有りとも、法師は、人に疎(うと)くて有りなん。(第七十六段)(参考文献既出)

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 今風にいえば、「権門勢家(けんもんせいけ)」でしょうか、そこには大勢の人の出入りが繁く、人の絶える暇もない、そんなところに「聖法師(僧侶・修行者)」が訪ねてきて、門前に佇んでいる。よせばいいのに、と思いますね。何か事情があるのだろうが、「法師は、人に疎くて有りなん」、のこのこ出てくることはないじゃないですか、というのが兼好さんです。その昔、といっても、奈良・平安とおぼしき時代でも「法師」とは「仏語。出家して仏道を修行し、仏法に精通して、衆生を正しく導く師となる者」(精選版日本国語大辞典)とされていました。出家といい世捨て人ともいったほどに、世間とは縁切りをする・したものをさしていたのです。当人にどんな事情があるか知らないが、世間に出て来なさんな、「坊さんは人に疎くあったらどうだ」というのは、今の時代にも妥当するのでしょうか。堂々と、世の中で僧侶を職として「身過ぎ世過ぎ」に精を出しているのが、現代なのでしょう。

 権門勢家というのは、ぼくの目には見当たらないから、かなり意味合いは違いますが、差し当たっては「テレビ局」などを想定しています。いわゆるコメンテーターと称して「生半可なセリフ」を言っている中に、坊さんがいないとも限らない。今では弁護士やタレントが全盛(かどうか、ぼくにはわからない)時代のように、好き勝手(つまるところは、テレビ局の台本通りに)に「高説・卓見」を開陳させられている。ぼくがテレビを観なくなった大きな理由です。個人の意見を封じて、さもそれらしいことを言わせているインチキ(企業)の片棒担ぎ、いい加減にしたらどうだと兼好さんなら言ったでしょうが、ぼくはそうは言わないで、テレビの前に座らなくなるんですね。

 人の性(さが)は変わらない。「雀百まで踊り忘れぬ(忘れず)」、こんな文句がしばしばささやかれたものでした。今でも変わらないでしょうね。ここで兼好が言っているのは「聖法師」、つまりは僧侶のことです。僧侶というのは誰でもなれるかというと、なれるともなれないとも、どちらとも、いえそうです。それほどに厳密ではなくなったのには社会的背景があるでしょう。ここで出家についてだけ見ておきます。家出と出家というと、なんとも紛らわしいが、今日ではほぼ同じじゃないかといいたいくらいに、「出家」が軽くみなされています。プチ家出ならぬ、プチ出家です。会社を定年(停年・諦念)で辞めて、僧侶になる人がかなりいるそうです。定年転出組が「お経をあげる」ですね、どんな調子でしょうか。

 生家を出て仏道に「修行専一の身分」を得る人を僧といった。僧となると、「僧名」を名乗ります。あるいは「坊号」「房号」とも言います。ぼくたちが使っているのは「俗名」というらしい。失礼しちゃうね、己たちは「僧名(そうみょう)」を名乗って、いかにも清く悟りを得た人間でございますなどというつもりかもしれませんが、とにかく「守銭奴」であり「名誉欲張り」であり、少しも「世間を捨てた」とは見られない面々が僧門には腐るほどいるのではないですか。坊さんの全部というのではありませんけれど、結構いるんじゃないですか。兼好さんが言うのは、このことでしょ。世間を捨てたなら、まじめに修行すればいいじゃないか、人が集まるところ(人混み)に顔など出すのはみっともよくない、いや、はっきり言って、醜い、ぼくもそう思いますよ。僧を名乗り、坊主を明かしていながら、世間師(「世慣れて悪賢いこと。世情に通じて巧みに世渡りをすること。また、その人」・精選版日本語大辞典)のようなのが多すぎるから、世も末と、いかにも乱暴に聞こえそうですが、ぼくも言いたいですね。

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◉ 出家(しゅっけ)=家庭生活を離れて仏門に入り、専一に修行の道に励むこと、またその人をいう。パーリ語のパッバッジャpabbajjaまたパッバジタpabbajita、サンスクリット語のプラブラジュヤpravrajyaまたプラブラジタpravrajitaの訳で、自分の生まれた家、あるいは所属する家を出ること、またその人の意。出家人、道人(どうにん)、沙門(しゃもん)、比丘(びく)ともいい、一般に僧侶(そうりょ)ともよばれる。在家(ざいけ)また在家人、居士(こじ)、世人(せじん)にする語。両者をあわせて道俗、僧俗とよぶときの「道」あるいは「」をさす。(中略)出家すると、世俗時の苗字(みょうじ)や名前を捨てて、新たに出家者の名前(僧名)がつけられる。また、自らの所属する家庭あるいは一族の構成員としての冠婚葬祭などの義務や、財産相続・分与などの権利を放棄することになる。なお、在家から仏門に入ることを中国・日本では得度(とくど)という。(ニッポニカ)

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 (前段で手間取りましたので、この先は軽く流していきます)(できるかなあ?)

 世の中に、その頃、人のもて扱ひ種(ぐさ)に言ひ合へる事、弄(いろ)ふべきには有らぬ人の、良く案内(あない)知りて、人にも語り聞かせ、問ひ聞きたるこそ、受けられね。殊(こと)に、片辺(かたほとり)なる聖法師などぞ、世の人の上は、我が如く尋ね聞き、「いかで、かばかりは知りけん」と覚ゆるまでぞ、言ひ散らすめる。(第七十七段)

 どうして兼好さんは(僧侶)に対して手厳しいのでしょうか。彼は生まれは神職の家でしたから、まんざら宗教とは無縁ではなかった。そこでいろいろと出世の工夫を凝らしたが、うまくいかなかった。今風にいうと「就活に失敗」した。落胆は大きかった。端的に言って、家柄の問題であったのかもしれない。あるいは官職(神官)につくのに、彼には忍び難いような、いやなことがあり、コネやわいろがまかり通っていたのでしょう。お宮さんでも、世間以上に「醜い出世競争」があることを、彼はみてしまった。そしてある時期を境に出家の身となるが、神社以上にお寺(僧門)さんは汚いし、争いが絶えないということを実際に経験したのです。どこに行っても、「世間」がついて回るんですね。寺も神社も「世間」そのものだった。嫉妬も、虐めも、嘘も、悪行も、なんだってあったのです。

 「世の人の上は、我が如く尋ね聞き、『いかで、かばかりは知りけん』と覚ゆるまでぞ、言ひ散らすめる」誰と誰がくっついたとか、だれだれが離れたとか、あるいは、あの御仁には、新しい女性(男性)がいるようだなどと、どうでもいいことを聞き歩いては、それをしゃべり散らしている。まるで「(一部の)週刊誌の記者」のような坊さんまでいたんですね。じつに、唾棄すべき輩(儕・儔)(ともがら)というべきだと。

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 今様の事どもの珍しきを、言ひ広め、もてなすこそ、また受けられぬ。世に言古(ふ)りたるまで知らぬ人は、心憎し。今更の人などの有る時、ここもとに言ひ付けたる言種(ことぐさ)・物の名など、心得たる同士(どち)、片端(かたはし)言ひ交し、目、見合はせ、笑ひなどして、心知らぬ人に、心得ず思はする事、世慣れず、良からぬ人の、必ず有る事なり。(第七十八段)

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 ただ今流行中(旬)の話題に精通している人、気が知れないし、話にならぬ。その反対に、「あなたは、そんなことも知らないのか」と批判されるような人こそ「(心憎し)とてもいいじゃないですか」というのが兼好流でした。「時代遅れの人」のすゝめですな。誰かと話している際に、別の人が来ると、すぐに言葉を端折り、目配せして、笑いながら、「話を知らない人を、じらして、どんな話なんだろうと、身をソワソワさせるなど」は、「世になじまない、よろしくない者たちの振る舞いだ」ともいう。「三人寄れば、文殊の知恵」といいますが、近年の「文殊」は、金食い虫の上に、役に立たない、どうしようもない余計者になっています。人間の社会にも、かかる「文殊」の種は尽きないんですね。

 兼好さんの時代と今日とで、人間界において、決定的に違うことがあるのかなあと、ぼくは愚考しています。三十年以上も前に、ウオークマンを耳にして、うっとりと聞いているお猿さんがいました。今日はスマホをいじるモンキーが世界中に表れています。兼好さんが生きていた鎌倉末と、今の時代との「差」「質の違い」は、車かスマホがあるかないか、という程度か。あるいはマックやコンビニの「有無」だけかもしれませんね。いつの時代にも、「良からぬ人」が悪さをするんでしょう。その、「良からぬ人」は個人個人とは限らない。(徒党を組んだ)「良からぬ人たち」も横行していたし、いるのです。この世相は、いつの時代にも認められるでしょう。だから、兼好さんを読んで、ぼくはわが意を得たりと膝を打つのでしょう。

 (文章がまずい -いうまでもないー うえに、何か気が急いているような走り書きになっています。いつだって、下書きなしのブッツケ本番ですが、本日は特にそうなっているようです。実は気がかりがあって、昨日の昼頃に出たままで、今の今まで帰って来ないの(猫)が一人いるのです。(ただいまは、一月十四日の午後九時です)いつぞやは、十日間も帰らなかった猛者だか不良猫(女性)だかがいました。寒いのにと、気をもんでいます)

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 紛るる方無く、ただひとり有るのみこそ良けれ

 本日も「徒然草」です。芸がないとは、このことをいうのです。高校卒業まではまったく目もくれなかったが、年齢が上がるとともに、ぼくは兼好さんが好きになった。今では、若い兼好さんの書かれたことに、なにかと思い当たることも、有之、しかもなお、ああ、まだ彼は「若書きしているな」といいたくなる時もあるのですから、我ながら、手に負えないというか、始末に悪いですね。兼好さんの経歴は、正確にはわからないようですが、定説では、1283年から1352年までの、六十八歳の生涯だったとされています。少々詳しすぎるきらいがありますが、以下に、ある辞書の「解説」を引いておきます。それによると、彼には不明なところが多々あり、定説はあるようでないのが、実情のようです。彼自身も、何かと出世を求めたけれども果たせず、あるいは「不遇な人生」という思いが萌すことになったのかもしれません。

 前稿で、「彼は人間観察者=モラリスト」という意味付けを、ぼくはしてみたのですが、それは、決して「傍観者」としての観察ではなく、自らが世間における「実験台」「体験者」となった、その経験をもとにしての「人間論」の展開が「徒然草」一巻になったという趣旨でした。彼が書いていることがよくわかるというのは「言葉が過ぎ」ますけれども、七百年の時間の隔たりを考慮してもなお、人間のすること、考えることは、いささかも変わらないという「人間観」を確認することができるのです。しかもなお兼好にしてそのようにいうか、という思いがぼくにあるのは、彼は「若い」というだけの馬齢を、ぼくは重ねてきたからです。兼好さんは、ほぼ六十八歳で亡くなっていることになっています。

 もちろん、彼ほどの才能や努力の才には恵まれなかったけれども、彼同様に、一応は「宮仕え」を半世紀近くしてきましたから、その年月の間位に知ることになった「人間観察」は、粗密は問わないなら、ぼくにもそれ相応の意見は述べられるというものです。加えて、ぼくは兼好さんよりも長生きしていますから、彼の主張や哲学に、なるほどという面と、それでもなお、ね、という背反する意見を持ち合わせてもいるのです。

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◉ 吉田兼好よしだけんこう 生没年不詳鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての歌人・随筆家・遁世者。本名、卜部兼好(うらべのかねよし)。『尊卑分脈』によれば、卜部家は天児屋根命(あめのこやねのみこと)の子孫で、神祇官として代々朝廷に仕えたが、平安時代中期の兼延の時に、一条院から御名の懐仁(かねひと)の「懐」と通ずる「兼」の字を賜わってからは、それを系字として代々名乗るようになった。そして、兼名に至って、卜部家の本流から分かれて支流となり、朝廷の官吏となったが、兼好は兼名の孫にあたり、長兄に天台宗の大僧正慈遍、次兄に民部大輔兼雄がいた(卜部家が吉田と称するようになったのは、室町時代の兼熙(かねひろ)からであって、吉田兼好という呼称は、鎌倉時代・南北朝時代のいかなる史料にも全くみえず、また、卜部家の本流の姓をさかのぼって支流の出である兼好にまで及ぼす必要もない。したがって、江戸時代に捏造された「吉田兼好」という俗称は学問的には否定されるべきである)。なお、林瑞栄により、兼好は武蔵国金沢(かねざわ)家の御内伺候人の子弟であり、したがって関東の生まれであること、『金沢文庫古文書』中にみえる倉栖兼雄は兼好の兄であることなどが主張されている(『兼好発掘』)。風巻景次郎は、成長した兼好が久我家(こがけ)の家司(けいし)を勤めたことを推定している。その後、朝廷に仕え、官は蔵人を経て左兵衛佐に至っているが、仕官中、大覚寺統の歌道師範たる二条為世について和歌を学び、多くの公卿・廷臣に接して、有職故実の知識を得、また、恋愛をも経験している。しかし、彼の内に熟して来た出家・遁世の意志は、『大徳寺文書』によると、正和二年(一三一三)九月には、六条三位家から水田一町を九十貫文で買い取った田地売券のなかに、すでに「兼好御房」とみえているので、この時までに実現していたものと推定される。『兼好法師家集』のなかに、「さても猶(なほ)世を卯(う)の花のかげなれや遁(のが)れて入りし小野(をの)の山里」の一首があることによって、遁世後、居住した所が京都の東郊、山城国山科小野荘の地(京都市山科区山科)であることがわかり、そこは、六条三位家から買い取った水田一町の所在地でもある。彼は退職宮廷官吏としての経済的地盤をそこに置いたものといえよう。(左上は「兼好法師像」 伝海北友雪筆 17世紀後半 個人蔵)

 小野荘において、彼は『徒然草』の第一部(第三十二段まで)を元応元年(一三一九)に執筆し、勅撰の『続千載和歌集』『続後拾遺和歌集』、私撰の『続現葉和歌集』に入集し、二条派の歌人として世に認められているし、二度も関東に下り、鎌倉および金沢(横浜市金沢区)に住んでいる。『金沢文庫古文書』には、兼好自筆の幾つかの文書や関係史料がみいだされる。元弘の乱以後の時代に入ると、彼は北朝側に属して京にとどまり、『徒然草』の第二部(第三十三段から末尾まで)を元徳二年(一三三〇)から翌年にかけて執筆し、建武三年(一三三六)ごろから上・下二巻に編成して、その際、いくつかの段を補入・添加したらしい。また頓阿(とんな)・浄弁(じょうべん)・慶運(きょううん)とともに、二条派の和歌四天王と呼ばれ、勅撰の『風雅和歌集』『新千載和歌集』『新拾遺和歌集』、私撰の『藤葉(とうよう)和歌集』にそれぞれ入集し、二条派の歌学者・歌人として次第に世に認められるに至った。康永三年(一三四四)に、足利尊氏が多くの人々に働きかけてまとめた『宝積経要品(ほうしゃくきょうようぼん)短冊和歌』の中に、和歌四天王のほかの三人とともに、五首を詠じて収められている。また、『太平記』巻二一の「塩谷判官讒死事」の中に、塩谷判官の妻、顔世に横恋慕した、北朝の権力者で足利尊氏家の執事たる高武蔵守師直が、「兼好と云ひける、能書(のうじょ)の遁世者」に艶書の代作を命じた記事があり、洞院公賢(とういんきんかた)の日記『園太暦(えんたいりゃく)』には、二度、兼好来訪の記事があって、「和歌ノ数寄者(すきもの)也」と書いているので、歌人・能書家・有職故実家として世に認められていたことが推定される。また、観応三年(一三五二)には、二条良基作の『後普光園院殿御百首』に合点(がってん)を付しているので、このごろまで生存していたことがわかる。没年月・没処が不明なのは、京都以外の地で世を去ったためと思われる。著作には、建武三年ごろ、現在の形のごとくまとめられた随筆『徒然草』二巻と、『風雅和歌集』(貞和四年(一三四八)成立)撰進のための資料として集成した、自筆の『兼好法師家集』一巻(尊経閣文庫蔵)がある。公武の対立する時代の動きに対して、時勢に随順して生きた文化人たるところに、しかも、公武のそれぞれに批判的であることによって、二つのものの止揚・統一を『徒然草』の中にめざしているところに、彼の中世人としての真面目が見いだせる。(ジャパンナレッジによる「国史大辞典」)(左上は「兼好法師像」 伝海北友雪筆 17世紀後半 個人蔵)

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 以下、七十四段と七十五段を読んでみたいと思います。「だんだん良くなる法華の太鼓」という俗言がありますね、法華経のお経にはド派手な「法華の太鼓」が付き物です。ぼくは幼少のころ、能登半島の小さな村で、夜になると、この「だんだん」をたたいて回る僧たちに、いささか怯えていたものでした。これは、今から二十年ほども前になりますか、近所の知り合いが亡くなられて、葬儀場に「お別れ」に出かけたことがありました。その方は法華(日蓮)宗の、有名は一派(政治団体・政党も有している組織です)の信者さんでしたから、その葬儀の会場にはたくさんの同信の方々が来ておられた。やがて「僧正」さんが登場して、お経が始まった途端、その大きな公共の葬儀場が壊れるのではないかと、肝を冷やさんばかりの大合唱というか大読経がはじまった、その合間にたたかれた太鼓の音の大きかったこと、長く生きていて、こんなに騒々しいお葬式は初めてでした。これでは亡くなられた方はもちろんですが、お隣りでも「式」をあげられていた「仏さまたち」は心安らかに眠れたものではなかったと、今思い出しても驚いた出来事でしたね。(兼好さんとは無関係です)

 いつも、無駄な「前置き」が冗漫すぎるという自覚はあるのですが、それを止める「抑止力」が弱い、いやないんですね。

 この段を含めて、後の数段は、文字通りに「段段、よくなる」という感想とともにぼくは読んできました。なかなかの人物でしたね、吉田さんは。出世したかっただろうなあという、彼の恨み・憾みに似た感情にも、ぼくは同情を禁じえません。もちろん、彼が生きた時代の「家柄」「氏素性」が、一人の人間の「運命・命運」を決めていたのですから、それを超えて何かを得るということは不可能だったと言えます。この二つの段も、ぼくが特に気に入っているというか、ここに同志を得た想いがするのです。この二段も「読んで、読んで」で、意が通じるし、そうかなあと、しばし深呼吸するのではないでしょうか。ある詩人は「深呼吸の必要」を書かれて、一冊の本にされました。兼好法師も「深呼吸の必要」を、諄々と説いていたのだと、今日に生きる(人生に齷齪している)ぼくたちは気づかされないだろうか。

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 蟻の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に走(わし)る。高き、有り、賤しき、有り。老いたる、有り、若き、有り。行く所、有り、帰る家、有り。夕(ゆうべ)に寝(い)ねて、朝(あした)に起く。営む所、何事ぞや。生(しょう)を貪り、利を求めて、止(や)む時)無し。

 身を養ひて、何事をか待つ。期(ご)する所、ただ老と死とに有り。その来(きた)る事、速(すみや)かにして、念々の間に留まらず、是を待つ間、何の楽しびか有らん。惑へる者は、これを恐れず。名利に、溺れて、先途(せんど)の近き事を顧みねばなり。愚かなる人は、また、これを悲しぶ。常住ならん事を思ひて、変化(へんげ)の理(ことわり)を知らねばなり。(「徒然草 第七十四段」)

 (超現代語訳)「何をくよくよ川端柳 焦がるるなんとしょ 水の流れを見て暮らす」ともかく、こんな調子で生きるに如(し)くはなし。どうして齷齪(あくせく)すんですか、「ただ老いと死を」待つばかりなのが人生だと、あきらめであろうが、悟りであろうが、それなりのけりを付けたらどうです、みなさん」(というのが兼好さんの、この段に現れた「人生観」ではないでしょうかね)

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「徒然草絵巻」の一部(海北友雪筆 17世紀後半 サントリー美術館蔵) 

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 徒然詫(わ)ぶる人は、いかなる心ならん。紛(まぎ)るる方無く、ただひとり有るのみこそ良けれ。

 世に従へば、心、外(ほか)の塵に奪はれて惑ひ易(やす)く、人に交はれば、言葉、外(よそ)の聞きに従ひて、然(さ)ながら心にあらず。人に戯(たはぶ)れ、物に争ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。その事、定まれる事無し。分別(ふんべつ)、妄(みだ)りに起こりて、得失、止む時無し。惑ひの上に、酔(ゑ)へり。酔(ゑひ)の中(うち)に、夢を成す。走りて忙(いそが)はしく、惚れて忘れたる事、人皆、かくの如し。

 いまだ、真の道を知らずとも、縁を離れて身を静かにし、事に与(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫(しばら)く楽しぶとも言ひつべけれ。「生活(しょうかつ)・人事(にんじ)・伎能(ぎのう)・学問等の諸縁を止めよ」とこそ、摩訶止観(まかしかん)にも侍れ。(「徒然草 第七十五段」)

 (超現代語訳)「何をしたらいいのか、よくわからない、困ったことだと」言う人の心持は何ですか。それこそ「何もすることはない」が一番いいことなのに。世間の動きに歩調を合わせていると、何かと身持ちは揺れ動いて、心が定まる(休まる)ことがないでしょうに。そんな右往左往の生き方(生活)は、惑いながら、その上に酒で酔うようなもので、あちこち走り回って大事なことを忘れてしまう、だれもがそうなんだなあ。

 面倒なことは知らなくても、「(世間とのつながりである)縁を離れて身を静かにし、事に与(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫(しばら)く楽しぶとも言ひつべけれ」という、そのことをまず経験したらどうですか。あれこれ心をわずらわすというのは、いかにも気の毒だと、ぼくには思われてきます、というのが、兼好さんです。ここでも「深呼吸の必要」を望んでいますね。

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◉ 摩訶止観【まかしかん】=中国,隋代の仏書。天台三大部とよばれる。20巻。智【ぎ】(ちぎ)が594年に荊(けい)州(湖北省)の玉泉寺で講述。灌頂(かんぢょう)の筆録。天台摩訶止観,止観とも。自己の一心のうちに森羅万象が円満具足するという,天台観心を詳述し,実践上の宝典とされる。中国,日本で重視。(マイペディア)

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 魔訶止観がどういうものか、ぼくは何も知らない。それでも「「一念の心のうちに、迷から悟りにいたるあらゆるものごとが本来そなわっている」という「一念三千の理」を自らの胸の内に見て取ることを求める禪の訓練法の一つであるでしょう。それはなにも、こむずかしい「仏典」を持ち出すまでもないことで、世間の付き合いもほどほどにということですが、早い段階から「ほどほどに」がなくなるように、子どもは育てられ、世間に受け入れられることが「真の大事」だと、実に愚かしい生き方(そこに生きる意味はないですよ)を強いられているのです。「世間は怖い」と、ぼくがいつでもいうのは、「二人からなる集団自体」が世間だからです。ほとんどはそんな、狭量な「世間」に認められたいと身を粉にするのでしょうし、それができないと蹴落とされるのです。 家そのもから始まって、幼稚園、学校・会社・地域と、それぞれに作られている「社会」が世間なんですね。「別個の世間」だってあるにもかかわらず、そんな、煩わしい世間に受け入れられたいと齷齪(あくせく)するし、徐々に、あるいは一気に、いのちの泉を枯らしてしまうのですから、じつに恐ろしいことではあります。

 兼好は誰かに頼まれたわけでもなく、自分自身の経験から「世に従へば、心、外(ほか)の塵に奪はれて惑ひ易(やす)く…その事、定まれる事無し」と強調して止まないのは、確信・核心があったからです。彼にとって「出家」というのは「縁を離れて身を静かに」していることでした。つまりは「深呼吸」です。一休みでもあったでしょう。そうすると、そこから何かが生まれてくるのでしょうね。

 「ただひとり有るのみこそ良けれ」というのは、隠棲したり、山中に住むことをいうのではないでしょう。街中にいて、「ただひとりあるのみ」を自分自身は、どれだけ作り出せるか。世間にいて、世間にいない、そんな「風狂」が、実は求められているのではないでしょうか。とにかく、「深呼吸の必要」ですね。我が家のネコさんの一人は、顔を合わせると、目が合うと、きっと「欠伸(あくび)」をします、それに引き込まれそうになるほど、ゆったりとするんですね。

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 とにもかくにも、空言多き世なり

 【水と空】デマ隆盛 1872(明治5)年、徴兵制を敷くことを国民に告げる「徴兵告諭」が出された。その堅苦しい内容の一部を現代風に書けば〈西洋では心身をささげる税のことを血税と呼ぶ。(国民は)その血をもって国に報いる〉…▲このくだりが大騒ぎを引き起こした、と作家の故半藤一利さんはエッセー集「歴史のくずかご」(文春文庫)に書いている。徴兵の義務とは血を搾り取ることだと、誤解が列島を駆け巡ったらしい▲すぐに全国で徴兵制の反対運動が巻き起こった。この例を引いて半藤さんは〈インターネットやら携帯電話全盛のいま、デマの威力速力たるや…〉と案じている▲今やその威力は爆発的といえる。コロナ禍で会員制交流サイト(SNS)を通じてデマが世界中にあふれている、と正月の紙面で詳しく伝えていた▲悪事、千里を走る。古来、悪いうわさほどすぐに広まってきたが、SNSでもまた、衝撃的で偏った情報ほど広がりやすいという。第5世代(5G)通信システムが感染を加速させている、ワクチンを打つと不妊になる-と数え上げれば切りがない▲厚生労働省の特設サイトなどで事実のチェックはある程度でき、活用が勧められている。マスクに手洗いと身近な感染対策に加えて、うそとほんとを見分ける目も、身を守るのに欠かせない。(徹)(長崎新聞・2022/01/11)

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 「ひとの噂(うわさ)も七十五日」と言われてきました。それはスマホなどの現代版「飛び道具」はおろか、新聞やテレビも、世間中に十分にいきわたっていなかった時代の時代相のようでもあります。真偽定かならぬ「噂話」も賞味期限はせいぜい二か月か二か月半がいいところで、それを過ぎれば、また新たな「七十五日」が始まっているという塩梅で、世間はその応接にいとまがなかった。それにしても二か月半とは長いじゃないかという向きもあるでしょう。娯楽もあまりない時代、ようやく巡ってきた「噂」に庶民は飛びついたのかもしれませんし、根掘り葉掘りと事情をまことしやかにしゃべっているうちに、二か月半は過ぎていくということだったろうと、噂話に興味のない人間は考えています。

 「血税一揆」もそのたぐいであるとは言えないのは、「政治不信」はどこから火の手が上がるかという問題を明かしているでしょう。「火のないところに、煙は立たぬ」とも言います。煙が出ているのは、だれの目にも見える、それじゃあ、「火元はどこだ」と探したら、「やっぱりあったじゃねえか」という段取りですね。「徴兵の義務とは血を搾り取ることだ」と反政府のだれかが「狼煙」を上げたら、案の定燃え上がった、火元をただせば、やっぱり「薩長の野郎ども」ということになったのです。だから、「血税は云々」もまた、一部の反体制側の上出来な「噂」だった。その「うわさがうわさで終わらなかった」のは、日ごろの新政府の「有司専制」、あるいは「苛斂誅求(時代が古いようですが)」に怒りがたまっていた「旧武士階級」の怨念が発火したからだった。その種火に煽られて、政府打倒のお先棒を担いだ(担がされた)のが、農民や庶民だったのです。

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◉ 血税一揆(けつぜいいっき)=1872年(明治5)11月制定、翌年1月発布の徴兵令に対する反対一揆徴兵令反対一揆ともいう。「徴兵告諭」のなかで徴兵義務を「西人(せいじん)之(これ)ヲ称シテ血税ト云(い)フ其(その)生血ヲ以(もっ)テ国ニ報スルノ謂(いい)ナリ」としたことから、この名がおこった。20歳に達した男子に課せられる3か年の兵役義務には、官吏、海陸軍生徒、所定の官立学校の生徒、洋行修業者、戸主・嗣子(しし)、代人料270円上納者ほかの免役条項があったが、それらの適用を受けられない一般農民の、とくに二、三男にとっては、徴兵は逃れられない労働力徴発としての意味をもつ過重な負担であった。血税一揆は、この負担に反対する一揆で、ここに血税一揆の本質がある。徴兵によって「生血」を吸い取られると誤解したためであるとする説は、この本質をみない俗説である。(以下略)(ニッポニカ)

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 十四世紀の半ばまで生きた、ある賢人は次のように「世上」「世情」を喝破していました。いうまでもなく、当時の「世」はいかにも狭いものであったことは確かでしょうが、今だって、広いと言えば世界規模ですが、果たして、その実態は「仮想現実」ということではないのでしょうか。reality と virtual reality の境目はあるのかないのか定かではないという時代に、ぼくたちは遭遇しています。その「ハザマ(間・狭間・硲・羽佐間、以下無数に)」に、格好のネタが転がり落ちたら、手ぐすねを引いて待っていた連中には、かぶりつくのに「千載一遇の好機」であり、かぶりつかれるほうにしてみれば「格好のカモ」という具合ですね。

 しかし両者にしてみれば「ひとの噂も七十五日」なんて、そんな暇があるかいな、というわけで、新たなカモを求めて「罠を仕掛ける」のです。その「罠」はよくもまあ、これだけ次々に新製品ができますなあと驚くほどに、多種多様な「アプリ」だとか「トラップ」などが目白押しです。実際に、そんな「罠」に命運をかけているのが、第五世代とか第六世代という「フロントランナー」たちです。ところが、フロントだと思っていたのも瞬時で、あっという間に置いて行かれる。もっと露骨に家えば、この「AI」「IT」は、世界の経済の命綱のような働きをしているのではないですか。どんな道具にも、きっと両面ある。どんな道具も「使いよう次第」ですよ、「✖✖とハサミは使いよう」というではないですか。「切れない鋏にも使いようがあるように、ばかも使い方しだいでは役に立つ」(デジタル大辞泉)と明言しています。つまり切れるのも、切れすぎるのも、使い方次第だというわけ。「オレオレ詐欺」には、よく知らないが、「スマホ」だったり「携帯」が使われているそうです。

 これからはスマホの世の中だと、時代の花形(稼ぎ手)になっているのでしょうが、これも使い方次第ですね。ぼくの言いたことはたった一つ。なにかと「炎上」が騒がれていますが、その中身は千差万別でしょう。世の中には、「火のないところに、煙を立たせよう」という困った人がいます。ではどうするか、「君子、危うきに近寄らず」です、これだけです。そのように言って、「スマホはやめろ」「携帯は持つな」というのではない。ぼくは、自分では持っていませんが、他人が持つか持たないかに、それは感知も関知もしません。「危うきに近寄らず」という信条みたいなものは、少しは考えておいたらどうですか、その程度です。もし「炎上」したら、即、119番です。「私のFBが炎上しています」「ぼくのTwitter が大変なことになっていいる」と消防署に連絡してもいいけど、あまり役には立たないでしょう。「危うきに近寄らず」には「七十五日待て」、いや「十日待て」、いいや「二、三日待て」という、その「間」が大事というのです。その「間(はざま)」にまで急襲する執拗な人はいるものではありません。

 ぼくはスマホを所持も使用もしていないので、この現代の「噂話」と、そこから生まれてくる「時代病」については、適切な処方箋を書くことはできないと告白しておきます。その代わりにというと叱られそうですが、「人生の達人による今日、明日を生きる道しるべ」(ぼくが用いている「ちくま学芸文庫版」の帯の文句)と激賞されている「希代の人間観察者(モラリスト)」に、この問題の確たる処方箋を示していただこうと思います。この「処方箋」の要諦は、繰り返し繰り返し、「処方」の内容を読むことです。読むにつれて、薬を服用した如くに効き目が出てくると思います。決して副作用はないでしょう。安心して読むことに集中していくと、まるで「漢方」みたいにじっくりと効用が出てくるはずです。「百聞は一見に如かず」のような言い方をしていますが、自分の目で、確かに「見る」という、この行為が最も欠けているのが、ぼくたちの住む「時代の病理」ですね、つまりは「付和雷同」し、「右顧左眄」するのです。ある種のクラスターが「炎上」を引きおこし、さらにそれを煽動しているのです。

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 世に語り伝ふる事、真(まこと)はあいなきにや、多くは皆、空(そら)言なり。

 有るにも過ぎて、人は物を言ひ成すに、まして、年月過ぎ、境も隔りぬれば、言ひたきままに語り成して、筆にも書き留めぬれば、やがて、また定まりぬ。道々の物の上手のいみじき事など、頑ななる人の、その道知らぬは、そぞろに神の如くに言へども、道知れる人は、更に信も起こさず。音に聞くと、見る時とは、何事も変る物なり

 かつ顕はるるをも顧みず、口に任せて言ひ散らすは、やがて浮きたる事と聞ゆ。また、我も真(まこと)しからずは思ひながら、人の言ひしままに、鼻の程、蠢(おごめ)きて言ふは、その人の空言(そらごと)にはあらず。げにげにしく、所々うちおぼめき、よく知らぬ由して、然りながら、端々(つまづま)合はせて語る空言は、恐しき事なり。我が為、面目有る様に言はれぬる空言は、人いたく抗(あらが)はず。皆人の興ずる空言は、一人、「然(さ)も無かりし物を」と言はんも詮無くて、聞き居たるほどに、証人にさへ成されて、いとど定まりぬべし。

 とにもかくにも、空言多き世なり。ただ、常に有る、珍しからぬ事のままに心得たらん、万(よろず)、違ふべからず。下様(したざま)の人の物語は、耳驚く事のみ有り。良き人は怪しき事を語らず。

 かくは言へど、仏神(ぶつじん)の奇特(きどく)、権者(ごんじゃ)の伝記、然のみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の空言を懇(ねんご)ろに信じたるも烏滸(おこ)がましく、「よも、あらじ」など言ふも詮無ければ、大方は、真(まこと)しくあひしらひて、偏に信ぜず、また、疑ひ嘲るべからずとなり。(「徒然草 第七十三段」参考文献は島内・既出)

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 人の口に戸はたてられずです。人というのは「噂が好きである」と、肝に銘じておくべきです。三人が寄って、和気あいあいと話をしていた。その中の一人がいなくなった途端に、残りの二人が「言うまいことか、いなくなった人間のことを悪しざまにいう」のが、人間だし、そんな人間が集まって世間ができていると、もう一度肝に銘じるべし。(◉「ひと【人】 の 口(くち)に戸(と)は立(た)てられず=世間が噂をするのはとめることができない。が取りざたするのは防ぎようがない」(精選版日本国語大辞典)

 それでも「噂になりたい」「世間に知られたい」と言うなら、どうぞ、ご随意に。「お気に召すまま(As you like.)」だね。重ねて、君子危うきに近寄らず、です。ぼくはまったく、いうまでもなく「君子」ではない。しかし「小人もまた、危うきに近寄らず」を、生涯のモットーにしてきました。「良き人は怪しき事を語らず」というのは兼好さん。兼好という人は「良き人」であったかどうか、それは問わないけれども、彼は本当に時代を観ていたし、人間を観ていた人でした。それをして(モラリスト)といったんでしょうね、フランスでは。この島では、差し当たって、鋭い人間観察者だったと言えるでしょう。ものごとを観察する態度は一貫していた。すべては自らの経験に照らして物を言うということだったろう。決して「噂」に寄りかかりはしなかったのです。ぼくは彼の忠告に、かなり前から従ってきたような気がするのです。その兼好さんが、この時代に生息していたら、「とにもかくにも、空言多き世なり」と、さらに慨嘆の思いも深くしながら、重ねて言ったでしょう。それを知ったうえで、「噂になりたいのか」と自問してみる。

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 毒を持って毒を制する逆行、それが一休の自嘲

 【日報抄】今日はとんち(頓知)の日。機知に富んだ当意即妙の受け答え。痛快で笑わせてくれる「一休さん」にちなみ1月9日だという。室町時代のこの名僧の逸話のひとつに、今年の干(え)支(と)に絡む「屏(びょう)風(ぶ)の虎退治」がある▼将軍がこの知恵者を試す。「屏風に描かれた虎が、夜な夜な抜け出して暴れる。退治してくれ」。一休は縄を手に構えて言う。「では捕まえます。虎を屏風から出してください」。この切り返しに将軍も感服し…▼一休の頓知話は江戸時代以降に本などで全国に広がった創作ともいわれる。多くの民話が残る佐渡市の赤泊にも、同じ話が代々伝わる。難題を出すのは庄屋、退治役が和尚に変わっただけだ(「日本昔話通観」)▼佐渡は流刑地として京都から多くの貴族や文化人が送られた。島のこの伝承は本で伝わる以前に、京都からのルートでもたらされた可能性もあるのでは。そんな想像が膨らむのも、奥深い歴史を有し“日本の縮図”とも呼ばれる佐渡の魅力だ▼有名な「屏風の虎」の話をモチーフに、自分独自の頓知を考えてみようという人もいる。ネットで探ってみると、新たな切り返し例として、虎の屏風にササッと墨で檻(おり)を描いてみせるというのがあった。駄じゃれ派もいる。何もせずに屏風の前で「はい、虎絵(捕らえ)ました!」▼硬直したこの時代、発想の転換という頓知の柔軟性が求められているのかもしれない。前例踏襲や、その場しのぎの対応ばかりでは、頓知とは程遠い「頓痴気(とんちき)」と言われてしまう。(新潟日報・2022/01/19)

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 このコラム、「頓智の日」にしては工夫が足りないというか、頓智になっていませんね。「1月9日」だから、「いっきゅう(一休)」、これは駄洒落であって、頓智には無関係だね。いったい誰がこれを名付けたんですか。あるいは「なぞかけ」にちなんで「クイズの日」だとか。面白くもなんともない。名付け親はぼくにはわかりません(少ししか探していませんので、見当たらなかった)が、どうせろくなことを考えていない人たちではないですか。

 それはともかく、この「とんち(頓智・頓知)」に使われている「頓」という漢字です。ぼくはよほど、この字の方に興味を持っています。「意味はこれこれである」といえない、まことに「融通無碍」なんですよ。差し当たって、訓読みの例を挙げてみると、以下の通り ①頓しむ(くるしむ)②頓れる(つかれる)③頓く(つまずく)④頓まる(とどまる)⑤頓に(とみに)⑥頓ずく(ぬかずく)⑦頓ぶる(ひたぶる)⑧頓ぶれる(やぶれる)などなど。

 さらに、熟語としては、①整頓②頓狂③頓悟④頓才⑤頓挫⑥頓死⑦頓服⑧頓首⑨頓馬⑩頓着などなど。その他、限りなくとは言いませんが、いくらでもあげられるという気がしてくる「字」です。これだけでもかなり珍しいと言えます。切りがありませんから、これで、無駄な詮索はやめておきますが、一休さんとはまったく無関係の寄り道でした。なんで一休和尚と「とんち」が結びつけられたのか。これにもいろいろな理由があるのはたしかです。しかし、一休さんは「とんち教室」の先生になれるような、あるいは、なるような人物ではなかったことは確かでしょう。つい先日も彼のことについて駄文を書きました。駄文ですから、終わりがないのですね。だから、調子に乗って、本日も。

 何よりも、一休というと、ぼくは「風狂」という語を使いたくなる。これを使いたくなる人は、そんなにいないのです。おそらく一休さんは、この語が似合う、最右翼ではないでしょうか。彼自身が、自らをして「風狂の狂客」と自称してさえいるのです。「風」「雲」は禅家の専売のようになっていますが、それは、行方定めぬ、つかみどころのない、人をも世をも隠し通しさえするという、鋭利な牙を持っている風雅、そんな気味がするのです。「行雲流水」と、とどまらないで流れゆく自然界の代表のような顔をしています。にもかかわらず、いったん牙をむくと「頓に」表情を変えてしまうのです。

 すこし「風狂」にこだわってみたい。安東次男さんの芭蕉研究に「風狂余韻」「風狂始末」と題されたものがあります。この場合の芭蕉は「風雅の境地に入り込んで、他を顧みない」というものとして受け取られていたと言えます。また葛飾北斎は「画狂老人」と自署しています。このような「風狂人」は、中国ではさらに多く存在していました。その筆頭に、ぼくは「寒山拾得」を持ってきましょう。下の墨画は「禅機図断簡 寒山拾得図」(因陀羅筆)(国宝)(東京国立博物館)です。二人の僧が、木の根元に座って、なにやら談笑している図です。鴎外がこれをモチーフにして「寒山拾得」を書きました。この二人の僧の得体は知られていません。この島の画家という画家(日本画)は、だれもがこの画題を逃そうとはしませんでした。もちろん、禅僧がいてこその話です。そのいくつかでも、ここには出しませんが、実に壮観です。画を描くというのは、寒山拾得を描くことだという受け止め方があったのではないでしょうか。もちろん雪舟もその一人です。

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◉ 寒山拾得(かんざんじっとく)(Han-shan Shi-de)=中国,の伝説上の2人の詩僧。天台山国清寺豊干禅師の弟子。拾得は豊干に拾い養われたので拾得と称した。寒山は国清寺近くの寒山の洞窟に住み,そのため寒山と称したといい,樺皮を冠とし大きな木靴をはき,国清寺に往還して拾得と交わり,彼が食事係であったので残飯をもらい受けていた。ともに世俗を超越した奇行が多く,また多くの詩を作ったという。しかし,これらの事績はすべて,天台山の木石に書き散らした彼らの詩を集めたとされる『寒山詩集』に付せられた閭丘胤 (りょきゅういん) 名の序,および五代の杜光庭の『仙伝拾遺』に記された伝説に発するもので,寒山,拾得の実在そのものを含めて真偽のほどは確かめがたい。後世に禅などが彼らのふるまいや生活に憧れ,好画題として扱うことが多かった。顔輝 (がんき) ,因陀羅などに作品があり,日本でも可翁,明兆,松谿などが描いた。その詩は『寒山詩集』に寒山のもの約三百余首,拾得のもの約五十首を収め,すべて無題である。自然や隠遁を楽しむ歌のほか,俗世や偽善的な僧を批判するもの,さらに人間的な悩みから女性の生態を詠じたものまで,多彩な内容をもち,複数の作者を推測することもでき,さらにその成立もいくつかの段階を経ているとも考えられている。(ブリタニカ国際大百科事典)

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◉ 風狂(ふうきょう)=「風」は「瘋(ふう)」に通じ、人をさして風子、風癲(ふうてん)、風漢などとよぶ。「風狂」とは(風が狂おしく吹くという意味は別として)、もと狂気、狂人を意味した。隠逸の高士寒山(かんざん)が「風狂夫」(『山堂肆考(さんどうしこう)』)、「風狂の士」(『寒山子詩集』序)と、また拾得(じっとく)が「風狂に似たり」(『寒山子詩集』序)、「風狂子」(『沙石集(しゃせきしゅう)』)とよばれたというのも、彼らが凡俗の目には狂人としかみえなかったということである。しかし「狂」の語は単なる精神疾患の意を超えて用いられた。李白(りはく)が「我はもと楚(そ)の狂人」と自称し、葛飾(かつしか)北斎が「画狂老人」と自署するとき、彼らは自分が世間の標準から外れていることを自認してはばからない。人は世間の規範からの逸脱を肯定的にとらえて「狂」とよぶ場合があり、日本において中世以降「風狂」とはそのような「狂」の形態の一つをさす。(中略)/ 遁世(とんせい) 精神や性格の異常ではなく、自らの意志で選ばれた生き方である。たとえば鴨長明(かものちょうめい)の『発心(ほっしん)集』は、極楽往生を願って世俗的所有物のいっさいを捨てた隠者の伝を多く伝える。彼らにとって遁世とは、家を捨てて寺に入ることではなく、すでに世俗の体制に組み込まれた寺をも捨てて隠棲(いんせい)することを意味した。彼らは真の「放下(ほうげ)」を目ざしてひたすら俗から逃走し、追いかけてくる名誉や利益から身を隠す。しかし、俗からの脱出が人の世からの逃走であるうちはまだ消極的な脱俗である。

 (さらに別種の)風狂 これは自由を求めて世間から逃走するのではなく、すでに精神が自由となっているために世間の規範を超越するものである。かならずしも山中に隠棲せず、あるいは乞食(こじき)となって市中を横行し、ときに色街に戯れることをためらわない。しかし世俗の価値基準は眼中になく、常識からみれば奇行の連続であり、その存在自体が俗世間への批判となる。その代表者は自ら「風狂の狂客」と号した一休である。このとき、「風狂」とは自由なる精神と同義となる。(以下略)(ニッポニカ)

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 一休さんと「風狂」の、強烈な結びつきは、おそらく言うまでもなく、この「寒山拾得」伝説に始まったとみていいでしょう。寒山は自らを「風狂天」といい、拾得は「風狂子」と称した。「風」は人間業ではないのはもちろん、いったん発生すれば、とどまるところを知らない「狂乱の風情」です。この場合の「風」は、世間に吹く風であると同時に、その風に流されて、あるいは、逆らって人間世界(世間)の外に吹き飛ばしてしまう力を持っています。その人間世界の埒を外れた人をして、「風狂」(自称・他称)としたのではなかったか。寺も、当たり前の世間であるなら、それを捨てるほかないことになります。「出家」というのは「出世間」だったのに、驚くなかれ、世間で名を成すことに血道をあげるという、たまげた「仏教人士」もあるのですね。「禅」で飯を食う坊さんもまた、同じことです。

 上に引いた辞書の説明に「発心集」が述べられています。長明さんの著とされるものですが、「極楽往生を願って世俗的所有物のいっさいを捨てた隠者の伝を多く伝える。彼らにとって遁世とは、家を捨てて寺に入ることではなく、すでに世俗の体制に組み込まれた寺をも捨てて隠棲(いんせい)することを意味した。彼らは真の「放下(ほうげ)」を目ざしてひたすら俗から逃走し、追いかけてくる名誉や利益から身を隠す」と。これはしかし、まだ序の口で、「風狂序二段」程度です。三役になるのには、そんなところで留まっていては話にならない。大関や関脇になると「かならずしも山中に隠棲せず、あるいは乞食(こじき)となって市中を横行し、ときに色街に戯れることをためらわない。しかし世俗の価値基準は眼中になく、常識からみれば奇行の連続であり、その存在自体が俗世間への批判となる」と。おおむね、ぼくはこの説に賛成しています。詳しく語るには、「一休論」を書かなければなりませんが、ここでは、まず「一休み」です。あわてない、あわてない。

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 行きたいと願いながら、まだ行ったことがありませんが、現在の京田辺市に「一休寺」といわれる名刹があります。なかなかのお寺で、一休さんの墓所もあります。そもそもこの寺を再興したのが一休和尚でした。この地で亡くなった一休和尚の「酬恩庵」、別名薪寺ともいわれるところで、なかなかの庭も見られます。その作庭の一人に、詩仙堂の石川丈山も加わっているんですね。今では有名になりすぎた寺の一つで、その意味では一休さんの意に沿わないところでもあるのでしょうね。

◉ 酬恩庵(しゅうおんあん)=京都府京田辺(きょうたなべ)市(たきぎ)にある臨済(りんざい)宗大徳寺派の寺。一休(いっきゅう)寺の名で知られ、薪一休寺、妙勝寺、薪寺ともいう。山号は霊瑞山(りょうずいさん)。正応(しょうおう)年中(1288~93)に絶崖(ぜつがい)宗卓によって妙勝寺が開創され、南浦紹明(なんぽじょうみょう)を招いて開山とした。

伽藍(がらん)は元弘(げんこう)年中(1331~34)に兵火にあい、いったん灰燼(かいじん)に帰したが、のち紹明の遺風を慕う一休宗純(そうじゅん)によって1456年(康正2)再興された。やがて一休はここに一草を結んで酬庵と名づけて隠棲(いんせい)した。入寂後、一休は門人によって寺内の塔に葬られた。本堂(国重要文化財)は小さいながら、1506年(永正3)の建立で、唐様(からよう)で変化に富んでいる。寺宝に一休禅師の木像・画像があり、後花園(ごはなぞの)天皇宸翰(しんかん)女房奉書とともに国重要文化財。また、方丈、唐門(からもん)、庫裡(くり)などが国重要文化財に、枯山水の方丈庭園と虎丘(こきゅう)庭園は国名勝に指定されている。(ニッポニカ)

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 一休さんの「漢詩」を一つ。(ヘッダーに掲げたものです。東京国立博物館収蔵)

	峯松

萬年大樹摠無倫
葉々枚々翠色新
琴瑟不知誰氏曲
雲和天外奏陽春	

(峯の松
万年も歳を経た松の大樹のあたりには人もなく
一枚一枚の葉の翠色が新鮮である
聞こえてくる琴の音は誰の曲だろうか
雲が天空と調和して、陽春を奏でている)

 一休さんが「とんち好き」だったというのは、ぼくに言わせれば、悪い冗談です。「笑点」で座布団の取りっこをするような、そんな遊び四分三の「落語家」のような方ではなかったでしょう。あるいは、「クイズ王」のごとき、紅顔の美青年(?)であることだけを誇っているような軽薄人ではなかったと言えます。いつも抜き身を身につけていたとは言いませんが、何も頼るものがない、何にも頼らない、そのままの自分、そのままの素性で生きていこうとされた人、その意味では、実にうらやましい「無頼の人」だったと思う。もちろん、彼の胸中は知る由もありません。

 ここで一休研究家の市川白弦氏の「解説」を引いて、この駄文を終わりにします。

 「政治家のいやらしさ、とひとは言う。政治家がいやらしいのは、われわれ自身のいやらしさを目のあたりにみるからである。いやらしさの実態は名利心と権勢欲である。名と利と権の三位一体が人間のいやらしさのを構築し、このいやらしさのうえに文化が花ひらき、歴史が「進展」している。一休の面目は、かれが自分の虚偽、虚栄、名誉心をまともに見すえて、たじろがなかったところにある。一休は自分の嗔恚(しんい=憤り)、情欲、嫉妬をおし隠そうとはしなかった。むしろ虚偽的、露悪的にあからさまにした。それは時勢を警策するための、毒を持って毒を制する「逆行」でもあったが、そのことがすでにひとつの自己顕示であることを一休は知っていた。かれの自嘲または懺悔がそこから生まれたというていい。かれが他者のいやらしさのうちに自分を見るのでなかったならば、栄衒心、名利の欲をあれほど執拗に攻撃することもなかったであろう。しかもそのことじたいが、しばしば自己の栄衒心の組みひしがれた亡霊であった」(市川白弦「一休とその禅思想」「中世禪家の思想」所収。日本思想体系16、岩波書店刊)

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 まぼろしの影を慕いて 雨に日に

 【三山春秋】▼古くから日本では赤色が邪気を払うと考えられてきた。江戸時代には死に至る病とされた天然痘が流行し、赤の濃淡で人や動物を描いた「疱瘡(ほうそう)絵」が魔よけの護符として使われるようになる。この時、だるまも同じ理由で広まったらしい▼農閑期のだるま作りが現在の高崎市豊岡地区で始まるのも同じころ。疫病の流行とともに歴史が始まったことになるが、願掛けの縁起物として知られるのは絹産業が盛んになる明治時代になってのことだ▼繭を作るまでに4回脱皮する蚕が古い殻を破って動きだすさまは「起きる」と呼ばれていた。これにかけて「七転び八起き」のだるまは特に養蚕農家の守り神として喜ばれ、暮らしの中に入っていく。上州の歴史風土とは深く結びついていた▼全国一の生産量を誇る高崎を皮切りに、ことしも新春恒例のだるま市が始まった。きょうは400年の歴史をもつ前橋初市まつり。規模を縮小して行われた昨年に比べれば、各地でにぎわいも増すだろう▼県民が縁起だるまに託す思いは商売繁盛や家内安全、学業成就か。夏の参院選をはじめ選挙の多い1年には必勝祈願としても欠かせない。加えてコロナ禍の終わりを願わぬ人はいまい▼赤いだるまは病よけの護符であり、次々襲い来る感染の波にも負けず起き上がるシンボルである。多くの人の掛けた願いがかない、平穏な日常を取り戻す年であってほしい。(上毛新聞・2022/01/09)

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 「だるまさん」にはいくつかの思い出があります。いずれも大したことではない逸話ですが、ぼくにとっては、高崎や達磨大師などに連想は膨れ上がっていくので、いたずらな無駄話ではないつもりです。「高崎のだるま」が、ことのほか有名になったのはいくつかの理由があるのでしょう。ぼくにはあまり興味はないのですが。高崎出身のIさんとは、どのくらいの付き合いになったか。先年、亡くなられた。群馬県のどこかの温泉場に「同級会」と称して何人かが集まった、食事を済ませて「ひと風呂浴びてくる」といって、湯船の中で亡くなったという。八十五歳だったか。とても健康でいろいろな職業を経験し、最後は悠々自適の(ような)生活を送っていた。まさか、の突然死でした。胸部の動脈の破裂だったそうです。

 彼は、ぼくの連れ合いの姉の夫、行ってみれば、ぼくとは「義兄弟」(北島三郎ですね)の間柄でした。毎年この時期になると、郷里の高崎に帰り、戻るに際しては、いくつものだるまを土産にしていた。確か、ぼくのところの子どもも、いくつかもらったのではなかったか。彼は、これもどうでもいいことですが、N曽根元首相とは子どものころからの知り合いで、何かと面倒を見てもらったと言います。年齢は十歳は離れていたでしょうが、ぼくは好きではない元首相でしたが、彼の語る「人物像」は、なかなかの存在だったように思われてくるのです。何しろ「郷里の誉」でしたから。「義兄弟」が亡くなり、高崎とはすっかり縁切り状態になりました。彼の葬儀に来られた従兄弟(高崎在)とは何かと話す機会がありましたが、なんと、その従兄弟の隣家の方が(ぼくの)「授業に出ていたと、評判は予てより聞いていますよ」と、言われて赤面したことがありました。

 「高崎のだるま作りは、今から二百十数年前、豊岡村の山縣友五郎が始めたとされています。/ 稲の収穫や麦蒔きが終わった、秋から翌年の春にかけて作られていましたが、友五郎が始めたころは、色塗りに使う材料が簡単に手に入らないなどの理由で、生産量は少なかったようです。1859年の横浜港の開港で、だるまの生産が盛んになっていきます。海外からスカーレットという赤の顔料が輸入されるようになったからです。/ 徐々にだるまの作り手が増えていき、1909年ころには18軒になりました。現在では72人の職人が伝統を継承しています。(以下略)(下の写真も)(https://takasakidaruma.net/)

◉ 達磨【だるま】=達磨の座禅にちなみ,手足のない赤い衣をまとった僧の姿の人形。底を重くして倒れてもひとりでに起きる起上り小法師(こぼし)の一つ。商売繁盛,開運出世の縁起物として喜ばれ,目のない達磨に満願のとき目を書く風習がある。郷土玩具(がんぐ)として張り子製のものが各地で作られ,達磨市の立つ地方が多い。松川達磨(仙台),目無し達磨(群馬県豊岡,現・高崎),子持達磨(甲府),姫達磨松山)などが著名。(マイペディア)

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 「だるま」といえば、「達磨」さんを連想します。この島社会では、もっとも人口に膾炙した坊さんではなかったでしょうか。まるで雲をつかむような人物で、その「面壁九年」は、雪舟の絵などによって知られるようになりました。(この絵は、どこかに出してあります)なにしろ、禅宗の開祖というのですから、いかほどの存在であったことか。十分な理解もなく、ぼくはいくつかの文献を読んだだけです。彼は唯一の弟子・慧可を許し、彼にすべて後事を託したとされます。本場の少林寺山崇高寺に似せて、わが劣島には少林山「達磨寺」があります。もちろん、群馬県の高崎に、です。そのお寺と露天商とが対立し、「だるま市」が変則開催を余儀なくされているのです。本年も分裂開催になっているようですね。「だるまさんが転んだ」なのかなあ。

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 引き裂かれる群馬の「だるま市」 対立深まり高崎駅前と少林山開催に 「発端は経費問題」 感情もつれも…

引き裂かれる群馬の「だるま市」 対立深まり高崎駅前と少林山開催に 「発端は経費問題」 感情もつれも…

 年始めの風物詩として全国に知られた少林山達磨寺(群馬県高崎市鼻高町)の「だるま市」が、運営を巡る対立からだるまの露店がほとんどいない異例の開催となって約1年。溝はますます深まり来年1月はJR高崎駅前(元日、2日)と寺での祭り(6、7日)という異例の分離開催が決定的となった。「だるま発祥の寺」と「だるまを製造する組合」の決裂。220年の歴史を持つ祭りは大きな曲がり角に立つ。双方の言い分を聞いた。     

 発端は寺負担の経費問題 だるま市は毎年、露天商約200店、だるま販売店約60店が並び夜通し市を開き、参拝客20万人が繰り出す年始の風物詩だった。/ 対立の原因は何か。「祭りの経費負担にあった」と達磨寺の広瀬正史住職は指摘する。住職によると、警備や電気設備など多額の運営費の多くは寺が負担していたという。昨年、寺は応分の負担を出店料として求めたところ、露天商側が猛反発、出店を拒否し、組合まで追随して不参加となった。それでも今年1月のだるま市は少数のだるま商有志が寺近くで販売はした。来年1月は有志さえいない状態になりそうだ。(以下略)(産経新聞・2016/12/22)

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 「だるまさん」を挟んで「にらめっこ」の状態がもう六年以上も続いているんですね。開祖は「面壁九年」でしたから、まだ二年以上はありますが、それまでに「雪解け」とはいかないのでしょうか。泣いても笑ってもいいから、「みっともない、金銭のもつれ」は、だるまさんに免じて解決してほしい。そんな修羅の「だるま」にご利益があるとは思えないんですがね。

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 その「達磨寺」のHPからお借りしました。

 「達磨は今から1600年ほど前、南インドにあるカンチープラム()の第三王子として誕生し、幼名は菩提といいました。/ 若い頃に父である国王が亡くなり、菩提多羅王子は国政を二人の兄に頼み、お釈迦様から二十七代目にあたる般若のもとに出家し、『菩提達磨』の僧名を頂きました。/ 師にいて修行すること四十年に及び、般若多羅尊者から釈尊正伝の第二十八代目を継承しましたが、師より「六十七年間はインドを布教し、その後に中国に正法を伝えなさい」と遺言され、それに従って老年になってから、海路を三年かかって中国・広州の港に上陸しました。/ 梁武帝と問答し、縁かなわず揚子江を渡って洛陽の都のはずれ、嵩山少林寺の裏山の洞窟に住み、面壁九年の坐禅をするうちに求道者・神光が現れ、その熱意に感じ中国で始めて弟子をとり、慧可と名付けました。/ この慧可にすべてを伝え、中国に禅宗の基礎を築かれたのですが、その教えを理解できない者たちによって毒殺され、熊耳山定林寺に葬られました」(黄檗宗少林山達磨寺HP)

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 この「だるま市」に関しては次のような告知がありました。「ご本尊様が降臨される」という「星祭」それはまた、星に祈りを届ける宵でもあるのでしょう。ここで、どういうわけだか、一つの映画と主題歌が浮かびました。いったい、ぼくはこの映画をいつ見たのか、もちろん、小学生のころだったが、暗い教室で観た場面の数々が、ぼくの目に焼き付けられています。「生と死」を教えられたのだったかも。「星に願いを」は、ディズニー映画「ピノキオ」(一九四十年)の主題歌です。少林山達磨寺の住職さんたちは「星に願いを」を知らないのでしょうか。ゆっくりと味わってほしいですね。「夢はかなう」「争いは終わる」からね。

 *少林山七草大祭だるま市 「七草大祭は開創当時より行われる伝統行事です。/ 1月7日の午前2時が本尊様が降臨される吉日とされ、前日の6日から前夜祭として夜通し行われる星祭です。/ 本尊様が降臨される7日午前2時に星祭大祈祷が厳修され、本尊様のご利益を求めたくさんの参拝者で賑わいます。/ 200年程前の天明年間、9代目の東嶽和尚がだるま作りを伝授し、だるまが作られるようになると、だるま市も同時に行われるようになりました。(同寺HP)
When you wish upon a star
Makes no difference who you are
Anything your heart desires
Will come to you

If your heart is in your dream
No request is too extreme
When you wish upon a star
As dreamers do

Fate is kind
She brings to those to love
The sweet fulfillment of
Their secret longing

Like a bolt out of the blue
Fate steps in and sees you through
When you wish upon a star
Your dreams come true

 ここから、達磨大師について書こうとしているんですが、なんだか雰囲気がよろしくないようで、気分が乗らないんですね。「達磨さん」を押し出しているお寺さんが「金銭トラブル」の渦中だなんて。笑えない話です。どこまでも落ちるんですね。三題噺を。「だるまさんが転んだ」「火だるま」「雪だるま式」で、どんな無駄話が展開できるでしょうか。ぼくは「達磨」状態、手も足も出ないんではなく、出さないんですよ。そのうちに、雑談で。

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 稿を改めて、出直したほうがよさそうですね。何しろ「禅」の開祖に当たるのが、達磨さんです。ぼくの不思議とするところは、なぜ、これほどまでに「達磨さん」が、この島で好まれる、あるいは人気者になったかという点です。いくつかのそれらしき理由は得られそうですが、どうも、ぼくにはしっくりこないんですね。ひたすら、雪舟の「慧可断碑図」を観るだけで、もう何か、言うことが嘘くさくなるように思われてきます。第一、九年間も壁に向かわなければ、何もえることができないというのは、何なんでしょうか。「石の上にも三年」というのも、ぼくはどうかと考えてはいるんです。まるで「宗教・仏教」は自虐的(サディスティック)に見られすぎているんではないですか。

 どこまで行こうが、物には影がついてくる。影をつくる「本体」がある限り、それは避けられない。これが本体で、あれが影であると、どのようにして見分けられるのか。影を本体と見間違えるのはどうにも仕方がないというわけでもありますが。ほとんどは「影を慕いて」人生を生きているようなものです。「悟り」とは、段階があるのであって、「まず、隗より始めよ」なんでしょうな。千里の道も一歩からです。

 「色即是空」というお経の文句があります。形のあるもの(=色)は、すべて実体がなく、空(影)であるというのでしょう。あるいは「空即是色」とも言います。同じことです。「影」を把捉することは不可能ですよね。万物は実体がなく空である、そのままに、空と見られて、実体のないと認められることが、事物の本質なのだというのです。どんなものにもついて回るのが影、影は実体ではないし、その影を生み出している実体も、実は影なのだということ、形のあるものはきっと壊れる。だから、それにとらわれなさんな、端的にいうと、そういう意味なのでしょう。達磨さんに限らず、悟りを得たと言われる存在には、どこか「影」があるのではないでしょうか。その「影」こそが「色」であり「空」なんですね。

 プラトンの書いた「国家」という書物の第七巻に「洞窟の比喩(allegory of the cave)」というのがあり、そこに、この問題が出てきます。詳しいことは避けますが、要するに、ろうそくの映し出す「影」を見て、世人は「本物」と受け止めるのであり、「影が作る価値」の世界です。誰もこの「影」の呪縛から解放されない。面倒なことをいえば、嘘と真(まこと)の違いはどこにあるかという問題でもあるのでしょう。これは嘘、これは真と、だれが見ても明確に区別できることばかりがあるのではないということです。プラトン(ソクラテス)は、影を作っているのは「実体」があるからであり、それを見なければ、ものを見たことにはならないと言いますが、世人は、それには耳を貸さない。つまりは「色即是空」というわけです。「実態を見る」ためには、特別の訓練・方法があるのです。それは「面壁九年」のようなもの、あるいは「只管打坐」であるのでしょう。(この先をつづけても、実りはないでしょうねえ)

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◉ 達磨【だるま】中国禅宗の祖とされる僧。菩提(ぼだい)達磨Bodhidharma。インド生れ。470年ごろ(異説が多い),海路南中国に入り,嵩山(すうざん)少林寺で面壁9年,法を慧可(えか)に伝えた。伝記には不明な点が多く,著書も《少室六門集》などが伝えられるが,疑わしい。(マイペディア)

◉さとり【悟り】=仏教の歴史を通じて,出家であれ在家であれ仏教者たちは,禅定もしくは三昧に入るように修行し,禅定や三昧において仏教的真理を知る知恵を得,りを悟っていたと考えられる。禅定や三昧によって表層意識を消滅させつつ深層意識を自覚化していき,最深層意識をも消滅させると同時に,彼自身の実存においてあらゆる衆生にゆきわたる根本真理を知る知恵を得,悟りを悟ったのである。したがって悟りとは,そのようなしかたで自我的な人格から解脱して自由になり,衆生に対して無礙(むげ)自在にはたらく新しい仏菩薩的人格へと生まれ変わることであるといってよい。(世界大百科事典第2版)

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