「どんな人・何をする人」品定めは自然か

【日報抄】出歩くと、頰をなでるそよ風が心地よい時季になった。風という言葉には、それらしい態度やそぶりを示す意味もある。先輩風、役人風というように▼「都会風を吹かさないよう心掛けてください」。福井県のある町の広報誌に1月、こんな「提言」が掲載された。町外からの移住者に向けた心得をまとめたものだ。「多くの人々の注目と品定めがなされていることを自覚してください」とも▼プライバシーに深く立ち入らない、迷惑をかけない限り自由な生き方が許される-。そんな都会のドライな生活に慣れた人にとっては、いささか面食らう内容かもしれない。一部から批判の声が上がるなど物議を醸した▼地元の人にも言い分はある。高齢化が進み、集落の行事が少なくなった。「隣は何をする人ぞ」の風潮が広がり、このままでは町民の絆が失われかねない。そんな危機感を抱く人もいたという。U・Iターン促進を掲げる本県も人ごとではない▼田舎と町のネズミの寓話(ぐうわ)を引くまでもなく、それぞれの暮らし方には一長一短がある。時代とともにライフスタイルは多様化している。「郷に入っては郷に従え」の一点張りでは立ちゆかない▼町では今後、住民同士が気持ちよく暮らすためのテキスト作りを始める。相互理解につながるのか。提言は「今までの自己価値観を押し付けない」とも記す。年度が改まり、新天地での生活を始めた人には参考になる。我を張るあまり周囲と波風を立てても得はない。譲り合いの心が望ましい。(新潟日報デジタルプラス・2023/04/02)

 発端となった問題の「広報誌」は本年一月に出されたものです。直後に話題になったから、ぼくも知っていました。ここに出すのは、今となれば「旧聞」であるのは事実ですが、居住地変更の季節、転入・転出大童(おおわらわ)の時季でもあるので、ここに「旧聞」を引っ張り出し、じつはそれは「新聞」でもあるんですよと言ってみたくなった。これまでも、ぼくは何度か引っ越しをした。ほとんどは、いわば「都会地周辺」か、「都会の田舎圏」だったが、終の棲家となるかも知れぬ現在地には2014年三月に転入してきた。現在十年目が始まったところです。池田町のお歴々が「暮らしの七か条」を掲げて訓示を垂れたかったのは、ぼくのような後期高齢者ではなかったと思う。移住者でも、大いに地域を盛り上げてもらいたいという「青・壮年」だった。その内容について、ぼくは何も言わない。これを守らなければ、現住民から「村八分」を受けて当然というような印象を持ったのは事実だし、それでも「七か条」を受け入れて移住する人は歓迎されるのだろうから、ある種の「移住希望者の面接」「品定め」だったのでしょう。

 ぼくが壮年であって、この町に越そうとして、池田町のような「広報誌」をみたなら、まず移住はしなかったと断言できます。どこに住むか、移住・移転の自由、それは受け入れる側にあるのではないのは明らかです。あなたは受け入れる、君は受け入れないと、まるで入学・入社試験のような「品定め」をされる理由はないからです。池田町がそれほどのことをしたのは、たしかに理由があったのでしょう。しかし、「受け入れの許諾」が先に住んでいる側(先住民)にあると考えていたなら、そんなところには住みたくないという気持ちは、ぼくの中からは消えないですね。

 今から十年前、ぼくがこの地に越してきたのは、ちょっとした理由があった。まず都会というか街中は嫌だったので、仕事(勤め人)を辞めたのを機に静かなところ(人間の少ない環境)に住みたかった、残した仕事(数冊の本の執筆)を仕上げようとしていたので、書籍の置き場所を確保し、さらにネット環境が整っているところなどなど、それを条件に探した結果、ここに行き着いた次第。人間(人口)が少ないと言っても、先住者は半径一キロの範囲にかなり住んでおられた。しかし拙宅の周囲は、文字通り「向こう三件両隣」というくらいで五軒か六軒しかなかった。山の中というほどではなかったが、それなりに小高いし(標高百メートル)、雑木林や竹林に囲まれている。初めの三年ほどはぼく一人、その後にかみさんがやってきて、今に至っている。

 池田町のようでもあり、それほどでもないような事態が、ぼくにも起こった。拙宅の西隣(三百メートルほど離れている、この間には一軒の人家もない)の住人が前町内会長でした。越してきたら、「町内会」には入るつもりだった。ゴミ出しや草刈りその他、最小限度の共同作業は当たり前と考えていたから。そのために、前会長さんに「入会・参加」の件は話しておいた。その後、現会長を同判されて拙宅に来られ、ぼくは参加申込書にサインした。少し気になったのは、町会費がかなり高額だったこと。以前の地域では月額二百円か三百円ほどだった。ところが、その何十倍もが求められていた。一番の問題は、町内にある白幡神社の「氏子」になるという条件だった。この氏子代が五千円以上だし、その神社の環境維持のために、年間で数日分の労働提供が求められた。それでも、町内の一員にしてもらうのだから、これくらいは仕方がないと思って、少し躊躇はしたが、申し込んだ。

 数日後に、前会長から電話が入った。「新規会員になるのだから、入会のための『心づけ』が必要です。現会員への挨拶代わりに準備してほしい」と言ってきた。とんでもないことをと、その段階で入会を断ろうとしたが、もう引っ越ししてきた身、無下に断ると「角が立つ」と考えて(だったか)、「分かりました」と答えた。電話を切ろうとしたら「それなりの金額を、お願いします」と念押しされた(あるいは、この電話は、数日後にかかってきたのかもしれない。不愉快だったから、忘れてしまった)。彼の口からは「十万単位」の金額が告げられた。じつに不愉快になったが、三日ほど時間を置いて、ぼくは前会長に電話を入れた。「町内会」について、「ぼくの考えていたのとは大きく異なりますので、入会は見合わせます。お手数をかけました」と。それ以来、何事もなく、とぼくは勝手に思っているが、どう思われているか。こんなのは「池田町」の比ではない、些細な事だったと思うが、あまりいい気分はしなかった。年に数回の町内の草刈り(相当に広範囲に渡る)には参加していないが、時間が許す限り、自宅付近の除草をやっている。もちろん、神社の氏子にならなくてよかったと思っている。 

 「品定め」(どんな人間で、何をしているものか)は多分、今でもされている。ぼくの方は、誰がだれだか、少しも知らない。近所付き合いをしたいわけでもありません。でも、それが「都会風」と受け取られているのかどうか。ここはまったくの僻地ではないと思っています。最短のコンビニまでは3.5キロ、最寄りのJR駅までは約10キロ。スーパーへは同じくらいの距離です。イノシシやタヌキ、その他の野生動物が先住民として縄張りを張っています。気持ちよく、近所・町内の人々と暮らそうにも、それまでの経験と言うか、生活が違いすぎます。無理に合わせることもなかろうと、やはり勝手な振る舞いをしているのかも知れません。都会という「密林(ジャングル)」に隠れ住むことを願う人もいれば、ぼくのように「隣はなにをする人ぞ」という程度に、関心を持たれなくてもいい、距離のある関係の中で暮らしたいと思うことがしきりです。でも、「相身互い」で、必要に応じて「助けられたり助けたり」は、望むところという気も失わないで生きています。

 深刻な問題は人口減です。多くの自治体の場合には「人口流出」で、移住者を増やすために、あの手この手を使うことになります。高齢者ではなく、子どもを育てる夫婦や若者が来てくれるために、血税を絞って使っているところもある。これは一地方や自治体の問題などではなく、国が手当をしなければならない課題です。「異次元の子育て政策」といいながら、「こども家庭庁」に顕在化している、古典的家制度にしか神経が回らないのでは展望もあったものではない。「夫婦と子ども二人」という「家庭像」こそ、止めようのない少子化現象の現況・元凶だと思うね。結婚して子ども二人を生んだら「奨学金返済免除」だってさ。馬鹿に付ける薬はないというのは、いつも正しいね。  

「都会風は吹かさない」など“移住者への提言”に賛否 「温かく迎えた方が…」住民から困惑の声も 福井・池田町 「都会風を吹かさない」「品定めされることは自然」など福井県池田町の広報誌に掲載された“移住者への提言”に波紋が広がっています。住民からは「温かく迎えた方がいい」など困惑の声も。実際、池田町に移住してきた人はどう感じているのでしょうか。 ◇◇◇ 森林に囲まれた人口約2300人の町、福井県池田町。過疎化や少子高齢化が進む中、農業を中心とした町づくりなどを掲げて移住者を受け入れています。しかし、池田町が住民向けに発行している1月号の広報誌の内容で波紋が広がっています。(以下略)(日テレNEWS)(https://news.yahoo.co.jp/articles/95da0312a9e5faa92335c89f5384a90318765363

 自然豊かな福井県福井市美山地区の中手町集落には、移住者がコンスタントにやってくる。愛知県出身の竹内祥太さん(34)は2018年に移り住み、養蜂を営みながら妻と暮らす。きっかけは、大阪にいた頃に読んだ「福井人」というガイドブック。自給自足の生活を心がける県外出身者のグループがこの集落に開いたカフェ「手の花」の記事を読み、緑にあふれていて移住者が過ごしやすそうな雰囲気に引かれた。/ 移住後、竹内さんは手の花関係者から受けた「地域の清掃や寄り合いなどの行事は積極的に出た方がいい」とのアドバイスを実践。高齢世帯の屋根雪下ろしも手伝う。住民は移住者の対応に慣れており、竹内さんは「適度な距離感で付き合ってくれる」と話す。/ 町内会の役員の男性(65)は「かつては移住者との間で摩擦やすれ違いもあったが、今はそういうことはない」。竹内さん宅の近所の女性(93)は「空き家が増えるより、にぎやかな方がいいね」と笑顔を見せる。(以下略)(福井新聞・2023年3月1日 )(https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1734526)

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 罪を憎んで人を憎まず、って?

【日報抄】シンデレラに対し、継母はどうしてあんなにきつく当たったのか、考えてみませんか。先日の本紙に掲載されたエッセーで、劇作家の鴻上尚史さんがこんなふうに呼びかけていた▼相手の立場、この場合は継母の身になって考えられる能力を「エンパシー」と呼ぶ。鴻上さんは、シンデレラに同情する心「シンパシー」と共に、人生を前向きに生きる上で必要なものだとする。とりわけエンパシーは、立場や考え方の違う人たちとやっていくために大切な知恵だと訴えた▼安倍晋三元首相銃撃事件の容疑者に、菓子や現金などの差し入れが相次いでいるという。インターネット上では刑の減軽を求める署名活動や英雄視する投稿まである。事件を契機に旧統一教会の問題が再び世間の注目を集めたことが背景にあるようだ▼問われている容疑は重大であり、宗教2世である容疑者への同情心ばかりが先走るのは危険だろう。一方、容疑者の立場でなぜあのような行動に出たのかを考えることは、宗教の名の下で引き起こされる悲劇を防ぐ上で重要なことだ▼鴻上さんは、人間関係は思いやりや優しさだけではなかなかうまくいかないとも書いていた。世界を見渡すと、隣国に攻め入ったりミサイルを撃ち続けたりという、私たちには理解しがたい動きがある。そんな中で生き抜くためにも、相手の胸の内を読んで対応することが求められるのだろう▼多様化し、複雑化する世を生きる上で、エンパシーは己の身を守るすべとなるのかもしれない。(新潟日報デジタルプラス・2023/01/13)

 ここでシンデレラの「継母」や鴻上尚史氏の「お説」を出すのは、いかにも「コラム」らしいというべきでしょうか。しかし、本筋の問題とは十分に衝突していない、あるいは「的」を射損なっていると、生意気なことをいいたくなりました。「元総理銃撃事件」を事例に出したのは、この「エンパシー」とやらをもっと育てておけということのようです。でも狙撃犯と銃弾に斃れた元総理という構図において、だれがだれに対して「シンパシー」を持ち、だれがだれに対して「エンパシー」を持つ必要があると言っているのか、ぼくには判然とはしないのです。誤解を恐れずに言うなら、この「元総理銃撃事件」発生以来、さまざまな媒体に登場してきた、ほとんどの意見や批判の「枕詞」が共通しているように、ぼくには受け取れたのです。まるで「奥歯に物が挟まった」ような、歯痒い感覚が生まれたのでした。異口同音に「兇弾を放って、人命を奪うのは、いかなる場合でも許されないが」と行った後で、一呼吸も二呼吸も置くのです。「許されないが。しかし、権力の中枢がカルト集団とつながっていたとは」と驚いてみせる。さらに時間の経過とともに、「ここまでカルト集団とズブズブだったとは」という驚嘆の声が迸り出る。そうしているうちに、「二世信者の犯した殺人事件とカルト集団に加わっていた元総理」の2つの要素がものの見事に切断されているのでした。

● エンパシー【empathy】 の解説=感情移入。人の気持ちを思いやること。[補説]シンパシー(sympathy)は他人と感情を共有することをいい、エンパシーは、他人と自分を同一視することなく、他人の心情をくむことをさす。(デジタル大辞泉)

 政権与党との深く長い癒着が表面化しようとした矢先に、関係の深い議員の実態調査と称して、通り一遍の「アンケート」を実施して、お茶を濁していたのが自民党でした。さらに現総理は「元総理に関しては、亡くなられていて調査ができないので、調べることはしません」と「巻引き宣言」をしていた。逆に言うと、詳細に調べれば、色々と不都合なことが出てくることが分かっていたので、早く関心を別の問題に移したいという「目論見」は透けて見えていた。銃撃事件から半年、なにが明らかになったか。何一つと言っていいほど、肝心要の問題が明かされては来なかった、闇に葬られてしまったのです。さらに、ぼくには実に奇妙に思われたのは「銃撃犯の鑑定留置」の期間の長さでした。ほぼ半歳近くつかって鑑定する必要があったのか、ぼくは不審を抱く。検察や警察の意図は何だったか、それを思うと、ここにも必要以上に「故人とカルト教団との癒着」を暴露されたくないという「忖度」が働いていたのではなかったか。たった一人の「宗教二世」の「筋違いの怨恨」による犯罪で、背景にはなにもなかったという筋書きが書かれようとしていたのでした。

 コラムに戻ります。シンパシーは恐らく説明は要しないでしょう。いわば「同情心」ですね。それに対して、どれだけ憎い者に対しても、その立場に立つ必要がある。それが「エンパシー」だと。わざわざこんな言葉を使う必要はないでしょう。ぼくたちの社会には「罪を憎んで人を憎まず」という大変に示唆に富む「表現」があります。罪(悪いことをしようという気持ちでもある)は憎むべきだが、その人そのものを憎んではならないというのでしょう。罪を犯さざるを得なかった事情があったかもしれない、だから憎むべきはその状況であって、その人自身ではないのだといえば、どう受け取られるでしょうか。「情状酌量」とか「同情」ということが、裁判にも必ず出てきます。孔子の言では「罪を憎んで…」は、それは裁判官に求められる姿勢だった。このときに使うべきは、罪を犯した人間への「エンパシー」ではないでしょうか。もちろん、これが殺人事件のような場合、被害者に対する「シンパシー」は当然のこと、人間の情として、そこに生まれるのは言うまでもありません。「罪を憎んで…」は、あくまでも「裁判官」に求められる態度ではあるのです。

● 罪を憎んで人を憎まず= 罪は憎むべきだが、その罪を犯した人まで憎むべきではない、ということ。[使用例] この思想――すなわち罪を憎んで人を憎まざるの大岡さばきが、後世捕物小説の基本概念になったかも知れない[野村胡堂*江戸の昔を偲ぶ|1955][由来] 「孔叢子―刑論」に出て来る、孔子のことばから。昔の裁判官は、「其の意を悪みて、其の人を悪まず(悪いことをしようという気持ちは憎むが、その人そのものまでは憎まない)」という態度で裁判に臨み、どうしても避けられない場合だけ処刑していたのに対して、今の裁判官はその逆だ、と述べています。日本では、「意」が「罪」に変化した形で定着しています。(故事成語を知る辞典)

 コラム氏の「シンパシー」「エンパシー」はどういう具合になっているのか、ぼくには理解できないんですね。シンデレラの、いじわるな継母の立場に立って(エンパシーを持って)、ものごとを判断しなさいというのかもしれない。どうして継子を虐めたのか、それには深いわけ(事情)があったに違いないとわかれば、その「陰湿ないじめ」も許せるだろうとでもいうのですか。ましてそのことを「元総理銃劇事件」に引き写して考えるとどうなるのか、コラム氏はどう判断しているのか、それが理解できないのです。

 「問われている容疑は重大であり、宗教2世である容疑者への同情心ばかりが先走るのは危険だろう。一方、容疑者の立場でなぜあのような行動に出たのかを考えることは、宗教の名の下で引き起こされる悲劇を防ぐ上で重要なことだ」と展開されています。容疑者に対して「百万円を超える」寄付が集まっているし、刑の軽減を求める署名も集まっている、容疑者への、そんな同情心ばかりが先走るのは困りものである。どうしてこういう犯行に及んだのか、犯行の動機に対する「エンパシー」が働けば、「宗教上の悲劇の再発防止」に役立つだろうというのです。ここに「飛躍」がありそうですね。

 繰り返して言いますが、これは「宗教問題」ではなく、「カルト集団」の呼び出した事件だったというべきではないでしょうか。さらに、このコラム氏に限らず、「元総理」がなぜ「銃撃の的」になったのか、ならなければいけなかったのか、それが不問に付されているのは、ぼくには不可解です。現総理でもなく、別の元総理でもなく、この「元総理」であった理由はあるはずです。それにどうして触れないのでしょうか。一人の銃撃犯に対して「シンパシー」を持つだけではよくない、同時に「どうしてこういう犯行に走ったか」という、「相手の立場に立つエンパシー」を持つことも、かかる悲劇を再び起こさないためには大事なのだ、とされる。それでなにが言いたいのですか、なにが言えたのですか。なにかいい足りない物がありそうです。それが「奥歯に挟まったもの」でしょう。理解力の足りないぼくのこと、的外れを言っているのかもしれない。

 人を殺すことは断じて認めない。当たり前のことで、これに異論があるはずもないでしょう。殺人はいけないと人も我も思うし、殺人は法律でも処罰すると規定されている。でも「殺人」は起こる。その時、ぼくたちに生まれる感情は「罪を憎んで人を憎まず」という、孔子時代の裁判官の姿勢や態度(思想)ではないかと思うのです。つまりは、「情状酌量」です。今回の事案では、恐らく「情状酌量」は認められない可能性(蓋然性)が高いとぼくは判断しています。しかし、現段階ではなにも明らかにされていませんから、確定的なことは言えません。ぼくが考えるのは「単独犯で、思い込みから元総理を狙った」というものです。「思い込み」による犯行であって、被害者にはまったくの「濡れ衣」だったというのでしょう。自作の銃で「銃撃」するという行為は、まったくの「思い違い」であって、被害者には「一点の非」もない犯罪であったと。長期にわたる「鑑定留置」や「取り調べ」において、このような調書や鑑定結果が取られたに違いありません。

● 情状酌量(じょうじょうしゃくりょう)= 裁判上の刑の減軽事由。酌量減軽ともいう。法定刑を減軽する事由として、法律上のものと裁判上のものとがある。法律上の減軽事由には、たとえば、従犯・心神耗弱など必要的なものと、過剰防衛・法律の不知など低意的なものとがあるが、いずれも、法律上明文で規定されているのに対して、裁判上の減軽事由につき、刑法第66条は、「犯罪の情状に酌量すべきものがあるときは、その刑を減軽することができる」と一般的に規定している。/ 本条の趣旨は、法律上の減軽とは異なり、法定刑または処断刑の最下限でも、犯行時の客観的・主観的事情、さらには、犯行前や犯行後のあらゆる事情からみて、なお刑が重すぎる場合に、裁判官の裁量により犯罪の具体的情状に即して刑を言い渡しうることにある。(ニッポニカ)

 事件発生直後から、「(統一教会の)現総裁を狙ったが、コロナ禍で来日しなかった」ので、「元総理を狙った」と容疑者が語ったと言われています。そうでしょうかという疑問は、さらにぼくの中で大きくなってきました。「一点の非もない元総理」「まったくの思い込による事件」というのです。ぼくはそれを疑っている。早い段階から深く結ばれていた「兇弾と元総理」の関係を、容疑者は知っていました。単なる思い込みで、銃撃するならば、「自作で銃を作る」ところとから始めるでしょうか。「奥歯に物が挟まった」ような物言いばかりが生み出されていたのはどうしてか。「カルト集団」が頼みの綱と、元総理に依拠していた証拠が次々に明らかになっています。昨日今日始まったことではなく、戦後一貫して、権力に食い込んできたのが当カルト集団であり、それを十二分に利用してきたのが「(地方中央を問わない)自民党)だったことも明らかです。その癒着関係に一糸も触れないで、一人の宗教二世がおこした「凶行」だったと、事件の幕引きをするなら、さらにもっとひどい状況がさらに蓄積されていくことになります。

 「鴻上さんは、人間関係は思いやりや優しさだけではなかなかうまくいかないとも書いていた。世界を見渡すと、隣国に攻め入ったりミサイルを撃ち続けたりという、私たちには理解しがたい動きがある。そんな中で生き抜くためにも、相手の胸の内を読んで対応することが求められるのだろう▼多様化し、複雑化する世を生きる上で、エンパシーは己の身を守るすべとなるのかもしれない」この部分、ぼくには意味不明というか、なんとも支離滅裂というか。この指摘と、「元総理銃撃事件」とは、どこでどう結びつくのでしょうか。人間が生きている世界は、いつだって「多様化し、複雑化する」ものだし、難しい横文字を使わなくても、「罪を憎んで人を憎まず」という世人の知恵があるのではないですか。

 いかなる理由があろうとも「殺人」は認めてはならない。だから「罪を憎んで人を憎まず」というのです。罪を犯した「人」をぼくたちは、どれだけ知ろうとしているか、知ろうとしてきたか。場違いの諺(ことわざ)かも知れませんが「捨てる神あれば、拾う神あり」とも言います。〈 When one door shuts, another opens. 〉「罪を憎んで人を憎まず」といっておいて、「罪は償う」ことでしか、軽くなることはないのです。軽くなることはないかも知れませんが、「償う」という行為は、犯罪者にとって不可欠の義務となります。何度でもいいます。どんな理由があっても「殺人」は許されないから、侵された殺人行為に対して、人間にできることは償うことしかないのです。「国家の犯す殺人= 死刑」は、だれが、どういう形で償うのでしょうか。あるいはここでは「償い」は免除されているのですか。これ(国家の犯罪)は特例なんですか。

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 追記 「筆洗」の本日分が掲載されましたので、以下に引用しておきます。コラムとして、「日報抄」とは趣が異なるのでしょうか。あるいは大同小異なのでしょうか。ぼく個人の卑見に過ぎませんが、もっと、この問題を深く掘り下げる必要がありそうに思われてきます。「人を殺(あや)めた者への過剰な肩入れはやはり間違いと思える」「時代は変われど過熱の危うさが変わらぬことは、心に留めたい」と書かれている。その通りですけれども、視点が一方向からだけではありませんか。誤解されそうですが、「肩入れ」も一つの立場であるなら、「カルト集団」やそれに肩入れした側(元総理)の問題にも注意を注ぐと、どんな「コラム」になるのか、それをぜひ書いてほしいし、読みたいですね。

 【筆洗】犬養毅首相が凶弾に斃(たお)れた一九三二年の五・一五事件は新聞も世論も下手人の海軍青年将校らに同情し、減刑嘆願運動が広がった。事件後の記事差し止めが解除され、裁判が始まると報道は過熱した▼政党や財閥の腐敗を憎む被告たちの言い分が伝えられた。法廷の様子をつづる記事の見出しは「級友からの贈物純白の制服姿 ズラリと並んだ十被告」。服の白さで動機の純粋さを強調する記事である▼弁護側が赤穂浪士の「義挙」を例に、被告の思いを訴えた記事の見出しは「傾聴の裁判長も双頬(そうきょう)に溢(あふ)れる涙 山田弁護士、火の如(ごと)き熱弁」。減刑を願い切断した指も寄せられた。判決の量刑は重くなく、世は政党が没し軍が台頭する。歴史家筒井清忠氏の著書に詳しい▼安倍晋三元首相が銃撃され死亡した事件で山上徹也容疑者がきょう、殺人罪で起訴される▼事件で旧統一教会と政治家のつながりが注目された。インターネットでは減刑を求める署名活動が行われ、英雄視する投稿もある。容疑者のもとには現金やファンレターも。宗教の問題は考え続けねばなるまいが、人を殺(あや)めた者への過剰な肩入れはやはり間違いと思える▼安直な勧善懲悪劇として五・一五事件が伝えられた当時は、新聞の部数伸長期だった。その勢いは今世紀のネット空間並みだったろうか。時代は変われど過熱の危うさが変わらぬことは、心に留めたい。(東京新聞・2023/01/13)

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 「人災」は「天災」の顔をして「命(いのち)」を狙っている

【10月31日 AFP】(写真追加)インド西部グジャラート(Gujarat)州モルビ(Morbi)で30日夕、つり橋が崩落し、橋の上にいた多数の人々が川に転落するなどして少なくとも120人が死亡した。/ 当局によると、つり橋の上や周辺で女性や子どもを含む500人近くがヒンズー教の祭典「ディワリ(Diwali)」を祝っていたところ、橋を支えていたケーブルが切れ、橋の上にいた人々が川に転落した。/ モルビの警察幹部はAFPに対し、「これまでに120の遺体を収容した。捜索は続いており、犠牲者は増える公算が大きい」と語った。/ 当局者は当初、「75人が死亡した」とし、犠牲者の大半は水死だったと述べていた。/ 橋は全長233メートル、幅1.5メートルで、英国の植民地時代の1880年に建造された。/ 民放NDTVは、橋は7か月間の補修工事を経て26日に通行が再開されたばかりだが、安全性は保証されていなかったと伝えた。事故前日の29日の映像では、橋が激しく揺れているのが確認できると指摘している。(c)AFP(https://www.afpbb.com/articles/-/3431495?cx_part=top_topstory&cx_position=1)

 この事故をなんと名付けるのでしょうか。自然災害ではないし、交通事故でもありません。言うまでもなく「管理者責任」が問われるべき「人災」そのものです。橋の上にいた五百人近くの人々は、群衆ではなかったでしょう。事故が起こって、初めて問題が明らかになる。繰り返し事故の発生を待って、繰り返し多数の人名が失われるのを待って、はじめて「二度と起こってはならない事故だ」と、その程度のことしか政治家や役人は言わないのです。自らの命は自らが守る。それに徹していても、「人災」は個々の命を狙い撃ちしてくるのです。「一人の命は地球よりも重い」と、この島の政治家が言いました。「一人の命」が百数十人分もある、いったいその「尊さ」「重さ」と、一つの「地球」は釣り合うのでしょうか。

 何のための政治であり行政であるのか、どこから見ても当たり前のこのことを、いつでも、誰もが問いただしていなければならないのです。 失われた命に、万感の思いを籠めて深甚の悼みを届けたい。合掌するのみ。

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 胸に愛國手に國債 求めよ国債銃後の力 

<あのころ>「支那事変国債」売り出し 戦時下の行列  1941(昭和16)年10月24日、第24回「支那事変国債」が売り出された。日本政府が戦争と呼ばず「北支事変」「支那事変」と呼んだ日中戦争は全面戦争に発展、4年が過ぎ泥沼化していた。資金調達の国債に東京の下町、深川郵便局には長蛇の列。1カ月余後にハワイ真珠湾攻撃が始まる。(共同通信・2022/10/24)

 「支那事変国債」と銘打って、国民の懐から大枚を収奪し、敗戦によって、手持ちの国債は「紙切れ」「紙くず」になった。「宣戦布告」なしで侵略を開始し、あらゆる姦計を弄して、「名分」のなさを糊塗し、かつ鼓舞した。「事変」といって「戦争」とは明言しわなかったのは、「後ろめたさ」というか、正義に反するとという、心なしの後ろめたさがあったからだ。この卑怯な手法は時代が変わっても腐った権力者が取る常套手段でした。ロシアの腐敗した権力独裁が「特別軍事作戦」と詐称・偽称して、ウクライナの「非ナチ化」を実現すると言って始めた「侵略戦争」の現状はどうか。今や、「総力戦」を言い出す始末です。「腐敗した権力者は、ただちに屠れ!」といいたい。いつだって、権力者は、人民を「兵隊」とみなし、自らの手足とのごとく自在に動かす、あげくは、弊履のごとくに放棄するのです。「国威」とはなんでしょうか。「国権」とは何の謂(いい)ですか。「民権」、あるいは「人権」はどこにあるのですか。

● 日中戦争(にっちゅうせんそう=1937年の盧溝橋事件を機に本格化した日本軍の中国侵略 1931年の満州事変以後,中国の抗日の気運は強く日本の軍部は武力をもって華北分離工作を進めた。’37年7月盧溝橋 (ろこうきよう) 事件がおこると,近衛文麿内閣は,北支事変と呼称し,現地解決・不拡大方針を表明したが,宣戦布告のないまま日本軍は北京から上海・南京・広東へと戦線を拡大して全面戦争に突入。これに伴い呼称は支那事変へと変化した。中国側は,第二次国共合作を成立させ,国民政府も南京陥落後は重慶に拠点を移し,抗日戦を展開。’38年1月の近衛声明で「国民政府を対手とせず」と,和平交渉をみずから断ち切り,同年後半,主要都市はほとんど日本軍の手におちた。’41年まで小規模な侵攻作戦が続き,長期持久戦の様相を呈したので,日本軍は ’40年和平工作として汪兆銘 (おうちようめい) 傀儡 (かいらい) 政権を樹立させた。この間,日本国内の人員・兵器・軍需品消耗による国民生活の犠牲の中で,政府は新体制運動を展開した。’41年12月太平洋戦争開戦ののちも30個師団を中国本土に投入し,重慶侵攻作戦などを計画したが,共産党を中心とする八路軍・新四軍の抗戦が強く,各地に解放地区が成立。日本軍は制空権を失い,補給は続かず侵攻地域の確保ができず,点と線を守るにとどまった。’45年8月ポツダム宣言受諾に伴い,日本軍は国民政府に降伏した。(旺文社日本史事典三訂版)

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 ぼくは経済学者ではないから、難しい話はしませんし、できません。国の借金である「国債」が一千兆円を超えたというが、それがどのような問題なのか、無駄と知りながら、素人ながらに考えてみたいと想っているのです。昨年度の税収実績は六十五兆円、予算は百七兆円。差し引き四十兆円ほどが、何らかの借金によって賄(まかな)われています。円安が急激に進み、つい先日は百五十円を超えた。恐らく、この先も円安は進むでしょう。打つ手がないというのが正直なところ。本予算を制定し、同時に補正予算(予備費という隠れ蓑も含まれる)を組むという、理屈の通らない財政運営をしているのが政府であり、くわえて、コロナ対策、防衛予算に、未曾有の税金投入を計ろうとしているし、その大半は借金、つまりは赤字国債・防衛国債・コロナ国債となって、なおも際限なく嵩(かさ)んで行くのです。

 なにかと理屈はこねますが、要するに無為無策を糊塗し。隠蔽するための「ばらまき」を称して財政出動と言う。腰を据えて、この社会の来し方行く末を見る興味もないし、もちろん能力もない者共が、政治(とは似て非なるもの)をしているのです。あらゆる既存の組織や制度が毀損されてきましたが、特に政治の劣化、世辞家の頽廃には目を覆いたくなります。あまりその点を指摘する人はいませんが、ぼくは政治も経済も含めて、あらゆる社会のインフラを支える任にある「人材」がおどろくほど払底している、やることなすことが、「己の利権」「己の名誉」にしか結びつかないという、その「歪んだ自己尊重」の守護神が大量に出回っている最大の理由は、まず学校教育にあると言いたい。拙い教師家業の経験をネタに、大きなこと言いません(大言壮語はしない)が、学校教育の根本が間違っているのではありませんか、と今更のように言おうとすると、息が詰まるほど虚しくなります。「ズルして、得する」方法を授けてきたのが学校だったと、偏差値や成績に席を譲り渡した学校という「旧体制」の温存こそが、諸悪の始まりでした。名門とか一流と、世間で評価される学校が、じつは「自分本位」「自分勝手」「利己専一」な人間を生産する工場でした。

 次々に登場してくる、この島の「総理大臣」が、ことごとく人間性において「貧相」で「能天気」なのも、学校教育の賜物でした。そして、政治家は駄目だけれども、官僚がまともだから、この国は大丈夫と言われた、その官僚の堕落・頽廃の元兇も「自己中心主義者」を育成して、名門の看板を誇ってきた学校の責任をなしとはしません。ぼくが「能天気」「貧相」だというのは、多くの政治家や官僚には、当たり前の「人間性」が備えているだろう資質に大きく欠けたところがあるという意味です。まず、平気で「虚言」「誤魔化し」「抗弁」「弁解」を繰り出すことです。相手(大半の国民)を人間と見ていない証拠でしょう。政治家や官僚に「倫理道徳」を求めるのは、八百屋で「宝石」を所望するようなもの。開いた口が塞がりません。経済政策というと、「金をばらまく」だけ、その大半が「借金(国債)」です。それは政治とは言わないでしょう。金がなければ「国債」を出せばいい、いくらでも限界なしに印刷できるのだと、刷りに刷って「一千兆円超」です。円安が止まらないのは、そこに金融政策がないからです。つまり日銀は、無能者集団に乗っ取られているということです。名門での「秀才」が、寄ってたかって中央銀行を食い物にしたのです。この連中は、政治家と同罪で「国を売っている」、それが本職の盗人集団です。「売国奴」というほかありません。企業の内部留保も五百兆円を超えています。給料をあげないで、しこたま貯めるばかりの仕業を、経済運営、企業経営とは言わないでしょう。

 上掲の「戦時下の行列」の写真をよく見る。この人たちは、いかにも戦時中の「出で立ち」をしていますが、今日でもあらゆるところで並んでいる人たちと意識においては寸分も変わらないでしょう。お上に言われたから、事の真実を確かめもしないでひたすら行列です。言うことを聞いたら、お小遣いをやる、もらえるなら、何だってかまわないと、気がついたら取り返しがつかない事態になっているのです。「宣戦布告」をしないで「事変」で押し通し、挙げ句には国を破滅させてしまった。今日、国債を買うという「奇特な国民」はいないでしょう。市中銀行に買わせるという「アリバイ」を施して、結局は日銀がすべてを買い取っているのです。日銀は、印刷した債権やお札を、何のことはない、自分のところで溜め込まされているだけなんですね。ゼロ金利だとか、マイナス金利だといって、いかにも「金融政策」を取り繕っていますが、どんなにわずかでも「利上げ」を始めるそぶりを見せただけで、即刻、国債の値打ちは暴落します。つまり一千兆円超の国債は紙切れになる、その先駆けを知らせる「狼煙」が上がるようなものです。国債の乱発は、見通しの立たない「平時の戦争」に突入しているという合図です。平時の戦争とは、もちろん、言葉を換えて言えば、「国権対民権」「特権対人権」の戦いにほかありません。

 円安も株安も、起こるべくして起こっている現象で、政策などとは断じて言えない。「三本の矢」とか「アホノミックス」などと、経済や財政の原理を無視した出鱈目な政策を、己の「名誉・地位・権力」維持のために導入した「無責任」の連鎖が破綻したということにほかならないでしょう。ただいま、この国は「戦争」も「事変」も起こしてはいません。しかし「平時の戦争」とでも言うべき、生き残り戦争が劣島のあらゆるところで戦われているのではないでしょうか。武器は使われない代わりに、真綿で人民は首を締められている。無駄な防衛費増額を「国債」で、外国産品によるコロナ対策費を「国債」で、インフレ放置の無策に寄る物価高対策に「国債」を、格差社会を招来しておきながらの弱者救済に「国債」を、何でもかんでも「国債」に下駄を預ける。その結果は火を見るよりも明らかです。

 「平時の戦争」は、身に感じられない「空襲」や「爆撃」を受けていても、一向に痛痒が感じられない。しかし、確実に、人民の「生きるエネルギー」を殺(そ)いでいるのです。国会は機能せず、政府は方向舵を失って、荒海に漂流しています。その船に乗りあわせた不幸を、互いに慰めあっているうちに、「日本沈没」となるのでしょう。思い起こせよ菊の花、「国権」は「民権」の領土内に土足で踏み込んでいるのです。踏み潰されるままに、我が身を任せていいのでしょうか。シロアリやクロアリ、さらにはハゲアリまでが国家の屋台骨を食いかじっているのを、ぼくたちは我慢できますか。(註 「我慢」とは、仏教では「我に執着し、我をよりどころとする心から、自分を偉いと思っておごり、他を侮ること。高慢」(デジタル大辞泉)という。一刻も早く、我慢から「脱出」するときですね。

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 「司法は国家権力の砦だ」と証明した長官

(共同通信・2019/0319)

 【金口木舌】ゆがみはいつただされる 砂川裁判の国家賠償訴訟の原告、土屋源太郎さん(88)が振り返る。「こんなに長く闘えるとは思わなかった」。1957年に米軍立川基地へ抗議で立ち入った土屋さんは刑事特別法違反で起訴された▼一審の東京地裁(伊達秋雄裁判長)は米軍の駐留は憲法違反で無罪としたが、最高裁が59年に覆して有罪となった。ところが2008年以降、この判決に疑義が生じる。米国で開示された資料がきっかけだ▼資料には違憲判決に慌てる米大使館が当時、政府、最高裁の田中耕太郎長官と判決の変更をもくろむ様子が記されていたから驚く。判決の見通しや裁判官の考えなど評議の内容を田中長官が米大使へ伝達していた▼公平な裁判の放棄に加え、司法権の独立をもゆがめる。評議の秘密を規定する裁判所法からも問題視されておかしくない▼事件発生から65年。公正な裁判を受けられたとは到底思えない。国家賠償を求める訴訟は佳境に入る。土屋さんが言う。「いくつまで生きてりゃいいんだろ」。司法がゆがみをただすのにはあまりに長い年月が経過し過ぎだ。(琉球新報DIGITAL・2022/09/29)

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 六十五年前の出来事です。ぼくは後年になって「砂川事件」について知ることになりましたが、その原判決(原告無罪)を最高裁の田中耕太朗長官が司法の正当性を歪めるような方途で介在を果たし、あろうことか「最高裁判決」の決定に米国が関与する余地を認めていたことが判明したという、いわくつきの最高裁判決に至る策謀でした。ここでは、田中氏に関して、ぼくの関心を述べるにとどめておきます。戦後の二代目の文部大臣を務めた法律家で、彼の著書「教育基本法の理論」は、大学に入って熟読したものでした。教育と政治に関して、じつに明確に一線を画し、政治の不当な支配を廃するという一貫した法理論に、ぼくは教えられるところ大でした。戦後しばらくしてから、「逆コース」なる状況が生まれた段階でも、一貫して教育の政治的中立を訴え、当時の文部行政を完膚なきまでに批判していた(とぼくには思われた)。時勢は「人間」を、手もなく変えるのでしょうね。

 ところが、ある時期から(もちろん、彼の素地には「体制受容」があったのは事実でしょう)、田中さんは大いに偏向していったと見えました。もっともわかりやすかったのは「松川事件」の判決だった。(詳細は省きます)これがあの田中さんなのかと、それまでの姿勢を大いに疑わしくさせたからでした。「歪められた最高裁判決」は、そのような時期に生じた、この社会に存在する司法権の自殺行為でした。驚愕すべきは、それを、最高裁長官、その人がしたということだった(もちろん、大きな政治圧力があって、最高裁長官が使嗾(しそう)(脅迫)されたのだと思われる)。このような「そそのかし」「おどし」ができる人物はきわめて限られているのはわかりやすいことでした。日米合作の「不法行為」だったのです。この後も繰り返し、類似の違法行為は繰り返されてきました。この田中長官の「裏切り判決」は、翌年(1960)の「安保改訂」に深く関係づけられていたことは否定できません。歴史を歪め、国民(人民)を誑(たぶら)かすような政治や司法が、延々と続いていることがここでも判明します。

 当の土屋源太郎さんは、一審裁判当時、二十三歳。一審無罪の判決が出たが、最高裁は異常な行動に出て、結果的には原判決を破棄し、原告に「有罪」の判決を課した。いま、二十三歳の青年は八十八歳の高齢者に。更に裁判は続く。土屋さんいわく「いつまで生きればいいのか。これからまだ最高裁まで行くんだから」と。ある種の「冤罪」というべき裁判で、この失われた(裁判がなければ生きられたであろう)六十七年を「国家」は賠償はしないのです。裁判が、人生を途方もない方向に歪めてしまう事例に事は欠かないのが、この社会の歪(いびつ)な司法であることも否定できないと、ぼくたちは銘記しておかなければならないでしょう。田中長官のような存在こそが、「司法は国家権力の橋頭堡であり、砦だ」という姿を明かしているのです。悍(おぞ)ましいこと限りなし、です。(右上の写真:当時の状況を「現地(立川基地跡)」で説明する土屋源太郎さん。毎日新聞・2019/05/04)

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 ◎ 一昨日行われた「口頭弁論)後の「砂川事件裁判国家賠償請求訴訟:第9回口頭弁論」後の集会の模様です。(https://www.youtube.com/watch?v=BxdNgmqBdsg

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● すながわじけん【砂川事件】=日米安保条約および米駐留軍の合憲性が争われた事件。1957年7月8日,東京調達局は,米駐留軍が使用する東京都下砂川町の基地拡張のために測量を強行したが,これを阻止しようとする基地拡張反対派のデモ隊の一部が米軍基地内に立ち入り,刑事特別法条違反で起訴された。この訴訟で,被告人らは,安保条約およびそれに基づく米国軍隊の駐留が憲法前文および9条に違反すると主張したので,一大憲法訴訟となった。第一審の東京地方裁判所は,59年3月30日,安保条約は違憲で,被告人らを無罪とするという判決を下した(いわゆる伊達判決)。(世界大百科事典第2版)

● 伊達判決(だてはんけつ)=砂川事件に対する第1審,東京地方裁判所の判決。 1957年7月東京都下砂川町で米軍立川基地の立入禁止区域に入った基地拡張反対闘争の7人が,刑事特別法第2条違反で起訴された。この事件について 59年3月,第1審裁判長伊達秋雄は,「日米安全保障条約に基づく駐留米軍の存在は,憲法前文と第9条の戦力保持禁止に違反し違憲である」として無罪判決を下した。この伊達判決は,同時期の安保改定問題に大きな波紋を投げた。衝撃を受けた検察側はただちに最高裁判所に飛躍上告。同年 12月,最高裁は,「駐留米軍は憲法にいう日本の戦力には該当しない。また安保条約のような高度の政治性を帯びた問題は司法審査権になじまない」としていわゆる統治行為論により,原判決を破棄した。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 「日米関係」といいますが、内実は宗主国(アメリカ)と属国(日本)の不即不離の関係(絆)を言うのでしょう。アメリカから離れる(自立する)ことは、今の政治状況が続く限りは、ありえないことです。しばしば「日本はアメリカの51番目の州」などと、揶揄の意味もこめて、いまれましたが、「州の一つ」などでは断じてなく、使い走りか、アメリカのATMなのだと言われます、そちらが中(あた)っているかもしれない。このような、憲法の精神そのものに関係する裁判がいくつか争われています。「戦後」と一語でいっても、すでに七十七年が経過しています。この間にいろいろと大小様々な政治問題が生じてきましたが、基本路線は「日米主従関係」の維持強化でした。日本のアメリカへの隷属の根深さを思えば、「旧統一教会」と政権党の「絆」も、アメリカ抜きには考えられないことでした。

 今日のニュースの的になっている「旧統一教会」が政権党の議員を呪縛していた、そのままの原型が「日米安保」条約問題にまで遡ります。ぼくは決して「左翼思想」の持ち主ではなく、まして「共産主義のシンパ」(いわんや「パルタイ」)でもありません。徒党を組むことがなによりも嫌いな、一平凡人でしかありません。それでもなお、政治的にアメリカの手先のように振る舞うことに違和を感じないままで、この七十七年一貫して『属国」の位置に甘んじてきた、その政治勢力の「権勢」に、まるで「蟷螂の斧」のごとく、敢然と立ち向かっておられる人々に対して、ぼくは満腔の賛意を表するものです。民意を蔑ろにし、人民の意向を踏みつけて、それでもなお国家が成り立つ、成り立たせるという政治状況に、ぼくは身を寄せることはしてきませんでしたし、その姿勢をこれからも続けていくことに変わりはない。

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 以下の報道なども旧聞に属しますが、貴重な証拠記事だと思われますので、引用しておきます。

写真・図版

 砂川事件、判決原案を批判する「調査官メモ」見つかる 極めて政治性の高い国家行為は、裁判所が是非を論じる対象にならない――。この「統治行為論」を採用した先例と言われる砂川事件の最高裁判決で、言い渡しの直前に、裁判官たちを補佐する調査官名で判決の原案を批判するメモが書かれていたことがわかった。メモは「相対立する意見を無理に包容させたものとしか考えられない」とし、統治行為論が最高裁の「多数意見」と言えるのかと疑問を呈している。/ 統治行為論はその後、政治判断を丸のみするよう裁判所に求める理屈として国側が使ってきたが、その正当性が問い直されそうだ。/ メモの日付は1959年12月5日。判決言い渡しの11日前にあたる。B5判8枚。冒頭に「砂川事件の判決の構成について 足立調査官」と記されており、同事件の担当調査官として重要な役割を担った足立勝義氏がまとめたとみられる。判決にかかわった河村又介判事の親族宅で、朝日新聞記者が遺品の中から見つけた。/ 砂川事件では日米安全保障条約が違憲かどうかが争われ、最高裁全体の意見とみなされる多数意見は、判事15人中12人で構成された。安保条約に合憲違憲の審査はなじまないと「統治行為論」を述べる一方で、日本への米軍駐留は「憲法9条、98条2項および前文の趣旨に適合こそすれ」と事実上合憲の判断を示している。多数意見に加わらなかった判事のうち2人が「論理の一貫性を欠く」と判決の個別意見で指摘していることは知られていた。(以下略)(編集委員・豊秀一:2020年6月13日 5時00分)

 HHHHHHHHHHHHHHH

 【春秋】今ではとても考えられないが、駐留米軍を憲法違反だと断じた判決があった。1959年3月30日東京地裁。裁判長は伊達秋雄。世に「伊達判決」と呼ばれる。その後、裁判は高裁をとばして最高裁に直接上告され、同じ年の12月16日、全員一致で覆されることになる。▼翌60年は日米安保条約改定の年である。微妙な時期、ふたつの判決の間に何があったのか。日米で公開された政治外交文書で、日本側と在日米大使館の折衝のあれこれが分かってきている。それらの文書に解説を加えて最近出た「砂川事件と田中最高裁長官」(布川玲子ら編著)を読んで、あらためて気づくことがあった。▼伊達判決の2日後、藤山愛一郎外相はマッカーサー駐日大使とひそかに会った。大使館が本国の国務省に発したマル秘電報と、外務省が残した極秘の会談録がぴたり符合している。ところが、当時の田中耕太郎最高裁長官が裁判の見通しなどを米側にもらしたという記録は、米公文書館にあるだけで日本ではみつからない。▼最高裁長官の振る舞いは日本の司法の独立にかかわる。公用車の運転手の日報ならば、などとあの手この手で最高裁に開示を求めても、空振りだという。これまでも、米国の資料でしかこの国の重大事が知れぬもどかしさを何度も味わった。このもどかしさ、理不尽。特定秘密保護法ができれば、なお募ることになるのか。(日経新聞・2013/11/18)

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 OOOOOOOOO

 なりふりかまわず (こういうことは誰にでも起こることです) 国が「国民の人権・権利」を踏み躙ってまで、守ろうとした「国益」とはなんだったでしょう。その国益に資するために「政治家」や「裁判官」はなにを目的に、かかる蛮行かつ卑劣な行為をするのでしょうか。ぼくは、人民を抑圧するための暴力機関である「国・国家」はいらないという考えを、一貫して維持してきました。「君はアナーキーだ」と一再ならず、他者から言われた。「そのとおり」、と弁解などしたことはなかった。「無政府主義」と言う日本語は間違いです。「政府(行政機構)」という機関・組織は、どんな集団にも不可欠です。行政も司法も立法も、すべて、それぞれが一つの「機関・機構」または「制度・組織」です。それを運用するのは人間(政治家・裁判官・官僚)ですから、そこに大きな「錯誤」「誤用」が生じる危険性はつねに存在しています。「朕は国家なり」というような。それを放置するところに政治的暴力や堕落が始まり、強まり、傍若部員の振る舞いに。その段階に至ると、敵対する勢力は「国賊」であり「非国民」とされるのでしょう。(右写真は田中耕太郎氏)

 「歴史」は繰り返すのではなく、間断なく、陰陽となく、権力維持のために「暗闘」が続くのです。一国家内において、他国との関係において。この島社会は、アメリカとの「絆(腐れ縁)」を断ち切ることは不可能でしょう。いま、政治権力のなす「暴力」の典型を「ロシアの権力者」において、ぼくたちは見ています。それとそっくりの「暴力」行使や「傀儡」づくりはアメリカ権力者によって、いつだって見せつけられてきました。今回の「砂川国家賠償」裁判は、そのもっともあからさまな事例の検証作業でもあるのでしょう。

 (蛇足として 白を黒と言いくるめる「屁理屈」が国会で罷り通り、司法においては法定外の、しかも国外の政治圧力が判決を覆すような、驚くべき暴挙が戦後も絶え間なく続いていたという点では、この「国賠裁判」は、司法の村立を問う重要な機会ともなっているのです。「自立」し「自律」するのは、一個人においては困難を極めますが、国家においては、さらに困難の度は増すのでしょうか。国民不在の国家論が大手を振っています)

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 社会の窓は? 開けると、何が見えるか

 よく「社会の窓が開いてるよ」と誂(からか)われたことがあります。ズボンのチャックのことでした。今でもそんなことを言う人がいるのかどうか。この「窓」からは何が見えたのか、逆に、窓の中が見えるではないかという、危険防止の指摘だったかもしれません。とかく「窓」というものは、大小に関係なく、人間の生活には不可欠な「空気孔」のようなもの。ぼくたちは真空状態で生きているのではないので、つねに空気の入れ替え(換気)が必要だし、場合によっては、社会(外部)の出来事(風)を知らないで過ごすこともできなくはありませんが、それなりに社会で生きているという実感を持つためには、社会に流れている「空気」をよく呼吸する必要があるのです。一人で生きているのではないという実感を、ぼくたちは得たいんですね。

 ある時期までは、Television is a window on the world. などと言われたものです。今では時代が変わりましたから、テレビではなくネットでしょう、その証拠に 〈Windows〉が世界を席捲(せっけん)しているのです。もともと、「窓」は「風が入る穴」をさして言われた。その風(wind)は「時代の風」であったり「世界の風」であったりします。「風を読む」は「空気を読む」につながるし、その反対を指すこともある。空気の波動が風であることを考えれば、空気と風は同類同種の別名であり、そこには多様な意味合いが込められていることがわかります。気配だとか臭い、あるいは噂や暗示、雰囲気なども。それほどに、ぼくたちは自分が生きている時代や社会の「気配」「空気」を感じながら、安心し、あるいは心配しながら生きているのです。 

 かつて、新聞は「社会の窓」だったと思う。今はそうではない、と断定はしませんが、社会の窓の役割を果たしていないほうが多いのではないでしょうか。あるいは、この社会にたった一つの「窓」しかないともいえます。そこから見える景色は、誰にも同じようにしか見えません。これは不自由なことであって、あまり健全とはいえません。同じ景色や出来事を見ても、見る人によって異なって見えたり感じたりするのが健全であり当たり前なのですが、誰もが同じように見るとなると、それは本当に見ていることになるのかと、ぼくは訝(いぶか)しむ。「仰ぐは同じき理想の光」という歌を、どこかで何度か聞いた気がします。その前の句は「集まり散じて 人は変われど」だったと思う。日露戦争時の、この島社会の意気軒昂ぶりを煽るような曲風に聞こえたのでした。人は生き死にして、世代が変わることはあるが、「仰ぐは同じ理想の光」と、燦然と輝く「国是」があったんですね。曲にも風は吹く。音楽もまた、一陣の「風」だ。

 ある歴史家の書いた本で、イギリスのジャーナリスト(歴史家)が、ある時、近所で起こった事件を見ていた。翌朝、新聞にその事件が、自分の見たのはまったく違って報告されているのを読み、自分が書いていた記事(報告)を破り捨てたという逸話が出ていました。若い頃にこれを読み、ぼくは深い印象を与えられたのです。「十人十色」「人それぞれ」は、あらゆる場所に妥当するほうが、社会は健康であるといえます。その昔「一億一心」ということが盛んに標語として掲げられた。「一致団結」「一糸乱れず」「一枚岩になろう」と、どうして、こうも生きている存在を窒息させたがるのかな。無理に無理を強いるというのが、国の指導者の仕事か、あるいは趣味か。人間のロボット化は、かくしてますますはびこるのだ。(左の記事です。「窓」なしパジャマをぼくも買ってしまった。かみさんに、「これあなたのでしょ」といっても、サイズが合わなかった。左の投稿者は八十四歳、ぼくはかなり年下ですが、「社会の窓」がなかったんですね。ぼくは瞬時に、これは今の時代風なんだと悟りましたが。ここにも「風」は吹いていた。男性の女性化は、かくして進行する。ぼくは言いたい、女性にも「窓」を作ろう、でも、どこに?)

 あるいは、ぼくたちが使う道徳の「徳」は、旧字では「德」と書き、そのこころは「十目一心」でした。人は違えど、見えるもの、感じることは同じということだったでしょうか。「心を一つにして」ということですね。いかにも窮屈だし、一人一人が独自に存在することを認めない教条主義ではないですか。この駄文を書き出してから二年半以上が経過します。毎日のように新聞の記事を目にしますが、いたるところで「十目一心」がかなり進んできたということを実感します。決して願わしい傾向ではないですね。その「新聞は社会の窓」といえば、ぼくは読売新聞大阪版のコラム「窓」の熱心な追っかけでした。社会部のキャップは黒田清さん(故人)、その下に大谷明宏氏など、実に多彩な面々が「窓」をこじ開け続けていました。実に爽快なもので、清風が吹き通っていた気がしました。やがて、東京本社と一戦を交えるまでもなく、ナベツネに完膚なきまでにしてやられて、完敗。会社を去って、新たなジャーナリズムを追求するも、途中で戦死する兵のように倒れた。ぼくは彼をこよなく敬愛し、家の猫に「クロダキヨシ」と、その名を借りて、黒田さんを偲ぶ縁(よすが)にしています)(右写真は黒田さんと大谷さん)

 本日は、別のことを書こうとしたのですが、「正平調」なるコラムに目を奪われて、しかも二つも並べる仕儀になりました。「国葬」を巡る回顧あり、現実認識ありの論調です。さらに「教育と愛国」の記録映画に触れています。このテーマに関しても、ぼくはすでに少しばかり感想を述べました。「国葬」「愛国」と、どうして、こうも「国」が出たがるのでしょうか。いや、「国」を出したがるのでしょうか。国は一つの仕組みに過ぎません。それが「人格」を有し、モノを言うように錯覚している面々が五万といるんですな。これも、今現在のこの社会の「空気」であり「風」なんですね。「間もなく、終戦の日が巡ってくる。何者かに忖度(そんたく)する空気や同調圧力を感じることなく、内心の自由を守り不戦の誓いをかみしめられるのか。今夏の「憂い」はいつにも増して、色濃い」とコラム氏は語り、政治の教育への介在では「勝ち負けは/さもあらばあれ/たましひの/自由を求め/われはたたかふ」という家永さんの、熾烈な「自由への覚悟」の歌を引用されています。国葬も愛国も、あるいは「教科書検定」制度も、いずれも「ツワモノドモの夢のあと」のごとく、貧寒とし、荒涼とした風景に、気が萎えそうになります。「一将功なりて万骨枯る」と、その昔は言われましたが、今では一将も、万骨も、みな枯れ果てるという、不毛の野原が広がるばかりです。

 【正平調】朝、窓を開けると、セミの鳴き声が塊のようになって押し寄せてくる。猛暑の象徴だが、8月に入ると、その音に「憂い」のようなものを感じてしまう◆戦没者追悼式や広島、長崎の平和祈念式の報道番組を見るたびにセミの音を聞くからだろうか。ウクライナ戦争や東アジアで高まる緊張感を背景に、岸田文雄首相は防衛費の増額を示した。もう一つの「憂い」だ◆銃撃された安倍晋三元首相の初盆でもある。政府は9月27日の国葬を決めた。安倍氏の外交や経済政策を評価する意見がある一方で、この決定に違和感を抱く人は少なくない◆国民一人一人が弔意を示すことは自由だ。しかし「国の儀式」で弔意が国全体に広がると、憲法改正を悲願としていた安倍氏の遺志が美化されまいか◆政府は「国民に喪に服することを求めるものではない」とするが、戦後初の国葬だった吉田茂元首相の葬儀はテレビ・ラジオで報じられ「吉田一色」になったという。当時なかった交流サイト(SNS)はどんな反応を起こすだろう。自治体や経済界は…◆間もなく、終戦の日が巡ってくる。何者かに忖度(そんたく)する空気や同調圧力を感じることなく、内心の自由を守り不戦の誓いをかみしめられるのか。今夏の「憂い」はいつにも増して、色濃い。(神戸新聞・2022/08/01)

 ぼくが入学した(一九六四年)段階あたりから、家永訴訟が始まり、その前後に「統一教会」の激しい布教活動が起こりました。奇しくも、前回の東京五輪開催の前後にあたっています。やがて、ぼくは、家永裁判も統一教会問題にも、いささかではありますが、関わりを持ちました。ぼくは活動家ではなく、まったくのノンポリでありましたから、当時の大学内外の騒擾にも「ヒトリシズカ(一人静)」を気取って、図書館や自宅でひたすら本読みに徹していたと思う。その姿勢は、それ以降もまったく変わりなく、ある意味では平穏の、また別の意味では平凡そのものの生活に齷齪(あくせく)していたのでした。時を同じくして、元総理大臣の「国葬」が行われていたことも記憶しています。その当時(学生時代)、ぼくはいっかな「時代の風」を読まなかったし、読む必要を感じもしなかった。上から下までの「ノンポリ」でした。今だって、根っこの部分では少しも変わっていないつもりです。もちろん、事の良し悪しを言うのではありません。とは言っても、飛びかかる火の粉は、自分の力で消し止めてはきました。

 【正平調】歴史家の家永三郎さんが国を訴えたのは1965年だった。有名な「家永教科書裁判」である◆一人の寡黙な学者を行動に駆り立てたのは、戦争体験を忘れ始めた時代への危機感だった。教科書に国家が介入すれば、いずれ子どもの内面の自由が奪われる。そして再び…◆最高裁判決で検定自体は合憲とされたが、個別の検定内容は「教育の不当な支配に当たる」として主張の一部が認められた。法廷闘争は32年に及んだ◆教科書の“現在地”を描くドキュメンタリー映画が全国で上映されている。毎日放送ディレクターの斉加尚代さんが監督をした「教育と愛国」。反響がじわりと広がり、どの映画館も盛況という◆2006年、教育基本法の改正で愛国心条項ができると、国は教科書の検定基準を見直し、記述に政府見解を反映するよう義務付けた。斉加さんは「教育再生」の名の下に政治が教育に介入していく実態を丁寧に掘り下げる。「特定政党へのアンチではない。教育の普遍的な価値が変質していくのを見逃さないで」と上映後の舞台あいさつで話していた◆家永さんが残した歌がある。〈勝ち負けは/さもあらばあれ/たましひの/自由を求め/われはたたかふ〉。斉加さんが守りたいのも、子どもたちの魂の自由だろう。(神戸新聞・20022/07/31)

 この二十年以上、この社会は、一面では、上を下への「勝手放題」、その昔、「五倫五常」などと言われた、社会倫理や公衆道徳の存在すらが懐かしいくらいです。親子も夫婦もあることか、どこでも個人主義の花盛り、政治は国民をないがしろにし、行政は国民の生活に関心を示さない、まるで「✗✗一強」などと言われた時間と同じくする期間を、この細長い島社会は、恣意私欲、放恣を旨とし、ひたすら個我の利権あさりに集中することが求められた、そんな感想を抱かせる雰囲気で終止して来たのではなかったか。ぼくには「末法」の時世・時勢のようにしか見えませんでした。その傾向は今も続いています。「教育と愛国」を謳いつつ、国破れて草木深しの感を強くするばかりです。

 教育再生実行会議なる御用機関の長を長年勤めていたのが、若いときはかなり親しく付き合った友人でしたが、彼は昔の彼ならず(今もその椅子に座っているか)。彼が教育改革を言い募ったのではなく、御用機関の長を、順繰り(持ち回り)で、ロボットよろしく、務めただけですから、功罪は半ばするのかしないのか。いずれにしても政治の任に当たる人間が「教育改革」を掲げるとろくなことにはならないのは歴史が示してきました。現状は推して知るべしです。いうならば、当局の言いなりになるという状態を指して、「教育は正常化」したというのですが、更にその歩を進めようというのでしょう。どこまで行くのか、この道を。しかし、ぼくは意気消沈もしなければ、闘争心を喪失してもいない。さまざまな領域や方面で、愚直に、あるいはまっ正直に正義を貫こうとしている人の存在を確かめることができるのです。ぼくも、足手まといにならない範囲で、その「平和のブリゲード」に連なりたいですね。

 窓はどこにでもあると思ってはいけない。窓をあけると、何も見えない、壁しかなかったということがいくらもあるのです。戦時中(「別れのブルース」昭和十二年)でしたか、やはり「窓」を開けた一人の女性歌手がいました。青森出身の方だった。「窓を開ければ 港が見える メリケン波止場の灯が見える」「夜風 潮風 恋風のせて 今日の出船はどこへ行く」戦時中も戦前も、もちろん戦後も、いつだって「風」は吹いていたのです。こういうと極論に聞こえそうですが、新聞やテレビは、同じ「窓」、一つだけ開いている「窓」であり、見える景色(景色などという洒落たものではない)、いや殺風景は「一億一心」で、誰にも同じ。空虚で空無。これがこの社会の、一面の現実です。生暖かい風しか入ってきません。息苦しいですね。酸欠状態から窒息者続出です。加えて、空気汚染はどこまで広がるのでしょうか。酸欠にマスクは逆効果だし。マスクなしでの深呼吸は「ウィルス吸引」の絶好機でもあります。それぞれに、注意深く暮らしましょうか。 

いろいろに思い乱れて葉月開(あ)く(無骨)

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