スマホは盗撮用には作られていない

 学校教員の「不祥事」が頻発しています。気分が悪いので、細かいことは言いません。どうしてこんな「幼稚」「下劣」な犯罪が起こるのか、ぼくには不思議でも何でもない。起こるべくして起こっているというのです。それぞれの不祥事には個別性がありますから、十把一絡(から)げで「今時の教員は~」とは言わない。かろうじて指摘できそうなのは、「自制心」や「克己力」などと言い換えられる「意思(意志)」の働きが希薄か、あるいは無いに等しいからであり、逆に言うと「自分」といい「己(おのれ)」という「自分」とは「情念(passions)」のかたまりを指しているとみていい。この「情念(という感情)」は、日常的には、しばしば「喜怒哀楽」と称されるものに近いかもしれません。(この4つの情念は、外からの刺激に対する身体の反応 ー そのとき、当人は受け身でしかない。要するに「火のない所に煙は立たぬ」であって、「火」は外部の刺激因であり、「煙」は身体内の現象。宝くじに当って、喜ぶ。悪口を言われて、怒りまくる。好きな人に振られて、哀(悲)しくなる。ゴルフに出かけて、楽しむ。どれもこれも、「因」があって、「果」が生まれるのです)

 大半の人は、雨の日には「気分は不快」でしょう。逆に、晴天であれば「気分は爽快」です。天気具合で気分が変わる人を「お天気屋(気分屋)」といいますよ。同じ天候であっても、人によって反応が異なるのはどうしてですか。気分に打ち勝つには、偏差値や学力は無用であり、ときには有害でさえあります。算数の計算問題で多くの人が間違いを犯すのは、理解できないからではなく、注意力が散漫だからでしょう。学校の教科目に「算数」「数学」があるのは、計算能力を向上させるためといえますが、それ以上に大切なのは「気分を克服」するためのもっとも有力な方法だからだと、ぼくは経験して来ました。「自分で計算する」能力を育てる、それは計算能力以上に大事な力を養うことにもなるのです。

 56+78=▢、この計算につまずくのは、能力の不足というより、集中(注意)力が欠けていたからではないでしょうか。その証拠に、ゆっくりとやり直せば、きっと正解を得ることができる。階段を踏み外して大怪我をする。何かに躓いて転ぶ。あるいは不注意な運転で「交通事故」を起こす。この時、いずれにも欠けているのは偏差値の高さや、家柄などではなく、誰にも備わっている「注意力」です。

 学校教員に求められるもの(「力量」という、嫌な表現が流行りました)は、第一に「学力」であり、第二に「指導力」だとされてきました。ぼくに言わせれば、人一倍の「注意力」だと思う。子どもの間違いに「カッとなる」とか、優劣思想に毒される、学歴や昇進(地位)などに必要以上に拘(こだわ)るとするなら、その「先生」には「注意力」「自制心」が著しく欠けていると、ぼくは言いたい。こういう点から見ていくと、この島の学校教育は「不注意な人間=情念に支配された人間」の育成には存分に成功したでしょうね。反対に、もっとも成功しなかったのは「他者への労り」の心、「他者への敬意」という崇高な感情を育むことではなかったか。「注意深い」という意味は、他者に配慮することをも指しているのですね。不注意人間や厚かましい輩の輩出、どうして、そんなことになったのか、猫や猿にでも教えてもらえばいい。

 ぼくが愛読して止まない、デカルトの「情念論(Traité des passions de l’âme)」(1649年刊)、そのなかで彼は6つの基本情念を上げています。「驚き、愛、憎、欲望、喜び、悲しみ」であり、それらは、いずれも身体の受動性から生じるというのです。どれ一つとして、能動的に引き起こされるのではなく、先ず外部の対象の働きかけによって身体内に生じますね。(なにもないのに、怒れない」でしょ。注意深い人間であることは、高い学歴を獲得するより、人間にとっては遥かに大切な能力、いや人間性そのものです。政治の劣化は政治家の劣化ですが、「劣化」とは「注意力」の劣化、育て損ないをいうのです。そこにも「不注意人間」が引きも切らずに押し寄せている、その根本の原因(理由)なんでしょうか。一方的に「養成される人間」は、もっとも大事なものを失っているんですね。気の毒であり、可愛そうでもある。多くの教師は「やればできる」と教えます。間違いではないし、当たり前であって「やらなければできない」のです。やるとやらないの「分かれ目」はどこにあるのか。やる必要があることについて、大切なのは、命令されることではなく、自ら「意欲する」「自分を高めようとする」ところにあります。

● 情念論(じょうねんろん)(Traité des passions de l’âme)=デカルトの最後の著作。1649年刊。人間の情念(感情)を心理学的かつ生理学的に考察し、道徳の問題に説き及んでいる。本書は、ドイツからオランダに亡命していたエリザベート王女の質問をきっかけとして書かれた。王女は、デカルトの精神と物体(=身体)の二元論において、心身合一体としての人間が占める位置が問題となることを鋭く指摘した。そこでデカルトは、心身合一体に特有な意識である感情の考察に向かうことになった。感情は身体によって引き起こされる意識状態、すなわち「精神の受動」passion de l’âmeである。さてデカルトは、情念(=受動)のうち、驚き、愛、憎、欲望、喜び、悲しみの六つを基本的なものとし、心理学的に分析する。他の諸情念は、基本的情念の複合として説明される。また、情念は動物精気(血液中の微細物質)が精神の座である松果腺(しょうかせん)に作用した結果生じるものとされ、その機構が生理学的に記述される。このように情念のメカニズムを客観的、機械的に認識することによって、情念を自由意志の手段とすることが可能となる。自由意志を正しく使用し、情念を支配することが、高邁(こうまい)という最高の徳につながると結論される。(ニッポニカ)

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 I’m not so stupid as to be called a teacher.

 【斜面】「先生」を見直す 本紙夕刊コラム「今日の視角」の筆者を務めるノンフィクション作家、小林照幸さんに初めて電話したのは7年前のこと。「小林先生―」と言いかけた時、「私は先生ではありません」と即座に言われた。しまった…と後悔しても遅い◆文筆家や学識者と接する機会が多かった。「先生」と呼べば無難だろう―という通俗的な計算を看破された気がして恥ずかしかった。先生とは「先に生まれ、先に道を修め、学徳ある人」=増井金典著・日本語源広辞典◆日常生活では、学校や習い事で指導的な立場の人、芸術家、専門的な知識が豊かな職業人らを「先生」という。では、どうして多くの政治家までそう呼ばれているのか。選挙で頭を下げながら、当選後は「先生」と言われてご満悦。呼ぶ方にも「持ち上げておけばいい」と俗っぽい計算が働いているのではないか◆大阪府議会が改革に乗り出した。議員の呼称に「先生」を使わないことにした。「~議員」「~幹事長」などと呼ぶ。議運で決めて、正副議長名で通知した。府職員にも同様の対応を求めている。議員の特権意識や職員との上下関係を防ぐ狙いだという◆形より心がけ―との批判もあるようだが、形から心が変わることはよくある。全国の議会や国会も「先生」の呼称はやめればいい。高潔で見識が高く、尊称に値する政治家はいただろうし、今もいるのかもしれないけれど、そういう人物ほど「私は先生ではありません」と即答すると思う。                   ■あとがき帳■ かつて社会党の土井たか子委員長も「先生」呼称をやめようと呼びかけました。議員と市民との間に上下関係が生まれかねないからと。▼辞書を引くと、「親しみ、またはからかって呼ぶ称」との意味もあります。相手をおだて、良い気分にさせる効果もあります。▼〈先生と言われるほどのばかでなし〉と川柳にあります。呼ばれる理由がなければ、ばかにされたと感じるものです。▼この呼称は、「センセイ」自身も支持者も、時にメディアの現場でさえ、どこか互いに居心地のいい「ぬるい関係」を続けている証左なのかもしれません。▼「~さん」「~議員」と呼び合って何が変化するのか。大阪の実験に注目しています。(論説副主幹 五十嵐裕)(信濃毎日新聞・2022/10/08)

 【斜面】というコラム、その昔はよく読んでいたもので、どういう事情か、しばらくは「休載」していました。寂しいなと思いながら、復活を望んでいたところ、ごく最近になりまた掲載されだしたので、毎日のように目を通しています。この新聞には、戦前、桐生悠々氏(右写真)が健筆を振るっていたこともあり、ぼくには特に懐かしい新聞でもあります。また、復活したコラムには筆者自身による「■あとがき帳■」がついていて、執筆の動機や裏話(舞台裏かな)などが書かれていて、親切でもあり、ありがたくもあると感謝したくなります。

 本日のテーマは「『先生』を見直す」でした。(「コラム」掲載は昨日付け)この閑問題については、つい最近も触れました。特に関心があってのことではなく、彼方此方のコラムで何かとネタにされているので、ついその気になって、ぼくも、もう一度となった次第。この島社会では、飲み屋で一番多かったのは「社長」でした。(お客さん」というのはヨソヨソシイので、誰彼無く、客は「社長」という具合。今では「先生」です。まあ、一種の「(接頭辞的)呼びかけ」であり、呼ばれた人の気分を害しないような「枕詞」だと理解しておけば、大きくは外れないでしょう。悪どいキリスト教徒をもさして「敬虔な」というように、誰かを持ち上げ、持ち下げする際の「間投詞」かな。「おい」とか「もしもし」などと同じ類と捉えたらどうか。

 呼称、あるいは地位や身分などには、その社会に特有な呼び名があります。「議員」というのは政治家一般に共通する社会的身分であり、それを示す呼称は「議員」「議員さん」でしょう。◎◎議員とか▼◆議員さんと呼んで不足のあろうはずはありません。議員に対して社長というのは間違いです。あるいは大工などの職人世界でも「棟梁」「親方」が一般的に使われていました。もちろん、学校の教師は「教諭」(ごく初期のことは「訓導」でした)というのが法律で定められた呼称ですが、古く、かつ広く「先生」が相場となってきました。学校教師に「先生」という呼称は当然でしょうが、中にはそう呼びたくない「泥棒」や「盗人(盗撮犯)」といったほうがふさわしい場合も多くあります。

 細かいことは略しますが、明治初期に学校教育が開始された段階では、いわゆる「教員」は仮雇いがほとんどでした。その後の呼称で言うと「代用教員」です。教育制度が始まったばかりで、この島には、現在に引けを取らない二万数千の学校が作られたのですから、教員養成は間に合わず、それどころか当分は不可能でした。明治期を通して「師範学校」制度が整えられ、免許を持った教員が現場に出るようになるのですが、そうなるまでは、仮免以前の、無免許教員がほとんどでした。その代表は神主や僧侶、武士崩れなど、それ以前の旧社会ではそれなりの身分にあり、いわゆる「常識・教養」を有する人たちでした。世変わりすると、身分は落魄し、つまりは落ちぶれて、なんとか教職にありついて糊口をしのいだというのが実態でしたでしょう。

 それ故に、教室に来る子どもたちのほうが社会的身分が高かったり、裕福であったりして、許員は、親たちからも子どもたちからも、それほど尊敬されなかったということもありました。教員の社会的評価の二面性であり二重性がここに生まれたのです。ぼくが教師まがいの職業に付く前に、大きな影響を与えられた「現職教師」が何人もいました。その中でももっとも深く学ぶことになったのが S さんという小学校教師だった人です。もちろん彼は師範学校卒の教員でしたから、その師範学校の持つ「陰湿さ」「意地悪さ」「上下関係」などもつとに経験していたし、それを徹底して批判した人でもあった。

 S さんが「校長」になって、ある小学校に赴任した際、その学校の教職員に対する最初の挨拶で、「わたしを校長(先生)と呼ばないでください」「名字(Sさん)で呼んでほしい」といったそうです。若い教員たちは、その申し出に直ちに順応し、「S さん」と呼ぶことに抵抗がなかったが、経験のある教師たちは、その申し出の受け入れを渋ったそうです。理由は言わなくてもいいでしょうか。校長を名前で呼ぶのですから、自分も名前で呼ばれることに納得できなかったのかもしれません。加えて、教師の権威が奪われるとも思ったでしょう。(師範学校生は授業料は免除。月々の小遣いが与えられた。国家の教育を担うのだから、国家意思の教授に徹することが求められたのです。「教科書を教えること(だけ)」が求められた。大半の人は成績優秀であっても、貧困のために高等学校や大学に進むことができなかった青年たちでした。それゆえに、無条件に尊敬を受けるという以上に、閉鎖社会における「社会的地位」の低さが学校の中でも払拭されなかったのでした)

 時代とともに、学校の外にも「先生」呼称は普及しました。そのニュアンスは、学校教師についていたのと同じような「皮肉」「軽侮」も込められていた。つまり「先生」という敬称は、また他面では軽称だったり、蔑称だったりしたのではなかったか。当たり前に言うと「 自分より先に生まれた人。年長者」です。それだけのこと。でも年齢が嵩(かさ)んでいるのだから、若いものよりは経験もあり、それ故に、賢明であり、知識も豊かだと思われたのが、段々と「先生」という呼び方が社会的に広く普及した理由だったでしょう。今では「大工の棟梁」も「先生」だし、もの作りの職人も「先生」です。料理長も。それでいいんじゃないでしょうか。「先生」と呼びたくなるなら、そうしておけばいいと、ぼくは思います。

 詰まらない話をします。現役時代に毎晩のようにでかけていた飲み屋で、知り合いの夫婦と同席することがよくありました。ある時、どうしたはずみか、夫のほうがぼくに絡(から)んできて「あんたは何様だと思ってるんだ。偉そうにするんじゃないよ」と凄い剣幕でした。理由がわからなかったので、ぼくは沈黙して飲んでいると、その態度が気に入らなかったのか、さらに怒りが大きくなった。「面倒なおっさん」だと、いい加減にあしらおうとしたが「怒りの補充」にしかならなかった。怒りという火に油を注ぐというのは、ぼくの欠点でもあり、美点でもあるのです。

 店主がその「怒りの火玉」を、もう帰ってくれっと、放り出した。以来、ぼくはその夫婦には遭うことはなかった。今から思っても、どうして絡んだのか、あるいは酒癖が悪かっただけということだったかも。その上に、「先生ヅラして、お高くとまるな」という不機嫌が、彼を襲ったのかもしれない。ぼくは人に好かれることもありましょうが、絡まれることのほうが多い。よくないのは、それを楽しむ風がぼくにあることです。その時は「教授ヅラ」をしていると、酔っぱらいには見えたんだんろうね。とにかく「気に入らないやつ」と勝手に思われていたらしい。

 「『先生』と呼べば無難だろう―という通俗的な計算を看破された気がして恥ずかしかった」とコラム氏は書く。そのとおりでしょうね。「先生」という呼称がハイパーインフレを起こした一端の理由が、そこにありそうです。「先生」と呼んでおけば当たり障りはないし、呼ばれた方も悪い気はしない(だろうと思う)。それがいつしか、この社会の大地が陥没して「先生の海」になったんでしょう。しかし、そう呼ばれた当人が「私は先生ではありません」と即応したのは、これもまた稀有なことではなかったか。「先生と呼ばれるほどの」という意識からではなく、誰かにものを教えて生きているのではないのだから「私は先生ではありません」ということだったかもしれません。もしそういうことだったら、その辺りに清々しい風が吹いていたかも。

 たった一度でしたが、土井たか子さんにお会いし、少し話をしたことがありました。「土井先生」とは言わなかったし、それが当たり前だと「土井さん」と言っていました。ぼくの中には「学校で授業をし、それで生計を立てるもの」を「先生」と呼んでも差し支えないという気分がある。呼びかけるときは「先生」でも、相手がいない時には、その職業を示すような「表現」を使うことが多かった。「教師」「教員」「教諭」などなどです。その理由は簡単明瞭です。職業を表す呼称には「上下関係」は入らないのに対して、身分や地位を表す呼称には、時には、その上下の関係がついて回るようで、あまり好ましくないと考えるからです。

 これを「人権と特権」と説明した物理学者がいました。ある種の地位や身分は「特権」を誇示するきらいがありそうで、そこへ行くと職業を言い表すと、上下関係ではなく「つながり」「連帯」を想定することができるでしょう。面倒なことは言わなくていいことですが、「先生」という一つの呼び方で、相手に敬意を持っているかそうでないか、誰にでも直感できるんじゃないでしょうか。嗅覚が働くと言えばどうでしょう。「先生」と呼びたければ、呼ばれたければ、どうぞお好きに、です。ぼくがもっとも好ましく考えているのは「固有名」で呼ぶことです。ぼくを姓や名で呼ぶ学生がたくさんいました。しかも「呼び捨て」で。

 (バカバカしい実例です。昔、ノーベル平和賞を、引退後に受賞した 、S 元総理大臣は現職総理のころ、「エイちゃんと呼ばれたい」と公言していた。国会質問に立った議員さん(後に大阪府知事を務め、セクハラ問題で辞めた)は「(「総理のご希望にお答えして」と前置きして)エイちゃん、この問題はどうなんです」と切り出した。国会の会議場は騒然とし、顰蹙(ひんしゅく)を買うことになった。彼が懲罰委員会にかけられたかどうか、ぼくは忘れた)

● せん‐せい【先生】の解説(4が原義) 学問や技術・芸能を教える人。特に、学校の教師。また、自分が教えを受けている人。師。師匠。「国語の―」「ピアノの―」 教師・師匠・医師・代議士など学識のある人や指導的立場にある人を敬っていう語。呼びかけるときなどに代名詞的に、また人名に付けて敬称としても用いる。「―がたにお集まりいただく」「―、お元気ですか」「鈴木―」 親しみやからかいの意を含めて他人をよぶこと。「ははあ―今日は宅 (うち) に居るな」〈漱石・彼岸過迄〉 自分より先に生まれた人。年長者。「年の賀も祝はれず、―にはあるまじきことなり」〈鶉衣・戯八亀〉(デジタル大辞泉)

● 先生と言われる程の馬鹿でなし=先生と呼んでも、必ずしも敬意がこめられているわけではなく、むしろばかにすることの多いところから、呼ばれていい気になっている者を軽蔑していう。人をむやみに先生呼ばわりする風潮や、呼ばれて得意になっている人への批判をこめていう。[使用例]向こうの人が、ほんのちょっとでも計算して、意志を用いて、先生と呼びかけた場合には、すぐに感じて、その人から遠く突き離されたような、やり切れない気が致します。「先生と言われる程の」という諺は、なんという、いやな言葉でしょう[太宰治*風の便り|1942](ことわざを知る辞典)

 「先生と呼ばれるほどの馬鹿じゃなし」というのは、どこに出典があるのか、ぼくにはわかりません。川柳なのか、諺(ことわざ)なのかも判断できません。その意味するところも、単純でもあり複雑でもあります。「先生というのは、馬鹿な人間のことなんだ」(これははっきりした偏見ですね)「だから、おれを先生(馬鹿)と呼ぶな」というのでしょうか。あるいは、どこにでもいるような半端な人間を、世間は「先生」と呼んで虚仮にしている、だから「この私を先生と呼んでくださるな」というのでしょうか。「おい、小僧」というのと同じようなこと。どうやら、ある時期までは「この先生」と言う呼び方には、学校教師は数えられていなかったと思う。ところが、多くの学校教員も、世間並みになり、今では堂々と「馬鹿人間」と評価されている「先生」の仲間入りをしたようです。他人を呼ぶには「名前に限る」、それは「サンマは目黒に限る」のと同じようですね。

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 「治療とは九割がタイミングだね」と私に言われた

 【正平調】親しみをこめ、患者から「カメ」の愛称をもらったそうだ。病室に入るとき、まずドアを少し開けて顔だけのぞかせる。誰にもぶつかっていないと確かめて入る癖が、そう呼ばせたと◆著書「いじめのある世界に生きる君たちへ」の後書きで、構成・編集にあたったふじもり・たけしさんが記すエピソードである。仰ぎ見られる存在でありながら、気配りを欠かさない。なるほどこの方らしい◆精神科医、中井久夫さんのことだ。神戸大学医学部教授だったとき、阪神・淡路大震災に遭い、失意の底にある被災者を支え続けた。いじめに悩む人たちも支えた。たくさんの涙に寄り添って、88歳で亡くなった◆本紙文化面で、「清陰星雨」というタイトルの一文を長く書いていただいた。深い知性と柔らかな感性で時代を見つめる文章は、切れ味がよかった。どんなに忙しい朝でも、中井さんの寄稿は欠かさず読んだ◆その一つ、「難事に現れるリーダー」(2009年3月)は、震災後に若くして亡くなった医師たちを弔っている。「故人たちは目立つのを極端に嫌う人たちであった」としつつ「紙の記念碑を記しておかないと私の気がすまない。許していただきたい」◆読み返しながら思う。きょうは中井久夫さんへの感謝の碑に、と。(神戸新聞・2022/08/10)

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 中井さんの死が報じられました。どう反応していいか、ぼくにはわかりません。とにかく、若い頃から、中井久夫の臨床論に齧(かじ)りついてきました。ぼくが真面目に、かつ熱心に読んだ、唯一の医者であり、精神科医でした。いまは何かを語る元気が、ぼくにはなさそうです。少し時間をおいて、書ける時が来たらと、今日はひたすら、地元の神戸新聞の記事にすがるばかりです。(神戸新聞に対しても、心からお礼を言いたい気がします)これらの記事には、中井さんについて、なにか欠けている部分がなさそうな、意を尽くした「追悼記事」であると思われたからです。

 中井先生に。謹んで哀悼の思いを捧げたいと存じます。

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 精神科医で神戸大名誉教授、中井久夫さん死去 阪神・淡路大震災で精神的ケアに尽力   阪神・淡路大震災などの被災者の精神的なケアに尽力し、文筆家としても多くの業績を残した精神科医で神戸大名誉教授、文化功労者の中井久夫(なかい・ひさお)さんが8日午前11時5分、肺炎のため神戸市の介護施設で死去した。88歳。奈良県出身。自宅は神戸市。/ 葬儀・告別式は近親者で行い、供花、弔電は辞退する。喪主は長男伸一(しんいち)氏。/ 京都大卒。東京大などを経て1980年、神戸大医学部教授に。統合失調症研究の第一人者で、先駆的な診療法で高く評価された。/ 95年の阪神・淡路大震災では、被災者の心のケアの必要性を早くから訴え、支援体制の構築や支援者の育成に注力。2004年に心的外傷後ストレス障害(PTSD)の研究や治療、相談などに当たる全国初の施設「兵庫県こころのケアセンター」が開設され、初代センター長に就任した。/ 1997年に神戸市須磨区で起きた連続児童殺傷事件の遺族らとも関わり、犯罪や災害の被害者らの心理的な回復を支える「ひょうご被害者支援センター」理事長として活動。甲南大教授も務めた。/ 90年から2012年まで本紙でコラム「清陰星雨」を執筆。歴史や文化を巡る高い見識に基づき、政治や戦争をはじめとする幅広いテーマに深い洞察を示し、無名の人々に温かいまなざしを向けた文章は多くの人の共感を呼んだ。/ 阪神・淡路の直後の医療現場や患者らの苦難をつづった「災害がほんとうに襲った時」や「中井久夫著作集」など著書多数。米国の精神科医サリヴァンやフランスの詩人ヴァレリーの訳書、ギリシャ文学の翻訳も手がけた。/著書「家族の深淵」で毎日出版文化賞。01年兵庫県社会賞。13年文化功労者。(神戸新聞・2022・08/09)

 いつも被災者のそばに、中井久夫さん悼む声 PTSDの研究、治療に道  精神科医で神戸大名誉教授の中井久夫さんが8日、88歳で死去した。阪神・淡路大震災の被災者支援や研究などの功績に対し、多方面から悼む声が寄せられた。/「優しくて、パッションの人だった」。中井さんを「師匠」と慕う岩井圭司・兵庫教育大大学院教授(60)=精神医学=は震災当時、中井さんのいた神戸大付属病院に勤務。「孤立していない、見捨てられていないと被災者に実感してもらうことが第一」と若い医師らに繰り返し説いていた姿を記憶する。治療に当たる精神科医の役割を「一緒にふもとまで下りる『山岳ガイド』のイメージ」と語っていたといい、「心のケアという言葉を定着させたのは先生の功績」と振り返る。/ 室崎益輝(よしてる)・神戸大名誉教授(77)=防災計画学=も「一人一人の人間に目を向けろと教わった」と語る。「心のケアという発想がなかった頃にその重要性を発信され、震災関連死や孤独死という考え方にもつながった。その後の災害支援にも大きな影響を与えた」と別れを惜しんだ。/ 中井さんの著書を心の支えにしてきたという被災地NGO恊働センターの村井雅清顧問(71)は「災害ボランティアにも造詣が深く、『黙ってそばにいるだけでいい』という言葉に、『ボランティアは何でもあり』と確信した。元気なうちに、自分の活動が間違っていなかったか聞きたかった」と声を詰まらせた。/ 中井さんは、兵庫県こころのケアセンターの初代センター長としても貢献。知事在任中に同センターを開設した井戸敏三・ひょうご震災記念21世紀研究機構特別顧問(77)は「PTSD(心的外傷後ストレス障害)へのケアの大切さを教わり、県として取り組みを進めることができた」と業績をたたえた。/ 担当編集者として40年近く親交のあった、みすず書房の守田省吾前社長(66)は、原稿を的確に直しながら別の電話に応対する姿に驚いたという。/「圧倒的な観察力を持ち、論理と科学、感覚、においといった多様なものを見事に文章化された。患者と家族だけが読むような小冊子も大手出版社の書籍も手を抜かない。全力投球なのに、どこかに余裕を感じさせる方でした」と人柄をしのんだ。(上田勇紀、中島摩子、新開真理)(神戸新聞・2022/08/10)

 

 言うまでもないこと、ぼくには何一つ誇れるようなものはありません。不本意に大学行き、不本意に就職し、その間ずっと不満をいだいたままで、生きてきました。教職についたと言っても、その実際は「教師まがい」だった。世に存在するたくさんの「本物の教師」のようには絶対になれない、あんな教師にはなりたくないなどと、いろいろな理屈を並べてみて、気づいたら「教師の出来損ない」、「教師まがい」でした。「ガンモドキ」というのは立派な食品ですが、ぼくはその「もどき」にもなれなかったのです。そんなふしだらな生活を続けていく中で、唯一学んだのは多くの先輩や先達からでした。

 ここで、いちいち名前を上げませんが、殆どが今では「一流」(この表現は嫌いです)と評される賢人たちでした。この中には、もちろん中井さんもおられました。とにかく、手に入る者は何でも読んでみようという、後先や、自らの能力を一切無視した「無謀」の振る舞いそのものでしたが、そんな乱暴な「読書経験」からでも、不思議なもので、身に得られるものは必ずあったのです。いま、中井さんの訃報に接して、この駄文を綴っているパソコンの置いてある部屋の周りの本棚には、それでも数十冊の、中井さんの著作があります。中には専門書(論文集)も。背文字を見るだけで、中井さんの文章の佇まいと、それをモノしているご本人の表情がありありと浮かんできます。とにかく、この賢人(碩学であり、実践家)は、いつでも、どんなときも冷静沈着を「絵に書いたような」姿を崩さなかった人でした。いまは、ひたすら感謝し、ご冥福を祈るばかりです。(中井さん、ありがとうございました)

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 治療においては、病気の側にも一種の疑似政治学がある。治療は、治療に伴う反作用を避けつつ、基本的には、病いと絶えざる妥協であり、その妥協の結果、病いを最善の形で経過させることが治療の政治学である。

 政治には士気の維持が大きな要素であるが、治療においても同様である。特に慢性の病いにおいて。

 土居健郎氏(『甘えの構造』の著者)は「治療とは九割がタイミングだね」と私に言われた。要するにそういうことだ。ナポレオンが戦争について言いそうなことだ。そういえばヒポクラテスが二千数百年前に言っている。(中井久夫「家族の深淵」みすず書房、1995年)

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 教えないで質問する、それが教師の役割です

 自分が受け入れているものをふくめて、疑う権利を確保すること、それが私のデモクラシーの基本です。それを手放してしまったら、人間はそこからつぶれていくと思うんです。人間の思想というのは弱いものでね、思想で一つにくくってしまったら危ない。どこかに通り道を残しておかないと、やっぱり自滅してしまうんですね。(鶴見俊輔)

 鶴見さんのこの短文、今風に言うなら「ツイート」なんでしょうか、この駄文集にも何度か出てきますが、ぼくはこれをまるで車のエンジン始動させて、しばらくはアイドリング((idling)(=空ふかし)をする、そんな気持ちで、毎朝の準備体操のようなもとして、ある種の目覚まし薬のようにして読み込んできました。この「慣らし運転」というのか、それは人間の心身にもとても重要で、ぼくにはもう欠かせないものとなりました。「機械や自動車のエンジンを、負荷をかけずに低速で空回りさせること」(デジタル大辞泉)空転とか空回りというと、なんだか無駄のようにも考えたくなります。しかし、「無駄」があって初めて物事が順調に(ときには、順調ではないかもしれません。「不合理」の上にしか「合理」は乗っかれないんだね)進むのだという風にぼくは考えてきました。人間は一種の機械のようなもので(ラ・メトリ「人間機械論」岩波文庫、右下写真)、気候や人間関係の具合で調子が狂うこともよくあるのです。だから、アイドリングをして状態を確かめることが大切になりますね。頑(かたく)なにならない、強張(こわば)らない、肩肘の余分な力を抜いておく、それが毎朝のルーティンになっています。

 「デモクラシー」というのは、何時の時代のどんな集団にも認められる。それは、決して近代の産物なんかではないのです。ただそれが長くは続かないのが最大の特質だともいえるでしょうね。「民主主義」だけで五百年ということはあり得ない、徳川幕府や李氏朝鮮が何百年も継承されてきたのは、民主主義だからではなく、むしろその反対の政治体制であったからでしょう。でも、そんな徳川時代や朝鮮王朝時代にも、きっとデモクラシーは存在していたといえる。「民主主義」と「全体主義」の混合型は、どこにでも見られます。その意味は、たった一つの集団で、民衆が結合することはなかった、いろいろな集団の混合、寄せ集めだったということで、その中には全体主義もあれば、民主主義もあったのです。今日と少しも変わりはないといえます。その場合、「民主主義(デモクラシー)」をどのように見るかという視点や観点の違いはあるでしょう。もともと、デモス・クラテイヤという語がその基点にあります。デモス(demos)とは「人民」(特定集団のメンバーです)を指し、クラティア(kratia)は「権力」を意味しました。ギリシア由来の言葉です。もちろん、そのあり方は多様・多彩であり、これこそが「デモクラシー」であるということはできないのかもしれない。しかし、もっとも根本の部分には「民意(参加者の意思)の尊重」があるし、それがなければデモクラシーとは言われないのです。

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● 民主主義(みんしゅしゅぎ)(democracy)=民主主義を表す英語のデモクラシーという語は、もともとはギリシア語のdemos人民)とkratia(権力)という二つの語が結合したdemocratiaに由来する。したがって、民主主義のもっとも基本的な内容としては、人民多数の意志が政治を決定することをよしとする思想や、それを保障する政治制度あるいは政治運営の方式、と要約できよう。この意味では、第二次世界大戦後の現代国家のほとんどは、成年男女に普通・平等選挙権を認めているから、資本主義国家であれ社会主義国家であれ、それらの国々を民主主義国家とよぶことができよう。しかし、ひと口に民主主義といっても、その内容は、単に普通選挙権や国民の政治参加の保障にとどまるものではなく、人権(自由・平等)保障の質の高さや内容の違いあるいは民主的政治制度の考え方の差異などをめぐって多種多様に分かれ、しかも、そうした思想や政治運営の方式は、歴史の進展、政治・経済・社会の変化に伴って、しだいにその内容を広げ、また豊かにしてきた面もある。(以下略)(ニッポニカ)

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 その鶴見さんの「ツイート」です。疑う権利、しかも自分が受け入れているものまで、疑う権利を自分に確保しておく、それが「デモクラシーの基礎・基本」だというのです。無条件で受け入れるというのは、まあ一種の手抜き(思考停止)であって、何時かそれに気が付きますが、多くは「手遅れ」ということになるのが定め。自分が受け入れているものとは、ぼくの場合でいうなら、この島社会の現実(政治や経済をはじめとする、現存の体制です)を、否応なしに受け入れている。この島のどこであろうと、ぼくが生活している限り、法体系に束縛・拘束され、かつ擁護されているし、政治や経済の情勢に左右されるのは避けられません。しかし、だから、ぼくは現状の様々な条件・要素を全面的に承認しているかといえば、そんなことはあり得ないし、何時だって体制のおかしな部分には「異議あり」を発する、その権利は誰にも譲れないし、奪われたくないのです。

 僕が勤務していた学校もそうです。ぼくは受け入れていたどころか、ある意味では「飯のタネ」でしたから、それこそ、身を挺してそこにぶら下がっていたのです。しかし、そういうような格好の悪い状態で勤めていながら、おかしいことはおかしいと、誰に遠慮も忖度もなしにやってきました。しかも批判はやがて行動となってぼくの姿勢を計ろうとしてきました。ゲ月給を貰っているのだから、少しはおとなしくしろ、そんな「忠告」めいたことも言われ続けましたが、ぼくは批判はやめなかった。ぼくも構成員の一人(一人の構成員)でしたから、ぼくなりの「民意」を無視はできなかったし、それが結果的には誰かれの役に立ったと、ぼくは勝手に思っていました。大学の「現執行体制」を擁護するなどという芸当はぼくにはできなかった。いつだって、批判する側に徹していましたね。

 「日本人なら、文句を言うな」「四の五の言わず、黙って俺についてこい」というのは、ぼくに限って言うなら、まずダメです。身体が拒否反応を起こす。「なんで、あんたに従うんじゃ」という態度はいつでも隠せないのです。他人に譲れないなどという大げさなものではなく、当たり前に身体が言うことを効くか効かないか、それだけのことでもあります。そのための「アイドリング」は、だからぼくには不可欠なんですね。身体の体操であると同時に、精神の体操でもあります。

 深呼吸(deep breathing)は、ぼくにとっては精神の体操です。硬直したままで物事を判断しないし、それはできない相談。硬直を解(ほぐ)す、そのための準備運動でもあり、いわばウオーミングアップなんでしょうね。体の中の筋肉に新鮮な血液(酸素)を送る、それによって筋肉のこわばりを解(と)き、体全体を柔軟にするように、心にもしなやかさを失わない、思考にも柔軟剤を加えるような塩梅です。そのための背伸びであり、屈伸運動。ぼくは、このことをなんと、猫たちから、直(じか)に教えられました。気がめいっていたり、気が急いていたりすることはしょっちゅうですが、そんなときに猫の顔や様子を見ると、彼や彼女たちは、きっと「欠伸(あくび)(yawn)」をします。それを見ると、ぼくの体から硬直感が失われていき、しなやかというかゆとりのようなものが感じられてくるのですから、なんとも不思議ですし、「他人のふり見て、わがふり直せ」と言われているんですね。この際、猫はぼくにとっては、かけがえのない友人です。焦っても仕方がないでしょう、ゆっくりしなさいよ、というように。

 我が耳目を塞いで、たった一つの「ドグマ」を後生大事に懐に仕舞いこむ。それに対しては何一つ疑いもしない。これは強いのか弱いのか。「唯一絶対」という調子は「強そう」でも、その「正しさ」「絶対性」の根拠は、とても薄弱なものです。これしかない、と思い込んだとたんに、世の中は動いているようには見えなくなる(天動説ですね)のです。これが「イデオロギー」といわれるものの本質です。イデオロギーは「教条」ともいい、揺らぎがないことが生命線ですから、教条主義というのは、硬直した姿勢を指して言うのでしょう。「仏の教え」は何千年たっても一向に変わらない道理です。これしかない、これが真であるという、その硬直姿勢こそが「イデオロギー」の核なんですね。今日イデオロギーはそんなにはやりませんが、あるいは従来とは別種の「新イデオロギー」が勢いを得ているのかもしれません。

 ここで場面が変わります。あるいは「暗転」するのかもしれません。以下は、どこかで触れたようにも思いますが、何度でも繰り返し考える材料として使うことが大事だと、あえて、繰り返しをいとわず提示しておきます。

 OOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO

 ギリシャの哲学者であるプラトン(BC427-BC347)という人が書いたたくさんの対話編のなかに『メノン』と題された本があります。そのはじめの部分に奇妙な話がでてきます。それを材料にして、「ものを学ぶ」というのはどのようなことかを考えたい。

 メノンというのは貴族階級に属する人の名前で、ソクラテス(BC470-BC399)の友人です。二人は「徳」について問答を始めていましたが、議論が行きづまってしまったところです。そこでは、ものを学ぶとはどんなことか。「徳」とはなにか。いかにも原理的な事柄が問題となっている。
 メノンの家にはたくさんの「召使い」がいました。そのうちの一人(10歳くらい)を呼んで、ソクラテスは次のような問題を出したんです。「一辺2プウスの正方形がある。その2倍の面積をもった正方形はどのようにして作ることができるか」

 そこでさっそく、その子ども相手にソクラテスは問題を解くように、話(質問)しはじめたのです。彼はまったく「教えない」で「問う」ばかりでした。子どもはその問に対して答える。自信満々で、その答えを知っていると思い込んでいましたから。ところが、ソクラテスからの質問攻めにあって、最後に「どうにも答えられない」というところに追いつめられたのです。これはソクラテスの(教育の)方法といわれる「対話」(ダイアローグ)、あるいは「問答法」といわれるものでした。ようするに、子どもの「知っているつもり」「知ったかぶり」を粉砕するための「質問」だった。

 ソクラテスは「教えないで、質問するだけ」でした。「教師の最良の仕事は質問することだ」と、人は言いぼくも言いました。途中を抜かして結論的に言うと、どんな人でも「自分にとって」いちばんの教師は自分自身です。だから、「自問、自答」なんです。

 もしそうだとするならば、いつでも「自問し、自答する」ことが「自分を育てる」ためには欠かせないのじゃないか。「育つ」ためには「育てる」がなければならない。だれかに質問される(自分で自分に質問する)ことによって、自分のなかのなにかが「育つ」あるいは「育てられる」といえるでしょう。教える視点からではなく、育てる姿勢の側から教育をていねいに考えたいですね。教えない教育、子どもが自分の中に「(考える力を)育てる」、そんな教育や授業を命がけで求めてきたという気もします。

 いかにも教師のことばかりを話しているように思われたかも知れないけど、じつは「子ども」(「教えられる側」)の問題でもあるのだと、ぼくはいいたい。よく言われる「教えられる」というのは、別名では「与えられる」ことでもあるでしょ。じゃあ、与えられるばかりだと、いったいその人にどんなことが起こるのか、という問題ですね。「与えられる」ことになれると、それに対して文句を言うようになります。与え方が悪いだの、もっと違うものをくれなどと言い出します。与える教育は「わがまま」を育てるのかもしれません。

 もう一度、「鶴見ツイート」にもどってみましょう。
 《自分が受け入れているものをふくめて、疑う権利を確保すること、それが私のデモクラシーの基本です。それを手放してしまったら、人間はそこからつぶれていくと思うんです。人間の思想というのは弱いものでね、思想で一つにくくってしまったら危ない。どこかに通り道を残しておかないと、やっぱり自滅してしまうんですね》 

 「自分が受け入れているものをふくめて、疑う権利を確保する」というのは、別の表現を使えば「わたしは自由である」ということじゃないですか。「考える自由」のことです。与えられたものを鵜呑みにするのじゃなく、それをいったん疑ってみる。自分の頭で疑って見るんです。それをしなければ、自分がないというようなものです。それが<自由>ということなんだ、そういえませんか。みんなが言うからそうなんだ、あの人が正しいといっているから、正しいのだと、自分を失う度合いに応じて、人な何物にもなるのではないか。みんなで決めたのだから、守るのが当たり前だろうという。しかし、現実にはそのように決めた時とは状況が異なっていることは誰にも理解できる、にもかかわらず、「決まり」だから守れ、ここまでくると、それは間違いなく「教条」になります。学校の拘束や、制服などは、その典型でしょう。男子生徒の髪型は丸坊主という、僧侶になるわkでもなし、ただ、難渋ねんっも前に決めた期8足だから。これが教条です。教条(イデオロギー)は、過去にしがみつくのです。「寄る辺は昔」というのです。こんなのばっかりdふぁったんじゃないですか、学校という場所は。まるで「博物館」か「考古館」みたいですね。今だってそんなのがいくらもあります。

 「わたしはは自由だ」というのは、おかしいと自分で思い、これはちょっと違うぞと感じる、その直観によって確かめられるんです。与えらたものを飲み下したり、「これしかない」としがみついたとたんに、ぼくたちは(考える)自由を失ってしまうんですね。そこで止まってしまう。つまり、固まるんです。「これこそが正しい」と思いこむんだね。どこにでもある罠だし、それにひっかかる人は後をたたない。
 自分が信じているものさえも疑う。いや、信じているものほどはげしく疑うことができるんです。「それ(疑う権利)を手放してしまったら、人間はそこからつぶれていく」というのは、「育てる」「育つ」ことをやめてしまうという意味です。自問自答を中断してしまうことです。与えられたものを安易に受け入れることで、その先を考えようとしなくなる。「自問」を止めてしまうと、後に何が残されるのでしょうか。

 「本当にためになるものというのは、自分自身を見つめることからのみ得られる」という、カナダのピアニストの言葉をもう一度思い出してください。自分で「気づく」ということは、ホントに大事ですね。自覚症状がなければ、どんな名医であって、診断することはできません。「オーケー、満足かい」「イエス、満足です」といわれれば、それで終わり。「自立」するのと、「他者のい介在をを拒絶」するのは、表向きは似ているようですね。でも内容は比べられないほどに違います。(右はグレン・グールド)

 「メノン」の続きは、実際に手に取って読まれますように。そこに述べられている「知識」論や「道徳」論は、実に古いものです。古いものですが、その古さは、少しも色あせないで「新鮮」です。

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 「出会い」の深浅が教職のいのちだと思う

【談話室】▼▽山形市出身の教育者無着成恭(むちゃくせいきょう)さんの青春は戦争のただ中にあった。山形中学時代は群馬県の軍需工場に動員された。師範学校に入ってからは庄内に赴き、燃料油の原料となる松の根を掘った。終戦の日も庄内で迎えた。▼▽戦後、価値観は百八十度変わる。それまで18年、軍国教育を叩(たた)き込まれていた無着さんは気付いた。「自分の生き方は自分で考える時代になった。その力を子どもにつけてやるのが教育だ」。赴任先の山元中(上山市)で実践した成果は学級文集「山びこ学校」に結実した。▼▽俳優渡辺えりさんの父正治(まさじ)さんも教師として同じ時代を生き、山形市で95年の生涯を閉じた。会葬者に手渡した「お礼の言葉」でえりさんが綴(つづ)っていた。父は東京の軍需工場で働き、九死に一生を得る。終戦後は教育の大切さに思い至り働きながら山形大に入り先生となる。▼▽教え子たちを愛した分、慕われもした。「尊敬する人」として1位シュバイツァー、2位は渡辺先生と挙げられたほどだった。「格差や差別のない平和な世の中を希求していた」とえりさん。戦中戦後を生き抜いた人々の軌跡は、未来への道標ともなる。忘れてはなるまい。(山形新聞・2022/05/22)

 「本題に入る」前にといいいたいところですが、そもそも「本題」が、これまで書き散らされてきた駄文にはないものですから、何をどこから、どこまで駄弁っても構わないという勝手な方針を立ててやってきました。入り口もなければ出口もない、やめがかろうじてかぶさっているの孕みたいな、殺法請けいな場面ですね。各地の新聞コラムに毎日目を通し、ああでもないこうでもないといいながら、好き放題に読み飛ばしている。記者の方々には相済まないと、反省やら感謝やらを感じつつ、それにしてもわずか五、六百字ほどの文章に、苦心惨憺の跡が見えると、ぼくはそれだけで感じ入ってしまいます。

 山形新聞のコラム「談話室」、このタイトルがいいですね。談話とか談話室という雰囲気が、なんだか余裕を与えてくれそうで、気分までゆったりしてくる気がするのです。ラウンジとかチャット、あるいはトークなどと、いかにも気軽に話し合えるというその雰囲気が好ましい印象を与えてくれます。さて、その「談話」の内容ですが、教師あるいは教育者の思い出の寄ってくるところ、か。ある異国の思想家は「教室」は meeting place といいました。言いえて妙だと、ぼくは感心しました。教室は話し合いの場、異なる意見同士がそれを持ち寄って、さらによりよいものにしていくば、それが談話室ですね。この島社会の学校、あるいは教室が、実際に「談話室」だったら、さぞかし楽しみももっとあったでしょうね。ミルクはいかがですか、と先生が伺いを立てる。ブラックにしてくださいと、子どもたち。でも現実には「教室」は「教えるところ」「教えられるところ」、ミルクどころじゃないんだね。

 この駄文録では、これまでに何度も無着成恭氏については触れてきました。戦後の学校教育の中でも忘れられない教師の一人だったことは間違いありません。その仕事の内容や評価に関してはさまざまな意見があります。ぼく個人は、大いに評価するものです。だからと言って、そのすべてが「ブラボー」だというのではない。俗に「毀誉褒貶」ということを言います。つまりは「ほめたりけなしたりすること」を指し、まさしく口さがない「世間の評判」を言うのでしょう。師範学校を出て、生まれた村の隣の中学校の教師になります。戦後の新制中学校の「社会科」教師でした。「山びこ学校」は、その中学校三年間の教師と生徒の「格闘」「共同」のあかしとして記録されたものでした。その場q限りの真剣勝負で、再び同じことはできない相談でしたね。出版当時、村や家庭の「恥部を晒した」と散々の非難が浴びせられた。しかし、地元以外ではびっくりするような高い評価を得たのでした。子どもの「詩」が文部大臣賞を受賞するというおまけもついて、「やまびこ」は全国各地に響き渡りました。その後の無着さんは、あるいは別の人生を歩かれたともいえます。それに関してはここでは述べません。(教育・授業は一瞬で終わる。後に何が残されるか、誰にも分らない、そんな玄妙な付き合いが教育なんですね。一瞬の邂逅こそが、求められる仕事なんですね)

 教師の仕事(その中核は授業です)をどのように見るか、その見方は簡単なことではありません。いや想像以上に困難な事柄に類します。これは特に教師に限りませんが、すべての人に評価されるということはあり得ない。たった一人の子どもの中に、その後の人生にかかわる「大事」を刻したなら、それだけでも優れた仕事だともいえます。教師の仕事は授業だけではありませんが、少なくともその授業の中で子どもたちに何事かが生じたなら、それはそれで、仕事を成しえた人間(教師)の冥利ともいえることなのでしょう。成績が上がる、受験に成功するというのも、教師の助力があったからこそともいえますが、そんなところに「仕事の核心」があるとは思えないのです。

 教師の仕事にかかわって、もっとも重要なものとなった言葉は、「出会い(encounter・begegnen・rencontrer)」というものだと、ぼくは思ってきました。いろいろな「出会い」がありますが、教師にとっても子どもにとっても「一期一会」というものなのかもしれない、そう考えると、仇やおろそかには教師はできないと、ぼくは腰砕けになったのでした。「一生に一度だけの機会。生涯に一度限りであること。生涯に一回しかないと考えて、そのことに専念する意。もと茶道の心得を表した語で、どの茶会でも一生に一度のものと心得て、主客ともに誠意を尽くすべきことをいう」(デジタル大辞泉)ということになるのでしょうか。何かを教えるなどということなどではなく、もっといわく言い難い「出会い」や「交流」がそこに生まれる。時には、ほんの一瞬の出会いであったかもしれないのに、それが生涯の方向を決める縁(よすが)になるということもあるのです。

 「出会い」というのは、出会い頭という語もあるように、思いがけずぶつかり合う、予期しないで、行き合うということでしょう。他人が万端準備をしていない限り、ほとんどの「出会い」は文字通りに「エンカウンター(encounter)」です。「〈思わぬ相手と〉遭遇する 〈人と〉(偶然)出くわす」(デジタル大辞泉)が原義です。入学して同じクラスになり、そこで初めて付き合いが始まるという具合です。友人だった人が、保育園に入ったときに一緒になった女の子と結婚した。以来七十数年を経て、いまだに仲良く共同生活をしている。こんなことがあるのです。付き合いの長さが尊いというのではなく、「出会い」「付き合い」の質の問題なんですね。

 ぼくにも若干の経験がありますが、どんな教師が担任になるのか、なんどか担任との「出会い」の記憶が残されているのです。その学校の、その時期に行かなければまず「出会わない」、そんな人々との「出会い」があるのです。無着さんの最初の印象は、実に強烈であったと多くの元生徒たちが証言しています。もちろん、生涯を左右されるような「出会い」だった人も少なくなかったし、その反対もいたことは事実です。(この間の事情については、佐野眞一著「遠い『山びこ』」(新潮文庫)に詳しく描かれています)

 どのような「出会い方」をするか、当事者を含めて、だれにもわかりません。教職の怖さと凄さはここにあるともいえます。面倒は避けますが、教師は「何かを教える・伝える」、しかし、それ以上のものが「教えられる・伝えられる」のです。教師は当たり前のこと(知識)を与えたかもしれないが、子どもの側は、それを教師の想像も及ばない深さで受け入れるということはいくらもあるでしょう。もちろん、その反対も数限りありません。「教師の一言が、自分を救ってくれた」と、卒業後何年も経って、殺人事件を犯した青年が獄中で述懐しています。

 これはどこかで触れていますが、「遺愛集」を残した(書いた)死刑囚の島秋人さんの言です。担当教師は、そのことをすっかり忘れていたが、ある時突然、当人から「手紙」が届いて、島さんの境涯を知ることになる。学校にはほとんど行けず、知能に遅滞を見せていた島さんでしたが、絵の時間に「君の構図だけはいいぞ」と教師から言われた、その思いを監獄に入ってしみじみと想起するのです。ありきたりの(当たり前に考えられている)出会いや付き合いではない、常軌を逸したともいえそうな「出会い」が果たされる、その可能性をはらんでいるのが「教職」ではないでしょうか。

 渡辺えりさんの父君について、ぼくは知るところはありません。しかし、その教職における仕事ぶりは、「山びこ学校」と比較できない、唯一性・独自性を持っていたのでしょう。このような父上につながる渡辺さんを羨ましくも思うのです。「格差や差別のない平和な世の中を希求していた」と父のことを語る娘。この願い(希求)が実現したかどうかではなく、そのような姿勢・態度(思想)を持ち続けたというところに敬意を表したい。その志(こころざし)を壮としたい、というところでしょう。もちろん、すべての教師はそれぞれに、自らの思いを持ちづけているだろうし、持って教職に就いたのでしょう。しかし、さまざまな「制約」「悪条件」がそれを許さないのも、現実だというべきです。近年、教職を志望する人が減少しているのは、世の中の何を示しているのか。教職の魅力が失せた理由はどこにあるのか。それは政治の問題であり、経済の問題でもありますが、人と人が「出会う」ということの意味合いが著しく阻害されていることも無縁ではないように、ぼくは考えています。

 ぼくは教師失格でしたから、教師や教職についていささかたりともものは言えないのです。しかし、教職に限定しないで、「出会い」「交流」ということを考えるなら、そこには未知との遭遇が満載されていると、ぼく自身の経験から学びました。「この子はこの程度」という見くびった評価は死んでも下せないし、「この人間はダメだ」と、いかなる行状を見たとしても、「それを言っちゃあ、おしまいよ!」と、ぼくは寅さんになります。「足したり引いたりする」部分だけを重んじる、あるいは無知を謗るだけの教育は、おそらく「教育」ではないのでしょう。「そんなものは、消えてなくなれー」という地点から、おそらく何事かが始まる。それをぼくは「教育だ」といってきたように思います。

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 その場かぎりの熱心さ、そんなものは嘘だ

 〔これもまた、一つの教師論〕たいていの先生は、熱心にわかりやすく教えれば子供たちも授業に熱中するはずだとおもって、悩んだりしている。でも、そうはおもわない。

 先生がうまい口調で教えていると、その場はいかにもわかったように見えるし、はたからもすごくいい授業のように見えるかもしれない。でも、それは嘘だとおもう。上手に教えて子供も熱心に聞いているように見えるのは、先生の側も生徒の側もうまく上辺をとりつくろっているその場のことだ。その場かぎりの熱心さにすぎない。そんな授業が効果を上げたとしても、まあ、いい高校へ行くのがせいぜいで、こころの底から生徒が「いい教師だ」と感じることはないはずだ。

 熱心な先生、そしてそれを熱心に聞く生徒、というのはいつも「見せかけ」だけだ。(吉本隆明「『遊び』が生活のすべてである」『家族のゆくえ』所収。光文社、2006年)(ヘッダー写真:『林竹二の授業 ビーバー』 グループ現代資料)

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● 吉本隆明【よしもとたかあき】(1924-2012)=詩人,評論家。東京生れ。東京工業大学卒。1952年詩集《固有時との対話》を私家版で刊行。以後,詩集《転位のための十篇》,評論《高村光太郎》や《文学者の戦争責任》(共著)などで既成左翼を超える文学・政治思想を確立する。1960年安保闘争への関与(その発言は《擬制の終焉》(1962年)など収録)以降,その思想は1960年代末の全共闘運動など左翼学生・労働者闘争に広汎な影響を与えている。また1961年同人誌《試行》を創刊(11号以降単独編集),言語を〈表現〉とみる言語論を導入した《言語にとって美とは何か》(1965年),国家の共同性の問題を扱った《共同幻想論》(1968年),《心的現象論序説》(1971年)など数々の評論を発表。古典文学論に《源実朝》《初期歌謡論》,宗教論に《最後の親鸞》などがある。他に《〈反核〉異論》《マス・イメージ論》など,多数の著作があり,著作集がある。(マイペディア)

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 後期高齢者になってから、もう何年も経過しましたから、そのせいかもしれません。「去る者日々に疎し」という言い伝えが、やたらに身に応えるというか、身に染みてきます。吉本さんが亡くなられて、十年も経ったのだ。いまさらののように「もうそんなに経ったのか」「早いものだなあ」と実感している。「徒然草(三十段)」に、「年月ても、つゆ忘るるにはあらねど、『去る者は日々にし』と言へる事なれば、然(さ)は言へど、その際(きは)ばかりは覚えぬにや、由無し事言ひて、打ちも笑ひぬ。(から)は(け)疎(うと)き山の中に納めて、然るべき日ばかり、詣(もう)でつつ見れば、程無く、卒都婆生(む)し、木の葉、降り(うづ)みて、べの、夜の月のみぞ、こととふ縁(よすが)なりける」(第三十段)

 「亡くなった直後は悲しくはあるが、日々それもなくなってくる」と、後に残されたものの「薄情」をいさめるような書きぶりではありますが、親兄弟の死に際してもそうなのだから、ましていくら親しくあっても、縁者でもない限りは、日々気持ちも薄れてくるのは、決して薄情ばかりではなく、それは「人情の機微」というものかもしれません。「この世の無常」の深さをいささかでも思わないではいられません。さすれば、今生の「毀誉褒貶」など、何ほどのことがあろうかという気にもなります。

 ぼくは吉本さんとはいささかのかかわりもありません。単なる読者として、彼の書いたものから、なにがしかの教えを受けたといえばいえる、その程度のことではありますが、それにしても「光陰矢の如し」ともいうように、死者は、脱兎のごとくにこの世を去ってどこに行ってしまうのだろうと、情けないことを愚考するばかりです。その吉本さんの「教師論」「教育論」に類するもので、このことについては、どこかでも触れていますが、やはり「刺激的」というか、べったりとした、馴れ馴れしい「(子どもと教師の)仲良し教職論」は唾棄すべきものという雰囲気が、ここにも濃厚に表明されています。

 「上手に教えて子供も熱心に聞いているように見えるのは、先生の側も生徒の側もうまく上辺をとりつくろっているその場のことだ」というのは、彼の実感であり、実体験からの言ではないでしょうか。ものを教えるというのも、ものを学ぶというのも、もっと「野性的」というか、いかにも上品で、取り澄ました雰囲気などからは、まず生まれないというのです。確かにそうだと、ぼくも経験から実感してきました。覚えて、試験に間に合うような「勉強」「学習」なら、それでもいいでしょうが、実際には、そんなものは何でもないというところに吉本流が活写されているのではありませんか。

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日日し=《「古詩十九首」其一四の「去る(ひび)に以て疎く、来たる者は(ひび)に以て親しむ」から》死んだ者は、月日がたつにつれて忘れられていく。転じて、親しかった者も、遠く離れてしまうと、しだいに親しみが薄くなる。(デジタル大辞泉)

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 学童期(およそ12、3歳頃まで)というのは夢中で遊ぶ時期です。遊びが生活のすべてだというのはそのとおりで、これは経験しないとわからないことです。早い段階から「遊びと勉強」のけじめつさけさせられたものには理解できないかもしれませんが、子どもの生活は遊びだというのです。だから、そのような子どもに、日々長時間接する教師があまりまじめならば、かならずそこにすれちがいというか、いきちがいが生じるにきまっているんです。だから、吉本さんはつぎのようにいうのでしょう。

 「この時期の子供たちの遊びは全身的なものだ。先生も全身でぶつかって授業をしようと考えるのは勘違いだとおもう。先生のほうは年齢をとっているわけだから、自分は遊ぶ代わりに好きな勉強でもして、その合間にちょっといっしょに遊んだり教えたり、というぐらいの気分でいればちょうどいいに決まっている。そういう接し方が、生活全体が遊びだという時期にふさわしいやり方だとおもう。そうでなければつくりものだ。タテマエだけの嘘になってしまう。…この時期に仮面のかぶり方などを教えられた生徒は生涯を台なしにするに決まっている」(同上)

 でも、なかなかそうはいかないようです。学校というところは教師を自然体にさせてはくれないのです。子どもからも親からも、さらには同僚からも上司からも「いい先生」にみられたい。みせたいと思わせる雰囲気が濃厚にあるからです。自分を正直につかんでおれば、たいていの教師は「いい教師」面でいることには我慢できないのですが。

 まるで八方美人のようなふるまいをして自分を追いこむから、どこかに無理がくるのでしょう。さらにそのような教師たちに対して、かさにかかって「指導力不足」教員追放の狼煙をあげているのが教育委員会をはじめとする行政の姿勢です。自分たちのことはうんと高い棚にあげておいて、教師いじめをしているのですから、いい教育・授業ができるきづかいはないといいたいですね。ここまでくると、学校とはなんのためで、だれのためにあるのかと大きな疑問・不信感をぶつけたくなります。

 まるで、それは政治や経済、あるいは行政のために存在しているのであって、子どもたちのためになっていないということだけは断言できるのではないですか。もうそん「新学年」も五月半ばを過ぎました。新卒の教師の方々も、一息つきたい時期でしょうか。普段には見られない「コロナ禍」はまだ続いていますから、なおさら、気が張る事ばかりでしょうが、深呼吸くらいはゆっくりとできる、そんな姿勢を持ち続けたいですね。今日日(きょうび)、教師になろうかという若い人々が極めて限られてきました。その理由はどこにあるのか。子どもは言うまでもなく、教師だって、取り繕う必要のない、普段着のままの「自分」を隠さないで、子どもや教師仲間と交わってほしいですね。

 「熱心な先生、そしてそれを熱心に聞く生徒、というのはいつも『見せかけ』だけだ」という隆明さんの直言は、図星をついているんじゃないですか。「熱心」を装うことはむなしいことさ、といういい加減さ、ゆるさも必要じゃないですか。隆明さんが学生のころの経験を語って、「教師は何も教えなかった、だから私は学んだ」という率直な言がありました。「教師は教えた、だから…」と続きます。

 いろいろな角度から、学校とはなんだろう(?)と、これからも問いかけてみたいですね。

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