「出会い」の深浅が教職のいのちだと思う

【談話室】▼▽山形市出身の教育者無着成恭(むちゃくせいきょう)さんの青春は戦争のただ中にあった。山形中学時代は群馬県の軍需工場に動員された。師範学校に入ってからは庄内に赴き、燃料油の原料となる松の根を掘った。終戦の日も庄内で迎えた。▼▽戦後、価値観は百八十度変わる。それまで18年、軍国教育を叩(たた)き込まれていた無着さんは気付いた。「自分の生き方は自分で考える時代になった。その力を子どもにつけてやるのが教育だ」。赴任先の山元中(上山市)で実践した成果は学級文集「山びこ学校」に結実した。▼▽俳優渡辺えりさんの父正治(まさじ)さんも教師として同じ時代を生き、山形市で95年の生涯を閉じた。会葬者に手渡した「お礼の言葉」でえりさんが綴(つづ)っていた。父は東京の軍需工場で働き、九死に一生を得る。終戦後は教育の大切さに思い至り働きながら山形大に入り先生となる。▼▽教え子たちを愛した分、慕われもした。「尊敬する人」として1位シュバイツァー、2位は渡辺先生と挙げられたほどだった。「格差や差別のない平和な世の中を希求していた」とえりさん。戦中戦後を生き抜いた人々の軌跡は、未来への道標ともなる。忘れてはなるまい。(山形新聞・2022/05/22)

 「本題に入る」前にといいいたいところですが、そもそも「本題」が、これまで書き散らされてきた駄文にはないものですから、何をどこから、どこまで駄弁っても構わないという勝手な方針を立ててやってきました。入り口もなければ出口もない、やめがかろうじてかぶさっているの孕みたいな、殺法請けいな場面ですね。各地の新聞コラムに毎日目を通し、ああでもないこうでもないといいながら、好き放題に読み飛ばしている。記者の方々には相済まないと、反省やら感謝やらを感じつつ、それにしてもわずか五、六百字ほどの文章に、苦心惨憺の跡が見えると、ぼくはそれだけで感じ入ってしまいます。

 山形新聞のコラム「談話室」、このタイトルがいいですね。談話とか談話室という雰囲気が、なんだか余裕を与えてくれそうで、気分までゆったりしてくる気がするのです。ラウンジとかチャット、あるいはトークなどと、いかにも気軽に話し合えるというその雰囲気が好ましい印象を与えてくれます。さて、その「談話」の内容ですが、教師あるいは教育者の思い出の寄ってくるところ、か。ある異国の思想家は「教室」は meeting place といいました。言いえて妙だと、ぼくは感心しました。教室は話し合いの場、異なる意見同士がそれを持ち寄って、さらによりよいものにしていくば、それが談話室ですね。この島社会の学校、あるいは教室が、実際に「談話室」だったら、さぞかし楽しみももっとあったでしょうね。ミルクはいかがですか、と先生が伺いを立てる。ブラックにしてくださいと、子どもたち。でも現実には「教室」は「教えるところ」「教えられるところ」、ミルクどころじゃないんだね。

 この駄文録では、これまでに何度も無着成恭氏については触れてきました。戦後の学校教育の中でも忘れられない教師の一人だったことは間違いありません。その仕事の内容や評価に関してはさまざまな意見があります。ぼく個人は、大いに評価するものです。だからと言って、そのすべてが「ブラボー」だというのではない。俗に「毀誉褒貶」ということを言います。つまりは「ほめたりけなしたりすること」を指し、まさしく口さがない「世間の評判」を言うのでしょう。師範学校を出て、生まれた村の隣の中学校の教師になります。戦後の新制中学校の「社会科」教師でした。「山びこ学校」は、その中学校三年間の教師と生徒の「格闘」「共同」のあかしとして記録されたものでした。その場q限りの真剣勝負で、再び同じことはできない相談でしたね。出版当時、村や家庭の「恥部を晒した」と散々の非難が浴びせられた。しかし、地元以外ではびっくりするような高い評価を得たのでした。子どもの「詩」が文部大臣賞を受賞するというおまけもついて、「やまびこ」は全国各地に響き渡りました。その後の無着さんは、あるいは別の人生を歩かれたともいえます。それに関してはここでは述べません。(教育・授業は一瞬で終わる。後に何が残されるか、誰にも分らない、そんな玄妙な付き合いが教育なんですね。一瞬の邂逅こそが、求められる仕事なんですね)

 教師の仕事(その中核は授業です)をどのように見るか、その見方は簡単なことではありません。いや想像以上に困難な事柄に類します。これは特に教師に限りませんが、すべての人に評価されるということはあり得ない。たった一人の子どもの中に、その後の人生にかかわる「大事」を刻したなら、それだけでも優れた仕事だともいえます。教師の仕事は授業だけではありませんが、少なくともその授業の中で子どもたちに何事かが生じたなら、それはそれで、仕事を成しえた人間(教師)の冥利ともいえることなのでしょう。成績が上がる、受験に成功するというのも、教師の助力があったからこそともいえますが、そんなところに「仕事の核心」があるとは思えないのです。

 教師の仕事にかかわって、もっとも重要なものとなった言葉は、「出会い(encounter・begegnen・rencontrer)」というものだと、ぼくは思ってきました。いろいろな「出会い」がありますが、教師にとっても子どもにとっても「一期一会」というものなのかもしれない、そう考えると、仇やおろそかには教師はできないと、ぼくは腰砕けになったのでした。「一生に一度だけの機会。生涯に一度限りであること。生涯に一回しかないと考えて、そのことに専念する意。もと茶道の心得を表した語で、どの茶会でも一生に一度のものと心得て、主客ともに誠意を尽くすべきことをいう」(デジタル大辞泉)ということになるのでしょうか。何かを教えるなどということなどではなく、もっといわく言い難い「出会い」や「交流」がそこに生まれる。時には、ほんの一瞬の出会いであったかもしれないのに、それが生涯の方向を決める縁(よすが)になるということもあるのです。

 「出会い」というのは、出会い頭という語もあるように、思いがけずぶつかり合う、予期しないで、行き合うということでしょう。他人が万端準備をしていない限り、ほとんどの「出会い」は文字通りに「エンカウンター(encounter)」です。「〈思わぬ相手と〉遭遇する 〈人と〉(偶然)出くわす」(デジタル大辞泉)が原義です。入学して同じクラスになり、そこで初めて付き合いが始まるという具合です。友人だった人が、保育園に入ったときに一緒になった女の子と結婚した。以来七十数年を経て、いまだに仲良く共同生活をしている。こんなことがあるのです。付き合いの長さが尊いというのではなく、「出会い」「付き合い」の質の問題なんですね。

 ぼくにも若干の経験がありますが、どんな教師が担任になるのか、なんどか担任との「出会い」の記憶が残されているのです。その学校の、その時期に行かなければまず「出会わない」、そんな人々との「出会い」があるのです。無着さんの最初の印象は、実に強烈であったと多くの元生徒たちが証言しています。もちろん、生涯を左右されるような「出会い」だった人も少なくなかったし、その反対もいたことは事実です。(この間の事情については、佐野眞一著「遠い『山びこ』」(新潮文庫)に詳しく描かれています)

 どのような「出会い方」をするか、当事者を含めて、だれにもわかりません。教職の怖さと凄さはここにあるともいえます。面倒は避けますが、教師は「何かを教える・伝える」、しかし、それ以上のものが「教えられる・伝えられる」のです。教師は当たり前のこと(知識)を与えたかもしれないが、子どもの側は、それを教師の想像も及ばない深さで受け入れるということはいくらもあるでしょう。もちろん、その反対も数限りありません。「教師の一言が、自分を救ってくれた」と、卒業後何年も経って、殺人事件を犯した青年が獄中で述懐しています。

 これはどこかで触れていますが、「遺愛集」を残した(書いた)死刑囚の島秋人さんの言です。担当教師は、そのことをすっかり忘れていたが、ある時突然、当人から「手紙」が届いて、島さんの境涯を知ることになる。学校にはほとんど行けず、知能に遅滞を見せていた島さんでしたが、絵の時間に「君の構図だけはいいぞ」と教師から言われた、その思いを監獄に入ってしみじみと想起するのです。ありきたりの(当たり前に考えられている)出会いや付き合いではない、常軌を逸したともいえそうな「出会い」が果たされる、その可能性をはらんでいるのが「教職」ではないでしょうか。

 渡辺えりさんの父君について、ぼくは知るところはありません。しかし、その教職における仕事ぶりは、「山びこ学校」と比較できない、唯一性・独自性を持っていたのでしょう。このような父上につながる渡辺さんを羨ましくも思うのです。「格差や差別のない平和な世の中を希求していた」と父のことを語る娘。この願い(希求)が実現したかどうかではなく、そのような姿勢・態度(思想)を持ち続けたというところに敬意を表したい。その志(こころざし)を壮としたい、というところでしょう。もちろん、すべての教師はそれぞれに、自らの思いを持ちづけているだろうし、持って教職に就いたのでしょう。しかし、さまざまな「制約」「悪条件」がそれを許さないのも、現実だというべきです。近年、教職を志望する人が減少しているのは、世の中の何を示しているのか。教職の魅力が失せた理由はどこにあるのか。それは政治の問題であり、経済の問題でもありますが、人と人が「出会う」ということの意味合いが著しく阻害されていることも無縁ではないように、ぼくは考えています。

 ぼくは教師失格でしたから、教師や教職についていささかたりともものは言えないのです。しかし、教職に限定しないで、「出会い」「交流」ということを考えるなら、そこには未知との遭遇が満載されていると、ぼく自身の経験から学びました。「この子はこの程度」という見くびった評価は死んでも下せないし、「この人間はダメだ」と、いかなる行状を見たとしても、「それを言っちゃあ、おしまいよ!」と、ぼくは寅さんになります。「足したり引いたりする」部分だけを重んじる、あるいは無知を謗るだけの教育は、おそらく「教育」ではないのでしょう。「そんなものは、消えてなくなれー」という地点から、おそらく何事かが始まる。それをぼくは「教育だ」といってきたように思います。

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 その場かぎりの熱心さ、そんなものは嘘だ

 〔これもまた、一つの教師論〕たいていの先生は、熱心にわかりやすく教えれば子供たちも授業に熱中するはずだとおもって、悩んだりしている。でも、そうはおもわない。

 先生がうまい口調で教えていると、その場はいかにもわかったように見えるし、はたからもすごくいい授業のように見えるかもしれない。でも、それは嘘だとおもう。上手に教えて子供も熱心に聞いているように見えるのは、先生の側も生徒の側もうまく上辺をとりつくろっているその場のことだ。その場かぎりの熱心さにすぎない。そんな授業が効果を上げたとしても、まあ、いい高校へ行くのがせいぜいで、こころの底から生徒が「いい教師だ」と感じることはないはずだ。

 熱心な先生、そしてそれを熱心に聞く生徒、というのはいつも「見せかけ」だけだ。(吉本隆明「『遊び』が生活のすべてである」『家族のゆくえ』所収。光文社、2006年)(ヘッダー写真:『林竹二の授業 ビーバー』 グループ現代資料)

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● 吉本隆明【よしもとたかあき】(1924-2012)=詩人,評論家。東京生れ。東京工業大学卒。1952年詩集《固有時との対話》を私家版で刊行。以後,詩集《転位のための十篇》,評論《高村光太郎》や《文学者の戦争責任》(共著)などで既成左翼を超える文学・政治思想を確立する。1960年安保闘争への関与(その発言は《擬制の終焉》(1962年)など収録)以降,その思想は1960年代末の全共闘運動など左翼学生・労働者闘争に広汎な影響を与えている。また1961年同人誌《試行》を創刊(11号以降単独編集),言語を〈表現〉とみる言語論を導入した《言語にとって美とは何か》(1965年),国家の共同性の問題を扱った《共同幻想論》(1968年),《心的現象論序説》(1971年)など数々の評論を発表。古典文学論に《源実朝》《初期歌謡論》,宗教論に《最後の親鸞》などがある。他に《〈反核〉異論》《マス・イメージ論》など,多数の著作があり,著作集がある。(マイペディア)

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 後期高齢者になってから、もう何年も経過しましたから、そのせいかもしれません。「去る者日々に疎し」という言い伝えが、やたらに身に応えるというか、身に染みてきます。吉本さんが亡くなられて、十年も経ったのだ。いまさらののように「もうそんなに経ったのか」「早いものだなあ」と実感している。「徒然草(三十段)」に、「年月ても、つゆ忘るるにはあらねど、『去る者は日々にし』と言へる事なれば、然(さ)は言へど、その際(きは)ばかりは覚えぬにや、由無し事言ひて、打ちも笑ひぬ。(から)は(け)疎(うと)き山の中に納めて、然るべき日ばかり、詣(もう)でつつ見れば、程無く、卒都婆生(む)し、木の葉、降り(うづ)みて、べの、夜の月のみぞ、こととふ縁(よすが)なりける」(第三十段)

 「亡くなった直後は悲しくはあるが、日々それもなくなってくる」と、後に残されたものの「薄情」をいさめるような書きぶりではありますが、親兄弟の死に際してもそうなのだから、ましていくら親しくあっても、縁者でもない限りは、日々気持ちも薄れてくるのは、決して薄情ばかりではなく、それは「人情の機微」というものかもしれません。「この世の無常」の深さをいささかでも思わないではいられません。さすれば、今生の「毀誉褒貶」など、何ほどのことがあろうかという気にもなります。

 ぼくは吉本さんとはいささかのかかわりもありません。単なる読者として、彼の書いたものから、なにがしかの教えを受けたといえばいえる、その程度のことではありますが、それにしても「光陰矢の如し」ともいうように、死者は、脱兎のごとくにこの世を去ってどこに行ってしまうのだろうと、情けないことを愚考するばかりです。その吉本さんの「教師論」「教育論」に類するもので、このことについては、どこかでも触れていますが、やはり「刺激的」というか、べったりとした、馴れ馴れしい「(子どもと教師の)仲良し教職論」は唾棄すべきものという雰囲気が、ここにも濃厚に表明されています。

 「上手に教えて子供も熱心に聞いているように見えるのは、先生の側も生徒の側もうまく上辺をとりつくろっているその場のことだ」というのは、彼の実感であり、実体験からの言ではないでしょうか。ものを教えるというのも、ものを学ぶというのも、もっと「野性的」というか、いかにも上品で、取り澄ました雰囲気などからは、まず生まれないというのです。確かにそうだと、ぼくも経験から実感してきました。覚えて、試験に間に合うような「勉強」「学習」なら、それでもいいでしょうが、実際には、そんなものは何でもないというところに吉本流が活写されているのではありませんか。

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日日し=《「古詩十九首」其一四の「去る(ひび)に以て疎く、来たる者は(ひび)に以て親しむ」から》死んだ者は、月日がたつにつれて忘れられていく。転じて、親しかった者も、遠く離れてしまうと、しだいに親しみが薄くなる。(デジタル大辞泉)

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 学童期(およそ12、3歳頃まで)というのは夢中で遊ぶ時期です。遊びが生活のすべてだというのはそのとおりで、これは経験しないとわからないことです。早い段階から「遊びと勉強」のけじめつさけさせられたものには理解できないかもしれませんが、子どもの生活は遊びだというのです。だから、そのような子どもに、日々長時間接する教師があまりまじめならば、かならずそこにすれちがいというか、いきちがいが生じるにきまっているんです。だから、吉本さんはつぎのようにいうのでしょう。

 「この時期の子供たちの遊びは全身的なものだ。先生も全身でぶつかって授業をしようと考えるのは勘違いだとおもう。先生のほうは年齢をとっているわけだから、自分は遊ぶ代わりに好きな勉強でもして、その合間にちょっといっしょに遊んだり教えたり、というぐらいの気分でいればちょうどいいに決まっている。そういう接し方が、生活全体が遊びだという時期にふさわしいやり方だとおもう。そうでなければつくりものだ。タテマエだけの嘘になってしまう。…この時期に仮面のかぶり方などを教えられた生徒は生涯を台なしにするに決まっている」(同上)

 でも、なかなかそうはいかないようです。学校というところは教師を自然体にさせてはくれないのです。子どもからも親からも、さらには同僚からも上司からも「いい先生」にみられたい。みせたいと思わせる雰囲気が濃厚にあるからです。自分を正直につかんでおれば、たいていの教師は「いい教師」面でいることには我慢できないのですが。

 まるで八方美人のようなふるまいをして自分を追いこむから、どこかに無理がくるのでしょう。さらにそのような教師たちに対して、かさにかかって「指導力不足」教員追放の狼煙をあげているのが教育委員会をはじめとする行政の姿勢です。自分たちのことはうんと高い棚にあげておいて、教師いじめをしているのですから、いい教育・授業ができるきづかいはないといいたいですね。ここまでくると、学校とはなんのためで、だれのためにあるのかと大きな疑問・不信感をぶつけたくなります。

 まるで、それは政治や経済、あるいは行政のために存在しているのであって、子どもたちのためになっていないということだけは断言できるのではないですか。もうそん「新学年」も五月半ばを過ぎました。新卒の教師の方々も、一息つきたい時期でしょうか。普段には見られない「コロナ禍」はまだ続いていますから、なおさら、気が張る事ばかりでしょうが、深呼吸くらいはゆっくりとできる、そんな姿勢を持ち続けたいですね。今日日(きょうび)、教師になろうかという若い人々が極めて限られてきました。その理由はどこにあるのか。子どもは言うまでもなく、教師だって、取り繕う必要のない、普段着のままの「自分」を隠さないで、子どもや教師仲間と交わってほしいですね。

 「熱心な先生、そしてそれを熱心に聞く生徒、というのはいつも『見せかけ』だけだ」という隆明さんの直言は、図星をついているんじゃないですか。「熱心」を装うことはむなしいことさ、といういい加減さ、ゆるさも必要じゃないですか。隆明さんが学生のころの経験を語って、「教師は何も教えなかった、だから私は学んだ」という率直な言がありました。「教師は教えた、だから…」と続きます。

 いろいろな角度から、学校とはなんだろう(?)と、これからも問いかけてみたいですね。

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 『戸塚さんのスクールに行かなかったから、今、ここにいるんです』

 一週間ほど前(五月六日)に、戸塚ヨットスクールと「暴行死事件(と裁判)」に触れて、「体罰教育論」を駄弁ってみました。判決を受けて「服役」てからでも、すでに十五年以上が経過しています。何をいまさらといわれそうですが、ぼくにとっては、彼の提起した事件と、それがもたらした結果は大きな課題となり続けてきた。だから、何度でも、この「体罰と教育」(「体罰教育」と「教育体罰」については。繰り返し立ち戻って考えなければならないと思っているのです。

 「教育は体罰だ」とか「体罰教育論」というと、いかにも乱暴に思われ、暴力容認を連想・直観させる。実際にそうであるから、大きな問題となったし、いまでもなっているのです。戸塚氏によると「いい体罰」、あるいは「正しい体罰」というものがあるのだそうです。本当にそうかどうか、ぼくには大いに疑問です。思い余って、仕方なく加える「体罰」ということはあるのでしょうが、それが「教育である」ということは、かなかなか認められないと、ぼくは考えている。ここで持ち出すのは適切かどうか、ぼくには疑わしいのですが、誤解を恐れずにあえて出すなら、森鴎外の「高瀬舟」の場面です。自殺したが、死にきれなかった弟の頼みで、止めを刺した兄は、「自分がしたことを知って」「知足していた」というのが主題となっていました。「悪いとはわかっていたが、見かねて殺した。罪に服す」という態度でした。戸塚さんの「体罰」には、このような「知足」があったかどうか。あったとしても、世間はそれを認めなかったのだといえます。

 (この「安楽死」「自殺幇助」)については、すでにどこかで触れています)(註「たかせぶね【高瀬舟】[書名]森鴎外の小説。大正5年(1916)発表。弟殺しの罪により、高瀬舟島流しになる喜助の、知足境地安楽死の問題を描く」デジタル大辞泉)

 家庭内で暴力を振り、命の危険を感じつつ、最後の手段として「体罰」以外に手はないという場合、あるいは「正当防衛」ということがかかわってくるのではないかとも愚考している。戸塚ヨットスクールの提示した問題のおおよそは、そこにあったのではないでしょうか。

〔戸塚宏さんへのインタビュー〕
ホリエモン 山より海においでよ…戸塚宏校長本紙単独インタビュー 
体罰で訓練生2人が死亡、2人が行方不明になった「戸塚ヨットスクール」事件で、傷害致死罪などで服役、先月29日に出所した同校の戸塚宏校長(65)が5日、スポーツ報知の単独インタビューに答えた。戸塚氏は「体罰は教育」と改めて独自の教育論を展開し、健在ぶりをアピール。一方で約3か月ぶりに保釈されたライブドア前社長・堀江貴文被告(33)について「社会のスケープゴートにされたのは私と一緒。親しみを感じる。うちの学校においで」と熱いエールを送った。
―4年にわたる刑務所生活はどうだった―
「人権を侵害された。暴力はなかったが、言葉の暴力というのか、精神的に痛めつけられた。行進させられる時も『腕を前方に90度振れ』と言ったと思ったら『110度にしろ』とかね」
―戸塚ヨットスクールとどちらが厳しい?
「ヨットスクールは教育機関ですよ。刑務所も矯正教育機関のはずなんですがね。どっちがなんて話にならない。役人のダメさ加減がよく分かった」
―中ではどんな生活を?
「午後7時から9時まで限定だけど、テレビが全チャンネル視聴できるから、世間の様子は知っていた。新聞もスポーツ紙はOK。社会面も読んでいましたよ(笑い)」
―同時期に保釈されたホリエモンも知っていた?
「知ってるよ。ライブドアだっけ。彼も私と同じようにスケープゴートにされているね。粉飾決算なんて誰でもやってるのに、一人で悪者にされて。親しみを感じるよ。彼が『山に行きたい』って? 海においでよ。一緒に楽しくやろうと言いたいね」
―堀江被告は塀の中で百科事典を読んでいたそうだが―
「僕は自分の教育論を完成させるため、仏教と儒教の本を読みあさった。原本で読みたいから、冊数制限があるのに辞書を持ち込んだりと大変だった」
―なるほど―
「何人もの囚人が『戸塚さんのスクールに行かなかったから、今、ここにいるんです』と話してましたよ(笑い)」
―体は鍛えていた?
「運動は平日に30分しかできなかった。だから食事制限して体重を10キロ落とし、必要な筋肉量を減らしてから、足の筋肉維持のためのストレッチをやった。また割りとかね」

 「体罰」以外に、その子を救う、子どもの暴力を阻止する方法が見当たらない(と、当事者に思われた)時、加えられた「体罰」は「養育」や「教育」にも等しい意味(効果)を持つのでしょうか。戸塚氏の言うような「正しい体罰」と聞かされれば、ぼくには直ちに「悪い教育」というものが連想されます。いつも言う如く、「体罰と教育」という二点間には、「手を出す教育」と「口で語る教育」の無数の混交・混在があるのでしょう。極度の「成績重視」は、もうすでに「体罰」の境域に入るとは言えないでしょうか。こんなことを言えば、顰蹙を買うのは目に見えていますが、何時だって、学校教育においても「悪い教育」が横行しているとぼくには考えられるし、それは「子どものためを思って」といいながら、実際は、教育の名を借りた「(物理的力によらない)体罰」そのもので、そんな見たくもない風景はいたるところで見られるのですから。

―スクールの現状は。
「訓練生が6人いる。私が出所後に入学の申し込みが急増し、数十件は来ている。子供たちに対処するカウンセラーなどに限界を感じ、親御さんが厳しい指導をする我々のやり方を求めているということかな」
―事件当時と指導方針は変えた?
「23年前に私が逮捕され、(いったん)保釈された後にスクールを再開して以降は体罰はしていない。やったら、また捕まるからさ。海を相手にした激しい訓練は続けているが、教育の効果が薄れたね。体罰を用いた指導なら1~3か月で卒業させられたけど、今のやり方では1年はかかる」
―やはり体罰は必要?
「『体罰は教育』という考えに変わりはない。スクールに来る生徒は、人間の本能が弱い子ばかり。本能を呼び起こすために体罰を用いるんだ。最近の子供が妙な事件を起こすのは本能が弱いからだ。小学生が突然、友人を殺したりもする。罪の意識もなく、してはいけないことを平気でしてしまう。本能を刺激するために時として痛い思いをさせないといけない」
―その「体罰」が問題視されてきたが―
「『正しい体罰』は質と量が大事で、バランスを間違えると、ただの暴力になる。あの事件では私は量の部分で間違っていた。そこは反省している」 
―最近の引きこもりやニート問題など、子供の気質も変わった?
「人間は成長する過程で、3歳ごろに母親から独立するため、13歳ごろには家庭の外に出るため、反抗期を迎える。ニートが生まれるのは反抗期がなかったからで、そこも本能の弱さと関係する。すさんだ世の中になった原因は何なのか。体罰を否定してきた日本の教育現場、そのイメージを作り上げたマスコミにも責任があると思う」
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◆ 戸塚 宏(とつか・ひろし)1940年9月6日、旧朝鮮・清津生まれ。65歳。第2次大戦後に帰国し、59年、名古屋大工学部に入学。65年から国際ヨットレースに参加。75年、太平洋単独横断レースに出場し、41日間でゴールする世界記録で優勝した。77年、ヨット訓練を通して情緒障害児の矯正、治療を目指す戸塚ヨットスクールを開設。83年、訓練中に生徒2人が死亡、2人が行方不明になった事件で傷害致死容疑などで逮捕され、02年、最高裁で懲役6年の実刑が確定。06年4月29日、刑期満了で静岡刑務所から出所した。著書に「私が直す!」などがある。(2006年05月06日06時07分  スポーツ報知)

 「体罰は教育だ」という信念で独自の「体罰教育」を実践をされていた戸塚さんが、スクールの訓練中に訓練生2名の死亡者と2名の行方不明者をだし、「傷害致死」の容疑で逮捕、裁判では懲役六年の判決が確定。静岡刑務所に収監されていました。引用したのは、刑期満了で出所された直後のインタビューです(2006年5月)。

「第11条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」(学校教育法)

 もちろん、「戸塚ヨットスクール」は、学校教育法に規定された「学校」ではありませんから、この「11条」は直接的には関係ありません。したがって、つけられた罪状は「傷害致死」であったのです。戸塚さんは「自分の教育実践を否定した裁判は認められない。教育行為における事故だったのだから、『業務上過失致死』なら納得する」といわれています。

 「体罰は教育だ」といえば、ひっくり返ったり、目をむいたりして驚く(ふりをする)教育学者や評論家がたくさんいます。たしかに体罰はしないほうがいいにきまっている。やさしく愛情をもって接して、それで「情緒不安定(障害)」をかかえた人の問題行動が治るのなら、です。万策尽きた、そのあかつきにヨットスクールに最後の望みを託した関係者の思いはどうであったか?

 「体罰がいいかわるいか」、そんな理屈をこえたところでヨットスクールでは、鍛え、鍛えられる者それぞれの「いのちをかけた闘い」が展開されていたことだけはたしかです。それは「事実」であったという意味です。「海を相手にした激しい訓練は続けているが、教育の効果が薄れたね。体罰を用いた指導なら1~3か月で卒業させられたけど、今のやり方では1年はかかる」(戸塚氏)

 映画化される段階で「事件」が明らかになり、裁判になったこともあって、公開は延期されたという事情がありました。この映画のもとになったのが上之郷利昭さんの「スパルタの海 甦る子供たち」でした。このドキュメントは、はじめは東京新聞に連載されていたと、ぼくは記憶しています。昭和五十年代初めでした。ぼくは衝撃を受けたし、連載を熱心に読み、単行本になった段階でも購入して再読三読した。当時、「手に負えない家庭内暴力(いまでいうDV)」が猛威を振るい、不幸を絵にかいたような、悲惨な事案が各地で生じていた時期でした。以来四十年、事態は変わったのかどうか、むしろ深く静かに潜航して、家庭と学校における教育問題は混迷を深め、その垂れ込める暗雲は湧き出すことを止めないように思われます。この時期には、ぼくもまた、いろいろな方面から「相談」を受けたり、問題を投げかけられたりしていました。もちろん、ぼくには「特効薬」のあろうはずがありませんでしたから、ひたすら、親や子どもと話し合うことしかできなかった。校内暴力も激しさを加えていたし、いわば、学校を戦場にした「教師・子ども・親」たちの「三つ巴の戦い」は熾烈を極めていたように記憶しています。

 そのような時代状況下で「私が直す」と手を挙げ、「手を出していた」のが戸塚さんたちだった。当時においても、「体罰」に関しては賛否こもごもだった。いろいろな事件や事故の連続した結果、今日では「体罰容認」は極めて少数派になりはしました。一面では当然ですが、しかし世論の「暴力否定」「体罰反対」の声が高くなったから、それだけ教育の場で体罰がなくなったかといえば、単純に、そうは言えないのは当然でもありました。しばしば「しつけ」が問題になり、厳しい「しつけ」の挙句、子どもを死に追いやるという事件や事故が後を絶ちません。「しつけ」の一環で、手を出したということはいつでもどこにでもあることでしたし、事態は今でも変わりません。しかし「しつけ」の結果、怪我をしたり死に至るとなると、事情は異なってきます。「しつけ」のほとんどは「養育」「教育」の範疇に入るでしょうが、中にはそれを大きく「逸脱」している場合も少なくありません。その境目を画するもの、あるいは違いを示す標(しるし)は、どこにあるのでしょうか。この「体罰と教育」問題は、それぞれの事態・事情に即して考える以外に手はなさそうにではないかと、ぼくは考えている。

 社会が「暴力に寛容」であった時代はとっくに過ぎてしまった。しかし、言葉を尽くして「教え諭す」ことがまず不可能であるという状況も、どこにでもあることは否定できない、その際、ぼくたちにはどんな方途が残されているのか。何十年経過しようが、「体罰は悪」であることを認めたところで、教育の場で「体罰」は駆逐されないのです。戸塚さんの「正しい体罰」とは何でしょうか。彼の語るところを伺っても、「正しい体罰」というものが見えてこない。しかし、親も周囲も学校も「万策尽きた」、その時に、残された方法があるとするなら、「それは正しい体罰である」ということになるのでしょうか。今のこの瞬間に「身を挺して、子どもの暴力を阻止する」ほかに、彼・彼女とともに生きる道がないと暗闇に道を失う人がいる限り、この「体罰に拉致された格好の教育」は消滅しはしないでしょうし、だからこそ、いつでも問われ続けなければならないのでしょう。

(「体罰」は容認できないと、ぼくは一貫してきました。しかし、「一貫」してきたのは「容認できない」という姿勢であって、時には「手を出す」こともあったかもしれません。ぼく自身は、手は出さなかったが、手を出す人は後を絶たないのは事実として認めなければなりません。「飲酒運転は厳罰」という法律が制定されても、酒を飲んで運転し、挙句に事故を起こす人はいなくなりません。「体罰をする」ことと「飲酒運転する」ことを並列するのはよろしくないことはわかっています。問題の中核は、それを「なくする」ためには、何が求められるのかという問題であるでしょう。

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 「器用と不器用のない交ぜ」が人間

 あらゆる職業(仕事)には、適不適があります。ある人が、どんな「職業」に向いているかを決める、その判断(基準)はどこでなされるのでしょうか。「適正」をいかにして見つけるか、どうも、それは、その職業について経験を得るより方法はなさそうにも思うのですが、いかがでしょうか。こんな埒(らち)もないことを、延々と愚考してきました。結論があるわけではないでしょうし、結論があったとしても、必ずしも結論通りにいくとは限りません。その職に長くいると、また異なった「基準」が生まれてくるに違いないからです。教職というけれど、学校という組織で出世しなければ、何事も始まらないとかなんとか。だから、これはあくまでもぼく自身の勝手な雑談でしかないのです。雑談ではありますが、ぼくはそれを一つのよりどころにして、教育や教師、つまりは「教職」を考えてきた人間です。

 教職に向いているかどうか、その判断基準の一つが「器用と不器用」だと言いたい気がします。一口に「器用」「不器用」といっても、実はそんなに単純ではないから、面白いというか、困ることになるともいえるのです。「あの人は器用だ」とか、「あんな不器用な人間は見たことがない」とか、いろいろと世間では言いますが、どっこい、「器用のなかに不器用」があり、「不器用の人間にも器用な部分」があるのが現実で、いったい、人は他人の「どこを見るか」、その「見方」「見どころ」、あるいは「目のつけどころ」といいますか、それはそれで、一つの才能といってもいいし、愛情といってもいいでしょう。特に教師の立場に立つと、どんな目で子どもを見るか、それは決定的に大事な姿勢ではないですか。何事も真二つには割り切れないところに、妙味もあり、長短あわせ持つのが人間で、長所が短所でもあるというように、一筋縄ではいかないところを納得できるかどうか。

 だから、これは一般的にはそういわれているという域を出ない話です。紆余も曲折もある割には、結論は陳腐であるに決まっていると、初めに断っておきます。いったい、教師になる人はどんな人間か。これもさまざまで、「子ども大好き」人間は当然であるとして、中にはびっくりするような(ことでもないか)教師がいました。ぼくの高校時代の物理の男性教師は、授業中に質問すると怒っていた。質問するなというのです。変わった教師でした。彼は自分でも「子どもは嫌いだ」とはっきりと言っていた。「物理」を熱心に学ばなかったから、彼の行状は深くは知らなかったが、友人の話によると、教師の許に「質問」に行くと、驚くほど丁寧に話してくれたというのです。これにはなにかの事情もあるのでしょうが、教師の側(すべての教師がそう考えるとは信じられないが)からすると、質問しなくてもいいようなものを訊く、これがいやだったのだと、ぼくは友人の話を聞いて理解していました。

冬
ながいこと考えこんで
きれいに諦あきらめてしまって外へ出たら
夕方ちかい樺色かばいろの空が
つめたくはりつめた
雲の間あいだに見えてほんとにうれしかった(八木重吉)(第二詩集『貧しき信徒』所収、以下同じ)

 だから、その意味では「物理」の教師は「不器用」だったともいえます。何において「不器用」だったのか、人(生徒)との付き合いにおいて、でした。果たしてこんな人が「教師」に向いているのか、いないのか。大事な問題ではないでしょうか。「子どもが好き」であるということと、「児童・生徒が好き」とはちがう。学校の中に入ると、子どもだって変容します(させられます)から、子どもらしい部分を隠してしまうこともある。ぼくにはなかなかわからないので、単なる想像ですが、「学校優等生」というのは、自分自身を見せていないんじゃないですか。自分の姿を隠している、いわば「猫をかぶっている」、そんな気がします。これは猫にとっては「濡れ衣」で、断じてそんなことはないと言いたいところですが、殆んどの辞書は「本性を隠していて、うわべは大人しそうに振る舞う」とあります。これは「猫」ではなく、人間の事でしょ。だから、正確には「人間をかぶる」と言い直すべきです、と猫のために「雪冤」「雪辱」をここでしておいて。さて、「優等生」です。

 「優等生は何をかぶって」いるのですかと、ぼくは聞いてみたい。何かかぶっているつもりが、それがだんだんと「本性」なってしまう。本当(本性)は反抗的である、あるいは獰猛であるにもかかわらず、表面上は取り繕って「おとなしい」振りをしている、そうしているうちに、それが本性になる、(そんなことはありえないよ、という声がします)一面において、学校教育は人間を変えてしまうこともある、まさに、学校が行っている「矯正(強制)教育」の面や要素を否定することはできないから、かぶっているうちに、かぶりものが取れなくなる、それが本性になるということもあるのでしょうね。ぼくは、実際に「学校優等生」から、こんな話を何度も聞きました。教師をだます、たぶらかすのは手もないことだ、と。いい子ぶっていればいいんだから。本当はいい子じゃないのにいい子ぶる、それが「優等生」なんだと、ぼくは直観しましたね。(いつだって、「いい子ぶる」それが優等生なんでしょうか)「権威」に弱いということかもしれないし、教師が有している「評価権」に、膝を屈してしまうんですね。そんな人は驚くほどたくさん存在しているに違いありません。そんなところではなく、もっと違った(大事な)ものに対して「膝を屈して」ほしいね。

 ぼくにはそれはできなかったから、「優等生」でなかったし「優等生」は好きではなかった。器用であることが求められるときには器用になれるということですね。切り替えができる、つまりは「要領がいい」ということになる。あるいは、一時期はやった言い方では「空気を読む」ことが上手な人、それが優等生かもしれない。ここで質問すると、教師は喜ぶ、そういう瞬間を見逃さない人は「器用」だし、優等生候補かもしれない。猫をかぶっているか否かはともかく、「学校優等生」が教師になったら、教員優等生になるでしょうね、きっと。だんだん教職が長くなると「昇進」するタイプかもしれない。管理職になることはいけないことではなく、誰かがならなければ、職場が成り立たないわけですね。だから、なりたいから、ならせたいから「管理職に」、それは大いにありうることです。あるいは、それと同時に、授業に、もっといえば、子どもに興味や関心を失ってしまうのかもしれない。

 なかなか本題に入らないで、自分でもイライラしています。「本題」とは?どこから話しますか。学校というのは、一つの「現場」でもあります。特に教室はその典型です。ここでいう「現場」とは、文字通りの「フロント」で、実際に「教育が行われている場」を指します。現場に対して、仕事を管理する部門があります。管理と実務という便宜的な区分を使えば、教師の行う仕事は「現場仕事」でしょう。教師の仕事にとって、とても大事なのは「不器用」であることだと、あえて言いたいんです。異論が出ることは百も承知で、なおそう言いたい。器用と不器用は、あるいは「要領がいい」と「要領が悪い」と言い換えることもできます。そして、言うまでもなく「現場」でも、器用であり要領のいい「人材」が求められるのでしょう。

 一人の卒業生について書いてみます。もう卒業して何年になるでしょう。いただいた年賀状には「長男、十八歳」とありましたから、少なくとも二十数年が経過したはずです。今では三人の子どもさんの「母ちゃん」で、文字通り、「子どもが子どもを産んだ」と言えるような、そんな卒業生でした。「子どもから親が生まれる」のであって、「親から子どもが生まれるのではない」という意味です。(子どもができて、初めて「母」になるということ)この連想でいえば、「子ども(児童・生徒)から教師が生まれる」のではないですか。最初から教師である人はいないという道理です。その卒業生は女性で、仮にOさんと呼びますが、愛称は「アッキー」ですね。何人かの「アッキー」が周りにいますが、彼女は、今は遠く離れた山梨に住んでおられます。在学中からなかなかの「武勇伝」というのか「蛮勇伝」というのか、そんな逸話をふんだんに残されています。卒業後、「現場」である中学校に入ります。長野は更科地方でした。ここでも就任早々から「武勇」を残されています。(この部分については、わずかですが、どこかで触れています。「参勤交代」で、薩摩から徒歩で江戸にやってきたと授業で話し、すかざす「どうして船を使わなかったんですか」と子どもから訊かれ、「まだ舟が発達していなかったから」と発言。ナイーブであり、度胸もあったね。その廉で「校長室」に呼び出された、という話)

お化け
冬は
夜になると
うっすらした気持になる
お化けでも出そうな気がしてくる(八木重吉)

 彼女は「素晴らしい教師になる」可能性を持っていました。教師になるといいなと考えてはいましたが、如何せん「教科の能力の欠如」が著しかった。それを危惧はしていましたが、採用され、教員としてデビューしました。そばにいたかったですね。怖いもの知らず、知らぬが仏、さらには「無知ほど強いものはない」、そんな場面を次々に作り出しては、「校長室」への呼び出しを食らいます。現場に何年かいて、確か結婚のために退職し、東南アジアのある国に連れ合いさんと赴任されます。そこに数年おられて、帰国した。おそらく「子育て」に奮闘されていたと思います。この間も、毎年、新年の挨拶状はいただいていました。早く「現場」に戻るといいなあ、と遠くからそっと見ていました。

 今年の賀状には「今、中学校で働いている」とありましたので、よかったなと安心しました。今でも「校長室通い」をしているかどうかわかりませんが、現場にいるのが何よりだと安心(変な話、なんでぼくが安心するのか)。彼女は決して優等生ではなかったし、今だってそうでしょう。本人が認めると思う。また同じように「要領は悪かった」部類です。何かに一所懸命になるのですが、「何か」を選ばないところがありました。学生時代、たくさんお酒を飲んで泥酔、気が付いたら、まったく知らないマンションのエレベーターの床で寝ていたという。こんな「要領の悪い」レベルを通り越したことを四六時中起こしていたようです。そんな彼女に、ぼくは大いに期待をしたのには理由があります。優等生ではないことと要領が悪いこと、つまりは不器用の代表のような人間だったから、教師になったら、時間をかけて、「大化け」するなと確信していたのです。このような「教師期待論」を、ぼくに抱かせた人(卒業生)は、ほかに数人いました。(どこかで書くかもしれません)まだ、「大化け」まではいっていないようですが。

 器用とか要領がいいという基準、あるいは「価値観」は、学校でもとても大事にされています。学校は時間で物事を進めていますから、要領の悪いものは「排除」されかねない。試験時間が決められているので、その中で「解答する」ことを求められます。それでも、ぼくは不器用や不得要領の(要領を得ない)教師や子どもたちに大きな期待を持つのです。与えられた課題を隙なくこなす、それは大事でしょうが、そこから生まれる「解答」は面白くない、安全パイみたいなもので、独創性も固有性も生まれないでしょう。時間がかかっても自分なりに何かを生み出そうとする、それは真に大切な資質でしょう。でも、ともすれば学校はそれを認めないどころか、劣ったものというレッテルを張るのです。ぼくは、間違いなく「劣等生」でしたから、この「事情」はよくよく分かる。「アッキー」には、子どもに負けない「不器用さ」があった(何年も会っていませんから、今はどうでしょう、変わっていないという確信があるのですが)。彼女が器用になったら、もう終わりですね。教頭や校長にはなれるかもしれないけれど、「要領の悪い教師」「不器用な教師」でなくなると、ある傾向の子どもたちは途方に暮れるのではないですか。

 「一を聞いて十を知る」と言いますが、その「十」の中身は何でしょうか。ここに、次のような「言葉」が出て来ました。「一をきいて十を知る勉強に踏み出しましょう。一を聞いて十を知る、それも自由学園の皆がもっている大きないの一つです」[羽仁もと子「教育三十年」1950)つまり、現場では「一を聞いて十を知る」、そんな子どもを育てたいというのですね。果たしてどうでしょう。つまりは「聡明」「利発」が重く評価されているということです。ぼくは、その反対ですね。一を聞いて一がわかる、あるいは、かろうじて二がわかりかける、これで十分であって、先回りしてテープを切るような、それは「ウサギを起こさないで、こっそりと先にゴールインした亀」のような、抜け駆けの功名を得るような人間を作る教育ではないですか。そんな子ども育ては、ぼくに言わせれば、不可能です。「わかってほしい」と期待するのはわかりますが、それが教室で(あるいはそれ以外のところで)出来るということがあり得るでしょうか。「一を聞いて一を知る」という、一の中身こそが問題にされる必要があります。「一を聞いて、一がわかる」、そんな力が子どもの中に育つだけもすごいこと。

 これは論語の言葉ですが、孔子が言いたかったのは、「いち【一】 を 聞(き)いて=十(じゅう)を[=万(ばん)を]=知(し)る[=悟(さと)る](「論語‐公冶長」の「回也、聞一以知十。賜也、聞一以知二」による) 非常に賢くて理解がはやいことの形容。少しのことを聞いて、他のすべてのことがわかる。(精選版日本国語大辞典)顔回という図抜けた才能の持ち主に比して、「わし(孔子)だってかなわん」と、その秀逸さを言っただけで、それをまねよとは言わなかったと、ぼくは考える。

冬日(ふゆび)
冬の日はうすいけれど
明るく
涙も出なくなってしまった私をいたわってくれる(八木重吉)

 話がそれました。「要領が悪い」というのは、「じっくりやる」「ていねいにする」ということで、決して非難されるべきではありません。教師自身が要領が悪いといって、よそから文句を言われそうですが、要領のいい悪いの内容を吟味していくと、じつは要領がいいというのは、表面だけを取り繕っていることがほとんどです。もっと言えば、こうすれば「褒められる」から、そうする要領を知っているということです。ぼくはよく「草取り」の例を出します。庭の草を取ってくれと言われ、一人は早々と終って、しかも実にきれいに草を刈った。ところが要領の悪い子は、まだ草をむしり取っている、物置か何かの陰になっているところまで、実にていねいに草を除いているのです。人が見るところ、見えるところだけではなく、草のあるところに神経を使っているのでした。この例でいうなら、断然「要領の悪い子」を、ぼくは支持します。こういう「手を抜かない」「見えを狙わない」、そんな姿勢が人間を正直にするんじゃないですか。

 教室という「現場」でも同じことが求められるといいたい。教師自身が器用であり、要領がいいと、他からの評価が高くなりそうなところに関心が向くような気がします。同じ教室で「できる子」と「できない子」が生まれるというところに、現場をあずかる人間とおしての責任を感じなければ、それは教育(現場仕事)ではなく、事務(管理)だな、ぼくはそんなことばかりを言い続けてきました。「アッキー」がどんな「現場」に立っているか(坐っているかも)、近々、会ってみようかという気になるのです。「器用」という言葉を否定はしません。でも、その言葉にはほとんどの場合に「貧乏」という語が付加されているのではないでしょうか。そうです、「器用貧乏」。ぼくは自分が、一面では「器用」であるとは思いますが、他面では「器用貧乏」であることを、生涯の憾みとしてきましたから、こんな余計なことを言うのです。教科書を理解し、教師の話をよく飲みこんで、器用に試験で「高い得点をとる」のは悪くはありませんが、もしそれが「(別の)現場」であったら、どうでしょう。仮に一人の大工さんが、建築の本を読み、先輩の話を聞いて、その結果、国家試験には合格するかもしれませんが、果たして、人が安心して住める「家が建つ」かどうか。

 禍福は糾(あざな)える縄の如し、といいます。「禍」ばかりでもないし、「福」ばかりでもない、言うならば、それらは交互にやってくる、それが人生なんだというのでしょう。それと同様に、器用と不器用は、一人の人間の中に併存してあるんですね。器用一点張り、あるいは不器用そのもの、そんな人間は存在しません。しかし気を付けたいのは「器用がいのち取り」になるかもしれないし、「不器用だからこその、器用の意味」をいつだって考え続けたいということです。人間には長所も短所もある。それは、しかし別のものではなく、出方(現れ方)によっては、長所は短所に、短所は長所になるということであって、そこに「教育の妙味」があるんじゃないですか。長所を伸ばし、短所を抑えるというけど、考え違いをしないといいですね。子どものどこを見るか。

 教育は、いったいどんな仕事なのか、教職は「現場」でどんなことをする職業なんですか。こんな問題を考え続けることが、ぼくには生涯の課題のようになりました。ああ!なんと不器用な。(下手に「器用」な面もあるから、困るんだ。器用に考えようとするんですよ。)

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 水をもれなく瓶から瓶へ移すようなものです

 ぼくの二十代は一九六十年代後半頃からでした。それからの三十年ほどはレコードに、それこそ現(うつつ)を抜かして過ごしました。まずはバッハからと、小曲大曲、なんでもござれの気分で、最後には教会音楽にはまり込んだのでした。そこから脱け出ることをするのかと思いきや、さらに教会音楽をさかのぼり、ついにはグレゴリアンチャントにまで行きつきました。それで何を得たか、そう聞かれて、ぼくは答えに窮するんですね。何も得ていないはずはないんですが、さりとて、具体的な成果は何も実感できないからです。音楽家になるのでもなく、音楽評論とかいう仕事につこうなどとも考えたわけではなかった。要するに、ただの音楽好き、愛好家でしたし、それに徹し切ろうとしていたのでした。

 よく自分でも思ったものです。こんなに音楽を聴くことが好きになるとは、思いもよらないことだった、と。ひたすらレコードを買い、それを飽きもしないで聴き続けたのです。物持ちはいいほうだと言われますが、手に入れた品物は、とにかく手元に置くという、一種の悪癖がありますから、本でもレコードでも溜まる一方でした。当時はLP(Long Play)盤が主流で、およそ一時間の録音が可能だった。新盤一枚は二千円ほど。ぼくは所帯持ちではなかったので、とにかくレコードを集めました。長く聴いていると、だれの何がいいとか悪いとか、いっぱしの音楽通のようなふりをしたくなるのですが、ぼくは、ただ一人で聴き続けた。これはどこかで触れましたが、ぼくには音楽鑑賞・音楽愛好の「先生」がいました。本業は耳鼻科の医師でしたが、とにかくよく聴いておられた。音響機器も素晴らしいものを備えていた。ぼくはそれこそ四六時中、この先生とレコードや演奏家についての談議に時間を忘れたほどでした。

 音楽鑑賞六十年、今ではあまりうるさいことは言わなくなりました。音が聞こえれば、何でもいいとは言いませんが、それでも目を覚ましている間は、何かしら音楽は流れています。リズムがいいんですね、ぼくには。うるさいのはダメ。この、一見無駄だったようなレコード鑑賞時代にも、ぼくはいろいろなことを考えていました。そのもっとも典型的なのは、日本の演奏家の問題でした。六十年といいましたが、この間、ぼくは日本人の演奏家を、ほとんど真面目に聴こうとはしなかった。もちろん作曲家についても同様でした。かなり「努力」はしたが、ついになじめなかったのはどうしてだろうと自問したものです。そこから明らかな結論が出たのではありませんでしたが、おおよその見当は尽きました。

 今でも見受けられますが、キリスト教の信仰を持っている人を紹介する際、「この人は敬虔なクリスチャン』などといいます。嘘つきで意地悪で、どうしようもないような人でも「敬虔なクリスチャン」です。ぼくの個人的な経験からいって、キリスト教徒ではあっても「敬虔な」とは、とても言えない人をたくさん知っていた。それと同じではないにしても、日本人の演奏家(大半はそう)は欧米に留学します。いわば「箔をつける」ためでしょうか。それは構わないのですが、演奏家を紹介する時、必ず「◎✖音楽大学を首席で卒業」と書かれたり、話されたりします。結婚式の「新郎新婦紹介のスピーチ」のようです。「主席」であろうが「優秀な」であろうが、その人の「演奏」が問題になるのであって、それは「付録」みたいなもの、しかし付録が「本たい」なんですね。、誰彼なくこうです。聴く前に、「先入観」を植え付けようという魂胆ですかね。

 これは実際に、ぼくが欧米の演奏家から聞いた話です(だから、相当前のこと、今もそうかどうかわかりません。そうでないことを願っている。これはけっして音楽の分野に限らないことです)。「日本人の留学生は優等生です。成績は上等、演奏は下等」というのは言い過ぎでしょうが、学校の成績が優れていると、音楽の演奏も優れているとはならないのは、だれも承知しています。「首席」を狙うのであって、「個性的な演奏」を狙うのではないという指摘には、ぼくは首肯しました。その通り、先生の言われたとおりに弾く、吹く、叩く、歌うことは上手だが、「自分流」がなかなか出てこないと。優等生の演奏は実につまらない。音大では大変な権威を持っていた教授だった、女性のピアニストの演奏を聴いたことがありました。Y.K.さん、その人の指から出てくる音の「平凡極まりないこと」(それ自体は、あるいは「非凡」なのかもしれない)に、ぼくは驚愕したのでした。ヴァイオリニストでもそうでした。こんなことを話せば終わりませんから、ここで止めます。ぼくが言いたいのは、「音楽教育の貧弱・貧困」が、「演奏の貧困」につながっているということ。(左はグレンー・グールド)

 これもまた、音楽教育に限定されないことでしょう。すべからく教育は、(そう言うと語弊がありますが、でもそうではないかとぼくは言いたいんですね)「寫瓶(しゃびょう)」なのではないか、ということです。その意図するところは、辞書にある如くです。だから、ある人のピアノ演奏を聴けば、だれに教わったかがわかるというものです。お弟子が弾いて、師を髣髴させるというのは、茶道や華道では不思議でもないのでしょうが、音楽はどうですか。お金を払ってまで、師のそっくりさんを聴こうという気が知れないと、ぼくは感じているんですね。身振り手振り、声色まで先生のそっくりさん(瀉瓶の弟子)を作ることが「教育の極意」となると、勘弁してくれませんかと、いいたくなります。

 自分の足で歩くというのは、たとえばなしです。しかしいつだって付き添いに支えられていると、ついには支えがないと歩けない。教えられることに慣れてしまうと、いつでも誰かに訊けば、教えてもらえると信じ込んでしまい、自分で考えることをしなくなるのです。三歳や五歳ならまだしも、三十や五十になっても「教えてもらえる」というのは、どうでしょうか。ぼくは、この島の状況の一端がここにも出ているようにも見えるんですね。あらゆることが「猶㵼瓶の如し」と言ったら、語弊があると言われますか。

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◎ しゃ‐びょう ‥ビャウ【瀉瓶・写瓶】=〘名〙 (「びょう」は「瓶」の呉音。一つのつぼから他のつぼへ水をそそぎうつすから) 語。師から弟子へ仏の教えの奥義(おうぎ)をあますところなく伝授すること。また、その弟子。しゃへい。※梁塵秘抄口伝集(12C後)一〇「其(その)かみこれかれを聴きとりて謡ひ集めたりし歌どもをも、〈〉遺る事なく瀉瓶し畢はりにき」(精選版日本国語大辞典)

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 ジレッタントとして、長い年月、飽きもしないで音楽を聴いてきて、ぼくが得た成果・効果はその程度でした。「自分流に」、あるいは「個性的に」、そんな演奏スタイルはこの島では御法度でしたね、何かにつけて。そのような島の学校教育の風潮に大きな風穴を開けてくれたのが、外国の演奏家の音楽鑑賞の経験でした。どんなものでも自分流というのではない。しかし、何であれ、「自分流」が当たり前だと思うのですが、そうではないから、教育は抑圧的であり、偏向している、実に作為・人工的であると言いたくなるのです。歩き方やものの言い方まで、放っておけば、その人らしさが出るのは不思議ではありません。しかし「これが正しい歩き方」「こう話すのが正しい」という教育を徹底して受ければ、教える側の影響を蒙るのは避けられないし、自己流・自力でやってみようとなると、自分の足で歩けなくなるんですね。「◎✖音楽大学を首席で卒業」と書かなくなれば、少しは演奏にも個性が出るのかどうか。(ぼくの音楽鑑賞は、決して「舶来趣味」ではなく、「邦人演奏家忌避」ではなかったつもりです。その証拠に、少数ではありますが、個性的すぎるような邦人演奏家(音楽家)もよく聴きます。(右はカール・リヒター)

 以下の【北斗星】の内容に刺激されて、余計なことを書いてしまいました。ぼくのところには、レコードが約五百枚(一番多かった時の四分の一程度)が残されています。その一枚一枚に、購入時やレコード針を下したときの感触(記憶)がこびりついています。大げさではなく、はっきりと思い出すことができます。その理由は何か。演奏家との「交流」とでも言いたい結びつき(「絆」なんかではありません)が刻印されているからです。ある人と深く交わると、その人のことを忘れることはないだろうという、そんな関係があったという証拠になるのでしょう。これは本を読んで生じる、作者との結びつきにも言えることです。ぼくは嫌なレコードは買わないし、聴かないことにしてきました。それと同じように本についても言えます。だから、一冊の本は、独りの作者・著者との結びつきを可能にしたかけがえのない証拠(機会)なんですね。(こんなことを書いていると、延々と、際限なくつづきそうです。深く付き合い、そこから多くのものを学んだ人について、いろんなことが次々に思いだされてきわまりない)

 かくも長い期間、音楽鑑賞の「泥沼」に、世間を知らなかったぼくを引きずり込んだのは、第一にカール・リヒター、第二にグレン・グールドです。一と二は、聴き始めた順番であって、引きずり込まれ方の強弱ではありません。どちらもバッハに深く関心を持っていたのは偶然だったか、それだけバッハには「音楽の心」があったということになるのでしょうか。この二人の演奏したレコードは、今でも、ほとんど所有しています。それを聴く機会がなお残されているかどうか、いささか不明ですが、実際に聴かなくても、ぼくの衰え切った記憶細胞の切れ切れに、かろうじて、彼らの「生みだした音の香り」がしみ込んでいるのが感じられてきます。ぼくにとっての「死」というのは、バッハが、それもグールドやリヒターの演奏で聴けなくなることだと断言してもいいことです。

OOOOOOOOOOOOOOO

 【北斗星】「ちょっと前のものは古い。もっと前になると新しくなる」。県芸術文化協会の前会長、青木隆吉さん(84)の言葉だ。商業デザインに長年取り組んでいる。その経験から、はやり廃りは繰り返すと確信を込めて語る▼55年前には「大いなる秋田」(石井歓作曲)のレコードジャケットの制作を担当。8日付本紙「時代を語る」で、そのレコードを紛失してしまったと明かしたところ、秋田市や大館市、由利本荘市の読者から「譲りたい」と申し出があった▼そのうちの一人の男性はかつて吹奏楽部に所属し、家には他にも多くのレコードが眠っていると話した。既にプレーヤーは処分したものの、レコードには音楽と思い出が詰まっており、捨てられないでいるという▼この男性は家族に自分が元気なうちは処分しないようにと伝えている。ただ今回はジャケットをデザインした人に譲渡するのは意義があると考えたという。聴かなくなったレコードを捨てられずに持っている人は他にもいるだろう▼レコードは絶滅寸前だと思っていたら、人気が再燃しつつある。CD市場が縮小する一方で、売り上げを伸ばしている。購入者は聴くための手間やふくよかな音質、大きなジャケットのデザインを楽しんでいるようだ▼レコードに針を落とし、音が鳴り出すまでの間もいい。湯沢市内の工場ではレコード針が生産されており、かつてレコードに親しんだ世代としては何だかうれしい。久しぶりにレコードをかけたくなった。(秋田魁新報・2022/02/17)

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