ぼくが愛読して止まない、デカルトの「情念論(Traité des passions de l’âme)」(1649年刊)、そのなかで彼は6つの基本情念を上げています。「驚き、愛、憎、欲望、喜び、悲しみ」であり、それらは、いずれも身体の受動性から生じるというのです。どれ一つとして、能動的に引き起こされるのではなく、先ず外部の対象の働きかけによって身体内に生じますね。(なにもないのに、怒れない」でしょ。注意深い人間であることは、高い学歴を獲得するより、人間にとっては遥かに大切な能力、いや人間性そのものです。政治の劣化は政治家の劣化ですが、「劣化」とは「注意力」の劣化、育て損ないをいうのです。そこにも「不注意人間」が引きも切らずに押し寄せている、その根本の原因(理由)なんでしょうか。一方的に「養成される人間」は、もっとも大事なものを失っているんですね。気の毒であり、可愛そうでもある。多くの教師は「やればできる」と教えます。間違いではないし、当たり前であって「やらなければできない」のです。やるとやらないの「分かれ目」はどこにあるのか。やる必要があることについて、大切なのは、命令されることではなく、自ら「意欲する」「自分を高めようとする」ところにあります。
● 情念論(じょうねんろん)(Traité des passions de l’âme)=デカルトの最後の著作。1649年刊。人間の情念(感情)を心理学的かつ生理学的に考察し、道徳の問題に説き及んでいる。本書は、ドイツからオランダに亡命していたエリザベート王女の質問をきっかけとして書かれた。王女は、デカルトの精神と物体(=身体)の二元論において、心身合一体としての人間が占める位置が問題となることを鋭く指摘した。そこでデカルトは、心身合一体に特有な意識である感情の考察に向かうことになった。感情は身体によって引き起こされる意識状態、すなわち「精神の受動」passion de l’âmeである。さてデカルトは、情念(=受動)のうち、驚き、愛、憎、欲望、喜び、悲しみの六つを基本的なものとし、心理学的に分析する。他の諸情念は、基本的情念の複合として説明される。また、情念は動物精気(血液中の微細物質)が精神の座である松果腺(しょうかせん)に作用した結果生じるものとされ、その機構が生理学的に記述される。このように情念のメカニズムを客観的、機械的に認識することによって、情念を自由意志の手段とすることが可能となる。自由意志を正しく使用し、情念を支配することが、高邁(こうまい)という最高の徳につながると結論される。(ニッポニカ)
それ故に、教室に来る子どもたちのほうが社会的身分が高かったり、裕福であったりして、許員は、親たちからも子どもたちからも、それほど尊敬されなかったということもありました。教員の社会的評価の二面性であり二重性がここに生まれたのです。ぼくが教師まがいの職業に付く前に、大きな影響を与えられた「現職教師」が何人もいました。その中でももっとも深く学ぶことになったのが S さんという小学校教師だった人です。もちろん彼は師範学校卒の教員でしたから、その師範学校の持つ「陰湿さ」「意地悪さ」「上下関係」などもつとに経験していたし、それを徹底して批判した人でもあった。
S さんが「校長」になって、ある小学校に赴任した際、その学校の教職員に対する最初の挨拶で、「わたしを校長(先生)と呼ばないでください」「名字(Sさん)で呼んでほしい」といったそうです。若い教員たちは、その申し出に直ちに順応し、「S さん」と呼ぶことに抵抗がなかったが、経験のある教師たちは、その申し出の受け入れを渋ったそうです。理由は言わなくてもいいでしょうか。校長を名前で呼ぶのですから、自分も名前で呼ばれることに納得できなかったのかもしれません。加えて、教師の権威が奪われるとも思ったでしょう。(師範学校生は授業料は免除。月々の小遣いが与えられた。国家の教育を担うのだから、国家意思の教授に徹することが求められたのです。「教科書を教えること(だけ)」が求められた。大半の人は成績優秀であっても、貧困のために高等学校や大学に進むことができなかった青年たちでした。それゆえに、無条件に尊敬を受けるという以上に、閉鎖社会における「社会的地位」の低さが学校の中でも払拭されなかったのでした)