「治療とは九割がタイミングだね」と私に言われた

 【正平調】親しみをこめ、患者から「カメ」の愛称をもらったそうだ。病室に入るとき、まずドアを少し開けて顔だけのぞかせる。誰にもぶつかっていないと確かめて入る癖が、そう呼ばせたと◆著書「いじめのある世界に生きる君たちへ」の後書きで、構成・編集にあたったふじもり・たけしさんが記すエピソードである。仰ぎ見られる存在でありながら、気配りを欠かさない。なるほどこの方らしい◆精神科医、中井久夫さんのことだ。神戸大学医学部教授だったとき、阪神・淡路大震災に遭い、失意の底にある被災者を支え続けた。いじめに悩む人たちも支えた。たくさんの涙に寄り添って、88歳で亡くなった◆本紙文化面で、「清陰星雨」というタイトルの一文を長く書いていただいた。深い知性と柔らかな感性で時代を見つめる文章は、切れ味がよかった。どんなに忙しい朝でも、中井さんの寄稿は欠かさず読んだ◆その一つ、「難事に現れるリーダー」(2009年3月)は、震災後に若くして亡くなった医師たちを弔っている。「故人たちは目立つのを極端に嫌う人たちであった」としつつ「紙の記念碑を記しておかないと私の気がすまない。許していただきたい」◆読み返しながら思う。きょうは中井久夫さんへの感謝の碑に、と。(神戸新聞・2022/08/10)

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 中井さんの死が報じられました。どう反応していいか、ぼくにはわかりません。とにかく、若い頃から、中井久夫の臨床論に齧(かじ)りついてきました。ぼくが真面目に、かつ熱心に読んだ、唯一の医者であり、精神科医でした。いまは何かを語る元気が、ぼくにはなさそうです。少し時間をおいて、書ける時が来たらと、今日はひたすら、地元の神戸新聞の記事にすがるばかりです。(神戸新聞に対しても、心からお礼を言いたい気がします)これらの記事には、中井さんについて、なにか欠けている部分がなさそうな、意を尽くした「追悼記事」であると思われたからです。

 中井先生に。謹んで哀悼の思いを捧げたいと存じます。

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 精神科医で神戸大名誉教授、中井久夫さん死去 阪神・淡路大震災で精神的ケアに尽力   阪神・淡路大震災などの被災者の精神的なケアに尽力し、文筆家としても多くの業績を残した精神科医で神戸大名誉教授、文化功労者の中井久夫(なかい・ひさお)さんが8日午前11時5分、肺炎のため神戸市の介護施設で死去した。88歳。奈良県出身。自宅は神戸市。/ 葬儀・告別式は近親者で行い、供花、弔電は辞退する。喪主は長男伸一(しんいち)氏。/ 京都大卒。東京大などを経て1980年、神戸大医学部教授に。統合失調症研究の第一人者で、先駆的な診療法で高く評価された。/ 95年の阪神・淡路大震災では、被災者の心のケアの必要性を早くから訴え、支援体制の構築や支援者の育成に注力。2004年に心的外傷後ストレス障害(PTSD)の研究や治療、相談などに当たる全国初の施設「兵庫県こころのケアセンター」が開設され、初代センター長に就任した。/ 1997年に神戸市須磨区で起きた連続児童殺傷事件の遺族らとも関わり、犯罪や災害の被害者らの心理的な回復を支える「ひょうご被害者支援センター」理事長として活動。甲南大教授も務めた。/ 90年から2012年まで本紙でコラム「清陰星雨」を執筆。歴史や文化を巡る高い見識に基づき、政治や戦争をはじめとする幅広いテーマに深い洞察を示し、無名の人々に温かいまなざしを向けた文章は多くの人の共感を呼んだ。/ 阪神・淡路の直後の医療現場や患者らの苦難をつづった「災害がほんとうに襲った時」や「中井久夫著作集」など著書多数。米国の精神科医サリヴァンやフランスの詩人ヴァレリーの訳書、ギリシャ文学の翻訳も手がけた。/著書「家族の深淵」で毎日出版文化賞。01年兵庫県社会賞。13年文化功労者。(神戸新聞・2022・08/09)

 いつも被災者のそばに、中井久夫さん悼む声 PTSDの研究、治療に道  精神科医で神戸大名誉教授の中井久夫さんが8日、88歳で死去した。阪神・淡路大震災の被災者支援や研究などの功績に対し、多方面から悼む声が寄せられた。/「優しくて、パッションの人だった」。中井さんを「師匠」と慕う岩井圭司・兵庫教育大大学院教授(60)=精神医学=は震災当時、中井さんのいた神戸大付属病院に勤務。「孤立していない、見捨てられていないと被災者に実感してもらうことが第一」と若い医師らに繰り返し説いていた姿を記憶する。治療に当たる精神科医の役割を「一緒にふもとまで下りる『山岳ガイド』のイメージ」と語っていたといい、「心のケアという言葉を定着させたのは先生の功績」と振り返る。/ 室崎益輝(よしてる)・神戸大名誉教授(77)=防災計画学=も「一人一人の人間に目を向けろと教わった」と語る。「心のケアという発想がなかった頃にその重要性を発信され、震災関連死や孤独死という考え方にもつながった。その後の災害支援にも大きな影響を与えた」と別れを惜しんだ。/ 中井さんの著書を心の支えにしてきたという被災地NGO恊働センターの村井雅清顧問(71)は「災害ボランティアにも造詣が深く、『黙ってそばにいるだけでいい』という言葉に、『ボランティアは何でもあり』と確信した。元気なうちに、自分の活動が間違っていなかったか聞きたかった」と声を詰まらせた。/ 中井さんは、兵庫県こころのケアセンターの初代センター長としても貢献。知事在任中に同センターを開設した井戸敏三・ひょうご震災記念21世紀研究機構特別顧問(77)は「PTSD(心的外傷後ストレス障害)へのケアの大切さを教わり、県として取り組みを進めることができた」と業績をたたえた。/ 担当編集者として40年近く親交のあった、みすず書房の守田省吾前社長(66)は、原稿を的確に直しながら別の電話に応対する姿に驚いたという。/「圧倒的な観察力を持ち、論理と科学、感覚、においといった多様なものを見事に文章化された。患者と家族だけが読むような小冊子も大手出版社の書籍も手を抜かない。全力投球なのに、どこかに余裕を感じさせる方でした」と人柄をしのんだ。(上田勇紀、中島摩子、新開真理)(神戸新聞・2022/08/10)

 

 言うまでもないこと、ぼくには何一つ誇れるようなものはありません。不本意に大学行き、不本意に就職し、その間ずっと不満をいだいたままで、生きてきました。教職についたと言っても、その実際は「教師まがい」だった。世に存在するたくさんの「本物の教師」のようには絶対になれない、あんな教師にはなりたくないなどと、いろいろな理屈を並べてみて、気づいたら「教師の出来損ない」、「教師まがい」でした。「ガンモドキ」というのは立派な食品ですが、ぼくはその「もどき」にもなれなかったのです。そんなふしだらな生活を続けていく中で、唯一学んだのは多くの先輩や先達からでした。

 ここで、いちいち名前を上げませんが、殆どが今では「一流」(この表現は嫌いです)と評される賢人たちでした。この中には、もちろん中井さんもおられました。とにかく、手に入る者は何でも読んでみようという、後先や、自らの能力を一切無視した「無謀」の振る舞いそのものでしたが、そんな乱暴な「読書経験」からでも、不思議なもので、身に得られるものは必ずあったのです。いま、中井さんの訃報に接して、この駄文を綴っているパソコンの置いてある部屋の周りの本棚には、それでも数十冊の、中井さんの著作があります。中には専門書(論文集)も。背文字を見るだけで、中井さんの文章の佇まいと、それをモノしているご本人の表情がありありと浮かんできます。とにかく、この賢人(碩学であり、実践家)は、いつでも、どんなときも冷静沈着を「絵に書いたような」姿を崩さなかった人でした。いまは、ひたすら感謝し、ご冥福を祈るばかりです。(中井さん、ありがとうございました)

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 治療においては、病気の側にも一種の疑似政治学がある。治療は、治療に伴う反作用を避けつつ、基本的には、病いと絶えざる妥協であり、その妥協の結果、病いを最善の形で経過させることが治療の政治学である。

 政治には士気の維持が大きな要素であるが、治療においても同様である。特に慢性の病いにおいて。

 土居健郎氏(『甘えの構造』の著者)は「治療とは九割がタイミングだね」と私に言われた。要するにそういうことだ。ナポレオンが戦争について言いそうなことだ。そういえばヒポクラテスが二千数百年前に言っている。(中井久夫「家族の深淵」みすず書房、1995年)

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 教えないで質問する、それが教師の役割です

 自分が受け入れているものをふくめて、疑う権利を確保すること、それが私のデモクラシーの基本です。それを手放してしまったら、人間はそこからつぶれていくと思うんです。人間の思想というのは弱いものでね、思想で一つにくくってしまったら危ない。どこかに通り道を残しておかないと、やっぱり自滅してしまうんですね。(鶴見俊輔)

 鶴見さんのこの短文、今風に言うなら「ツイート」なんでしょうか、この駄文集にも何度か出てきますが、ぼくはこれをまるで車のエンジン始動させて、しばらくはアイドリング((idling)(=空ふかし)をする、そんな気持ちで、毎朝の準備体操のようなもとして、ある種の目覚まし薬のようにして読み込んできました。この「慣らし運転」というのか、それは人間の心身にもとても重要で、ぼくにはもう欠かせないものとなりました。「機械や自動車のエンジンを、負荷をかけずに低速で空回りさせること」(デジタル大辞泉)空転とか空回りというと、なんだか無駄のようにも考えたくなります。しかし、「無駄」があって初めて物事が順調に(ときには、順調ではないかもしれません。「不合理」の上にしか「合理」は乗っかれないんだね)進むのだという風にぼくは考えてきました。人間は一種の機械のようなもので(ラ・メトリ「人間機械論」岩波文庫、右下写真)、気候や人間関係の具合で調子が狂うこともよくあるのです。だから、アイドリングをして状態を確かめることが大切になりますね。頑(かたく)なにならない、強張(こわば)らない、肩肘の余分な力を抜いておく、それが毎朝のルーティンになっています。

 「デモクラシー」というのは、何時の時代のどんな集団にも認められる。それは、決して近代の産物なんかではないのです。ただそれが長くは続かないのが最大の特質だともいえるでしょうね。「民主主義」だけで五百年ということはあり得ない、徳川幕府や李氏朝鮮が何百年も継承されてきたのは、民主主義だからではなく、むしろその反対の政治体制であったからでしょう。でも、そんな徳川時代や朝鮮王朝時代にも、きっとデモクラシーは存在していたといえる。「民主主義」と「全体主義」の混合型は、どこにでも見られます。その意味は、たった一つの集団で、民衆が結合することはなかった、いろいろな集団の混合、寄せ集めだったということで、その中には全体主義もあれば、民主主義もあったのです。今日と少しも変わりはないといえます。その場合、「民主主義(デモクラシー)」をどのように見るかという視点や観点の違いはあるでしょう。もともと、デモス・クラテイヤという語がその基点にあります。デモス(demos)とは「人民」(特定集団のメンバーです)を指し、クラティア(kratia)は「権力」を意味しました。ギリシア由来の言葉です。もちろん、そのあり方は多様・多彩であり、これこそが「デモクラシー」であるということはできないのかもしれない。しかし、もっとも根本の部分には「民意(参加者の意思)の尊重」があるし、それがなければデモクラシーとは言われないのです。

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● 民主主義(みんしゅしゅぎ)(democracy)=民主主義を表す英語のデモクラシーという語は、もともとはギリシア語のdemos人民)とkratia(権力)という二つの語が結合したdemocratiaに由来する。したがって、民主主義のもっとも基本的な内容としては、人民多数の意志が政治を決定することをよしとする思想や、それを保障する政治制度あるいは政治運営の方式、と要約できよう。この意味では、第二次世界大戦後の現代国家のほとんどは、成年男女に普通・平等選挙権を認めているから、資本主義国家であれ社会主義国家であれ、それらの国々を民主主義国家とよぶことができよう。しかし、ひと口に民主主義といっても、その内容は、単に普通選挙権や国民の政治参加の保障にとどまるものではなく、人権(自由・平等)保障の質の高さや内容の違いあるいは民主的政治制度の考え方の差異などをめぐって多種多様に分かれ、しかも、そうした思想や政治運営の方式は、歴史の進展、政治・経済・社会の変化に伴って、しだいにその内容を広げ、また豊かにしてきた面もある。(以下略)(ニッポニカ)

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 その鶴見さんの「ツイート」です。疑う権利、しかも自分が受け入れているものまで、疑う権利を自分に確保しておく、それが「デモクラシーの基礎・基本」だというのです。無条件で受け入れるというのは、まあ一種の手抜き(思考停止)であって、何時かそれに気が付きますが、多くは「手遅れ」ということになるのが定め。自分が受け入れているものとは、ぼくの場合でいうなら、この島社会の現実(政治や経済をはじめとする、現存の体制です)を、否応なしに受け入れている。この島のどこであろうと、ぼくが生活している限り、法体系に束縛・拘束され、かつ擁護されているし、政治や経済の情勢に左右されるのは避けられません。しかし、だから、ぼくは現状の様々な条件・要素を全面的に承認しているかといえば、そんなことはあり得ないし、何時だって体制のおかしな部分には「異議あり」を発する、その権利は誰にも譲れないし、奪われたくないのです。

 僕が勤務していた学校もそうです。ぼくは受け入れていたどころか、ある意味では「飯のタネ」でしたから、それこそ、身を挺してそこにぶら下がっていたのです。しかし、そういうような格好の悪い状態で勤めていながら、おかしいことはおかしいと、誰に遠慮も忖度もなしにやってきました。しかも批判はやがて行動となってぼくの姿勢を計ろうとしてきました。ゲ月給を貰っているのだから、少しはおとなしくしろ、そんな「忠告」めいたことも言われ続けましたが、ぼくは批判はやめなかった。ぼくも構成員の一人(一人の構成員)でしたから、ぼくなりの「民意」を無視はできなかったし、それが結果的には誰かれの役に立ったと、ぼくは勝手に思っていました。大学の「現執行体制」を擁護するなどという芸当はぼくにはできなかった。いつだって、批判する側に徹していましたね。

 「日本人なら、文句を言うな」「四の五の言わず、黙って俺についてこい」というのは、ぼくに限って言うなら、まずダメです。身体が拒否反応を起こす。「なんで、あんたに従うんじゃ」という態度はいつでも隠せないのです。他人に譲れないなどという大げさなものではなく、当たり前に身体が言うことを効くか効かないか、それだけのことでもあります。そのための「アイドリング」は、だからぼくには不可欠なんですね。身体の体操であると同時に、精神の体操でもあります。

 深呼吸(deep breathing)は、ぼくにとっては精神の体操です。硬直したままで物事を判断しないし、それはできない相談。硬直を解(ほぐ)す、そのための準備運動でもあり、いわばウオーミングアップなんでしょうね。体の中の筋肉に新鮮な血液(酸素)を送る、それによって筋肉のこわばりを解(と)き、体全体を柔軟にするように、心にもしなやかさを失わない、思考にも柔軟剤を加えるような塩梅です。そのための背伸びであり、屈伸運動。ぼくは、このことをなんと、猫たちから、直(じか)に教えられました。気がめいっていたり、気が急いていたりすることはしょっちゅうですが、そんなときに猫の顔や様子を見ると、彼や彼女たちは、きっと「欠伸(あくび)(yawn)」をします。それを見ると、ぼくの体から硬直感が失われていき、しなやかというかゆとりのようなものが感じられてくるのですから、なんとも不思議ですし、「他人のふり見て、わがふり直せ」と言われているんですね。この際、猫はぼくにとっては、かけがえのない友人です。焦っても仕方がないでしょう、ゆっくりしなさいよ、というように。

 我が耳目を塞いで、たった一つの「ドグマ」を後生大事に懐に仕舞いこむ。それに対しては何一つ疑いもしない。これは強いのか弱いのか。「唯一絶対」という調子は「強そう」でも、その「正しさ」「絶対性」の根拠は、とても薄弱なものです。これしかない、と思い込んだとたんに、世の中は動いているようには見えなくなる(天動説ですね)のです。これが「イデオロギー」といわれるものの本質です。イデオロギーは「教条」ともいい、揺らぎがないことが生命線ですから、教条主義というのは、硬直した姿勢を指して言うのでしょう。「仏の教え」は何千年たっても一向に変わらない道理です。これしかない、これが真であるという、その硬直姿勢こそが「イデオロギー」の核なんですね。今日イデオロギーはそんなにはやりませんが、あるいは従来とは別種の「新イデオロギー」が勢いを得ているのかもしれません。

 ここで場面が変わります。あるいは「暗転」するのかもしれません。以下は、どこかで触れたようにも思いますが、何度でも繰り返し考える材料として使うことが大事だと、あえて、繰り返しをいとわず提示しておきます。

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 ギリシャの哲学者であるプラトン(BC427-BC347)という人が書いたたくさんの対話編のなかに『メノン』と題された本があります。そのはじめの部分に奇妙な話がでてきます。それを材料にして、「ものを学ぶ」というのはどのようなことかを考えたい。

 メノンというのは貴族階級に属する人の名前で、ソクラテス(BC470-BC399)の友人です。二人は「徳」について問答を始めていましたが、議論が行きづまってしまったところです。そこでは、ものを学ぶとはどんなことか。「徳」とはなにか。いかにも原理的な事柄が問題となっている。
 メノンの家にはたくさんの「召使い」がいました。そのうちの一人(10歳くらい)を呼んで、ソクラテスは次のような問題を出したんです。「一辺2プウスの正方形がある。その2倍の面積をもった正方形はどのようにして作ることができるか」

 そこでさっそく、その子ども相手にソクラテスは問題を解くように、話(質問)しはじめたのです。彼はまったく「教えない」で「問う」ばかりでした。子どもはその問に対して答える。自信満々で、その答えを知っていると思い込んでいましたから。ところが、ソクラテスからの質問攻めにあって、最後に「どうにも答えられない」というところに追いつめられたのです。これはソクラテスの(教育の)方法といわれる「対話」(ダイアローグ)、あるいは「問答法」といわれるものでした。ようするに、子どもの「知っているつもり」「知ったかぶり」を粉砕するための「質問」だった。

 ソクラテスは「教えないで、質問するだけ」でした。「教師の最良の仕事は質問することだ」と、人は言いぼくも言いました。途中を抜かして結論的に言うと、どんな人でも「自分にとって」いちばんの教師は自分自身です。だから、「自問、自答」なんです。

 もしそうだとするならば、いつでも「自問し、自答する」ことが「自分を育てる」ためには欠かせないのじゃないか。「育つ」ためには「育てる」がなければならない。だれかに質問される(自分で自分に質問する)ことによって、自分のなかのなにかが「育つ」あるいは「育てられる」といえるでしょう。教える視点からではなく、育てる姿勢の側から教育をていねいに考えたいですね。教えない教育、子どもが自分の中に「(考える力を)育てる」、そんな教育や授業を命がけで求めてきたという気もします。

 いかにも教師のことばかりを話しているように思われたかも知れないけど、じつは「子ども」(「教えられる側」)の問題でもあるのだと、ぼくはいいたい。よく言われる「教えられる」というのは、別名では「与えられる」ことでもあるでしょ。じゃあ、与えられるばかりだと、いったいその人にどんなことが起こるのか、という問題ですね。「与えられる」ことになれると、それに対して文句を言うようになります。与え方が悪いだの、もっと違うものをくれなどと言い出します。与える教育は「わがまま」を育てるのかもしれません。

 もう一度、「鶴見ツイート」にもどってみましょう。
 《自分が受け入れているものをふくめて、疑う権利を確保すること、それが私のデモクラシーの基本です。それを手放してしまったら、人間はそこからつぶれていくと思うんです。人間の思想というのは弱いものでね、思想で一つにくくってしまったら危ない。どこかに通り道を残しておかないと、やっぱり自滅してしまうんですね》 

 「自分が受け入れているものをふくめて、疑う権利を確保する」というのは、別の表現を使えば「わたしは自由である」ということじゃないですか。「考える自由」のことです。与えられたものを鵜呑みにするのじゃなく、それをいったん疑ってみる。自分の頭で疑って見るんです。それをしなければ、自分がないというようなものです。それが<自由>ということなんだ、そういえませんか。みんなが言うからそうなんだ、あの人が正しいといっているから、正しいのだと、自分を失う度合いに応じて、人な何物にもなるのではないか。みんなで決めたのだから、守るのが当たり前だろうという。しかし、現実にはそのように決めた時とは状況が異なっていることは誰にも理解できる、にもかかわらず、「決まり」だから守れ、ここまでくると、それは間違いなく「教条」になります。学校の拘束や、制服などは、その典型でしょう。男子生徒の髪型は丸坊主という、僧侶になるわkでもなし、ただ、難渋ねんっも前に決めた期8足だから。これが教条です。教条(イデオロギー)は、過去にしがみつくのです。「寄る辺は昔」というのです。こんなのばっかりdふぁったんじゃないですか、学校という場所は。まるで「博物館」か「考古館」みたいですね。今だってそんなのがいくらもあります。

 「わたしはは自由だ」というのは、おかしいと自分で思い、これはちょっと違うぞと感じる、その直観によって確かめられるんです。与えらたものを飲み下したり、「これしかない」としがみついたとたんに、ぼくたちは(考える)自由を失ってしまうんですね。そこで止まってしまう。つまり、固まるんです。「これこそが正しい」と思いこむんだね。どこにでもある罠だし、それにひっかかる人は後をたたない。
 自分が信じているものさえも疑う。いや、信じているものほどはげしく疑うことができるんです。「それ(疑う権利)を手放してしまったら、人間はそこからつぶれていく」というのは、「育てる」「育つ」ことをやめてしまうという意味です。自問自答を中断してしまうことです。与えられたものを安易に受け入れることで、その先を考えようとしなくなる。「自問」を止めてしまうと、後に何が残されるのでしょうか。

 「本当にためになるものというのは、自分自身を見つめることからのみ得られる」という、カナダのピアニストの言葉をもう一度思い出してください。自分で「気づく」ということは、ホントに大事ですね。自覚症状がなければ、どんな名医であって、診断することはできません。「オーケー、満足かい」「イエス、満足です」といわれれば、それで終わり。「自立」するのと、「他者のい介在をを拒絶」するのは、表向きは似ているようですね。でも内容は比べられないほどに違います。(右はグレン・グールド)

 「メノン」の続きは、実際に手に取って読まれますように。そこに述べられている「知識」論や「道徳」論は、実に古いものです。古いものですが、その古さは、少しも色あせないで「新鮮」です。

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 「出会い」の深浅が教職のいのちだと思う

【談話室】▼▽山形市出身の教育者無着成恭(むちゃくせいきょう)さんの青春は戦争のただ中にあった。山形中学時代は群馬県の軍需工場に動員された。師範学校に入ってからは庄内に赴き、燃料油の原料となる松の根を掘った。終戦の日も庄内で迎えた。▼▽戦後、価値観は百八十度変わる。それまで18年、軍国教育を叩(たた)き込まれていた無着さんは気付いた。「自分の生き方は自分で考える時代になった。その力を子どもにつけてやるのが教育だ」。赴任先の山元中(上山市)で実践した成果は学級文集「山びこ学校」に結実した。▼▽俳優渡辺えりさんの父正治(まさじ)さんも教師として同じ時代を生き、山形市で95年の生涯を閉じた。会葬者に手渡した「お礼の言葉」でえりさんが綴(つづ)っていた。父は東京の軍需工場で働き、九死に一生を得る。終戦後は教育の大切さに思い至り働きながら山形大に入り先生となる。▼▽教え子たちを愛した分、慕われもした。「尊敬する人」として1位シュバイツァー、2位は渡辺先生と挙げられたほどだった。「格差や差別のない平和な世の中を希求していた」とえりさん。戦中戦後を生き抜いた人々の軌跡は、未来への道標ともなる。忘れてはなるまい。(山形新聞・2022/05/22)

 「本題に入る」前にといいいたいところですが、そもそも「本題」が、これまで書き散らされてきた駄文にはないものですから、何をどこから、どこまで駄弁っても構わないという勝手な方針を立ててやってきました。入り口もなければ出口もない、やめがかろうじてかぶさっているの孕みたいな、殺法請けいな場面ですね。各地の新聞コラムに毎日目を通し、ああでもないこうでもないといいながら、好き放題に読み飛ばしている。記者の方々には相済まないと、反省やら感謝やらを感じつつ、それにしてもわずか五、六百字ほどの文章に、苦心惨憺の跡が見えると、ぼくはそれだけで感じ入ってしまいます。

 山形新聞のコラム「談話室」、このタイトルがいいですね。談話とか談話室という雰囲気が、なんだか余裕を与えてくれそうで、気分までゆったりしてくる気がするのです。ラウンジとかチャット、あるいはトークなどと、いかにも気軽に話し合えるというその雰囲気が好ましい印象を与えてくれます。さて、その「談話」の内容ですが、教師あるいは教育者の思い出の寄ってくるところ、か。ある異国の思想家は「教室」は meeting place といいました。言いえて妙だと、ぼくは感心しました。教室は話し合いの場、異なる意見同士がそれを持ち寄って、さらによりよいものにしていくば、それが談話室ですね。この島社会の学校、あるいは教室が、実際に「談話室」だったら、さぞかし楽しみももっとあったでしょうね。ミルクはいかがですか、と先生が伺いを立てる。ブラックにしてくださいと、子どもたち。でも現実には「教室」は「教えるところ」「教えられるところ」、ミルクどころじゃないんだね。

 この駄文録では、これまでに何度も無着成恭氏については触れてきました。戦後の学校教育の中でも忘れられない教師の一人だったことは間違いありません。その仕事の内容や評価に関してはさまざまな意見があります。ぼく個人は、大いに評価するものです。だからと言って、そのすべてが「ブラボー」だというのではない。俗に「毀誉褒貶」ということを言います。つまりは「ほめたりけなしたりすること」を指し、まさしく口さがない「世間の評判」を言うのでしょう。師範学校を出て、生まれた村の隣の中学校の教師になります。戦後の新制中学校の「社会科」教師でした。「山びこ学校」は、その中学校三年間の教師と生徒の「格闘」「共同」のあかしとして記録されたものでした。その場q限りの真剣勝負で、再び同じことはできない相談でしたね。出版当時、村や家庭の「恥部を晒した」と散々の非難が浴びせられた。しかし、地元以外ではびっくりするような高い評価を得たのでした。子どもの「詩」が文部大臣賞を受賞するというおまけもついて、「やまびこ」は全国各地に響き渡りました。その後の無着さんは、あるいは別の人生を歩かれたともいえます。それに関してはここでは述べません。(教育・授業は一瞬で終わる。後に何が残されるか、誰にも分らない、そんな玄妙な付き合いが教育なんですね。一瞬の邂逅こそが、求められる仕事なんですね)

 教師の仕事(その中核は授業です)をどのように見るか、その見方は簡単なことではありません。いや想像以上に困難な事柄に類します。これは特に教師に限りませんが、すべての人に評価されるということはあり得ない。たった一人の子どもの中に、その後の人生にかかわる「大事」を刻したなら、それだけでも優れた仕事だともいえます。教師の仕事は授業だけではありませんが、少なくともその授業の中で子どもたちに何事かが生じたなら、それはそれで、仕事を成しえた人間(教師)の冥利ともいえることなのでしょう。成績が上がる、受験に成功するというのも、教師の助力があったからこそともいえますが、そんなところに「仕事の核心」があるとは思えないのです。

 教師の仕事にかかわって、もっとも重要なものとなった言葉は、「出会い(encounter・begegnen・rencontrer)」というものだと、ぼくは思ってきました。いろいろな「出会い」がありますが、教師にとっても子どもにとっても「一期一会」というものなのかもしれない、そう考えると、仇やおろそかには教師はできないと、ぼくは腰砕けになったのでした。「一生に一度だけの機会。生涯に一度限りであること。生涯に一回しかないと考えて、そのことに専念する意。もと茶道の心得を表した語で、どの茶会でも一生に一度のものと心得て、主客ともに誠意を尽くすべきことをいう」(デジタル大辞泉)ということになるのでしょうか。何かを教えるなどということなどではなく、もっといわく言い難い「出会い」や「交流」がそこに生まれる。時には、ほんの一瞬の出会いであったかもしれないのに、それが生涯の方向を決める縁(よすが)になるということもあるのです。

 「出会い」というのは、出会い頭という語もあるように、思いがけずぶつかり合う、予期しないで、行き合うということでしょう。他人が万端準備をしていない限り、ほとんどの「出会い」は文字通りに「エンカウンター(encounter)」です。「〈思わぬ相手と〉遭遇する 〈人と〉(偶然)出くわす」(デジタル大辞泉)が原義です。入学して同じクラスになり、そこで初めて付き合いが始まるという具合です。友人だった人が、保育園に入ったときに一緒になった女の子と結婚した。以来七十数年を経て、いまだに仲良く共同生活をしている。こんなことがあるのです。付き合いの長さが尊いというのではなく、「出会い」「付き合い」の質の問題なんですね。

 ぼくにも若干の経験がありますが、どんな教師が担任になるのか、なんどか担任との「出会い」の記憶が残されているのです。その学校の、その時期に行かなければまず「出会わない」、そんな人々との「出会い」があるのです。無着さんの最初の印象は、実に強烈であったと多くの元生徒たちが証言しています。もちろん、生涯を左右されるような「出会い」だった人も少なくなかったし、その反対もいたことは事実です。(この間の事情については、佐野眞一著「遠い『山びこ』」(新潮文庫)に詳しく描かれています)

 どのような「出会い方」をするか、当事者を含めて、だれにもわかりません。教職の怖さと凄さはここにあるともいえます。面倒は避けますが、教師は「何かを教える・伝える」、しかし、それ以上のものが「教えられる・伝えられる」のです。教師は当たり前のこと(知識)を与えたかもしれないが、子どもの側は、それを教師の想像も及ばない深さで受け入れるということはいくらもあるでしょう。もちろん、その反対も数限りありません。「教師の一言が、自分を救ってくれた」と、卒業後何年も経って、殺人事件を犯した青年が獄中で述懐しています。

 これはどこかで触れていますが、「遺愛集」を残した(書いた)死刑囚の島秋人さんの言です。担当教師は、そのことをすっかり忘れていたが、ある時突然、当人から「手紙」が届いて、島さんの境涯を知ることになる。学校にはほとんど行けず、知能に遅滞を見せていた島さんでしたが、絵の時間に「君の構図だけはいいぞ」と教師から言われた、その思いを監獄に入ってしみじみと想起するのです。ありきたりの(当たり前に考えられている)出会いや付き合いではない、常軌を逸したともいえそうな「出会い」が果たされる、その可能性をはらんでいるのが「教職」ではないでしょうか。

 渡辺えりさんの父君について、ぼくは知るところはありません。しかし、その教職における仕事ぶりは、「山びこ学校」と比較できない、唯一性・独自性を持っていたのでしょう。このような父上につながる渡辺さんを羨ましくも思うのです。「格差や差別のない平和な世の中を希求していた」と父のことを語る娘。この願い(希求)が実現したかどうかではなく、そのような姿勢・態度(思想)を持ち続けたというところに敬意を表したい。その志(こころざし)を壮としたい、というところでしょう。もちろん、すべての教師はそれぞれに、自らの思いを持ちづけているだろうし、持って教職に就いたのでしょう。しかし、さまざまな「制約」「悪条件」がそれを許さないのも、現実だというべきです。近年、教職を志望する人が減少しているのは、世の中の何を示しているのか。教職の魅力が失せた理由はどこにあるのか。それは政治の問題であり、経済の問題でもありますが、人と人が「出会う」ということの意味合いが著しく阻害されていることも無縁ではないように、ぼくは考えています。

 ぼくは教師失格でしたから、教師や教職についていささかたりともものは言えないのです。しかし、教職に限定しないで、「出会い」「交流」ということを考えるなら、そこには未知との遭遇が満載されていると、ぼく自身の経験から学びました。「この子はこの程度」という見くびった評価は死んでも下せないし、「この人間はダメだ」と、いかなる行状を見たとしても、「それを言っちゃあ、おしまいよ!」と、ぼくは寅さんになります。「足したり引いたりする」部分だけを重んじる、あるいは無知を謗るだけの教育は、おそらく「教育」ではないのでしょう。「そんなものは、消えてなくなれー」という地点から、おそらく何事かが始まる。それをぼくは「教育だ」といってきたように思います。

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 その場かぎりの熱心さ、そんなものは嘘だ

 〔これもまた、一つの教師論〕たいていの先生は、熱心にわかりやすく教えれば子供たちも授業に熱中するはずだとおもって、悩んだりしている。でも、そうはおもわない。

 先生がうまい口調で教えていると、その場はいかにもわかったように見えるし、はたからもすごくいい授業のように見えるかもしれない。でも、それは嘘だとおもう。上手に教えて子供も熱心に聞いているように見えるのは、先生の側も生徒の側もうまく上辺をとりつくろっているその場のことだ。その場かぎりの熱心さにすぎない。そんな授業が効果を上げたとしても、まあ、いい高校へ行くのがせいぜいで、こころの底から生徒が「いい教師だ」と感じることはないはずだ。

 熱心な先生、そしてそれを熱心に聞く生徒、というのはいつも「見せかけ」だけだ。(吉本隆明「『遊び』が生活のすべてである」『家族のゆくえ』所収。光文社、2006年)(ヘッダー写真:『林竹二の授業 ビーバー』 グループ現代資料)

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● 吉本隆明【よしもとたかあき】(1924-2012)=詩人,評論家。東京生れ。東京工業大学卒。1952年詩集《固有時との対話》を私家版で刊行。以後,詩集《転位のための十篇》,評論《高村光太郎》や《文学者の戦争責任》(共著)などで既成左翼を超える文学・政治思想を確立する。1960年安保闘争への関与(その発言は《擬制の終焉》(1962年)など収録)以降,その思想は1960年代末の全共闘運動など左翼学生・労働者闘争に広汎な影響を与えている。また1961年同人誌《試行》を創刊(11号以降単独編集),言語を〈表現〉とみる言語論を導入した《言語にとって美とは何か》(1965年),国家の共同性の問題を扱った《共同幻想論》(1968年),《心的現象論序説》(1971年)など数々の評論を発表。古典文学論に《源実朝》《初期歌謡論》,宗教論に《最後の親鸞》などがある。他に《〈反核〉異論》《マス・イメージ論》など,多数の著作があり,著作集がある。(マイペディア)

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 後期高齢者になってから、もう何年も経過しましたから、そのせいかもしれません。「去る者日々に疎し」という言い伝えが、やたらに身に応えるというか、身に染みてきます。吉本さんが亡くなられて、十年も経ったのだ。いまさらののように「もうそんなに経ったのか」「早いものだなあ」と実感している。「徒然草(三十段)」に、「年月ても、つゆ忘るるにはあらねど、『去る者は日々にし』と言へる事なれば、然(さ)は言へど、その際(きは)ばかりは覚えぬにや、由無し事言ひて、打ちも笑ひぬ。(から)は(け)疎(うと)き山の中に納めて、然るべき日ばかり、詣(もう)でつつ見れば、程無く、卒都婆生(む)し、木の葉、降り(うづ)みて、べの、夜の月のみぞ、こととふ縁(よすが)なりける」(第三十段)

 「亡くなった直後は悲しくはあるが、日々それもなくなってくる」と、後に残されたものの「薄情」をいさめるような書きぶりではありますが、親兄弟の死に際してもそうなのだから、ましていくら親しくあっても、縁者でもない限りは、日々気持ちも薄れてくるのは、決して薄情ばかりではなく、それは「人情の機微」というものかもしれません。「この世の無常」の深さをいささかでも思わないではいられません。さすれば、今生の「毀誉褒貶」など、何ほどのことがあろうかという気にもなります。

 ぼくは吉本さんとはいささかのかかわりもありません。単なる読者として、彼の書いたものから、なにがしかの教えを受けたといえばいえる、その程度のことではありますが、それにしても「光陰矢の如し」ともいうように、死者は、脱兎のごとくにこの世を去ってどこに行ってしまうのだろうと、情けないことを愚考するばかりです。その吉本さんの「教師論」「教育論」に類するもので、このことについては、どこかでも触れていますが、やはり「刺激的」というか、べったりとした、馴れ馴れしい「(子どもと教師の)仲良し教職論」は唾棄すべきものという雰囲気が、ここにも濃厚に表明されています。

 「上手に教えて子供も熱心に聞いているように見えるのは、先生の側も生徒の側もうまく上辺をとりつくろっているその場のことだ」というのは、彼の実感であり、実体験からの言ではないでしょうか。ものを教えるというのも、ものを学ぶというのも、もっと「野性的」というか、いかにも上品で、取り澄ました雰囲気などからは、まず生まれないというのです。確かにそうだと、ぼくも経験から実感してきました。覚えて、試験に間に合うような「勉強」「学習」なら、それでもいいでしょうが、実際には、そんなものは何でもないというところに吉本流が活写されているのではありませんか。

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日日し=《「古詩十九首」其一四の「去る(ひび)に以て疎く、来たる者は(ひび)に以て親しむ」から》死んだ者は、月日がたつにつれて忘れられていく。転じて、親しかった者も、遠く離れてしまうと、しだいに親しみが薄くなる。(デジタル大辞泉)

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 学童期(およそ12、3歳頃まで)というのは夢中で遊ぶ時期です。遊びが生活のすべてだというのはそのとおりで、これは経験しないとわからないことです。早い段階から「遊びと勉強」のけじめつさけさせられたものには理解できないかもしれませんが、子どもの生活は遊びだというのです。だから、そのような子どもに、日々長時間接する教師があまりまじめならば、かならずそこにすれちがいというか、いきちがいが生じるにきまっているんです。だから、吉本さんはつぎのようにいうのでしょう。

 「この時期の子供たちの遊びは全身的なものだ。先生も全身でぶつかって授業をしようと考えるのは勘違いだとおもう。先生のほうは年齢をとっているわけだから、自分は遊ぶ代わりに好きな勉強でもして、その合間にちょっといっしょに遊んだり教えたり、というぐらいの気分でいればちょうどいいに決まっている。そういう接し方が、生活全体が遊びだという時期にふさわしいやり方だとおもう。そうでなければつくりものだ。タテマエだけの嘘になってしまう。…この時期に仮面のかぶり方などを教えられた生徒は生涯を台なしにするに決まっている」(同上)

 でも、なかなかそうはいかないようです。学校というところは教師を自然体にさせてはくれないのです。子どもからも親からも、さらには同僚からも上司からも「いい先生」にみられたい。みせたいと思わせる雰囲気が濃厚にあるからです。自分を正直につかんでおれば、たいていの教師は「いい教師」面でいることには我慢できないのですが。

 まるで八方美人のようなふるまいをして自分を追いこむから、どこかに無理がくるのでしょう。さらにそのような教師たちに対して、かさにかかって「指導力不足」教員追放の狼煙をあげているのが教育委員会をはじめとする行政の姿勢です。自分たちのことはうんと高い棚にあげておいて、教師いじめをしているのですから、いい教育・授業ができるきづかいはないといいたいですね。ここまでくると、学校とはなんのためで、だれのためにあるのかと大きな疑問・不信感をぶつけたくなります。

 まるで、それは政治や経済、あるいは行政のために存在しているのであって、子どもたちのためになっていないということだけは断言できるのではないですか。もうそん「新学年」も五月半ばを過ぎました。新卒の教師の方々も、一息つきたい時期でしょうか。普段には見られない「コロナ禍」はまだ続いていますから、なおさら、気が張る事ばかりでしょうが、深呼吸くらいはゆっくりとできる、そんな姿勢を持ち続けたいですね。今日日(きょうび)、教師になろうかという若い人々が極めて限られてきました。その理由はどこにあるのか。子どもは言うまでもなく、教師だって、取り繕う必要のない、普段着のままの「自分」を隠さないで、子どもや教師仲間と交わってほしいですね。

 「熱心な先生、そしてそれを熱心に聞く生徒、というのはいつも『見せかけ』だけだ」という隆明さんの直言は、図星をついているんじゃないですか。「熱心」を装うことはむなしいことさ、といういい加減さ、ゆるさも必要じゃないですか。隆明さんが学生のころの経験を語って、「教師は何も教えなかった、だから私は学んだ」という率直な言がありました。「教師は教えた、だから…」と続きます。

 いろいろな角度から、学校とはなんだろう(?)と、これからも問いかけてみたいですね。

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 『戸塚さんのスクールに行かなかったから、今、ここにいるんです』

 一週間ほど前(五月六日)に、戸塚ヨットスクールと「暴行死事件(と裁判)」に触れて、「体罰教育論」を駄弁ってみました。判決を受けて「服役」てからでも、すでに十五年以上が経過しています。何をいまさらといわれそうですが、ぼくにとっては、彼の提起した事件と、それがもたらした結果は大きな課題となり続けてきた。だから、何度でも、この「体罰と教育」(「体罰教育」と「教育体罰」については。繰り返し立ち戻って考えなければならないと思っているのです。

 「教育は体罰だ」とか「体罰教育論」というと、いかにも乱暴に思われ、暴力容認を連想・直観させる。実際にそうであるから、大きな問題となったし、いまでもなっているのです。戸塚氏によると「いい体罰」、あるいは「正しい体罰」というものがあるのだそうです。本当にそうかどうか、ぼくには大いに疑問です。思い余って、仕方なく加える「体罰」ということはあるのでしょうが、それが「教育である」ということは、かなかなか認められないと、ぼくは考えている。ここで持ち出すのは適切かどうか、ぼくには疑わしいのですが、誤解を恐れずにあえて出すなら、森鴎外の「高瀬舟」の場面です。自殺したが、死にきれなかった弟の頼みで、止めを刺した兄は、「自分がしたことを知って」「知足していた」というのが主題となっていました。「悪いとはわかっていたが、見かねて殺した。罪に服す」という態度でした。戸塚さんの「体罰」には、このような「知足」があったかどうか。あったとしても、世間はそれを認めなかったのだといえます。

 (この「安楽死」「自殺幇助」)については、すでにどこかで触れています)(註「たかせぶね【高瀬舟】[書名]森鴎外の小説。大正5年(1916)発表。弟殺しの罪により、高瀬舟島流しになる喜助の、知足境地安楽死の問題を描く」デジタル大辞泉)

 家庭内で暴力を振り、命の危険を感じつつ、最後の手段として「体罰」以外に手はないという場合、あるいは「正当防衛」ということがかかわってくるのではないかとも愚考している。戸塚ヨットスクールの提示した問題のおおよそは、そこにあったのではないでしょうか。

〔戸塚宏さんへのインタビュー〕
ホリエモン 山より海においでよ…戸塚宏校長本紙単独インタビュー 
体罰で訓練生2人が死亡、2人が行方不明になった「戸塚ヨットスクール」事件で、傷害致死罪などで服役、先月29日に出所した同校の戸塚宏校長(65)が5日、スポーツ報知の単独インタビューに答えた。戸塚氏は「体罰は教育」と改めて独自の教育論を展開し、健在ぶりをアピール。一方で約3か月ぶりに保釈されたライブドア前社長・堀江貴文被告(33)について「社会のスケープゴートにされたのは私と一緒。親しみを感じる。うちの学校においで」と熱いエールを送った。
―4年にわたる刑務所生活はどうだった―
「人権を侵害された。暴力はなかったが、言葉の暴力というのか、精神的に痛めつけられた。行進させられる時も『腕を前方に90度振れ』と言ったと思ったら『110度にしろ』とかね」
―戸塚ヨットスクールとどちらが厳しい?
「ヨットスクールは教育機関ですよ。刑務所も矯正教育機関のはずなんですがね。どっちがなんて話にならない。役人のダメさ加減がよく分かった」
―中ではどんな生活を?
「午後7時から9時まで限定だけど、テレビが全チャンネル視聴できるから、世間の様子は知っていた。新聞もスポーツ紙はOK。社会面も読んでいましたよ(笑い)」
―同時期に保釈されたホリエモンも知っていた?
「知ってるよ。ライブドアだっけ。彼も私と同じようにスケープゴートにされているね。粉飾決算なんて誰でもやってるのに、一人で悪者にされて。親しみを感じるよ。彼が『山に行きたい』って? 海においでよ。一緒に楽しくやろうと言いたいね」
―堀江被告は塀の中で百科事典を読んでいたそうだが―
「僕は自分の教育論を完成させるため、仏教と儒教の本を読みあさった。原本で読みたいから、冊数制限があるのに辞書を持ち込んだりと大変だった」
―なるほど―
「何人もの囚人が『戸塚さんのスクールに行かなかったから、今、ここにいるんです』と話してましたよ(笑い)」
―体は鍛えていた?
「運動は平日に30分しかできなかった。だから食事制限して体重を10キロ落とし、必要な筋肉量を減らしてから、足の筋肉維持のためのストレッチをやった。また割りとかね」

 「体罰」以外に、その子を救う、子どもの暴力を阻止する方法が見当たらない(と、当事者に思われた)時、加えられた「体罰」は「養育」や「教育」にも等しい意味(効果)を持つのでしょうか。戸塚氏の言うような「正しい体罰」と聞かされれば、ぼくには直ちに「悪い教育」というものが連想されます。いつも言う如く、「体罰と教育」という二点間には、「手を出す教育」と「口で語る教育」の無数の混交・混在があるのでしょう。極度の「成績重視」は、もうすでに「体罰」の境域に入るとは言えないでしょうか。こんなことを言えば、顰蹙を買うのは目に見えていますが、何時だって、学校教育においても「悪い教育」が横行しているとぼくには考えられるし、それは「子どものためを思って」といいながら、実際は、教育の名を借りた「(物理的力によらない)体罰」そのもので、そんな見たくもない風景はいたるところで見られるのですから。

―スクールの現状は。
「訓練生が6人いる。私が出所後に入学の申し込みが急増し、数十件は来ている。子供たちに対処するカウンセラーなどに限界を感じ、親御さんが厳しい指導をする我々のやり方を求めているということかな」
―事件当時と指導方針は変えた?
「23年前に私が逮捕され、(いったん)保釈された後にスクールを再開して以降は体罰はしていない。やったら、また捕まるからさ。海を相手にした激しい訓練は続けているが、教育の効果が薄れたね。体罰を用いた指導なら1~3か月で卒業させられたけど、今のやり方では1年はかかる」
―やはり体罰は必要?
「『体罰は教育』という考えに変わりはない。スクールに来る生徒は、人間の本能が弱い子ばかり。本能を呼び起こすために体罰を用いるんだ。最近の子供が妙な事件を起こすのは本能が弱いからだ。小学生が突然、友人を殺したりもする。罪の意識もなく、してはいけないことを平気でしてしまう。本能を刺激するために時として痛い思いをさせないといけない」
―その「体罰」が問題視されてきたが―
「『正しい体罰』は質と量が大事で、バランスを間違えると、ただの暴力になる。あの事件では私は量の部分で間違っていた。そこは反省している」 
―最近の引きこもりやニート問題など、子供の気質も変わった?
「人間は成長する過程で、3歳ごろに母親から独立するため、13歳ごろには家庭の外に出るため、反抗期を迎える。ニートが生まれるのは反抗期がなかったからで、そこも本能の弱さと関係する。すさんだ世の中になった原因は何なのか。体罰を否定してきた日本の教育現場、そのイメージを作り上げたマスコミにも責任があると思う」
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◆ 戸塚 宏(とつか・ひろし)1940年9月6日、旧朝鮮・清津生まれ。65歳。第2次大戦後に帰国し、59年、名古屋大工学部に入学。65年から国際ヨットレースに参加。75年、太平洋単独横断レースに出場し、41日間でゴールする世界記録で優勝した。77年、ヨット訓練を通して情緒障害児の矯正、治療を目指す戸塚ヨットスクールを開設。83年、訓練中に生徒2人が死亡、2人が行方不明になった事件で傷害致死容疑などで逮捕され、02年、最高裁で懲役6年の実刑が確定。06年4月29日、刑期満了で静岡刑務所から出所した。著書に「私が直す!」などがある。(2006年05月06日06時07分  スポーツ報知)

 「体罰は教育だ」という信念で独自の「体罰教育」を実践をされていた戸塚さんが、スクールの訓練中に訓練生2名の死亡者と2名の行方不明者をだし、「傷害致死」の容疑で逮捕、裁判では懲役六年の判決が確定。静岡刑務所に収監されていました。引用したのは、刑期満了で出所された直後のインタビューです(2006年5月)。

「第11条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」(学校教育法)

 もちろん、「戸塚ヨットスクール」は、学校教育法に規定された「学校」ではありませんから、この「11条」は直接的には関係ありません。したがって、つけられた罪状は「傷害致死」であったのです。戸塚さんは「自分の教育実践を否定した裁判は認められない。教育行為における事故だったのだから、『業務上過失致死』なら納得する」といわれています。

 「体罰は教育だ」といえば、ひっくり返ったり、目をむいたりして驚く(ふりをする)教育学者や評論家がたくさんいます。たしかに体罰はしないほうがいいにきまっている。やさしく愛情をもって接して、それで「情緒不安定(障害)」をかかえた人の問題行動が治るのなら、です。万策尽きた、そのあかつきにヨットスクールに最後の望みを託した関係者の思いはどうであったか?

 「体罰がいいかわるいか」、そんな理屈をこえたところでヨットスクールでは、鍛え、鍛えられる者それぞれの「いのちをかけた闘い」が展開されていたことだけはたしかです。それは「事実」であったという意味です。「海を相手にした激しい訓練は続けているが、教育の効果が薄れたね。体罰を用いた指導なら1~3か月で卒業させられたけど、今のやり方では1年はかかる」(戸塚氏)

 映画化される段階で「事件」が明らかになり、裁判になったこともあって、公開は延期されたという事情がありました。この映画のもとになったのが上之郷利昭さんの「スパルタの海 甦る子供たち」でした。このドキュメントは、はじめは東京新聞に連載されていたと、ぼくは記憶しています。昭和五十年代初めでした。ぼくは衝撃を受けたし、連載を熱心に読み、単行本になった段階でも購入して再読三読した。当時、「手に負えない家庭内暴力(いまでいうDV)」が猛威を振るい、不幸を絵にかいたような、悲惨な事案が各地で生じていた時期でした。以来四十年、事態は変わったのかどうか、むしろ深く静かに潜航して、家庭と学校における教育問題は混迷を深め、その垂れ込める暗雲は湧き出すことを止めないように思われます。この時期には、ぼくもまた、いろいろな方面から「相談」を受けたり、問題を投げかけられたりしていました。もちろん、ぼくには「特効薬」のあろうはずがありませんでしたから、ひたすら、親や子どもと話し合うことしかできなかった。校内暴力も激しさを加えていたし、いわば、学校を戦場にした「教師・子ども・親」たちの「三つ巴の戦い」は熾烈を極めていたように記憶しています。

 そのような時代状況下で「私が直す」と手を挙げ、「手を出していた」のが戸塚さんたちだった。当時においても、「体罰」に関しては賛否こもごもだった。いろいろな事件や事故の連続した結果、今日では「体罰容認」は極めて少数派になりはしました。一面では当然ですが、しかし世論の「暴力否定」「体罰反対」の声が高くなったから、それだけ教育の場で体罰がなくなったかといえば、単純に、そうは言えないのは当然でもありました。しばしば「しつけ」が問題になり、厳しい「しつけ」の挙句、子どもを死に追いやるという事件や事故が後を絶ちません。「しつけ」の一環で、手を出したということはいつでもどこにでもあることでしたし、事態は今でも変わりません。しかし「しつけ」の結果、怪我をしたり死に至るとなると、事情は異なってきます。「しつけ」のほとんどは「養育」「教育」の範疇に入るでしょうが、中にはそれを大きく「逸脱」している場合も少なくありません。その境目を画するもの、あるいは違いを示す標(しるし)は、どこにあるのでしょうか。この「体罰と教育」問題は、それぞれの事態・事情に即して考える以外に手はなさそうにではないかと、ぼくは考えている。

 社会が「暴力に寛容」であった時代はとっくに過ぎてしまった。しかし、言葉を尽くして「教え諭す」ことがまず不可能であるという状況も、どこにでもあることは否定できない、その際、ぼくたちにはどんな方途が残されているのか。何十年経過しようが、「体罰は悪」であることを認めたところで、教育の場で「体罰」は駆逐されないのです。戸塚さんの「正しい体罰」とは何でしょうか。彼の語るところを伺っても、「正しい体罰」というものが見えてこない。しかし、親も周囲も学校も「万策尽きた」、その時に、残された方法があるとするなら、「それは正しい体罰である」ということになるのでしょうか。今のこの瞬間に「身を挺して、子どもの暴力を阻止する」ほかに、彼・彼女とともに生きる道がないと暗闇に道を失う人がいる限り、この「体罰に拉致された格好の教育」は消滅しはしないでしょうし、だからこそ、いつでも問われ続けなければならないのでしょう。

(「体罰」は容認できないと、ぼくは一貫してきました。しかし、「一貫」してきたのは「容認できない」という姿勢であって、時には「手を出す」こともあったかもしれません。ぼく自身は、手は出さなかったが、手を出す人は後を絶たないのは事実として認めなければなりません。「飲酒運転は厳罰」という法律が制定されても、酒を飲んで運転し、挙句に事故を起こす人はいなくなりません。「体罰をする」ことと「飲酒運転する」ことを並列するのはよろしくないことはわかっています。問題の中核は、それを「なくする」ためには、何が求められるのかという問題であるでしょう。

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