書物は憲法の核心と密接不可分の間柄だ

 【大観小観】▼図書館が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)系の関連本を所蔵していたからといって問題はあるまい。あらゆる分野の本をそろえて誰もが学べる機会を提供するのが図書館の使命である▼県立図書館で関連本、それも総裁の講演集ともいうべき本が見つかったというのは、希少本を所蔵していたということにもなろう。担当者が「取り扱いを検討」するというのはおかしな話で、続けて「検閲をしないのは図書館の使命。内容にあからさまな人権侵害などがない限り、貸し出しは続ける」と語った正論とはいささかの矛盾がある。担当者も宮仕え。正論が通じぬ世界にいることも先刻承知だからかもしれない▼人事、財政に絶大の権限を持つ総務部から関連本の調査を指示されたという。「なんのため」などと聞くわけにもいくまい。「検閲」に抵触しかねないが、とにかく調べて20冊と答えたが、韓総裁の〝講演集〟はすっぽり抜け落ちていたというから、しまらない話だ。出版社名だけで検索したせいという。お粗末極まる▼指示する方も従う方も「検閲の禁止」、表現の自由に関わる憲法問題を突き詰めて考えたことなどないのだろう。宗教の自由についても場当たり的にしか考えていないから県の随所に入り込まれているのことに各部門とも「知らなかった」▼県立図書館は平成八年頃、部落解放運動団体の一つ、全国部落解放運動連合会系の図書を県の方針に合わないとして閉架に移したことがある。自分たちが図書の選別、すなわち検閲をした。時々の風向き次第で右でも左でも。もとより芯はないのだろう。(伊勢新聞・2022/10/27)

 旧統一教会関連本を所蔵 三重県立図書館「取り扱いを検討」 三重県立図書館(津市一身田上津部田)が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の韓鶴子総裁による講演をまとめた書籍を所蔵していることが分かった。図書館は9月に旧統一教会と関係する蔵書の有無を調べたが、この書籍の存在を把握していなかった。記者が図書館で発見したことをきっかけに発覚。図書館は「書籍の取り扱いを検討する」としている。/ 図書館によると、この書籍名は「地球家族」(泰流社)。韓氏が世界平和女性連合の総裁として平成3年から同8年にかけて講演した内容を記載している。韓氏を「神に選ばれた女性」などとする解説もある。/ また、図書館は蔵書検索システムで、この書籍について「統一教会の文鮮明氏の妻にして、世界平和女性連合の総裁である鶴子女史の初めての講演集。宗教的な内容が中心」と紹介している。/ 図書館は9月、総務部の指示を受けて旧統一教会と関係する蔵書の有無を調査。当時は20冊が判明したが、いずれも「宗教的な内容が中心の書籍ではない」などとして貸し出しを継続していた。/ 図書館企画総務課の担当者は25日、取材に「この20冊以外に教会と関係する蔵書はない」と答えたが、記者が司書に依頼して地下の書庫から取り寄せた書籍を示すと「知らなかった」と語った。/ 9月の調査では教会との関連が浮上している出版社名だけで検索したことから判明しなかったという。この書籍が出版された平成8年ごろに購入したとみられるが、購入の経緯は分かっていない。/ 担当者は書籍への対応について「館内で議論することになる」とした上で「検閲をしないのは図書館の使命。内容にあからさまな人権侵害などがない限り、貸し出しは続けると思う」と話している。(伊勢新聞・2022/10/26)

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 毎度のことで、いちいち応接する暇もないと言いたいところです。昨日から「読書週間」だと言うらしい。本とか書物というのは「文化」の象徴とされ、毎年「文化の日」を間に、二週間を「読書週間」と、某所が定めたといいます。良書と悪書などといって、街から悪書追放運動なるものも見られてきました。なにが悪書か、読んでみなければわからないじゃないかという気もします。これは「悪書」と、誰か、本の目利きが読んで判断しているのでしょうか。

 珍しいことに、伊勢新聞から二本の記事です。三重県は親父のおふくろ(ぼくの祖母)の出身地、なにかと懐かしさを覚えますが、この記事内容については、少しは考えて見る必要があると、取り上げた次第です。今回は、たまたま旧統一教会が問題視されている時期だったので、この団体関連本が槍玉にあげられています。しかし同じような事例は過去にいくらもあった。

 「図書館が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)系の関連本を所蔵していたからといって問題はあるまい。あらゆる分野の本をそろえて誰もが学べる機会を提供するのが図書館の使命である」、この趣旨に反対する理由はありません。表現の自由を持ち出すまでもなく、誰かが恣意的に(勝手な基準で)「検閲」に結びつく行為をしては「図書館」の名が泣くでしょう。いかなる内容が書かれていたとしても(あからさまな人権侵害や名誉毀損に該当するもの以外は)、検閲(選別)は許されないと言うべきだ。今回の「旧統一教会」関係者の著作物であっても、図書として排斥するのは行き過ぎているのではないですか。三重県は「人権問題」に鋭敏というか、いくつもの経験を蓄積されてきていると、ぼくなどは考えていたものですから、このような事態が生じることを見るにつけ、今までの「人権啓発」は何だったのかと言いたい気がします。いや、実態は人権侵害の見本市のようだから、「啓発」に躍起になっている・いたのかもしれない。

 「県立図書館は平成八年頃、部落解放運動団体の一つ、全国部落解放運動連合会系の図書を県の方針に合わないとして閉架に移したことがある。自分たちが図書の選別、すなわち検閲をした。時々の風向き次第で右でも左でも。もとより芯はないのだろう」という時、まず「検閲」と「選別」を混同しているのはどうでしょうか。図書館の場合は多く、「選書」「選定」というようですが、なにを基準にそれをするかが、明確であるべきだし、時勢に動かされてはならないのは当然。このような「権力」の匙(さじ)加減で貴重な「文化」(「思想」)が左右されてきた歴史を忘れてはならないと思います。いかなる内容であれ、特定の基準によって、特定の書物は排斥されてはならないと、ぼくは考えているのはいうまでもない。ごく一般的な意味で、ぼくはこれまでに、相当に評判の悪い、いわゆる「悪書」を読んできました。だから、ぼくは「ダメ人間」になったというのではない。元々駄目だったのですから、「悪書」は何の影響もぼくに与えなかったでしょう。却って「良書」の中にこそ、本物の「悪書」があったようにも経験してきました。「本物の悪書」とは、ぼくにとって、不愉快極まるものであり、結果として「人権蹂躙」が根底にあるものでした。そんなものは、街中で出会えるものではありませんし、まして、図書館ではありえないでしょう。

 これはいい本、これは悪い本と、誰が見ても一目瞭然、そんな便利な基準がありそうに見えますが、なかなか簡単には測れないでしょう。結局は、その本を手にする「読者」が決定するのが根本だし、もっとも大事なところです。でも、時にその判定能力が未熟な場合もありますから、それなりの手当て・手助けは必要です。年齢や能力に一切関係なく、どんな本でも「図書館」に収め、誰にも読めるようにすべきだと、ぼくは言うのではありません。これは「常識」に属することですが、その「常識」を持たない大人や青年たちがいることも事実だから、間違いや過ちがあり得ることを想定して、しかも「検閲」や「選別」はすべきではないと言うのです。図書館館員や官吏が「検閲】まがいのことをするのは、認め難いし、これ「悪書」だとして、民間人が徒党を組んで「青少年健全育成に資するものではない」と、自らの選択によって、現代版「焚書坑儒」をしたこともありました。あるいは、ぼくが知らないだけで、今日も「焚書」は行われているのかもしれません。

● 焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)=中国、秦(しん)の始皇帝による思想言論弾圧事件。始皇帝の天下統一から8年後の紀元前213年に、博士淳于越(じゅんうえつ)が古制に従って子弟を封建するよう建議したのに対し、丞相(じょうしょう)の李斯(りし)は、学者たちが昔の先例を引いていまの政治を批判するのを禁止せよと上奏した。始皇帝はその主張をいれて、『秦記』(秦国の史官の記録)および医薬、卜筮(ぼくぜい)、種樹(しゅじゅ)(農業)の書物以外は、『詩経』『書経』や諸子百家の書を民間で所蔵することを禁止し、すべて焼き捨てることを命じた。さらに翌年、始皇帝を批判した疑いのある方士(ほうし)、儒生460人余りを検挙し、都の咸陽(かんよう)で「坑(あなうめ)」の刑に処した。旧中国における第一の思想言論弾圧事件とされるもので、とくに禁書令による文化的損失は大きかったが、その後10年もたたぬうちに秦帝国は滅亡した。(ニッポニカ)

 

● 悪書追放(あくしょついほう)=社会的に悪影響のある書籍雑誌の出版や販売を中止させること。 1963年の場合のように,青少年条例の有害図書指定を根拠とすることが多く,言論,表現の自由を圧迫しがちである。(ブリタニカ国際大百科事典)

● あくしょ‐ついほう〔‐ツイハウ〕【悪書追放】青少年に有害な雑誌を追放しようとする小売書店の運動。昭和38年(1963)10月、山梨県の甲府書籍雑誌共同組合が始め、全国各地に広がった。(デジタル大辞泉)

 ここで「憲法」を持ち出すのも、意味のないことではないように思われます。図書館員、あるいはお役人は、骨の髄まで「憲法」に鎧(よろ)われていないんですね。時流・時勢に漂流している限り、「人権」はあらゆるところで危殆に瀕し続けるに違いありません。「公務員」が憲法に無関心であっては、人民には立つ瀬(面目)がないがな。

日本国憲法第14条
1 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

日本国憲法第20条
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

日本国憲法第21条
1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

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 読書週間の歴史 終戦まもない1947年(昭和22)年、まだ戦火の傷痕が至るところに残っているなかで「読書の力によって、平和な文化国家を作ろう」という決意のもと、出版社・取次会社・書店と公共図書館、そして新聞・放送のマスコミ機関も加わって、11月17日から、第1回『読書週間』が開催されました。 そのときの反響はすばらしく、翌年の第2回からは期間も10月27日~11月9日(文化の日を中心にした2週間)と定められ、この運動は全国に拡がっていきました。/ そして『読書週間』は、日本の国民的行事として定着し、日本は世界有数の「本を読む国民の国」になりました。/ いま、電子メディアの発達によって、世界の情報伝達の流れは、大きく変容しようとしています。しかし、その使い手が人間であるかぎり、その本体の人間性を育て、かたちづくるのに、「本」が重要な役割を果たすことはかわりありません。/ 暮らしのスタイルに、人生設計のなかに、新しい感覚での「本とのつきあい方」をとりいれていきませんか。/『読書週間』が始まる10月27日が、「文字・活字文化の日」に制定されました。よりいっそうの盛りあがりを、期待いたします。(公益社団法人 読書推進運動協議会:http://www.dokusyo.or.jp/jigyo/jigyo.htm)

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 「喉元すぎれば、熱さを忘れる」と言われます。今では喉元を過ぎないうちに、熱さを忘れるという病理が蔓延しているのではないでしょうか。ぼくなら、さしずめ「雨晴れて笠を忘る」ということではなかったか。反対に「羹(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹く」ということもあります。どちらか一方に偏するのではなく、いつでも「自らの不注意を防ぎたい」「不注意に注意したい」ということです。晴れもあれば雨もある。曇りもあれば土砂降りもある。天気は自然現象(だった、その昔は)ですから、人為的にコントルールはし難い。そこへ行くと「人事」はなんとか「自制」できるのですよ。でも、時勢と言うか、時代の流れという「人為現象」が「価値基準」を勝手に作り、それをあらゆるものに当てはめたくなる、それが、世にいう「政治」ですね。「旧統一教会」は悪だが、「創価学会」は善であると断定はできないのは、ある人間が全面的に「善」であり、別の人間はまるごと「悪」でないのと同様です。一人の人間には「善」と「悪」の両面が存在しています。

 もっといえば、健康の心身に病気の部分が、病気の心身に健康な部分がきっとあるのです。だから、大事なのは、全体を見通す、見抜く、そんな洞察力を育てることです。そのための大きな作用は、いろいろな場面における「教育」によるものです。学校教育も家庭教育も、あるいは社会教育も、すべてが共同・協力して、一人の人間の「判断力」や「注意力」を育てることに責任がある。交通信号のように、誰かが「赤・青・黄」の判定(命令)者の役割を果たすような集団(社会)は、決して健全な集団(社会)ではない。己の判断を誰かに依存するというのは、まことに知恵のない話です。誰か(権威筋)が「正しい」というから、自分も「正しい」と思う、というのは「判断力」や「批判力」の放棄を意味する。まるで、羽のないトンボじゃありませんか。

 誰かにとって「悪書」でも、別人には「人生を導く好著」になりうる。それを判断するのは個人です。なによりも、個々人が自らの「判断力」を育てる、そのためのかけがえのないサポートになるのが、外からの教育作用です。間違えてはいけない。成績を上げるとか、偏差値を高めるのもいいけれど、そんなアホみたいな「教育」で生み出された人間たちが、結果として、この国を破滅の縁にまで導いてきたんじゃないですか。読書週間にふさわしくないかもしれませんが、「良書・悪書」の見極めができる判断力や知恵こそが、他人に左右されない「自立した」人間を生むでしょうね。本の効能(読書経験)は、ここにもありそうです。まず本を読もう、その次に、それは自分にとっていい本だったか、よくない本だったか、おのずから判明するのですから。(「他山の石」という訓戒は、一冊の本においても妥当しないでしょうか)

 ネットの時代、本に限らず、あらゆる情報媒体が錯綜・氾濫しています。その一つ一つを「選別」し、区分けして「排斥」するのは至難の業というより、すべきではないことでしょう。情報統制がどんな不幸を人民にもたらされるか、ぼくたちは、毎日のように、東欧で起こっていることとして見せつけられているではないですか。政府が「白」というから、黒いカラスも「白」という、それは自分を偽ることです。自分を偽ることは、何のためでしょうか。権力の忌諱に触れるからですか。「白旗作戦」などという性悪の政治が戦争を引き起こし、他国の人民を殺戮し、自国民すらも路頭に迷わせる。おかしいことはおかしい、それを自らの生活の信条(ビリーフ)にすることがなければ、ぼくたちは自失したままで生きさらばえているというほかありません。ネット情報であれ、それを読む力がなければ、足元を救われます。その力本を読み取る力と選ぶところはなさそうです。

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 汚職防止の日を。スポーツが食い物にされてるぞ

 【南風録】きょう10月10日は、58年前に東京オリンピックが開幕した日である。大会を記念して「体育の日」となり、さまざまな行事を通して国民の健康増進に寄与してきた。◆祝日は10月第2月曜日に移され、おととしから「スポーツの日」と名称も変わったが、体を動かしたりイベントを開いたりするにはいい季節である。語呂合わせもしやすいのか、日本記念日協会認定の記念日が一年で最も多い日という。◆「銭湯の日」は「1010(せんとう)」が由来の一つ。「運動した後に入浴すれば健康にいい」と、アピールする意味もある。「お好み焼の日」は「ジュージュー」と焼ける音から取った。知恵と工夫があふれていて面白い。◆「転倒予防の日」は日付を「10(てん)・10(とう)」と読んだ。骨折して寝たきりになる場合もあるので適度な運動を心掛けよう。外出時だけでなく、部屋を整理して、つまずくリスクを減らしておきたい。◆協会の登録はないが、日本かつお・まぐろ漁業協同組合が制定した「まぐろの日」でもある。山部赤人が奈良時代、兵庫県の明石地方を訪れ、マグロ漁で栄える姿をたたえて歌に詠んだことにちなむ。◆いちき串木野市ではきょう、「マグロのまち」をPRしようと即売会が開かれる。市内の飲食店16店では月末まで、各店がそれぞれ工夫を凝らしたオリジナル料理が並ぶ。思い思いに楽しむ秋の一日を。(南日本新聞・2022/10/10)

● スポーツの日(すぽーつのひ)=10月の第2月曜日。「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培(つちか)うとともに、健康で活力ある社会実現を願う」ことが趣旨の国民の祝日。1966年(昭和41)「国民祝日に関する法律」の改正により建国記念の日、敬老の日とともに体育の日として追加制定された。それ以前は10月の第1土曜日がスポーツ振興法による「スポーツの日」とされていたが、1964年の東京オリンピック大会開会式の日を記念して10月10日が「体育の日」となった。その後の法改正により2000年(平成12)から10月の第2月曜日となり、さらに2020年(令和2)に名称を「スポーツの日」と改めた。各地で体力検定や運動会といった関係行事が繰り広げられる。(ニッポニカ)

 語呂合わせが好きな人が多いというのか、いかなる日でも「記念日」にしたい人が多いのか。この十月十日は「記念日の特異日」なんでしょうね。今から五十八年前の今日、東京五輪の開会式が行われた日でした。今ほどあからさまではなかったが、世間が騒ぐと、ぼくは横を向くという、素直ではない気風がその当時もあり、五輪開催にほとんど関心を持たなかったと思う。ところが、それから一年後の十月十日。在学中の大学が、運動会(体育祭)を国立競技場で行うことになった。なんでも、卒業生だった大臣の肝いりで、どこよりも先に国立競技場を使うことに国威ならぬ、大学威を発揮したかったらしい。ぼくは参加する気もなかった。ところが、「体育祭」当日、競技場で「出席をとる」「無断欠席の場合は、体育の単位を与えぬ」と知らされた。それでもぼくは参加したくなかったけれど、友だちに誘われていやいやでかけた。当然、競技には参加しなかった。

 (当日は、予想に反して「二回の出席確認」があったそうだ。ぼくは一回だけ「出席券」を提出して帰ったのだった)(競技場に行くだけで「出席した」ことにするとは、なんという愚かなと思った。まさに「体育の日」にふさわしいかったのでしょうかな。大学には、世間に対する「メンツ」があったんでしょう、せっかく競技場を使うのだから、学生を集め(一杯にし)なければ「沽券」にかかわると考えたのだ。もちろん、大枚の使用料を払って)

 下らないことをする学校に入ったと悔やんだが、後の祭り。記憶は曖昧ですが、その年度の「体育」の単位は落としたと思う。今から考えても(こういうことは言わないほうがいいのですが)、「大学入学」は、我が拙(つた)ない人生のなかでも最大の失敗だったと、繰り返し自他に向かって言ってきました。京都という狭い土地から逃げ出したついでに入った大学でしたから、どこでもよかった。もちろん、「旧統一教会」ならぬ「旧帝大」は忌み嫌っていました。しかし、一つの大学しか「入学」はできないと考えていましたので、その大学(新宿区にあった)に決めたが、なにかと惨めなものでした。ぼくがだめになったのは、その大学のせいだというつもりはありません。しかし、実際に授業に出てみて、教師連中の程度の低さは驚異的なものがあったと思う。授業というか、職務に不忠実で、平気で「無断欠席・欠勤」をする教師が五万といた。遅く来て、早く終わるのもいた。学生は言うまでもない。「教室」がまるで、門のない、出入り自由の公園状態だった。当時、その大学は無門を売りにしていました。

 いまは、当時よりもさらに劣化が進んでいて、救いがたい状況にあると推定します。もちろん、勝れた仕事をされていた教師がたくさんいたのは事実です。そういう教師たちに、ぼくが出会わなかっただけ。また、「研究と教育」がまったく揃っていない教師が目白押しでした。(一回限りの人生です、これは失敗だったという経験もまた、人生にはつきものですな。「取り返しがつかない」というのは、いわれるほどのものではなく、いつだって、その気にさえなれば、「取り返せる」のです。「再起不能」はあっても、どこまでも「再生可能」なんですね、人生は)

 もとに戻します。「十月十日」です。当初は「体育の日」でしたが、二年前からは「スポーツの日」となったという。改名の理由はなんでしょうか。どうでもいいことですが、「国民の休日」が多すぎるのはたまりませんね。休みを増やせば民衆・民草は喜ぶだろうという、法律を作る側の民衆を見下した根性がイヤですね。「銭湯の日」(今では風呂代は五百円を超えている時代、「銭湯」もないものです)、「お好み焼きの日」(広島限定ですか)「転倒防止の日」(毎日が、そうではないんですね)「まぐろ(真黒)の日」(意味不明。「真白の日」がほしい)と、何でもかんでも「語呂合わせ」というのも芸のないことです。東京五輪開催記念日でもあるのですから、「汚職(贈収賄)解禁日」に対抗する「国民の忌日」も設けてほしいね。

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 札幌五輪の二度目の開催がもてはやされている(ハヤシているのは、電通やその取り巻き連中だけでしょう)。あるいは大阪万博も二度目の開催が決まっている。一体この社会には、年がら年中「汚職の日」があるのじゃないかと思われるほどに、なけなしの「税金」を誤魔化す輩が、いたるところに棲息しているのですから、手に負えませんね。反対に「汚職防止の日」、あるいは「電通不通の日」、さらには「角川沈が丸川になる日」など、あらゆる悪の、あの手この手を記憶するための、特別記念日を設け、あるいはカレンダーを作って、そこら中に張り巡らせてはどうか。

 ついでに言うのですが、ぼくがスポーツが嫌いになったのは、それを食い物にする輩が後を絶たないからです。スポーツには、それぞれにルールがある。そのルールに外れることが平気で行われているのが、スポーツ界の現実ではないでしょうか。細かいことは言いませんが、あらゆるスポーツが(選手も含めて)、金まみれになっているのが目に付きすぎるのです。宣伝の時代であることは確かです。でも、アスリートは、その宣伝の波に溺れているんじゃないかと思うくらいに、彼や彼女の身体の前後左右、上から下までが「広告」漬け。歩く・走る・投げる・飛ぶ・泳ぐ「広告塔」ですね。これではスポーツ精神は病むほかないでしょうな。

 「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培(つちか)うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う」という記念日の趣旨に反していませんか。もっとも、この綴り方も「スポーツの日」にふさわしくない、いかにも運動不足を明らかに示すような駄文でした。とはいうものの、ぼくには駄文を綴るのも、草を刈り取るのも「運動(スポーツ・体育)」です。もちろん、猫と戯れるのも、ね。理屈の上からいうと、毎日が「運動の日」なんだ。

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 雉も鳴かずば撃たれまい ー ほんとに撃たれない?

 【くろしお】国鳥 野鳥の観察を始めた知り合いが「キジをまだ見てない」という。宮崎市でも郊外の河川敷やあぜ道で、たまに見かけるのでポイントを教えた。キジとはまさに「でくわす」感じ。顔を見合わせて互いに驚く。▼キジは飛ばずに、とっとこ走って逃げ出す。その足の速いこと。春は「ケーン」と高く鳴いていたが、今の季節も茂みの中にいるはずだ。元生物の先生で岐阜県恵那市の山中に住む伊東祐朔さんが最近「日本の美 国鳥『雉(きじ)』」という写真集を出して送ってくれた。▼そう、キジは「国鳥」。日本鳥学会によって選ばれた非公式な称号だが、日本を代表する鳥として愛されている。真っ赤なほっぺが特徴的な鳥だが、軽トラの荷台から撮ったというキジの羽、特にオスの模様と色合いは複雑で見飽きぬ美しさだ。長い尾も堂々としている。▼トキでもタンチョウヅルでもなく、キジが国鳥になったのはなぜだろう。日本固有種の留鳥ということもあるが、童話・桃太郎の従者になるなど古来、人々の暮らしに身近な存在だからと推測する。ところで本県の県鳥コシジロヤマドリもキジの仲間だが、残念ながら野生ではめったに見かけない。▼国蝶(ちょう)(オオムラサキ)、国旗、国歌…。「国」を冠すると重厚さが格段に増す。なじみの薄かった「国葬」はどうだろう。安倍元首相の国葬に否定的な意見が増す。岸田首相は弔問外交の意義も挙げたが、広く国民の理解を得るには丁寧な説明が求められよう。(宮崎日日新聞・2022/09/07)

 国鳥が「雉」であるとは、知りませんでした。公式であれ、非公式であれ、国鳥として指定された雉にとっては幸いであったかどうか。猟師はいろいろな獲物を狙いますが、この「(非公式)国鳥」は各地で撃ち殺されています。ぼくがうんと小さかった頃、雉は大変に貴重な鳥(食料源)でした。名前は知ってはいたものの、それを口にしたことはなかった。タンパク源としても高価なものだったように記憶しています。今では拙宅の、荒れ放題の庭にもやってきます。散歩中にはいつでも出くわします。「これが国鳥か」という意識はぼくにはないし、こんなところにウロウロしていると「撃たれるよ」という気になることもありません。この近辺で、雉を撃ち殺して食べるという話はあまり聞きませんから。 

 本日のテーマは「ものをいう」の是非です。昔から「雉も鳴かずば撃たれまい」と、国鳥に対して恐ろしい「俚諺(りげん)(ことわざ)」が伝えられてきました。恐らく、極めて限られた地域で使われていたものだったでしょう。その言うところは、以下の「解説」にあるとおりです。この「俚諺」の出所は明らかではなく、時には「日本昔ばなし」の「人柱伝説」(石川県)からとするようですが、ぼくには、その真偽はわかりません。もっと、わからないのは、「鳴くのは雉の本能」であって、鳴いたら撃たれるとはどういう加減か、理不尽な。「雉」ではなく「鳥」とする場合もあります。雉にしろ鳥にしろ、鳴くなというのは酷というもの。鳴こうが鳴くまいが、猟師は撃つことに勇むばかりです。

 それを人間用に応用し「余計なことは言うな、撃たれる(口は禍いを招く)ぞ」と、一体誰が言ったのか。「口は禍の門」「舌は禍の根」「病は口より入り、禍は口より出ず」と、じつに「口に気をつけろ」「余計なことは言うな」と、ひたすら黙らせることに懸命な様が見られます。一体誰が言うのでしょうか。「黙っていればいい」という沈黙のすすめは誰の差し金なんでしょうか。「沈黙は金」だともいう、本当に「口」の始末に往生している様子が見えてきます。(まんが日本昔ばなし「雉も鳴かずば」https://www.youtube.com/watch?v=Ut5RkKTb6YE

 コラム氏の言う「『国』を冠すると重厚さが格段に増す。なじみの薄かった『国葬』はどうだろう」はどうだろう。「国」が決めたんだから、文句をいうなといいたいのでしょうが、さて面妖な。いったい、「国」とは何のこと、誰のことか。「朕は国家なり」というたぐいなら、御免被るし、その「朕」なるものにも、即刻に退場を願うね。「国」を冠すれば「重厚さが格段に増す」と仰るか。「国賊」はどうか。「国債」は?「国辱」も(「売国」も)ありますよ。重厚ではなく、罪深さがいや増すということですね。「国」は入れ物みたいなもの。人民が雨露をしのげるための装置で十分です。それがやたらな装飾を図るからややこしくなるのです。といえば、「余計なことは喋るな」と言われるか。「余計」とは、誰にとってなのか、それが問題でしょう。

● キジ(きじ / 雉)(pheasant)=広義には綱キジ目キジ科キジ亜科キジ族に含まれる鳥で尾の長いもののうち、クジャク類とセイラン類以外の総称。狭義にはそのうちの1種。/ キジ科には5亜科があり、そのうちのキジ亜科は、ウズラ、コジュケイなど比較的小形で尾の短い種を含むヤマウズラ族と、大形で一般に尾の長いキジ族とに分けられる。キジ族には、ジュケイ属Tragopan、ニジキジ属Lophophorus、キジ属Phasianus、ヤケイ属Gallus、コクジャク属Polyplectron、クジャク属Pavoなど、16属約50種が属し、アフリカ産のコンゴクジャクを除いてすべてアジアに分布している。雌雄は異色異型で、雄は足に大きなけづめをもち、羽色と飾り羽の美しいものが多い。雌はじみな褐色のものがほとんどである。(ニッポニカ)

● 雉も鳴かずば打たれまい=自分から何も言わずにいれば、災いをこうむることもないというたとえ。/ [使用例] 一文を掲げ、だいぶ拙者に向かって挑戦せられているので、今ここに一管の筆を執っていささか応砲するの止むなきにいたったしだいだ。俗諺に言う「雉子も鳴かねば撃たれまい」とはこのことだ[牧野富太郎*本田正次博士に教う|1970]/ [解説] 長柄の橋などの人柱伝説とともに伝承された古歌「物いはじ父は長柄の橋柱鳴かずば雉も撃たれざらまし」の後半部がことわざとなった形です。事が起きてしまってから、当人の不用意なことばが災いを招いたと非難したり、責任を転嫁する用法も一部にみられます。(ことわざを知る辞典)

 ついでに、こんな「文句」が出てきます。いわく、「口は災いの元」、あるいは「物言えば唇寒し秋の風」という俳句まで。もちろん芭蕉作です。ぼくはこの句が好きですが、広く伝わる解釈(通説)には大反対です。「余計なことを言うな」と芭蕉翁は言ったとされるが、それは違うでしょうね。芭蕉は、断じて道学先生ではないと、ぼくは別の読み方をする。それが作者の句作動機にかなうかどうか、大いに怪しいが、「余計なことは喋らない方がいい」という抹香臭い解釈よりも、こちらを取りたいんだな。秋風が寒々と吹いている。こんな時は「口を開けない方がいい」「口を開けると、唇が寒くなるではないか」と、それだけです。冷たい風が開いた唇を冷やすのは、よくないね。「口を開く」は「喋る」ばかりをを意味しないのです。

 この句の出典は「芭蕉庵小文庫」(元禄九年三月(1696年)刊)という句集に出ています。編者は中村史邦で、蕉門のひとり。本職は医者でしたから、あるいは「医は仁術」なりとばかり、「道」を説いていたかもしれません。彼の編纂になる「小文庫 秋」の最後に「座右の銘 人の短をいふ事なかれ 己が長をとく事なかれ」と前書きして、「物いへば唇寒し穐(あき)の風」とあります。「他人の欠点を論(あげつら)うな、自分の長所をを見せびらかすな」と。芭蕉はこんな「説教」をしましたかね。これは史邦の態度(座右の銘)だったんじゃないですか。芭蕉は言う、口を開けるだけで、寒風が唇に吹き付ける、いかにも冷たい秋の風だな。

●物言えば唇寒し 悪口を言ったり、自慢をしたりしたあとは、寂しい気持ちになるということ。転じて、よけいなことを言うと災いを招くという戒め。[使用例] 泣くと地頭には勝つべからざる事を教えられたる人間たり。物いえば寒きを知る国民たり[永井荷風*江戸芸術論|1920][使用例] そういうふうに意味をストレートにとられてしまうところに座談のむずかしさがあるのだが、近ごろはぼくもなるべく安全圏を保っている。「もの言えば唇寒し」である[手塚治虫*ぼくはマンガ家|1969][由来] 「芭蕉庵小文庫―秋」が伝える、松尾芭蕉のから。この書物では、まず、中国の後漢王朝の時代の学者、崔瑗の「座右の銘」から、「人の短をいふ事なかれ 己が長をとく事なかれ(他人の短所を指摘しない、自分の長所を自慢しない)」という一節が引用されたあと、「物いへば唇寒しの風」という芭蕉の句が掲げられています。                                          [解説] ❶崔瑗の「座右の銘」は、いわゆる「座右の銘」の本家。平安時代以降、日本でもよく読まれた名文集「文選」にも収録されていて、有名です。芭蕉はそれを踏まえた上で、悪口や自慢話につきまとう後味の悪さを、「唇寒し」と表現したのでしょう。ものさびしく吹く秋の風は、自己嫌悪の心象風景ともなっています。❷つまり、本来は「謙遜の気持ちを忘れないように」という戒めのことば。それが、「災いを招かないように」という意味に転じたのは、「唇亡びて歯寒し」の影響だと思われます。これは、助け合う片方が滅びると、もう片方にも災いが及ぶことを意味する、故事成語です。(故事成語を知る辞典)

● なかむら‐ふみくに【中村史邦】=江戸中期の俳人。別号、五雨亭。尾張国(愛知県)犬山の人。はじめ尾張藩寺尾直龍の侍医。仕して京に上り、仙洞御所に仕えた。元祿三年(一六九〇)京にあった芭蕉に入門。同六年江戸に下ったが、句作活動は衰えた。「猿蓑」に発句一四句がみられる。著「芭蕉庵小文庫」。生没年未詳。(精選版日本国語大辞典)

 秋風が「立つ」ということも言われます。もちろん秋風が「吹く」の言い換え(たとえ)ですが、秋を「飽き」にかけて「男女の仲がうまくいかなくなる」のに擬(なぞら)えるわけです。といえば、わが後期高齢者の二人に「秋風が立」って以来、何年になるのでしょうか。寒々と、まるで木枯らしのごとく、凍てつくように、というのは言いすぎかな。いずれにしても「秋の風」は、けっして「お勧めします」とは行かないようです。物申す、ものをいう、それは当たり前に生きている証でもあり、誰かにとって不都合なことだって言わねばならぬことがある。言われて気づく人もいれば、馬耳東風という輩もいる。特に政治においては「民意」を尊重する「フリ」が常時見られます。「国民の皆様のご意見を伺って」などと、しおらしい言葉だけは口にしますが、都合の悪いことには耳に栓をする、それが今風(いつでも風)政治風儀なのでしょう。

 物を言う、それは選挙の投票結果についても妥当します。最新の例です。沖縄知事選で現職が圧勝した。「米軍基地の辺野古移設」は絶対反対、それを正面から訴えて当選した。よく選挙で「選ばれる」といいますが、選ばれるのは候補者ではなく「選挙民」なのだと、はっきりと受け止めてもらいたいですね。候補者が選挙民に選ばれるのは表面のこと、実態は、選挙民が選ばれるのです。選挙の結果の示すところは、「辺野古反対」という選挙民が当選したのです。それを「辺野古移設が唯一の策」と、馬鹿の一つ覚えのように政府(国ではない)はいう。「最良の政策」と、十年一日のように唱えるのはなぜでしょうか。日米関係に照らして、下剋上はまかりならぬと、隷属政府(国ではない)として、一貫して束縛されているからです、身動きが取れなくなっているからです。

 民意を聞く、民意に聞く、民意を問う、なんとでも言いますが、初めから「不都合なことは聞きません」と言っているようなもの。政治そのものが民主主義を蹴飛ばし、踏み躙っているのです。沖縄県民の「民意はこうでした、だから辺野古移設はできません」と、政府はアメリカに言えないんですね。物申せない。「物言えば唇寒し秋の風」なんだかなあ。国ではなく、「日本の政府」が「アメリカ政府」の手下(てか・てした)だという意味でしょ。

 政府も行政も「国」ではない、でも「『国』を冠すると重厚さが格段に増す」と、本当にそう思っているのですから、各方(おのおのがた)は、手に負えない唐変木ですな。「国」は「庇(ひさし)」か「軒」みたいなもの、あるいは「家」だと言ってもよい。要するに、悪天候にさらされないために使い道のある、もの(道具)にすぎない。「国が決める」というが、それは国を騙(かた)る(詐称する)手合の使う常套手段です。

 「国」が頭につこうが、後ろにつこうが、重みが増すんじゃなく、虫酸が走るんです、ぼくは。国難というのは、何なんですか。誰の責任でこの始末をつけるんでしょうか。まさか、人民を「人柱」にするつもりじゃないでしょうね、いやとっくにそうしているんでしょうか。国難去って、また国難。国難は続くよどこまでも。国難というけれど、その地に住む「人民が蒙る災難」なんですね。

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 自然も息をしている、森は生きている

 【明窓】土砂崩れは大地の深呼吸 自家製みそにする大豆を自然栽培で育てており、この時季は週末の早朝、草刈りにいそしむ。根こそぎ刈ったり抜いたりはしない。どの草も必要だから生えており、草の頭をなでるように刈る。すると地中で細根が増え、土が軟らかくなる。徹底除草すれば土中は一気に乾燥し、イネ科などの強い植物がはびこる▼山梨を拠点とする造園家で環境再生医の矢野智徳さんは、これを「風の草刈り」と名付ける。矢野さんを追ったドキュメンタリー映画『杜人(もりびと)』を先日、雲南市で観賞した▼植物が枯れ生き物が減りゆく各地を巡り、矢野さんは「大地の呼吸」が弱っていることに気付いたという。大地の血管である水脈がコンクリート構造物でふさがれて、水と空気が循環せず、固まり傷んでいるのが原因。そこでスコップや重機で穴や溝を掘り、分断された水脈をつなぎ、窒息寸前の大地に息を吹き込む。「土砂崩れは大地の深呼吸。息をふさがれた自然の最後の抵抗」。矢野さんの言葉が深く胸に刺さった▼作家の故石牟礼道子さんも、テレビ番組で同様のことを言っていた。場所は、抗議活動で足を運んだ水俣病の原因となった工場の本社前。アスファルトに覆われた街の姿に「東京の大地は生き埋めになっている。その上のビルは近代の卒塔婆だ」と▼コンクリートの堅さで災害に強い地域を目指す国の国土強靱(きょうじん)化(か)対策が時にもろく、恐ろしく感じる。(衣)(山陰中央新報・2022/08/28)

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● 矢野 智徳 (やの とものり)元 一般社団法人 大地の再生 結の杜づくり 顧問 合同会社 杜の学校 代表=1956 年福岡県北九州市生まれ、花木植物園で植物と共に育つ。東京都立大学において理学部地理学科・自然地理を専攻する。全国を放浪して各地の自然環境を見聞し、1984 年、矢野園芸を始める。/ 1995年の阪神淡路大震災によって被害を受けた庭園の樹勢回復作業を行う中で、大量の瓦礫がゴミにされるのを見て、環境改善施工の新たな手法に取り組む。/ 1999 年、元日本地理学会会長中村和郎教授をはじめ理解者と共に、環境 NPO 杜の会を設立。/ 現代土木建築工法の裏に潜む環境問題にメスを入れ、その改善予防を提案。在住する山梨県を中心に、足元の住環境から奥山の自然環境の改善までを、作業を通して学ぶ「大地の再生」講座を開催。(https://daichisaisei.net/#about)

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 もう二十年の昔になりました。知人でもあった、沖縄の建築家Mさんが「沖縄県は、一人あたりのコンクリート(セメント)消費量は世界一」だと言われていたことを思い出します。地形的な問題から、「台風の通り道」とも呼ばれていたのですから、むべなるかなと、強く記憶に残りました。また、その昔話とほぼ同時期、「コンクリートから人へ」という軽薄なキャッチフレーズを飛ばした政党や政治家がありましたが、コンクリートならぬ「人材不足」と「不勉強」で政権の座を奪われた(転げ落ちた)ことがあった。それに変わって登場したのは、旧来型の土建国家建設で政治を占拠・独占した利権第一主義の政治家たちでした。「国土強靭化」などという、おぞましい政策(なのか?)、いや政治題目で、劣島をコンクリートで固めようとしたのでした。コラム氏が書かれている石牟礼さんの表現(告発)の場面を、ぼくはよく記憶しています。「東京の大地は生き埋めになっている。その上のビルは近代の卒塔婆だ」いよいよ、「現代の卒塔婆」は高さを競っている。愚かしいこと限り無し。(右は熱海の崩落事故現場、2021/07/04。下も)

 この一月ほどの間、日に数時間の割で、「草取り」を続けてきました。敷地内の大方を済ませたところです。最初に刈り出したところには、すでに別の草が、元気に成長している。この繰り返しで、まるで「いたちごっこ」ですが、ぼくはまず「除草剤」は使わない主義です。大した理由はない。草木が枯れる(死ぬ)ということは、間違いなく人間にも、動物にも危険が及ぶと経験済みだからです。除草剤や殺虫剤に関しては、これまでにも何度か触れています。要するに、ある環境に住んでいる(棲息している)「生命体」を外部からの毒性の威力で「根絶やし」「絶滅」にするということでしょう。どうしても、やむを得ずという場合もありますから、必要最低限度の使用に気を配ってきました。除草という「切のない作業」は、少なくとも、年に三回は行うことにしています。

 ぼくが住んでいるところは、標高百メートル。小さな山の頂上です。大雨が降ると、しばらくして「地下水」の流れる音がはっきりと聞こえてくる。ものすごい勢いで流れている。その地下水道の真上に住んでいることになります。もちろん、湿気が多くて生活に支障を来すことはありますが、それをコンクリートで固めて地下水脈を閉ざすという考えは起こってこない。近所の田んぼの畦道は、大半が土ですが、中には護岸よろしく、コンクリートで固めているところも見られます。年々、それが少しばかり増えてきたように感じています。

 「土砂崩れは大地の深呼吸。息をふさがれた自然の最後の抵抗」という指摘はそのとおりでしょう。三年前の今頃、台風の直撃で街に出る道路は崩落した。山に降った雨水の流れる道が奪われていたから、自然の摂理で、坂道を下るように、土砂を削って流れる道を作った結果、道路は何箇所か崩れ、つい最近まで、その修理に時間と金を費やし、それ以前よりさらに強固なコンクリート道路を作ったのです。台風の爪痕はまだ何箇所か残されており、その修復の過程もつぶさにたどれる。前よりも強靭で強固な工事をしたのでしょうが、それを上回る豪雨はきっとやってくる。それに負けじと、「国土強靭化」が叫ばれるという仕組みで、土建業やそれに群がる政治家たちが利権を漁(あさ)る・得る仕組み(政治)が整っているのです。

 築二十年、三十年の家屋(多くは木造)を重機で破壊している現場に遭遇して、何度も辛くなった経験があります。作るのと変わらないような費用がは破戒するのにかかるという、どういう魂胆なんでしょうか。コンクリート造りでは半世紀しか維持できないが、木造なら、一世紀にわたり住んで生活することができます。よく暇にあかせて、ぼくは法隆寺などのことを調べたりしました。創建当時使用された檜(ひのき)の部材は樹齢千年を超えていたといいます。それからさらに千年以上が経過して、なお「ひのき」は生きていると言われました。山と川は兄弟です。一体不可分の「全体」を構成しているもので、山を荒らせば川が暴れることは、誰にもわかりやすい現象です。にも関わらず、山を荒らし、川を暴れさせて、その御蔭で「国土強靭化」政治が止むことがないのでしょう。(「杜人」予告編https://www.youtube.com/watch?v=ySrnMT2v1ls&t=224s

 この時世、まだ機会が得られていないので、「杜人」は観ていない。おおよその見当はついていますから、急いで出かけようとは思いません。加えて言うと、この矢野さんのような方は、各地に沢山存在しておられ、それぞれが貴重な仕事をされていると思う。小さい頃から、近所に植木屋さんや林業関係の仕事をされている家があったので、自然に森林や植物に親しくなった。思い切り、それに近づいて職業にするということはありませんでしたが、ぼくの関心は一貫していたように思います。樹木医という職業の職人の何人かを、ぼくは知っています。

 いらぬ心配かもしれませんが、今年は「台風の当たり年」のような予感がしています。たくさん来るというのではなく、大きな被害をもたらすものが「いくつか」襲来するのではないかという危機感です。想定を遥かに超える豪雨はすでに何度も経験しています。自然現象が、純粋に「自然の出来事」とはいえない状況で、ぼくたちは大きな被害を受け続けている。こうなると、避けられる「戦争」と同様に、「准自然災害」(一義的には人災)から生命や財産を守護する確実な方法はどこにあるのか、それが問題となるでしょう。石牟礼さんの言われる「卒塔婆」は、高ければ高いほど値打ちがあると、誰が決めたのでしょうか。ひょっとすると、「なんとかも煽(おだ)てれば木に登る」の同胞ではないんですか。

 じつに迂遠な話に思われます。しかし「杜人」が成し遂げようとしている道を歩き続けることから、避けられる・避けられたであろう「災害」に遭遇しないで生きることが可能となるにちがいありません。今日の都会の「風物」はタワーマンションですね。これをして「バブルの塔」、いや「バベルの塔」と言ったらどうですか。すでにその条件は備えているし、何年か後には、始末に負えない「卒塔婆」となっているはずです。誰が、線香を上げるのか。

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● バベルの塔(バベルのとう)(Tower of Babel)=旧約聖書創世記』中に出てくる塔。大洪水のあと同じ言葉を話していたノアの子孫たちは,東方のシナルの平野に移り住んだとき,民族の分散を免れることを願って,煉瓦瀝青を用いた町と,天に達するような高い塔とを建設することを企てた。ヤハウェはこれを見て同一言語を有する民の強力な結束と能力を危惧し,彼らの言葉を混乱させ (バーラル) ,その企てをはばんだ。民は町と塔の建設を断念して各地に散った。この町はバーラルという語の発音に似せたバベルと呼ばれるようになった。この物語は,民族と言語の多様性を説明すると同時に,神と等しくなろうとする人間の罪を描いている。こうしてバベルの塔はノアの子孫たちの分散の原因となった (11・1~9) 。ただし『創世記』 10章における諸民族の成立の記事にはこの塔のことは触れられていない。バベル (バビロン) はアッシリアでは「神の門」の意味であるが,『創世記』はヘブライ語の語根バーラルと結びつけている。なおこの塔は,ジッグラトと呼ばれるバビロンのピラミッドをさすという説もある。(ブリタニカ国際大百科辞典)(左はブリューゲル画による「バベルの塔」)

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 治水・治山が国を起こすし、その反対に、治山や治水を騙って、人間の都合で乱開発する「自然破壊」は国を、いや土地や土地に住むあらゆる生命体(森羅万象)を滅ぼすことになるのです。環境問題は、地球規模で起こっている。ということは、ぼくたちの身の回り、生活範囲においても、当然のように生じていることになります。ペットボトル一つの始末に、実は困難を感じているのが現実です。リサイクルされるものの何倍もが、投棄され、環境汚染源になっている。海洋汚染は、少なくとも海洋環境に生息する「生物」を汚染し、翻って、それを食料とする人間にも危害が及んでいるのです。環境汚染の連鎖と言うべきです。人間もまた、「生態系」の環からは免れていない。 

 では、どうすればいいか、現実に発生している多くの問題は(頭では)理解されている。しかし、そのとおりに実行実施すれば、現在のコストを遥かに凌ぐから、結局は「今だけ」「この時代だけ」という、勝手主義や商売根性が汚染や破戒の修復不能状態を、近未来あるいは将来に確実に回しているのです。極めつけの「刹那主義(ephemeralism)」というべきです。

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 葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国

 【南風録】先週の本紙ひろば欄にため息が聞こえてきそうな投稿が掲載された。「朝、田畑を見ると本当にやる気を失ってしまいます」。薩摩川内市の山あいに暮らす吉川(きちかわ)幸子さんは野生動物による被害を嘆いた。▼最近までコメを作っていたが、被害がひどくてやめたという。「イノシシやシカが田んぼで寝転んで稲を倒して…」。暑さの中、手塩にかけて育ててきたのに、一晩で価値を失ってしまう。▼鹿児島県内の農家が抱える共通の悩みである。イノシシやシカ、サル、鳥たちが実ってきた野菜や稲、果樹を荒らして回る。県全体の農作物被害は年間約4億円に上るという。植え付けから日ごろの手入れまで流した汗が無駄になると思うと気の毒でならない。▼被害を抑えようと農家が行政や猟友会と手を取り合い、田畑に電気柵や防護柵を張り巡らせ、捕獲にも取り組んできた。その成果だろう。最近の被害額は横ばいからやや減少してきたと聞く。▼きょうは二十四節気の一つ処暑。立秋と白露の中間で、暑さが収まる頃とされる。収穫に向かって農作物が実っていく時季は、動物たちにも“おいしい季節”である。できるだけ被害なく収穫を迎えてほしい。▼期待される対策の一つに、残り物の野菜や果樹などを片付け、「餌場」をつくらないことが挙げられる。効果は担い手がいてこそ。豊かな農村風景を取り戻すために、何とかしなければ。(南日本新聞・2022/08/23)

 すでに房総半島地域では、稲刈りが始まっています。小生が住んでいる地区でも、もう十日もしないうちに稲刈りが始まりそうです。ついこの間、田植えを済ませたばかりという気がするのです。いかにも季節は巡るというのか、歳を取ると、時間は早く経過すると感じるのか。それにしても稲の成長は確実であり、連作に適しているとさえいえますね。先祖の労苦がわかろうというものです。いずれにしても、近所の田畑は獣害予防のための警備に怠りなしで、なんとも「殺風景」な黄金の波の打ち寄せる「瑞穂の国」です。田も畑も「電気柵」を張り巡らしてあり、見栄えは言うまでもなく、危険この上ない収穫時期の装いではあります。

 もっとも多く目にするのはイノシシでしょう。加えてシカ、まだサルはこの近辺には来ておりませんが、それも時間の問題で、房総半島は適当な森林があり、標高も高くないところから、気軽に半島を半周したり、一周したりするのはお手の物。鹿の仲間なのか、キョンという動物も、最近は夜泣きしているのが、すぐ家の側で聞かれます。顔つきに似合わない「悪声」、いや凄まじい鳴き声といったほうがいいようです。それを聞くと、身震いがします。ゾッとするほどの、凄みがある。これも住宅地は言うまでもなく、田畑を荒らし回っています。

 稲にとって害獣になるのかどうか知りませんが、その他、いくらも野生の動物が棲息しています。これらの動物が運び屋になって、人にも動物にも共通した、厄介な感染症を引き起こすウイルスも豊富です。以前も、どこかで触れましたが、年間のイノシシの「駆除数」は数千頭に達します。この「駆除」という表現はどうですか。人間からすれば、害獣なのかもしれませんが、あるいは、それは人間の生活環境(侵略行為)が生み出したものかもしれない。今では、害獣の「有効利用」などと悪ふざけがすぎるような気もしますが、「ジビエ」料理が持て囃されています。

 拙宅では畑は作っていませんが、時々、イノシシが訪れます。時期にもよりけりですが、庭の土をほじくり返しては、食い物を物色していきます。つい二ヶ月ほど前は、自宅前でばったり「ウリ坊」に出会いました。生まれたばかりと言う小ささでしたが、立派に本能を発揮して、土を掘り起こしていました。やがて、このウリ坊も成長して「美味しいジビエ」になるのでしょうか。

 野生動物が媒介して、人にも感染する多くのウイルスが認められています。今、猖獗を極めている「新型コロナ」も、特定はされていませんが、動物(鳥類)がもたらしたとされています。その他、ダニなどもじつに厄介な媒介手で、近年は「マダニ」からのウイルス感染で、各地で、何人もの死亡例が報告されています。拙宅の猫にも「マダニ」が寄生しないための予防薬として、ある医薬品を毎月使用している。じつに高価なもので、それだけの「効果」があるかどうか疑わしいと思いながら、人への感染も恐れるために投与しています。(「フロントライン」というもので、主成分を含め、毒性が強い物質が含まれており、あまり使いたくないのですが、今のところは、これに頼っています)

● ジビエ(じびえ)(gibier フランス語)=狩猟によって捕獲された野生鳥獣やその食肉。狩猟肉ともいう。ジビエを材料とするジビエ料理は、古くから狩猟の盛んだったヨーロッパでは浸透しており、狩猟が解禁となる秋から冬の季節には一般の市場にも出回る。ヨーロッパでは野禽(やきん)のキジ、ヤマウズラ、マガモをはじめ、野生の野ウサギ、シカイノシシなどの肉をさまざまな調理法で食している。/ 日本にも東北地方の山間部に居住した狩人(かりゅうど)の「またぎ」をはじめ、狩猟肉の食文化が古くからあり、シカやイノシシ、クマ、カモシカ、タヌキ、ウサギ、キジ、シギなどの肉が食べられていた。近年は狩猟肉を食べる慣習は薄れていたが、農作物被害や生活環境の保護の観点から、おもにシカとイノシシを捕獲するケースが増え、これに応じて狩猟肉を食べる場所や機会が増えた。

 2010年(平成22)の狩猟による捕獲数は、イノシシ約23万頭、シカ約17万頭で、年々増加している。とくに長野県や近畿地方の一部では、高タンパクで低脂肪であるシカ肉やイノシシ肉のよさを生かし、地域振興につなげようとする動きが活発である。2013年には関東地方で店舗展開するハンバーガーチェーンが、長野県産のシカ肉バーガーを発売して話題となった。/ 厚生労働省では野生鳥獣の肉を食用する際には、人獣共通感染症を防止するために生食を避け、十分加熱処理をするように呼びかけている。兵庫県森林動物研究センターが2007年に全国16地域で捕獲されたニホンジカ(976頭)について行った調査では、E型肝炎ウイルス抗体の保有率は2.6%であった。また、2006年の別の調査では、イノシシの抗体保有率は27.5%と高かった。シカ肉による感染の可能性は低いものの、食肉の加工処理過程でウイルスが付着する可能性もある。また、E型肝炎ばかりでなく、腸管出血性大腸菌感染症(O157)、寄生虫ウェステルマン肺吸虫に対する注意も必要であり、食べるときは十分な加熱処理が求められる。(ニッポニカ)

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 日本紅斑熱 千葉県内で増加 マダニから感染、昨年最多17人 野山や畑に入り病原体を保有したマダニにかまれると感染する「日本紅斑熱」患者が増えている。千葉県内の感染者は2012年から増加傾向にあり、昨年は17人で感染症法に基づく調査を始めた1999年以降、最多だった。今年の感染報告は1人だが、軽装になる6月ごろから増えるため、県衛生研究所は注意を呼びかけている。/ 同研究所によると、主な症状は頭痛、発熱、倦怠感で、体幹部から四肢末端部にかけての発疹や刺し口があるのが特徴。かまれてから発症するまでの潜伏期間は2~8日で、早期に治療をしないと命に関わる場合もある。/ 2012~21年の10年間の感染者は85人で、うち83人が6~11月に感染が判明した。年代別では60代以上が9割以上を占めた。20年8月には君津市の無職女性=当時(85)=が、右足首をマダニに刺されて感染し亡くなった。感染者が増加している理由は不明という。/ マダニは成虫で体長3~6ミリほど。山林や裏庭、あぜ道などの草の上に生息し、県内では南部の山間地域で多く発見される。農作業やレジャーで山林、草むらに入る時は軽装を避け、防虫スプレーやレジャーシートを使い、帰宅後は着替えて入浴することが重要という。/ 同研究所の担当者は「県内だけでなく全国的に増えている。ワクチンはなく、マダニに刺されない対策が必要。刺された場合は無理に引き抜くとマダニの一部が皮膚に残ってしまうことがあるため、医療機関を受診して」と促した。(千葉日報・2022年5月22日)

 長閑(のどか)な田園風景、日本の原風景、羨ましいスローライフなどと、いかにも都会生活者から見れば、農山漁村という、人畜共存地帯に対する精一杯の「お上手」なのかもしれませんが、住んでいる人間には、いろいろと気を使うことばかりが続くのです。我が家の猫は、すでに三回も「蛇に噛まれ」、急いで動物病院に駆け込みました。スズメバチも、いつも家の周りを見張っています。巣作りに適した場所探しのためです。大小取り混ぜて、色々な生き物が住んでいる、その隣にぼくたちも住んでいるというわけです。先住民はどちらかと言うなら、文句なしに「害獣」と蔑まれている者たちだったでしょう。この先、熾烈な(一方的)殺戮合戦が続けられるのでしょうが、どちらかが撲滅されてしまえば、戦いは終わるかもしれません。でも、どちらかが住めない環境に、一体何者が住むというのでしょうか。

 「生態系」というものを、もう一度考え直したいですね。その昔、鴇(とき)が群がって住んでいたとされる地域が近くにあります。鴇谷(とうや)という町です。今では地名のみになってしまいましたが、稲を荒らす「害鳥」ということで、大勢で撲殺して退治したと、記録には出ています。荒れ放題の庭に、時々「雉(キジ)」が立ち寄って、何かをしています。これらも、やがては「駆除」されてしまう運命にありそう。「雉も鳴かずば撃たれまい」と言うそうですが、鳴かないにも関わらず、銃殺されるのでしょうか。ある辞書には「無用のことを言わなければ、禍いを 招かないですむことのたとえ」(広辞苑)とある。雉の鳴き声は「無用」ではなく、必要があるからのものなのに。人も鳥も、いらぬ「言挙げ」はするなということらしい。それを敢えて「言挙げする」歌人が、その昔、この劣島にいました。「葦原の瑞穂」の歌人でしたね。

 「葦原(あしはら)の 瑞穂(みづほ)の国は 神(かむ)ながら 言挙げせぬ国 言挙げぞ我(わ)がする 言幸(さき)く ま幸くいませと 障(つつ)みなく 幸くいまさば 荒磯波(ありそなみ) ありても見むと 百重波(ももへなみ) 千重波(ちへなみ)にしき 言挙げす我(わ)れは 言挙げす我は」(柿本人麻呂)

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 愁ひつつ岡にのぼれば花いばら(蕪村)

 温暖化のししおどし 過去にないような猛暑や干ばつなどの背景にあるのが、人為的な地球温暖化だ。気候変動の研究者が懸念する概念に「ティッピングポイント」というものがある▼少しずつの変化が積もり積もって一定のレベルを超えると、それまでとは大きく異なる急激な変化になってしまう。そんな点のことで「臨界点」とも訳される▼竹筒に流れ込んでいる水の重さが全体のバランスを崩すまでになると、一挙にこぼれて筒が石を打ち、大きな音を立てる。日本庭園の「ししおどし」に例えられることもある▼最近になって、地球環境にもティッピングポイントが存在することを示す研究成果が示されるようになってきた。気温上昇が一定のレベルを超えると、地球環境に取り返しがつかない不可逆的な変化をもたらすことへの懸念が高まっている▼西南極の氷床や北極域の永久凍土の融解、南米・アマゾンの乾燥化などにティッピングポイントが存在するという。「幸いなことにまだ現在の温暖化はティッピングポイントを超えるまでには至っていない」というのが最新の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の評価だ▼だが、もしかしたら明日にでも、ししおどしの水がこぼれて、周囲を驚かす音が響き渡るかもしれない。そんな危機感を持って、一刻も早く脱化石燃料を実現するべきだ。(下野新聞・2022/08/14)

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 残りの日を数え、焦り始めている頃だろうか。<算術の少年しのび泣けり夏 西東三鬼>。ためてしまった夏休みの宿題。真っ黒に日焼けした丸刈り頭の男の子の姿が浮かぶ。数十年前のわが身を重ねる人も多いだろう▼年内で芸能活動の一線から退くという吉田拓郎さんの『夏休み』の歌詞も浮かぶ。「絵日記つけてた」「花火を買ってた」「西瓜を食べてた」「水まきしたっけ」夏休み。「ひまわり 夕立 せみの声」。絵日記は最後にまとめて書いたけれど▼振り返ると、今年は乱調子の夏だった。<蓋あけし如く極暑の来りけり 星野立子>。東北の南部は6月29日、所によっては猛暑日で、わずか14日間の梅雨が明けた。初めて6月から突入した夏は、その後も異変が続く▼7月中旬の宮城をはじめ、東北の各県を記録的な大雨が重ねて襲った。仙台では、カッと照りつける日差しは少ないのに、もあっと気温が上がった印象が強い。36・2度の猛暑日となった8月2日と9日は、いずれも曇りベースの日だった▼収まらぬコロナの第7波、豪雨の被害を思うとき、心は晴れにくい。<かなかなや少年の日は神のごとし 角川源義>。夕の訪れ。井上陽水さんの『少年時代』のメロディーが、スーッと浮かぶような夏の終わりであってほしい。(河北新報・2022/08/20)

*吉田拓郎「夏休み」:https://www.youtube.com/watch?v=_sU29AA_HYQ                   *井上陽水「幼年時代」:https://www.youtube.com/watch?v=ZWBs3oBw4qk

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 この数年の酷暑度を、いくつかの資料をもとに調べていました。そこから言えるのは、今年がとくに暑いのではなく、この「酷暑」はもう数年前からの当たり前の現象だということ、それが今更のようにわかりました。「今夏が最も暑い」と言いたいところですが、そうではなく、いずれも優劣つけ難く「酷暑」が連年のものだったということです。今年はヨーロッパがやたらに暑いという報道が飛び交いました。スペインやフランス、イタリアでは史上最高と。しかし昨年の夏には、カナダでは五十度近くも気温が上がり、数百人が死亡しているとニュースにありました。それぞれの地域ごとにデータを出していけば、確実に地球全体が激しい勢いで高温化していることが判明します。いうまでもなく、「地球温暖化」は決して単一の理由で生じているのではなく、複雑な原因が絡まって起こっていることです。暑さ対策を講じることによって、さらに温暖化の速度を高めるという逆の結果にもなります。化石燃料の膨大な消費が最大の理由であることは分かっているにもかかわらず、いっかなその排出量を減少化するための抜本的対策が講じられていない。暗黙の了解のもと、地球全体が確実に滅びの方向に進んでいることを示しています。

 もとより、日本劣島の酷暑ぶりだけを云々しても始まらないことです。とは言え、暑いことには変わりはなく、それを凌ぐための方策は今のところはなさそうだという、八方塞がりの状況を嘆いたり恨んだりする、それでまた温度(血圧)が上がるというもの。加えて、コロナ感染の拡大が進行し、それに伴い死亡者や重症者が増大化を辿っているにも関わらず、根本的な対策や、明確な方向性を出さ(せ)ない政治行政の「怠慢・罷業」が、さらに気温を何度か上げている。

 物価は上がり、気温が上がり、感染症の危険度が上がり、政治や行政への不信感が天井知らずに高まるのかと思いきや、政治家や政党が好き放題の人民見殺しに齷齪しているにも関わらず、「寄らしむべし、知らしむべからず」よろしく、人民の中には、現状維持派が圧倒的に多い(とは、ぼくには思えないのだが)のは、馬鹿にされ、愚弄されることに快感を感じる国民性のなせることだからなのか。

 さらに、「特殊団体」との親交・友情・腐れ縁を深めている政治家が国にも地方にも蔓延しているという事実にも、多くの人々が、まず驚かないという現実に、ぼくは驚嘆するばかりです。殆どの政治家は、「家庭連合」を利用しているつもりだったと思う。しかし相手は役者が違う、軽く政治家をあしらいつつ、持ち上げつつ、骨までしゃぶろうとしていたし、もうすでにしゃぶられた連中もゴマンといるのです。いずれ明らかになるはず。某教会は、自らの躍進(前進)のために、政治家を「駒」か「馬の脚」程度にしか見做していなかったんですね。「家庭連合」は、確実に地方政治(議会)や政治家に食い込んでいます。その入り込み方はじつに周到で、何十年もかけて準備してきた効果が、そこに根付いている。もう二十年以上前に、ひょんなことから、その実態をぼくは知ることになった。きっかけは「拉致問題」です。その問題の非人道性を訴え、北朝鮮の非道を避難する決議を上程し、「北朝鮮」と対峙するための狼煙を地方議会から挙げさせていたのが「統一教会」だった。地方議会を唆(そそのか)し、国会を動かし、いろんな画策を講じていた、その経過を、ぼくは直に経験していたのです。安保法制、秘密保護法性、反同性婚、憲法改正、その他。まるで政権等の親藩のように振る舞っていたのだ。

 政権党や権力集団は、「某宗教団体」に、政治そのものの「根底」「真価」を汚染されているのに、それを見ないことにして、というより、その汚染源に手も足もつっこみながら、気がついたら「国を奪われていた」ということになるのでしょう。「美しい国」は「✖✖教会」からのパクリかもしれない、いやそれをそっくり、故総理は恵んでもらっていたのではないか。「傀儡」という言葉が、このところずっとぼくの中でうごめいているのです。

ふるさとや寄るもさはるもばらの花(一茶)

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