「人と作品」という、それは何を指すのか

 広河隆一氏の写真展が中止 性加害への謝罪なし 抗議の動き受け決定 那覇市民ギャラリー

 フォトジャーナリストの広河隆一氏(78)が5日から計画していた写真展は1日、中止が決まった。広河氏が性加害を謝罪しないまま活動を再開することに抗議の動きが広がり、会場の那覇市民ギャラリーが中止を申し入れた。/ 美底清順館長は1日、広河氏と面会して方針を伝えた。取材に対して「商業施設内にあり、ギャラリーの他の利用者もいる。混乱が生じる恐れがある」と説明した。広河氏も中止を受け入れた、との認識を示した。/ 広河氏は長期間にわたり、複数の女性に対して性暴力やパワーハラスメントの加害をしたことが有識者による検証委員会で認定された。今回の写真展は加害が報道された2018年末以来3年半ぶりで、ロシアに侵攻されているウクライナの現状がテーマだった。(沖縄タイムス・2022年7月1日 18:42)

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 広河氏の「性暴力」事件が発覚した段階においても、沖縄の糸満市だったかが「写真展」開催を決定し、その姿勢を批判されて、開催が取りやめになったことがありました。その時の、反対する側の理由は「広河氏は、自らの犯した性暴力事件の被害者に対して、真摯な謝罪をしていない」というものであり、主催者はその批判を受け入れて中止したという経緯がありました。今回も同じ沖縄の、場所は那覇市でしたが、反対理由は「真面目に謝罪していない」「犯した事件を認めていない」という同じ理由だったし、主催者側は、何かと御託・理屈を並べているが、糸満市の時と同様に「軽率」「軽薄」な行為だったと、中止を決めたのでした。両市以外でも、沖縄では、他にも同様のケースがありました。どうして行政は「批判されたから、やむを得ず中止」という、同じようなプロセスを取るのでしょうか。おそらく、自治体には独自の判断能力がなく、誰かに決めてもらって、批判や反対の声が小さければ、あるいはなければ「開催」という段取りだったのでしょう。どこを見て、政治や行政をしているんですか。

 展示されるべき「作品」が何であり、それは誰が創造したのか、このことに関して行政は、一体どれだけの見識・関心を持っていたのか、大いに疑わしい。それ以上に問題だと思われるのは、写真展を開催しよう(したい)という側の意図です。「性暴力」を犯した高名な「写真家」であっても、本人は事実を否定しているし、開催を持ちかければ行政は受けるに違いない、いったん「開催」が決定されて、実際に展示された暁には「禊(みそぎ)」は済んだという、浅はかな魂胆ではなかったか。まるで、どこかの島の、腐った「政治家連中」の屁理屈のようですな。あるいは開催を持ちかけた側も、それを受け入れた側も、「性暴力」に対して、ほとんど無関心だったのかもしれません。残念ながら、むしろこちらの懼(おそ)れが強いと、ぼくは見ています。「合意によるもの」と、本人も言っているのだから、あれは「男女関係」なんだから、「民事不介入」などというふざけた姿勢を持っていたのかもしれない。

 個人的に、広河氏に対する非難や批判を言うのではありません。彼とはまったく利害関係はないし、個人的なつながりも、さいわいにして、ありませんから、あくまでもごく当たり前の平凡な人間の感覚・感情として、この問題にどういう態度が取れるか、それだけです。広河氏の「性暴力」はまだ未解明の部分があり、すべてが明らかになっていません(それは、裁判においても明らかにされない部分は残ります)。ぼくが考えたいのは、一人の人間の職業(公的な部分)と、あくまでもプライベートな部分(私生活)との関係です。この「公・私」が明確にされていれば、ことはそれほど混乱はしないでしょうが、自らの仕事上の地位や力を利用(悪用)して、「性暴力」に及んだのではないか、広河氏自身も、あいまいなままで「それ(暴力)を認知した」かの発言があります。ぼくはこの部分についても、いかなる材料も持っていないので、これ以上のことは言えない。真相は「藪の中」ではないとも思われますが。

 今回の件で、被害者が告発をしなければ、この問題は「なかったこと」になっていました。にもかかわらず、広河氏はさらに「優れた写真」を生み出し、社会的に大きく受け入れられたことでしょう。あるいは「文化勲章」「国民栄誉賞」などという「ご褒美」を受賞されるということになったかもしれない。(実に笑うべき、あるいは深刻に嘆くべき事態になったでしょう)彼が亡くなった段階で(悪い冗談ですが)、ようやくにして「被害者」が名乗り出て、こんな「性暴力」があったと告発し、おおいに彼に対する非難や批判がなされたところで、当の本人はいないとなれば、さて、事態はどうなるのか。このような事例は、この国においては、昔もあったし、最近もあった。その問題の根はいまだに引きずっているのではないでしょうか。(いい事例ではなさそうですが、「従軍慰安婦」問題、「強制連行」問題、「徴用工」問題などなど)

 責任の所在は明らかだとしても、その責任を背負うべき当人がいなければ、「性暴力」事件の存在がうやむやにされてしまいます。国家と個人の違いはありますが、事件の類似性は疑いようもありません。植民地支配にかかわる「戦争犯罪」に類することは、時の政府や軍部がやったことだから、現政府には関係がない、責任を問われてもそれに応じようがないというとしたら、その「言い逃れ」は通用するでしょうか。国家・政府が消滅するまでは、否でも応でも「連綿と継続」しているのですから、どの段階であれ、国家犯罪が明らかにされたなら、それを認めるのは「明らかにされたときの政府」であることは否定できません。(下の写真・記事は朝日新聞・2018/01/15)

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 個人の場合はどうでしょうか。ぼくが言えるのは、「加害者と被害者の関係」の外にいる人間として、何をどこまで言いうるのかということです。もちろん、少なくとも今回の事例では、広河氏は被害者(現段階では十七名とされます)に対して、誠実に応じるべきであり、誠意をもって「暴力の咎(とが)」を認めるべきでしょう。それは問題解決への、最初の糸口でしかありません。しかし、みていると、広河氏はその糸口にさえ立っていないようです。むしろ、告発を受けたことで、逆に自分は「被害者」だといわぬばかりの詭弁を弄している。無責任であり、不誠実だというほかないようです。この人が世のため他人のために善なる仕事をなさるという、その志(こころざし)や如何に、そんな疑問は残り続けるでしょう。

 この広河氏が創造した「作品群」に対して、ぼくたちはどう向き合うことになるのでしょうか。あるいはできるのでしょうか。眼前の「戦争告発写真」を、おそらく虚心に見入ることはできないでしょう。彼は人間的には許せないことをしたけれど(それはどれだけ償っても償われるものではないようです)、これらの作品は「卓越」している、だから、人間の間違った部分から切り離して「作品の価値」を見るべきだとでもいうのでしょうか。それで「免罪符」になるのかどうか。これまでの歴史において、このようなケースはいくらでもあったと思われます。真相が明らかにならないままのもの(ケース)、当事者が亡き後に状況が明らかになったもの(ケース)、あるいは今も活躍していて、その作品は称賛の的である、というような場合(ケース)はいくらでもあります。いちいちの事例は掲げない。その「賞賛の的」が、「批判の的」になっても、作品は残り続けるのか(称賛され続けるのか)どうか、それはわからないし、ぼくには、それはどうでもいいことのようにも思われてきます。

 「人と作品」といいます。人間は悪いけれども作品は優れている、あるいは反対に、人間としては素晴らしいが作品は平凡に過ぎる、そんことはいくらでも、どこにでもあるでしょう。ぼくなら「素晴らしい人間の、平凡な作品」を受け入れたいと思っている。作品の良さを左右するのは、どこまで行っても作者の「人間の質」ではないでしょうか。作品を通して人間を観察し、人間を通じて作品を理解するということができるなら、まず人間の「姿勢」「態度」をこそ、ぼくは評価(判断)したいですね。広河氏の場合、果たしてこれまで通りに彼の残した写真(作品)を見ることができないとしたら、それは見る側に問題があったからでしょうか。どんな人間であれ、作られたもの 写真や文学あるいは音楽や映画など、それらの創造活動が優れているなら、一向にかまわないという立場もあるでしょう。しかし、ぼくはそう言う立場に立つ気のない人間です。

 たくさんの映画作品を残して評価の高かった映画監督(東京五輪の記録映画も作った)がいましたが、彼の、主として映画女優に対する「性暴力」を知った段階で、彼の作品は一切認められなくなった(観ることさえできなかったのだ)し、こんな高名で破廉恥な「芸術家」は腐るほどいます。作家などにも嫌になるほどいました。もう駄目ですね、わかった以上は、作品は平気では読めなくなりました。もちろん、このような反応はぼくだけの話ですから、これを誰彼に強制しようという気持ちは毛頭ありません。

 広河氏が今後どうされるか、ぼくの関心の外であり、「お好きなように」というほかありません。でも、二度と「性暴力」だけはしないでほしい。しかし、このような事態があったからには、「戦争を告発する」姿勢も、「弱者の側に立つ」根拠も、それで?と、ぼくは思うばかりです。自らの「獣性」と言おうか「暴力性」の発露が、異性に「牙をむいて突進する」ということに、彼はどこまで向き合えているのか、向き合おうとしているのか、ぼくは「今でも大いに疑問である」とだけ言っておきます。

● 参照記事=広河隆一氏の「性暴力」を認定 性行為要求、ヌード撮影……7人の女性による核心証言 「週刊文春」編集部(2019/12/27(https://bunshun.jp/articles/-/22842)

 こんなものは、例によって、無責任報道に走る「週刊誌」の記事じゃないかという向きもあるでしょうが、今の劣島では最も優れたジャーナリズムの一つ(ある部分においては)といえるんじゃないかと、ぼくは考えることがあります。全国紙や地方紙の、どこが、このような「性暴力被害者の告発の声や言」を集めることができているのでしょうか。もちろん週刊誌には、かなりひどい(捏造や誤報の類)記事もかなりあるでしょう。「名誉棄損」で敗訴したケースも相当数あります。今から三十年以上前、ぼくは一週間で三~四誌の週刊誌を購読していました。俗悪とか、悪趣味とか物好きとか、何かと愚弄されながらも、そこにはある種の「真実らしさ」「的を射た指摘」があり、「判官びいき」や「勧善懲悪」的な姿勢もあったと、大いに気を強くしたことがありました。

 今では新聞やテレビが、大々的に「高名な報道写真家、凶悪な性暴力」などという記事やニュースを、まともに報道するでしょうか。せいぜいが「週刊誌報道によると、…」が関の山でしょうね。ぼくは新聞もテレビも遠ざけていますから実態はわかりませんが、テレビは、いまだに吉本興業的なマンネリのどぶ(溝)にハマっているんじゃないですか。新聞はどうか、ほとんど「旧聞」に堕しているという感想しか持てなくなりました。今日の永田町の数ある野党と同じで、一見「与党」を批判している風を装っているけれども、実態は「一党」がいくつかに偽装分党しているばかりで、すべて「与党」なんですな、たった一つの「政党」を除いては。ぼくの見立てです。かくして、限りなくこの島は「黄昏テイク」ようです。

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 世界は一冊の本、あらゆるものが本なのだ

どこへ行っても、みなおなじ。今はどこへ行こうと、日本のどこもおなじ表情をもつようになりました。新幹線の駅は、どこもそっくりおなじです。空港もそうです。どこもほとんど変わりません。街の光景もそうです。おなじチェーン・ストアがあり、おなじブランドがならび、おなじファーストフードがあり、おなじ食べ物があります。(長田弘「言葉を結ぶもの」『読書からはじまる』所収。NHK出版。01年)

 「教える・教えられる」教育が蔓延した結果、失われたのは「育つ・育てる」という 別の一面でした。「教えるー学ぶ」というけれども、じっさいは「話すー聞く」にほかならない。教師は話し、生徒は聞く。「子ども時代」というのは、大人たちの対話の周辺部におかれます。さらに言えば、対話から除外された存在でした。子どもは黙って、話を聞いていなさい、と。

 このような教育(授業)スタイルにおいて、「知識(まがい)」は一方的に教師から生徒に流されます。このスタイルをある人は「銀行型教育」と呼びました。(今日なら、さしづめ、「暗号通貨型教育」といえるかもしれません。どこにでも通用するものではなく、極めて限られた範囲でしか価値を持たないという点でも、「学校で得られる知識」にそっくりですね)教師は「預金者」で、生徒は「金庫」だというわけです。またそれは一種の「文化的侵略」だともいいました。Aの発言はBやCやDの言葉になり、またそうなるように求められるのです。教師の複製やコピーを大量に生産するような教育がいたるところでみられるのです。日本全国に約( )軒のコンビニがあります。全国の小学校・中学校・高等学校数は(小・)(中・)(高・)校であり、(郵便局数・)局です。飛行場はいったどれくらいあるでしょうか。( )箇所。

 みんないっしょ。それは法律が支配するからです。教育も法によって規定されれば、地域のちがいは無視されてしまいます。このように法による支配が制度を支えるのです。その意味では、まちがいなく教育は制度なのです。制度を維持しようとすると、そこには規則(規範)が作られます。教師は、生徒は「かくあるべし」というように。どこからも「みんないっしょ」と攻められるようにです。法律は紙一枚ですが、それが生きた人間や集団を縛ります。「みんなおなじであれ」というように、法の下の「平等」を強いるのです。「同調圧力」のもとで、生きながらえれるのはやさしいことではありません。

 それが普通である。だれもがそう思うのが普通で、そう思うこともみなおなじです。しかし、みなおなじ風景を生きているという暮らし方は、わたしたちの以前の暮らし方とは違っています。今までとはまったくといっていいほど違うしかたで、わたしたちは今を暮らしているのですが、当事者であるわたしたちは、そのことをそれほどつよく意識していないように見えます。(長田・前掲書)

 わたしたちがどのような時代や社会に生きているのか。当事者にはよくわからないのがあたりまえになってしまったようです。近年、各地で発生する地震や大豪雨。被災者は避難所にいて、どのくらいの被害状況だったのかを知らされるのはテレビの画面を通してです。実際に遭遇した災害の全体を当事者が知ることは不可能に近い。それと似たような現実が「みなおなじ」と思っている現代のわたしたちかもしれないと長田さんはいう。自分が今襲われている事態は、眼前の「テレビのモニター」にあるというのです。モニターを通し、製作者の意図や解説を介してしか、自らの実態を知りえないというのは、不便を通り越しているように、ぼくには思われます。誰か(何か)が作り出す姿が、「本当の自分なのだ」という具合ですね

 何百万部ものミリオンセラーがでているにもかかわらず、本が売れない時代、活字離れがはなはだしい時代と嘆かれています。映画や音楽にも同様の事態が生じています。本は読むものではなく買うもの、映画や音楽を観るもの聴くものでがなく、一瞥し一聴するに過ぎないもので、観るとか聴くが大切で、どう観たかいかに聴いたかが問われないとしたら、「読書」や「鑑賞」とは何をもらすものでしょうか。スマホが隆盛を極めているのかどうか、それに無知なぼくには分かりませんが、そのちいさな「暗号器」がなければ、おそらく戦争すら戦えない時代になっているのです。人間の置かれた状況は、次第に人間存在を踏み越えて先に進んでゆくのでしょう。半導体などというチップスが、世界を作り変えていく、そんな仰天すべき事態は加速がついて回転していきます。

「みなおなじになり、みなおなじ歌を聴いているはずですが、逆に、分かちあえるものが何もなくなっているように感じられるのは、みなおなじ社会のあり方、文化のあり方が、そのなかにいるわたしたちには見えないためです」(同上)

 たとえば、といって長田さんはマフラーの例をあげています。かりにだれもがおなじマフラーをしているとして、その結び方や使い方によって他人とはちがう印象を生みだす。「おなじマフラーでも、おたがいの印象をまったく違えるのは、その使い方、結び方」だというのです。そして、わたしたちの日常生活において、このマフラーの使い方・結び方とおなじようなもの、たがいのちがいを表すものがなにかあるかといえば、それが「ことば」だと思いあたるのです。日本で生まれて日本語を使うなら、みんなおなじになるかというと、そうではありません。それぞれがことなる日本語の経験のなかで育ってきたからです。おなじような土壌から、ちがいのあるキュウリやなすび、トマトやカボチャが育つのといっしょでしょう。このマフラーの例を長田さんはよい意味で使われたのでしょうが、一枚のマフラーでできる使い方など、あるいは、たかが知れているというべきで、言葉は、それとは比較できない歴史や個性を、それを用いる人間に与えることもあるのです。いや、むしろ、言葉は歴史を知る手掛かりとして使われてきたのでないでしょうか。

  

 それが今になって、みなおなじということばかり意識されて、そこからおたがいのちがいが出てくるということのほうが、そして違うということ、違ってゆくということが、本当はどんなに大切なことかということのほうが、あまり考えられなくなってきているとすれば、それだけ、言葉のちからというものが、今は大切なものとして省みられていない、ということです。(同上)  

 長田さんのこの指摘は図星です。同じ暗号コインを使い、同じマックのポテトを食べ、同じスマホでやり取りする日常が続けば、それだけ、他者との違いが消えてゆく、人によっては幸せだとも思いたいのですが、そうではないんですね。たった一ミリ、二ミリの違いが決定的に尊重されるのです。まるで伸長や体重の「違い」のように。日本の学校教育史を考えると、ちがいのあるものをみなおなじものにしようとする無理無体を強制するちからの働いてきたことがはっきりと指摘できます。

 おなじ教科書を使うから、みなおなじになるのではありません。無理にしようとしなければ、おなじ場所から、それぞれちがうものが育ってきます。おなじことばを使うけれども、そこからちがいが生まれるのは、ことばに対する感覚、感受性、あるいは経験といったものがそれぞれにちがうからです。おなじ家庭の兄弟姉妹だって、よほどあくどいことをしないかぎり、ひとりひとりちがうように育つはずです。ここで最も大切なのは、「ことばへの感受性」でしょう。言葉の中に「なにを発見するか」という問題です。

 現実は「よほどあくどいことをしている」ともいえそうです。日本全国にコンビニは四万数千軒あります。会社ごとに品ぞろえからレイアウトまで、もちろん味もかおりもいっしょです。値段も。みんないっしょ。それが安心になり、豊さを味わわせてくれるという「安直な錯覚」が大いに働いていると、ぼくは痛感しています。

 それとおなじように、小学校は二万数千校あります。品ぞろえからレイアウトまでいっしょ。いっしょの社員?教育(研修)を受けた店員さん(失礼、教員のこと)ですから、サービス(無愛想もふくむ)までおなじです。(いっしょに耐えられない店員、いや教員が出没して、あちこちで悪さをし、罪を犯しています、あるいはその世界に住めなくなって消えてゆくのです)

 つまりマニュアルが幅を利かせているのです。それは法律であったり通達であったりしますが、それ以上に強制力をもって迫ってくるのが「平等・横並び」という集団の意識(同質性への願い)です。似たようなものを作る時代、それは複製の時代であり、コピーの時代でもあります。複製やコピーは大量生産と大量消費をがっちりあてこんで作りだされたのです。規格からはずれるのは不良品。(ぼくなどはその典型のようなものでした)自由とか、精神のはたらき・思考力などはとても大事なんだといってもほとんどの場合は「馬耳東風」であり、「柳に風」でしよう。おなじでないものをおなじものにするには、なかからではなく、外部から型にはめるしかなさそうです。それがいつしか、中身にまで「いっしょ」がおよぶようになります。なかなか容易ならざる時代を歩いたり走ったりしているんですよ、諸君!

「みんないっしょ」の大波が打ち寄せてくる、まるで津波のように。その「波打ち際にあって、『私でなければいけないものは何か』ということが、一人一人にとっての重要な問題に、というか、難問になってくるだろうと思うのです」(同上)

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 進化は偶然と必然の混在である

 この駄文集録には何度か、S.J.グールドの本について触れてきました。いろいろと批判がありながら、サイエンスライターとしては実に刺激的な論陣を張ってきた人として、ぼくは昔から彼の愛読者でした。気候変動や地球環境の激変が深刻な影響を地球に与えるという騒然とした雰囲気の中で、彼が示した視点や論点が大いに参考にもなり、かつ今後の方向を探るためのきっかけ(てがかり)にもなるのではないかとぼくは愚考している。今回はいわゆる「進化論」に関して彼の独自の所説を概観してみた。いわゆる「進歩のモデル」への鋭い批判であり、それに代わる「進化の仮設」の提示です。直線的に進むものではなく、「旧」を克服して「新」に至るものではないということです。無知や迷妄が徐々に克服され、やがては「真理」に到達するという予定調和の「幸福論」を彼は唱えない。

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 われわれは迷信的な無知の状態から出発して、事実を次々に蓄積することによって窮極的な真理に向かって進む、とうのが、従来の科学の「進歩」のモデルである。このひとりよがりの視点からすれば、科学史は単なる発見物語でしかない。とうのは、それはただ過去のあやまちを記録し、煉瓦積みの職人に窮極の真理を垣間見た功績を帰することしかできないからである。それは古くさいメロドラマと同じくらい見えすいている。つまり、われわれが今日知覚するところの真理が唯一の裁決者であり、過去の科学者の世界は善玉と悪玉に二分されてしまう。

 科学史家たちはこうしたモデルを、過去十年の間に完全に捨ててしまった。科学とは客観的情報の冷酷無情な追求ではない。それは人間の創造的な活動であって、科学の天才は情報の処理装置などとしてではなく、むしろ芸術家として活動しているのである。理論が変更されるのは、新しい発見から生ずる単なる派生的な結果としてでなく、その時代の社会的・政治的な力に影響を受けた創造的な想像力の働きの結果としてである。われわれは過去を判断する場合に、われわれ自身のもつ確信という、時代を無視した先入観によるべきではない。つまり、過去の科学者たちを彼ら自身の関心とは無関係な基準によって正しいと判断して、英雄あつかいすることは避けるべきなのである。(S. J. Gould『ダーウィン以来 進化論への招待』ハヤカワ文庫版)

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 スティーヴン・ジェイ・グールド(1941~2002)。ニューヨーク生まれ。古生物学・進化生物学・科学史専攻。科学のエッセイストとしても大活躍しました。『ダーウィン以来』(1977)はグールド進化論の原点となった著作であり、そこには刺激的な考察や過激な指摘などが満ちあふれています。「自然淘汰説」「進化論」はすでに定説が幅を利かせているが、はたしてそれでいいのか。グールドはのっけから科学史の常識に果敢に挑戦します。

1生物には変異があり、すくなくとも部分的にその変異は子に受けつがれる。 
2生物は生き残れる以上にたくさんの子や卵を産(生)む。
3ある環境に好ましいとされる方向にもっとも強く変異している子孫が生き残る。好ましい変異は自然淘汰によって個体群に蓄積される。(同書・P12)

 自然淘汰説の基本原理とはなにか。

 たしかにこれが基本となるが、それだけでは足りないとグールドはいいます。「ダーウィン理論の本質は、自然淘汰は進化にとって創造的な力であって、単に不適者の死刑執行人にすぎないのではない、という主張にある。自然淘汰は適者を構築するものでなければならない」と。

そこからさきの基本原理に加えてつぎの観点が必要となるとする。

変異は無方向である。「進化は偶然と必然の混在である。偶然というのは変異のレベルにおいてのことであり、必然というのは淘汰の働きにおいてのことである」
2変異の規模は、一回の進化上の変化にくらべて、小さい。

 「進化」には目的はないというのがダーウィンの主張の確信です。だんだんに進化していって、ついに世界は調和するというのは幻想に他ならないということ。「進化」の方向は定まっていない(無方向)というのも彼の説の重要部分です。進化論は進歩論ではないというのです。したがって、もろもろの生物はみずからが棲息する局地環境に適応するだけだというのです。(機会を見つけて一読されることをすすめます) 

 ビーグル号の博物学者はだれだったか。ダーウィンではなかった

 どうしてダーウィンは’evolution’という語を使わなかったか。

 みずからの説を公表するのにどうして二十一年もかかったのか。

 このような謎かけからはじまって、問題はだんだんと「進化」していきます。

〇自然淘汰説(しぜんとうたせつ)=自然選択説とも。進化の要因論として,C. ダーウィンと A. R. ウォーレスが同時平行的に到達した説。生物は原則として多産性で,そのために起こる生存競争の結果,環境により適応した変異個体が生存し,その変異を子孫に伝える。このため生物は次第に環境に適応した方向に向かって進化するという考え。ダーウィンはこの説を《種の起原》において本格的に論じ,それによって進化論は広く認知された。その後20世紀に入り,遺伝学や分子生物学の裏づけを得て,現代の進化論の中でも中心的な位置を占めている。(マイペディア)

〇進化論(しんかろん)=生物の進化が事実として承認されるまでは,生物進化の説を進化論と呼んでいたが,現在では主として進化の要因論をいう。体系的な進化要因論を最初に提唱したのはラマルクで,彼は動物の器官および機能は用・不用によって発達の程度が決まり,この後天的な変異が遺伝し,累積して進化の原因となるという用不用説を唱えた。ラマルクの進化要因論はネオ・ラマルキズム,定向進化説などに受け継がれている。次いで C. ダーウィンは,変異個体間の競争に基づく自然淘汰説を提唱。ダーウィンの進化論は18世紀の社会進歩観を背景にして生まれたもので,社会進化論と密接なかかわりをもっていた。現在では,自然淘汰説に,突然変異,遺伝子の機会的浮動,隔離などの要因を加えた〈総合説〉が主流である。しかし,さまざまな異説もあり,キリスト教原理主義者の〈創造説〉のように,進化の事実そのものを否定する主張もある。(同上)

〇ハヤカワ文庫版として邦訳されているグールドの著書、何点かを。どのいっさつも、ぼくにはじつに刺激的でした。

● グールド(Gould, Stephen Jay)[生]1941.9.10. ニューヨーク,ニューヨーク []2002.5.20. ニューヨーク,ニューヨーク=アメリカ合衆国の古生物学者,進化生物学者,著述家。『ナチュラル・ヒストリー』誌に「生命についての考察」と題するエッセーを 1974年から 2001年まで連載した。1972年ナイルズ・エルドレジとともに断続平衡説を発表。の進化は長く安定した期間と急激な種分化と形態変化を断続的にもたらすと主張,チャールズ・R.ダーウィン以来の進化論に異を唱えた。1963年にアンティオーク大学で地質学学士号を,1967年にコロンビア大学で古生物学博士号を取得。1973年にハーバード大学教授となる。著書に『個体発生と系統発生』Ontogeny and Phylogeny(1977),『パンダ親指』The Panda’s Thumb(1980),『人間の測りまちがい』The Mismeasure of Man(1981),”The Structure of Evolutionary Theory”(2002)など多数。1983年全米芸術科学アカデミー会員,1989年全米科学アカデミー会員となった。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 数日前に鹿児島の新聞のコラムに以下のような記事が出ており、大変に興味を抱きました。畑からアブラムシがいなくなった、カメムシが消えたというのは、ぼくにとっても、このところ見られる、おおいに謎のような出来事だったのでした。もちろん、カメムシが一匹も出ないというのではなくても、その数は激減しているといえそうです。どうしてこのような事態が認められるのでしょうか。(小学校五年生の観察記録の一部ですが、全文を見たいと考えているところです)もちろん、その背景や理由にはいろいろなことが想定されますが、何よりもネオニコチノイド系の農薬(害虫駆除剤)の影響が考えられます。カメムシ退治には、今では全国的に田植え後の田に「ネオニコ農薬」が空中散布されています。稲の幹から入り込んで稲を枯らしてしまうカメムシ退治の決定打だともいわれる「農薬」です。アブラムシも同じような「駆除剤」散布がいきわたった結果であるかもしれません。各地の稲田や川岸で蛍が見られなくなったのはどうしてか。あるいはこれも世界的にみられる奇怪現象として「ミツバチ」の失踪現象などなど。

 いろいろな理由や影響を考えなければなりませんが、いたるところで見られる異常気象や温暖化の昂進など、その直接間接の原因は何なのか、まだまだ掘り下げられてはいませんが、そうしている間にも「ミステリー」や「怪異現象」が、あるいは手に負えない結果をもたらすことになるのではないか、そんなことを考えながら、背筋を凍らせています。

【南風録】事件は畑で起きた。追い払うのに苦労していたアブラムシが全くいなくなった。薬もまいていないし、葉から落としたわけでもない。カメムシも消えた。1日付本紙「若い目」に載ったミステリーである。▼南さつま市の小学校5年生が投稿してくれた。日頃からよく観察しているのだろう。生き生きと疑問をつづる文章を楽しみながら、ふと心配になった。もしかして本当に大事件なのではないかと。▼先月発表された世界気象機関(WMO)の報告が浮かんだからだ。気温の上昇傾向を受けて世界の海面が2013~21年に年平均で4.5ミリ上昇し、過去最高になったという。畑の謎も温暖化のせいと想像するのは飛躍しすぎか。▼きょうは国連の「世界環境デー」。1972年のこの日、スウェーデンのストックホルムで国連人間環境会議が開幕した。110カ国以上が参加し、地球規模で環境問題に取り組む契機となった。▼会議で採択されたのが、人間環境宣言である。「いまやわれわれは世界中で、環境への影響に一層の思慮深い注意を払いながら、行動をしなければならない」。残念ながらこの半世紀、状況は深刻さを増す一方だ。▼宣言は環境の保護と改善はすべての政府の義務とし、市民や企業にも責任と努力を求めた。いま一度、問題にしっかり向き合い解決を急ぎたい。自然の豊かな営みに目を輝かせる子どもたちのために。(南日本新聞・20022/06/05】

*参考 ネオニコチノイドとは? ネオニコチノイド系農薬とは、ニコチンに似た成分(ニコチノイド)をベースとする、現在世界でもっとも広く使われている殺虫剤で、1990年代から市場に出回り始めました。一般にネオニコチノイドと呼ばれる化合物は、アセタミプリド、イミダクロプリド、クロチアニジン、ジノテフラン、チアクロプリド、チアメトキサム、ニテンピラムの7種類あり、これらを主成分とする農薬・殺虫剤は様々な用途や製品名で販売されています。また、以下の説明で「ネオニコチノイド系農薬」という場合は同じ浸透性農薬であるフィプロニルを含みます。ネオニコチノイド系農薬は脊椎動物より昆虫 に対して選択的に強い神経毒性を持つため、ヒトには安全とされ、ヒトへの毒性の高い有機リン系の農薬に代わる効率的な殺虫剤として、2000年代から農業を始め家庭用の害虫駆除剤やペット用に幅広く商品展開が行われました。さらに、水に溶けて根から葉先まで植物の隅々に行きわたる浸透性殺虫剤として、作物全体を害虫から守れる効果的な農薬という宣伝のもと、現在では農地や公有地などで大規模に使われています。

 しかし、ネオニコチノイド系農薬の使用拡大と同時期に、世界各地でハチの大量死が相次いで報告され始めました。ハチは農業を行う上で重要な役割を担う花粉媒介者であるため、ヨーロッパではいち早く2000年代初頭からネオニコチノイド系農薬の使用を規制する動きが始まります。2013年半ばには、欧州委員会が3種類のネオニコチノイド系農薬と、同じ浸透性殺虫剤でネオニコチノイド系農薬と似た性質を持つフィプロニルの使用について、同年末から2年間の暫定規制を決定しました。この決定は、科学的証拠は十分ではないものの、環境と生命に多大な影響を及ぼす可能性が高いと想定される場合に適応される予防原則に基づいたものです。代わりとなる安全な農薬がなく、ハチの大量死とネオニコチノイド系農薬との直接的な因果関係の立証が科学的に未確定ななか、ネオニコチノイド系農薬の包括的な規制に向けて一歩踏み出す決定かもしれません。
 

 生態系へのリスクと欧米での規制 ハチを含む生態系への影響が懸念されるネオニコチノイド系農薬の特徴として、神経毒性浸透性残留性の3つがあげられます。昆虫に対する強い神経毒性は、ターゲットとなる害虫以外にも益虫を含む多くの昆虫を殺したり、生存が困難になるような障害を負わせたりしてしまいます。また水に溶けることで、水を介して周辺の草木や地下水に入り込み、殺虫剤を使用していない地域へも広がる危険があります。そして、一度使われると土壌や水の中に長く留まり蓄積していくため、低濃度のネオニコチノイド系農薬に長時間曝された昆虫類が異常行動を起こすなど、生態系に大きな悪影響をもたらす可能性が指摘されています。

 ネオニコチノイド系の農薬が市販され始めた当初、長期的な毒性やヒトを含む生態系への影響はほとんどわかっておらず、安全性が明確に示されないまま大量に使われてきました。しかし、鳥類や哺乳類への影響に関する報告をはじめ、ヒトへの影響も徐々に明らかにされつつあります。ネオニコチノイド系の農薬散布と同時期に体調不良を訴える患者が急増したり、胎児が発達障害を起こしたりする危険を指摘する報告もあり、ネオニコチノイド系農薬は私たちにとっても身近な問題となってきました。

 各国での規制が進むなか、日本ではネオニコチノイド系農薬問題への認識が低く、現時点でネオニコチノイドの使用そのものに対する規制がない上、使用量の規制緩和が行れるなど他の先進国とは逆の動きも見られます。また、ネオニコチノイド系農薬の残留基準もヨーロッパの数倍から数百倍に達する場合が多いため、日本の生態系に大きな影響を与えている可能性がありますし、同時にネオニコチノイド系農薬が使われた農作物を購入し、洗っても落ちないネオニコチノイドを大量摂取することで、人体への影響も懸念されます。まずは一人ひとりがこの問題に対する理解を深めることが大切です。(「ネオニコチノイド系農薬問題とは?~情報・資料集~」:https://www.actbeyondtrust.org/whats-neonico/

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 「袋は大丈夫ですか」「君こそ大丈夫かい」

 【斜面】 だいじょうぶですか?だいぶ前、どこかの新聞の記者コラムだったと記憶している。レストランで「ライスになさいますか、パンになさいますか」と聞かれ、この記者は「ご飯」を求める。「ライスですね」と確認する店員に、記者は「いや、ご飯だよ」◆ライスではコメを食べた気がしない―。そんな趣旨だった。当時は「何をつまらないこだわりを」と思って読んだけれど、この記者さんの年齢に追いつき、笑えない自分がいるのに気付く。店で尋ねられる「だいじょうぶですか?」。すっかり定着している◆ポイントカードはだいじょうぶか、袋はだいじょうぶか…。持っているか、必要かと聞かれているのは分かっても、一瞬言葉につまる。持っていないカードや店の袋のことは「あずかり知らぬ」。胸のつぶやきをぐっとのみ込んで「持っていません」「要りません」と答える◆文化庁の調査によると、俄然(がぜん)を〈とても・断然〉という意味で、破天荒は〈豪快で大胆な様子〉を表すのに用いる傾向が強まっている。時代とともに語義も広がり、あるいは変わるのだろう。だいじょうぶを、勧められて辞退する際に使う方言もあるらしい◆同年の友人に言わせれば、気になるのは「年を取った証拠」。間違いだとか不快だとか言うつもりはない。ネットにあふれる新語や略語も含め、どこまでついていけるか。店員さんに「だいじょうぶです」と答えられるようになるまで、つまらないこだわりは、まだしばらく続きそうだ。(信濃毎日新聞・2022/06/06)

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 昨日六月五日が「芒種(ぼうしゅ)」という。二十四節季のひとつ。旧暦の時期だと、四月末から五月初めころ。芒種とは「のぎ(禾)(芒)」などの植物の作付けをする頃を言います。「青梅に手をかけて寝る蛙哉」(一茶)もう梅雨に入ったのかしらと思わせるような曇天に雨降りです。このような時期に、田植えを終えたあぜ道を歩くのは、いかにもすがすがしいという感覚に襲われます。最近は、散歩も間遠になり、歩こうかなと思い立つと、ぱらぱらと振り出してきます。いかにも雨模様に曇り空の下、濡れても構うものかと、ゆっくりと歩きだすのです。「禾」「芒」などというものが、それだけ際立って、伸び切る様子を見るのも、この時期の風物です。「麦秋」もう終わり、数少ない麦の刈り入れ終了してしまいました。

● 芒種(ぼうしゅ】=二十四節気の一つ。5月のにあたり、旧暦では4月末から5月上旬、新暦では6月8日ごろにあたる。イネやムギなどの(のぎ)のある作物の種を播(ま)く時節というところから芒種といわれる。現在の田植の時期は早まったが、昔の田植の時期はこのころであった。気象的にみると、梅雨入り(つゆいり)になりかかりのころにあたる。夏の季語。(ニッポニカ)

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 不順な天候とか言います。人間の都合に合わせて好天が続き、適度に雨が降り、ものみな育つと、いかにも幸いであるというのでしょうが、そうは問屋が卸しません。今夏もまた、異常高温が発生し、海水面が異常に高くなり、「線状降水帯」が頻繁に発生するような、そんな予感がしてきます。このところ、けっして華やかな扱いでないのは当たり前ですが、異常気象の前兆のような現象があちこちで見られます。山の中の拙宅ですが、居住して以来、ゴキブリに襲われ続けて、大変に難儀していました。ある時期、子どもに進められてゴキブリ退治の製品を購入、それを家の内外に置いたところ、みるみる侵入する数が激減しました。その製品名は「ブラックキャップ」。以来、何年になるか、新たに購入はしていませんし、しかもゴキブリがゼロでがありませんが、ほとんど侵入してきません。この殺虫剤の効果が持続しているのかどうか、ぼくには判断できません。もっと別の下人が「害虫」とされるものを人間の環境から遠ざけているのかしら。

 ところが、最近いくつかの記事で「カメムシ」や「アブラムシ」がまったくでなくなったというニュースを目にしました。そういえば、拙宅にも頻繁に出ていたカメムシやアブラムシはまったくというほどではないにしても、ほとんどで見られなくなりました。この「虫専用の薬剤」を使っているわけではないのです。しかも侵入するものの数は激減し、場合によってはほとんど見られなくなったのです。これはどうしてか。まだ、確定的なことはわかりませんが、いくつかの予想は立っています。いま世界規模で「ミツバチ」が大量に姿を消しているという現象が報告されています。「蜂群崩壊症候群(ほうぐんほうかいしょうこうぐん( Colony Collapse Disorder, CCD)」で、各地から報告がなされていますが、今の段階では決定的な因果関係が把握されていないのです。ここでも「(ネオニコチノイド系の農薬)殺虫剤」が原因であるとして、いくつかの国々では発売禁止の措置が取られています。この先、いかなる状況になるのか、ぼくは素人ではありますが、大きな興味をもって見ています。「ネオニコ」なしで、ぼくたちの生活が成り立たなくなってしまったのではないかと、空恐ろしくなります。

 本日はこんな問題を扱うつもりはありませんでしたが、雨模様にそそのかされたのか、思わぬ展開になりかけています。いずれにしても、まだまだ分からない問題が山積していますから、急いで結論を出すことはできません。人間にとっての「害虫」がいなくなるのは、一面では朗報です。しかし、「生態系」という自然サイクルを考えてみると、それはかならず、現に存在している生態系の崩壊を意味しますから、害虫撲滅万々歳と大喜びするわけにはいきません。いずれ、その危機状況は人間界にも建言するに違いありません。もうすでに発生しているかもしれないのです。

 それと、このところ急激に大きく報道されているのが「マダニ」の被害です。これも、今のところ決定的な治療法はありませんし、動物(主に犬や猫)が感染し、それは人間にも感染する、さらに悪いことには、その感染症によってなくなる事例が各地で増大してい頃が報告されているのです。鳥インフル、新型コロナ、マダニやその他のウィルス性感染症の多発は、いったいこの地球環境のいかなる状況を明示しているのでしょうか。さらにていねいな観察やその報告を待って、問題を深めていきたいと考えています。数年前から気にはしていたのですが、このところ急激に、この問題の危険度が認識されだしてきました。

 本日はコラムにある通り「接客対応」の慇懃無礼さについて書こうとしていました。このマニュアル型対応とでもいうような店員の態度に、ぼくは業を煮やして、次々に店にはいかなくなりました。マニュアル万能社会の隆盛は、人間集団のどんな先行きを示しているのか、あるいは「生態系の崩壊」につながる事態を迎えようとしているのでしょうか。

 あるコンビニ(スーパー)で、ぼくは小脇に買い物バッグを抱えて、レジに買うつもりの品物を出す。「レジ袋は、いかがいたいますか」「…」「どうされますか」「…」 もう一度聞き返されたので、「みればわかるだろ」と一言。時には「袋が欲しければ(必要ならば)、こちらから、下さいと言うよ」、次からは、その店には行かない。ファミレスがはやりだしたころでした。親子四人で入ったところ、「四人様ですか」と訊いたね。「これが五人に見えるかい、どこに目をつけてるん」とぼく。以来、ファミレスにはまず行かなくなりました。

 かくして、だんだんと買い物や食事をする店が少なくなってきました。やがて皆無になるのではと見通しを立てています。やがて、すべてがアマゾンなどの通販に代わるのか、それも投げやりだし、味気ないですね。老兵は消え去るのみ。でも、その前に「一矢報いたいな」、時代に向かってさ。目の前にいるのが「人間なんだ」ということがわからないんだな。パソコンでなにかを頼もうとすると、「私はロボットではありません」という認証ロゴが出てきて困っているところ。

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 引いた犬に教えられ 犬が人間を介護する

ペットを飼うと介護リスクは半減?社会参加を促し、幸せホルモンが分泌
・犬を飼っている高齢者は介護リスクが半減する
・ペットが安らぎや生きがいを与える
・高齢者がペットを飼うメリット・デメリット
犬を飼っていると介護リスクが半減するという調査結果が出たことで、介護業界でもペットを飼うことへの効果が再度注目されています。 今回は高齢者がペットを飼うことで得られる効果について考えます。 

犬を飼っている高齢者は介護リスクが半減する 
ペットフード協会の「2020年(令和2年)全国犬猫飼育実態調査」によると、ペットを飼育している世帯の割合は、犬で11.85%、猫で9.6%となっています。また、2010年度の内閣府のアンケート調査では、約3分の1の家庭で何らかのペットを飼育していることが明らかになっています。
私の周囲をみてもペットがいる家庭は多いですし、介護サービスを利用する方の中にも犬や猫を飼っている人は多くいらっしゃいます。
国立環境研究所と東京都健康長寿医療センターは、日本の高齢者1万人以上を対象にした調査で、「犬を飼っている人は飼ったことがない人に比べ、介護が必要になったり、亡くなったりするリスクが約半減することがわかった」と報告しました。
また、犬を飼うことと定期的な運動の相互作用で障がいリスクを減らすことも明らかにしています。(以下略)(Excite News:2022年4月28日 15:00)

 この報告書を一瞥して、とりたてて「やはり」とか、「そうだったんだ」などというほどのものでありません。ぼくもこれまでにたくさんの調査などをしてきましたが、一面では実施する前からおおよその傾向(回答)がわかっているものがほとんどで、だからいい加減にやりましたということはなかった。どんな事柄でも、何かを主張するには「エビデンスを出せ」という世の中です。言われたようにエビデンスを出したところで、事態が一向に改善されなかったのは、そこにも明らかな「エビデンス」がありますが、それはともかく、現状・現況を動かすことには著しく抵抗するのが人情のようでもあり、現状・現況に動かされることにはびっくりするぐらいに従順というか、無抵抗で従容として身を任せてしまうのも、まぎれもないこの島人の傾向でしょう。明治維新や日米戦争の敗戦時とその後の動きが、それを如実に示しています。いつだって「圧政」「強権」を受け入れる準備ができているんですね。(ヘッダー写真:エコノミストOnline:2022年2月4日)

 本日は、そんな面倒なことを言うのではありません。実にお気楽なものです。二つの公的機関が実施した調査研究の結果が先ごろ発表され、いささか話題を呼んでいる、そのオコボレにあずかろうというわけです。高齢者に限らず誰だって、「ペットを飼う」と、そこにはいい面とよくない面があるのは当然で、それをメリット・デメリットで区分けすること自体、ぼくには理解できない話です。両面あって、初めて物事は意味をなすのですから。もっと端的に言うなら、「ペットを飼う」という、その「ものいい自体」が間違っているんですな。「男の子を飼う」などとは断じて言わないでしょうよ。じゃ、どういうか。「育てる」とか「一緒に住む」というのが普通だし、それはその通りなのに、「犬」「猫」などは飼う。冗談じゃありません。犬や猫にもプライドがあるんだが、そのプライドをまともに受け止められない人が腐るほどいるんですね。そんな「お高く留まる飼い主」に仕立て上げたのが「動物病院」の医師たちじゃないですか。ぼくはもう半世紀近く犬や猫と暮らしてきたから、その犬猫を病院につ入れていったからよくわかるんです。これをいうと、差しさわりがありそうですが、病院の医師たちは、実に「飼い主」を甘やかせていますよ。

 この島にはどれくらいの「ブリーダー(breeder)」がいるのか、詳しくは調べていないのでわかりませんが、闇でやたらに乱暴なブリードをしている業者は数えきれないくらいいるでしょう。そこから「仕入れて」商売する「ペットショップ」も、実にたくさん存在しています。その消長は激しそうですが、そこから「購入し」、家で「飼育する」人も何百万といます。すべてを否定するものではないのですが、それにしても…と思います。こういう商売が成り立つこと自体、ぼくには不思議というか奇妙な錯覚にとらわれます。そんなに「動物愛好家」がいるのでしょうか。年間何万頭もの保護され切らない動物が悲しい終わりを迎えています。ぼくは、これまでの「罪滅ぼし」などという功利的な考えからではなく、見るに見かねて一緒に暮らしているのです。好き嫌いではありませんね。

 かなり前から、ぼくはWWFという団体の一メンバーとして登録しています。特別の活動はしていませんので、まるで幽霊会員のようです。しかし、その「基金」の設立趣旨には満腔の賛同を寄せるものですから、やれる範囲で、「野良育ちの犬・猫との共同生活」を間断なく半世紀も続けてきました。動物愛護運動でもないし、環境保護活動でもありません。一人の平凡人かつ高齢者が、見るに見かねて「あれはぼくだ」という思いを持ちつつ暮らしてきました。この先の展望などある気遣いもない。生きているうちに、精一杯元気で、命をまっとうしてくれますようにという切実な願いを断ち切らないように、可能な限り丁寧に付き合ってゆくだけです。

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●ダブリュー‐ダブリュー‐エフ【WWF】[World Wide Fund for Nature]=《World Wide Fund for Nature》世界自然保護基金。世界の野生生物とその生息地を保護するための基金。1961年設立の世界野生生物基金(WWF;World Wildlife Fund)を、1986年に現名称改称本部スイスグラン。(デジタル大辞泉)

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 さいわいにして、住宅街の公園で毎夕決まった時刻に、アニマルショウが開かれる、そんな場に遭遇したことは一度もありません。何度か通りかかった程度ですが、まるで偏差値や学歴を見せびらかすかのように、きらびやかな衣装を着せて品評会よろしく、一同が揃うのです。これぞまさしく、「玩弄物」だというほかありません。「高齢者とペット」は一心同体か、親兄弟のように思われてきますから、この先を書くのは楽しくありません。「ペット」を飼うメリットといいますが、それだけの理由で「飼う」人がそれほどいるとは思いません。「飼いたいから」、それが一番ですね。その「飼いたい」が薄れてきたら、人間同士なら「協議離婚」でしょうが、犬猫の場合は「廃棄」するんだ。好きでくっつき、嫌いではなれる、それで何の問題がありますか、と開き直られるのですね、当節も。

 【河北春秋】愛犬家にうれしい話。犬を飼っている人は飼ったことのない人に比べ、介護や死亡の発生リスクが0・54倍と半減する。国立環境研究所と東京都健康長寿医療センター研究所のチームが1万人以上の高齢者を追跡調査し、導き出したそうだ▼犬の飼育に加えて定期的な運動習慣がある人は0・44倍というから、散歩など日々の世話による身体活動が効くらしい。散歩中に出会う「犬友」の助け合い、交流も好影響を与えているのでは、とも▼改正動物愛護法がきょう施行され、飼い主情報をたどれるマイクロチップの犬猫への装着が、繁殖・販売業者に義務付けられた。チップは直径2ミリ、長さ1センチほどの円筒形。獣医師が首の後ろ辺りに埋め込む。以前から飼っている犬猫への装着は努力義務となる▼災害などで迷子になっても飼い主の元に戻りやすい。安易な遺棄の防止につながる。そんなメリットが挙げられている。課題や抵抗感などもあるだろう。肝心なのは命を預かる自覚と責任▼調査では猫を飼っている、いないで、介護や死亡のリスクに差はなかった。残念な結果だが、猫派は超越した幸福感を味わっているかのよう。とまれ、ペットと飼い主が安心して暮らせ、互いが心も体も健康に。チップはそんな環境づくりの一助であってほしい。(河北新報・2022/06/01)

 「改正動物愛護法がきょう施行され、飼い主情報をたどれるマイクロチップの犬猫への装着が、繁殖・販売業者に義務付けられた」「とまれ、ペットと飼い主が安心して暮らせ、互いが心も体も健康に。チップはそんな環境づくりの一助であってほしい」と、その狙いは高そうですが、果たしてどうでしょうか。いずれ、これは人間全員にも「埋め込まれる」その第一歩だといえませんか。犬猫でうまくいったから、次は人間に、と。その効果はどこにあるのか?徘徊で路頭に迷い、しかも本人確認ができない。不慮の事故死で身元確認ができない。その他、もろもろ、おそらく犬猫以上の効果があるんでしょうね、国民を管理する行政からすれば。来年だったか、いよいよ「マイナンバー」の強制化が促進されそうだといわれています。要するに「国民皆マイクロチップ埋め込み」ですね。これでは、まるで犬猫並みなのか、犬猫の人間並みなのか。(これでまた、飼い主には出費が殖える、喜びの種か)

 いまや「ペットショップ」禁止は世界的な現象になっています。これについてはどこかで触れておきましたが、百万も二百万もだして「犬」を飼う人がかみさんの友だちにいる。何を飼おうと勝手ですが、犬猫その他を「金であがなう」というところが、ぼくには受け入れられません。世界各地で問題になっている「人身売買」、そは人間の扱われ方には決してふさわしくないから、問題にされるのでし、それでも「金になる」から悪徳非道を強行する輩が後を絶たないのでしょう。

 最近はとんといかなくなりましたが、その昔、ペットショップの前を、平気で通り過ぎることはできませんでした。何とかして檻の中の動物を解放したいという感情に襲われるからでした。その昔「犬公方」と言われた将軍がいた。徳川五代将軍綱吉です。おつきの坊主の言いつけで「生類憐みの令」を出し、極度に犬を溺愛し、反対に人間を犬以下に扱ったので、「犬公方」と揶揄されたという。ぼくは大きな見通しがあってのことではなく、単純に「いのちに値段」をつける発想というか商売っ気がいやなだけです。綱吉にまつわる話もないわけではありません。特に母親の桂昌院と「生類憐みの令」の関係などなど、しかし、気分もすぐれませんので割愛です。

 この島から少しずつでもペットショップが消えていくことを鶴首しています。やがてそれが各地の「動物ショウ(見世物)」禁止へと進んでいくことも、希望をもって見通している。高額で取引するためにいったいどれだけの「ペット」たちが虐待され、虐殺されてきたか。なんとかして、人間の「遊行」「趣味」の犠牲になった動物の霊に報いたいものです。

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