清濁併せ飲む、それが抗体力源なんだね

【敵一滴】花粉のシーズンがやってきた。今や国民の4割ともいわれる花粉症。日本気象協会の予測では、岡山県の花粉飛散量は例年の1・5~2倍と多そうだ▼一番の対策は原因を絶つことだろう。国はスギやヒノキの伐採の際、花粉の少ない苗木への植え替えを進めているという。ただ、国産材の利用低迷で伐採が進まず、効果が出るには時間がかかる。岡山県では人工林約16万2千ヘクタールのうち、過去10年ほどで植え替えられたのは全体の1%に満たない▼次善の策はマスクの着用だろう。吸い込む花粉の量を3分の1から6分の1に減らしてくれるという。福井大の研究チームは昨年、コロナ禍でマスク着用が習慣化したため、小学生のスギ花粉症の発症率が大きく減ったとの調査結果を報告した▼福井県内の小学生の保護者へのアンケートで、新たに花粉症を発症した児童は1・4%と、感染拡大前の平均3・1%から半減していた。発症している児童の症状が緩和したとの回答もあったという▼花粉症は小学校入学前後から急増するとされ、この時期をどう乗り切るかは重要になる。研究チームは「ポストコロナも花粉シーズンのマスクが大切」と指摘した▼国は来月からコロナ対策を大幅緩和する。学校では基本的にマスク着用を求めないとするが、したい人の意思は尊重される教育現場でありたい。(山陽新聞デジタル・2023/02/21)

● 花粉症=どんな病気でしょうか? ●おもな症状と経過 花粉に対するアレルギー反応によって、鼻の粘膜(ねんまく)や目の結膜(けつまく)に炎症反応がおこる病気です。おもな症状として、くしゃみ、鼻水、鼻づまりなどの鼻の症状(アレルギー性鼻炎)、目のかゆみ、流涙(りゅうるい)などの目の症状(アレルギー性結膜炎)が現れます。鼻の粘膜や目の結膜の感覚神経は、咽頭(いんとう)や耳の粘膜からの感覚神経と共通の経路を通って大脳に達するため、飛散(ひさん)する花粉の量が最盛期を迎える時期には、鼻や目の症状だけではなく、口の奥の軟口蓋(なんこうがい)や耳のかゆみさえおこることがあります。 / アレルゲン(抗原、原因となる物質)となる花粉が飛散していない時期には症状がおこりません。季節に関係なく、これと同じような症状がでる病気が通年性のアレルギー性鼻炎で、これはダニやハウスダスト、ペットの毛、フケなどがアレルゲンとなっています。(右上写真は「ブタクサ」)

●病気の原因や症状がおこってくるしくみ 花粉症は花粉という異物を体外に排除しようとしておこる、過剰な免疫反応(めんえきはんのう)です。アレルゲンとなる植物には多くの種類がありますが、わが国では、2月から4月にかけて飛散するスギ花粉によることがもっとも多くなっています。そのほか、ヒノキ、初夏のカモガヤ、オオアワガエリ、秋のブタクサ、ヨモギなどがあります。北海道ではスギは少なく、シラカンバが多くみられます。

●病気の特徴 花粉がどの植物のものなのか、また、いつ、どれくらいの量が飛ぶのかによって、患者さんの数は異なってきます。/ したがって、国によってこの病気で悩む患者さんの数や割合は大きく異なります。/ わが国では、現在、全人口の15.6パーセント程度もの人がこの病気に悩んでいると推定されています。/ 全国の森林の18パーセントを占める杉林が、アレルゲンとしてもっとも頻度の高いスギ花粉の飛散量を増やしていること、都市部での空気の汚染などが考えられています。(以下略)(EBM 正しい治療がわかる本)(左写真は「カモガヤ」)

 かなり前から、ぼくには今季の「花粉症」の症状が出ています。右の表に従えば、++か+++の間か。三十歳すぎまでは平気でしたが、それ以降はなんだか花粉症のようだと気がつき、やがて本格的な花粉症になった。とてもつらいと言うほどではないが、それなりに息苦しいし、目も鼻もスッキリしない状態が続きます。医者には行かない。薬にも頼らない。時期が来れば収まるだろうという呑気さです。拙宅はもと植林地で、杉と檜が満杯ですから、花粉症にはうってつけの「名産地」というわけ。見事に花粉が飛び散っています。でも「灯台下暗し」ということわざは、「スギ花粉」「ヒノキ花粉」にこそ妥当するのではないかと思うくらい、直下には落ちてこないから、まだ少しは助かっているという気もします。花粉量は何ともすごいもので、それを見ると卒倒しそうになります。

 幼児、いや生来の「花粉に対する免疫」があった。田舎暮らし(能登半島)の利点であったものが、更に京都の田舎地方(嵯峨)での生活でも免疫力は落ちていなかった。かなり有効でだった。高校を卒業して東京住まい(文京区本郷)で十年、まだ免疫は生きていたのでした。ところが千葉の田舎暮らしを始めた段階で(八千代市や千葉市に住む)、それまでの、花粉ソユに対する「抗体」が期限切れになりつつあったのでしょうか。そして東京の新宿にあった職場に通い出した頃から、たくさんの人間たちと交わりだした(三密というのか)。その頃から鼻や目に違和感を覚え、やがて正当な「花粉症」になったというのが、ぼくの見立て。四重歳過ぎでした。(右はウェザーニュース「あなたはどれほどツラい!? 花粉症の重症度セルフチェック」より:https://weathernews.jp/s/topics/202302/180075/)

 先月亡くなられた槙佐知子さんに「自然に医力あり」と題された著書があります。駄文集録のどこかで紹介してありますが、そこに「スギ花粉症」に関する発生因や治癒のヒントが述べられていました。この花粉症が劣島で流行り出したのは昭和三十年代からだと言われています。それ以前には、あまり問題にはならかなった。もちろん、山や林には杉や檜が所狭しと植えられていたのに、です。その理由(原因)はなにか?まるで推理小説のような展開になり、俄には受け入れられないかもしれませんが、どうも確からしいと、ぼくは思っていましたし、槙さんの指摘に思わず、「なるほど」と膝を叩いたのでした。じつは、槙佐知子さんという方はとんでもない仕事を独力でされた方で、ぼくは学生時代から知っていました。長い間、少しは丁寧に彼女の仕事をたどりたいと思っているのですが、とてもここで語ることはできません。その代用として、ある出版社の「紹介記事」を引用させていただきます。

● 槙佐知子「作家・古典医学研究科。1933年静岡県生まれ。73年、安政版医心方に出会い、医心方部首字書を作成して解読。独学で千年来の初訳に取組み、77年「医心方食養篇」、78年『医心方養生篇』の現代訳共著(出版科学研究所)。79年より平凡社の「心」に「医心方と今昔物語」18回連載。79年より学燈社「國文学」に「医心方にみる王朝の宮廷医学」9回連載。同〈後宮特集号〉の医学と美容を担当。79年に八〇八年勅撰『大同類聚方』百巻に出会い、医心方と並行して訳す。85年『全訳精解大同類聚方』(平凡社刊)。86年第第34回菊池寛賞、87年エイボン功績賞受賞。93年より『医心方全訳精解』を筑摩書房より刊行開始。2013年30巻33冊完結。関科学技術振興財団の第10回パピルス賞受賞。 著書・『医心方にみる美容』(ポーラ文化研究所)『今昔物語と医術と呪術』(築地書館)、『日本昔話と古代医術』(東京書籍)、『くすり歳時記』『食べものは医薬』『自然に医力あり』(共に筑摩書房)、『病から古代を解く』(新泉社)、『春のわかれ』『シャエの女王』(偕成社)。このほか、妙心寺「花園」誌に仏教童話を花岡大学氏のあと21年間連載。 職歴 ・筑波技術短期大学視覚部医学概論講師 ・日本伝統医療科学大学院大学非常勤講師 ・福島県立医科大学大学院非常勤講師」(人文書院:http://www.jimbunshoin.co.jp/author/a32970.html)

 「花粉に対するアレルギー反応によって、鼻の粘膜(ねんまく)や目の結膜(けつまく)に炎症反応がおこる病気です」と言われるように、「花粉症」は、要するに「アレルギー反応」によって引き起こされる症状(病気かな)です。ではそのアレルギーとはどういう仕組によって生じるのか。面倒なことは避けますが、少なくともアレルギーの何たるかは抑えておきたいですね。一時期、さかんに接種を慫慂された「(新型コロナウィルス)ワクチン」によって、ほとんどの人には問題は起こらなかたのに、ごく少数ですが、さまざまな「副反応(副作用)」が発生しました。重い副反応が継続したり、中には接種直後に死亡するという事例もありました。このワクチンも、身体にとっては一種の異物で、それが侵入してくると免疫反応が激しく生じる結果、様々な不都合が身体内に起こるのです。体は、不思議の国のスーパーメカですね。異物侵入に対して、一瞬に識別・反応し、激しく「攻撃(抵抗)」するのです。ただし、体力が落ちていたり他の病気に罹患していると、抵抗力はあえなく尽きて、外敵の勝利に終わるのです。それが「病気」です。まるでロシアという「ウィルス(外敵)」がウクライナという弱々しい体内に侵入したようなもの。弱かったウクライナ身体は、様々な会合や炎上を受けて体力を保持し、この外敵を打ち倒そうとしている、それが一年も続いているんですね。

 スギ花粉の場合はどうでしょう。ぼくの素人判断ですが、推論を述べておきます。この島の土地の約七割が山林です。その山には、当然のように植林されたもの、自然生育によるもの取り混ぜて、多種多様な植物が繁茂しています。その中でも「花粉症因子」の東西の横綱は「杉山」「檜林」です。遥かの昔からこの植物は自生していたでしょうし、あるいは建材用として植林もされていた。ところが、この島にスギ花粉症が流行しだしたのは昭和三十年ころと言われます。その当時までの日用雑貨などには多くの杉や檜が材料として用いられていた。住宅材に杉や檜が、あるいは桶類、器物にも木工品が多様されていました。昭和三十年の半ばを境にそれらの木材はプラスチックに取って代わられたと言えそうです。(その嚆矢は「積水化学」でした。ぼくお先輩が京都の「セキスイ」に就職したのを、てとても珍しく思っていました。製品が「ハイカラ(プラスチック)」だったから。それまで、当たり前に家の中にふんだんにあった杉や檜を材料にした生活用具(木工品)は、多くの人が幼児の段階から「免疫抗体」を維持するために大きな働きをしていたと思われます。(左図は共同通信・2022/02/15)

 生活形態の変化と一口に言われますが、これまでも「手仕事」による工芸品や家財、住宅建材が、それ以前のものから大量生産に資する「資材」に取り替えられてきた。その結果、徐々に木材のもつ「アレルゲン」に対する抗体が皆無か、微量になり、さらには免疫抗体が失われたと思われます。やがて、すっかり生活環境が変化をしてしまい、無機質の環境が生み出された、その結果が、自然界の摂理である「花粉」に無抵抗な体質が養われていたのではないか、勝手な推断ですが、おおよそは槙さんの指摘をなぞったつもりです。プラスチック万能の時代を謳歌しているつもりで、一方では植物への免疫抗体が失われ、他方では、新建材の導入で気密性が必要以上に確保された結果、「住宅(環境に発する)アレルギー」を蔓延させて来たのではないでしょうか。ぼくたちは無数のウィルスや細菌に取り囲まれて生活しています。必要以上に衛生を保とうとすることで、細菌やウィルスとの、ある種の共存状態が破綻し、新たな感染症やアレルギー症状を誘発して来た・いるにちがいありません。 

● アレルギー(Allergy)(遺伝的要因による疾患) アレルギーとは本来、体の外から入ってきた細菌やウイルスを防いだり、体のなかにできたがん細胞を排除するのに不可欠な免疫反応が、花粉、ダニ、ほこり、食べ物などに対して過剰に起こることをいいます。過剰な免疫反応の原因となる花粉などを、アレルゲンと呼びます。/ アトピー性皮膚炎、気管支喘息、花粉症を含むアレルギー性鼻炎などが代表的なアレルギー疾患です。理由ははっきりしませんが、日本を含む先進国で患者が急増しています。アレルギーの原因 / アレルギーも生活習慣病などと同じ多因子遺伝性疾患で、複数の遺伝子が関与するアレルギーになりやすい体質をもつ人が、アレルゲンに暴露することにより発症する疾患と考えられています。遺伝子が短期間に変化することは考えられませんので、先進国でアレルギーが急増している主要な理由が環境要因であることは間違いないでしょう。/ たとえば、日本でスギの植林が盛んに行われたために、最近になってスギ花粉というアレルゲンが環境中に増え、スギ花粉症患者増加につながっています。また、気密性が高まった屋内でダニが増えやすい環境になっています。さらに、乳幼児期に細菌などが少ない清潔な環境にいると将来、アレルギー疾患にかかりやすくなる(衛生仮説と呼びます)ことも報告されています。そのほか、私たちの身のまわりに存在する化学物質の急増が関係しているとの指摘もあります。(以下略)(六訂版家庭医学大全科)(左表は「出典:食物アレルギー診療ガイドライン202」)

 物事をあまりにも単純化するのも考えものですが、誰にとっても初めの経験が心地よかったか、悪かったかで、そのものに対する心象(心証)、反応はつくられます。たまご・ソバ・エビ・カニなとの食物でも多くの人は美味というのに対して、ごく少数の人は拒否反応(アレルギー)を起こします。不思議ですね。ぼくの友人で「ソバアレルギー」の人がいました。「麦アレルギー」の人もいた。普段は我が物顔で振る舞っている男が、ある食材を見た途端に、元気が萎えて、真っ青になり、食事の途中で家に帰るといい出したことがあります。傍若無人を萎(しな)びさせたのは「エビ」でした。まるで「お芝居」を見るようでした。つまりは「不倶戴天の敵」だったんですね。というより、体が受け付けなかった。これらに関しては、幾つも面白い逸話がありますが、止めておきます。

 これは今でもやられているようで、実話です。漆職人の家庭に生まれた跡継ぎ候補は、早い段階から漆(うるし)にかぶれる経験(免疫力の育成)をさせて、免疫抗体を作るということです。ぼくは、小さい頃に何度も「カブレ」ました。もちろん、漆職人になるつもりはなかったから、未だに「抗体」はできていません。今なお、各種のアレルギーは生まれつつありますね。ぼくは「学校アレルギー」がひどかった。それは学校という建物ではなく、学校の住人である教師に対する好き嫌いの「嫌い」が多分に作用していたと思う。学校・教育アレルギーには、ついに免疫ができないままで人生の終りを迎えそうです。

 何に限らず免疫力を高めることが何よりでありますが、その前に「アレルゲン(花粉・漆・コロナウイルスなど)」そのものに身をさらさない。どうしてもというときには、体内に取り込まない(マスク着用の)ことです。それでもだめなら、荒療治で「火中の栗を拾う」か、「虎穴に入って虎子を得る」というように、攻撃に転じたらどうでしょう。討ち死にするかもしれません。免疫抗体がゼロというのは困る。いつも言うことですが、ストレスの過多はいけませんけれども、ストレスがゼロでは生きていけない。一言で評すれば「清濁併せ呑む」だけの幅というか、余裕(ゆとり)が欲しいですね。

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 端緒を開く、陳勝・呉広は何処にいるのか

 

 月々の電力使用料金がハンパじゃない高騰ぶりを見せています。高騰の理屈はどうにでもつけられますが、本当に値上げが必要かどうか、少なくとも電気料金に関して、ぼくは大いに不信の念を持っています。どこかで触れましたが、まず、必要支出の総計を出した上で、電力料金を決めるのですから、基本的には「赤字」は起こらない。現今のように「突発的要因」が重なれば、当初設定の料金では賄えない支出が出でるので、「赤字」は当然です。面倒は大嫌いですから、簡略に言いますと、電力は地域独占企業であり、競争相手はいないに等しい。近年「新電力」が進出していきましたが、送電網は既存電力会社のものを借用するのですから、思ったほどの安い電力料金は設定されていない。

 それはともかく、現政府は既存原発の運転期間を「原則四十年」、「最高六十年」とする原子力規制委員会の決定を受けて(実際は、受ける以前に決められていて)、法改正に乗り出した。(まるで陰謀論めきますが、この島社会の原発問題もまた、米国の差し金というか、一存で決められて生きたし、げんにその本質は変わらないといえます。少し長い歴史を話す必要がありますが、ここでは止めておきます)

 この政府系諮問委員会や独立(偽装)委員会や審議会は、お飾りにもならないし、承認機関にもならないもので、せいぜいが「(民意を聴いたという束の間の)アリバイ証明用の委員会」というべきか。あらゆるところで、このミエミエの底の薄い「詐称委員会・審議会」が多用されている。軽くて薄い政府の命綱なんだね。その政府の眼目は「国民愚弄」に徹することです。聴いたふりをして、委員会をでっち上げ、審議会を悪用する。許せないですな。

 以下に、昨日と本日の各紙のコラムを三本出しておきます。上げればキリがないくらいに関連報道はありますが、何処も似た者同士、八百長相撲にクレーム(いちゃもん)をつけるだけの、それだけが仕事と言えば言えるようなコラムです。と言って、決して無理難題をぶつけようというのではない。この程度の内容のコラムを書くだけでも、大した「お仕事」と言ってみたくなります。それぐらいに、腰が引けているのです。「お上」が怖いのだ。電力料金の値上げ反対と書いていながら、その電力会社の電気を使っている。どんな批判や非難が新聞やテレビから出ようが、痛くも痒くもないのが政府権力者です。何をしても、まったく恐れをなすことをしないで済むのですから、政治というのは、なんとお気楽な稼業かというのでしょう。新聞紙代は8%の消費是で収められています、政府の力添え、いや手加減で。

【明窓】「豊かな暮らし」と電気 高度成長期に入った1955年ごろ、豊かさの度合いを七つに分ける家庭のランク付けが話題になったそうだ。目安にされたのが、主に家電製品の保有の有無。電灯しかない家庭が一番下の第7階級。ラジオとアイロンがあると第6階級といった具合▼第5階級はトースターと電熱器、第4階級はミキサーや扇風機の有無が指標。さらに洗濯機があると第3階級。冷蔵庫を備えた家庭は第2階級で、テレビと掃除機があれば最上位だったという。電灯のみの家庭に比べ、一番上になると家電製品がいくつも増える。当然、電気代も違っていたはずだ▼今の家電製品の保有状況なら、大半の家庭が当時の最上位クラス以上。エアコンなど保有する種類も台数も増えている。当時は約1900万世帯。今はその約3倍で、世帯数と部屋数や保有台数をかけ算すれば、電気の使用量は飛躍的に伸びているだろう▼高騰する電気代の軽減策として政府は、今月検針分から電気の使用量1キロワット時当たり7円を肩代わりする。9月までは続けるようだが、大手電力7社が値上げ申請しているため、4月以降は順次、恩恵が帳消しになる恐れもあるらしい▼ただ電気がもたらす快適さや便利さを我慢するのは容易ではない。そんなタイミングで政府は原発の最大限活用に舵(かじ)を切った。「豊かな暮らし」を続けていくには原発に頼るしかないのか-ここは考えどころだ。(己)(左写真:農家の家族そろって視線を向けるのは居間に据えた白黒テレビ。洗濯機、冷蔵庫とともに家電品の「三種の神器」が神武景気に乗って普及し始めた=1956(昭和31)年9月(山陰中央新報デジタル・2023/02/17)

 1955年頃、ぼくは十歳過ぎでした。自宅は間借りのバラック(荒屋)で、電気製品はなんにもなかった。やがてラジオが部屋の箪笥の上に据え付けられた程度。それでもこのラジオで、ぼくは多くのもの(文芸・演芸・歴史・民謡、その他諸々)を聞き知った。切れ切れに聞こえてくるラジオはぼくの「学校」「教室」でした。その学校(教室)は戦争を知らないで育った子どもに、戦時中の列島軍部や政府の行状を、今よりも遥かにあけすけに教えてくれた。その多くは、今でも鮮明に記憶にとどめている。毎日の「麦入りの米」は薪で焚いていた。それはぼくの仕事。洗濯も手洗いでするのが当たり前の時代だったから、貧乏とか貧困という観念はなかった。夜の十時にはきっと寝ていた。早寝早起き、健康第一。

 コラム氏が書くような「豊かな暮らし」とは縁遠いものだったが、ぼくの経験は、もっとも豊かとは言えなかったが、なんの恥も外聞も感じなかった。「電気製品」と「豊かな暮らし」は、ぼくに関する限りは直結していなかった。家や学校でする以外に、ぼくには大きな意義のある「山歩き」があったし、歩き疲れて家に帰れば、十時には寝ていたのです。比較はできませんけれど、今よりは「人間」の生き方に相応していたという思いは強い。ぼくは野蛮で野生育ちの子どもだった。これより数年後に、初めて自宅を立てたが、その建築代が車(カローラ)一台分でした。記憶では六十万円だった。

【斜面】事実を無視する政治 「実際の政治は事実を無視することで成り立っている」。米思想家のヘンリー・アダムズ(1838~1918年)による鋭い批判だ。残念ながら当てはまる例は多い。原子力規制委の変節もそんな政治をまた許してしまうに違いない◆東日本大震災の過酷事故は原発政策で最も無視してはいけない事実だ。事故後に生まれた規制委は「人と環境を守る」を使命とし、高い倫理観で最高水準の安全を目指す―と高らかに理念をうたった。活動原則の最初には「独立した意思決定」を掲げる◆ところが原発回帰へかじを切る政権に歩調を合わせた。原則40年、最長60年の運転期間の延長は「政策判断だ」と自ら所管を手放す法改正を認めた。「安全側への改変ではない」と反対者が出て議論を延長した末、異例の多数決となる。政権はそれさえ待たず方針を閣議決定した◆政治の思惑の外から、事実を無視しないよう導くのが規制委の役目だ。委員は職責を理解しているのか。「じっくり議論すべきだった」と政治サイドにせかされた恨みを口にした委員もいる。それならなぜ賛成したのか。使命も理念も忘れているのでは◆きのうの国会で岸田文雄首相は「規制委で丁寧な議論がなされた」と平然と言った。委員長を替え、結論をせかし、組織の根幹まで侵した張本人が、さらに事実を無視する。日本学術会議、日銀、NHK、内閣法制局―。人事を通じて独立性を奪おうとする狡猾(こうかつ)で危険な政治が止まらない。(信濃毎日新聞デジタル・2023/02/16)

 この「斜面」を再読三読していただきたいと強く思う。近年の「日本の政治」のグロテスクさと国民を愚弄する程度の激しさを、実に活写していると読めます。まず「原子力規制委員会」という名称そのものが、著しく真っ当さから外れている。安全や安心を担保するために「規制すべきは規制する」ための委員会と、愚かな国民は考えるだろうが、なんという浅慮かと、政府官僚及び、委員会委員の大半は思っているのだ。「原発は危険だ」「さまざまな杞憂を晴らさないで原発を稼働させるのは許せない」という愚民の諸々の反対や批判を政治的に「規制する」ための委員会だったのだ。腐臭が臭いだしてこないか。この委員会の委員になれば「勲章もの」とされるが、それがために人民の「いのち」を、自己顕示欲しかない政治権力者に売り渡したのです。同じ穴の貉(むじな)という。(こんなところに使われるなんて、という「貉」よ、許してほしい)

 「岸田文雄首相は『規制委で丁寧な議論がなされた』と平然と言った。委員長を替え、結論をせかし、組織の根幹まで侵した張本人が、さらに事実を無視する。日本学術会議、日銀、NHK、内閣法制局―。人事を通じて独立性を奪おうとする狡猾(こうかつ)で危険な政治が止まらない」と、信毎記者は「臍を噛んでいる」のでしょうか。あとを受けて、どうして「即刻辞めろ」と書かないのでしょうか。

 現総理は「傀儡」だとぼくは確信している。「私は総理の器だ」という自己認識が、もう相当にイカれている「(旧称)痴呆症」ではないですか。自分の言葉を持たず、他人が書いた文を読むが、内容は皆目理解していないし、なによりも関心がないのだ。息子を総理秘書官に任命した際、その理由は「適材適所」といった。言葉を知らないというのは、恥を知らないことと同義だと、天下に晒した。総理大臣が「狡猾で危険」な政治をしているのではない。彼は単純細胞、木偶(でく)の坊でしかない。この木偶の坊を使って歩かせる道の行きつく先は危険そのものの崖っぷちです。まだ引き返せるのではないか、もうだめなのか。彼は大学出だと言うが、冗談でしょうと言いたいね。出身大学の名を知りたいと言うまでもなく、汚職の権化「神の国総理」しかり、「親分から派閥を乗っ取り総理」はヤクザの「褒め殺し」にあった、いわくつきでした。「君、国を売り給うことなかれ」と、絶叫したいばかりの面々が、その大学を出たというのです。大学とその教育には大きな罪がありますね。大学入試も、いまなお盛んにけんでんさsれています。でも、大学へ行かないことをぼくはおすすめしたいね。賢くなり、馬鹿になりたくなければ、大学は鬼門です。「大学は終わった」は、この島社会だけに限りません。

【日報抄】自然科学の世界では、多数派の意見が正しいとは限らない。有名な例ではガリレオの地動説がそうだ。多くの人が天動説を信じる中で、動いているのは地球の方だと訴えた彼は異端審問にかけられた。現代では地動説が正しいと誰もが知っている▼20世紀後半にも、宇宙最大級の爆発現象「ガンマ線バースト」が起こる場所について、銀河系内かもっと遠くの宇宙の果てかという論争があった。学者の多数が銀河系内説を支持したが、その後の解析で宇宙の果ての方に軍配が上がった▼がん免疫療法の開発に道を開き、2018年のノーベル医学生理学賞を受けた本庶佑さんは、常に通説に立ち向かう姿勢で新たな発見を続けてきた。その背景には「科学は多数決ではない」という信念があったという▼では、この事態はどう受け止めればいいのだろう。原子力規制委員会は原発の60年を超えた運転を可能にする新制度案を多数決で決めた。山中伸介委員長ら4人が賛成したのに対し、地質学が専門の石渡明委員が反対した▼規制委は原発の安全に関わる各分野のスペシャリストが名を連ねる。意見が割れたまま重要案件を決定するのは極めて異例だ。原発の活用に転換した政府の姿勢を追認しているように見える▼石渡氏は「科学的、技術的な新知見に基づくものではない」と述べた。賛成した委員からも「せかされて議論した」という声が漏れた。政治的な思惑からは離れ、科学の視点で真理を見極めなければ規制委の存在意義が問われる。(新潟日報デジタルプラス・2023/02/16)

 「有識者」というのは「有色者」と違うんですか。権力者の顔色を伺い、その場の旗色を見るに敏なる「尻軽」「無見識者」を指すのですね。どんな結果が出ようが、自分さえよければ、それが「学術経験者」の中から出てくる「有識者」、いや「有色者」なんだと言いたいね。彼ら彼女らは「知識人」ではなく、知識人を騙(かたる)る「専門家」です。あからさまに言うなら、「詐欺師」です、あえてややこしい熟語を使うなら「譎詐百端」(けっさひゃくたん)というべきです。人を裏切り、世間を騙すが、なによりもおのれの良心を偽るのです。この手の「有識者」に溢れているのが、この世間ですね。「科学は多数決ではない」というのは、そのとおり。でも政治だって、民主主義政治になればなおのこと、それは「多数決」ではないのです。政治に誠意や真実が微塵もなければ、却って、多数決は詭計を生む(売国奴の)温床になるのだし、今ぼくたちは、そのいちいちを見せつけられているのだ。

 人倫に悖(もと)ることをいささかも恥としない政治家官僚の跋扈を剔抉し、お天道様が明るく輝く時代社会の曙に立つ、陳勝呉広の現れんことを、ぼくは希っている。逸材どこにでもいるものだと、歴史は教えている。(もちろん、暴力革命などではなく、長い道のりを覚悟する「革命」。それがデモクラシーなんだと言いたい。武力ではなく、言葉の正しい意味での「政治≒経世済民」の道を求めて千里の道を遠しとせず、行くのです。杖に縋(すが)ってでも、ぼくも、足手まといになろうとも、いっしょに歩きたいね)

● 陳勝・呉広の乱(ちんしょうごこうのらん)= 中国、秦(しん)の二世皇帝元年(前210)7月、陳勝(陳渉ともいう。渉は字(あざな))と呉広が、北境防備のために徴発された900人の兵卒を率いて起こした反乱。中国史上初めての農民反乱であるとともに、秦帝国滅亡の端緒となった事件として重要である。陳勝と呉広の2人は大雨のため力役の場所への到着期限に遅れたので、斬罪(ざんざい)に処せられるよりも死を覚悟して名声をあげようと兵卒たちを説得した。そのときの「王侯将相寧(おうこうしょうそういずく)んぞ種(しゅ)あらん乎(や)」ということばは、身分に関係なく力によって挙兵したこの反乱の性格をよく物語っている。陳勝は貧家の生まれの雇農であったが、民を率いて王位につき、「張楚(ちょうそ)」国を建て、部将を各地に派遣して勢力を拡大していった。当時秦の圧政に苦しんでいた人々は次々とこれに呼応した。しかし翌年12月、呉広に続いて陳勝も臣下に殺され、わずか6か月の短命の反乱政権であった。のちに項羽(こうう)、劉邦(りゅうほう)の軍が秦を滅ぼすことになる。(ニッポニカ)

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 再び、犬や猫との同居のすすめ

【日報抄】目は見えず、耳も聞こえず。最近は嗅覚もかなり怪しくなってきた。わが家の同居犬である。動物病院に掲示してあった人間の年齢への換算表によると、とうに100歳を超えている。単純に人間と比べられないのかもしれないが、かなりの高齢であることは間違いない▼ペットの世界でも高齢化が進んだと言われて久しい。先日の本紙には、老犬の介助グッズについての記事があった。うまく歩けなくなった犬の散歩を助けるハーネスなどを紹介していた▼高齢のわが相棒は食欲が旺盛で散歩にも出られるが、後ろ足が徐々に弱ってきた。視覚や嗅覚が衰えたせいもあってか、少しの段差を乗り越えるのも一苦労だ。近いうちに介助用品のお世話になるかもしれない▼史上最高齢の犬は30歳であるという。ポルトガルで暮らす雄犬がギネス認定された。写真を見ると、大型の部類に入る犬のようだ。一般に大型犬は小型犬に比べて短命だというから、桁違いのご長寿犬といえそうだ▼ペットも人も高齢化している昨今だが、犬や猫を飼っている高齢者は飼っていない人に比べて介護費が半額に抑えられているという研究結果が発表された。世話のために責任感を持ち、規則正しい生活になるのが活力につながるらしい▼わが家の犬も、飼い主の健康維持に貢献してくれているのだろうか。そうだとすれば、ずいぶんと飼い主孝行をしてくれているではないか。この先、犬に介助や介護が必要になったとしても、喜んでお世話させてもらわねば。(新潟日報・2023/02/12)

 

九時半過ぎから、随分久しぶりに歩いてきました、というほどのことではありません。それだけこのところ、まったく家に閉じこもっていたという証拠でもあります。約七十分程、いつもどおりのコースをゆっくりとたどりました。あちこちの田んぼでは「土起こし」が始まりかけていました。昨年の田植え頃はしきりに歩きましたから、もう、そんな時期かと驚いている。田んぼ道を歩くのは楽しみでもありますが、場所によっては、昨年までは稲を植えていたのが、田起こしもされないままで放置されていたりすると、「減反政策」の名残りかと思って、がっかりしたり、こんなに放棄地が増えていいのだろうかと心配になります。いろいろと面倒な手続きがあるのでしょうが、米余りが続くなら、麦やその他の穀類を植えたらと、余計なことを考えてしまう。食糧自給率が極端に低いことは、決して褒められたことではなく、生死の決定権は外国にあるという、かかる状況から抜け出る算段が必要ではないか。七割近くの食料を他国に依存しながら、国防だの防衛だのと騒いでいるのは、なんのお祭りかと甚だ訝しくなるのです。

 それはともかく、人間とともに、犬や猫などの「ペット」も長生きだという主題について、駄文を綴ろうとしていました。「早起きは三文の徳」といいます。徳は得でもあるということ、それだけの意味ですね。今流の「時給」論で言うなら、単位あたりの報酬が同じなら長く働けばそれだけ多くの収入が得られるということです。朝早く起きて働けば、それだけ「得」をする。そんなことかと思われますが、早起きをするためには早寝が必要だし、きっちり朝ごはんを食べて、元気に働けば、それだけ健康にもなるという、そういう面でも「徳」に恵まれるのでしょう。

 そんなにうまくいくかどうか怪しいものですが、こんな「ことわざ」めいたものが残されているということは、それだけ、世間には「宵っ張りの朝寝坊(ほとんどは百姓・農家や漁業ではないという意味)」が多いということの証明でもあるようです。いずれにしても、これと同じような意味合いで「長生きは三両の得」と言えるかと訊かれれば、「それはどうかな」という実感がこもった反応が出てきそうになります。むしろ、長生きは「得より損」と言えませんか。よほどの人や境遇でないと、ろくなことになりません。(右は日経新聞・2022/12/23)

 「人生百年時代」と、まるでそれが目出度いことのように言いふらしたのは誰だったか。実際は「いつまで行きているつもりか」という軽侮の誹(そし)りに出会うばかりの「長命・長寿時代」だと、ぼくは考えているし、実感もしている。政府の予算案を見ると、いつだって「社会保障」関係予算の突出ぶりが続いていますし、如何にもそれが軛(くびき)となって、本来実施しようとする計画ができないのだと、「老人医療費」「国民年金」などが槍玉に上がるのでが日常の嫌な風景です。

 まさしく、「少子高齢化」が早い段階から目に見えていたにも関わらず、今頃になって「高齢化」は国家財政の危機をもたらすなどという「あらぬ嫌疑」をかけて「高齢者イジメ」が社会内で深く静かに、いや浅く大騒ぎで遂行されているのです。言いたいことただひとつ。

 「長生きは辛いよ」ということです。「健康長寿」とかなんとかいいつつも、「不健康長寿」を忌避・排除するが如き風潮があからさまではないでしょうか。長く生きるということは、どこかしらに故障(病気)が生まれるという意味でしょう。物忘れが「認知症」などという症例名をつけられ、もうお終いの人生だと「烙印」を押す。認知機能が衰えることを「老齢化」というのに、如何にもそれは病気なのだから「介護」の対象だとするのです。

 介護保険が始まって三十年も経つでしょうか。この保険が法案化される段階では、こんなに「介護保険料」が高額になるとは考えられなかった。老人医療費もそうです。つまり、過剰介護であり、過剰診療であるという側面に「大鉈を振るう」作業をみすみす見逃しては大騒ぎをするのです。この点を問題にすると際限がないほど面倒になりますので、ここで中止。参考までに言っておくと、介護保険開始時の保険料は月額2千円でした。それが今、ぼくは後期高齢者ですが、なんと十倍以上になっています。(現在、各国で、ワクチン接種済みの人と未接種の人では、死亡率が未接種のほうが高いというデータがではじめています。(ワクチン」を巡る大騒動は何だったんですかね、薬を飲むより飲まないほうが治る率が高いとなると、いったい、医療とはどういうことになるのですか)

 つい先日、かみさんの親友が亡くなった。八十四歳。年齡はともかく、朝、なかなか起きてこないので息子さんが見に行くと、すでに亡くなっていたという。これを「見事な最期」というのかどうかわかりませんが、願わしい寿命の収め方だと思う。自宅で生まれ、自宅で亡くなる。何とも自然、詳しくは知りませんが、彼女は病気が悪化してなくなったのではなさそうです。年齡の長短はありますよ、でもそれを「寿命」と見れば、まさに「天寿をまっとうする」というのは願わしい生き方(死に方)ではないか、ぼくはそう考えている。数年前に、二度ばかりお目にかかったことがあります。心身ともに健康そうでした。

 今日、「寿命」という考えがどれほど理解されているかわからない。しかし、前もって定められた、人生の長さと見れば、それをまっとうすることはさいわいだともいえます。「生命の存続する期間。特に、あらかじめ決められたものとして考えられる命の長さ。命数」(デジタル大辞泉)天寿といい、天命とも言うように、人智の及ばない力によって、予め差配されている「命数」というものがあるという思想です。命数が尽きるとか、寿命が尽きるというのは、「生と死」という人生の発端と終末は、人間の分際ではいかんともしがたいということでしょう。それを「如何ともしよう」というのが、介護であり、医療の中核にある思想(教条)ではないでしょうか。

 「ペットも人も高齢化している昨今だが、犬や猫を飼っている高齢者は飼っていない人に比べて介護費が半額に抑えられているという研究結果が発表された。世話のために責任感を持ち、規則正しい生活になるのが活力につながるらしい」というコラム氏の指摘は、もっと受け入れられていいのではないでしょうか。認知症や老人病を防止したり、遅らせたりする効果の点でも、動物との共棲は大きな意味を持っていると言いたいのです。ぼくたちは、この社会における望ましい「人間関係」を渇望し、却って、その「人間関係」に、多くの人は苦しめられる。若い人に限らず、自らの人生の幸不幸は、他人との「人間関係」の具合によるとされます。その人間関係も、よく見れば、人間と人間という「未知(不定)数」同士です。だから、どんなに上手く行っていたとしても、時には交流・友情に大きな齟齬をきたすことはいくらでもある。ぼくは結婚して五十年です。かみさんを熟知しているつもりでしたが、年々歳々、「未知の部分」が顕現…露出します。それ故に、文字通り「未知との遭遇」の繰り返し。この人はこういう人、そのような受け止め方はしていますが、細部においては「謎」だらけです。その未知の部分に出くわし、調和を失って日常性が破綻する。その「未知」であり「謎」の本体は、少し離れた自分の部屋で、昼食の「握り寿司」を食べている(午後1時過ぎ)。

 かみさんとの間で、こんなことをどれだけ繰り返してきたことか。ストレスが蓄積され、疲労も溜まる。そんな時に「ぽち」や「たま」がいてくれれば、どれだけ救われるか、自慢じゃないけれど、実感そのものですよ。犬や猫にしても、仲間同士では飽き足りない部分があり、その埋め合わせに「人間」がいるとわかれば、自分の生き方が、さらに開かれるんじゃないですか。あるいは猫や犬であることがどれほど幸せか、人間(関係)の惨めさを見て、深く悟ると思う。コラム氏にも見て取れますが、高齢化した「同居犬」に対する、優しい優越感、これを抱くことができるだけでも、犬や猫と同居することは大事でしょうね、人間にとっては。高齢の人間は「犬・猫」の世話をして、役に立っているのだと手応えを感じるからこそ、元気で生きるということに張り合いを持つのでしょう。猫や犬は、どう思っているか、今度ゆっくりと聞いてみたいな。(もっとも、拙宅みたいに、猫に乗っ取られてしまっては、どうにもならない。ぼくやかみさんは配膳係であり、トイレ掃除係であり、食料調達人でしかない)

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 *余談 「介護保険」「老人介護」などという言葉をぼくは好まないし、使うことをしないできました。「世話」といういい表現があるではないかと思っている。「年寄りの世話をする 子どもの面倒をみる」という、両方に共通する付き合い方は「Take care of the elderly  Take care of children」です。「世話をする」という当たり前の感情に基づく「注意深い関わり」を、「世話(care)」という語が言い当てているようにぼくには思われる。「介護」とか「介助」という言葉よりも、もっと「近づいた付き合い方」を示しているのではないかと考えたりしている。多様な使い方がされますが、要は「面倒をみること。尽力すること」(デジタル大辞泉)です。ついでに言うべきではないでしょうけれども、一言。「老人ホーム」という名称。「人間の家」「人が住んでいる家」とどうして呼ばないんでしょうかか。「老人ホーム」は「施設」だと言うそうだが、何のための施設ですか。老人しかいない施設なんかではなく、老人も中年も若者もいる「住宅」ということがどうしてできないのか。(「天邪鬼・へそ曲がり」ですかな)(「施設」でもなんでもいいけれど、虐待や暴力は根絶していほしいね)

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 立春は「新年の始まり」です

 本日は「立春」にあたっています。旧暦では新年、新春を迎えるという時季・時候を言います。まさに「春立つ」日です。さらに、この日から、次の節季の「雨水」までの十五日間を三等分して、それぞれ「東風解(はるかぜこおりをとく)」(「初候」・二月四日~二月八日頃)、「黄鶯睍睆(うぐいすなく)」(「次候」・二月九日~二月十三日頃)、そして「魚上氷(うそこおりをいずる)」(「末候」・二月十四日~二月十八日頃)と呼んできました。いわゆる「七十二候」です。いずれにしても、「立春(旧暦)」は年明けの季節というわけで、とりわけ「新春」の喜びが様々な行事に関係づけられてきました。立春から数えて「八十八夜」「二百十日」「二百二十日」などと、それぞれの季節(農業)の節目にもしてきたのです。

● 立春(りっしゅん)= 二十四節気の一つ。立春を迎えて太陰太陽暦の新年が明け,春の季節が始るとした。すなわち立春は正月節 (1月前半) のことで,太陽の黄経が 315°に達した日 (太陽暦の2月4日か5日) から雨水 (太陽の黄経 330°,2月 19日か 20日) の前日までの約 15日間であるが,現行暦ではこの期間の第1日目をさす。この頃は春風とともに寒さがやわらぎ,万物が春の装いを新たにする時期で,昔中国ではこれをさらに5日を一候とする三候 (東風解凍,蟄虫始振,魚上氷) に区分した。これは,東風が吹いて氷が解けはじめ,地中に冬ごもりした虫が動きはじめ,水中に休止していた魚が氷を出てくる時期の意味である。(ブリタニカ国際大百科事典)

● にじゅうし‐せっき ニジフ‥【二十四節気】〘名〙 陰暦で、太陽の黄道上の位置によって定めた季節区分。初期の陰暦では一年を二十四等分した平気(へいき)であったが、後に黄道を二十四等分した定気(ていき)を採用した。立春・雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒。二十四気節。二十四気。二十四節。二十四時。(精選版日本国語大辞典)

● 七十二候(しちじゅうにこう)=中国ので二十四節気(にじゅうしせっき)の各1気をさらに3等分して、1候をほぼ5日の3候とし、1年を72候とし、そのおのおのに太陽があるときの季節に相応する名称を付して、これを七十二候という。たとえば春分2月中の第一候を玄鳥至、第二候を電乃発声、第三候を始電という。日本でも具注(ぐちゅう)暦には記載されたが、仮名暦の頒暦には一般に記載されなかった。初めは中国渡来のままの名称で暦に記載されたが、これでは日本の時候に適合しないので、渋川春海(しぶかわはるみ)は1685年(貞享2)「貞享暦(じょうきょうれき)」施行のとき、日本に適するような名称に改めて「新制七十二候」を制定した。さらに1755年(宝暦5)宝暦(ほうれき)改暦で土御門(つちみかど)(安倍(あべ))泰邦(やすくに)によっていくらか改められたが、以後改訂もなく用いられてきた。1873年(明治6)太陽暦施行後も1883年まで略本暦には記載された。(ニッポニカ)

「現在、日本を含め多くの国で使われている暦は、古代エジプトを起源とするグレゴリオ暦で、太陽の運行をもとにした太陽暦です。地球が太陽をひと回りする周期を1年とするもので、季節の流れに忠実ですが、月のめぐりとは無関係に進むので、月のめぐりに影響される潮の動きや動植物の変化がわかりにくいのが難点です。/ 日本で太陽暦が採用されたのは、明治6年(1873年)。それまでは、太陰太陽暦を長い間使っていました。そこで、新しく採用された暦を「新暦」、古い暦を「旧暦」と呼ぶようになりました。/ 旧暦の太陰太陽暦は古代中国を起源としており、7世紀に日本に伝えられ、何度も改良が重ねられました。幕末から明治にかけて使われていたものを、天保暦といいます。/ 太陰太陽暦には、太陽と月のめぐりの両方が取り入れられています。月の満ち欠けをもって1か月となりますが、月が地球の周りを一巡するのは29.53日なので、12か月で354日となり、太陽暦より11日短くなります。すると、月のめぐりだけの太陰暦では季節がずれてしまい1月なのに夏の暑さになってしまうこともあるので、太陰太陽暦は32~33か月に一度うるう月を入れて13か月とし、そのずれを解決しています。(以下略)(「暮らし歳時記」:https://www.i-nekko.jp/)

 時間の測定に「標準時」があるように、暦にも標準暦を設けて、地球上の各地域に妥当するように用いられてきたのが「太陽暦」です。地球の各地域の行き来(交流)がよく見られなかった頃は、それぞれの地域が独自の暦や時刻を用いていたといえます。この島社会に「太陽暦」が導入されたのは「明治六年」、万国共通という「標準」の採用だったでしょう。それで便利になったものもあれば、従来の「尺度」が激変したので混乱を来たしたものもあります。年齢の数え方はその一つです。あるいは時間の数え方にも尺貫法にも、同様の変化が強いられてきて、いまあるように、「一時間は六十分」、「一メートルは百センチ」と万国共通になったのです。なんでもないことのようでいて、実は、そこには大変な変化・転換が生まれ、あるいはようやく、世界は一つになるためのきっかけができたともいえます。

 立春(本年は二月四日)が特別の日でないことはいうまでもありません。明治以前の人々にとって「新春」はこの日を始めとするという習わし(感覚)があったことは、今なおその痕跡というか、足跡が見て取れるし、残された文芸などにも、いまもその印が濃厚に刻まれています。その代表が「季語」と言われるものを詠み込んできた「俳句」でした。立春を詠み込んだ俳句は無限のごとくにありますが、なかなか、今日の「正月」「新春」の理解の仕方からは、感覚的に実感するのが困難な場合が多くあります。以下の二句に「新春の佇まい」が読み取れるでしょうか。時節がうまく符合しているかどうか。

春たちてまだ九日の野山かな(芭蕉) 

・寝ごころやいづちともなく春は来ぬ(蕪村)

IIIIIIIIIIIIIIIIII

 今日でも、地球規模の「温暖化」が季節(の変化)を狂わせ、その季節によって、さまざまに成長する生物植物を狂わせているのですから、ことは単純でも素朴でもなく、実に大きな危機的状況に、ぼくたちは置かれているでしょう。このような事柄にかかわると、「人事」(「人間社会の出来事)も不省に陥るとしなければならないし、人事に対して「自然」はなんとも麗しいし、厳しいなどと言っていられなくなります。ぼくたちが「自然」だと思っているもののかなりの部分が「人為」「人工」に染め上げられてもいるのですから。「水は低いところから高いところへ」「夏の食材を真冬に収穫」「春先の花々が、何時でも手に入る」、こんな四季のそれぞれの役割を一切無視した人間行動の横暴は、もはやこの小さな惑星を完膚なきまでに疲弊させてきたのです。

 昔、興奮を抑えられないで読んだ本に「収奪された地球」というタイトルのものがありました。化石燃料や天然の鉱物資源など、あらゆる方法を駆使してこの限られて資源を掘り尽くし、「地球からの収奪」を重ねてきた人間社会の獰猛さを教えられたのでした。今もその「愚」が続けられている「経済成長」という蛮行を指摘したものです。その収奪による破壊は、いまもなお留まることなく続いています。往時の島の民衆が迎えた「立春」とはどういう心持ちのものだったかを思いつつ、翻って、我らの時代の「立春」はどうなっているのか、あるいはどうなって行くのかと、少しばかり「懐旧」への浅からぬ情と未来への不安、この二つが綯い交ぜになった気分を感じ取っているし、その感情の思いそのままを駄文に綴った次第です。

 *松任谷由実:「春よ、来い」(https://www.youtube.com/watch?v=gol5dFrv4Ao&ab_channel=high_noteMusicLounge

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 Homo sapiens とはだれのことか 

【斜面】人がネコにもらうもの 「吾輩は猫である」に正月の場面がある。吾輩が主人の膝の上にいると、絵はがきの年賀状が届く。それは「舶来の猫」が並んでペンを持ったり書物を開いたり、勉強している絵柄だった。この1枚は架空のものでなく実在したらしい◆英国の挿絵画家、ルイス・ウェイン(1860~1939年)の作とみられる。擬人化したネコのイラストで英国中を沸かせ、ペットとしてのネコの「社会的地位」も高めた人物だ。最初は闘病中の妻を慰めようと飼っていた子ネコを描いていたという◆転機は新聞のクリスマス特別号だった。パーティーをする子ネコの絵が見開きで載ると反響を呼び、作品は世に広まった。後年、日本の収集家が英国で小説通りの1枚を見つけた。絵はがきの流通と漱石の執筆は時期も重なるという。南條竹則著「吾輩は猫画家である」で知った◆ウェインの生涯を描いた映画が長野など全国で公開中だ。作中で妻がネコを語る。「愚かで、かわいらしく、寂しげなの。怖がりで、勇敢で。私たちみたい」。人の姿を映すようなネコ。では彼らの目線から人の世を見ると―。小説の着想にも生きたか◆昨秋からわが家にも小さな保護ネコが2匹いる。ワクチン接種の際に追い回したせいか、近づくと今も怖い顔でにらむ。寂しいけれど、仕方ない。じゃれ合う彼女らを遠くで眺めるだけでよしとするか。人がネコを幸せにするのではなく、人がネコから温かな気分をもらっているのだから。■あとがき帳■9月にやってきた子ネコに振り回されている毎日です。テレビやカーテンの裏に隠れているかと思えば、人の手が届かない高い場所で昼寝。深夜は「大運動会」で部屋中を荒らし回ります。/ 世話をしているのに、触らせてもくれません。それでも、姿が見えなければ心配でたまらない…。何だか不思議な関係です。/ いつか斜面で取り上げたいと思っていたところ、年末にルイス・ウェインの映画を見ました。夏目漱石にも関係していると南條さんの著書で知りました。ネコが日々の暮らし、人生まで彩っていることを改めて実感しました。/ 映画「ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ」は長野市の長野相生座・ロキシーで上映中です。(論説副主幹 五十嵐裕)(信濃毎日新聞・2023/01/05)

(予告編:https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/26094)(「美術手帳:カンバーバッチが演じる「ネコ画家」。映画『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』が2022年12月1日に公開:https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/26094)その他を参照。

  思いの外、この国ではウェインは早くから知られていたようです。今から考えると、ぼくもこの猫の絵には見覚えがあるといえるのですが、誰が描いたか、まったく気にしなかったのも、かえすがえすも迂闊でした。猫は不思議な動物で、どちらかというと、犬よりも「神経質」であり、なにかと「偏見を以て」捉えられていたのではないでしょうか。猫にまつわる「怪奇話」「怪談」には事欠きません。そんなものからも、ぼくたちは知らずに影響を受けて、猫に関する「偏見」や「狭い了見」を作ってきたのではないでしょうか。コラム氏が紹介しているルイス・ウェインは苦悩に満ちた生涯を送ったようで、晩年の長い期間、彼は認知症を患っていたし、精神病院にも入っていたと、どこかで書かれています。彼にとって猫はどんな「同胞」だったのか、遅まきながら、調べてみたい気がします。漱石が「吾輩は猫である」を書いたのは、この画家の人となりや明け暮れ(暮らしぶり)を知っていたからかも知れないと、勝手な想像を重ねてみたくなるのです。(猫に関する小説や昔話にも事欠かない。いずれ、そのことについても駄文を物したいですね)

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 本日の駄文の主題(もし、それあれば、の話ですが)、猫と人間、あるいは人間と猫の「友情」「付き合い」とでもいうべきものです。「君は猫が好きか?」と尋ねられたら、大抵の人は「大好きです」とか「とても嫌いだ」とはっきりいうのではないでしょうか。また、今ではとても多くの人が「猫アレルギー」を訴えられている。それに反して「イニアレルギー」はあまり聞きませんね。さらにいうと、好き嫌いを問われて、「別に…」という人は僅少でしょう。その「好き嫌い」も、やがては「嫌い好き」になるという点では、人間同士の付き合いとよく似ている、いや人間という動物は、そんな付き合い方しかできないのですね。「死ぬほど好きやねん」と惚れ抜いたと思わせた人間が「あいつを憎み倒してやる」「呪い殺す」と物騒なことを言い出す始末です。実際に「呪い殺す」のですから、冗談ではありません。人間の世界は「好きか、嫌いか」でしか成り立っていないような雲行きです。「狭い了見」ですね。好きだからこそ、嫌いにもなるんだがなあ。もっというなら、好きになるのも嫌いになるのも、じっくりと「熟成する」という意味では、時間はかかるし、好きが嫌いになり、また好きになるというように、一筋縄ではいかないのが「付き合い」というものではないですか。

 ぼくは、今のかみさんと「付き合い」始めて、五十年を超えました。だから、この五十年の拙(つたない)い経験が「付き合い」考のすべての元手だと言っても過言ではありません。そこから学んだことは、好きだけでも嫌いだけでもなく、さまざまな感情が働いた結果の五十年ということです。この感情(情念)というものは、実に面倒で始末に負えない厄介さがあります。よく「売り言葉に買い言葉」という。これは言葉が感情を突き動かして、場合によっては「修復不能」の域に達することもあるくらいです。「相手の暴言に応じて、同じような調子で言い返すこと」(デジタル大辞泉)だそうですが、このとき、間違いなしに「言葉は武器に」なっています。ぼくも、錆(さび)ついてているとはいえ、この「ことばの武器」を振りかざすことがあるのだから、困ったもんですね。

 いささかでも「自制心」が顔を覗かせれば、事なきを得るのでしょうが、肝心なときには「顔」を出してくれません。出し入れ自由というより、突然の感情(情念)の暴発に、果敢に「諌(いさ)め、宥(なだ)められる」ようになるには、相当な回数の過ちが必要になるのでしょう。情念の爆発が抑えられないのは「薬物依存」的意味での生理的問題があるからであり、そこから解放されるためには相当の「自己把握(立て直し)」が求められるでしょう。何事においても「授業料」は高くつくものです。「握った拳を開け」ということすら、簡単にはできないんですね。人間は犬や猫、ひいては「動物」と紙一重、四捨五入すると、いっしょやで。

 駄文が思いの外に調子がよくて(嘘です)、どんどんあらぬ方向に奔走して行く。テーマは「猫と人間」でした。おそらく、ぼくと猫との付き合いは半世紀を遥かに超えています。幼児の頃からの交流ですから、かみさんとの交際の「先」というか、「上」を行っているようです。もともと、ぼくは野良育ちですので、野生の動物が好きでした。犬でも猫でも「ノラ」専門だったといえます。飼い猫とかペットという言葉自体が「拘束」「玩物」を示しているようで、生理的に嫌いでしたから、猫や犬だって「繋がれる」のは嫌うだろうと感じていた。今だって、嫌になるほどたくさんのキャットが犇(ひし)めいていますが、家への出入りは自由で、まるで「我が物顔」の振る舞いです。ただいまの難問は、勝手放題に駐車中の車に飛び乗り、足跡を思い切りつけてしまうこと。我が家のものは仕方ないとして、年末に越してきた前の家(会社の支社のようです)に乗り入れる数台の車にも、見境なく「屋根」に飛び乗る。予(あらかじ)め、事情を説明して、こういう不始末がありえますから、その節はお許しください、申し訳ありません、と。傷など付けたら、当方に言いつけてください。猫には注意しておきます、と言ってみたいけ、あまりにも林や野原が広いので、木登りやかけっこに夢中で、勢い余って「飛び乗る」のです。これさえなければいいのですが、車屋根への飛び乗りに対する教育効果がなかなか表れてきません。いつだったか、電気工事なんかのバンの後部に、ちゃっかり乗っていたのがいました。

 「愚かで、かわいらしく、寂しげなの。怖がりで、勇敢で。私たちみたい」とウェインの妻が語る。およそ百年前の、異国の一女性の「猫とのつながり」を示しています。百年後も二百年後も、このような猫の「性格描写」は変わらないでしょうし、別の人に対してはまた別の「表情」を猫は見せる。漱石はこの時期(1900年前後)、ロンドンに留学中で、下宿の部屋でホームシックに罹(かか)り、死ぬほど懊悩・呻吟していました。おそらくウェインの「猫たち」を目にしたはずです。鬱(うつ)病になったり、胃潰瘍になるのは人間たちなんだと、漱石は猫から学んだかも知れません。

 コラム氏は書く。「昨秋からわが家にも小さな保護ネコが2匹いる。ワクチン接種の際に追い回したせいか、近づくと今も怖い顔でにらむ。寂しいけれど、仕方ない。じゃれ合う彼女らを遠くで眺めるだけでよしとするか。人がネコを幸せにするのではなく、人がネコから温かな気分をもらっているのだから」猫に成り代わって、(ありがとさん」と感謝したくなります。(この「保護猫」などという表現をなんとかしたいね。保護されているのは猫ですか、と訊きたいのだ)ここにも一人、猫に「してやられた」人間がいます。動物との付き合いで大事なのは「してやられる」ことに尽きますね。ほとんどの猫好きの猫話は、まるで夫婦の惚気話(のろけばなし)のようで、耳にはなかなか入りにくい。でも、赤の他人にも「うちの猫の偉さ」「我が家のネコの凄さ」を話したくなるのは、結局は人間こそが寂しいからなんでしょうね。

 あるとき youtube を眺めていたら、一人暮らしの高齢者がインコと生活している場面が出てきました。食事をしましたかと、インコが訊く。「食べた?」「食べたよ」と答える。「美味しかった?」と訊かれる。「お薬は?」、まだ飲んでいないのを知っていて、尋ねる。この場面に、何かと工夫があるかも知れませんが、この女性は「Pちゃん」だか「Paーちゃん」がいなければ、生きていけないとまで言っていた。猫はどうでしょう。人間の言葉がわかる、といえば猫に「してやられている」証拠です。まあ、ぼくまでが「猫話」を話すこともありません。何時だって「悪戦苦闘」しています。それは人間との付き合いと寸分もとは言わぬが、似たようなものです。「人がネコを幸せにするのではなく、人がネコから温かな気分をもらっている」とコラム氏は書いている。この感情を末永く持っていてほしいですね。

 人間の厄介なところは「好きだから、嫌いになる」という「裏切り」が生じるという点です。嫌いになる要素も含んだ「好きやねん」ですからな。もちろん「嫌いが好きになる」もあるのですが、それはめったにない。最初は嫌いだったのに、努力の末に、やがて好きになった、こんなことは人間の付き合いでも、あまりお目にかかれません。それくらいに「好き」という感覚・感情が最初に働くのです。「ピンと来た」とか、「ぴぴっと来た」「直感が働いた」「赤い糸】などとあられもないことをのたまうのです。これは第一印象でもあり、一目惚れでもあるようですが、やがて、惚れたが悪いかと言っていたのが、「食傷気味」になり、顔を見るのも嫌だと、「本物の食傷」になる。「 同じ食べ物が続くと食べ飽きる」のだ。勝手ですね、人間は。でも、その点では、猫も変わらない。「人と猿」のDNAレベルの差異は、近年の研究では「1%」以下でしょう。猫とは、恐らく数%も違わないかもしれないと、ぼくなどは考えたりします。この1%の違いが、ドローンにミサイルを搭載して戦争するというハレンチを生み出すのですから、むしろ「わずかばかりの差異」がなかったほうが幸せだったかも知れません。一ミリとか、一%といいますが、この差は、時にはとんでもない大きな差になります。両目の間がもう一ミリ離れていたら、その口がもう一センチ大きかったら、「ぼく(わたし)は君(あなた)を好きにはならなかったろう」という、とんでもない「誤差」が運命を決めるんですからね。 

 親が子を殺し、子が親を殺す。他国人民を殺戮する人間が「英雄」「専制者」として「崇められる」、家庭を崩壊させてまで「カルト教団」に帰依する、その他、国を売り、国民を踏み台にして「自尊心」を誇り、それを他国の大統領に認証してもらいたいという、そんなチャラい「総理」がいる国がアジアの東にある。来週あたり彼は外国に出かけ、「約束した通り、こんなに軍事費を増やした」「もっとたくさんの(我楽多)武器を購入します」と成績を上げることにやっ気になっている。「売国」とは、これをいう。猫は、こんな人間模様をどのように見ているのか。さぞ辛辣に、と思いきや、「人間は昔から変わらんな。死んでも変わらない。二足歩行からこの方、実におかしく、かつ狂気じみてきたね」と言うだろうな。人間を観る動物の眼は、冷めていますね。尾っぽを振ると、すぐにずに乗る、手に負えない連中だよ、って。(もっと駄文を書きたいのですが、猫が呼んでいるので、ここまで。時間があれば、また後で。午前十時)

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 「新陳代謝機能不全」、完治の見込みなし

【談話室】▼▽125年ぶりと言われてもあまりピンと来ない。来年1月8日に初日を迎える大相撲初場所は「1横綱1大関」で行われる。番付上ではまれな事態だとしても、相次ぐ休場で看板力士不在の土俵に慣れてしまっている。▼▽大関は東西で欠くことができないため、番付には横綱照ノ富士が大関を兼ねる「横綱大関」と記された。直近では2020年春場所で鶴竜が大関を兼ね、その時は38年ぶりで話題となった。珍しいこの肩書は、鶴岡市出身の横綱柏戸も1966年名古屋場所で背負っている。▼▽企業や役所に例えれば、空位となった役職を上席が一時的に兼務する状況だろう。早期の改善が望ましい。幸いなことに、現在の土俵は群雄割拠だ。大関陥落組はやや元気がないが、新鋭が躍動している。本県関係はこの人、琴ノ若(佐渡ケ嶽部屋)が新三役に名を連ねた。▼▽父は元関脇佐渡ケ嶽親方(尾花沢市出身)、母方の祖父は元横綱琴桜。受け継いだ資質を猛稽古で磨き小結まで番付を上げた。早晩、大関候補の有資格者になろう。不祥事絡みで閣僚が辞め、大臣経験者が急きょ再登板する悪循環を繰り返す現政権には見られぬ新陳代謝だ。(山形新聞・2022/12/27付)

 まさしく、隔世の感とはこのことをいうのでしょう。今では想像すらできませんが、六十年前ころには、大相撲中継にテレビ局が四つも五つも競い合っていた時代があります。「テレビ放送が開始されたのは、1953年5月16日のことだ。この頃の相撲中継の影響の高さを物語るエピソードとして、民放でもNHKに追従する形でテレビ中継を行っていたことが挙げられる。1959年にはなんとNETテレビ(現在のテレビ朝日)、日本テレビ、フジテレビ、TBSテレビの在京5局が同時に大相撲中継を放送していたのである」(Abema Sports Times・https://sports.abematimes.com/posts/3527383/) 

 ぼくがもっとも熱心にテレビ観戦したのはこの時期でした。横綱には吉葉山・鏡里・千代の山・栃錦・若乃花など、錚々たる力士が並んでいました。中学生の頃だった。この後に「柏鵬時代」が続きます。柏戸と大鵬の両雄が競っていた。ぼくは大鵬が「納谷」を名乗っていた頃から知っていましたし、柏戸は本名の富樫をしこ名にしていた頃は、こんな「剛力」がいるなんてと懸命に応援した。真綿のように柔軟な大鵬は、勝つと言うよりは負けない相撲を取っていたと記憶しています。この二人が外国旅行から帰ってきて、警察から事情聴取を受け、手ぬぐいで頬被りをして、船に乗って隅田川だったかに「証拠品探し」をしたことがありました。海外旅行で「ピストル」を買ってきたからでした。やばいと思った二人は「隅田川に捨てた」と警察に話したための珍風景で、この場面もよく覚えています。(上の写真は「ピストル不法所持に関し、取り調べを受けた横綱柏戸について報じる」1965年5月25日付・中日スポーツ。「近く北の富士も」との見出しも)

 天下の横綱も若かったのでしょう。その後の二人は精進を重ね、同時に「日の下開山」、柏鵬時代は大相撲の魅力を深く印象付けたと思う。という具合に書いていくと、いくらでも書ける。ぼくは「相撲博士」だと言ってもいいくらいに、相撲に関心を持っていたのです。娯楽が何もない時代、楽しみにしていたのは相撲くらいだった。もう六十年も七十年も経ってしまいました。野球は川上や青田や大下などという選手(職人)が渋い光を放っていた頃です。(写真は「拳銃密輸の疑いで警視庁に出頭した大鵬。昭和の大横綱も緊張の面持ち」(写真:共同通信社)

 この少し後には、大鵬があまりにも強いので、いまでいう国民の人気ベストワンを三つ並べて「巨人・大鵬・卵焼き」などと、大いに人気を誇っていたのでした。双葉山の連勝記録(69連勝)を負っていた大鵬は、45連勝で戸田という関取に破れた。物言いがついたが、負だった。後で写真をよく観ると、相手が先に土俵を割っていたことが判明。それを訊かれた大鵬は「あんな紛らわしい相撲を取っているようじゃだめだ」と答えた。いい相撲取りでしたね。

 その時代と、今日を比較するのは無意味ですね。つまりは、相撲は面白くなくなったと言いたいのです。(野球でも相撲でも、「大学出」がすぐに通用するはずもないと言われていた時代です)ところが、今や、相撲なのか、レスリングなのか、はたまた「格闘技」なのか。相撲に「美しさ」が感じられなくなった。あれほど好きだった相撲も、まったく見ない。野球も同様です。大関だ横綱だと騒ぎますが、ぼくの感覚では、相撲全盛期の「十両」か「前頭」程度の技量や強さで、名称は「横綱」「大関」と同じですが、中身はまったく異質で、比べること自体が間違っているのでしょう。今でも「栃若時代」「柏鵬時代」などという相撲人気最高の時期の、相撲取りなら百人は簡単に名前も出身地も示せます。相撲は「ご当地」といって出身地域・地方の最大の誇りなのかもしれない。「故郷に錦を飾る」というのが、このお相撲さんに当てはまるのではないかと思うくらいに、応援や支持が凄い。これがよくないんでしょうね、あまりにもチヤホヤしすぎるから、関取が育たないのではないでしょうか。

 一年六場所、それが相撲をだめにした大きな原因だったと思います。怪我をしても治す時間がない、休めば番付が下がる、その頃は、若いものが追い抜いているという、真に慌ただしい時代に、相撲界も入っていかざるを得なかった。今は相撲ではなく、格闘技。ガチンコもあれば、八百長みたいなものもある、それでは相撲が盛んになるよりも、廃れるほうが先でしょうね。やがて、「国技」(というのは正しくない)も能や歌舞伎のように国家によって保護され、「文化財」として囲われて、ついには命数が尽きてしまうのでしょう。柔道が五輪種目になり、ついには「偽柔道」に成り果てたことを思っています。それもこれも、時代の流れで、どうということでもないのですが。運動(スポーツ)から「美しさ」がなくなったら、単なる格闘であり、勝ち負けにしか興味が湧かなくなるのは当然でしょうね。人でも何でも「栄枯盛衰」を繰り返すのでしょう。しかし「栄光よ!再び」と呼んでも、叫んでも戻らないものもあるんですね。これもまた、世の習い。

 これと同日の談ではないでしょうけれども、政治の世界も「廃れきって」しまった。現内閣の閣僚が立て続けに四人も交代を余儀なくされたし、差別発言の「雌」である政務官も首になった。土台、こんな連中を閣僚や内閣の一員にすること自体が「恥さらし」なんですな。でも、他に人材がいないのも確からしい。杉田某は「故元総理のお気に入り(・∀・)」だった。鬼籍に移られた元総理はとんでもない「食わせ者」だったことが次々に露見している。そのような人物を「名宰相」「国葬級」「歴代最長不当」などと囃し立ててきたのですから、この島の「真相」「正体」がわかろうというもの。その「食わせ者」の軍門に下ったのが現総理、落ちるところまで落ちでも「総理は総理」であるのは、からきしだめな相撲取りでも「横綱は横綱」というのと五十歩百歩。「昔の名前で出ています」というわけ。

 「不祥事絡みで閣僚が辞め、大臣経験者が急きょ再登板する悪循環を繰り返す現政権」とコラム氏はいう。タコは自分の足を食っても生きていける、トカゲは自分で尻尾を切るという。自己防衛のためです。だとするなら、この岸田某は「トカゲ総理」か「タコ首相」ということになるでしょう。タコが自分の足を食べるのは「ストレス」からだといいます。「タコ首相」はが自分の足(閣僚)を切る(食う)のもストレスなんですね。この先どうなるのか、タコに訊いてみたい。これは政治ではなく、「秋分」なんですのに、だれもその危機感を通関していないようなのは、国そのものが「終った」からでしょう。一度死ななければ、再生はありえないのも道理だと、ぼくは考えています。この場にふさわしくはなさそうですけれど、ぼくは、次の言葉を思い浮かべています。「一粒 の 麦の例えです。(「ひとりの人間。ひとりの犠牲によって、多くの人々が救われるという真理を示したイエス‐キリストのことばによるたとえ。※引照旧新約全書(1904)約翰伝「一粒(ツブ)の麦(ムギ)もし地に落て死ずば」」(精選版日本国語大辞典)(左上写真は東京新聞・2022/12/27)

 果たして、この島に「一粒の麦」は存在しているのでしょうか。あるいは、存在していたのでしょうか。「税金」に集(たか)る人間どもが、自分たちの乗る船の船艇に穴をほっていることに気がついているのか、気がついていないのか。何度も言いますが、もうこの「島」は沈下しているんですね。

 「トカゲ総理」のケースはどうでしょう。トカゲは自分から尻尾を切る(自切という)らしい。努力して切るのではなく、興奮したり恐怖を感じたりして事態に対処しようとして、自然に切れるように体が反応するのだという。敵に襲われると、咄嗟に逃げようとして自発的に尻尾が切れる、それを見て、敵は驚いて尻尾に見惚(と)れる。その隙きに、トカゲ本体は逃げおおせるのだそうです。「鼬(いたち)の最後っ屁」ですな。臭いぞ。こちらもあたっていませんか。迷ったり、時間をかけて状況を判断していて、「おそすぎる」と批判するのは間違いで、自分で、自然に切れるように組織ができているのです。世間で、岸田は判断力が遅いとか、優柔不断だと非難や批判が殺到しているようですが、それは外れ、彼はストレスを貯めているし、外的・内的に襲われてもいるから、その状況に体が反応していのです。頭を使うという「判断力」の問題ではなく、「条件反射(パブロフの犬)」だったんだ。だから、これからも、条件反射が起これば、何人だって閣僚や内閣のメンバーを切り続けるでしょう。本体を守るためですから。でも、やがては本体も滅びることを知らないようですね、トカゲは。

 それで悩むことはないのです。恐らく、自分ひとりになっても命がある限り、彼は「総理の椅子」にしがみ付いているでしょう。それは「本能」なんだね。偏差値でも判断力でもない。タコでもトカゲでもかまわない、とにかく、少しは民衆(国民を含む)のことを考えられる「装置」を付けてほしいですね。猫に鈴ではなく、タコに酢でもなく、岸田に「判断力」を、です。まるで、「ベルを鳴らすと、唾を出す」というパブロフの犬みたいな首相では、あまりにも人民が可愛そうではないですか。相撲界は「新陳代謝」があるから素敵だとコラム氏は呑気なことを書いていますが、なに、やがてかなりの数の力士が二代目三代目になってくるでしょう。政界と瓜二つですね。この島全体に焼きが回っており、新陳代謝機能が故障しているんです。どうしたらいいんですか?

● パブロフ=ロシア,ソ連の生理学者。ペテルブルグ大学を卒業後,ドイツに留学,実験技術などを学ぶ。軍医学校の薬理学教授,パブロフ生理学研究所長。消化液分泌の神経支配を解明した業績に対し,1904年ノーベル生理医学賞。さらにイヌを使って条件反射を研究,精神現象を生理学的に把握しようという態度は,後のワトソンらの行動主義心理学に大きな影響を与えた。(マイペディア)

● しんちん‐たいしゃ【新陳代謝】=〘名〙 (「陳」は古いもの、「謝」は辞し去るの意) ① (━する) 古いものが次第になくなって、新しいものがそれと入れ代わること。※改正増補物理階梯(1876)〈片山淳吉〉一「凡そ宇宙間に在る各物体の斯く日に変化して新陳代謝し循環極りなき是造化の妙なり」② 生体内で、必要な生活物質が摂取され、不用物は排泄(はいせつ)される作用。物質代謝。物質交代。代謝。※日本読本(1887)〈新保磐次〉六「歯の面〈略〉イナメルには新陳代謝なきを以て、一たび損ずれば滋養もこれを快復せず、妙薬もこれを再生せず」(精選版日本国語大辞典)

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