音楽演奏の才能ということ、改めて考えている

 ヴィヴァルディの「四季」というヴァイオリン協奏曲はこの島において、もっとも多くの愛好者を生んだ古典音楽でしょう。高校の音楽教材にも取り入れられていたと記憶しています。それがいつのころだったかよく知りませんが、それ以前にぼくは、この音楽をドイツの指揮者だったヘルムート・ヴィンシャーマン指揮のバッハゾリステン管弦楽団などで聞いていました。おそらく大学に入ったころでしたから、今から六十年近く前になります。以来、ぼくはどれくらいこの曲(だけではなく、いわゆる「バロック音楽」というものに深入りしていきました)を聴いてきたことか。数えきれないくらいの演奏家に耳を傾けて来た。ソロを担当するヴァイオリニストだけでも、おそらく百人は下らないでしょう。

 中でももっとも有名になった、いやポピュラーになったのはフェリックス・アーヨというソリストで出されたレコードでした。(➡)この合奏団は年中行事のように来日公演をしていました。ぼくは一度も行かなかったが。この「四季」は正確には「バイオリン協奏曲集《和声と創意の試み》」というヴァイオリン協奏曲の最初の四曲を言いました。「春夏秋冬」を、文字通り音楽で表したものです。そういわれればそのように聞こえてくるというのも、標題音楽のなせる業だし、人間は「暗示」というか「誘導」に引っ掛かりやすいというのでしょうか。「四季」の演奏はイ・ムジチに限るとは言わないし、だれの演奏がいいとか悪いとか、ぼくはそういうことを云々する段階をとっくに卒業したと思う。クラッシク音楽では、当たり前ですが、作曲家と演奏家は固定していないし、作品だけが独立(孤立)していて、発表当時はだれかに捧げられたかもしれないが、その後は誰が演奏(カヴァー)してもかまわない、むしろそのような扱われ方をしてきたのがクラッシック音楽でした。その作品は、ある種の「山岳」「山脈(やまなみ)」のようであり、それに登ろうという「挑戦者(演奏家)」が陸続することで、作品の幅や深さを拡大してくれるのでしょうし、そこに音楽の歴史が紡がれているのです。

 ぼくは、いまでは、演奏家が誰であるかなど、固有名にはほとんど興味がない。いわば古典音楽そのものも、生活の中のBGM(伴奏)として聞くようになった(堕落した?)からでしょう。しかし、作者が誰かが気になるようでは、作品は十分に成熟していないという、そんな勝手な感想をぼくは持っているのです。あの音楽は「私が作曲した」というのは作曲者が存命である限りでいえることで、音楽の永続性は作曲家の生命をはるかに超越するのです。作品(それがどんなものでも)を育てるのは、それを愛する、好む、そんな人々が実際にしていることです。ところが、このような作品が時代を超えて聞かれ続けるには、常に、新たな演奏による刺激を受ける必要があるでしょう。これはあらゆる音楽に妥当することではないでしょうか。決して、このことは「芸術」に限らないことです。作者の名前が消えて、作品の生命が続く、それが望ましい姿ではないか、という気もしてきます。「人生は短い 芸術は長い」(もともとはギリシャの医者・ヒポクラテスの言で、〈Ars longa, vita brevis 〉「人生は短く、医術は極め難し」から派生した)

 蛇足です。「芸術」といって、それを狭くとらえる必要もない。もとは芸術「art」は「技術」「技芸」を指して言ったものでしたから、建築であれ、機械であれ、いろいろな分野が求めた「技術」は、人間の生命をはるかに超えて用いられているということでしょう。ぼくはこの問題を考えるとき、一例として「法隆寺」を想定して考える癖が付きました。だれが作ったか、そんなことより、この木造建築は千数百年維持されてきたという歴史の長さと重みを感じさせられるのです。

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◉ 四季(ビバルディの作品)(しき)La quattro stagioni=イタリア・バロックの作曲家アントニオ・ビバルディの作品。独奏バイオリンと通奏低音付き弦楽合奏のために書いた12曲からなる協奏曲集『和声と創意への試み』Il cimento dell’armonia e dell’invenzione(作品8。1725年アムステルダム初版)のうち、第1番から第4番までが一般にこの名でよばれている。各曲は3楽章からなる典型的な独奏協奏曲の形式をとっているが、第1番から順に春、夏、秋、冬と名づけられ、四季の情景を詠んだソネットが添えてあるところが特徴である。協奏曲に標題音楽の要素を取り入れた最初の例であり、夏の雷鳴や冬に氷の上を歩く人の姿など、音による描写が至るところにみられる。そしてこの『四季』は、その生気に満ちた楽想によって人気を得、第二次世界大戦後のバロック音楽ブームの口火を切った作品でもある。なお『四季』の名をもつ音楽作品には、ハイドンオラトリオ(1801初演)、チャイコフスキーの12の小品からなるピアノ曲集(1875~76)、グラズーノフのバレエ音楽(1900初演)などがある。(ニッポニカ)

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 若い時ほど、古典音楽がなければ、夜も日も明けぬという、ぼくの狂気の状態(時代)は過ぎ去りました。今は静かに、どこかで音楽らしいものが鳴っているだけでお落ち着いてきます。だから、向き合って音楽を聴こうという機会はほとんどなくなったのですが、時には、この時代に遭遇していることもあり、youtube で思わない演奏や演奏家に遭遇することがあります。以前に聴いていた演奏家を再発見するということもあります。そんな時は、うれしいというよりは、この演奏家はすごく成長したなという驚きのほうが先に立ちます。以前に聴いたときと同じ演奏でも、そんな感じ方(「すごい演奏だ!」)をすることがあるのは、どうしたわけか。前には何も聞いていなかったということになるのかもしれませんし、その優れた面を聞き逃していたという場合もあるのでしょう。(上の記事は【Vivace 2019年7月号】から)

 十年とは言いませんが、七、八年前に聴いていた演奏家に、昨日再会し、その演奏の堂々とした姿勢に驚愕を覚えました。本日は、そのマリ・サムエルセンさんのライブ演奏(録画)の「さわり」の部分を紹介したくなったのです。それも「四季」の演奏で。その一部だけを以下のURLから聴かれたらと思います。確か一九八四年生まれだったか、だから、以前にぼくが聴いたのは、まだ三十になる前のころだったように思われます。この間の研鑽がすごかったのか、ぼくの耳が何も聞いていなかったのか、きっと何も聞こえていなかったんでしょうね。それは雑事に追われて、気持ちが荒(すさ)んでいた証拠でもあると言っておきます。再び彼女の演奏に出会えて、ぼくは健康であり、元気でいてよかったと、しみじみ感謝の念に満たされています。

 昨日は、美空ひばりさん(「柔」)でしたが、その後で、何気なしに「四季」のライブ演奏(録画)をいくつか眺めていて、マリさんにぶつかったというわけです。彼女の「現代音楽(作品)」演奏は圧巻です。ふやけたような、ちゃらい演奏が多い時代に、ある種の「爆弾」が投下されたかのように、ぼくは震撼させられました。兄はチェリストで、兄妹で演奏されていますが、これにも痺れます。

(①https://www.youtube.com/watch?v=Yu6Hr9kd-U0

(②https://www.youtube.com/watch?v=wgkLeeRh2pw)(この演奏は、彼女がしばしば演奏する現代音楽の作曲家マックス・リヒターの「編曲」を使っています。これは、今回初めて聞きましたし、この「秋・冬」は、まるで狂風と狂熱の荒れ狂う「季節」ではなかったでしょうか。おそらく、四季演奏の歴史で、初めての「異変」が起きたのかも知れません。このヴァイオリニストは、底知れない技量と音楽性と、playng spirit の持ち主のようです、大変な才能の開花が見られますね。少し大げさにものを言う癖がぼくにはあります。でも、彼女の演奏を聴いていて、すごい才能が育ったものだと、心底から驚かされているのです。山埜)

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 蔵王は「金剛権現」の勧請の地、役小角の足跡

 【談話室】▼▽40年前のことだ。山形市出身の洋画家菅野矢一(すがのやいち)さんが古里の夕刻の雪山を描いた油彩画「くるゝ蔵王」で日本芸術院賞を受けた。昭和天皇をお迎えした授賞式で、菅野さんは天皇から尋ねられた。「蔵王は好きですか」▼▽「大変好きです。世界で一番いい山です」。こう答えると天皇は笑顔を見せたという。菅野さんが当時の本紙記事で振り返っている。受賞作は、夕日に映える雪の稜線(りょうせん)を上部に配した。視線を下げるにつれ、落ちゆく日差しを反映して山肌の色は徐々に青黒く変容していく。▼▽翳(かげ)があるからこそ、至高の光が際立つ。「くるゝ蔵王」は山形市役所1階市民ホールに飾ってあるから、ご記憶の方も多いだろう。先日の夕暮れ、山形市の西郊を車で走っていたらこの絵のような光景に巡り会った。瀧山(りゅうざん)から雁戸山、山形神室へと連なる蔵王の山々である。▼▽雪の連山を朱(あけ)に染め上げた西日が傾きを増すと、山巓(さんてん)部分はいっとき赤みを強める。逆に麓の雑木や雪原は薄闇に溶け込んでいく。「世界で一番いい山」という画伯の言葉が頭をよぎる。年明けから雪かきに追われややうんざりしていた身にも、思わぬプレゼントとなった。(2022/01/08)(ヘッダーの画は「蔵王暮色」1982年、酒田美術館蔵)

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「くるゝ蔵王」

◉ 菅野 矢一(スガノ ヤイチ)=昭和期の洋画家 日展参事。生年明治41(1908)年1月19日 没年平成3(1991)年6月15日
出生地山形市 本名菅野 弥一 学歴〔年〕山形市立山形商〔大正13年〕中退 主な受賞名〔年〕一水会優秀賞(第11回)〔昭和29年〕,文展洋画部特選(第11回)〔昭和30年〕「裸婦」,日展特選(第3回)〔昭和35年〕「海のみへる丘」,日展菊花賞(第5回)〔昭和37年〕「」,日展文部大臣賞(第11回)〔昭和54年〕「白い太陽」,日本芸術院賞(第38回)〔昭和57年〕「くるゝ蔵王」,勲四等旭日小綬章〔昭和59年〕 経歴商業学校を中退して画家の道を志す。日展、一水会展に出品。昭和18〜19年渡仏、グランドショミエールに学ぶ。作品に「海のみへる丘」「くるゝ蔵王」などがある。(20世紀日本人名事典)

 まったく知らない画家でした。詳しい履歴もわかりません。どこかで安井曽太郎に師事と出ていましたので、なるほどいう一応の首肯はしますが、いったい、どこが「なるほど」なのか、言っている本人にもよくわからないのです。ぼくは、安井曾太郎の作品はかなり観てきたと思います。もちろん、画集や展覧会を通してであり、はなはだ不十分であることを承知の上で言えば、最も好きな画家であると言えます。その安井曾太郎のどこが、と訊かれれば、これまたよく答えられないのです。気が付けば、ぼくの周りにはたくさんの画家や画学生がいました。京都の住まいの近くに、日本画家や洋画家がいたし、その子どもたちと年齢も近かったので、親しく遊んだものでした。やがて、上京して、その画学生だった人々は、東京で展覧会や個展をなんども開いたし、その会場は、ほんどが銀座周辺でした。ぼくは、その画廊には真面目に出かけた。しかし、いかにも若いだけの、乱暴な「既成画壇打ちこわし」の「ポーズ」のような個展などには、ほとんど見るべきものがなかった。(上は、菅野矢一「陽はまた昇る」1977) 

 この時期の画廊まわりは、その後も長く続いた。また、大学から遠くないところには美術館もあるし、「丸善」も通学・通勤の途中でしたから、暇な折にはきっと一人で出かけていました。そんななかで、日本画や洋画の、所謂「大家」の作品も観ることに熱心でしたね。名前を上げればきりがないほど、多くの画家の仕事を観たことになります。昭和四十年代から六十年代半ば(昭和期末)ころのことです。その時期に、すでに菅野矢一さんは大きな仕事をされていたのでしょうが、いっこうに気が付かなかった。そのような迂闊な、ぼくの視界に入ってこなかった画家は無数にいたと思う。それを一人でも二人でも「発見したい」というのが、ぼくの差し当たっての願いです。もちろん、高名な大家も含めて、改めて日本の、日本人の「画家を発見し、再発見」したいと切に願ってもいるのです。もちろん、「書」などにもじっくりと近づいて鑑賞したいものです。菅野矢一さんが、ぼくにとって、その「幸先のよい画家」となりますように。(右は、「自画像」1923)

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◉ 安井曾太郎(やすいそうたろう)=[生]1888.5.17. 京都,下京 [没]1955.12.14. 神奈川,湯河原洋画家。京都の下京区(のちに京都市中京区に再編)の木綿問屋安井元七の五男として生まれる。1903年商業学校を中退し,聖護院洋画研究所(のちの関西美術院)で梅原龍三郎とともに浅井忠の指導を受けた。1907年フランスに留学ジャン=ポール・ローランスに師事しながらポール・セザンヌらの後期印象派の美術を学び,1914年帰国。翌 1915年二科会に所属,第2回二科展に滞欧作品 44点を特別出品して注目された。1935年帝国美術院(→日本芸術院)の会員に推されて二科会を去り,翌 1936年一水会を創立。その後,帝国美術院改め帝国芸術院会員,東京美術学校教授,帝室技芸員となり,1952年文化勲章を受章。写実を根底にしながら明快な色彩と要約したフォルムとを構成して,近代的な造形思考に基づく独自の写実様式を展開した。主要作品に『薔薇』(1932,アーティゾン美術館),『金蓉』(1934,東京国立近代美術館),『承徳の喇嘛廟(らまびょう)』(1937,永青文庫),『深井英五氏像』(1937,東京国立博物館),『安倍能成像』(1944,東京国立近代美術館)などがある。(ブリタニカ国際大百科事典)

(「房総風景」安井曾太郎、1931)

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 実は「蔵王」について書いて見たくていろいろ思案している最中に、菅野矢一画伯につながったという次第でした。蔵王には何度か行きました。いずれも「下手の横スキー」の遊びでしたが。また、その序でに、当地のいくつかの温泉にも浸かってきました。山形蔵王、宮城蔵王と言い慣わしていますが、そのどちら側にも、ぼくは親しみを持っていました。スキーもその一つでしたが、さらには、戦前の「生活綴方教育」の担い手たちがたくさん蝟集して新たな活動を開こうとしている、その教師たちの拠点にもなっていたのが宮城や山形だったのです。もちろん青森も岩手も福島も入っていますが、仙台が中心地のような位置づけで彼らの何人もが、自転車で山形や岩手から、仙台に集結しては議論に夜を徹していたのです。「北方教育」と呼ばれてきました。この教員たちのしごとは、もっと知られていいし、どうして潰されたのかをも見る必要があると、ぼくは考えている。原稿だけは、かなりの枚数を書いてありますが、時代の雰囲気で、ぼくにはそれを出す気持ちが失せてしまったんですね。(出版社との約束を破ってしまったことになります)

 蔵王はもとは「ぞうおう」と呼ばれていたのですが、やがて「ざおう」と一定する。呼びやすかったんですね。この山は「蔵王権現」を勧請した修験の山として、全国の本山的な位置を与えられてきました。この島に固有の(ような)「山岳信仰」の本尊である「金剛蔵王権現」が祭られているのです。蔵王神社は各地に存在しています。山岳信仰といい、修験道という独特の信仰を開いたのが「役小角(えんのおづぬ)」とされています。彼は、劣島の殆んどの山岳信仰(山開き)の生みの親ともされている。この島の、あらゆる山に「足跡」を残しています。弘法大師さんよりもよく歩いたでしょうね。ぼくは早い段階から、役小角に興味を持っていて、いつかゆっくりと調べて、その足跡を確かめてみたいと、各地の山の神社に目を光らせてきました。

 「権現(ごんげん)」または「権化(ごんげ)」という言葉は古くから使われていますし、今でも頻繁に用いられています。「熊野権現」「悪の権化」などというように。「① 仏菩薩衆生を救うために仮の姿をとって現われること。また、その現われたもの。権化。〔随筆・貞丈雑記(1784頃)〕〔最勝王経‐一〕② 仏菩薩が衆生を救うために、日本の神に姿をかえて、この世に現われること。また、その現われた神。本地垂迹(すいじゃく)の説から出たもので、熊野三所権現、山王権現、春日権現などの類。」(精選版日本国語大辞典)

 ぼくたちの日常に、とても親しみのある神であったのです。

◉ 役小角=生年:生没年不詳 7,8世紀の呪術的宗教家,役行者の名で修験道開祖とされる。賀茂の一族,のちの高賀茂朝臣の出身で,大和国葛木上郡茅原村(奈良県御所市)の人と伝えられる。大和国葛城山で修行し,呪術にすぐれた神仙として知られ,多くの伝説が生み出された。五色の雲に乗り,大空を飛び,神仙の宮殿で神仙と交わり,心身を養う霊気を吸いたいと願い,岩窟に籠もり,葛を身にまとい,松の葉を食べ,清泉で沐浴し,世俗の汚れを落とし,山林で修行した。孔雀王の呪法を修得し,鬼神を使役して,水を汲ませたり,薪を採らせたりし,鬼神が命に従わないと,験力で自由を束縛した。役優婆塞とも称されるように,仏道修行者とされるが,不老長生の神仙となるために,山林に籠もり,穀物を口にしないで,松の葉や草の根を食料として修行に専心していたので,道教の医術や方術に習熟した行者であった。 文武3(699)年,弟子の韓国連広足に妬まれて,妖術で人々を惑わしていると密告され,伊豆国に流罪にされた。また別に,大和の金峰山と葛城山の間に橋を架け渡せと神々に命じたところ,神々は嘆き,葛城山の一言主大神がある人に乗り移って,役小角が陰謀を企んで,天皇を滅ぼそうとしていると讒言したといわれる。天皇は捕らえようとしたが,役小角の験力のためにかなわず,代わりに母親を人質として捕らえた。母を釈放してもらうために,自ら囚われの身となり,流刑となったが,昼間は伊豆で,夜間は富士山に登って修行を重ね,遂に天を飛ぶことができるようになり,罪を許されると,神仙となって天空に飛び去ったといわれる。修験道の本尊,蔵王権現は,金峰山上で役小角が衆生を救済するのにふさわしい仏を出現させようとして祈願して,湧出させたものという。修験道の開として,寛政11(1799)年には,朝廷から神変大菩薩の諡号が贈られた。<参考文献>『続日本紀』,景戒『日本霊異記』(朝日日本歴史人物事典)

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 いまとなれば、もはや不可能ではありますが、この「役小角」という存在自体が定かではなく、そもそも人間であったのかさえも疑わしいものに、ぼくは強く惹かれてきましたが、ついにはそこに自らを没入させることはなかった。果たしてそれは幸福なことだったかどうか。これもうんと幼い頃、「サンカ」という、山岳・山地民衆に大いに興味をそそられたことも軌を一にします。この「サンカ」と呼ばれた人々は、時には天皇の死に際して、その棺を担ぐ役割を持っていたともされていました。彼らは、つい近年まで存在が確認されていたと言われますが、やがて、その足跡がすっかり消えてしまいました。あるいはその存否が怪しいとされる劣島の先住民たちと同じように、われわれの先住者であったのではなかったか。こんな大事なことに目を向けなかったとは、まことに怠けごころの祟りでしたね。

 「くず」「さえき」「えみし」くまそ」「はやと」などなど、ここまでくれば、もうすでに「古事記」「日本書紀」の世界です。ぼくはその一つ一つの「氏族」「先住民」を調べてみたいという願望を持ち続けてきたのです。思いもかけない余計なことにつかまって、学校や教育などと知った風なことを言っている間に、もう今では間に合わなくなりました。大学を卒業する時、ぼくは京都に帰り、山の中の中学校の教師をしながら、山野を駆け巡りたいと強く望んでいたのでした。今は昔の夢のまた夢。

◉ 山窩【さんか】=少数集団で山間を漂泊して暮した民。散家・山稼などとも書かれ,ポン,ノアイ,オゲ,ヤマモンなどとよばれた。居住地は東北地方と北海道を除く日本全域にわたった。通常〈せぶり〉と称するテント生活を営みながら川魚をとったり,箕(み)や(ほうき)・籠(かご)作りなどを生業とし,人里に出て売ったり米などと交換したりした。その社会は厳重な〈はたむら〉(おきて)の下に統制され,独特の習俗を伝えるほか,仲間だけに通用する隠語を多用したことが知られている。第2次大戦後,急速に姿を消した。柳田国男三角寛による研究が知られる。(マイペディア)

 ぼくが言いたいのは大したことではない。天皇の祖先はこうであると、まことしやかに「神話」として語られてきましたが、それでは「日本人」とはなんですかという問いには、まともに答えられないし、それをいかにも無関心を装うようにして、学問に携わる人々は不問に付してきたのではないかという疑問でした。大昔には確かにいたであろう、わが先祖の、その歴史や痕跡をたどることは、ぼくたちの現在をよりよくするためにも大事な仕事ではないか、そんな埒もないことに、ぼくは突き動かされているのです。若し、それの一部でも明らかにされるなら、この島の人民は、近隣諸国の人々とさらに深い付き合いが始まるに違いないと考えている。その理由は? お互いの隣人として、強い影響を与え、与えられながら、身近に暮らしていた仲ではなかったか。そう、幼馴染だったんだ。

 冒頭に戻ります。コラムの中で書かれていた、「菅野さんは天皇から尋ねられた。『蔵王は好きですか』『大変好きです。世界で一番いい山です』」という菅野さん。山の姿・形がいいからとか、景色が美しいというのではなく「山岳信仰の聖地だから」という思いがあったに違あいありません。それは富士山についても言えることです。一番高い山だとか、山容が素晴らしいというのではなく、ただそれだけの理由ではなく、山頂の「浅間神社」に祀られている「コノハナサクヤビメ」に対する信仰だからでしょう。(このあたりの関連については、「竹取物語」「浦島太郎」に触れた駄文で、いくらかは述べています。この二つの「物語」は、この島に独自にあった(育った)ものではありません。東アジアの各地にはいくつもの、同類の奇譚が伝えられている)

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◉ 木花開耶姫(このはなさくやひめ)=日本神話で、天孫瓊瓊杵(ににぎのみこと)に求婚された山の神の娘。この求婚を喜んだ山の神は、「天孫の命が石のごとく永遠であれ、木の花が栄えるように栄えてあれ」と磐長(いわながひめ)と木花開耶姫の2姉妹を奉るが、磐長姫が醜いために天孫は木花開耶姫だけをめとる。それで天皇(『日本書紀』一書では人間)の命は有限なのであるという。この話は、人間が石から生まれずバナナから生まれたために死ぬようになったという、東南アジアの古層栽培民文化に成立した死の起源伝承に源をもつ。この人間の死の起源伝承を、『古事記』が天皇の死の起源伝承に置き換えたのは、神である天皇がなぜ死ぬかという問いに答えを用意する必要があったからである。なおこの結婚により、天孫は山の呪力(じゅりょく)(幸(さち))を加え、御子(みこ)は山幸彦(やまさちひこ)として誕生する。[吉井 ]『大林太良著『バナナ・タイプ』(『日本神話の起源』所収・1961・角川新書)』(ニッポニカ)

◉ このはなのさくや‐びめ【木花開耶姫/木花之佐久夜毘売】=日本神話にみえる女神大山祇神おおやまつみのかみの娘。天孫瓊瓊杵尊ににぎのみこと火照命ほでりのみこと彦火火出見尊ひこほほでみのみこと火明命ほのあかりのみこと富士山の神とされ、浅間せんげん神社に祭られる。(デジタル大辞泉)

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 いくつもの「存在消滅」の残り時間を考える

 【滴一滴】伝統的な染織の世界で、緑というのは神秘の色だ。緑色をした草木はこれほど身近にあふれているのに、紅や黄、だいだいなど他のどの色とも違い、一つの植物から直接染めることができないという▼だから黄色く染めた糸に藍の青を重ねる。その作業を何度も繰り返す。手間はかかるが、力強く、鮮やかな緑は古来、そうまでして身に着けたい色だったのだろう▼四季が巡るこの国には、彩りの季節の後に必ず冬枯れが訪れる。寒さの中でも青々とした葉を保つ松や杉は、不変や長寿を象徴する特別な存在だ。正月の門松も年神様を迎える目印と、その神様が宿る「より代(しろ)」の重役を担っている▼新しい年が幕を開けた。いまだ新型コロナウイルス禍に社会全体が揺さぶられ、各地で貧困や格差の問題が噴き出している。何より多くの人が病と後遺症に苦しめられた。大勢が大切な誰かとの別離を経験した▼一方で、昨年は約80万人の赤ちゃんが生まれたとみられている。少子化の憂いはさておき、みずみずしい新芽のような「みどりご」たちを新しく仲間に迎えられたことを喜びたい▼ドイツの文豪ゲーテは、光を伴う黄色と闇に近い青が混ざって誕生するために、緑は安らぎをもたらす色であると考えた(「色彩論」)。難局の先に無数の若葉がもえる。そんな景色が広がる今年であれと願う。(山陽新聞デジタル・2022年01月01日)

 「青春」というのは、一人の人間(個体)にあっても、種(系統)などにおいても言えることです。「彼や彼女は青春の真っただ中」だというのは、清々しいと同時に、危なげで目が離せないという気もするのは、当方が老人になり切ったからでしょう。それはまた、消え去った「青の時代」をはるかに遠くに見るような、一種の羨望の念が言わしめることであるのでしょうか。その老人からしてみれば、自分の貧しい経験を踏まえて言えば、「青春というのは、泥沼だった」と。弱いのに強がりを言う、背伸びは大事ですが、背伸びしすぎるのも青春だったような気がします。自分を持て余すんですね。だから、けっして持ち上げたり、囃し立てるような代物ではない、それが青春だと、ぼくは言いたい。

 赤ん坊を「みどりこ(嬰児)」というのも、実はとても古い「いわれ」があったのです。すでに奈良時代から「緑児(みどりこ・りょくじ)」とされていた、その知恵には何かぼくたちの知らない背景があるような気もします。

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◉ みどり‐ご【緑児・嬰児】〘名〙 (古くは「みどりこ」) 三歳ぐらいまでの子ども。赤児。幼児。大宝令では三歳以下の男・女児を緑と称すると規定してあり、奈良時代の戸籍には男児緑児と記している。りょくじ。※万葉(8C後)一八・四一二二「彌騰里児(ミドリこ)の 乳乞ふがごとく 天つ水 仰ぎてそ待つ」(精選版日本国語大辞典)

◉ りょく‐じ【緑児】=〘名〙 三歳ぐらいまでの小児。特に、奈良時代の戸籍で、三歳以下の男児をいう。大宝令では三歳以下を緑と称し、養老令では黄(こう)といった。みどりご。緑子。(同上)

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 時代が下るにつれて、知恵も技術も、人間のなす事々が新しく、古い時代は「遅れている」と言いたくなりますが、それは「真っ赤な嘘」(とはいえませんが)であり、実はその反対であると、ぼくはいつも考えてきたし、言ってみたくなるほどに、人間は「不遜」であり、「唯我独尊」状態に舞い上がってきたし、舞い上がっているのです。温泉に入るのも、サツマイモを海水で洗うのもお猿さんから学んだ(継承した)のであって、人間が作った「文化」だと、猿が聞いて「顔を赤く」しますよ、恥ずかしいほど、人間は無知だね、と。あくまでも、この言い草は、人間の謙虚な姿勢を取りもどすためすの、ぼくの勝手な言いがかりではあります。それはともかく、古い時代から、すでに青や緑が「神聖視」されていたのは暗示的です。いったい何を示そうとしているのか。昨日、ぼくは「アオキ」や「オモト」に触れて、この植物は、「長寿」「長命」の象徴であり、年を取らない(ということはありえませんが)ことの例えに用いられてきたとも言った。「青」は瑞々しく、清々しい色であるという受け止め方は、時代や文化のせいではなく、その色彩が与える「安心感」であったろうと思われます。信号の「青」のように。(植物の問題としては別の機会に)

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◉ せい‐しゅん【青春】=[1] 〘名〙① (五行思想で、中国において、青色を春に配するところから) 春の季節。陽春。芳春。青陽。《季・春》※凌雲集(814)神泉苑花宴賦落花篇〈嵯峨天皇〉「過半青春何所催、和風数重百花開」※中華若木詩抄(1520頃)中「青春が江南の枝に入と、同く梅花さき乱て」 〔梁元帝纂要〕② (年ごとに春がめぐるところから) 年を重ねること。歳月。星霜。また、年齢。よわい。※読本・英草紙(1749)三「青春(セイシュン)十年を折(くじ)く」 〔司空曙‐送曹同椅詩〕③ 人生の春にたとえられる若い時代。年のわかいこと。青年。青年時代。※懐風藻(751)賀五八年〈刀利宣令〉「縦賞青春日、相期白髪年」※本朝無題詩(1162‐64頃)九・暮春遊霊山寺〈藤原明衡〉「青春花鳥雖志、今日貂蝉欲蹤」※三四郎(1908)〈夏目漱石〉一〇「考へるには、青春(セイシュン)の血があまりに暖か過ぎる」 〔李白‐送李青帰華陽川詩〕[2] 小説。小栗風葉作。明治三八~三九年(一九〇五‐〇六)発表。理想主義者だが個人主義的傾向が強く実行力に乏しい関欽哉と、才色兼備の女子大生小野繁との本能満足的な恋とその破綻を描く。同時代の風俗の描写に優れる。ツルゲーネフの「ルージン」の影響が濃い。(同上)

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 縄文や弥生時代の人々を「青春時代」の人々というなら、今日の人間は、きっと相当な老人であるということになりそうです。個体発生と系統発生の類比を出すまでもなく、われわれの社会にも「嬰児」は生まれますが、それは老人化した「赤ん坊」であるということにもなりかねません。ではどうするか。それが、いまや世界中で問われている大問題ではないでしょうか。「一国平和主義」も「一国民主主義」もなりたたないような時代状況にあって、「一国青春時代」を謳歌することさえままならないのは当たり前でもあるように、ぼくには感じられてきます。それだけ、この地球上には「緑」や「青」が棲息することが極めて困難になっていることを明示しているのです。定期的にWWFという団体から冊子が届き、そこにはつねに「絶滅危惧種」「絶滅種」などの色分けが掲載されています。やがて、そのリストに「人類」も掲載されることは避けられません。数々の動植物が絶滅する環境にあって、人間だけが生き延びられるという保証は、どこにも求められないんではないですか。

◉ ダブリュー‐ダブリュー‐エフ【WWF】[World Wide Fund for Nature]=《World Wide Fund for Nature》世界自然保護基金。世界の野生生物とその生息地を保護するための基金。1961年設立の世界野生生物基金(WWF;World Wildlife Fund)を、1986年に現名称改称本部スイスグラン。(デジタル大辞泉)

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 「万物の霊長」という自尊心をくすぐるだけの名称いや「詐称」、他の生命体を睥睨し、蔑視するような「種族」は、この地上におのれだけが生存しうると考えるほど愚かであり、そんな生き物、手前勝手な生き物は、どこを探してもいない。ということは、すでに「万物の霊長」の「絶滅」が始まっているということでもあるのでしょう。「核戦争に至る時間」が残すところ(核の危機を示す時計では)数分だとしばしば報道されますが、人類が「呼吸器疾患」「肺炎」などで死亡する、あるいはたがいに殺戮合戦を止められないで死する、その他、もろもろの「文明病」(その中に交通事故死などや感染症に因る、あるいは数多の公害に発する死なども含まれます)に起因する死亡など、その数たるや際限もなく膨らんでいます。「人類絶滅への残された時間」は、どれくらいなのでしょうか。ソバ屋で注文してそばを食べるほどの時間的余裕があるのかどうか、注文が出来た途端に、時間切れとなるのか。店に入ったとたんに「閉店」となるのかもしれない。

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【12月28日 AFP】昆虫の研究や、環境保護を声高に訴えたことから「ダーウィンの後継者」と称された米生物学者のエドワード・O・ウィルソン(Edward O. Wilson)氏が26日、マサチューセッツ州で死去した。92歳。E・O・ウィルソン生物多様性財団(E.O. Wilson Biodiversity Foundation)が27日、発表した。

ウィルソン氏は米ハーバード大学(Harvard University)の研究教授を長年務め、アリとその行動に関する世界的権威とされていた。後年は昆虫だけでなく、鳥類や哺乳類、人間の社会的行動を研究し、社会生物学を新たな科学分野として確立した。

数百本の科学論文のほか、30冊以上の著作を残し、1978年の「人間の本性について(On Human Nature)」と90年の「アリ(The Ants)」でピュリツァー賞(Pulitzer Prize)ノンフィクション部門を受賞した。

その先駆的な研究は物議も醸した。1975年の著作「社会生物学(Sociobiology)」は、動物の行動に関する論説が学界で高い評価を得たが、最終章では人間の行動は大部分が遺伝的なものであり、男女間の分業や部族主義、男性優位、親子の絆などの傾向は生まれつきの素質として獲得されると論じて、批判を浴びた。だが、それでも自然科学の権威としての名声は揺らぐことがなかった。(c)AFP

 「アリ」は中学校だったかの教科書(「国語」)に掲載されていましたね。「人間の本性について」はくり返し読んだものです。細かいところから、大きいところまで、微視から巨視まで、深く考えて問題を提示し続けた人だったと思われます。門外漢のぼくが、たくさんのことを教えられた「生物学者」でした。

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 演歌とバッハとクリスマス、この矛盾をご覧よ

 【北斗星】帰宅の道すがら、所々でイルミネーション(電飾)の輝きを目にする。脱炭素化が叫ばれる昨今、「電気の浪費」と眉をひそめる方がいるかもしれない。ただ雪でふさぎがちな人々の気持ちを明るくしてくれる効果も大切にしたい▼きょうはクリスマスイブ。その輝きはさらに増すだろう。子どもたちが楽しみにしているのはケーキやプレゼント。ところが子ども心にも不安があるらしい。サンタクロースがいつも通りに来てくれるかどうか▼新型コロナウィルスの新変異株「オミクロン株」が世界的に流行。そのため外国人の新規入国禁止などの水際対策が取られている。大丈夫とは思いつつ、サンタの入国が心配なのは無理もない▼政府は新型コロナ経済対策として18歳以下の子どもへの10万円相当給付を行う。県内では全市町村が年内に現金支給を開始。ただ一部は家庭に届くのが年を越すという▼迷走を重ねた末の支給。生活困窮への支援か、子育て支援か、その目的すら不確かだ。給付方法や時期、対象については自治体によって異なる。とはいえ給付金をプレゼント購入に充てたい家庭もあるのではないか。できる限り迅速な支給を望む▼国内でオミクロン株の市中感染が確認され緊張が高まる。世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長は22日「来年にはパンデミック(世界的大流行)を終わらせなくては」と述べた。たとえ年を越そうとも、その実現こそ世界が何よりも待ち望むプレゼントに違いない。(秋田魁新報電子版・2021/12/24)

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 【明窓】あわてんぼうのサンタクロース この時期によく聞くクリスマスソングが『あわてんぼうのサンタクロース』。クリスマス前にやって来たサンタが煙突から落ちて、ある家に侵入してしまい、帰っていくまでを<リンリンリン>などの擬音語を多用し、楽しい雰囲気を演出する▼作詞したのは吉岡治さん(1934~2010年)。石川さゆりさんの『天城越え』も手掛けたと知り、面食らった。<誰かに盗(と)られるくらいなら あなたを殺していいですか…>。女性の情念あふれる歌詞とは、あまりに印象が異なるからだ▼経歴を見て得心した。山口で生まれた吉岡さんは2歳で母親を亡くし、父親に連れられ全国の炭鉱町を渡り歩いた。その父も16歳の時に他界。天涯孤独となった吉岡さんは歌に慰められ、童謡詩人のサトウハチローさん(1903~73年)に師事し、童謡『おもちゃのチャチャチャ』などを書き上げた▼31歳で歌謡曲に挑戦し、『命くれない』『大阪しぐれ』などのヒット曲も作った。晩年まで書き続けた”女歌”の世界で亡き母のぬくもりを探し、明るい童謡で幼少の頃に憧れた温かい家庭生活を求めたのかもしれない▼きょうはクリスマスイブ。今年は『あわてんぼうのサンタクロース』発表から半世紀の節目という。新型コロナの新たな変異株拡大など、情念を誘うような暗い話題が多いが、きょうばかりは楽しい歌声で元気に叫びたい。「メリー・クリスマス」。(健)(サイン中央新報デジタル・2021/12/24)

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 この島社会の多くの人間にとって「クリスマスイブ」や「クリスマス」はどんな日なのでしょうか。ぼくには無縁であるとは言えないけれど、けっして、心清くして迎えたり、祈ったりする日ではなかった。今も昔もそうです。「ジングルベル」が鳴ったり、「聖夜」だなどという経験もまったくないままで、人生の大詰めを迎えています。ただ、ぼくは若い頃は夢遊病者のように地に足がつかないで、世の中では浮いていましたので、いろいろと根無し草のような経験をしました。その一つが「西洋音楽」に入れあげたことでした。右も左も知らないまま大学に入り、東京生まれの友人から「クラシック」のイロハを教えてもらった。高校まではまったく無縁の世界というか、だから、それこそ夢見心地で貪り聴いた。やがて、ぼくはバッハの教会音楽に行きついた。その後は「バロック音楽」と言われるものにも長い間、聞き耳を立てて過ごすようになりました。

 その後のこと、ある時、喉の炎症で近所(文京区本郷)の耳鼻科に行きました。その直前にレコード店に行き、シュバイツアーが弾く「バッハのオルガン曲」を抱えていた。その医者は、そのレコードを見て、音楽が好きか、時間はあるかと尋ねた。そして、早々に「診療」を切り上げ、二階に上がってレコードを聴くことになった。以来、ぼくが本郷から転居するまで実によくお邪魔しては、徹夜でレコードを聴いた。これがぼくの「クラッシクの学校」になったのです。彼はぼくより二十歳上の方で、いろいろな話を伺うことが出来た。旧制の帝大を出て医者になった人だった。(このM医師についても、丁寧に書いてみたいと考えています)

 ぼくは今、この駄文を、下に示したバッハの「クリスマスオラトリオ」を聴きながら書いています。演奏はカール・リヒターの指揮で、ミュンヘンバッハ管弦楽団とミュンヘンバッハ合唱団のものです。これを聴いていると、ありありとリヒターや彼の仲間たちの姿や楽器の音色、それに独唱者の歌声が甦ってきます。どの楽器、だれの演奏かがほとんどわかるまで聴きました。。ソプラノやテノールの豊かさと音楽性の深さを引き出すリヒターの演奏に、若いぼくは、あるいは全精神(神経)を傾注した、魂を奪われたと言ってもいいほどに聴き及んだ。この演奏を初めて聞いたのは、もう半世紀以上も前になります。ぼくはそれ以来、歌詞(聖書)をドイツ語で覚え、譜面も曲りなりにたどれるようになった気がしました。それで莫大な、かつ貴重な時間やエネルギーを浪費したのかもしれませんが、悔いることはなかった。教会音楽、特にバッハをはじめとする「カンタータ」もほとんど暗記するほどに覚え込んだものでした。

 (まだ、リヒターの演奏はつづいています。演奏時間は二時間四十分余)

 「帰宅の道すがら、所々でイルミネーション(電飾)の輝きを目にする。脱炭素化が叫ばれる昨今、「電気の浪費」と眉をひそめる方がいるかもしれない。ただ雪でふさぎがちな人々の気持ちを明るくしてくれる効果も大切にしたい」「きょうはクリスマスイブ。(略)子どもたちが楽しみにしているのはケーキやプレゼント。ところが子ども心にも不安があるらしい。サンタクロースがいつも通りに来てくれるかどうか」と、「バカ言ってんじゃないよ」と言いたくなるのは、大人げないか。でも、大人げないのはコラム氏じゃないか。 サンタクロースが煙突から落ちたとか、コロナに災いされて、日本にまで来れないとか、遅れるとか、「バカ言ってんじゃないよ」という気分はさらに募ってきます。「北斗星」の記者が、時には「イルミネーション」もいいだろうといい、「子どもだまし」ならぬ、「自分だまし」に気がつかないのか、つかないふりをしているのか。「サンタさんからプレゼント」と、どれだけの子どもたちは、いやな思いでこの時期(サンタは誰だ)を思い出したのでしょうか。ぼくには無縁のことだったから、その気持ちはわからない。

(「クリスマスオラトリオ」の演奏開始から二十三分直前から始まる「Grosser Herr, O Starker König」が。歌うのはフランツ・クラス。好きな歌手・テノールでした)

 サンタクロースがどうだとか、電飾がどうだとか、どうでもいいことではありませんが、リヒターたちの演奏と合唱団の歌声を聴いていると、ぼくは自分でも歌い出してしまいそうです。キリスト教というグランド(背景・文化)があるから分かり、それがないから教会音楽はわからないと言われますが、それは違う。ぼくは音楽として聴くし、それがキリスト教に帰依されるべきものであっても、それが美しく、妙なる物語、歌物語として耳に届くなら、ぼくは対象を選ばないだけです。

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「あわてんぼうのサンタクロース」https://www.youtube.com/watch?v=7WLqUTsJhU8

「バッハ クリスマスオラトリオ」カールリヒター指揮 https://www.youtube.com/watch?v=RqcSn-VtOoM)     

◉ クリスマス(くりすます)Christmas 英語 Noël フランス語 Weihnachten ドイツ語=イエス・キリスト誕生を記念する祝日。降誕祭ともいう。ことばの意味は「キリスト礼拝」である。初期の信徒の関心は、キリストの死と復活のできごとを宣教することに集中していたので、受肉(誕生)の日付の問題は空想的であったし、四つの福音書(ふくいんしょ)には誕生の日付の記述はない。コンスタンティヌス大帝は政治的判断から、キリスト教徒の礼拝日「主の日」を、ミトラス教徒の太陽崇拝の日と結合して、321年に公式に週1回の休日を決定し、役人の休日にした。ニカイア公会議(325)でキリスト論に関する教義が整理され、キリストの誕生の神学的位置づけが確定されると、ミトラス教の祝日Natalis Solis Invicti(不滅の太陽の生誕日)である12月25日がキリストの誕生日として解釈され制度化された。救主(すくいぬし)は「義の太陽」として預言されていたので(「マラキ書」4章2)、好都合な解釈が成立した。そして、たき火をたき、キャンドルをともし、祭儀的競技が催されるゲルマンの冬至祭りやローマの農耕神の祭りの形式の一部は、キリスト教徒に受容され、電気を照明に用いる現代でも不便なキャンドルを伝統的にたいせつにする。それは、光(神の子)が闇(やみ)(世界)のなかで輝き、熱と光を与えて消える(犠牲死)ように、過去のキリストの1回限りの生涯を年ごとに情緒的に理解する訓練に役だてられる。

 8世紀以降、クリスマス前の四つの日曜日を含む期間を「アドベント」Advent(来臨)とよび、教会暦では年の始めであるが、メシアの誕生の追体験とキリストの再臨を待望する心の構えを形成するために、この期間は祝い事を避けて生活する。クリスマスはアドベントから始まり1月6日のエピファニー(公現日)まで続き、その日にいっさいの飾りを外す。プレゼントの贈与と交換の行事は、古代ローマの祭り(12月17日)であるサトゥルナリアSaturnalia(農業神)にさかのぼる。この祭りの魅力は浪費、祝宴、日常的役割と身分の逆転であった。ツリーは、アルプスの北の風習で、起源が呪術(じゅじゅつ)的動機であるため、ピューリタニズムの系譜に連なる教派では飾らない。サンタクロースの起源は、恐ろしい袋をもった人さらいと善行の老人との奇妙な結合なのだが、遠い他人の抱く善意と正しい評価を親が代行する行為は、神の摂理を伝える家庭教育に用いられる。「キャロル」とよばれるクリスマスの歌曲は、民謡を母胎にして発展し、神への賛美、キリストの誕生の喜びと感謝を表現する。優れたキャロルは賛美歌に編入される。その一例が19世紀のグルーバー作曲の『清しこの夜』の歌である。(ニッポニカ)

●大師講(だいしこう)=旧暦11月23日の晩に家々を訪れる大師様に、小豆粥(あずき)や団子を供える行事。東北、北陸中部や山陰地方など広域に伝承されている。ことに日本海沿岸地域では顕著で、と称するが家の祭りである。この日はかならず雪が降るといい、大師様の足が片方であるとか、大師様のために畑の作物を盗む老女の足跡を隠すとかということで、デンボカクシ、アトカクシユキなどとよばれている。また大師様は子だくさんで長い(はし)で団子を刺して食べさせるなどという伝承や、片方の足の不自由を表しているという話を伴って、長短2本の箸を小豆粥や団子などの供え物に添える。片方の足や目が不自由だとか、人々の前に出現するときに雪や風など天候が荒れるというのは、日本の神のイメージとして古くから伝承されている一つのパターンである。現在は大師様といえばほとんどが弘法(こうぼう)大師を想定しており、ほかに者(ちしゃ)大師や聖徳太子などもみられる。しかし、大師講は霜月二十三夜という時期的なことから、その年の新穀を祝う新嘗祭(にいなめさい)的な農耕儀礼が背景にあると考えるべきものであろう。その際に迎える神をダイシとしたのは、大子(おおいこ)つまり神の子ということからきたといわれているが、そうしたダイシ信仰が弘法大師の巡行伝説と結び付いたと考えられる。(ニッポニカ)

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 駄文の調子は、さらに変調をきたしてきました。「クリスマスイブ」というのは「キリスト生誕前夜」で、教会ではいろいろな仕来りがありました。それに即して、各地でさまざまな行事が行われてきました。その由来は、よくわからないというのが正しそうです。季節は「冬至」(本年は、十二月二十二日:旧暦では十一月二十三日)近くにあたります。おそらくこの行事の始まりは農業に関わっていたろうと思われます。(詳しくは辞書を参照)似たようなことは各地・各民族に明らかに認められます。この島では「大師講」があります。新嘗祭は収穫祭にきわめて近似しています。

 「プレゼントの贈与と交換の行事は、古代ローマの祭り(12月17日)であるサトゥルナリアSaturnalia(農業神)にさかのぼる」「サンタクロースの起源は、恐ろしい袋をもった人さらいと善行の老人との奇妙な結合なのだが、遠い他人の抱く善意と正しい評価を親が代行する行為は、神の摂理を伝える家庭教育に用いられる」という。背景や所以はどうであれ、「愛でたい」「目出度い」(というものではないが)、それなら繰り出そうじゃないか、騒ごうじゃないかと、それに商売が便乗して「ジングルベル」の鈴が鳴り響いたのでしょうね、この島で、バブル時代は狂っていました、とうぜん、ぼくも。

 (まだ演奏は続いています。ただいま「Schlafe, Mein Liebster」で、開始後四十八分経過)

 吉岡治さんについても一言したいのですが、とてもその気にならないのはバッハのせいです。ぼくはこの人の作詞もよく調べました、という以上に、「じつに演歌だなあ」という雰囲気を教えられました。男と女、酒と泪、これぞ演歌 (嗚呼)、ぼくは、ホントに耽溺しました。「北の新地は おもいでばかり」と口にのぼると、過日の大阪のクリニック放火殺人事件が瞬間的に思い浮かんだ。(いや実際はその反対で、事件の一報を聞いて、即座に「北の新地は」が浮かんだのでした)(本日は、これで中断。バッハを最後まで聞くべしという声がしてきましたので。サンタやキリストや吉岡さんについては別の日に)(バッハを聴きながら、駄文は綴りづらいですね)(耳には「Schlafe, Mein Liebster」が届いています(アルトはChrista Ludwig)。こんな時に、バッハを聞くんじゃなかった。深く(不覚)反省しています。でも、ルードヴィッヒも久しぶりですが、いいですね。柔らかで、心がこもっていて。ただ歌うのではなく、どうして歌うか、どんな思いが大事であるかがが分かり尽くしている人の声がするのです。

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 以下は「大阪しぐれ」で、「吉岡・市川・はるみ」トリオの「会心の作」だったと思います。ぼくは蛮声を振り上げて、絶叫とはいかなくとも、何度も声涙を絞ったものでした。「あのひとを 雨よ帰して あゝ大坂しぐれ」それにしても、「エゲツナイ歌」と言いたいですな。歌謡曲だからこその、歌詞ですね。四百年以上も前のバッハの「クリスマスオラトリオ」を、この島の、あるいは大阪の現実に引き付けて歌えば「大阪しぐれ」となるんとちゃいいますか、なりまへんか。「大阪が泣いている」と、吉岡さんは言いたかったのです。この都はるみさんについても、語れば切りのない「おもいでばかり」、いつか滔々と語りたいですね。彼女は京都の人で、小さいころから母親に激しく、厳しく鍛えられて歌い手になった。いわば「巨人の星の」飛雄馬の父親(一徹)のような「お母さん」でした。烏丸車庫の近くで、中学生だったかッと思われるが、ぼくは彼女の母上にお目にかかったことがあります。本日、何年振りかで「大阪しぐれ」を聴き、ぼくの眼も「しぐれ」ているようでした。はるみさんを、ぼくはとても好んで聴きまくりました。ほとんどのレコードは持っていましたね。リヒターのように、でした、好きさ加減は。(*https://www.youtube.com/watch?v=yc9b-fi_nDI

 大阪しぐれ 作詞:吉岡治 作曲:市川昭介

ひとりで 生きてくなんて
できないと
泣いてすがればネオンが ネオンがしみる
北の新地は おもいでばかり
雨もよう
夢もぬれます あゝ大阪しぐれ

ひとつや ふたつじゃないの
ふるきずは
噂並木の堂島 堂島すずめ
こんなわたしで いいならあげる
なにもかも
抱いてください あゝ大阪しぐれ

しあわせ それともいまは
ふしあわせ
酔ってあなたは曽根崎 曽根崎あたり
つくし足りない わたしが悪い
あのひとを
雨よ帰して あゝ大阪しぐれ

 「ど演歌とバッハ」が何の矛盾も齟齬も来さないで、一人物のなかに生息するという(それも生き生きと)、矛盾の見本のような「人間」がぼくです。演歌は演歌でいいし、クラシックはそれだけでいい。比べる必要もないし、優劣は比べるべくもないものです。人間は「矛盾」した存在です、それが生きているということじゃないですか、とぼくが言うのもなんですが。「ひとりで 生きてくなんて できないと  泣いてすがればネオンが ネオンがしみる」と吉岡さんは言われました。「あなた」「あの人」はどこに行ったのでしょうか、と。演歌に託して、思慕の念、止みがたい「人」求めているのですね、どなたも。その念慮が、やはり聴く人にも通じるから、胸に響くのでしょうか。

(ただ今、トランペットが響き渡っています。半分が過ぎました。「Herrscher Des Himmels, Erhöre Das Lallen」)

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 「人間は神の言葉」だと、どんな意味なのかな

 以前に紹介したことがある H.S. クシュナー著「なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記」の「扉」に、長男に向けて次のような言葉が掲げられています。著者の長男として生まれたアーロン。彼は聡明で元気な子だった。二歳にもならないのに、多くの恐竜の名を覚えた。どうして恐竜が絶滅したかを、大人に辛抱強く話したという。「アーロンは生後八か月で体重の増加がとまり、一歳になったころから髪が抜けおちはじめました。そのころから妻と私は、アーロンの健康について危惧を抱きだしたのです。三歳下の妹が生まれるとき、夫婦はボストン郊外に転居し、その近くで、子どもの成長障害を研究している小児科医がいることを知りました。アーロンを伴って医者に行くと、彼は「草老症(プロゲリア)」だと、夫妻に告げたという。

          アーロン・Z・クシュナーの(1963-1977)
          思い出に捧ぐ

   ダビデは言った。
   「子の生きている間に、わたしが
   断食して泣いたのは、
   『主がわたしをあわれんで、この子を
   生かしてくださるかも知れない』
   と思ったからです。
   しかし今は死んだので、わたしは、
   どうして断食しなければならないのでしょうか。
   わたしは再び彼をかえらせることができますか。
   わたしは彼のところに行くでしょうが、 
   彼は私の所に帰ってこないでしょう」
            (サムエル記下第十二章二二ー二三節)

 アーロンの身長はせいぜい一メートルどまりで、頭や体には毛が生えず、子どものうちから小さな老人のような風貌になり、十代の初めに死ぬだろう、と言われた。クシュナーさんが、この本を書いた理由はアーロンの存在にありました。「十四歳の誕生日の二日後に、アーロンは死んでいきました。この本は彼の本です。なぜなら、この世の苦悩や悪についての納得のできる説明をしようとする本書の成否は、アーロンと私たちが味わった体験をどれほど説明できているかにかかっているからです」

● プロジェリア症候群(ぷろじぇりあしょうこうぐん)Progeria Syndrome=新生児期から幼年期に発症し、全身の老化が異常に進行する早老症の一つ。発症の割合は新生児で400万人に1人、幼児期で約900万人に1人というきわめてまれな病気だが、発症すると通常の10倍程度の速さで老化が起こり、おもに動脈硬化による心機能障害や脳血管障害により平均13歳で死亡する。1886年にハッチンソンJonathan Hutchinson(1828―1913)が症例報告し、97年にはギルフォードHastings Gilford(1861―1941)がプロジェリア症候群と命名したが、これはギリシア語のProgeria老年)に由来する。現在までの症例は146例、生存している患者は約30名で、いまだ治療法がみつかっていない難病である。/ 2003年になって、病因はヒト1番染色体上にあるラミンAという遺伝子の突然変異により核膜が異常をきたすことによると判明したが、なぜそれが起きるか原因は明らかになっていない。この原因を追究し、治療法を確立することは、老化のメカニズムの解明にもつながるとされ、多くの学者の研究対象となっている。(ニッポニカ)

 繰り返し書きました、ぼくは神を信仰していない。「君は無神論者だ」と言われれば、そうかもしれないと返答します。それには、いくつかの理由がありますが、「神の意志」というものを当たり前に受け止めることが出来ないからです。「神の赦し」を乞う理由がないからです。ぼくがこのクシュナーさんの本に深く教えられたのは、「神は私たちに不幸をもたらしません」「人生の悲劇は神の意志によるものではないのですから、悲惨な出来事にみまわれたとしても、私たちは神に傷つけられたと感じる必要はありません」と断言している、その彼が「ラビ」であるということからでした。では、それでもなお、どうして「神なのか」と問われた時に、クシュナーさんは「その苦しみを乗り越えるために、神に目を向け、助けを求めればよいのです。神も私たちと同じように憤りに震えているのですから」という彼から、本当にぼくは教えられたのです。「神は、ぼくのうちにあり」と。

 何をもって「神」というか、そこに「信仰」や「宗教」の根拠があるのだと、ぼくは考えつづけてきました。ぼくが「悪に染まり切らない、切れない」のは、神の力や仏の慈悲といってもいいし、それは、ぼく自身の「よき人でありたい」という意欲であると理解してもいい。それは、ぼくには同じことだから。「わが内なる道徳律」といったのはカントでしたが、「わが内なる、人間でありたいという願い」と言い換えても、ぼくにとって、なにもは変わらない。「そのような願いや意欲を生むものはなんだろうか」と問われれば、ぼく自身の中にある「神的(仏的)なもの」と答えるほかありません。ぼくを超えたものへの意識が、ぼくに訴えてくるのです。「それは宗教だ」といわれれば、そうかもしれないとぼくは受け止めるだけです。ことばにはこだわらない。

 そのことをクシュナー氏は次のように言っていると、ぼく理解しています。「悲惨な出来事を起こすことも防ぐこともできない神は、人にはたらきかけ、人を助けようとする心を奮い立たせることで、私たちを助けているのです。ハシディズム(敬虔主義を重んじるユダヤ教の一派)を信奉する十九世紀のラビが述べているように、「人間は神のことば」なのです。悪い人だけにそれが起こるようにするのではなく(神にはそのようなことはできません)、苦しむ人の重荷を軽くし、虚しくなった心を満たすべく、友人や隣人の心を奮い立たせるという方法をとるのです」(同書)

 他者の苦しみに、ぼくたちは目を背けたり、耳を塞ぐことはできない。人生の不公平、不正義、それに対してぼくたちは怒りを感じます。それは「神の愛や怒りがわたしたちを通して現れたものであって、神の存在を示すもっとも確かな証明」と、彼は述べています。彼らにとっての「神」はそういうものなのでしょう。また、別の人には別の「神」がいても構わないのです。「捨てる神」がいれば、「拾う神」もいるというではないですか。

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 <卓上四季>花丸二重丸 神田沙也加さんの小さいころの夢は「大人になること」だった。生まれ変わったら「私じゃなければ何でも」いいと願った。昔の自分にかけたい言葉は「生きてね」。国民的アイドルと俳優の娘として生を受けた少女の容易ならざる歩みだ▼衆人環視で出歩く自由もなかった幼少期。圧倒的な親の存在感を前に自立を急いだ思春期。18歳で自分を見失い芸能活動を中断した。人生にタイトルを付けるなら「波瀾(はらん)万丈」だと語っていた(「Saya Little Player」マガジンハウス)▼ダイニングバーでこっそり働き、世間の「普通」が初めての自分にぞっとしたこともある。それでも出自を言い訳にせず、周囲の評価を誠実に受け止めた▼苦しみ傷ついた分だろうか。温かみのある演技が印象に残る。もがく中で差す光明もあった。2014年のディズニー映画「アナと雪の女王」の吹き替え版では主人公を担当。近年はミュージカルや舞台のほか、声優としても活躍の場を広げていた▼懸命に頑張る姿に引かれるファンも多かった。滞在先の札幌市内で急逝したとの一報に言葉を失った方もおられよう▼一つだけ欲しいものがあった。演劇界の何かの賞。「よくできました印」が押される気がすると3年前明かしていた。自身を縛る氷を溶かしたばかりか、他者の背中も押した35年の人生。その軌跡は誰の目にも花丸二重丸であった。(北海道新聞電子版・2021/12/21)

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 亡くなられた方について、ぼくは何も知りません。ただ、あまりにも「衝撃的な幕引き」に、胸が押し潰されるような痛みと、衝撃を受けて覚えた動揺を禁じ得ないでいるのです。その思いは多くの方も共有されているでしょう。一人の人間の苦しみの果てを、ぼくはこのようにしてしか受け止められない。「卓上四季」の記事は適切かち親切なものであり、死者に対する温かい思いを示されたと、ぼくは読みました。人生の長さや短さ、あるいはどんな環境で生まれるか、生きた時間の濃淡などなど、そのことによって、優劣や幸不幸を比較考量することはできなとぼくは考えています。人それぞれの「人生」があるというほかありません。どうして、彼女が「あのような最期を迎えたのか」、誰にも分からないし、分かったところで、誰を、どのように納得させるのか。何をしても、彼女は戻ってこない。「私はどうして断食しなければならないのか」

 生も死も、一人のものであると同時に、多くの人にも関わっているものだ、しかし、究極は「私」のものであること、それをこんなかたち(方法)でぼくたちは知らされたのです。ぼくは、一人の若い女性の死に、言葉にならない悲しみをこらえるばかりです。そして、図らずも「アーロン君の死」が甦ってきたのでした。(べつの駄文を書いていたのですが、思わないなりゆきで、こんな(不)具合になってしまいました。

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