信州信濃の蕎麦よりもわたしゃあんたの側がいい

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 長野市戸隠といえば…ソバ 一面に白い花満開 「今年はいいよ」と太鼓判

 長野市戸隠地区で特産のソバの花が見頃を迎えている。戸隠連峰を望む同市戸隠豊岡の農業木村輝松(てるまつ)さん(87)の畑では28日、白い小さな花が満開に。戸隠観光協会によると、地区全体で例年より少し早く見頃を迎えており、あと1週間ほどは楽しめそうだという。/ 木村さんは約1・4ヘクタールの畑で30年以上前からソバを栽培。5月上旬に種をまき、10日ほど前に花が咲き始めた。霜が降りず、生育は順調といい、「例年より大きく育っていて、おいしいそばができると思う。今年はいいよ」と表情をほころばせた。/ 7月下旬ごろに収穫する予定。8月にもう一度、ソバの種をまく計画という。(上の写真は戸隠連峰を望む畑でソバの様子を確かめる木村さん=28日)(信濃毎日新聞・2022/06/29)

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 近所にも蕎麦畑があり、季節ごとに「白い花」を咲かせています。近年では、同じ町内の、よく繁盛する店の蕎麦畑もつくられ、何とも爽快な眺めであります。どうでもいいことです、どいうわけだか、ぼくは蕎麦が大好きで、若いころから盛んに食べてきました。そのほとんどは「ざる蕎麦」か「盛り蕎麦」で、もちろん「小半(こなから)」(半分の半分。1升の4分の1。2合5勺)が付いていました。今ではこんな言葉は使いませんが、「こなから」(「小半」)とは、さらに、少量のお酒という意味もありますから、ぼくはたいてい一合の酒を「蕎麦の友」としていた。店によっては「菊正」だったり、「白雪」だったりしましたが、そのお酒は美味しいものでしたね。蕎麦が主なのか、酒が主なのかわからない「昼飯」でした。やがて、どの店も昼食時はこみだしたので、その後はあっさり「昼飯(昼蕎麦)」はすっかりやめてしまいました。もう半世紀も前のことになりました。

 昼の「小半つき蕎麦」に代わって(以来、ぼくは昼食を食べない人間になった)、夕方五時ころからの「飲み屋」通い。およそ三十年ほど、ほとんど同じ店でした。飲みだしたら時間を気にしないという出鱈目ぶりで、最終電車はしょっちゅうだったし、時には乗り遅れて困ったこともしばしばでした。それはともかく、蕎麦は、その素朴な味(なかなか一筋縄ではいかない)がよろしいいですね。近年、日本産蕎麦粉は希少価値があり、なかなか手に入りません。蕎麦店でも、大半は外国産だとされています。美味しければ、どこだっていいのですが、ぼくはやはり信州の「更科もの」をよく食していました。今はもうなくなったかもしれませんが、銀座の交差点わきの「更科(さらしな)本店」にもよく行きました。当然のように「小半」付きでしたね。当時は、あちこちの店でも、少量の梅酒が付いていたように記憶しています。

 信濃産の一茶の「蕎麦句」をいくつか。

・そば所とひとはいふ也赤蜻蛉                                                                                                       ・瘦山にぱっと咲けりそばの花                                                                                                      ・更しなの蕎麦の主や小夜砧                                                                                                       ・そば花は山に隠れて後の月                                                                                                       ・そばの花咲くや仏と二人前(いずれも一茶作)

 コロナ禍騒動以来、ぼくはほとんど外でものを食べることをしなくなりました。マスクや消毒もうるさいことでしたが、テーブルにアクリル板を立てて、無言で食べるという「苦行」には耐えられなかったからです。今でも、同じことをしているのかどうか。かみさんと行っても、「衝立」を隔て、黙って食べるという、そんな馬鹿なことがもう長い間続いているのです。家でも衝立(アクリル板)を立てて食事をしている人がいるのかどうか。当たり前の日常・風景、それが失われることに、ぼくはいたく抵抗を覚えるのです。

 外食をやめたので、蕎麦はもっぱら市販品(出来合いで、茹でるのみの)です。何国産と言われるのも嫌ですから、あまり気にしないで、国産と書かれた品物を「そうだよ」とみなして買うのです。家で「ざる」や「盛り」にして、「アクリル板」もなく、ゆっくりとかみさんと食べています。「これは旨い!」というものには、まだ行き当たりませんが、そのうちにきっと、と思いながら、今を盛りの蕎麦の花を見ている。

 若いころ、学生さんの中には家ではだれも、一滴も酒を飲まないという話を聞いて驚いたことがあります。酒もなくて、どうして飯が食えるのかなどと、不埒なことを言ったりしたことでしたが、さて、自分が酒を止めてしまうと、やはり美味しいい「蕎麦」を探しますね、酒の有無には無関係でした。

 (つい二時間ほど前)十時半ころ、長野の飯田に住んでいる後輩(女性)から電話がありました。「会社に行けなくなった」という。ご当人は「うつ病」だと自認しているし、それを補強する心療内科の医者もいる。一か月ほど前にあった電話で、久しぶりで「うつの声」を聴いた。ぼくは専門家ではありませんから、何も言いませんが、ちょっと気になったのは「自分は自己肯定感が低い人間だから」とかなんとかいったのです。「えっ、それホント」という気がしました。プライドというか自尊心というか、世にいう「自己肯定感」(あるいは「自己正当化」かも)が、必要以上に強すぎるから、何かあると「落ち込むんじゃないですか」と、ぼくは答えました。ほとんどはそうであって、そのうえで、「この自分をどうして認めてくれないの?」という「世間」の冷たさ・低評価に、孤独感や孤立感が、ご当人の中に住みかを見つけてしまったんですね。(いのちあるものは、人間を含めて、まず「自己肯定感」は強いと、ぼくは考えている。自分を守り、自分を突き出すことは、いのちを賭けてのことではないでしょうか。もう少し書きたいのですが、猛暑のせいで、本日は中止。植木に水をやり、と殊勝なことを考えている)

 「会社に行く、行かない」は個人の問題であっても、会社には仕事をする同僚がいますから、少しでもその「仲間」への配慮があれば、少しは違った反応があるのかもしれぬと、結論にならない物言いをして電話を切りました。電話なら何時でもどうぞ、ぼくは暇だから「出られるときは出る」と、今後の電話の受け取り了解の信号を出しながら、この瞬間・状況を乗り越えてくれるといいなあ、とつくづく思っている次第です。安っぽい化学アルコールやタバコなどにひっかかっていないで、本場の「蕎麦」を粉から作って、ゆっくりと食べるといいのに。

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 とんぼ釣り今日はどこまで行ったやら

 【斜面】トンボの楽園 1円玉の直径は20ミリ。体長はほぼ同じだ。日本一、いや世界で最も小さなトンボの一種だろう。ハッチョウトンボである。雄は鮮やかな橙(だいだい)色。「赤い妖精」と呼ばれている。伊那市新山(にいやま)地区の湿地で、その姿が見られる季節になった◆この湿地で初めて見つかったのは18年前の6月のこと。住民の情報を基に専門家が確認した。翌年春から当時の日本蜻蛉(とんぼ)学会会長だった枝重夫さん(松本市)が調査を進めたところ、2年目には0・7ヘクタールの湿地に約5千匹が生息していることを確認した◆「全国有数の生息地」とのお墨付きを受け、住民は木道の設置や草刈りなどの保護活動に取り組んできた。一昨年10月からは新たに発足した「新山トンボの楽園を育てる会」が活動を引き継いだ。住民や専門家ら約80人の会員がトンボの生息に適した環境の維持に力を注いでいる◆会長の北原幸人(さちと)さん(71)によれば、一帯はかつて山砂の採取地だった。業者が山を崩し平たんになった土地に周りの山から水が染み出し、湿地ができた。水位は浅く、少しずつ水が入れ替わり、生えている草の丈も短い。ハッチョウトンボが好む条件だ◆各地の湿地は開発によって失われ、トンボはすみかを奪われてきた。新山地区では開発が偶然生息地を生んだ。環境は時がたてば変わる。今は乾燥化を防ぐため水を行き渡らせる対策が課題という。人と自然が折り合いをつけ共生する。その道を探る「トンボの楽園」の活動を応援したい。(信濃毎日新聞・2022/05/17)(下の写真も信毎新聞・2022/06/16)

●ハッチョウトンボ(はっちょうとんぼ / 八丁蜻蛉)[学] Nannophya pygmaea昆虫トンボ目トンボ科の昆虫。体長約15ミリメートル、後(こうし)長約13ミリメートルで、不均翅亜目のトンボとしては世界最小のものに入る。は成熟によって全体紅色となるが、は黄色と褐色斑紋(はんもん)を示す。ともにはねの基半部は橙赤(とうせき)色、日本列島では青森県から鹿児島県まで全土に点々と分布するが、幼虫の育つ、浸出水による浅いミズゴケ湿原破壊されることによって著しく減少した。平地では5~6月、山地では7~8月にみられる。さらに本種の分布は、中国大陸を含み、東南アジア各地から広く記録され、ニューギニア島に至る。一般にこれら南方産のものは小形で黒斑が退化する傾向がみられる。(ニッポニカ)                                       

●はっちょう‐とんぼ〔ハツチヤウ‐〕【八丁蜻蛉】 の解説トンボ科の昆虫。体長約1.5センチで、世界的に最小の種。成熟すると雌の体は黄色、雄では紅色になる。湿地にすみ、飛翔 (ひしょう) 力は弱い。名は愛知県名古屋の八丁畷 (なわて) に多産したことによる。(デジタル大辞泉)

 今となれば貴重なものとなった「八丁蜻蛉」を、ぼくは見た頃があるかどうか、その記憶はまったくないのです。京都に来るまで住んでいた石川県の能登中島では、川に入り山に分け入り、湖(あるいは用水の溜池だったか、幼児の記憶でしたから、相当に大きな池・湖のようでしたから)で泳ぎと、ひとあたり周りの環境で思いのたけ丈を遊んだ。もちろんトンボとりも盛んにしたし、蛍狩りもした。自然や環境に密着した生活を懐かしいものと思うのは、この能登中島の生まれ故郷時代、それも十歳未満でしたが、そこで存分に培われたものでした。だからというわけでもありませんが、この加賀の千代女さんの名前はもちろん「とんぼ釣り」の句もずいぶんと早い段階から知っていた。「とんぼ釣り」は、文字通りに「釣る」のですが、生きたトンボを見せかけ(誘い水)にして、やってくる蜻蛉を取ったのです。いつのころからか、ぼくはこの句を「とんぼ取り今日はどこまで行ったやら」と唱えるようになっていました。どうしてですかね。(この句は彼女のものかどうか異説があるそうです)

 略歴にあるように、彼女は早熟の俳人で、早くから加賀に千代女ありと知られていた人でした。結婚したが一年ほどで夫と死別。五十二歳で出家(剃髪)僧名は素因。七十三歳で死去(安永四年・一七七七五年)

 その名句とされるものをいくつか。それぞれが鑑賞されますように。いかにも、加賀の女性の「柔らかさ」が感じられてきます。堂々たる、しかもゆったりとした「風格」をも感じさせてくれるような句の佇まいではないでしょうか。

世の花を 丸うつつむや 朧月  

ふみわけた 情(なさけ)の道や 山さくら                

蛍火や よしなき道も そこらほど  

朝がほや 釣瓶とられて もらひ水  

とんぼつり 今日はどこまで 行ったやら                                (一茶が亡き子のために引いたので有名になったとされる)

 月も見て 我はこの世を かしく哉                                  (辞世句とされます。「かしく」は「かしく【恐/可祝/】《「かしこ」の音変化》女性の手紙の末尾に用いるあいさつの語。かしこ」(デジタル大辞泉)この句には、いろいろな説があるようですね。「これで失礼します。かしく」という具合だったか。だとすれば、千代女さんは、悠揚迫らぬ大往生となります)

● 加賀千代 没年:安永4.9.8(1775.10.2) 生年:元禄16(1703)=江戸中期の俳人。加賀松任(石川県松任市)の表具屋,福増屋六左衛門(一説に六兵衛)の娘。出家して素園とも号した。11,12歳のころ,本吉の北潟屋に奉公。主人,岸弥左衛門(俳号半睡のち大睡)に,俳諧を学ぶ。10歳代でその名は諸国に喧伝され,ことに各務支考,中川乙由との交流を契機に全国の俳人が知るところとなった。「朝顔に釣瓶とられてもらひ水」は,その作として有名。植物の生命にまで愛情をそそぐような,女性らしい着眼点を示す。生前に,『千代尼句集』なども刊行された。<参考文献>中本恕堂編『加賀の千代全集』(朝日日本歴史人物事典)

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 I want to be an umbrella on a rainy day

 雨の日の友達「雨の日の友達」という言葉がある。好調な時は多くの人が周りに集まってきてくれる。だが、何かにつまずいてうまくいかなくなると、潮が引くように離れていく人もいる。「雨の日の友達」とは晴天から一転、突然の雨に降られた時、そっと傘を差し出してくれる友のことをいう◆きのうの本紙の地方面で、橋の欄干から飛び降りようとしていた男性に声をかけ、人命救助に貢献した女性に感謝状が贈られた、という記事が目に留まった。男性は20代。事情は想像するしかないが、「孤独」を感じていたのかもしれない。女性の言葉の中身より、心配してくれた行為そのものがうれしかったのだと思う◆ポジティブ思考は大切だが、落ち込んでいる人や悩みを抱えている人に、ポジティブを押しつけてはいけないという。悩みへの理想的な答えは「一緒に解決策を考えよう」という言葉。つまりは「寄り添う」こと◆誰の心にも涙はつきもの。でも、一緒に泣いてくれる人がいれば、不思議と悲しみが和らぐ。つらい時、「誰かのために」と思ったら頑張れるし、「誰かに思われている」と感じた時も希望が生まれる。女性の声かけはきっと、「雨の日の傘」になったのだろう◆人生山あり谷あり。晴れの日ばかりではない。できれば、雨の日にさりげなく傘を差し出せる人になりたいと思う。(義)(佐賀新聞・022/06/08)

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 このコラムを読んでいて、さて、ぼくは小さいころ、傘はどうしていたのかが気になりだしました。もちろん雨の日もあったわけで、そんなとき、ぼくは傘をさしていたのだろうか、それとも雨合羽を着ていたのだろうか。とんと思い出せないのです。ひょっとしたら、雨の日だって、ぼくは傘をさしてはいなかったのではないかと疑ったりしているのです。土砂降りならいざ知らず、少しくらいの雨なら「濡れても平気」と決め込んでいたのだと思う。戦後間もない時代でしたから、西洋風の雨傘なんかは珍しく、ほとんどが「唐笠」「番傘」だったと思います。それでも、ぼくには学校の行き帰りに番傘(蛇の目傘)をさしていたという姿が思い出せない。ぼくには、小さいころに「長靴」というあだ名がありました。おそらく、何時だって長靴をはいていたからだと思います。川あり、山ありの遊び場には事欠かなかったから、何時だって長靴で飛び回っていたのでしょう。(左上は七尾市熊木小学校・ぼくがしばらく在学していた学校。七十年以上も前になりました)

 「あめふり」という唱歌はよく覚えていますし、何時でも歌っていたような気がします。しかし、この歌で描かれている親子や「柳の根方で泣いている」子どもなどは、いませんでした。ということは、雨が降ったら、学校は休みだったのかもしれませんね。そんなノドカというか、思い切って、子どもの興味中心の学校生活だったようにも思われている。ぼくの性分として、傘はまず持ち物ではなかったから、何時だってなくしていたし、いよいよなら、濡れネズミでもかまないという覚悟があった。

 百円ショップ時代が来ると、まず最初に「ビニール傘」が思い出されます。これまでに何本か買いましたが、三日と保存・保持していたことはないほどに、どこかに忘れることがほとんどでした。だから、小学校時代はもちろん、中学生になってもレインコートに長靴が、雨の日の定番だったようです。いつのころからか、レインコートが見られなくなり、長靴姿も、特に都会では見られなくなりました。それにはいくつかの理由もあります。水はけがよくなり、雨に濡れる時間が少なくて済むような街の作りになったこと、あるいは地下道や地下鉄が方々に作られたことも一因だったでしょう。

 今では、どこを探しても「あめふり」の景色が見られなくなったのは、時代の変化というよりは、家族が決定的に変貌してしまったからかも。「きみきみ このかさ さしたまえ」(小学生なのに、なんとエラそうにしていますね)「ぼくなら いいんだ かあさんの おおきな じゃのめに はいってく」という景色もまた、この島のある時代のある都市のものだったでしょう。

 番傘とか唐笠とか言います。いずれ「唐来物」だったわけで、やがて和紙に油をしみこませて丈夫なものになってゆきました。今では実に懐かしいものになりましたが、ぼくにはこの「蛇の目」や「番傘」が目に焼き付いて消えません。それだけ、今日とは比較を絶して雨が強烈ではなかったということかもわかりません。この「傘」はなかなかに重いものでしたね。こんな思い傘を小さな子どもがさしているなど、どうも思い浮かばないですね。

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 JR飯田線に「唐笠」という駅があります。ぼくはまだ下車したことはありませんが、天竜川の上流の名勝の地になっているところです。若いころに、ゆっくりと名古屋辺りから電車で旅をしておけばよかったと何度も後悔したほど、この飯田線にはいろいろな思い出が染みついているのです。「設楽(したら)」「恵那(えな)」あたりも、時間をかけて歩き回ってみたかったですね。(ついさきほど、また飯田の後輩が電話をくれました。今週は「うつの再発」で会社は休業しているそうです。まだまだ若い女性です。あまりいい酒(ぼくの好みで言えば)を飲んでいないし、未成年のころから「タバコノミ」でもあります。この人とも「悪縁」というか「腐れ縁」というか、もう出会いの最初から十五年ほども、「うつのはけ口」になってきました。

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● 飯田線(いいだせん)=東海旅客鉄道の線路名称。豊橋(とよはし)(愛知県)―辰野(たつの)(長野県)間195.8キロメートル、豊橋―豊川間のみ複線、その他は単線、全線直流電化。豊川と天竜川の河谷を走り、東海道本線と中央本線を結ぶ沿線には豊川、新城(しんしろ)、飯田、駒ヶ根(こまがね)、伊那(いな)などの諸都市や、鳳来寺(ほうらいじ)山、佐久間(さくま)ダム、天竜峡などの観光地がある。もとは豊川鉄道(豊橋―長篠(ながしの)〈現、大海(おおみ)〉、1897~1900年開業、1925年電化)、鳳来寺鉄道(長篠―川合〈現、三河川合〉、1923年開業、1925年電化)、三信(さんしん)鉄道(三河川合―天竜峡、1932~1937年電化開業)、伊那電気鉄道(天竜峡―辰野、1909~1927年電化開業)の四私鉄によって建設され、1943年(昭和18)国有化されて飯田線となった。1987年、日本国有鉄道の分割民営化に伴い、東海旅客鉄道に所属。佐久間ダムの建設に伴って、佐久間―大嵐(おおぞれ)間の路線が水没し、水窪(みさくぼ)川の谷や大原トンネル(長さ5063メートル)経由の路線に変更された。(ニッポニカ)

HHHHHHHHHHHHH

 ここからが本日の「主題」です。「できれば、雨の日にさりげなく傘を差し出せる人になりたいと思う」というところです。「さりげなく」というのがいいですね。唱歌にあるような「きみきみ このかさ さしたまえ」など、どうして言えますか。さりげなくという風情や心持が失われてしまったのは、北原白秋さんのせいばかりではなさそうですが、この小学校段階からの「男尊女卑」教条、すごいことですね。その昔、勤め人をしているころ、しばしば若い人に尋ねました。「あなたにとって、いい人とはどういう人ですか?」「どういう人がいい人だと思いますか?」と。ところが、ぼくにとって実に意外だったのは、ほとんどの人がなかなか答えられないかったということでした。そんなに難しい「共通一次試験問題」なんかではなかったのに、どうして答えられなかったのか、ぼくには訝(いぶか)しくてならなかった。きっと、それまで「いい人」なんて考えもみなかったか、自分が「いい人になるなら」と考えたこともなかったかもしれない、自分が「いい人」であるというより、ぼくはむしろ「他人」に対して考えてみたかったんですね。「こんなことをする人、できる人が、いい人なんだ」という具合に。

 それが「雨の日の傘のような」、だれかが濡れることをほおっておけない、雨から守ってやりたい、何気なく、赤の他人が思いやれる、そんな気遣いのできる人、それを、ぼくは「いい人」だと考え続けてきました。さらにいえば、困っている人を助けられる人、ぼくはそんな人になれるように生きていきたいと願い続けて、ここまできました。「何気なく」「さりげなく」「人知れず」、そんな雰囲気がこの上なく好ましいように思っているのです。「人命救助に貢献した女性に感謝状が贈られた」というのは喜ばしいことですが、それはむしろ、余計でもあるようなものじゃないですか。「さりげなく」「何気なく」というままでもよかったと、他人事ながら考えたりしています。

 ライオンズクラブや「小さな親切運動」ではなく、「名も知らぬ・名も知られぬ善意」「惻隠の情」が当たり前に他者にかけられる社会、そんな感情によって成り立っているのも「人間の社会」なんだということがわかれば、それで十分という気もします。「相身互い(「相身互い身)」ということですかな。少し場違いですが、「秘すれば花」ということばを思い出しています。「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからずとなり。この分け目を知ること、肝要の花なり」(「風姿花伝」)

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「あめふり(雨降り」(北原白秋作詞・中山晋平作曲:大正十四年)(https://www.youtube.com/watch?v=Zu68T2cwuDc)(「蛇の目」傘とは、蛇の目を図案化しているからと称される)

「あめふり」
あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かけましょ かばんを かあさんの
あとから ゆこゆこ かねがなる
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

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 今人は皐月の鯉の吹き流し口先ばかりで腸はなし 

【談話室】▼▽知人からかつて、こんな話を聞いたことがある。山形市の中心街に行って用事を済ませ、バスで帰宅した。すると降りる際、運転手に言われた。「さっき運賃を10円余計に頂いたので、その分を引いて払ってください」▼▽そういえば家から出かける時もバスに乗った。往復ともたまたま同じ運転手だったのだ。行きに多く払ったという意識がなかっただけに、知人は驚いた。同時に「運転手さんの客への誠実な対応にはほとほと感心した」。教えてもらった身にしても、気持ちがほっこりした。▼▽近頃は対照的に、多額の金がいとも簡単にやりとりされる。例えば、町役場から誤って4630万円を振り込まれた男の話。元に戻すよう頼まれても「海外のインターネットカジノで全部使った」と嘯(うそぶ)いていた。しかし最近になって、町にその9割余りが返ってきたという。▼▽男が送金した決済代行会社が、町に入金してきた。代行会社側が捜査を恐れた、との見方もある。本をただせば町のミスがなければ問題は生じなかった。とはいえ、謎を残したまま大金が行き交う記事を読むにつけ、10円を巡る気遣いの方が人の本然であってほしいと願う。(山形新聞・2022/05/28付)

 まだ「券売機」などが姿を見せていなかった時代、ぼくの記憶では半世紀以上も前のことのように思われますが、今のJR上野駅の窓口駅員が切符の釣銭、十円かそこらを不正にポケットに入れたという廉で、解雇されたというニュースがあった。たかが十円で「首」とはあまりにも無慈悲と思ったし、勤続何十年かの履歴が一瞬にして消えてしまったという、駅員の(人生の)暗転に心を痛めた、そんな記憶が今もはっきりと残っています。これはいろいろなところで聞いた話ですが、電車やバスに運転手以外に車掌が乗っており、その車掌が「車内切符販売」を請け負うていた。勤務が終了すると、乗車券販売枚数と金額が見合うかどうか、毎回実に厳格は検査が行われていたという。その反対に、これは誰の書いた小説だったか電車の車掌が当たり前のように「どんぶり」をしている場面が繰り返し書かれていた。「どんぶり」というのは切符を売らずにお金だけもらい、それですっかり「私腹」を肥やすというように使っていました。どんな商売でも「信用」が何より接客業ですから、たとえ一円でも不正は許されないのは言うまでもありません。「キセル」などと相まって、電車やバスにまつわる黒話ですね。

 小学生のころ、よく釣りや水泳に連れて行ってもらった隣のおじさんは、京都堀川の「チンチン電車」の車掌さんでした。その人が乗車していた時にも乗せてもらったが、料金は払った覚えがありません。「不正(無賃)乗車」だったのかもしれませんね。だから、「談話室」の記事に、ぼくは感心している。「さっき運賃を10円余計に頂いたので、その分を引いて払ってください」という、「運転手さんの客への誠実な対応にはほとほと感心した」とあります。行き帰りが同じ運転手だったことも珍しいけれども(山形市内循環バスだったでしょうから、乗務員はたくさんおられるに違いありません)、客に声をかけて「十円多く払った」と行きの時には言えなかったのかもしれません。それにしても、「奇特」というべきは運転手の姿勢でしょうか。なに、そんなことは当たり前だという向きもあるでしょう。しかし、その行為がどれほどまれであるか、他でこんな話を聞くことがめったにないのがその証拠です。

 しばらくはバスで駅まで通っていた時期、小銭の持ち合わせがなく困っていたら、「いいですよ、帰りにでもその分も払ってください」と言われ、ぼくは感心したり感謝したり、同じ会社でも嫌な感じの運転手もいましたから、なおさら気分がよかったのを今なお覚えています。繰り返します。そんなのこんなのは、当たり前で、取り立てて云々することはないさ、たしかにそう思うこともありますが、時代や社会の風潮があまりにも荒んでいるから、この小さな「逸話」が心を軽くしてくれるのです。「帰りに払ったのかって?」「払いましたよ倍返しで、それはなかったが」

 これと対照させている、別件の「金銭にまつわる話」は、触れるのも気が進みません。ぼくは疑り深いので、この「誤入金」されたのも、実は仕組まれていたのか、あるいは決済代行業者も「一味(グル)」じゃなかったか、などとあらぬことを妄想してしまいました。もっとも間違っても振り込んではいけない「あんちゃん」に振り込むのですから、いらぬ妄想を掻き立ててしまったのでした。体が丈夫なら、自分で生活する分は、自分で稼ぐのが一番、それに尽きます。

 なにかと浮き世の憂き話ばかりが登場していますから、この「十円」の「当たり前」が光り輝くのでしょうね。いや、この話を書いた記者が、「知人からかつて、こんな話を聞いたことがある」と書き出している。だからこの話が紙面に載ったのは珍しいことであって、ほかにもいくらも、「紙面に載らない十円」話があるのかもしれない。おそらくそうでしょう。いや世間も悪くなったから、この手の話には「眉につば」ということかもと、思わないでありません。かなり前になりますが「一杯のかけそば」という「美談」というか「人情噺」が話題に上りましたが、その当人がこの手の「美談づくりの常習者」だとわかり、一気に「美談は醜談に」様変わりした。ようするに「美談」に酔った人は「一杯食わされた」のだし、「嘘か真か」と映画化して恥をかいた映画人たちは「文字通り、そばに賭けた」んでしょうな。これがほんとの「賭けそば」ですよね。美談は表面に現れると(世間に知れると)、それは美談ではなくなります。「伊達直人のランドセル」は、ぎりぎりの線を維持していましたね。

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● 「一杯のかけそば」=交通事故で父親を失った母子家庭とそば屋との交流を描いた、栗良平による短編である。見過ごせば、たんなるアナクロな人情物語でしかなかったのが、ワイドショーや各週刊誌などがこぞってとりあげ、近来まれにみる美談として(おもに四〇代以上の層の)共感を獲得した。しかしその後、実話に基づいているというわりには、実際のモデルが存在しないことが問題になり、さらには作者自身の過去のスキャンダルが暴露されるに至り、別の意味でメディア現象化し、やがてブームは去った。(とっさの日本語便利帳)

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 本日で「皐月」は終わります。俗に、江戸っ子を称していったされます。「江戸っ子は五月の鯉の吹き流し=江戸っ子はことばづかいは荒っぽいが、気持ちはさっぱりしていて物事にこだわらない。また、江戸っ子は口先ばかりで、ほんとうの胆力にとぼしい。[使用例] お前がの、売り言葉に買い言葉で、三言四言饒舌れば男てえやつは腹に何もなくても、江戸っ子は皐月吹き流し、口先ばかり(はらわた)はなし、だから癇に障ると出て往けと言おうが[初代三遊亭遊三*落語・厩焼失|1890][解説] 「吹き流し」は、鯉のぼりが風に吹かれて泳いでいるさま。腹が空洞で何もないところからいうもの。(ことわざを知る辞典)

 口先ばかりで腸はなし ー いかにも現代人のようでもあります。さすれば、すべては「江戸っ子」になったということか。いいのか悪いのか、何とも閉まらない話です。というわけで、「皐月」はドン詰まりましたね。だからこその「十円」の正直さがうれしくなるのです。

 明日からは「水無月」です。六月が水無月とは、これいかに? いずれ、どこかで陰暦・陽暦などにかかわらせて、徒然なるままに、よしなしごとを書いてみるかもしれません。諸説紛々で、好き勝手に、より取り見取りの大放出の気味があります。それはそれで結構なことかもわかりません。いかなる「十円話」が登場してくるでしょうか。

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● 6月(ろくがつ)June 英語 Juni ドイツ語 juin フランス語=1年の第6番目の月。陰暦ではこの月を水無月(みなづき)という。初夏から仲夏の季にあたり、中旬には梅雨入り、下旬には一年中でもっとも昼の長い日、夏至がくる。田植時で、の色づく麦秋の季節でもあって、農家ではもっとも多忙な月である。(ことわざ)の「六月に火桶(ひおけ)を売る」は、することが季節外れのたとえで、「六月無礼」は、陰暦6月は暑さが厳しいので、服装が少々乱れる無礼も許されることをいう。(ニッポニカ)

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 「ああ、芽が出ん」は、もうすべてあかんと

 取り立てて「植物」が好きというわけではありません。しかし、これまでの生活の場面には、なにかと花や木々がぼくの荒(すさ)もうとする心持を慰めてくれたことは事実です。大きな問題ではなく、自分が育った環境が、ものの見方やスキ・キライ、さらに言えば、性格などの隅々までをなにくれとなく決める要素となってきたのは事実ではないかと思っています。あえて言えば、ぼくは都会派ではなく、「田園派」などという洒落たものではなく、生来の「ド田舎人間」だといえるでしょう。都会と田舎、あるいは地方と都会などというのもおこがましいのですが、都会は田舎人の集まりだと考えるなら、都会の根源(供給地)は田舎(地方)に存しているともいえるのです。変なものというか、同じ地方都市に住んでいても、「都心」だとか、「僻地」などと対比してしまうのも、何とも滑稽だというほかありません。こんなのは「笑っていいと!」というのですな。(上の写真は「うつぎ」)

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●「らしょう‐もん ラシャウ‥【羅生門・羅城門】[1][一] (羅城に設けられた門、京城門の意。ただし、平城京では羅城の有無は確かでなく、平安京では南京極だけに設けられた。後世「らじょうもん」とも) 平城京・平安京などの都城の正門。朱雀大路の南端にあって、はるかに朱雀門に対する。平安京のものは南北二丈六尺(約七・八メートル)、東西一〇丈六尺(約三一・七メートル)、戸七間で、重閣、瓦葺に鴟尾(しび)を上げていた。はやく荒廃し、鬼がすむといわれ、また、死体がその上層に捨てられたという。その跡は京都市南区唐橋羅城門町にある。らせいもん。らいせいもん。(以下略)(精選版日本語大辞典)

● みや‐こ【都】=《「みや」の意》 皇居のある土地。「都を定める」「京の都」 その国の中央政府の所在地。首都。首府。また一般に、人口が多く、政治・経済・文化などの中心となる繁華な土地。都会。「住めば都」 何かを特徴としたり、何かが盛んに行われることで人が集まったりする都会。「音楽の都ウィーン」「水の都ベニス」 天皇が仮の住居とする行宮あんぐう。「秋の野のみ草刈りき宿れりし宇治の―の仮廬かりいほし思ほゆ」〈・七〉(デジタル大辞泉)

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 こんなことは取り立てて言うまでもないのですが、都会とか都市などという場合の「都」は「みやこ」とも読ませています。その意味するところは、京・都=みやこであり、元来は、「天皇の住んでいるところ(宮処・みやこ)」でした。おおよそは上の辞書の「説明」にあるような使われ方をしてきたのです。特に[]を指して言われてきたことは確か。その他は、それに準じる用法でもあるのです。近年、あらゆる地域で「都心」「新都心」「副都心」などと称されているのは、あながち不動産屋の宣伝材料になるだけではなく、「都」が、どんなところであれ、その「都」というところに住みたいという「ミーちゃん・ハーちゃん」の「付和雷同の情」でもあるからでしょうか。「住めば都」というではないか。かくも申すぼくも、選択をしたわけではなく、意識の有無にかかわりなかったとしても、相当程度に、ぼく自身も「付和雷同」の例外ではなかったわけですな。京都に十八年、東京に十年、その近郊に五十年近くもへばりついていたのですから。この山の中には、まだ十年足らずですよ。都会派のミーちゃんだったというべきですな。

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 ぼくは高校を卒業するまで「京都(みやこ)」に住んでいました。その実際は「右京区」に住居がありましたから、中心部(みやこ)からすれば、偏狭・辺境の地(辺縁=マージナル)で、兼好さんや長明さんなどの書いたものにも、人も住まないような「外れ」「異界」だといわれていました。化野(あだしの)などといわれ、行き倒れの人間を葬るところでもあった。もちろん、「都」の中心部は御所で、そこからの距離の遠近によって、都会度は下がったり、逆に田舎度は上がったりしていた。「羅生門」は、異境・異界との接点の印でもありました。遥かの昔、そんな時代が本当にあったのかと、いかにも霞むばかりの夢の世界でもあります。車で移動できない時代、人間の足で歩く範囲は知れていましたから、兼好や長明の書き物は、この「霞む夢」の世界に生き死にする人間と世情を余すところなく描いてもいるのでしょう。とにかく、人は、中心部に向かって集住したい種族であることは確からしい。

 やたらに「前置き」が長くなりましたので、本日は、ここで終わりにさせていただきます、といいたいところですが、それでは駄文の趣旨に反しますので、少しばかりの懐旧談でお茶を濁しておきます。この話は、右京区嵯峨広沢南ノ町に住んでいた時代の、一コマで、「植藤」という仁和寺の植木屋さんの語りを、大いに時期が過ぎましたが、桜の木になぞらえて、人間の教育問題のいくばくかの参考にしてみたいと考えた次第です。この物語の発端も、すでに七十年の昔になりました。なお、この佐野藤右衛門さんに関しても、すでに何度か「駄文」で扱っており、似たような話題ですが、駄文の名に恥じない展開をお許しください。

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 「わしがいろんなことに気づくようになったのは、やはり桜をやりかけてからですね。桜の生長の度合いを見ているときに、いくら人間がやいやいというてもどうにもならんとこがあるんですわ。花を咲かすには遅れていても芽さえできていれば、時期がくれば咲きますし、逆に咲くのを遅らす場合はフレームを入れるとか、日に当てないで長いこと寝さしておくとか、そういうことはできますけれど、人間の力で花の咲く芽をつくることは絶対できませんわね

 人間はできたものを咲かすということはある程度できますわ。でも芽がなかったら、どうしようもないんです。そやから、「ああ、芽が出ん」というのは、もうすべてあかんということですわな」(佐野籐右衛門『桜のいのち 庭のこころ』草思社刊)

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 「芽が出ない」というのは「もうあかん」ということ。そういわれれば、それまで。しかし、よほど無茶なことをしないかぎり、どんな木でも「芽を出す」ものです。これまでの植木や花いじりで失敗した理由の第一は「水のやりすぎ」でした。それでは、にんげんのばあい、この「芽」は何に当たるのでしょうか。イボやニキビでないことは確か。

 今年咲いた桜の花芽は、前年のお盆ころにでる。花を咲かせるというのはその木の一年間の仕事納めです。咲き終わると、あっという間に散る。それは、さあこれから来年に向けて精をつけるぞという合図のようなものでしょう。一年かけて花を咲かせるように時間をたどる。自然のリズムをいじることはできます。開花の時期を人工的に早めたり、遅くしたりすることはできる。でも、それがどんなに「美しい花」をつけたとしても、時間を節約すると、それはまちがいなく樹木の生長する時間を奪うことになるし、そのことの弊害ははっきりしています。

 「このあいだも、仙台から、桜が弱ったから来てくれという手紙がきたので見にいったら、広瀬川の土手の上の官地と民地の境にずーっと桜が植わっているんですわ。問題の桜はたまたま民地のほうにあって、そこへ家を建ててから急激に弱ったという。一抱えもある桜です」(このくだりは、どこかですでに触れています)

 いろいろ話を聞いていると、家を建てるときに、桜の根をあやまって切ってしまったらしい。だんだん元気を失って、すぐに葉を落としていったそうです。それで、これはいかんと勝手に思いこんで、根本に水をたっぷりやったというのです。

 「こんな木になんで水をやるんやて、わしは言ったんですわ。根腐れしているのと同じことなんです。この桜の根の先はずっと向こうにあって、そこから栄養分を吸うておるのやから、こんな幹の根本に水をやったって、かえって腐らすといったんです」

 佐野さんの弁はさらにつづきます。

 なんでも人為的に、つまりは人間の都合のいいように判断する。「自分の見たところで木までそうやと思っている。人間の生活と同じリズム、状態のことを相手にさせようとする。日本のあちこちの桜を見に行くと、ぜんぶそれですわ。それが日本の桜をだめにしているんです」人間の勝手が、どんなに自然を壊しているか、その自然から人間もはずれることはできないのに、です。自然を壊す、それを教育やなんやと、アホなこというてますな。

 根本・根元に水をやりつづけるとどういうことになるか。

 その木は根を伸ばそうとはしなくなります。なぜなら、自分で根を伸ばさなくても栄養分がよそからやってくる(与えられる)からです。根を伸ばす、根を張るというのは栄養分を吸収するための活動であり、大きく根を張ることで木の成長を支えるわけです。根を張ることで、大地にしっかりと立つ、つまり木がじょうぶになる。根を伸ばさないで栄養分がとれるから、どんどん木は高くなる。つまり、頭でっかちになる。そして、ちょっと風が吹いたり、地震が来ると見事に倒れるんです。年中、そんな光景をみるでしょう。

 この先はいわなくてもいい話ですが、せっかくだから…。

 「日本人の子供の教育のしかたと一緒でっしゃろ。こんなですから、ちょっと大きな風が吹いたら、ゴローンとひっくり返る。これは根張りがないからです。伸ばす必要がないのやから。伸ばさなくても餌をもらえるんやから。人間はいらんことばっかりしてるんですわ。そやから、わしは相手のこと、植物のことを考えて人間がやれていうんですわ」

 植物に対しても動物に対しても人間は自分の好き放題をして、相手の気持ちを忖度(そんたく)しない。得手勝手というのはまさに人間のことをいうのでしょう。勝手にいじり回して、その挙げ句に放り出す。放り出された方は、独り立ちして生きていけなくされてしまっているのだから、始末に悪い。人にも動物にも植物にも、まったくおなじことを人間はしているのです。飽きたら捨てる、いらなくなったら捨てる。かまいすぎて、いじりすぎて、この先は自分でやれといわれても、どうしようもないのです。「環境にやさしい」「地球にやさしい」というのは、最暗黒の「ジョーク」だね。

 転ばぬ先の杖、これが余計なことなのですが、親切と勘違いしている人間が多すぎます。自分の都合で杖を与えるのですが、与えられた方は杖なしでは生きていけなくなる。

 小さな木は小さいなりに、大きな木は大きいなりに根を張る、そしてその根でしっかりと土をつかみ、その根の先から必要な栄養を吸収する。そのように人間も育ちたいのですよ。根を張る、根張る、根張り(ねばり)ですね。屋久島の縄文杉は樹齢五千年とか六千年とか。厳しい環境で栄養価が、杉の木にとっては豊饒ではないからこそ、長い時間をかけて根を張り、生育するんです。人間は「生育時間」が短すぎますから、頭でっかちになり、風に、それこそ「根こそぎ」やられんでしょう。前日の「ファスト映画」というものが、人間の成長にとって、いかなる状況を指しているかが、少しはわかろうというものです。(体調はあきません。まだ、すっきりしませんね。「ああ、芽が出ん!」「まったく、あかんわ」)

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