昨日は午後から、卒業生四人が遠路を厭わないで訪ねてくれた。ほぼ同時期の卒業生が三人(女性)と、その後輩の男性一人。七、八年ほど前の卒業だという。車でもない限り、こんな辺鄙(不便)な所にはとても来にくいから、それだけでもありがたいこと。ぼくは、すべてにおいて「来るもの拒まず、去るもの追わず(Those who come are welcome、those who leave are not regretted.)」という姿勢を貫きたいと思ってきました。もちろん、いかなる場合でもそういう具合にやってこれたかどうか、いささか怪しいが、気持ちの上ではそうありたいと願ってきたことは事実。このところのコロナ禍で、来訪者の足音が聞こえないことが続きました。もちろん、それにもかかわらず、この間も何度も来てくれた友人たちもいます。ばくは出歩かなくなったし、酒呑みの習慣を脱したので、なおさら、自宅にこもることが多くなる。だからこそ、こんなところにまで来てくださることに感謝したくなる。

若い四人を見ながら、つくづく、「仕事」は大変だろうなという気持ちが働く。もちろん、ぼく自身の勤め人時代を懐かしみもしなければ、忘れがたいという感情が働くのでもない。この四人の若者との年齢差は五十年まではいかないが、それに近い。いわば孫の世代でしょう。だから、「仕事は大変だろうな」という思いが一層強くなるのかもしれない。加えて、これも明確に証拠は出せないが、ぼくがこの人たちと同じような年齢時代と、今日の社会の雰囲気あるいは労働環境は、よくなっているのではなく、その反対だという気もするのです。若い人は、その時代しか生きていないのだから、あるいは他の時代や社会と比較できないから、与えられた時代社会を生きることが、当たり前で、それがいいか悪いかということはできないでしょう。
個々の人間にとて、「生きづらい」という実感や経験があるのは、いつの時代でもどの社会にあっても変わらない。(何かをいいたのですが、言っても始まらないという思いが募ります)大した用意もできなかったが、ありあわせの食事を共に取りながら、雑談をしていました。何年経っても、教室の関係(善し悪しは抜きにして)が出るんですね。その典型は「親子」でしょうが、いくつになっても「子ども」という感覚が親にはある。それと同じような感情が教師と学生(生徒)との間に成り立つとするなら、現役時代に、それこそ「気を抜かない、真摯な、誠意のある付き合い」をしておく必要がある・あったと、痛感したのです。

気分転換にと、家の周りを歩いた。その時、名前の知らない草花があった。それを見て、Sさんがスマホをかざして「これは~です」と、たちまちに答えが出たのです。「便利」と言うだけのことではなく、植物図鑑がカメラになって草花の「知識」をその場で映し出してくれる。こんなことに驚いてはいけないのかもしれない。しかし、便利になり、便利が嵩じてくると、人間はきっと不安になる。変な理屈ですが、人間は汗をかいて自分でやってみる、その体験が機械や道具によって奪われると、本来の働きで得られていた「満足感」「充足感」(「気持ちのいい汗」)が与えられなので、自分では気がついているかどうかわらないままで、「便利すぎる」ことへの不満や不安が兆してくるのではないでしょうか。つまらないことを言っています。スマホはすごい、それでいいんでしょうな。ぼくは所持する気はサラサラ有りませんが。あっという間に時間が過ぎて、七時少し前に帰られた。
*******
近所の家の庭にある「卯木・ウツギ(卯の花)」とそっくりと思われそうな木があり、その花が咲き出している。「エゴ」です。普段の散歩道にも何本もある。大きなものでは十メートルを越える。この木には、ぼくは昔から親しかった。木材として「独楽(こま)」や将棋の「駒」などに使われてきたからです。独楽などは、自分で作った経験もあります。材料を求めて村の里山に入っていった。薪を取りに行きながら、その他の「手作り玩具」の材料をも物色くしていたのです。七十年以上も昔のこと。

● エゴノキ(えごのき)[学] Styrax japonicus Sieb. et Zucc.= エゴノキ科(APG分類:エゴノキ科)の落葉小高木。樹皮は暗灰色で滑らか。葉は互生し、卵が卵形、長さ4~6センチメートルで、縁(へり)に低い鋸歯(きょし)がある。5~6月に白花が下向きに開く。花冠は径約2.5センチメートルで深く5裂し、雄しべは10本。果実は卵状楕円(だえん)形、長さ約1センチメートルで堅く、灰白色の星状毛を密布する。9月に熟し、不規則に破れて褐色の種子が1個出る。北海道南西部から沖縄に生育し、朝鮮、中国、フィリピンの山野に分布する。変種のオオバエゴノキは葉が大きく、伊豆以南に分布する。果皮はエゴサポニンを含み、洗濯用にするが、有毒である。種子は脂肪油が多くヤマガラが好んで食べる。材は玩具(がんぐ)、将棋の駒(こま)、櫛(くし)にする。枝先にエゴノネコアシとよぶ灰白色の虫こぶがつく。『万葉集』には山萵苣(やまちさ・やまぢさ)の名で出てくる。エゴノキ属は約130種が北アメリカ、アジア、ヨーロッパに分布する。(ニッポニカ)
IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

【水や空】「道楽息子」が短くなった-というのはどうかな、と見当を付けながら語源を調べてみたら、ルーツは別の言葉のようだ。元々は〈自分自身の働きがなく、遊んで暮らしている状態〉を指す「のら」という言葉で、それが強調されて無理やり濁点が付いたらしい▲「異次元のどら息子」と辛辣(しんらつ)な異名が登場している。岸田文雄首相の長男で秘書官を務める翔太郎氏が昨年末、首相公邸内で親族との食事会を開き、記念撮影などに興じていた-との週刊誌報道が波紋を広げている▲参加者の1人が赤じゅうたんの階段に寝そべったり、皆で閣僚の記念撮影をまねたり…となかなか羽目が外れている。「不適切だった、厳重に注意した」と首相も渋い顔だ▲その首相は先のG7サミットについて、各国首脳らの原爆資料館訪問などを実現させるなど「歴史的意義があった」と上機嫌に総括しているようだ。だが、核抑止の論理が広島の地で肯定されてしまったことへの落胆や疑問は消えていない▲個人的には、首相が「私の地元・広島」と繰り返し語るのも気になった。まるっきりのウソだとは言わないが、生まれも育ちも確か東京だったと記憶している▲公邸も被爆地も親族やあなたの私的空間ではないのだ-とひと続きに批判するのはさすがに飛躍が過ぎるだろうか。(智)(長崎新聞・2023/05/27)

この件について言及するつもりはなかった。言及するだけの話題か、という気もしている。「水や空」氏が書かれているとおりで、加えることはぼくにはなさそうです。この親子、あるいは夫婦を遠くから見ていると、手に負えない「甘ちゃん」と言いたくなります。亭主が「総理」になったから、かみさんもファーストレディだという。その意味はなんですか。これについても言及する気も湧いてきません。旦那が総理になったから、かみさんがどうして、夫の後ろや横を「のこのこ」あるいは「喜んで」歩いていくのでしょうか。「ファースト」ってのもいい加減なもので、一番というのでしょうが、何が一番なのか。妻や子どもは「付属物」ではない。まさか「家父長時代」の続きを生きているような錯覚があるのか。困ったものだとし、その程度の人間で「世界」だの「国家」だの「少子化」だの「改憲」だの、一人前の口を利くものではないでしょう。
長男が何かをしでかしたと言う。親子・夫婦は、しかし個々人は別物でしょ。どうして「総理」の付録のように扱われ、当人もそのように振る舞うのか。もっともっと、自分というものを突き出さなければ。総理のかみさんが「外交」に乗り出したという。国費を使って、どんな内容の外交だったか。アメリカの大統領夫人と交流を深めたという。何だ、そんなことかと言うばかり。それが「外交」か。首相も「ジョー」とかなんとか呼んで、米大統領と個人的親交を深めたという。それが 国益に資すると言うなら、「外交ってそんな程度」なんだというほかありません。「核兵器のない世界」という気球を上げて、「核抑止力は極めて重要だ」と宣言する能転気。それで支持率が十%も上がる、この国はなんですか?
長男を秘書官に採用した際、理由はと訊かれて「適材適所」といいきった、このバカ親です。今回の不始末も「厳重に注意した」と、済ませるつもり。「政治の私物化」というのかどうか。その程度の政治が、この島国の政治であるということ。ぼくは石橋湛山という人を尊敬しています。話せば切りがありません。彼は自分の子どもを政治家(後継)にはしなかった。これだけで、尊敬に値しますね。同時期の政治家に松村謙三さんがいました。彼も同じではなかったか。政治を「家業」にしなかったということです。

つまらない話ですが、思い出したので。長年勤めた職場にたくさんの「跡継ぎ教授」がいました。とても奇異な印象を持った。親は文学で息子は数学者という具合に、専門は親子では違っている場合がほとんどでした。「教師稼業」を「教師家業」にしたくなる、させたくなる理由はなんだったかと、不思議に思ったものでした。さすがのぼくも遠慮したのか。訊かなくてもわかっていたからか、このことを直接に当事者に聞くことはなかった。専門や研究領域、あるいは所属学部は異なっていても、息子(娘はいなかったと思う)を、この仕事の「跡継ぎにさせたい」「家業にしたい」というのは、それだけ「旨味」「利益」があるからでしょう。理由はそれだけ、です。数えたこともありませんでしたけれども、一桁ではなかった。「旨味」というのはなんでしょうか。もちろん、「楽に稼げる」というのではないでしょうし、職業として「世間体がいい」ということでもないでしょう。要するに「遺伝子」の為せる技・業だったか。
現総理の「稼業」「家業」にも同じような疑問が残る。「後継ぎにしたい」、こんないい商売はないじゃないか。すべてが税金で賄えるんだからということだったか。息子や妻の振る舞いを見ていても、この K 総理 がどの程度の人品かが、ぼくには分かるというもの。あえて、血縁関係を自らの仕事に関わらせないという「潔さ」があるというのは、どういうことか、彼にはまったく理解もできないだろう。彼には「公」の感覚が皆無だということの何よりの証拠です。残念というほかない。こんな連中が国会の議席の過半を占拠しているんでですね。国会には「稼業議員」は掃いて捨てるほどいます。それを見て、ぼくは反吐が出る。今回も含めて、親子・夫婦の関係を政治の中に持ち込むのを称して「公私混同」という批判がある。そうでしょうか。ぼくに言わせれば、彼らには「私」はあっても、「公」はないんですよ、眼中にない。一体、「公」のために何をしたんですか。よく「党利党略」という表現が話題になりますが、彼らの場合は「私利私略」と言うべきです、かみさん(ファーストレディ)を含めて、ね。あたかも、腐敗が進んでいるかもしれない「KBK界」のようではありませんか。成田屋あ~、澤瀉屋あ~ と、大向うから威勢のいい掛け声がかかる、でも、どこか寂しそうです。
その内、永田町でも「屋号」が飛び交うことなるでしょう。「いよ~、KSD屋~っ」「アッソー屋」とか。

● 石橋湛山( いしばし-たんざん)1884-1973 = 大正-昭和時代のジャーナリスト,政治家。
明治17年9月25日生まれ。身延山久遠寺法主杉田堪誓の子。母方の姓をつぐ。明治44年東洋経済新報社に入社。自由主義にたつ論客として活躍し,昭和16年社長。21年第1次吉田内閣の蔵相。翌年衆議院議員(当選6回)。29年日本民主党結成にくわわり,保守合同後の31年自民党総裁,首相となるが,病気のため2ヵ月で辞任した。中ソとの親善に尽力。昭和48年4月25日死去。88歳。東京出身。早大卒。著作に「湛山回想」など。【格言など】事実に合わない理論なら,その方がまちがいなのだから訂正すべきものだ(「自由主義の効果」)(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

● 松村謙三(まつむらけんぞう)(1883―1971)= 政治家。富山県福光(ふくみつ)町(現、南砺(なんと)市)出身。早稲田(わせだ)大学を卒業、『報知新聞』記者、富山県県会議員を経て、1928年(昭和3)の第1回普通選挙で衆議院議員に当選、以後1946~1951年(昭和21~26)の公職追放期間を除いて、1969年に第一線を引退するまで連続当選。戦後、東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)内閣の厚相兼文相、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣の農相に就任、第一次農地改革を推進した。追放解除後は吉田茂の官僚政治に対抗、1955年の保守合同には「野合」として反対、1959年自民党総裁選では岸信介(のぶすけ)と対決するなど、清廉な、ほねのある保守政治家であった。改進党幹事長、鳩山一郎(はとやまいちろう)内閣文相を歴任。1959年の訪中以来、一貫して日中友好に努力、両国のパイプ役として貴重な存在であった。(ニッポニカ)
(余談です。大学に入学して間もなしに、ぼくは松村さんの講演を聞くことができた。もう六十年前にもなりますが、その印象は強烈でした。彼はすでに議員を辞めていたと思うが、日本の行く末に対して断固とした信念を持っていたと思う。当たり前のこと、アジアで生きるという展望を見出し、だから、中國と国交を開く、そういうものでした。「公私混同」などどこを叩いてもなかったような政治家だったと、今でも考えている。アメリカとの関係についても明確な姿勢を保っていたが、それがアメリカの政治家たちには痛く嫌われていた。中国に寄せる思いは、その声音まで真似ることができそうなくらいに、ぼくの耳朶にはっきりとこだましている。石橋さんにもはっきりと通じる、政治家の矜持というものが有りましたね)
____________________________