「公」がなくて「私」ばかりって悲しいね

 昨日は午後から、卒業生四人が遠路を厭わないで訪ねてくれた。ほぼ同時期の卒業生が三人(女性)と、その後輩の男性一人。七、八年ほど前の卒業だという。車でもない限り、こんな辺鄙(不便)な所にはとても来にくいから、それだけでもありがたいこと。ぼくは、すべてにおいて「来るもの拒まず、去るもの追わず(Those who come are welcome、those who leave are not regretted.)」という姿勢を貫きたいと思ってきました。もちろん、いかなる場合でもそういう具合にやってこれたかどうか、いささか怪しいが、気持ちの上ではそうありたいと願ってきたことは事実。このところのコロナ禍で、来訪者の足音が聞こえないことが続きました。もちろん、それにもかかわらず、この間も何度も来てくれた友人たちもいます。ばくは出歩かなくなったし、酒呑みの習慣を脱したので、なおさら、自宅にこもることが多くなる。だからこそ、こんなところにまで来てくださることに感謝したくなる。

 若い四人を見ながら、つくづく、「仕事」は大変だろうなという気持ちが働く。もちろん、ぼく自身の勤め人時代を懐かしみもしなければ、忘れがたいという感情が働くのでもない。この四人の若者との年齢差は五十年まではいかないが、それに近い。いわば孫の世代でしょう。だから、「仕事は大変だろうな」という思いが一層強くなるのかもしれない。加えて、これも明確に証拠は出せないが、ぼくがこの人たちと同じような年齢時代と、今日の社会の雰囲気あるいは労働環境は、よくなっているのではなく、その反対だという気もするのです。若い人は、その時代しか生きていないのだから、あるいは他の時代や社会と比較できないから、与えられた時代社会を生きることが、当たり前で、それがいいか悪いかということはできないでしょう。

 個々の人間にとて、「生きづらい」という実感や経験があるのは、いつの時代でもどの社会にあっても変わらない。(何かをいいたのですが、言っても始まらないという思いが募ります)大した用意もできなかったが、ありあわせの食事を共に取りながら、雑談をしていました。何年経っても、教室の関係(善し悪しは抜きにして)が出るんですね。その典型は「親子」でしょうが、いくつになっても「子ども」という感覚が親にはある。それと同じような感情が教師と学生(生徒)との間に成り立つとするなら、現役時代に、それこそ「気を抜かない、真摯な、誠意のある付き合い」をしておく必要がある・あったと、痛感したのです。

 気分転換にと、家の周りを歩いた。その時、名前の知らない草花があった。それを見て、Sさんがスマホをかざして「これは~です」と、たちまちに答えが出たのです。「便利」と言うだけのことではなく、植物図鑑がカメラになって草花の「知識」をその場で映し出してくれる。こんなことに驚いてはいけないのかもしれない。しかし、便利になり、便利が嵩じてくると、人間はきっと不安になる。変な理屈ですが、人間は汗をかいて自分でやってみる、その体験が機械や道具によって奪われると、本来の働きで得られていた「満足感」「充足感」(「気持ちのいい汗」)が与えられなので、自分では気がついているかどうかわらないままで、「便利すぎる」ことへの不満や不安が兆してくるのではないでしょうか。つまらないことを言っています。スマホはすごい、それでいいんでしょうな。ぼくは所持する気はサラサラ有りませんが。あっという間に時間が過ぎて、七時少し前に帰られた。

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 近所の家の庭にある「卯木・ウツギ(卯の花)」とそっくりと思われそうな木があり、その花が咲き出している。「エゴ」です。普段の散歩道にも何本もある。大きなものでは十メートルを越える。この木には、ぼくは昔から親しかった。木材として「独楽(こま)」や将棋の「駒」などに使われてきたからです。独楽などは、自分で作った経験もあります。材料を求めて村の里山に入っていった。薪を取りに行きながら、その他の「手作り玩具」の材料をも物色くしていたのです。七十年以上も昔のこと。

● エゴノキ(えごのき)[学] Styrax japonicus Sieb. et Zucc.= エゴノキ科(APG分類:エゴノキ科)の落葉小高木。樹皮は暗灰色で滑らか。葉は互生し、卵が卵形、長さ4~6センチメートルで、縁(へり)に低い鋸歯(きょし)がある。5~6月に白花が下向きに開く。花冠は径約2.5センチメートルで深く5裂し、雄しべは10本。果実は卵状楕円(だえん)形、長さ約1センチメートルで堅く、灰白色の星状毛を密布する。9月に熟し、不規則に破れて褐色の種子が1個出る。北海道南西部から沖縄に生育し、朝鮮、中国、フィリピンの山野に分布する。変種のオオバエゴノキは葉が大きく、伊豆以南に分布する。果皮はエゴサポニンを含み、洗濯用にするが、有毒である。種子は脂肪油が多くヤマガラが好んで食べる。材は玩具(がんぐ)、将棋の駒(こま)、櫛(くし)にする。枝先にエゴノネコアシとよぶ灰白色の虫こぶがつく。『万葉集』には山萵苣(やまちさ・やまぢさ)の名で出てくる。エゴノキ属は約130種が北アメリカ、アジア、ヨーロッパに分布する。(ニッポニカ)

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【水や空】「道楽息子」が短くなった-というのはどうかな、と見当を付けながら語源を調べてみたら、ルーツは別の言葉のようだ。元々は〈自分自身の働きがなく、遊んで暮らしている状態〉を指す「のら」という言葉で、それが強調されて無理やり濁点が付いたらしい▲「異次元のどら息子」と辛辣(しんらつ)な異名が登場している。岸田文雄首相の長男で秘書官を務める翔太郎氏が昨年末、首相公邸内で親族との食事会を開き、記念撮影などに興じていた-との週刊誌報道が波紋を広げている▲参加者の1人が赤じゅうたんの階段に寝そべったり、皆で閣僚の記念撮影をまねたり…となかなか羽目が外れている。「不適切だった、厳重に注意した」と首相も渋い顔だ▲その首相は先のG7サミットについて、各国首脳らの原爆資料館訪問などを実現させるなど「歴史的意義があった」と上機嫌に総括しているようだ。だが、核抑止の論理が広島の地で肯定されてしまったことへの落胆や疑問は消えていない▲個人的には、首相が「私の地元・広島」と繰り返し語るのも気になった。まるっきりのウソだとは言わないが、生まれも育ちも確か東京だったと記憶している▲公邸も被爆地も親族やあなたの私的空間ではないのだ-とひと続きに批判するのはさすがに飛躍が過ぎるだろうか。(智)(長崎新聞・2023/05/27) 

 この件について言及するつもりはなかった。言及するだけの話題か、という気もしている。「水や空」氏が書かれているとおりで、加えることはぼくにはなさそうです。この親子、あるいは夫婦を遠くから見ていると、手に負えない「甘ちゃん」と言いたくなります。亭主が「総理」になったから、かみさんもファーストレディだという。その意味はなんですか。これについても言及する気も湧いてきません。旦那が総理になったから、かみさんがどうして、夫の後ろや横を「のこのこ」あるいは「喜んで」歩いていくのでしょうか。「ファースト」ってのもいい加減なもので、一番というのでしょうが、何が一番なのか。妻や子どもは「付属物」ではない。まさか「家父長時代」の続きを生きているような錯覚があるのか。困ったものだとし、その程度の人間で「世界」だの「国家」だの「少子化」だの「改憲」だの、一人前の口を利くものではないでしょう。

 長男が何かをしでかしたと言う。親子・夫婦は、しかし個々人は別物でしょ。どうして「総理」の付録のように扱われ、当人もそのように振る舞うのか。もっともっと、自分というものを突き出さなければ。総理のかみさんが「外交」に乗り出したという。国費を使って、どんな内容の外交だったか。アメリカの大統領夫人と交流を深めたという。何だ、そんなことかと言うばかり。それが「外交」か。首相も「ジョー」とかなんとか呼んで、米大統領と個人的親交を深めたという。それが 国益に資すると言うなら、「外交ってそんな程度」なんだというほかありません。「核兵器のない世界」という気球を上げて、「核抑止力は極めて重要だ」と宣言する能転気。それで支持率が十%も上がる、この国はなんですか?

 長男を秘書官に採用した際、理由はと訊かれて「適材適所」といいきった、このバカ親です。今回の不始末も「厳重に注意した」と、済ませるつもり。「政治の私物化」というのかどうか。その程度の政治が、この島国の政治であるということ。ぼくは石橋湛山という人を尊敬しています。話せば切りがありません。彼は自分の子どもを政治家(後継)にはしなかった。これだけで、尊敬に値しますね。同時期の政治家に松村謙三さんがいました。彼も同じではなかったか。政治を「家業」にしなかったということです。

 つまらない話ですが、思い出したので。長年勤めた職場にたくさんの「跡継ぎ教授」がいました。とても奇異な印象を持った。親は文学で息子は数学者という具合に、専門は親子では違っている場合がほとんどでした。「教師稼業」を「教師家業」にしたくなる、させたくなる理由はなんだったかと、不思議に思ったものでした。さすがのぼくも遠慮したのか。訊かなくてもわかっていたからか、このことを直接に当事者に聞くことはなかった。専門や研究領域、あるいは所属学部は異なっていても、息子(娘はいなかったと思う)を、この仕事の「跡継ぎにさせたい」「家業にしたい」というのは、それだけ「旨味」「利益」があるからでしょう。理由はそれだけ、です。数えたこともありませんでしたけれども、一桁ではなかった。「旨味」というのはなんでしょうか。もちろん、「楽に稼げる」というのではないでしょうし、職業として「世間体がいい」ということでもないでしょう。要するに「遺伝子」の為せる技・業だったか。

 現総理の「稼業」「家業」にも同じような疑問が残る。「後継ぎにしたい」、こんないい商売はないじゃないか。すべてが税金で賄えるんだからということだったか。息子や妻の振る舞いを見ていても、この K 総理 がどの程度の人品かが、ぼくには分かるというもの。あえて、血縁関係を自らの仕事に関わらせないという「潔さ」があるというのは、どういうことか、彼にはまったく理解もできないだろう。彼には「公」の感覚が皆無だということの何よりの証拠です。残念というほかない。こんな連中が国会の議席の過半を占拠しているんでですね。国会には「稼業議員」は掃いて捨てるほどいます。それを見て、ぼくは反吐が出る。今回も含めて、親子・夫婦の関係を政治の中に持ち込むのを称して「公私混同」という批判がある。そうでしょうか。ぼくに言わせれば、彼らには「私」はあっても、「公」はないんですよ、眼中にない。一体、「公」のために何をしたんですか。よく「党利党略」という表現が話題になりますが、彼らの場合は「私利私略」と言うべきです、かみさん(ファーストレディ)を含めて、ね。あたかも、腐敗が進んでいるかもしれない「KBK界」のようではありませんか。成田屋あ~、澤瀉屋あ~ と、大向うから威勢のいい掛け声がかかる、でも、どこか寂しそうです。

 その内、永田町でも「屋号」が飛び交うことなるでしょう。「いよ~、KSD屋~っ」「アッソー屋」とか。

● 石橋湛山( いしばし-たんざん)1884-1973 = 大正-昭和時代のジャーナリスト,政治家。
明治17年9月25日生まれ。身延山久遠寺法主杉田堪誓の子。母方の姓をつぐ。明治44年東洋経済新報社に入社。自由主義にたつ論客として活躍し,昭和16年社長。21年第1次吉田内閣の蔵相。翌年衆議院議員(当選6回)。29年日本民主党結成にくわわり,保守合同後の31年自民党総裁,首相となるが,病気のため2ヵ月で辞任した。中ソとの親善に尽力。昭和48年4月25日死去。88歳。東京出身。早大卒。著作に「湛山回想」など。【格言など】事実に合わない理論なら,その方がまちがいなのだから訂正すべきものだ(「自由主義の効果」)(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

● 松村謙三(まつむらけんぞう)(1883―1971)= 政治家。富山県福光(ふくみつ)町(現、南砺(なんと)市)出身。早稲田(わせだ)大学を卒業、『報知新聞』記者、富山県県会議員を経て、1928年(昭和3)の第1回普通選挙で衆議院議員に当選、以後1946~1951年(昭和21~26)の公職追放期間を除いて、1969年に第一線を引退するまで連続当選。戦後、東久邇稔彦(ひがしくになるひこ)内閣の厚相兼文相、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣の農相に就任、第一次農地改革を推進した。追放解除後は吉田茂の官僚政治に対抗、1955年の保守合同には「野合」として反対、1959年自民党総裁選では岸信介(のぶすけ)と対決するなど、清廉な、ほねのある保守政治家であった。改進党幹事長、鳩山一郎(はとやまいちろう)内閣文相を歴任。1959年の訪中以来、一貫して日中友好に努力、両国のパイプ役として貴重な存在であった。(ニッポニカ)

 (余談です。大学に入学して間もなしに、ぼくは松村さんの講演を聞くことができた。もう六十年前にもなりますが、その印象は強烈でした。彼はすでに議員を辞めていたと思うが、日本の行く末に対して断固とした信念を持っていたと思う。当たり前のこと、アジアで生きるという展望を見出し、だから、中國と国交を開く、そういうものでした。「公私混同」などどこを叩いてもなかったような政治家だったと、今でも考えている。アメリカとの関係についても明確な姿勢を保っていたが、それがアメリカの政治家たちには痛く嫌われていた。中国に寄せる思いは、その声音まで真似ることができそうなくらいに、ぼくの耳朶にはっきりとこだましている。石橋さんにもはっきりと通じる、政治家の矜持というものが有りましたね)

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 艶とは云へ、一種、妖冶な感じがある

 「ラジオ深夜便」、朝五時前に今日の誕生日の花は「ポピーです」に、一瞬にしてさまざまなことが思い出されました。フランスでポピーは「コクリコ」と称し、「君も雛罌粟(コクリコ) われも雛罌粟(コクリコ)」と詠じた与謝野晶子の短歌が紹介されていました。担当は渡辺あゆみさん。フランスでは「コクリコ」、我が邦では「ヒナゲシ」だと。さらに、漱石の小説(朝日入社第一作・1907)「虞美人草」もまた、中国での「ヒナゲシ」の呼び名だとも。「史記(項羽本紀)」に登場する英雄、項羽の「愛姫」とされた女性の「生き姿」がこの端に仮託された。名は「虞姫(ぐき)」と言ったらしい。項羽と最後をともにせんとしたが、その前に首を切って死んた。流れ出た鮮血が、この花の紅色になったと言う。(史実とは違うようですが)。美人薄命の典型であるというのかも知れません。(左画は「虞姫」・Wikipedia)

 ポピーが「虞美人草」であると聞くと同時に、ぼくは「藤尾」という「架空の女性」を想起しました。もちろん、漱石の「虞美人草」の主人公。大学時代に読んで、こんな女性に遭遇したらどうしようと「いらぬ悩み」を経験したりしました。漱石は当然、この「虞姫」を下敷きにして「藤尾」を描いたでしょう。二人の男を「手玉に取って」いたかと思われた主人公は、男性がともに別人と結婚したのを知り、「自死」しました。漱石は「とても情熱家」だったという感想をぼくは抱いた。その辺の経緯を高弟であった小宮豊隆氏の「日記」で紹介しておきます。小宮さんと言えば、数次にわたる「漱石全集」編集の元締めのような方で、ぼくが好んで読んだ全集は、彼の渾身の仕事だった。以下に出てくる「森川町」、ぼくが上京して初めて住んだ本郷の隣町。当時、漱石は駒込に住んでおり、森川町まで足を伸ばしたのです。その近所には西片などがあり、当時の売れっ子文士たちが何人も住んでいました。学生時代のぼくの散歩道だった。やがてその行き先は田端まで伸び、田端村の文人たちを偲んだものでした。(余談 ぼくの同級生は田端に住んでいた。その家の家主は芥川の友人の妻だった人。「北原さん」といったと思う。彼女から、いろいろと作家たちの逸話を聴いたが、すべてを忘れました)

 「昨夜豊隆子と森川町を散歩して草花を二鉢買つた。植木屋に何と云ふ花かと聞いて見たら虞美人草だと云ふ。折柄(おりから)小説の題に窮して、予告の時期に後れるのを気の毒に思つて居つたので、好加減(いいかげん)ながら、つい花の名を拝借して巻頭に冠(かぶ)らす事にした。/ 純白と深紅(しんく)と濃き紫のかたまりが逝(ゆ)く春の宵の灯影(ほかげ)に、幾重の花弁(はなびら)を皺苦茶(しわくちゃ)に畳んで、乱れながらに、鋸(のこぎり)を欺(あざむ)く粗き葉の尽くる頭(かしら)に、重きに過ぐる朶々(だだ)の冠を擡(もた)ぐる風情は、艶(えん)とは云へ、一種、妖冶(ようや)な感じがある。余の小説が此花と同じ趣を具(そな)ふるかは、作り上げて見なければ余と雖(いえど)も判じがたい。/ 社では予告が必要だと云ふ。予告には題が必要である。題には虞美人草が必要で―はないかも知れぬが、一寸(ちょっと)重宝であった。聊(いささ)か虞美人草の由来を述べて、虞美人草の製作に取りかゝる。(明治40年5月28日 東京朝日新聞 「虞美人草」予告)(右上は橋口五葉画「虞美人草」(春陽堂・明治四十三年)

 「明治41年は先生42、奥さん32、筆子さん(長女)11、私が25の年であり、先生は前年の4月に朝日新聞に入社し、同じく9月の末に、西片町から早稲田へ越して来た。私は、本郷の森川町に下宿してゐて、この年の7月に大学を卒業することになってゐる。さうして先生の面会日は木曜ときまっていた」小宮豊隆の『漱石襍記』(小山書店・昭和10年5月刊)

 学生時代「漱石山房」跡地を何度か尋ねたことがあります。後年、そこに「漱石山房記念館」だかが創建されたようで、そこにはまだ行ったことがない。「山房」の所在地は早稲田南町だといったように記憶しています。またそのすぐ近くに「夏目坂」があり、漱石の誕生の地だった。右の「案内板」の立っている直ぐ側に、今も「小倉屋(こくらや)酒店」があり、堀部安兵衛が高田馬場への討ち入りに出る時に立ち寄った店だと言う。また。神楽坂にも近く、井伏鱒二さんが住んで特異な生活を送っていた時代です。学生時代に、どの作家よりもよく読んだのが漱石でした。ほとんどすべてを読んだと思う。いろいろな影響を受けたはずで、ぼく自身が「文弱の徒」になろうなどと考えたきっかけになったのかも知れません。漱石好きが嵩じて、彼に関わる多くの人々の資料なども漁(あさ)ったことがありました。その一人が小宮豊隆氏でした。安倍能成さんなどもその一人。戦後初期の文部大臣として多くの仕事をされた方であり、ぼくは彼の哲学を学んだものでした。学習院の院長をされたこともあった。

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 本日の駄文はいつも以上に箍(タガ)が外れています。いうならば「ヒナゲシの花」に誘われての道草でもあります。以下に少し古い新聞「コラム」を引用しました。「産経抄」。与謝野晶子氏の「雛罌粟(コクリコ・Coquelicot)」の歌が引かれています。そこからは、次に来る「この島の夜明け」を予感させる兆しが見えるようでもあります。「山の動く日」を載せた雑誌「青鞜」創刊号、その後も、彼女は何篇かの詩や文章を書きます。また大正期に入ってからは「教育問題」にも積極的に発言するようになります。「ヒナゲシの花言葉」は「いたわり」「思いやり」だそうですね。どうしてそうなのか、無粋なぼくにはわかりません。その晶子さんが渡仏したのは明治末期。女性解放のための先駆的な存在でもあった人だった、驚くべきは十二人の子どもを産み、育てたのでした。女性の地位向上に大きな発言力を持たれていた。それはまた別の機会にでも。

【産経抄】歌人の与謝野晶子は明治45年5月5日、新橋駅から夫、寛の待つフランスへ旅立った。シベリア鉄道を経由して、19日にパリに到着する。▼「ああ皐月(さつき)仏蘭西(フランス)の野は火の色す君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟」。5月のフランスの野原には、ヒナゲシの花が咲き乱れていた。半年ぶりに夫と再会した喜びを、その燃えるような赤色に託している。晶子は、パリの見聞を大いに楽しんだ。▼目に留まった、粋で美しい女性たちの姿を書き残している。「欧州の女は何(ど)うしても活動的であり、東洋の女は静止的である」「身に過ぎた華奢(きゃしゃ)を欲しない倹素な性質の仏蘭西婦人は、概して費用の掛らぬ材料を用ひて、見た目に美しい結果を収めようとする用意が著しい」(『巴里(パリ)の旅窓より』)。▼つい最近も、『フランス人は10着しか服を持たない』という本がベストセラーになっている。今も昔も日本女性にとって、簡素でありながらおしゃれなフランス人の暮らしぶりは、あこがれの存在らしい。▼もっともフランスでも、日本文化の愛好者は少なくない。多くの若者の間では、日本のアニメや漫画の人気が定着している。そのフランスで日仏友好160周年を迎える2018年に、日本博「ジャポニスム2018」が開催されることになった。欧州歴訪中の安倍晋三首相が、フランスのオランド大統領との会談で明らかにした。歌舞伎や能、浮世絵から、和食や忍者まで、数カ月にわたって日本文化を丸ごと紹介する、大がかりなイベントになりそうだ。▼もちろん、2020年の東京五輪・パラリンピックを見据えて、欧州からの訪日客増加を図る狙いもある。晶子が、「花の月」「恋の月」と呼んで愛した、日本の5月の魅力もぜひ味わってもらいたい。(産経新聞・2016/05/04)

 「ヒナゲシ」が話題になるなら、欠かせないのがアグネス・チャンさんですね。香港出身。1972 年、当時十七歳だったアグネスが謳ったのが「ひなげしの花」、山上路夫(詞)さんと森田公一(曲)さんのコンビでした。この二人についても書きたいことがいっぱいありますが、止めておきます。山上さんの父(東辰三)も作詞家で、「港が見える丘」(平野愛子歌)を書いた方。ぼくはよく謳ったもの。森田さんは「トップギャラン」のリーダーで「青春時代」を自作自演した。そのアグネスの歌唱は、何とも「辿々(たどたど)しい」日本語、舌足らずの発音、それでもやはり、なんとも新鮮だった。その後の彼女は「茨の道」ともいうべき悪路をたどり、今では大変な「知識人」として活動されています。還暦寸前ですね。「ひなげしの花」の十年後に咲き誇ったのが「赤いスイトピー」でした。聖子さん、二十歳ころの歌心でしたね。

丘の上 ひなげしの花で うらなうの あの人の心 今日もひとり 来る来ない 帰らない帰る あの人はいないのよ                                       遠い街に行ったの 愛の想いは 胸にあふれそうよ 愛のなみだは 今日もこぼれそうよ …
 「ひなげしの花」 アグネス・チャン (詞:山上路夫・曲:森田公一)(1972/11)(https://www.youtube.com/watch?v=d1nJpDGh2js

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 「ポピー(ひなげし)は、コクリコ、虞美人草(ぐびじんそう)、シャーレーポピーの名でも知られる一年草。細い茎の先に、まるで薄紙のような繊細で色鮮やかな花を咲かせます。昭和記念公園や秩父高原はシャーレーポピーの一大群生地として知られています。フランスでは赤いポピー(ひなげし)とブルーのヤグルマギクが田園に植えられていることが多く、花畑の写真集によく登場する花で、フランス語ではポピーのことを「コクリコ」といいます。/ ポピー(ひなげし)の開花時期は、早いと4月後半に咲き始めることがありますが、見頃は5月以降です。同じ一年草のポピーのアイスランドポピーの開花は、早春の3月~4月です。アイスランドポピーは切り花として流通していますが、ポピー(ひなげし)はひとつの花の開花期間が短く、切り花としての流通はほとんどしていないため、育てて生ける花です。/ ポピー(ひなげし)は鉢植えでも育てられますが、草丈が70~80cmになるので、できれば大きなコンテナや花壇で楽しみたい草花です。一方向からしか日が射さないと茎が曲がりやすくなってしまうので、日当たりと風通し、水はけの良い場所に植えるとたくさんの花が状態良く楽しめます。/ ポピー(ひなげし)の学名「Papaver」は、ラテン語の「papa(粥)」が由来になっています。小さい子どもを眠らせるために、食べさせるお粥に睡眠作用のあるポピーの乳汁を混ぜたことから、この名前がつきました」(LOVEGREEN:https://lovegreen.net/languageofflower2/p27637/)

 人それぞれに、好みの花木があるのでしょう。ぼくにもある。こんなものが好きなんですかと、驚くような密かな花々を愛好する人もいます。ぼくは花は好きですけれども、花言葉は好きではない。好きじゃないというより、そんなもの、なんとでも言えるでしょうという「いい加減さ」がよくわからないんです。このヒナゲシにも、さまざまな「花言葉」があるようです。「いたわり」「思いやり」「恋の予感」「別れの悲しみ」「慰め」「休息」「心の平穏」などなど。勝手にするがいい、といいたくなりますね。しかし、「言葉」というものが、人間の思考や感覚を支配することもありますから、ある人には不吉でも別の人には幸運な「花」とされる、そんなでたらめさも、まあ、目くじらを立てるには及ばないということですか。「恋の予感」と「別れの悲しみ」とは、いかにも思わせぶりですな。「愛してる愛してない あなた さよならをこの胸に残し 街に出かけた」「愛の想いは 胸にあふれそうよ 愛のなみだは 今日もこぼれそうよ」(「ひなげしの花」)

  一本の「ひなげし」(こくりこ・虞美人草・ぽぴー)の花といえども、一人の人生をいろいろなところに追い込み、導くんですね。

 (澤瀉屋に、にわかに信じられない「凶行事件」が起こりました。詳細は「未詳」です。しかし、ここにも「J 事件」と酷似したスキャンダルが絡んでいるでしょう。たった一人でも「諫言」する存在がなかったか、残念至極と、我ながら言葉を失う)

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 十薬の花まず梅雨に入りにけり (万太郎)

【有明抄】毒消しの立夏 きょう6日は二十四節気の一つ「立夏」。暦の上では夏が始まり、8月上旬の「立秋」前日までが夏とされる。生命感にあふれる季節で、新緑がまぶしい。大型連休のさなかでもあり、心が浮き立つ◆俳人の中村草田男(1901~83年)に立夏の句がある。〈毒消し飲むやわが詩多産の夏来る〉。体調がすぐれずに薬を飲んだのだろうが、夏の到来で気持ちは高揚し、創作意欲が満ちてくる。季節や天候は心と体に深く関わり、人は自然の中に生きていることを改めて感じる◆すがすがしい季節、この時期に大型連休があるのはタイミングがいい。4月は進学や就職、人事異動などで環境が大きく変わり、心身ともに疲れがたまりやすい。1カ月、何とか頑張って、ちょっとひと休み。張り詰めていた緊張を緩め、エネルギーを充電する期間になる◆体調を崩す“毒”の元は慣れない仕事であったり、人付き合いであったり、うまくできない自分であったり…。コロナ禍を脱して行楽地はにぎわいを見せているが、日常を離れた景色や空気、家族や友人と過ごす時間が毒消しになるだろう◆大型連休も終盤。しっかり毒を消し、草田男にあやかって意欲を燃やしたい。それぞれの仕事が「多産の夏」となるように、気持ちは前向きでありたい。「朱夏」は夏の異称、赤く燃える夏の始まりである。(知)(佐賀新聞・2023/05/06)(ヘッダー画像はLOVEGREEN:https://lovegreen.net/lifestyle-interior/p148083/)

 何の前触れもなく、「立夏」が突然やってきたような、そんな余裕のない明け暮れに追われている。近辺の農家では田植えも終わり、これから夏本番、その直前の儀式のように「入梅」があります。昨晩からの雨が今も降り続いている(午前十時頃)。本来なら、順調な季節の移ろいを感受できるだけのゆとりもあればこそ、何の因果か、老齢にも気候変動はやってきます。爽やかな春風が、一陣の便りを載せて、何方かに消えていった。ただ「暦」ばかりが、不動の「季節の歩み」を記しているばかりです。二十四候の「立夏」では、七十二候では「初候 5月5日〜5月9日頃 蛙始鳴(かわずはじめてなく)、次候 5月10日〜5月14日頃 蚯蚓出(みみずいづる)、末候 5月15日〜5月19日頃 竹笋生(たけのこしょうず)」と時は移ります。あるのは「暦」ばかりなり。「暦」は季節の蔭(影)であり、その陰・影を作り出しているのが「毎日の生活」なんですね。

 「立夏」とは、ここから夏ですよという「開幕宣言」でした。「目には青葉山時鳥初鰹」(山口素堂の吟とされる)本年はいかにも時の過ぎ行くさまが迅速だと感じます。「歳月、人を待たず」という。また「光陰矢の如し」とも語られる。人は誰であれ、同じ様に一日は過ぎ、一年は経過し、生涯は幕を下ろす。十年でも百年でも、「永遠の鏡」に照らせば、ほんの一瞬間。そして、いっときも休むこともなく、時を刻むのは人間。前に進むなどとは思いもせず、単なる遷ろい・移ろいの繰り返しと感ずるのは「森羅万象」でしょう。土地から遥かに身を離し、まるで異様な浮遊物と化しているのが人間であり、人間の生活であるのかもしれない。「喜怒哀楽」と言えば、いかにも人間臭いと言われますが、一皮むけば、その「喜怒哀楽」が自他を傷つける大きな災の元凶にもなる。草田男さんが飲んだ「毒消し」は、不調を訴える体にのみ効能があるものではなく、人間社会に蔓延っている、いつ何時、中(あた)るかもしれない「毒」や「毒素」をたちまちに消してくれる「解毒剤」だったかも知れません。いまでいう、「抗うつ剤」のようなものだったか。

 草田男さんの「毒消し飲む…」の句から、連想したのは「ドクダミ」です。もちろん彼が飲んだのは別物もの(あるいは、富山の「毒消丸」だったか)でしょう。でも、この時期、我が庭の至る場所に驚くべき繁茂力をもって土の表面を、まるで畳のように覆っている、文字通りの「グランドカバー」となっている、それがドクダミです。「十薬の…」という万太郎氏の句もぼくの頭にあった。この時期にはさまざまな草木類が解放されたように青葉若葉を広げ、芳しい香りを放ちながら、開花を競う。その中にあって、いかにも「ドクダミ」は評判が悪い。これを根絶やしするためにいろいろな悪知恵を働かせてきたのは人間でした。その反対に「十薬」と讃えて、いろいろな症状に効き目をもたらしてきたのも「ドクダミ」でした。近年のぼくは、若いころとは異なって、この薬草に「目くじら」を立てることはなくなった。もちろん、それを蔓延るにまかせるというほど、大好きになりましたとは行かない。その「花」はなかなか清楚で奥ゆかしいとさえ感じてしまうのです。あの匂いも、なかなか「おつ」というわけには、まだなりきれませんが、

 「ドクダミの名前は「毒痛み」、あるいは「毒溜め」、「毒矯め」がなまったものだと言われています。毒や痛みを取るという意味の「毒痛み」がなまったという説、毒を全草に溜め込んでいるから「毒溜め」がなまってドクダミになったという説もあります。毒矯めはドクダメと読み、毒を抑える薬草という意味です。/ 名前の由来には諸説ありますが、ドクダミは薬草として重宝されている植物です。毒があるどころか10の効果があると言われ「十薬」という異名も持ちます」(LOVEGREEN)

● ドクダミ=ドクダミ科の多年草。本州〜沖縄,東南アジアに分布し,平地の林下や路傍にはえる。全草に臭気がある。根茎が地中をはい,茎は高さ30cm内外,卵状ハート形の葉を互生。6〜7月,花弁状の4枚の白い総包葉の上に淡黄色の小花を多数穂状につける。花弁はなくおしべ3本。全草を煎じて,利尿,駆虫薬とし,生葉を化膿,創傷にはるなど広く用いられ,十薬(じゅうやく)の名がある。(マイペディア)

 「すがすがしい季節、この時期に大型連休があるのはタイミングがいい。4月は進学や就職、人事異動などで環境が大きく変わり、心身ともに疲れがたまりやすい。1カ月、何とか頑張って、ちょっとひと休み。張り詰めていた緊張を緩め、エネルギーを充電する期間になる◆体調を崩す“毒”の元は慣れない仕事であったり、人付き合いであったり、うまくできない自分であったり…。コロナ禍を脱して行楽地はにぎわいを見せているが、日常を離れた景色や空気、家族や友人と過ごす時間が毒消しになるだろう」とコラム氏は書く。

 いかにもお説ごもっとも、と手を打ちたいところです。しかし、そんなに紋切り型で処しきれない「猛毒」が蔓延しているのが「現下の状況」です。何十年も前には「五月病」と騒がれていました、たしかにコラム氏の記述のままに。でも今日は、「毎月病」というほかない仕儀に至っているのではないでしょうか。世人は多く、老若男女を問わず、年柄年中、「毒消し」の必要を感じているのです。

 幼時、「富山の毒消し」を服用した記憶が微かにあります。京都にいた頃、何ヶ月に一度か、自宅に富山の薬売りが来て「置き薬」の補充をして行った。いろいろなものがあったが、それがすべて「常備薬」として日常生活で重宝していたのです。この他に、ぼくの記憶では「萬金丹」(伊勢の産)という薬もあった。おそらく、呑兵衛の親父が常用していたかもしれない。その後は「パンシ〇〇」に切り替わったようだが。今日のように「薬のチェーン店」がない時代。発熱や下痢など、あるいは食あたり(食中毒)には、「置き薬」がとても大切なものだったのです。この商法は今日も続いているのかどうか知りません。でも、「漢方」と称したり「生薬」と言ったりして、日常の体調管理に大いに貢献していたと思い出している。

 話が変なところに流れています。ぼくには、少しもかまわない、気にもとめない。こんな「思いで草」を書いていると際限がありませんね。それだけ、ぼくも馬齢を重ねたという証拠ではあります。昔はよかったとは言わない。今が悪いとも言わない。いつだって「生きている時代」には、人間にとって同じようなことが生じているのです。いいときもあれば悪いときもある、それは誰にとっても真実でしょう。運といい不運というも、どちらか一方だけが続くことはありません。「禍福は糾(あざな)える縄のごとし」、あるいは「善因善果」などといってみたところで、「人生チョボチョボ」が本当のところではないでしょうか。人より優れていたいという願望を持つことは結構です。けれども、競争に勝つことが「人に優れる」を意味しないのは、それなりに考えると誰にも分かることです。「自分流」に転んでは起き、起きては転ぶ、そんな流転の繰り返しの中にこそ、自分だけの「喜怒哀楽」があるのじゃないすか。(と、道草を食って、時間稼ぎをしていたら、別紙のコラムが配信されましたので、以下に、そちらを引用します。午前七時過ぎ)

【南風録】ベストセラーとなったエッセー集「九十歳。何がめでたい」の著者、佐藤愛子さんは自身の著書を読み返したことがないという。正確には「読み返せない」のだと、別の本のあとがきで明かしている。▼もう取り返しがつかないのに、読むと手直しをしたい箇所が目についてしまうためだ。欠陥、悔恨、未熟…。自著を評する言葉の数々に、過去の仕事に満足しない、自分への厳しさが垣間見える。▼直木賞作家でさえそうなのだから、新社会人ならばなおさらだろう。右も左も分からぬ環境で覚えることは多く、できることは少なかった1カ月。思い出したくないような経験をした人もいるのではないか。▼そんな社会人の試練をしばし忘れることはできただろうか。大型連休は今日が最終日だ。明日を思うとうつむきたくもなろうが、どうか前を見てほしい。まだまだ新人。周りは仕事の成果より、明るく元気な姿を待っている。▼佐藤さんは別のエッセーで、次のように人生を振り返っている。「失敗の連続だったが、とにもかくにもその都度、全力を出して失敗してきた。失敗も全力を出せば満足に変わる」。▼70年以上にわたって執筆を続け、2年前に98歳を前に筆をおくと宣言した。それでもいつか再び書き始めるのでは、と期待させる力強さと前向きさを持つ人だ。生きざまや言葉は新社会人に限らず明日に向かう人たちの力になる。(南日本新聞・2023/05/07)

 「もう取り返しがつかないのに、読むと手直しをしたい箇所が目についてしまうためだ。欠陥、悔恨、未熟…。自著を評する言葉の数々に、過去の仕事に満足しない、自分への厳しさが垣間見える」と書くのはコラム氏。もっと深く、愛子さんの文を読むと、「すんだこと、終わったことは手直しできない」、それが人生のルールだということです。野球でも相撲でも、「もう一丁」「もう一試合」となったら、勝負にならないでしょうし、真剣勝負が泣きますね。愛子さんが言うのは、人生そのもののことです。手直しをして、読み応えがあるというのは、実際には、まずありえないでしょう。「過去の自分に満足しない」、それが生きているということではないですか。犯した過ちを「毒消し」で消せるなら、どんなに楽だろうというのはどうか。消しても消しても「消えないで残る」傷跡みたいなもの、それが人間を成長させてくれる力になるのです。もちろん、人間の力を奪う「毒」にもなりますよ。

 「失敗の連続だったが、とにもかくにもその都度、全力を出して失敗してきた。失敗も全力を出せば満足に変わる」ということができるには、それなりに「全力で失敗する」人生を生ききる必要がある。「全力で失敗」と言うのは愛子さんの流儀。本当は「全力で成功する」ことを願っていた。ところが、「結果的には、満足できない、あれは失敗だった」と、自らの仕事を評価する佐藤愛子という作家の真骨頂があるとぼくは読む。「成功しよう」「成功したい」というのは、とてつもなく欲の深い「自己達成」を言うのです。だから、どこまで行っても「自己満足できない」と見てしまう、この作家(だけではない)の性分を明かしているのです。きっと多くの人も、そうではないですか、ぼくも、そんな風に自分自身を見ているのです。時に、ぼくの耳にまで聞こえる「自分を褒めてやりたい」という言い方、ぼくは大嫌いだな。

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 「ぐうーっと、ぐうーっと」「吸うて吸うて!」

 「土佐の呑兵衛」大会。このところ、高知の話題が続きます。こと酒に関しては「親の仇でござる」といいたくなるほど、親父は大酒呑みでした。名前は「土佐生(とさお)」で、頑固一徹の大酒豪。八十歳直前で亡くなった。もちろん、土佐出身。小さい頃から親父の呑兵衛ぶりを見ていて、ぼくは「酒呑み」にはならないと固く誓いました。やがて、上京し、酒の味を覚え、「親父みたいな呑兵衛にはなるまい」と、それとなしに、一人静かに、ゆるやかに誓った。年齢を重ねて、いつしか、親父を凌ぐかというほど、自他ともに認める「呑兵衛」になっていました。でも、酒を呑んで暴れたこともなければ、路上で寝たこともない。電車内ではしょっちゅうでしたが。終点で降りないで、行ったり来たりを繰り返すこともしばしば。乗り過ごしを防ぐつもりで「終点」駅近くに越したのに、そこで降りないで「折り返し」をしたのでした。駅員は、寝過ごした乗客を起こさないんですね。

 一升を一人で呑んだ経験はありましたが、「二十秒」などということはまずなかった。二時間、いや五時間はかかっていた、あるいはもっとかも。だから、帰宅は午前様で、家中の鍵をかけられ、締め出されたことも何度か。二階から忍び込んだときもあった。足音でかみさんに気づかれ、罵(ののし)られ。「チョウ、恥ずかしい」と軽侮されたことでした。ある時期までは、酒類は問わなかった。しかし、いつしか「日本酒」のみ、しかも銘柄は金沢の酒蔵の純米酒に限られ、三十年ほど呑み続けました。中島みゆきさんの「大吟醸」、この酒はいただかなかった。「純米酒」だけ。昔風に言うと、「二級酒」になるか。一級じゃないんですね、人間もお酒も。

 大杯に酒なみなみと…奇祭「どろめ祭り」4年ぶりぐーっと復活 高知県香南市赤岡町  4年ぶりに、ぐーっと、ぐうーっと―。第66回土佐赤岡どろめ祭りが30日、香南市赤岡町の赤岡海浜で開かれた。新型コロナウイルス禍で2020年以降見送られていた名物イベントの復活に、約3千人の来場者が豪快に酒を飲み干す参加者に声援を送った。/ 市や市商工会、市観光協会などでつくる実行委員会の主催。メインの大杯飲み干し大会では従来、1枚の大杯を使い回していたが、感染防止で今回はレプリカ5枚を用意。抽選で出場権を得た男女各10人が、男性1升(1・8リットル)、女性5合(0・9リットル)で競った。/ 参加者が大杯を傾けると、あおり役が「ぐうーっと、ぐうーっと」「吸うて吸うて!」。レプリカの大杯は酒がこぼれやすく、参加者は苦戦していたものの、観客の歓声と拍手を受けて杯を傾けていた。/ 男性は18年の覇者、岡本亜嘉瑠(あかる)さん(42)=越知町=が20・4秒、女性はユーチューバーのもぐもぐさくらさん=東京都=が10・0秒で優勝。5年ぶりに出場した岡本さんは「変わらずお酒がおいしくて、味わおうと思ったら前回よりタイムが遅くなった」と苦笑い。前回2位の雪辱を果たしたもぐもぐさくらさんは「次は7秒台を出して大会記録を更新したい」と喜んでいた。(玉置萌恵)(高知新聞Plus・2023/05/01)

 「酒は静かに飲むべかりけり」「ゆっくりと味わう」ということができるまでに何十年もかかりました。作家の井伏鱒二さんは酒豪だったが、晩年は「唇を潤す」の味方だったそうです。ついに、ぼくはそこまで行きませんでしたね。その後、当地(房総山中)に越してきて、すっかり呑むのを止めてしまいました。理由は簡単。呑みたくなくなったから、です。酒以上に「空気」が美味かったからでもありました。

 その酒と土佐に因む話題です。まだ、やってるんですね、一種の「奇祭」ですよ(どろめ祭り」は。男女共同参画だか、四角だか知りませんが、この女性の呑みっぷり、「記録的」にいうと、男性を越えています。水泳なら、百メートルと五十メートルの違いで、時間単位当たりの速さでは女性の勝ち。とんでもない速さです。ぼくには(偏見」があり、マラソンはやがて女性が男性を超えるだろうと思っている。史上最強の女性と言われる、五輪ご連覇のレスリング・吉田沙保里さんに勝てる男性がどれくらいいるのか。酒は女性の方が、男よりもたくさん呑むでしょうね(もちろん人によりますが)。「虎に早変わり」というわけ。いまは朝ドラで「牧野富太郎」さんが騒がれています。でも、それだけじゃなか、「いごっそう」に「はちきん」を忘れちゃいかんばいとばかりに、「ぐうーっと、ぐうーっと」「吸うて吸うて!」この土地が「自由と民主主義の発祥地」ってほんのコツ?(「どろめ」とは「なましらす」、つまりは「カタクチイワシの稚魚」のことをいう)

 蟒蛇(ウワバミ)っているんですね、今も、土佐に。それにしても、どうして大酒呑みを「ウワバミ」というのでしょうか。辞書類ではそれらしいことを説明しているようですが、実際のところはどうか。その一つには次のような解説が出ています。「《大蛇は物をたくさん飲み込むところから》大酒飲み。酒豪」(デジタル大辞泉)いくつかの新聞などから、呑みっぷり写真を借用しています。いかがでしょうか。その様子を、美しいですね、という方はまずいないはず。怖いというのが正直な感想です。五合のお酒を二十秒で「呑み干す」上に、酔いつぶれたり、酒乱になることはないんでしょうか。ますます、「ウワバミ」の隠された正体が知りたい。明治時代の初期には大酒呑みを「ドロンケン」といったそうです。その他、さまざまな呼び名が「呑兵衛」につけられていますが、「斗酒猶辞せず」を言い当てるには、文句なしに「ウワバミ」に尽きるでしょう。

 若い頃に覚えた「斗酒(としゅ)(なお)(じ)せず」、「一斗」の酒、つまりは十升(一升が十本)です。その一斗の酒を勧められても、断ることがないという、そんな人間離れした酒呑みがいるのかと、実に関心を持ちました。ぼくの知っている限りで、大相撲の四十七代横綱だった「柏戸」、この人こそ、「ウワバミ」だと驚嘆したものでした。そのためもあってか、彼は肝臓を痛めて、早くに亡くなった(五十八歳)。とにかく、「まっすぐ」、「一本道」「「電車道」」相撲、そんな単純そのものの豪快な相撲でした。山形の人。

 辞書の解説は、なんか物足りないというか、たくさん呑みみ込む、だから大酒呑みを「ウワバミ」という、それだけでは物足りないというか、ウワバミの凄さが出てこない。もっとも、時々、人を呑み込む「大蛇」がニュースになるくらいですから、凄惨・獰猛な「呑兵衛」なんでしょうね。「虎」などでは太刀打ち出来ないでしょうな。大食いだけなら「ギャル曽根」とかいうタレントもいるし、(ちなみに、彼女は舞鶴市の出身だそうです。高知ではなかった。大酒呑みなんだろうか。あるいはご両親の両方、またはどちらかが「大喰い県」のご出身かもしれない)もっと別の要素(含意)があるのではないかと、ぼくは疑いを持っています。落語にも、「大蛇」にまつわる怖い噺がいくつもありますが、お酒を呑む「大蛇」の噺は、これまでのところぼくは未聞です。「そば清」という落語、ぼくは志ん朝師匠で聞きました。最後は「怪異」というか「後味が悪い」というか。(古今亭志ん朝「そば清」:https://www.youtube.com/watch?v=h5QDnCmzEr4&ab_channel=BMWM4

 男も凄いけれど、女の「ウワバミ」も惨絶ですね。写真の「呑みっぷり」、まるで「人を呑む風」ではないですか。ぼくの見た限りで「女性」の写真が圧倒的に多かった。呑む量から言っても、女性の方が強いとぼくは確信しています。よく水を五合、一升の飲めますかと言われる。酒だから、そうでしょうね。「三々九度」の回数が、男性よりずいぶん多いということが言えるのか、ぼくにはわかりません。まだ結婚前、かみさんと呑み屋に入って、なんだか様子がおかしいと気づいたときには間に合わなかった。徹底的に「絡まれた」ことがあった。あれ程の酒量を呑み、しかも絡み倒されたなどということは、後にも先にも一回限りでした。酒は選ばなかった。酔えるものならなんでもという寸法で、「がぶ呑み」で、ここに実に恐ろしい「ウワバミ」がいると知ったことでした。その後、かみさんいわく、「私はまず呑めない質(たい)です」だって。大蛇に牙(きば)があるのでしょうか。牙をむかなくても、「呑みっぷり」を見ればわかります。呑み干す、呷(あお)るともいいます。この呑み方をする人は「ウワバミ」の素質ありです。おのおの方、男女を問わず、「ウワバミ」にはくれぐれも気をおつけなすって。きっと、すぐそばにいるんですよ。

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 酒に関わって、ぼくの好きな箴言を一つ。「酒虫に真あり(In vino veritas)」、「酒が入らなければ、本音が言えないの?」ではなく、「酒の上では、きっと真実が含まれている」と受け取ってきました。もちろん、酒の有無で「真」を測るものでないこと、言うまでもありません。

(● うわばみ / 蟒蛇/python= 一般に大蛇とよばれる大形のヘビの、古くからの俗称。とくに爬虫(はちゅう)綱有鱗(ゆうりん)目ボア科のヘビをさす。日本各地には、人を飲み込むほどの大蛇にまつわる俗説があるが、実際には南西諸島を含むわが国に自然分布するヘビの最大種はアオダイショウElaphe climacophoraで、全長1.5~2.5メートル、まれに3メートルほどに達するにすぎない。全長5メートルを超える王蛇類(おうだるい)(ニシキヘビ属)のなかで、日本にもっとも近い地域にみられるのは、中国南部、フィリピンを東限とする、全長4~6メートルのインドシナニシキヘビPython molurus birittatusであり、ほかはすべて熱帯地方に分布している。最大記録は東南アジア産のアミメニシキヘビP. reticulatusの9.9メートルで、ボア亜科で熱帯アメリカ産のアナコンダEunectes murinusもほぼ同大に達する。/ 日本では八岐大蛇(やまたのおろち)や安珍清姫(あんちんきよひめ)の伝説をはじめ、柳田国男(やなぎたくにお)の「蛇の息子」の物語など大蛇にまつわる民話が少なくない。大蛇を神格化する例は洋の東西を問わず多く、ギリシア神話にも、医学の祖アスクレピオスのシンボルである大蛇や、海神ポセイドンが送った2匹の大蛇に締め殺されるラオコーンの物語など、善と悪とのシンボルとして登場する。(ニッポニカ)

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 ほのかなのぞみを送るのは くらかけ山の…

【談話室】▼▽歌人の結城哀草果は山形市西郊・本沢地区の自宅から自転車に乗って本沢川沿いの道を上流に向かった。杉材を積んだ荷馬車が、のどかな春の日を浴び下ってくる。1938(昭和13)年4月、85年前の今時分である。▼▽里山の方に少しさかのぼると、川は雪解け水を含んで勢いを増している。流れをせき止める柵(しがらみ)も落ちてしまった。一方、山の田畑では農家が苗代作り、雪折れした桑の枝の始末に精を出す。崩れた土砂が道を覆う場所を何とか通り過ぎると、黄色のチョウが目の前に現れた。▼▽「春の本沢川上流」と題した哀草果の短文に導かれ、今の流域を運転してみた。車がひっきりなしの国道ではなく旧道の方である。雪解けが早かったせいで昔と対照的に流れは穏やか。住民が脚立に上って花盛りの果樹を手入れし、田んぼではトラクターで土を耕している。▼▽昨日は気温がぐんぐん上昇し、山形市で27.1度に達した。「郷の地を一途にふみて春暑き」(飯田蛇笏(だこつ))。哀草果の頃に比べると、現在の季節感や農作業スタイルには違いもあろう。ただ、郷土に根付こうとする思いは変わらない。春の田園風景を望見しての実感である。(山形新聞・2023/04/21)

結城哀草果 (ゆうき-あいそうか)(1893-1974)=大正-昭和時代の歌人,随筆家。明治26年10月13日生まれ。結城家をついで農業にしたがう。大正3年「アララギ」にはいり,斎藤茂吉に師事。15年選者となる。東北の農村生活をうたい,昭和30年「赤光(しゃっこう)」を創刊。昭和49年6月29日死去。80歳。山形県出身。旧姓は黒沼。本名は光三郎。歌集に「山麓」,随筆に「村里生活記」など。(デジタル版日本人命大辞典+Plus))

 山形の地には何度か足を踏み入れた。大半は蔵王へのスキー旅行や温泉巡りの途次でした。三十代、ぼくの若かった頃です。また、ぼく自身の興味が募ったせいもあって、山形(県人)には肩入れする風がありました。東北地方一帯が、ぼくの関心を引いていたことも手伝って、早くから山形の教育者や文人に親しみ、かつそこから学んできました。昨日は東北の詩人、といっても、今ではまず知る人もいなくなりましたが、福士幸次郎さんに触れました。奇遇は続くもので、同じ日に山形新聞の「談話室」は結城哀草果に筆を染めていた。もちろん、この歌人も、多くの人には未知の人となったでしょうが、ぼくにしても同じようなものでした。理由は定かではありませんが、この哀草果の著書を数冊持っています。どういう経緯で求めたものか、今では記憶も曖昧になりました。

 おそらく、北方性教育運動に携わった教師たち(百人を超えていた)の中に支持者がいて、その繋がりで、ぼくが哀草果を読むようになったのかもしれない。国分一太郎氏や無着成恭さん、あるいは遠藤友介氏などの関係からだったかもしれない。読後、特別の感想を抱いたわけでもなく、「アララギ」一派の歌人だなあという当たり障りのない印象を持っただけでした。ぼくは短歌はよくわからないので、多くは敬遠してきた。だから哀草果については「随筆」ばかりを読んだ気がします。終生、生地を離れず、師である斎藤茂吉の偉(遺)業を受け継ぎ、郷土の文化人として生きた人、そんなことが言えそうです。でも、ぼくがこの歌人の著書を求めたという驚きはいつまでも残りました。「どうして、また?」(群馬の歌人で教師でもあった斎藤喜博さんの縁からだったかとも思う、斎藤さんも「アララギ」派で、土屋文明氏の愛弟子でした)

 「談話室」には田起こし、代かき風景が描かれていたり、山梨の俳人飯田蛇笏(ぼくの最も敬愛する人)の句が引用されている。こうしてみれば、新聞の「コラム」そのものが、時には一つの「季語」とも見られるし、季節の移り変わりと、その中における人間の営み(農業や林業、あるいは漁業など)に触れているときなど、彼の地は「田植えか」と思い、あの地では「もう、雪解けが始まっているのか」と、この劣島の南北の「生活のそれぞれ」に思いを馳せることが出来ます。

 哀草果の短歌をいくつか。時代と東北地方を合わせ考えるに、そこはかとない感慨が催してきます。北方性教育の教師たちが、貧困の底に突き落とされ、教室で受け入れてもらえなかった(学校が拒否した)子どもたちの「生」への希求を身を挺して求めたのも、この哀草果の詩に訴えられた「売られる娘たち」への衷情とぴったり重なるのです。東北の地を踏み台にして、この島国は世界に進出しようとしていたのです。

・百姓のわれにしあれば吾よりも働く妻をわれはもちたり

・病む父の足を揉みつつ(おの)が身の生く先おもへばひたに寂しも

・まづしさをよしと思ひて生きなむか今日も田に出でて落穂を拾ふ

・現身(うつしみ)の茂吉先生を山のみねに残し来しごと歌碑はかなしも

・貧しさはきはまりつひに歳ごろの娘ことごとく売られし村あり

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 「哀草果の頃に比べると、現在の季節感や農作業スタイルには違いもあろう。ただ、郷土に根付こうとする思いは変わらない。春の田園風景を望見しての実感である」とある。たしかに山形だと思うが、はたして「郷土に根付こうとする思い」は不変であるのか、ぼくにはいささか疑問があります。別段、どうということでもなく、そういうものかと受け取ればいいものではあります。しかし、年々、休耕地が増えている状況を見ると、農業や食料自給の将来に、大きな不安を覚えてしまいます。哀草果死して半世紀です。しばしば使われる「隔世の感」とはこのことを言うのでしょう。およそ、人間の営みに「隔世の感」もあるものかという思いも強く残る。しかし、別の面を見やると、「隔世」というより「絶世」とでも言う他ない「異種」「異質」な生の感覚が多くの人々を襲っているようにも考えられてきます。ぼくにしてみれば、「季節の田園風景は工場である」といいたくもなる。

 くらかけの雪(宮沢賢治「春と修羅」より)

たよりになるのは
くらかけつづきの雪ばかり
野はらもはやしも
ぽしやぽしやしたり黝(くす)んだりして
すこしもあてにならないので
ほんたうにそんな酵母(かうぼ)のふうの
朧(おぼ)ろなふぶきですけれども
ほのかなのぞみを送るのは
くらかけ山の雪ばかり
  (ひとつの古風な信仰です)        
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(「宮沢賢治全集1」ちくま文庫、筑摩書房)

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 このところ、暇にあかせてネット配信されている、さまざまな動画を見る機会や時間が多くなりました。なかでも東南アジア、それはヴェトナム、あるいタイの地方だと思われますが、山里に移住・居住して農業を主体とする生活を営む、女性が活動する番組を多く見ています。家を建てる、水道を穿つ、家畜を養い、野菜を栽培する。その他すべてを自らの手作業で行うというものが多い。もちろん、ネット配信で視聴者数を競ってもいるのですから、中に描かれている場面には「虚実とりまぜて」、あるいは「作為を凝らして」というものがあるでしょう。それはそれとして、その田園風景、それはまるで、この劣島社会の明治時代のある時期、また戦前の一時期を彷彿とさせるものでした。自給自足が文字通りに生活を支えている。もちろん貨幣経済が始まっていますから、自ら収穫した農産物を市場で売ることもする。まるで歴史の一場面、一時代を切り取ったような画面の展開に、ぼくは、はからずもおのれの足跡を見る思いがしました。「あの生活はどこへ行ったのか」、と。

 技術や機械が生活の質も変え、人間性の重要な部分をも変質させていく、そんな時代の趨勢にあって、ぼくたちは、過去を切り捨て、現実に取り込まれながら生きているという「不条理」もまた感じさせられているのです。一人の高名な日本歴史家は、勤務先の短期大学の授業で、田植えの話をしたところ、「田植えを知らない学生がほとんどだった」と、驚愕の訂で語っていたことを思い出します。もう三十年も前のことです。このような自然環境からの有利・浮遊生活を余儀なくされると、それはまるである種の「文明の自己崩壊」過程に入っているような感覚になってきます。(これ以上は駄文のよくするところではありません。機会を改めて、歴史問題として捉え、考え直してみたいと思っているのです)

 結城哀草果は山形の著名人、ふるさとの偉人です。ぼくごときが、その扱われ方に異論を挟むことは無用です。自治体が「郷土の偉人」を顕彰して悪いはずはありません。でも、おしなべて、偉人や文人が死して「碑を残す」(その実は「碑に残される」でしょう)、そんな「顕彰」の方法にぼくは異を唱えたいですね。まるで「馬鹿の一つ覚え」というべき惨状ではないでしょうか。どこをあるいでも「石碑」ばかり、人も歩けば「碑に当たる」勢いで、なお増殖中であります。生前に、すでに「碑文を遂行する」文人墨客もいると聞いて、卒倒しそうになります。それが「人生」とどう結びつくのか、といいたくなるような「石碑文化」の横行・流行。まるで大昔の「古墳」の現代版。いたずらな「石碑」の乱造を嘆くのではありません。人間の評価は、紙や石で残せるものですかと、ぼくは尋ねるばかりです。いずれにしても、後生の心無い業、と、余計なことを言ってみたくなります。

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 「三割」をキープする民主主義と地方政治

 日本のプロ野球で、生涯打率(4000打数以上)が「三割」を超えている選手は二十六名とか。プロ野球が開始されてから九十年弱です。以来、どれほどの数の選手たちがいたか。現在でも、一シーズンを通して三割を超える選手は、両リーグを合わせても十人はいないでしょう。プロ野球選手にとって、「三割打者」は大変なブランドなんでしょうね。「世界のホームラン王」が現引退を決めたのは、このまま続けると「生涯打率三割」を切るからという、実に涙ぐましい理由からでした。それくらいに「三割」は稀有だということ。野球界の勲章ですね。

(ヘッダー写真は KBS 京都・2023/04/08)

 現下、地方選挙が闌(たけなわ)です。当地域では、前半戦の選挙はなかった。「無投票当選」というか、候補者が一名だったからです。全国でもかなりの無投票当選者が出たようです。「無投票当選」とはどんな事情を説明するか。不戦勝であり、無試合で勝つという、荒唐無稽な「選挙結果」ですね。それを選挙で勝ち抜いたものと同列に論じるのは、どうですか。勝ちは勝ちだから、と候補者を一人にするための「政治」も行われている。「候補者の信任投票」をすべきじゃないですか。得票率は五割以上ないと落選とか。

 実際に投票された場合でも、投票率は高くて四割そこそこ、低いと三割台です。外国では棄権した有権者には「罰則」があるところも。首長戦でも議会議員選でも、大半が三割になりそうな勢い(ではなく、衰退・衰弱というべきか)、これを嘆く声が大きいけれど、果たしてどうでしょうか。戦後も早い段階から「三割自治」と揶揄(やゆ)されるようになったのは、それほど中央(国)の権限が強いことを指しています。地方自治とは、中央政府の「下請け」というのが相場、だから知事選などでは、「中央との太いパイプ」を誇示する候補者が後を絶たないし、また有力な候補者が官僚や中央政界との関の深い存在が求められてもきたのです。「上意下達」ともいう。投票率が三割台、けっして悲観も過小評価もすべきではない。この程度が、この島社会の政治感覚なんですからね。「生涯打率」のように、三割は「超一流」とはいえないけれども、率があるだけマシというもの。たとえ、「並」や「並以下」でも構うものか、それが「ありのまま」なんだ。

 ある「コラム」を読んでいたら「四割民主主義」というフレーズに慨嘆の怨嗟が込められているように思われた。投票率の低さが問題視されたのでした。これは単純に、投票率が高ければバンザイとは行かない、面倒な問題です。投票率がどれほど低くとも、選挙は成立します。ぼくの記憶です。昭和五十六年五月に千葉県知事選が行われ、投票率は25.38%、有権者数は323万5748人。当選者の得票は39万4239票。知事候補者の得票率は12.2%。これで「知事」だという。この選挙も有効です。一割強の得票率で「知事」になる。選挙の得票等に規定があるのは「供託金没収」に関するものだけ。投票数の四分の一以下なら「供託金」が没収される規定。(右は読売新聞・2023/04/09)

 諸外国にはもっと厳密な規定があります。しかし、細々とした選挙規定があったとしても、それが立派な候補者を議会に送り、地域の代表を選ぶことになる保障はない。他国の状況を見るとよい。この劣島といい勝負でしょ。投票率が八割を越え、高い人気で首長に当選して、とんでもない暴政を敷いたものも少なくない。どこの知事、市長とは言わないが、今だってその事実には変わりがない。選挙民に見合った候補者、あるいはその逆か。誰を選ぶか、誰を選ばないかは選挙の核心部です。でも投票するかしないかも、その前提として認められています。今回も直前にスキャンダルが暴露された「知(痴)事」候補者がいました。「こんな奴に投票したくない」という有権者もいたろうし、名前を書くよりは白紙、そんな有権者もいたでしょう。唾棄すべきは「候補者」のモラル、正直さですが、ね。

 ローマ法王を選ぶ選挙は独特な仕組みを保っているので、よく知られています。「コンクラーベ」という。候補者が有効投票(120票)の3分の2以上を獲得するまで続く。だから「根比べ」だね。選挙結果はシスティーナ礼拝堂の屋根の上に昇る、投票用紙を燃やした「煙の色」によって知らされる。決定しなかったら「黒い煙」、決まったら「白い煙」が上がる。もし、この方式を劣島のあらゆる選挙でやったとしたら、果たしてどうなるか。延々と「黒煙」が劣島上空を覆ってしまい、有権者ばかりか、住民は大変な「黒煙」公害という災難を被ること請け合いですね。だから、細かい規定や厳しい投票条項を設けないほうがいいといいたのではありません。どっちだって、「根本」は変わらないということが深刻な問題なんですね。 

 要するに、「民主主義は選挙で成り立つ」部分はたしかにあります。しかし、そればかりで成り立つのでないのは言うまでもない。今回の、ある県の知事選挙で現職が「再選」された。「黒い煙」ではなく、「黒い岩」だったという。その直前に「スキャンダル」が週刊誌の記事になりました。しかし、選挙後も、それが暴露されないままで、平常心を装って「県政」を執り行っている知事(首長・議員)だっていたかもしれないし、いるかもしれない。(ぼくは、何人か知っている)だから、候補者の身辺調査をしっかりとすべきというのでもない。肝心なことは、候補者を選ぶ「有権者」の質・程度の問題です。

 有権者の一人の経験からしか言えませんが、確信を持って選べる候補者がいるなら最高。でも、そんなことはありえません。これまでに、ぼくの投票行為についていうと、一度だってそんな「候補者」はいなかった。だから消極的に(次善の候補者を)選ぶことになる。他の候補者がいないから、と。それもいなければ、「某歌手」や「某知人」などを書くことで、「否」を表明する。ぼくも何度か、「豊臣秀吉」などど書いたことがあります。言いたいことは、投票を棄権しないことです。かならず行くようにしてきました。だから、ぼくの投票裏率は「九割九分」だと言えます、自慢できることじゃないが。仮に百名の有権者(投票者)がいて、五十名が「無効票」を書いた選挙で、候補者が二十六票の得票を得たとする。七十四名は候補者を拒否した。そんな「知事」や「市長」だっているんですね。これがデモクラシーの欠陥、この島社会の大きな課題です。

 よく訓練された「選挙民」の育成というか、「自立した判断」が何よりだということ、それだけをいい続けても来ました。学校教育、中でも国語教育の重要性の背景は、「かしこい投票」「ハズれない候補者に投票」するという、住民の高い練度にあるんじゃないですか。そのためには、優れた選挙民の誕生と育成が見直されるべきでしょう。候補者が立派か、アカンやつかどうかを見極めるだけの判断力が備わっているかいないか、これこそが「デモクラシーの生命線」です。その「生命線」も、今や切断状態ではあります。いまや「人工呼吸器」に繋がれている。絶命寸前だと思う。

【正平調】先月亡くなった作家の大江健三郎さんの講演会に、初めて足を運んだのはもう30年以上前のことだ。静かな語りの合間に次々とだじゃれが飛び出し、びっくりした記憶がある◆もっと驚いたのは、平和憲法を守る「九条の会」の集会を取材した同僚記者の話。壇上に上がった大江さんは開口一番、当時人気のコメディアンをまねてこう言ったそう。「ヒロシです」。なんという、サービス精神◆80歳を過ぎても会場や街角に立ち、ユーモアたっぷりに平和や反核の思いを伝え続けた大江さん。訃報を伝える記事で、ご本人のこんな言葉を読む。「民主主義と平和憲法は、日本人が持ち続けてきた最良の習慣だ」◆その民主主義が大きく揺らいでいる。低迷しっ放しの投票率に、そう感じずにいられない。昨年夏の参院選は52・05%。先日の兵庫県議選は39・01%で、WBC決勝戦の関西の視聴率を少し上回った程度だった◆国政選挙は4回連続で全国トップ、地方選の投票率も高水準という県がある。山形県だ。カギは若者への働きかけで20年前から高校で模擬投票の授業に取り組む。今では家族で声を掛け合うなど「選挙が習慣化している」という◆大江さんの言う「最良の習慣」を20年の積み重ねが支える。民主主義の厚みを覚える。(神戸新聞NEXT・2023/04/11)

【水や空】石積み工の仕事を 一人の石積み工の仕事ぶりを、哲学者の鷲田清一(わしだきよかず)さんがエッセーに書いている。その職人は語ったという。「ときに経費の関係で手を抜くと、大雨の降ったときは崩れはせぬかと夜も眠れぬこともある」▲粗末な仕事はできない。そう言った職人の話を引いて、鷲田さんは〈わたしたちは未来の世代に対し、この石積み工のように胸を張って言えるだろうか〉と問いかける▲石材を積み上げ、橋の土台や垣を造る。それが私たちの暮らしやすさにつながり、未来への礎になる。思えば、石積みの仕事はどこか政治に似ている。先の世代に胸を張れるよう、大いに汗をかいてほしい。統一地方選の前半戦、県議選の当選者が決まった▲「産みやすく、育てやすく」の子ども政策、人口減少対策、1次産業の下支え、離島の振興…。この選挙での多くの候補者の訴えは、そのまま県の宿題でもある。目指す目的地は変わらない▲ひと頃の県議会には、その人の一声に皆が従う「重鎮」や地域代表の「顔役」がいて、一部に「政策通」と呼ばれる議員がいた。これからはどうだろう▲前に挙げた宿題に、行政はこれという答えを見つけていない。おのおの答えを考え抜き、行政に指し示す。その腕前が要るに違いない。政策という石材を積み上げる職人の仕事ぶりが試される。(徹)(長崎新聞・2023/04/11)

 

「民主主義と平和憲法は、日本人が持ち続けてきた最良の習慣だ」と言った大江さん。そうですか。もっとそれを正確に言い直すと、「最良の習慣」ではなく、「最良の習慣なのだと訴え続けてきた」ということではなかったか。これが一つの「売り」だった。「世界で唯一の被爆国」というのと同じように、です。実質が伴っていたのか、なぜ伴わなかったのか。それこそが問題でしたよ。大江さんいうところの「最良の習慣」を「持ち続ける(訴え続ける)」だけでは足りない。その内容を充実させる、形骸化を防ぐための「選挙民の努力」「精進」があったかという問題ではなかったでしょうか。投票率の高低が問題ではない。どんな候補者を選ぶか、選んだ候補者がどんな政治に真向かっているか、それを見届けること、ぼくたちに足りなかったのは、政治家の低能ぶりや腐敗行為だけではなく、そんな低能や腐敗堕落政治家を阻止できなかったこと。つまりは「選んだ側の無責任」だったと思う。

 「石積み工」の話はよくわからない。読んでだ限り、政治家は「未来を見据えた政治(仕事)」をしなさいというのでしょう。でも、〈わたしたちは未来の世代に対し、この石積み工のように胸を張って言えるだろうか〉という元の文章を書いた作者の捉える「石積み工」とは、有権者のことではないのかとも読める。もしそれが誤読でないなら、コラム氏は何をいいたかったんですか、そんな疑問が消えない。政治家が「石積み工」であるはずもない。渡れば壊れる、渡る前に壊れる、そんな「橋の工事」ばかりを政治と偽って来たのが、紛れもない、実際の「石積み政治家」ばっかりだからだ。

 選挙というのは、「選ばれる側の喜び」ではなく(そんなことは当たり前じゃん)、「選ぶ側の責任」が問われる問題だということを、ここでも言っておきたい。「選んだ政治家」が大きな間違いを犯したなら、選んだ側はどうしますか、それが不問に付されて、地方政治も国政も、政治は、ひたすら堕落の一途をたどっています。投票者こそが、問われてきたのが、中央地方を問わず、(政治・政治家の実態」だったと言わなければなるまい。議会に出かけることを、ぼくは何度も誘う割れましたが、録画があったので、それで十分に「議会の質」の高低善悪が判断できていた。格式尊重、内容空虚、それがどうも相場のようでした。右の柳さんの箴言に従えば、棄権をしない、投票に行く、こんな平凡(当たり前)なことがありますか。それが出来ない人が今や全体の六割に及ぶとなると、「当たり前(と思っていること)が当たり前でない(実行はきわめて困難な)ことが明らかになるでしょう。それが「民主主義」思想・態度の根っこにあるものです。

 (もっと言いたいことがあるのですが、本日は天気がいいので、駄文作成はここまで。いくつかの猫が、昨夜から帰ってこないので、猫探しに出かけます)(追加 ただ今午後四時半過ぎ、帰宅しなかった猫のうち、二匹が戻ってきました。朝帰り昼帰り、夜帰りと、陽気の加減で、各自バラバラです。一応、門限は十時頃としています、その時間になって出ていくという輩もいる。)

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