文七元結を聴いて、夫婦親子を考える

【水や空】心温まる 「下げ」よく知られているのは夫婦の人情噺(ばなし)「芝浜」だろうか。年の瀬の江戸を舞台とする古典落語には名作が多いとされるが、その一つ「文七元結(ぶんしちもっとい)」に、隅田川に架かる橋の上で男2人がやりとりする場面がある▲娘の孝行によって借金を返すための50両を手にした男が、年末のある日、橋から川へ身投げしようとする問屋の奉公人、文七に出くわす。店の50両をなくしたのでこうしておわびを、と言う文七に、男は大切なお金を渡してしまう▲「死なせねえ。持っていきやがれ」「いや、受け取れない」。大金をつかみ合うのではなく、譲り合う2人の押し問答がやけにおかしい▲三代目古今亭志ん朝が演じるこの場面をDVDで見ると、笑えるだけではなく、なぜか心に染みる。巧みな話芸によるものなのか、カネをつかみ合ってばかりの昨今の問題にうんざりしている、その反動か▲東京五輪・パラリンピックを巡る汚職事件といい、政治とカネを巡る問題といい、カネの怪しい流れに人々が渋面を浮かべた1年が暮れる。「平和の祭典」という呼び名に運営する側、協賛する側が傷を付けたのなら、なおのこと罪深い▲「芝浜」も「文七元結」も、お金を巡る騒動のあと、心温まる“下げ”がある。現代とはどこか対照的なハッピーエンドにしばらく心を休めてみる。(徹)(長崎新聞・2022/12/26)

 今ではまったく絶えてしまいましたが、時節に合わせて、毎年同じような音楽や落語などを頻りに観たり聴いたりしてきました。暮になると「第九」が今でもあるようですが、本場の国々よりも盛んに “Freude, schöner Götterfunken”という平和への願いを籠めて、全国各地で演奏されてきました。ぼくは一度だって、合唱団に参加したことも、演奏会に出かけたこともありません。この「第九」が嫌いというのではなく、よほどのことでもない限り、音楽は家で静かに聴き、静かに盛り上がるに限るというのが信条でしたから。今でも、車に乗ってFMなどをかけると聴こえてきます。つい先日も。その最後の部分だけでしたが、あ、これは日本人の合唱団だなと直感した、しかしソプラノやテノールは外国人。しかもライブでした。最後まで聴き終えると、演奏はN響で、指揮は井上道義さん。思ったとおり、合掌は国内の音大の学生たちでした。それでどうというのではありません。まだやっているんだ、そんな気がしただけでした。かなり前、もう今はなくなったある大きな交響楽団のソリストたちと話す機会があった際、「第九は、ボーナスみたいなもの」、年越しのお年玉だと言っていたほどに、演奏する方も聴く方も、それなりの意義があったんですね。それが今も継続しているとすれば、おそらく戦後しばらくしてからですから、もう九十年も続く「年中行事」なんですね。(前からの疑問で、どうして暮にしかやらないのか。やはり「お年玉」だからでしょうか) 

 落語も時期によって、聴く出し物が違いました。この師走には、主に「富久」とか「芝浜」、あるいは「文七元結」などですね。他にもありますが、このような演目は、年中聴きますが、やはり暮にはとくに聴く機会が多かったように思います。ぼくは何でもそうで、落語は志ん生や圓生止まり。それ以降はめったに耳にしません。その名人上手たちの噺は、記録されているものは殆ど聴いてきました。同じ話を何度聴いたかわからない。ぼくは授業の改善というか、少しでも学生に伝わるように、何かと工夫はしましたが、もっとも効果があると、一人決めしていたのが「落語の話芸(語り口)」の受容でした。志ん生は、ことのほか、聴かせる話しぶりでした。本日のコラム氏が取り上げている「文七元結」には残された音源が多数ありますから、どれを聴くかで微妙に伝わり方が、当然ですが、異なります。参考例に出しておいたものはどうでしょう。(とても長い噺で、通常は一時間以上は要します。この慌ただしい時代、とても間尺が(に)合わないでしょうね)(▶)(志ん生「文七元結]:http://rakugo-channel.tsuvasa.com/bun7mottoi-shinsho-5

 「富久」も好きですね。「太鼓持ちの久さん」が主役。ついで「富くじ(宝くじ)」が準主役です。そこはかとない「哀感」が漂っているような話です。聴かれるといい。こんな類の話は、先ず学校では教えないですね。そこが学校の限界だと思うな。

 この「文七元結」は三遊亭円朝が作ったとされます。いわゆる「人情噺」とされますね。実際にありそうで、まずありえない噺を、寄席で聞いて、民衆は「溜飲を上げたり」「義憤を晴らしたり」だったのでしょう。明治の初期まで、江戸の各町内にはいくつも「寄席」「小屋」(落語や歌舞伎の定席)があったことが記録されている。今では考えられないくらいに、寂しく慎ましい「夜の楽しみ」に、寄席は不可欠だった。もちろん電気はありませんでしたから、灯りは「ろうそく」。「トリ」という、その日の最後に舞台に上がる芸人(落語家)を「真打ち」と言いました。今でもそのように言っていますね。その意味するところは、話芸に長じていて、観客の「心を打つ」からだというのは、まるでダジャレですね。もしそれが本当なら、こんにち「真打ち」に値する落語家は皆無ではないですか。そうではなく、今では通説ともなっている方をぼくは押します。舞台も客席も暗い中で演じられ、舞台(板)上には「ろうそく」が灯されていた。最後の最後になると、真打ち(演者)はろうそくの芯を打って消した、そこから「芯打ち」、転じて「真打ち」となったとされます。

● 文七元結(ぶんしちもっとい)=落語。以前からあった噺(はなし)に三遊亭圓朝(えんちょう)が手を入れて完成した人情噺。左官長兵衛は腕はよいが博打(ばくち)に凝り、家のなかは火の車であった。孝行娘のお久が吉原の佐野槌(さのづち)へ行き、身売りして親を救いたいという。佐野槌では感心して長兵衛を呼び、いろいろ意見をしてお久を担保に50両貸す。改心した長兵衛が帰りに吾妻(あづま)橋までくると、若い男が身投げしようとしているので事情を聞くと、この男はべっこう問屋の奉公人で文士七といい、50両を集金の帰りになくしたという。長兵衛は同情して借りてきた50両を文七にやってしまう。長兵衛が家へ帰ると女房と大げんかになる。そこへ文七とべっこう問屋の主人がきて、金は得意先に忘れてあったと粗忽(そこつ)をわびて50両を返し、お久を身請けしたことを告げる。のち文七とお久は夫婦となり、麹町(こうじまち)貝坂で元結屋を開いたという。6代目三遊亭円生(えんしょう)、8代目林家正蔵(はやしやしょうぞう)(彦六(ひころく))が得意とした。1902年(明治35)に歌舞伎(かぶき)座で5世尾上(おのえ)菊五郎らによって初演されたのをはじめ、映画化などもされてよく知られた。(ニッポニカ)

● 三遊亭円朝(さんゆうていえんちょう)[生]天保10(1839).4.1. 江戸[没]1900.8.11. 東京=落語家。本名出淵 (いずぶち) 次郎吉。2世三遊亭円生の門下で,7歳のとき小円太と名のって初高座。のち奉公に出たり,浮世絵師一勇斎国芳の弟子になったりしたが,再び芸界に戻り,円朝と改名。若いとき道具入りの芝居噺で人気をとり,また河竹黙阿弥や仮名垣魯文と交わって三題噺を流行させた。明治に入り自作自演の素噺に転向し,『牡丹燈籠』『真景累ヶ淵 (かさねがふち) 』などの怪談噺や人情噺のほか,新聞種や実地調査に基づく『安中草三』や『塩原多助』,また G.モーパッサンなどの翻案物も口演した。明治新政府の要人や各界の名士と交わり,落語家の地位を向上させ,江戸落語を集大成するとともに後進を養成,また速記本の出版で,文学の言文一致運動に影響を与えるなど,功績は大きい。(ブリタニカ国債大百科事典)

 骰子賭博で負け続きで、何年も稼業を放り出し、尾羽うち枯らした左官屋が、娘の体を張った機転で五十両を得る、それをそっくり見ず知らずの店者の若衆にくれてやる、こんな「浮世離れした話」だからこそ、客は安心して聴くことができたのでしょう。自分の貧乏や明日をも知れぬ生活の苦労から、ほんの一瞬であれ、解放されたのではなかったか。ぼくは「左官の長兵衛さん」は永遠の「男気」だと思っている。これをこそ「江戸っ子」といったのかも知れません。江戸っ子とは、どこにもいない存在であり、だからこそ、「これぞ江戸っ子」という人物像(作り話)を、落語作家であった圓朝は生み出してきたのでしょう。この圓朝という人は「共通語「標準語」とされる、明治期の書き言葉と話し言葉の一致(言文一致体)がなんとか成り立つためにも大きな働きをしたとされます。この島には「共通言語」「標準語としての話し言葉」は明治初期には存在していませんでした。このことについては稿を改めて考えてみたい。夏目漱石は落語好きとして知られていましたが、彼の小説の「話言葉」は落語家(圓朝など)から大きな影響を受けていたのでした。子規も同様だったでしょう。

 これは余談です。長兵衛さんの娘のお久さんは、長兵衛と先妻との間にできた子でした。継母(ままはは)と継子(ままこ)の、この「つながり」をどう受け止めればいいのでしょうか。言うまでもなく、江戸期にも再婚や離婚はありました。もちろん、今では「分かれるために結婚する」のではという時代ではなかったから、再婚は男にも女にも気安くはなかったと思われます。長兵衛さんの先妻がどうしたのか、ぼくにはわかりません。継母と継子の、噺の上での親子の情愛の深さを、作者の圓朝は、この落語の、もう一つの核として描いたようにぼくは考えている。「なさぬ仲」、今の時代、このような「義理の親子」(子どもが辛いのは当然だし、母親であっても苦しいのだ)が、どれだけ苦悩し煩悶しつつ生きているかを思う時、この「文七元結」にはさまざまな「人間模様」が織り込まれていることがわかるのです。(考えてみれば、夫婦だって「なさぬ仲」じゃないかと、ぼくはずっと思いこんでいました。血の繋がりがないのが人間関係の、もう一つのあり方なんですね)

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 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり(万太郎)

 【日報抄】おでんに入れる具といえば? 大根それから卵だろうか。人気者である卵の値段が上がった。長らく「物価の優等生」と言われてきたが、1年前に比べると3割ぐらい高いとの相場データがある▼鳥インフルエンザの影響がある。さらに鶏の餌となる飼料の高騰も痛手になっている。多くを輸入に頼る飼料は価格が2倍になったとの話もある。段ボールなどの資材費や運送費も上がったそうで、優等生を取り巻く厳しさが伝わってくる▼日本政策金融公庫がまとめた冊子には、そうした生産現場の悲嘆が載っている。牧場も困っているという。飼料代だけでなく、高い電気代も重荷。畜舎に多く設置した扇風機を止めるわけにはいかないのに。60万円だった1カ月の電気代が85万円を超えたとの例が紹介されている▼牛乳メーカーも仕入れ値が上がって苦しい。容器となる紙パックの値段も、工場のタンクを洗う洗剤の価格も上がってしまった。ハウス栽培をする農家も苦境にある。ハウスを暖めるための重油が急騰。キュウリを育てる生産者によると、年300万円だった燃料費が550万になりそうだ▼どこも手をこまねいているわけではない。鶏ふんを堆肥にして韓国に輸出してみたり、暖房費のかからない夏だけの生産を試みてみたり。ピンチの中でひと筋の光をたぐる▼値上げなどしたくない。優等生でいられるなら、いたいはず。でも限界がある。卵や牛乳、野菜を手に取るとき、高騰の波をかぶる生産者の苦しみに目を向けたい。(新潟日報デジタルプラス・2022/12/25)

 愚問です。「おでん」と聞けば、何を思い浮かべるでしょうか。ほぼ全員が「「煮込みおでん」でしょう。醤油味でいろいろな具材を煮込んだものです。時代的に言えば、それは極めて新しい調理法で、一種の「ごった煮」ですね。元来はそうではなかった。この食べ物の由来は「田楽(でんがく)」にあった。「田楽」は一種の習俗とも言えるもので、「田の神」を祀るための踊りや囃子などが繰り広げられ、恐らく【五穀豊穣」を祈ったのでしょう。一説には、平安時代あたりから見られるそうです。その後、田の神や田植えなどとは独立した、民俗芸能として広く民間で受け入れられた。ある種の大衆芸能であり、その流れは、ごく最近まで受け継がれてきたのです。その「田楽」「田楽舞」は他の風習と混在し、独自性が見えなくなりました。その履歴がかろうじて「味噌田楽」などという食べ物としてその痕跡をしのぶことができるのです。なぜ、食べ物の名前になったのか、無責任な当て推量をいうと、おそらく田植えなどの集団労働の際の「共同食」だったのかも知れません。豆腐や蒟蒻(こんにゃく)などに味噌を塗り、それを串に挿して食用に供したのでした。詳細は以下の辞書に譲っておきます。

 今で言う「おでん」は鍋物の典型として、多くの人が好んできました。かくいうぼくも大好きで、その昔は、一つ一つの具材を揃え、自分で作るのを楽しみとしていました。もちろん、お酒の友として、です。何軒か、よく通った店もありました。勤務先のそばにもよく流行るお店があり、しばしば酔いつぶれるほど(その店は白鶴の升酒でした)飲んでは、おでんに舌鼓を打った。今も、そのお店は健在かどうか。新宿や銀座にも名物おでん屋(ぼくが通ったのは「お多幸」)がありました。ここにも、何十年もいかなくなりました。健在かどうか。その店も、いつ行っても混んでいるような繁盛ぶりでしたね。

● おでん=鍋(なべ)料理の一種。おでんの名称は「おでんがく」の略語で、その語源は田楽(でんがく)である。田植どきに豊作を祈念して白い袴(はかま)に赤、黄、青など色変わりの上衣を着用し、足先に鷺(さぎ)足と称する棒をつけて田楽舞を行った。このときの白袴に色変わりの上衣、鷺足の姿が、白い豆腐に色変わりのみそをつけた料理に似ているので、田楽のようだといったのがこの料理の名称となり、本来の舞のほうは忘れ去られた。/ 古いころの田楽は焼き豆腐にみそをつけるものもあった。こんにゃくが豆腐のかわりに使われる場合はゆでて用いていた。江戸中期から、野外宴会などに豆腐田楽が用いられたが、これに適するため滋賀県栗東(りっとう)市目川(めがわ)の崩れにくい田楽が導入された。当時の田楽串(くし)は先が3本に分かれていた。いまは全国的に2本串になっているが、名古屋、岐阜の一部に3本串が残っている。おでんの呼称は、田楽におの字をつけて「お田楽」となり、楽がとれて「おでん」となったものである。みそを用いての煮込みおでんは江戸後期にみられるが、しょうゆ味のだし汁で煮込んだおでんは明治の産物である。/ おでん種(だね)は、豆腐、がんもどき、こんにゃく、はんぺん、イモ、ダイコンなどであったのが、いまは動物性材料が多くなっている。大正の中ごろ、関西で「関東煮(だき)」の名で紹介されたものは、鶏のだし汁に下煮をした種を加えるのできれいな料理になって、関東に逆移入され、全国的にこの形態になった。郷土色のあるものでは、徳島の「でこまわすで」とよばれる、串刺しのサトイモにみそをつけて焼く田楽がある。熱いので息をかけながら串を回して食べるようすが、阿波(あわ)人形を操るのに似ているのでこの名がある。(ニッポニカ)

 これもどこかで書いています。おでんというのは種々の具材を煮込むもので、一品では絶対に出せない、混合の味が売りになっているのでしょう。ダイコンだけ、蒟蒻だけ、竹輪(ちくわ)だけでも食べられなくないし、それを好む人がいるのも事実です。しかし、それぞれの味を持ったものが時間をかけて煮込まれると、雑多のより合わせの味が滲みてくるのです。異種混合、あるいはハイブリット、それこそがおでんの風味だというと大げさですが、いかにも雑種のたくましさがあると、ぼくなどは思ってしまいます。今では沢山の具材(種)に出汁(だし)までがパックになったものが売られています。時々それを食べますが、なにかおでんを食べているという感じがしませんね。「練り物鍋」という気味が強く、あまり口には合いません。簡単というか、何もしないで鍋に移して温めるだけ、これを料理とは言わないのでしょう。面倒ですが、ダイコンもじゃがいもも、家で下ごしらえし、時間差をもってそれぞれの材料を煮るという手間暇が、雑多煮の良さを醸し出すのではないでしょうか。

 おでんには焼き豆腐が入っているかどうか。豆腐といえば、ぼくは何十年も「湯豆腐」を作り、食べ続けてきました。家で酒を飲むときは必ず「湯豆腐」(夏は「冷奴」)でした。それだけで、他になにもいらないほどに、湯豆腐を堪能していた時期が長く続きました。それだけ口にあった豆腐が手に入ったということで、この地に引っ越してからは、ぼくにとっていい豆腐というものが見当たらなくなり、それも一因で、ぼくは酒を飲まなくなった。もう十年近くになります。湯豆腐はめったに口にしなくなりました。でも、その食感の記憶は残り続けている。そして湯豆腐というと、きっと思い出すのが表題の句です。これは久保田万太郎さんの、いわば遺言ならぬ「遺句」となったものでした。晩年に、彼は長く独り身で生活されていたそうで、奥方にもお子さんにも先立たれた。この句は、死の一ヶ月余り前の作だったそうです。

 湯豆腐やいのちのはてのうすあかり  

 まさか「行燈」ではなかったでしょう、湯豆腐の間は。それであっても不思議ではないような陰影が刻されています。今時のLEDでは、先ず生まれない雰囲気ですね。そして、この「うすあかり」とは、万太郎さんを襲って止まなかった「寂寥感」というものだったろうか。

● 久保田万太郎【くぼたまんたろう】=小説家,劇作家,俳人。俳号暮雨,のち傘雨。東京浅草生れ。慶大文科卒。1911年小説《朝顔》,戯曲《プロロオグ》で認められ,三田派の代表作家となる。下町の生活と情緒を愛し,好んで市井人の生活を描いた。小説に《春泥》《花冷え》《市井人》,戯曲に《大寺学校》などがある。また江戸趣味の俳句をよみ,句集《道芝》がある。演出家としても一家をなし,放送演劇にも尽力した。1957年文化勲章。(1889-1963)

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 You raise me up to more than I can be.

 数日前から、腰のあたりに違和感があり、ひょっとしたらと案じていました。腰痛でしたね、完全な。すこしずつ痛みが加わってきました。あるいは車に乗りすぎていたのかもしれない。大した距離を走るわけでもありませんが、行ったり来たりと、近間の要件が重なったのは事実で、それが遠因かもわからない。本日も早朝(三時半ころに起床)から、あれこれと雑用に追われていました。この痛さを和らげるには、「唱歌」に限ると、いろいろと聞いては見ましたのに、痛みが喰わってくるのですから始末に悪い。

 そこである人の街角ドライブをと思い立って、聞き出したのが、「あなたがいるから、私は強くなれる」と。マーティン・ハーケンさん。日本流に言えば、【のど自慢大会】で優勝した、元パン職人の歌手です。数年前には日本にも来たことがあるそうです。「のど自慢」といえば、北島三郎さんがまだ若い頃に応募して謳ったが、鐘が一つだったか二つなったか、といいます。日本の歌手の相当多くが「のど自慢荒らし」の経歴を持っているそうです。これは余談ですが、まだ石川県にいた頃、おふくろが「NHKのど自慢」に出たことがある。彼女はモボでもあり、古典民謡派でもありました。

You Raise Me Up

When I am down and, oh my soul, so weary When troubles come and my heart burdened be Then, I am still and wait here in the silence Until you come and sit awhile with me. You raise me up, so I can stand on mountains You raise me up, to walk on stormy seas I am strong, when I am on your shoulders You raise me up to more than I can be.(抜粋) (https://www.youtube.com/watch?v=4RojlDwD07I&ab_channel=L1

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 Martin Hurken氏についても、少しは話したいのです。しかし、腰痛のしびれがそれを許さないようで、いかにも、これまでの「駄文の祟(たたり)」なのかもしれないと、ますます落ち込むばかりです。でも「君がいてくれるから、ぼくは立ち上がれるんだ」と、ぼくの内なる「君」が現れるまで、少しは自重していましょうか。

 おまけに:森麻季さんで。(https://www.youtube.com/watch?v=y4hR-ygBU1U&ab_channel=SopranoChannel

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 贔屓の引き倒しにならないために

 高校野球もプロ野球もほとんど、いやまったく見なくまりました。中・高校時代には野球をしていたのですから、野球に関心がないわけではありません。でも、長島や王、野村や中西という、半世紀前の野球選手のような「輝き」「野性味」などが見られなくなったという思いが強くなったのが、野球から遠ざかった理由でしょう。あるいは「個性的」な選手の見本市のような場所だったと思う。高校野球については、新聞社が自社の宣伝に使っている、その不純な動機が野球を食い物にしているという思いが年々強くなったからでした。これはあくまでもぼく自身の感想でしかない。

 それはともかく、「灯台下暗し」で、こんなすごい選手が、しかもまだ二十二歳、ヤクルトにいたのだということが驚きでした。想像を絶する精進の上に「三冠王」の記録が輝いたともいえます。王さんが55号を記録した年齢は二十四歳だったと言う。ずいぶんと若かったんですね。(余談です。ぼくがもっとも好きな野球選手は、落合博文さん。次いで野村克也さん。以下は多数です。お二人の人生に対する真摯な姿勢に感銘を受けてきました)

 ぼくの直観では、どんなに素晴らしい「前人未到」の記録でも、きっと、あるいは必ず破られるという思いがあり、実際、さまざまな分野における「新記録」は、達成に要する時間の長短はあるにせよ、いつかはそれを破るような「新記録」に塗り替えられる。村上選手の存在は、今夏になって初めて知りました。彼が熊本出身だということも。熊本出身の野球選手と言えば「野球の神様」と称された川上哲治さん、その川上さんにつながる「熊本出身といえば、村上」、ということで「お国自慢」が大きな喜びを持って顔を出す。村上選手の「偉業」に熊日新聞は「号外」を持って報いたのです。見出しが踊っています。「村上56号 王超え」「58年ぶり更新 日本選手最多」と。郷土の誇り、県民栄誉賞だと、いいたそうな。

 56号本塁打記録に「水をさす」気は少しもありません。この記念すべき記録達成に、ほとんどの新聞等の報道は「日本選手最多」という形容語を付けていました。「日本選手」「日本人選手」というのはどういうことでしょうか。ある時期まで王選手は「日本人選手」ではなかった。そのために「国民体育大会」に出られなかった。その「国民」は日本国籍者に限るという、当時で言うなら。笑うべき「純血主義」が通用していたのでしょう。今から六十年以上も前のことでした。野球の世界(にかぎらない)は、人種や民族にかかわらず、野球というスポーツに打ち込む仲間たちで作り出す、ある種の水平というか平等のルールに支配された競技ですから、殊さらに「日本選手最多」などという必然性はないものです。(こういうところが「島国根性」と言われる所以なんでしょうか)

 しかし、なかなかそうじゃないんですね。第一、今回の記録達成が熊本出身選手だったから、地元新聞社から「号外」が出たのであって、これが宮崎や北海道出身選手だったらどうだったか。ぼくは運動(スポーツ)は好きですが、そこに「国(都道府県市町村)」や「民族」や、その他の「属性」がつくのは、一面では理解できそうですが、あまり意味のあることではないと思う。「我が国」「我が県」などというのは、なんででしょうね。「贔屓」ということでしょうか。村上選手の記録は、日本選手最多ではあっても、年間本塁打の新記録ではありません。外国選手(バレンティン。ヤクルト所属)の六十本があります。これがまったく問題にならないで、「日本人では最多」という捉え方は実に滑稽じゃないですか。比較するというのは、一ミリ二ミリの、微小な違いを「針小棒大」にする作業なんですか。

 これは野球に限らないし、日本だけのことではないでしょう。中には「日の丸」や「都道府県旗」を背中に、それぞれの試合に臨む選手がいるのかもしれない。ぼくは野球は好きだが、「都市対抗野球」ばかりは嫌いで、一度だって観戦したことがなかった。遊びだったかもしれないが、野球の冒涜につながっていましたね。軍旗はためくというのとは大いに趣は違うでしょうが、スポーツは国や国民のためにするものではないと言ったら、批判されますかな。自分のためと、どうして言わないんですか。そこに、この地のスポーツに特有の「胡散臭さ」がついて回っていると思う。大相撲は「プロレス」みたいなものだから、勝ち負けに血道を上げる(力士もファンも)のは、少しは違うようにも思われます。まるで歌舞伎や芝居のようなもので、「贔屓(ひいき)」の流儀というのがあるのでしょうね。大相撲の土俵入りを聞いていると、必ず「出身国」「出身都道府県」が紹介されます。これはこれで理屈があるのでしょうか。

 繰り返す。スポーツ選手は国や出身地のために成績を上げ、勝ち負けに拘(こだわ)るのではないでしょう。自らの活躍に応じて結果がついてくる。それが新記録であれば、同郷の人でなくとも嬉しいでしょう。メジャーリーグの大谷選手、彼は日本人だからすごいのではなく、能力的に勝れているから素晴らしい記録を示しているのではないですか。それを素直に、喜ぶ、歓迎する、そこに「日本人だから」という形容句はいらないな、といいたい。ここで駄弁っていることは「どうでもいいコト」です。でも、野球ファンが「贔屓選手」「同郷選手」の記録達成を喜ぶのと、新聞やテレビが「デカデカ」と記「日本人として最多・最高」と記事やニュースにするのとは意味が違う気もするんですよ。野球は「民族」でやるものではないし、もちろん「スポーツ」それ自体がそうでしょう。今の五輪のように「国別対抗戦」みたいなことになれば、スポーツでも競技でもなく、「競争」「対抗」に成り下がってしまいませんか。もちろん、それで十分という人はいるでしょう。どうぞ、お好きに。

 ぼくが、段々とスポーツ嫌いになっていった理由のかなりな部分は、民族や人種、あるいは所属国が、アスリートのお腹か背中か、表に出てきたからではないかと考えている。単純な「スポーツ好き」と言うのは、以外に難しい立場なんだな。これこそ、麗しき「伝統」なんでしょうね。「源平合戦」もどきの「紅白対抗」が、早い段階から学校で繰り返し行われていますね。紅白ならぬ、白黒を付けて、勝ち負けを明らかにしたんですね。ぼくには受け入れがたいこと。違う方法がありそうですが。(いつもみたいに、書かなくてもいいことを書きました。だから、「駄文」ということになるのでしょうね)

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 蛇足です。どんなにすごい記録でも、いつかは破られます。「記録は破られるためにある」と言われるぐらいです。その記録を、早い遅い、多い少ないなどといって、簡単に、数字だけでは比較できませんね。だから、その時、その時の記録が貴重なんだと言いたい。「日本人で最多」も、たしかに「数」ではそうですが、もう少し吟味すると、違った判断が求められるようにも思います。例えば、同じ50本でも、試合数の多少があるとなると、単純な「数だけ」の比較は無意味ですね。それもこれもすべて含めて、達成された段階の記録が尊重されるべきなんでしょうね。「贔屓の引き倒し」にならないために、スポーツ好きはなにをすれば間違わないのか、どんな態度が求められるのか、一考を要する問題ではないですか。「日本人で、未成年で、高齢者で、最高・最速・最長…」などという、その狙いはなんですかね。序列を付けたがるし、その序列の内容が意味不明になっていないか。(どうでもいいことですが)

 何ごとによらず、「好きになる」は情念ですから、一度、それ(情念)が野放しになると見境がつかなくなるんですよ。「愛」というのも「憎」というのも、出どころはいっしょなんですね。根っこはいっしょ、だから「愛憎半ばする」というのです。愛という情念がなければ、人を憎むことも難しい。「泣き笑い」もそうでしょうね。感情が強まると、どちらの場合も「涙」が出ます。「喜怒哀楽」は、基本は「情念(passions)」というはたらきによるもので、過ぎたるは及ばざるが如し、ということになるのです。

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 数日前に、インドネシアで行われたサッカーの試合で「ホームチーム」が負け、怒ったファンが試合場になだれ込み、それに対して警察が催涙ガスを発射し、暴動になって、多数の死者が出たとされます。これはどういうことでしょうか。サッカーの勝ち負けが、別の条件(要素)に引き換えられてしまったのではないか。「贔屓(ひいき)の引き倒し」なんでしょう。その有り様は「贔屓しすぎて、贔屓している当事者を不利にしてしまう」ということらしい。プロ野球などでも、以前はよく見られた光景です。応援が嵩じて、当のチームを「やばくする(不利にする)」というようでした。相当前に、南米のあるチームがサッカーの試合で「オウンゴール」で負けたことがあった。その選手たちが帰国した際、当の選手が射殺されたとことも、ぼくの記憶に残っています。

 【エスコバルの悲劇】コロンビア代表を襲ったワールドカップ史上最悪の事件とは サッカーワールドカップのブラジル大会で、6月25日に日本と激突するコロンビア。1994年のアメリカ大会の直後に起きた「エスコバルの悲劇」からまもなく20年を迎える。この大会で、DFを務めたアンドレス・エスコバルを襲った事件は今もワールドカップ史上最悪の事件として語り継がれている。(中略)当時の報道によると、犯人は銃弾を放つ瞬間に「オウンゴールを有り難う」と言ったという。サッカー賭博に絡んだ犯罪組織の関与などの憶測が流れているが、今も真相は、はっきりしていない。エスコバルの葬儀には12万人を超える人々が参列し、この事件を機に何人かの選手がコロンビア代表を辞めている。(https://www.huffingtonpost.jp/2014/06/10/andres-escobar_n_5476929.html

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 秋桜好きと書かないラブレター

 秋風に揺れるコスモス 高根沢で次々開花 栃木県高根沢町宝積寺の鬼怒グリーンパークで、五分咲きとなったコスモスの花が秋風に揺れ、訪れる人たちを楽しませている。/ コスモスは広さ約2.2ヘクタールの花畑にあり、今後、4種類120万本が順次開花していく。同パーク管理事務所は「10月下旬まで楽しめそうです」としている。/ 大田原市加治屋、主婦木村雅子(きむらまさこ)さん(55)は「すてきな場所で、毎年来て楽しんでいます。一眼レフカメラは使い始めて2回目です。うまく撮れるといいのですが」と話した。(下野新聞・2022/09/30)

(右上の写真は、コスモスを撮ろうとしたのか、あるいは女性を撮るつもりだったのか。どうもピントは女性にあっているようにも見えます。カメラマンは「女性がコスモス」、あるいは「コスモスは女性」と見えたんでしょうね)

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 彼岸花(曼珠沙華)が今を盛りと咲き競っています。田んぼの畦道や農道の脇に、それこそ、まるで火炎(かえん)のような赤紅色の花があちらに数十本、こちらにも数十本といった具合に、あるいは邪(よこしま)は許さないぞ、というような激しさをうちに秘めて、秋色の景色にひときわ特異な印象を刻んでいる。彼岸花が好きかと問われれば、にわかには答えられません。好き嫌いを越えて、目に迫ってくるのですから。彼岸花は別名、「曼珠沙華 (まんじゅしゃげ) 。死人花 (しびとばな) 。捨て子花。石蒜 (せきさん) 。天蓋花 (てんがいばな) 。幽霊花。かみそりばな」(デジタル大辞泉)とも呼ばれています。この花については、すでにどこかで触れましたが、「まんじゅしゃけ」とも) (サンスクリット語のmañjūṣaka の音訳) 仏教語です。根に毒を含むというので、野ネズミやモグラを寄せつけないために「畦(あぜ)道」などに植えたと言われます。「死人花」などと称されるのも、この「毒性」と無関係ではないでしょう。お棺に添える花としても知られていますので、なにか「彼岸(あの世)」と深く因縁のある花として、ぼくにも強烈な印象があります。

 それと肩を並べるという風情・情緒は微塵もないのが、同じ季節を彩っているコスモス(和名は秋桜・あきざくら)です。秋桜(コスモス)はいいですね。でも、何千何万と咲き誇るのを見るのは、余り好きではありません。なんでもそうで、これでもかというように、どんなに美しいものでもたくさん並べられると、ぼくは辟易としてしまう。いかにも食傷の気味がしてきます。野道を歩いていて、遠くからかすかに、背の高い茎・幹と花が見えてくる、その瞬間がいい。よく歩く道は「彼岸花」一色ですから、その脇に秋桜は居つかないのでしょう、並んで咲いているのを見たことがありません。また付近の散歩道にも秋桜畑なるものが見当たらない。車を走らせて二十キロも行けば、それなりの群生秋桜(コスモス)が見られます。広大な敷地一面に花は満開ですが、そんな景色は、どちらかというと苦手で、ほとんど興味がない。逃げ出したくなる。遠くから眺めるのがせいぜいです。思いがけず、行き当たりに数本が所々に咲いているというのが、ぼくには好ましく見えるのです。例えば、「コスモスはどこにありても風少し」(細見綾子)という雰囲気ですね。

● 曼珠沙華= (「まんじゅしゃけ」とも) (mañjūṣaka の音訳) 仏語。赤色(一説に、白色)で柔らかな天界の花。これを見るものはおのずからにして悪業を離れるという。四華の一つ、紅蓮華にあたる。日本では、彼岸花(ひがんばな)をさす。《・秋》 (精選版日本国語大辞典) 

● し‐け【四華/四花】説法などの際、瑞兆ずいちょうとして天から降るという4種のはすの花。白蓮華・大白蓮華紅蓮華・大紅蓮華の称。四種の花葬送で、四方に立てる白色の蓮華。また、その造花。(デジタル大辞泉)

● コスモス:こんな植物です=コスモスの仲間はメキシコを中心に約20の野生種が知られています。その中でもコスモス・ビピンナツス〔Cosmos bipinnatus〕とその園芸品種を指して「コスモス」と呼ぶのが一般的です(以下、本種をコスモスと呼びます)。/ コスモスは春~初夏にタネをまいて夏~秋に花を楽しむ春まき一年草として扱います。野生種はメキシコの高原が故郷、夜が長くなると花芽を作る「短日植物」で秋以降に花を咲かせます。和名のアキザクラが示すとおりです。/ 園芸品種には一定の気温があれば日長に関係なく開花する早咲き系があります。早咲き系は春早めにまくと初夏には開花します。また、早咲き系に対して従来通り秋に咲く系統を遅咲き系と呼ぶこともあります。ちなみに、主力で広く普及しているのは早咲き系の品種です。 /野生種は草丈2~3mになりますが、園芸品種は矮性種で40cm、高性種で1.5mほどです。葉は細かく枝分かれして羽状になります。花径は大輪種で10cmを超します。色は白、ピンク、赤、黄色などがあります。白地に紅色の縁取りが入るピコティ咲きなど可愛らしいものもあります。一重のほか、花びらの付け根に小さな花びらが付くコラレット咲きや花びらが筒状になるユニークな品種もあります。 

▼名前の由来=コスモスは英語で「宇宙」の意味ですが、植物でいうコスモスはギリシア語の「kosmos」に由来し「美しい」という意味です。美しい花の姿に由来します。種小名のビピンナツスは「2回羽状の」の意で羽状の細かい葉姿にちなみます。                               ▼来歴=ヨーロッパへは17世紀末~18世紀初頭にスペイン人神父によりもたらされました。日本へは江戸時代末、文久年間に伝わりました。広く普及したきっかけは明治前期、イタリアから東京の美術学校に赴任してきたラグーザによって持ち込まれたタネによると言われています。(「ヤサシイエンゲイ」:http://www.yasashi.info/ko_00002.htm) 

 草花に思いを寄せるのは、現実逃避とも見られそうですが、そうではありません。時に草花に肩入れするのは、一種の精神の体操、あるいは深呼吸ですね。こんな不便な山中にいても、そこは浮世、ここも浮世、それと縁切りはできないのです。世間で問題になった事件、世界の騒動の種などは、否応なしに拙宅にも飛び込んできます。若い頃は、人並みに「政治行動」といえばいいのか、デモにもでかけたし、アジ演説もした。たったひとりで新宿あたりをプラカードを持って歩いたこともある。気休めだったかもしれないが、これもまた、ぼくの深呼吸の方法でもあったのです。この二十年近く、驚くべき頽廃や堕落が政治・経済を筆頭に、あらゆる分野で生じています。これはこの島だけの現象ではなく、洋の東西を問わず、大きな「海練(うねり)」のなかにぼくたちも取り込まれているのでしょう。しかし、この社会の独自の「悪性宿痾」が隠し仰せなくなった部分も小さくないのです。

 しばしば、「戦前に似てきた」「昭和初期の、嫌な時勢にそっくりだ」と、ぼくたちの先輩たちは、いまから三十年ほど前に言っていました。ぼくはまだ、四十代だったから、「なにを旧くさい経験を持ち出して」などと批判の目を向けていたと思う。しかし、戦争体験のないぼくのような世代でも、この二十年ほどの政治状況を見ていると、あるいはとんでもない方向をたどっているという実感を強くしてきました。隣国である韓国、北朝鮮、あるいは中国に、無理矢理に敵対せんばかりの虚勢が、いつのまにか「軍事大国」張りの防衛費を獲得するまでになっているのです。数年内に十兆円という。それだけの軍事費をどうするのか、まず第一にはアメリカの時代遅れ[(旧式)の武器を購入する、それも「言い値」で。第二に、自衛のための防衛力ではなく、敵基地を攻撃するための攻撃力をつけるために、と言うのです。「敵はどこ?」、と問えば、きっと中国や北朝鮮だというのでしょう。いま盛んに「台湾有事」をやかましく言い、必ずこの社会も戦争に巻き込まれるというのでしょう。アメリカが中国に挑む、ならば「集団的自衛権」だと、まるで夢にも及ばぬ、荒唐無稽です。白昼夢を見ていたんですね、権力者集団は。いやもっと明確にうと、防衛力や軍事力の増強を主張している連中には「仮想敵」も「現実敵」もいないのです。要するに、己たちの陣地を強化拡大知るための「図上演習」を噛ましているだけのことでしょう、ぼくにはそう見える。

 「歴史を学ぶ」というのは受験のためではないんですよ。歴史を学ばないものは、「過去という鏡」を持たないから、とんでもない間違いをする。過去に犯した間違いが記憶されていないから、いつだって初陣(初体験)のつもりでしょう。この十年は、特のこの印象が強くなるばかりでした。「無恥と無知」という二枚看板が、世間を席捲したんですから。怖いもの知らず、それも束の間、ご本人は誰よりも早く「彼岸」に逝かれた。

 韓国はけしからん、中国を制裁しなければ、北朝鮮は生意気だと、どの口をもって言えるのでしょうか。その「世界知らず」(「世間知らず」にあらず)ぶりに遭遇して、こんな辺鄙な山中にいて、一人「切歯扼腕」、悔しさに思わず「歯ぎしり」をし「腕を強く押さえる」ほどに怒りがこみ上げてきます。(ぼくは「義歯」ですけれども、歯ぎしりはできます)「統一教会」というカルト集団は、政権中枢にはいりこみ、まるで吸血鬼のごとくに権力中枢の血液を吸い付けてきたのが、戦後のある時期からこれまでの数十年でした。今回の銃撃事件で、ようやくその「闇」に光が入り込んだということでした。

 カルト集団との癒着(関係)を一切断つと、表向きは言いふらしていますが、それはまず不可能でしょう。あまりにも深く「絆(腐れ縁)」が結ばれているからです。まるで「血縁関係」を断つほどの、ありえない話です。もしそれが実現されたら、権力政党は瓦解するかもしれない、それほどの危機でした。しかし、その危機状況認識はほとんど真面目に受け取られてはおらず、「虚言」を繰り返して当座を凌げば、「すべて良し」とする風潮さえあります。一政権党が壊れるだけならまだしも、この社会の脆弱なところは、「寄らば大樹の陰」、「親方日の丸」という古色蒼然とした体質の表現は、「大樹」も「親方」も元気であればこそですが、今はむしろ驚くばかりにひ弱なもので、「D group」(広告会社を名乗る)「NTV group」(新聞テレビ会社を名乗る)に頼り切っている(支配されている)のが実情です。汚染された五輪、コロナ禍の悪質な「中抜き」泥棒・詐欺行為も、すべては、このような官と合体した「民間」が主導しています。つまらない話ですが、「国葬儀」を万端取り仕切ったのは「NTV」の子会社です。詳しくは言いたくない(虫唾が走っています)ので、このくらいにしておきます。 

 政権党のある議員が故元総理を「国賊」といった。ために当該党は「除名だ」「処分だ」と騒ぎ出しています。どうしてか、「図星だったから」です。よく「火(屁)の元、騒ぐ」といいます。すでに議員を辞めた「元法務大臣」「元副総理」は統一教会の顧問弁護士をしていました。現副総理(前財務大臣)は「教団」とは長い付き合いをしています。あるいは前総理(国葬で「弔辞」を読んだ)も、深い交際のある方ですよ。だから、個々の議員のあれこれの問題などではなく、党全体がひょっとして、エキスを吸収されていたと言ってもいいのでしょう。巣食われていたのです。「党は無関係」と早い段階で幹事長が叫んでいたのが印象的です。本体が侵されていた。

 この「教会」には、既成の「新宗教」(創価学会や生長の家、あるいは立正佼成会などを経た(除名や退会した)多くの信者がいましたから、「政治と宗教」などという問題はお手の物でした。いずれ書く機会があるかもしれませんが、そのような宗教猛者(もさ)たちにとって、一票欲しさに狂っている政治家など「赤子の手をひねる」ほどの容易さで「篭絡」できたのです。それが恐らくもう半世紀も続いていたと言ってもいいでしょう。この国は、落ちるところまで落ちているのです。その破滅的状況は、致命的と言うべきなのかもしれません。

 と、ここまで駄文を綴ってきて、深呼吸の必要を感じたという次第。それがコスモスであり、彼岸花だったのです。現役俳人の中でもぼくが好む鷹羽さんの一句。それに木村享史(きょうし)さんの一句も。

・情なき世となりぬ秋ざくら(鷹羽狩行)                             ・透きとほる日ざしの中の秋ざくら(木村享史)

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(タイトルの俳句について)

 《 秋桜好きと書かないラブレター 小枝恵美子 パッと読むと、「なあんだ」という句。よくある少女の感傷を詠んだにすぎない。でも、パッパッパッと三度ほど読むと、なかなかにしぶとい句だとわかる。キーは「秋桜」。つまり、コスモスをわざわざ「秋桜」と言い換えているわけで、この言い換えが「好きと書かない」につながっている。婉曲に婉曲にと、秘術(?!)をつくしている少女の知恵が、コスモスと書かずに「秋桜」としたところに反映されている。ラブレターは、自己美化のメディアだ。とにかく、自分を立派に見せなければならない。それも、できるかぎり婉曲にだ。さりげなく、だ。そのためには、なるべく難しそうな言葉を選んで「さりげない」ふうに書く。「秋桜」も、その一つ。で、後年、その浅知恵に赤面することになる。掲句で、実は作者が赤面していることに、賢明なる読者は既にお気づきだろう。以下は、コスモスの異名「秋桜」についての柴田宵曲の意見(『俳諧博物誌』岩波文庫)。「シュウメイギク(貴船菊)を秋牡丹と称するよりも、遥か空疎な異名であるのみならず秋桜などという言葉は古めかしい感じで、明治の末近く登場した新しい花らしくない。(中略)如何に日本が桜花国であるにせよ、似ても似つかぬ感じの花にまで桜の名を負わせるのは、あまり面白い趣味ではない。(中略)秋桜の名が広く行われないのは、畢竟コスモスの感じを現し得ておらぬ点に帰するのかも知れない」。さんざんである。同感である。》『ポケット』(1999)所収。(清水哲男)(「増殖する俳句歳時記))*秋桜=あきざくら 「コスモス」の異称として使われていますが、それほど周知されているとは思われません。(注記 山埜)

HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH

 

 あ そいうことか鰯雲(いわしぐも)

 【天風録】そういうことか鰯雲 雲が流れ行く空を見上げ、秋のひとときを楽しむ人もいるだろう。縁あって旅した新潟で思わぬ話を耳に挟んだ。秋の夜空を詠んだ芭蕉(ばしょう)の<荒海(あらうみ)や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)>は、どうも絵空事だという▲詠んだ場所とおぼしい海岸では、方角からして佐渡島(さどがしま)の上空に天の川が拝めない。辺りの海も穏やからしい。おまけに付き従っていた門人、曾良(そら)の日記によれば、その日は雨降りだった。検証ばやりの昨今、泉下の俳聖も心騒いでいるかもしれない▲それでも名句の評価はいささかも揺るぎない。かつて朝敵として島に流された人々の内なる<荒海>に思いをはせ、天の川で清まれ、鎮まれと願う句にも映る。空模様に託した心模様といえようか▲澄んだ青空に、かえって心が曇る場合もある。身を震わせる台風が駆け抜けた静岡では、土砂崩れで尊い命が奪われた。きっと、天が恨めしかろう。学校や家庭であつれきに悩まされ、心の中で吹き荒れる台風を持て余している少年少女もいるはず▲<あ そうかそういうことか鰯雲(いわしぐも)>多田道太郎。何が「そういうこと」なのか、さっぱり要領を得ないのに引かれる余情がある。雲をつかむような句も、心のねじを緩めるにはいい。(中国新聞デジタル・2022/09/25)

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 多田さんの句、「あ そうかそういうことか鰯雲」について。誰かの句について、何かと解釈や解説はつきものですが、それはまあ、グリコの「おまけ」みたいなもので、肝心なのは「句」自体ですから、おまけの方に気を取られ過ぎるのもどうかと思います。一瞬、「おまけ」に惹かれることはあります(これを「惹句」という)。ぼくはこの「増殖する俳句歳時記」にもくまなく目を通すようにしていますので、「おまけ」の価値はわかるように思います。しかし、先に「おまけ」を見るのではなく、本体に心を向けることを忘れないように、繰り返し、そこ(句)に戻っていくのを常としています。それを言った上で、以下の「鰯雲」評を読んで見られるといいでしょう。(余談です 大学に入った頃から、ルソーやカントなど、西欧の思想家のものを読み出しました。後に、ぼくは修士論文に「ルッソオ論」を書きましたから、早い段階から、多田さんのものを学んでいました。また、彼は多彩の人で、そのような「一筋の道」にこだわらない生き方にも関心を植え付けられたのでした。多田さんのなされた「文化史」という分野にあたる仕事にも多くを教えられたものでした)

 俳句がどういうものであるか、それは、いろいろな角度から捉えられますが、「これこそ俳句だ」「俳句はこれでなければ」、そういう「紋切り型」ではない、融通無碍の風流があるのではないでしょうか。「季語」の用い方にもよりますが、この「鰯雲」などはその典型ではありませんか、ぼくはそう考えては、駄句の山を築いてきました。下の挙げた津田さん、依光さんの句なども、そういう読み方ができるのではないですかね。一種の拍子というか、気合(呼吸)というもの、あるいは気迫とか「一休み」のように見られませんでしょうか。

 「道太郎が、余白句会(1994年11月)に初めて四句投句したうちの一句である。翌年二月の余白句会に、道太郎ははるばる京都宇治から道を遠しとせずゲスト参加し、のちメンバーとなった。当時の俳号:人間ファックス(のち「道草」)。掲出句は句会で〈人〉を一つだけ得た。なぜか私も投じなかった。ご一同わかっちゃいなかった。その折、別の句「くしゃみしてではさようなら猫じゃらし」が〈天〉〈人〉を獲得した。私は今にして思えば、こちらの句より掲出句のほうに愛着があるし、奥行きがある。いきなりの「あ」にまず意表をつかれた。そして何が「そうか」なのか、第三者にはわからない。つづく「そういうことか」に到って、ますます理解に苦しむことになる。「そういうこと」って何? この京の都の粋人にすっかりはぐらかされたあげく、「鰯雲」ときた。この季語も「鯖雲」も同じだが、扱うのに容易なようでいてじつは厄介な季語である。うまくいけば決まるが、逆に決まりそうで決まらない季語である。道太郎は過不足なくぴたりと決めた。句意はいかようにも解釈可能に作られている。そこがしたたか。はぐらかされたような、あきらめきれない口惜しさ、拭いきれないあやしさ・・・・七十歳まで生きてくれば、京の都の粋人にもいろんなことがありましたでしょう。はっきりと何も言っていないのに、多くを語っているオトナの句。そんなことどもが秋空に広がる「鰯雲」に集約されている。「うふふふ すすき一本プレゼント」他の句をあげて、小沢信男が「この飄逸と余情。初心たちまち老獪と化するお手並み」(句集解説)と書く。老獪じつに老獪を解す! 信男の指摘は掲出句にもぴったしと見た。『多田道太郎句集』(2002)所収。」(八木忠栄)(「検索エンジン 増殖する俳句歳時記」)

● 多田道太郎(ただ-みちたろう)(1924-2007)=昭和後期-平成時代のフランス文学者,評論家。大正13年12月2日生まれ。昭和51年京大教授,63年明治学院大教授,平成2年武庫川女子大教授。11年「変身放火論」で伊藤整文学賞。日常の風俗雑事から日本文化をとらえる評論で知られた。平成19年12月2日死去。83歳。京都出身。京大卒。著作に「ルソー研究」(共同研究),「複製芸術論」「しぐさの日本文化」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

 先日、谷川徹三さんの「階段二段飛ばし」に触れたところです。津田さんも「そうだったのか」と思えば、わけもなく嬉しくなるんですよ。穴蔵に向かって駆け下りるのは好きではありませんでした。だから「二段飛ばし」は昇り専用。かなり長い間、ぼくは「二段飛ばし派」だった。やがて、階段の幅が半分に削られ、その分をエスカレーターにしてしまって以来、ぼくの二段飛ばしは終った。この「二段飛ばし」と「鰯雲」、作者はどういう勢いでくっつけたのか、ぼくはわからない。あるいは評者の清水さんの言われるとおりかもしれません。「秋の雲」であれ、「夕霞(ゆうがすみ)」であれ、あるいは子規の「根岸の里の侘住居」であれ、どんな上句にも中句にも寄り添い密着する、決め言葉というもの(下句)があるのでしょう。つまりは「語呂合わせ」という気味ですね。それが俳句・俳諧の「洒落」にもなるのでしょう。

 階段は二段飛ばしでいわし雲 (津田このみ)「天気晴朗、気分爽快、好日だ。だだっと階段を、二段飛ばしで駆け上がる。句には、その勢いが出ていて気持ちがよい。女性の二段飛ばしを見たことはないが、やっぱりやる人はやっているのか(笑)。駅の階段だろう。駆け上がっていったホームからは、見事な「いわし雲」が望めた。若さに溢れた佳句である。私も若いころは、しょっちゅう二段飛ばしだった。山の子だったので、勾配には慣れていた。しかし、今はもういけません。目的の電車が入ってくるアナウンスが聞こえても、えっちらおっちら状態。ゆっくり上っても、階段が長いと息が切れる。それこそ二段飛ばしで駆け上がる若者たちに追い抜かれながら、「一台遅らすか」なんてつぶやいている。追い抜かれる瞬間には、若者がまぶしく写る。嫉妬ではなく、若さと元気が羨ましくてまぶしいのだ。ところで、サラリーマン時代の同僚が、二段飛ばしで駆け降りた。仙台駅で東京に帰るための特急に乗ろうとして、時間がなかったらしい。慌てて駆け降りているうちに転倒して頭の骨を折り、即死だった。三十歳になっていただろうか。まだ十分に若かった。そして、若い奥さんと赤ん坊が残された。駆け上がりはまだしも、駆け下りは危険だ。ご用心。掲句を見つけたときに、ふっと彼の人なつこい笑顔を思い出したりもした。『月ひとしずく』(1999)所収。」(清水哲男)(「検索エンジン 増殖する俳句歳時記」)                           

 清水さんの評に「そこ(丸善)で作者は気に入ったノートを求め、表に出たところで空を見上げた。秋晴れの空には鰯雲。気に入った買い物をした後は、心に充実した余裕とでもいうべき状態が生まれ、ビルの谷間からでも空を見上げたくなったりする。都会生活のそんな一齣を、初々しいまなざしでスケッチした佳句である」とあります。そうかもしれないし、そうでないかもしれないというところ。ぼくもどれくらい丸善に通ったか。ビル街のわずかばかりの隙間から「鰯雲」が見上げられたのか、空を見上げるというのは、誰でも、いつでもできそうで、なかなかできないものです。ぼくなど、街中で「上を向いて歩こう」と言う記憶は絶無です。下を向いてばかりだったからかもしれない。

 丸善にノートを買つて鰯雲(依光陽子)第五十回(今年度)角川俳句章受賞作「朗朗」五十句のうちの一句。作者は三十四歳、東京在住。技巧のかった句ばかり読んでいると、逆にこういう素直な作品が心にしみる。日本橋の丸善といえば洋書専門店のイメージが強いが、文房具なども売っている。そこで作者は気に入ったノートを求め、表に出たところで空を見上げた。秋晴れの空には鰯雲。気に入った買い物をした後は、心に充実した余裕とでもいうべき状態が生まれ、ビルの谷間からでも空を見上げたくなったりする。都会生活のそんな一齣を、初々しいまなざしでスケッチした佳句である。鰯雲の句では、なんといっても加藤楸邨の「鰯雲ひとに告ぐべきことならず」が名高い。空の明るさと心の暗さを対比させた名句であり、この句があるために、後発の俳人はなかなか鰯雲を心理劇的には詠めなくなっている。で、最近の鰯雲作品は掲句のように、心の明るさを鰯雲で強調する傾向のものが多いようだ。いわば「一周遅れの明るさ」である。有季定型句では、ままこういうことが生じる。その意味でも、後発の俳人はけっこう大変なのである。「俳句」(1998年11月号)所載。(清水哲男)(「検索エンジン 増殖する俳句歳時記」)

 川柳と見紛うばかりの駄句を、飽きもしないで、ぼくは重ねてきました。人さまにお見せできるものではないので、未だ一度だって「これがが駄句だ。参ったか」と披瀝に及んだことはない。そのような勇気というよりは、厚顔さを持ち合わせていないのです。俳諧とは「俳優の諧謔、すなわち滑稽の意」とありますとおり、滑稽味がいのちのような、連歌からの余計者として生まれ、後に独立して「俳諧」となった。これにも短くない歴史があります。言葉遊びの域を出なかったものが、やがて明確に「文芸」の位置を獲得するにいたったのは、元禄以降の芭蕉(蕉風)によるところは大きかったでしょう。面倒は省いて。本日挙げてみた数句は「諧謔」「滑稽」「洒落」のいずれかにおいて著しいものがあると言っても、大きくは外れませんでしょう。現代風俳句は「文芸復興(ルネサンス)」を遂げているのかもしれません。

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 ● 俳諧(はいかい)=和歌連歌(れんが)、俳諧用語。誤って「誹諧」とも書いた。俳優の諧謔(かいぎゃく)、すなわち滑稽(こっけい)の意。『古今和歌集』巻第19に「誹諧歌」として収める58首の和歌は、ことごとく内容の滑稽な歌である。連歌の一体である「俳諧之連歌」は、滑稽な連歌の意で、連歌師の余技として言い捨てられていたが、純正連歌の従属的地位を脱し、文芸の一ジャンルとして独立するに伴い、「俳諧」とだけ略称されるに至った。最初の俳諧撰集(せんしゅう)は1499年(明応8)成立の『竹馬狂吟(ちくばきょうぎん)集』であるが、1524年(大永4)以後に山崎宗鑑(そうかん)編『誹諧連歌抄』(『犬筑波(いぬつくば)集』)が、1536~1540年(天文5~9)には荒木田守武(もりたけ)の『守武千句』が相次いで成り、俳諧独立の気運を高めた。17世紀に入ると、松永貞徳(ていとく)を盟主とする貞門(ていもん)の俳諧が全国的規模で行われた。俳風はことば遊びの滑稽を主としたが、見立(みたて)や付合(つけあい)がマンネリズムに陥り、より新鮮で、より強烈な滑稽感の表出をねらう、西山宗因(そういん)らの談林(だんりん)俳諧に圧倒された。談林は1660年代の中ごろ(寛文(かんぶん)中期)から1670年代(延宝(えんぽう)期)にかけてのわずか十数年間で燃焼し尽くし、1690年代(元禄(げんろく)期)以降は、芭蕉(ばしょう)らの蕉風俳諧にみられるような、優美で主情的な俳風が行われた。18世紀の初頭を軸として、連句中心から発句(ほっく)中心へと俳諧史は大きく転回するが、蕪村(ぶそん)も一茶(いっさ)も連句を捨てたわけではない。連句が否定され、発句が俳句へと変身を遂げたのは、近代に入ってからのことである。(ニッポニカ)

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 「澄んだ青空に、かえって心が曇る場合もある。身を震わせる台風が駆け抜けた静岡では、土砂崩れで尊い命が奪われた。きっと、天が恨めしかろう。学校や家庭であつれきに悩まされ、心の中で吹き荒れる台風を持て余している少年少女もいるはず」(コラム「天風録」)「澄んだ空」に「曇る心」、「台風一過」と行かない悩みや苦悩を抱えながらの明け暮れ、しかし、空には「鰯雲」だ。そんな時、「あ そうかそういうことか鰯雲」と、まるで鰯雲から声をかけられたような、鰯雲に呼びかけるような、見事な錯覚を持つといいね。「何だ、そうだったんだ。わかったよ、鰯雲さん」と。上を向いて歩くばかりではない。上を向くこと、そんな、気軽な体操ができれば、心の曇りも薄れるかもしれない、たとえ束の間であっても。雲は流れる、つまりは風が運ぶんですね。心胸に心地よい風が吹くといいなあ。

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