贔屓の引き倒しにならないために

 高校野球もプロ野球もほとんど、いやまったく見なくまりました。中・高校時代には野球をしていたのですから、野球に関心がないわけではありません。でも、長島や王、野村や中西という、半世紀前の野球選手のような「輝き」「野性味」などが見られなくなったという思いが強くなったのが、野球から遠ざかった理由でしょう。あるいは「個性的」な選手の見本市のような場所だったと思う。高校野球については、新聞社が自社の宣伝に使っている、その不純な動機が野球を食い物にしているという思いが年々強くなったからでした。これはあくまでもぼく自身の感想でしかない。

 それはともかく、「灯台下暗し」で、こんなすごい選手が、しかもまだ二十二歳、ヤクルトにいたのだということが驚きでした。想像を絶する精進の上に「三冠王」の記録が輝いたともいえます。王さんが55号を記録した年齢は二十四歳だったと言う。ずいぶんと若かったんですね。(余談です。ぼくがもっとも好きな野球選手は、落合博文さん。次いで野村克也さん。以下は多数です。お二人の人生に対する真摯な姿勢に感銘を受けてきました)

 ぼくの直観では、どんなに素晴らしい「前人未到」の記録でも、きっと、あるいは必ず破られるという思いがあり、実際、さまざまな分野における「新記録」は、達成に要する時間の長短はあるにせよ、いつかはそれを破るような「新記録」に塗り替えられる。村上選手の存在は、今夏になって初めて知りました。彼が熊本出身だということも。熊本出身の野球選手と言えば「野球の神様」と称された川上哲治さん、その川上さんにつながる「熊本出身といえば、村上」、ということで「お国自慢」が大きな喜びを持って顔を出す。村上選手の「偉業」に熊日新聞は「号外」を持って報いたのです。見出しが踊っています。「村上56号 王超え」「58年ぶり更新 日本選手最多」と。郷土の誇り、県民栄誉賞だと、いいたそうな。

 56号本塁打記録に「水をさす」気は少しもありません。この記念すべき記録達成に、ほとんどの新聞等の報道は「日本選手最多」という形容語を付けていました。「日本選手」「日本人選手」というのはどういうことでしょうか。ある時期まで王選手は「日本人選手」ではなかった。そのために「国民体育大会」に出られなかった。その「国民」は日本国籍者に限るという、当時で言うなら。笑うべき「純血主義」が通用していたのでしょう。今から六十年以上も前のことでした。野球の世界(にかぎらない)は、人種や民族にかかわらず、野球というスポーツに打ち込む仲間たちで作り出す、ある種の水平というか平等のルールに支配された競技ですから、殊さらに「日本選手最多」などという必然性はないものです。(こういうところが「島国根性」と言われる所以なんでしょうか)

 しかし、なかなかそうじゃないんですね。第一、今回の記録達成が熊本出身選手だったから、地元新聞社から「号外」が出たのであって、これが宮崎や北海道出身選手だったらどうだったか。ぼくは運動(スポーツ)は好きですが、そこに「国(都道府県市町村)」や「民族」や、その他の「属性」がつくのは、一面では理解できそうですが、あまり意味のあることではないと思う。「我が国」「我が県」などというのは、なんででしょうね。「贔屓」ということでしょうか。村上選手の記録は、日本選手最多ではあっても、年間本塁打の新記録ではありません。外国選手(バレンティン。ヤクルト所属)の六十本があります。これがまったく問題にならないで、「日本人では最多」という捉え方は実に滑稽じゃないですか。比較するというのは、一ミリ二ミリの、微小な違いを「針小棒大」にする作業なんですか。

 これは野球に限らないし、日本だけのことではないでしょう。中には「日の丸」や「都道府県旗」を背中に、それぞれの試合に臨む選手がいるのかもしれない。ぼくは野球は好きだが、「都市対抗野球」ばかりは嫌いで、一度だって観戦したことがなかった。遊びだったかもしれないが、野球の冒涜につながっていましたね。軍旗はためくというのとは大いに趣は違うでしょうが、スポーツは国や国民のためにするものではないと言ったら、批判されますかな。自分のためと、どうして言わないんですか。そこに、この地のスポーツに特有の「胡散臭さ」がついて回っていると思う。大相撲は「プロレス」みたいなものだから、勝ち負けに血道を上げる(力士もファンも)のは、少しは違うようにも思われます。まるで歌舞伎や芝居のようなもので、「贔屓(ひいき)」の流儀というのがあるのでしょうね。大相撲の土俵入りを聞いていると、必ず「出身国」「出身都道府県」が紹介されます。これはこれで理屈があるのでしょうか。

 繰り返す。スポーツ選手は国や出身地のために成績を上げ、勝ち負けに拘(こだわ)るのではないでしょう。自らの活躍に応じて結果がついてくる。それが新記録であれば、同郷の人でなくとも嬉しいでしょう。メジャーリーグの大谷選手、彼は日本人だからすごいのではなく、能力的に勝れているから素晴らしい記録を示しているのではないですか。それを素直に、喜ぶ、歓迎する、そこに「日本人だから」という形容句はいらないな、といいたい。ここで駄弁っていることは「どうでもいいコト」です。でも、野球ファンが「贔屓選手」「同郷選手」の記録達成を喜ぶのと、新聞やテレビが「デカデカ」と記「日本人として最多・最高」と記事やニュースにするのとは意味が違う気もするんですよ。野球は「民族」でやるものではないし、もちろん「スポーツ」それ自体がそうでしょう。今の五輪のように「国別対抗戦」みたいなことになれば、スポーツでも競技でもなく、「競争」「対抗」に成り下がってしまいませんか。もちろん、それで十分という人はいるでしょう。どうぞ、お好きに。

 ぼくが、段々とスポーツ嫌いになっていった理由のかなりな部分は、民族や人種、あるいは所属国が、アスリートのお腹か背中か、表に出てきたからではないかと考えている。単純な「スポーツ好き」と言うのは、以外に難しい立場なんだな。これこそ、麗しき「伝統」なんでしょうね。「源平合戦」もどきの「紅白対抗」が、早い段階から学校で繰り返し行われていますね。紅白ならぬ、白黒を付けて、勝ち負けを明らかにしたんですね。ぼくには受け入れがたいこと。違う方法がありそうですが。(いつもみたいに、書かなくてもいいことを書きました。だから、「駄文」ということになるのでしょうね)

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 蛇足です。どんなにすごい記録でも、いつかは破られます。「記録は破られるためにある」と言われるぐらいです。その記録を、早い遅い、多い少ないなどといって、簡単に、数字だけでは比較できませんね。だから、その時、その時の記録が貴重なんだと言いたい。「日本人で最多」も、たしかに「数」ではそうですが、もう少し吟味すると、違った判断が求められるようにも思います。例えば、同じ50本でも、試合数の多少があるとなると、単純な「数だけ」の比較は無意味ですね。それもこれもすべて含めて、達成された段階の記録が尊重されるべきなんでしょうね。「贔屓の引き倒し」にならないために、スポーツ好きはなにをすれば間違わないのか、どんな態度が求められるのか、一考を要する問題ではないですか。「日本人で、未成年で、高齢者で、最高・最速・最長…」などという、その狙いはなんですかね。序列を付けたがるし、その序列の内容が意味不明になっていないか。(どうでもいいことですが)

 何ごとによらず、「好きになる」は情念ですから、一度、それ(情念)が野放しになると見境がつかなくなるんですよ。「愛」というのも「憎」というのも、出どころはいっしょなんですね。根っこはいっしょ、だから「愛憎半ばする」というのです。愛という情念がなければ、人を憎むことも難しい。「泣き笑い」もそうでしょうね。感情が強まると、どちらの場合も「涙」が出ます。「喜怒哀楽」は、基本は「情念(passions)」というはたらきによるもので、過ぎたるは及ばざるが如し、ということになるのです。

OOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO

 数日前に、インドネシアで行われたサッカーの試合で「ホームチーム」が負け、怒ったファンが試合場になだれ込み、それに対して警察が催涙ガスを発射し、暴動になって、多数の死者が出たとされます。これはどういうことでしょうか。サッカーの勝ち負けが、別の条件(要素)に引き換えられてしまったのではないか。「贔屓(ひいき)の引き倒し」なんでしょう。その有り様は「贔屓しすぎて、贔屓している当事者を不利にしてしまう」ということらしい。プロ野球などでも、以前はよく見られた光景です。応援が嵩じて、当のチームを「やばくする(不利にする)」というようでした。相当前に、南米のあるチームがサッカーの試合で「オウンゴール」で負けたことがあった。その選手たちが帰国した際、当の選手が射殺されたとことも、ぼくの記憶に残っています。

 【エスコバルの悲劇】コロンビア代表を襲ったワールドカップ史上最悪の事件とは サッカーワールドカップのブラジル大会で、6月25日に日本と激突するコロンビア。1994年のアメリカ大会の直後に起きた「エスコバルの悲劇」からまもなく20年を迎える。この大会で、DFを務めたアンドレス・エスコバルを襲った事件は今もワールドカップ史上最悪の事件として語り継がれている。(中略)当時の報道によると、犯人は銃弾を放つ瞬間に「オウンゴールを有り難う」と言ったという。サッカー賭博に絡んだ犯罪組織の関与などの憶測が流れているが、今も真相は、はっきりしていない。エスコバルの葬儀には12万人を超える人々が参列し、この事件を機に何人かの選手がコロンビア代表を辞めている。(https://www.huffingtonpost.jp/2014/06/10/andres-escobar_n_5476929.html

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 秋桜好きと書かないラブレター

 秋風に揺れるコスモス 高根沢で次々開花 栃木県高根沢町宝積寺の鬼怒グリーンパークで、五分咲きとなったコスモスの花が秋風に揺れ、訪れる人たちを楽しませている。/ コスモスは広さ約2.2ヘクタールの花畑にあり、今後、4種類120万本が順次開花していく。同パーク管理事務所は「10月下旬まで楽しめそうです」としている。/ 大田原市加治屋、主婦木村雅子(きむらまさこ)さん(55)は「すてきな場所で、毎年来て楽しんでいます。一眼レフカメラは使い始めて2回目です。うまく撮れるといいのですが」と話した。(下野新聞・2022/09/30)

(右上の写真は、コスモスを撮ろうとしたのか、あるいは女性を撮るつもりだったのか。どうもピントは女性にあっているようにも見えます。カメラマンは「女性がコスモス」、あるいは「コスモスは女性」と見えたんでしょうね)

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 彼岸花(曼珠沙華)が今を盛りと咲き競っています。田んぼの畦道や農道の脇に、それこそ、まるで火炎(かえん)のような赤紅色の花があちらに数十本、こちらにも数十本といった具合に、あるいは邪(よこしま)は許さないぞ、というような激しさをうちに秘めて、秋色の景色にひときわ特異な印象を刻んでいる。彼岸花が好きかと問われれば、にわかには答えられません。好き嫌いを越えて、目に迫ってくるのですから。彼岸花は別名、「曼珠沙華 (まんじゅしゃげ) 。死人花 (しびとばな) 。捨て子花。石蒜 (せきさん) 。天蓋花 (てんがいばな) 。幽霊花。かみそりばな」(デジタル大辞泉)とも呼ばれています。この花については、すでにどこかで触れましたが、「まんじゅしゃけ」とも) (サンスクリット語のmañjūṣaka の音訳) 仏教語です。根に毒を含むというので、野ネズミやモグラを寄せつけないために「畦(あぜ)道」などに植えたと言われます。「死人花」などと称されるのも、この「毒性」と無関係ではないでしょう。お棺に添える花としても知られていますので、なにか「彼岸(あの世)」と深く因縁のある花として、ぼくにも強烈な印象があります。

 それと肩を並べるという風情・情緒は微塵もないのが、同じ季節を彩っているコスモス(和名は秋桜・あきざくら)です。秋桜(コスモス)はいいですね。でも、何千何万と咲き誇るのを見るのは、余り好きではありません。なんでもそうで、これでもかというように、どんなに美しいものでもたくさん並べられると、ぼくは辟易としてしまう。いかにも食傷の気味がしてきます。野道を歩いていて、遠くからかすかに、背の高い茎・幹と花が見えてくる、その瞬間がいい。よく歩く道は「彼岸花」一色ですから、その脇に秋桜は居つかないのでしょう、並んで咲いているのを見たことがありません。また付近の散歩道にも秋桜畑なるものが見当たらない。車を走らせて二十キロも行けば、それなりの群生秋桜(コスモス)が見られます。広大な敷地一面に花は満開ですが、そんな景色は、どちらかというと苦手で、ほとんど興味がない。逃げ出したくなる。遠くから眺めるのがせいぜいです。思いがけず、行き当たりに数本が所々に咲いているというのが、ぼくには好ましく見えるのです。例えば、「コスモスはどこにありても風少し」(細見綾子)という雰囲気ですね。

● 曼珠沙華= (「まんじゅしゃけ」とも) (mañjūṣaka の音訳) 仏語。赤色(一説に、白色)で柔らかな天界の花。これを見るものはおのずからにして悪業を離れるという。四華の一つ、紅蓮華にあたる。日本では、彼岸花(ひがんばな)をさす。《・秋》 (精選版日本国語大辞典) 

● し‐け【四華/四花】説法などの際、瑞兆ずいちょうとして天から降るという4種のはすの花。白蓮華・大白蓮華紅蓮華・大紅蓮華の称。四種の花葬送で、四方に立てる白色の蓮華。また、その造花。(デジタル大辞泉)

● コスモス:こんな植物です=コスモスの仲間はメキシコを中心に約20の野生種が知られています。その中でもコスモス・ビピンナツス〔Cosmos bipinnatus〕とその園芸品種を指して「コスモス」と呼ぶのが一般的です(以下、本種をコスモスと呼びます)。/ コスモスは春~初夏にタネをまいて夏~秋に花を楽しむ春まき一年草として扱います。野生種はメキシコの高原が故郷、夜が長くなると花芽を作る「短日植物」で秋以降に花を咲かせます。和名のアキザクラが示すとおりです。/ 園芸品種には一定の気温があれば日長に関係なく開花する早咲き系があります。早咲き系は春早めにまくと初夏には開花します。また、早咲き系に対して従来通り秋に咲く系統を遅咲き系と呼ぶこともあります。ちなみに、主力で広く普及しているのは早咲き系の品種です。 /野生種は草丈2~3mになりますが、園芸品種は矮性種で40cm、高性種で1.5mほどです。葉は細かく枝分かれして羽状になります。花径は大輪種で10cmを超します。色は白、ピンク、赤、黄色などがあります。白地に紅色の縁取りが入るピコティ咲きなど可愛らしいものもあります。一重のほか、花びらの付け根に小さな花びらが付くコラレット咲きや花びらが筒状になるユニークな品種もあります。 

▼名前の由来=コスモスは英語で「宇宙」の意味ですが、植物でいうコスモスはギリシア語の「kosmos」に由来し「美しい」という意味です。美しい花の姿に由来します。種小名のビピンナツスは「2回羽状の」の意で羽状の細かい葉姿にちなみます。                               ▼来歴=ヨーロッパへは17世紀末~18世紀初頭にスペイン人神父によりもたらされました。日本へは江戸時代末、文久年間に伝わりました。広く普及したきっかけは明治前期、イタリアから東京の美術学校に赴任してきたラグーザによって持ち込まれたタネによると言われています。(「ヤサシイエンゲイ」:http://www.yasashi.info/ko_00002.htm) 

 草花に思いを寄せるのは、現実逃避とも見られそうですが、そうではありません。時に草花に肩入れするのは、一種の精神の体操、あるいは深呼吸ですね。こんな不便な山中にいても、そこは浮世、ここも浮世、それと縁切りはできないのです。世間で問題になった事件、世界の騒動の種などは、否応なしに拙宅にも飛び込んできます。若い頃は、人並みに「政治行動」といえばいいのか、デモにもでかけたし、アジ演説もした。たったひとりで新宿あたりをプラカードを持って歩いたこともある。気休めだったかもしれないが、これもまた、ぼくの深呼吸の方法でもあったのです。この二十年近く、驚くべき頽廃や堕落が政治・経済を筆頭に、あらゆる分野で生じています。これはこの島だけの現象ではなく、洋の東西を問わず、大きな「海練(うねり)」のなかにぼくたちも取り込まれているのでしょう。しかし、この社会の独自の「悪性宿痾」が隠し仰せなくなった部分も小さくないのです。

 しばしば、「戦前に似てきた」「昭和初期の、嫌な時勢にそっくりだ」と、ぼくたちの先輩たちは、いまから三十年ほど前に言っていました。ぼくはまだ、四十代だったから、「なにを旧くさい経験を持ち出して」などと批判の目を向けていたと思う。しかし、戦争体験のないぼくのような世代でも、この二十年ほどの政治状況を見ていると、あるいはとんでもない方向をたどっているという実感を強くしてきました。隣国である韓国、北朝鮮、あるいは中国に、無理矢理に敵対せんばかりの虚勢が、いつのまにか「軍事大国」張りの防衛費を獲得するまでになっているのです。数年内に十兆円という。それだけの軍事費をどうするのか、まず第一にはアメリカの時代遅れ[(旧式)の武器を購入する、それも「言い値」で。第二に、自衛のための防衛力ではなく、敵基地を攻撃するための攻撃力をつけるために、と言うのです。「敵はどこ?」、と問えば、きっと中国や北朝鮮だというのでしょう。いま盛んに「台湾有事」をやかましく言い、必ずこの社会も戦争に巻き込まれるというのでしょう。アメリカが中国に挑む、ならば「集団的自衛権」だと、まるで夢にも及ばぬ、荒唐無稽です。白昼夢を見ていたんですね、権力者集団は。いやもっと明確にうと、防衛力や軍事力の増強を主張している連中には「仮想敵」も「現実敵」もいないのです。要するに、己たちの陣地を強化拡大知るための「図上演習」を噛ましているだけのことでしょう、ぼくにはそう見える。

 「歴史を学ぶ」というのは受験のためではないんですよ。歴史を学ばないものは、「過去という鏡」を持たないから、とんでもない間違いをする。過去に犯した間違いが記憶されていないから、いつだって初陣(初体験)のつもりでしょう。この十年は、特のこの印象が強くなるばかりでした。「無恥と無知」という二枚看板が、世間を席捲したんですから。怖いもの知らず、それも束の間、ご本人は誰よりも早く「彼岸」に逝かれた。

 韓国はけしからん、中国を制裁しなければ、北朝鮮は生意気だと、どの口をもって言えるのでしょうか。その「世界知らず」(「世間知らず」にあらず)ぶりに遭遇して、こんな辺鄙な山中にいて、一人「切歯扼腕」、悔しさに思わず「歯ぎしり」をし「腕を強く押さえる」ほどに怒りがこみ上げてきます。(ぼくは「義歯」ですけれども、歯ぎしりはできます)「統一教会」というカルト集団は、政権中枢にはいりこみ、まるで吸血鬼のごとくに権力中枢の血液を吸い付けてきたのが、戦後のある時期からこれまでの数十年でした。今回の銃撃事件で、ようやくその「闇」に光が入り込んだということでした。

 カルト集団との癒着(関係)を一切断つと、表向きは言いふらしていますが、それはまず不可能でしょう。あまりにも深く「絆(腐れ縁)」が結ばれているからです。まるで「血縁関係」を断つほどの、ありえない話です。もしそれが実現されたら、権力政党は瓦解するかもしれない、それほどの危機でした。しかし、その危機状況認識はほとんど真面目に受け取られてはおらず、「虚言」を繰り返して当座を凌げば、「すべて良し」とする風潮さえあります。一政権党が壊れるだけならまだしも、この社会の脆弱なところは、「寄らば大樹の陰」、「親方日の丸」という古色蒼然とした体質の表現は、「大樹」も「親方」も元気であればこそですが、今はむしろ驚くばかりにひ弱なもので、「D group」(広告会社を名乗る)「NTV group」(新聞テレビ会社を名乗る)に頼り切っている(支配されている)のが実情です。汚染された五輪、コロナ禍の悪質な「中抜き」泥棒・詐欺行為も、すべては、このような官と合体した「民間」が主導しています。つまらない話ですが、「国葬儀」を万端取り仕切ったのは「NTV」の子会社です。詳しくは言いたくない(虫唾が走っています)ので、このくらいにしておきます。 

 政権党のある議員が故元総理を「国賊」といった。ために当該党は「除名だ」「処分だ」と騒ぎ出しています。どうしてか、「図星だったから」です。よく「火(屁)の元、騒ぐ」といいます。すでに議員を辞めた「元法務大臣」「元副総理」は統一教会の顧問弁護士をしていました。現副総理(前財務大臣)は「教団」とは長い付き合いをしています。あるいは前総理(国葬で「弔辞」を読んだ)も、深い交際のある方ですよ。だから、個々の議員のあれこれの問題などではなく、党全体がひょっとして、エキスを吸収されていたと言ってもいいのでしょう。巣食われていたのです。「党は無関係」と早い段階で幹事長が叫んでいたのが印象的です。本体が侵されていた。

 この「教会」には、既成の「新宗教」(創価学会や生長の家、あるいは立正佼成会などを経た(除名や退会した)多くの信者がいましたから、「政治と宗教」などという問題はお手の物でした。いずれ書く機会があるかもしれませんが、そのような宗教猛者(もさ)たちにとって、一票欲しさに狂っている政治家など「赤子の手をひねる」ほどの容易さで「篭絡」できたのです。それが恐らくもう半世紀も続いていたと言ってもいいでしょう。この国は、落ちるところまで落ちているのです。その破滅的状況は、致命的と言うべきなのかもしれません。

 と、ここまで駄文を綴ってきて、深呼吸の必要を感じたという次第。それがコスモスであり、彼岸花だったのです。現役俳人の中でもぼくが好む鷹羽さんの一句。それに木村享史(きょうし)さんの一句も。

・情なき世となりぬ秋ざくら(鷹羽狩行)                             ・透きとほる日ざしの中の秋ざくら(木村享史)

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(タイトルの俳句について)

 《 秋桜好きと書かないラブレター 小枝恵美子 パッと読むと、「なあんだ」という句。よくある少女の感傷を詠んだにすぎない。でも、パッパッパッと三度ほど読むと、なかなかにしぶとい句だとわかる。キーは「秋桜」。つまり、コスモスをわざわざ「秋桜」と言い換えているわけで、この言い換えが「好きと書かない」につながっている。婉曲に婉曲にと、秘術(?!)をつくしている少女の知恵が、コスモスと書かずに「秋桜」としたところに反映されている。ラブレターは、自己美化のメディアだ。とにかく、自分を立派に見せなければならない。それも、できるかぎり婉曲にだ。さりげなく、だ。そのためには、なるべく難しそうな言葉を選んで「さりげない」ふうに書く。「秋桜」も、その一つ。で、後年、その浅知恵に赤面することになる。掲句で、実は作者が赤面していることに、賢明なる読者は既にお気づきだろう。以下は、コスモスの異名「秋桜」についての柴田宵曲の意見(『俳諧博物誌』岩波文庫)。「シュウメイギク(貴船菊)を秋牡丹と称するよりも、遥か空疎な異名であるのみならず秋桜などという言葉は古めかしい感じで、明治の末近く登場した新しい花らしくない。(中略)如何に日本が桜花国であるにせよ、似ても似つかぬ感じの花にまで桜の名を負わせるのは、あまり面白い趣味ではない。(中略)秋桜の名が広く行われないのは、畢竟コスモスの感じを現し得ておらぬ点に帰するのかも知れない」。さんざんである。同感である。》『ポケット』(1999)所収。(清水哲男)(「増殖する俳句歳時記))*秋桜=あきざくら 「コスモス」の異称として使われていますが、それほど周知されているとは思われません。(注記 山埜)

HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH

 

 あ そいうことか鰯雲(いわしぐも)

 【天風録】そういうことか鰯雲 雲が流れ行く空を見上げ、秋のひとときを楽しむ人もいるだろう。縁あって旅した新潟で思わぬ話を耳に挟んだ。秋の夜空を詠んだ芭蕉(ばしょう)の<荒海(あらうみ)や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)>は、どうも絵空事だという▲詠んだ場所とおぼしい海岸では、方角からして佐渡島(さどがしま)の上空に天の川が拝めない。辺りの海も穏やからしい。おまけに付き従っていた門人、曾良(そら)の日記によれば、その日は雨降りだった。検証ばやりの昨今、泉下の俳聖も心騒いでいるかもしれない▲それでも名句の評価はいささかも揺るぎない。かつて朝敵として島に流された人々の内なる<荒海>に思いをはせ、天の川で清まれ、鎮まれと願う句にも映る。空模様に託した心模様といえようか▲澄んだ青空に、かえって心が曇る場合もある。身を震わせる台風が駆け抜けた静岡では、土砂崩れで尊い命が奪われた。きっと、天が恨めしかろう。学校や家庭であつれきに悩まされ、心の中で吹き荒れる台風を持て余している少年少女もいるはず▲<あ そうかそういうことか鰯雲(いわしぐも)>多田道太郎。何が「そういうこと」なのか、さっぱり要領を得ないのに引かれる余情がある。雲をつかむような句も、心のねじを緩めるにはいい。(中国新聞デジタル・2022/09/25)

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 多田さんの句、「あ そうかそういうことか鰯雲」について。誰かの句について、何かと解釈や解説はつきものですが、それはまあ、グリコの「おまけ」みたいなもので、肝心なのは「句」自体ですから、おまけの方に気を取られ過ぎるのもどうかと思います。一瞬、「おまけ」に惹かれることはあります(これを「惹句」という)。ぼくはこの「増殖する俳句歳時記」にもくまなく目を通すようにしていますので、「おまけ」の価値はわかるように思います。しかし、先に「おまけ」を見るのではなく、本体に心を向けることを忘れないように、繰り返し、そこ(句)に戻っていくのを常としています。それを言った上で、以下の「鰯雲」評を読んで見られるといいでしょう。(余談です 大学に入った頃から、ルソーやカントなど、西欧の思想家のものを読み出しました。後に、ぼくは修士論文に「ルッソオ論」を書きましたから、早い段階から、多田さんのものを学んでいました。また、彼は多彩の人で、そのような「一筋の道」にこだわらない生き方にも関心を植え付けられたのでした。多田さんのなされた「文化史」という分野にあたる仕事にも多くを教えられたものでした)

 俳句がどういうものであるか、それは、いろいろな角度から捉えられますが、「これこそ俳句だ」「俳句はこれでなければ」、そういう「紋切り型」ではない、融通無碍の風流があるのではないでしょうか。「季語」の用い方にもよりますが、この「鰯雲」などはその典型ではありませんか、ぼくはそう考えては、駄句の山を築いてきました。下の挙げた津田さん、依光さんの句なども、そういう読み方ができるのではないですかね。一種の拍子というか、気合(呼吸)というもの、あるいは気迫とか「一休み」のように見られませんでしょうか。

 「道太郎が、余白句会(1994年11月)に初めて四句投句したうちの一句である。翌年二月の余白句会に、道太郎ははるばる京都宇治から道を遠しとせずゲスト参加し、のちメンバーとなった。当時の俳号:人間ファックス(のち「道草」)。掲出句は句会で〈人〉を一つだけ得た。なぜか私も投じなかった。ご一同わかっちゃいなかった。その折、別の句「くしゃみしてではさようなら猫じゃらし」が〈天〉〈人〉を獲得した。私は今にして思えば、こちらの句より掲出句のほうに愛着があるし、奥行きがある。いきなりの「あ」にまず意表をつかれた。そして何が「そうか」なのか、第三者にはわからない。つづく「そういうことか」に到って、ますます理解に苦しむことになる。「そういうこと」って何? この京の都の粋人にすっかりはぐらかされたあげく、「鰯雲」ときた。この季語も「鯖雲」も同じだが、扱うのに容易なようでいてじつは厄介な季語である。うまくいけば決まるが、逆に決まりそうで決まらない季語である。道太郎は過不足なくぴたりと決めた。句意はいかようにも解釈可能に作られている。そこがしたたか。はぐらかされたような、あきらめきれない口惜しさ、拭いきれないあやしさ・・・・七十歳まで生きてくれば、京の都の粋人にもいろんなことがありましたでしょう。はっきりと何も言っていないのに、多くを語っているオトナの句。そんなことどもが秋空に広がる「鰯雲」に集約されている。「うふふふ すすき一本プレゼント」他の句をあげて、小沢信男が「この飄逸と余情。初心たちまち老獪と化するお手並み」(句集解説)と書く。老獪じつに老獪を解す! 信男の指摘は掲出句にもぴったしと見た。『多田道太郎句集』(2002)所収。」(八木忠栄)(「検索エンジン 増殖する俳句歳時記」)

● 多田道太郎(ただ-みちたろう)(1924-2007)=昭和後期-平成時代のフランス文学者,評論家。大正13年12月2日生まれ。昭和51年京大教授,63年明治学院大教授,平成2年武庫川女子大教授。11年「変身放火論」で伊藤整文学賞。日常の風俗雑事から日本文化をとらえる評論で知られた。平成19年12月2日死去。83歳。京都出身。京大卒。著作に「ルソー研究」(共同研究),「複製芸術論」「しぐさの日本文化」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

 先日、谷川徹三さんの「階段二段飛ばし」に触れたところです。津田さんも「そうだったのか」と思えば、わけもなく嬉しくなるんですよ。穴蔵に向かって駆け下りるのは好きではありませんでした。だから「二段飛ばし」は昇り専用。かなり長い間、ぼくは「二段飛ばし派」だった。やがて、階段の幅が半分に削られ、その分をエスカレーターにしてしまって以来、ぼくの二段飛ばしは終った。この「二段飛ばし」と「鰯雲」、作者はどういう勢いでくっつけたのか、ぼくはわからない。あるいは評者の清水さんの言われるとおりかもしれません。「秋の雲」であれ、「夕霞(ゆうがすみ)」であれ、あるいは子規の「根岸の里の侘住居」であれ、どんな上句にも中句にも寄り添い密着する、決め言葉というもの(下句)があるのでしょう。つまりは「語呂合わせ」という気味ですね。それが俳句・俳諧の「洒落」にもなるのでしょう。

 階段は二段飛ばしでいわし雲 (津田このみ)「天気晴朗、気分爽快、好日だ。だだっと階段を、二段飛ばしで駆け上がる。句には、その勢いが出ていて気持ちがよい。女性の二段飛ばしを見たことはないが、やっぱりやる人はやっているのか(笑)。駅の階段だろう。駆け上がっていったホームからは、見事な「いわし雲」が望めた。若さに溢れた佳句である。私も若いころは、しょっちゅう二段飛ばしだった。山の子だったので、勾配には慣れていた。しかし、今はもういけません。目的の電車が入ってくるアナウンスが聞こえても、えっちらおっちら状態。ゆっくり上っても、階段が長いと息が切れる。それこそ二段飛ばしで駆け上がる若者たちに追い抜かれながら、「一台遅らすか」なんてつぶやいている。追い抜かれる瞬間には、若者がまぶしく写る。嫉妬ではなく、若さと元気が羨ましくてまぶしいのだ。ところで、サラリーマン時代の同僚が、二段飛ばしで駆け降りた。仙台駅で東京に帰るための特急に乗ろうとして、時間がなかったらしい。慌てて駆け降りているうちに転倒して頭の骨を折り、即死だった。三十歳になっていただろうか。まだ十分に若かった。そして、若い奥さんと赤ん坊が残された。駆け上がりはまだしも、駆け下りは危険だ。ご用心。掲句を見つけたときに、ふっと彼の人なつこい笑顔を思い出したりもした。『月ひとしずく』(1999)所収。」(清水哲男)(「検索エンジン 増殖する俳句歳時記」)                           

 清水さんの評に「そこ(丸善)で作者は気に入ったノートを求め、表に出たところで空を見上げた。秋晴れの空には鰯雲。気に入った買い物をした後は、心に充実した余裕とでもいうべき状態が生まれ、ビルの谷間からでも空を見上げたくなったりする。都会生活のそんな一齣を、初々しいまなざしでスケッチした佳句である」とあります。そうかもしれないし、そうでないかもしれないというところ。ぼくもどれくらい丸善に通ったか。ビル街のわずかばかりの隙間から「鰯雲」が見上げられたのか、空を見上げるというのは、誰でも、いつでもできそうで、なかなかできないものです。ぼくなど、街中で「上を向いて歩こう」と言う記憶は絶無です。下を向いてばかりだったからかもしれない。

 丸善にノートを買つて鰯雲(依光陽子)第五十回(今年度)角川俳句章受賞作「朗朗」五十句のうちの一句。作者は三十四歳、東京在住。技巧のかった句ばかり読んでいると、逆にこういう素直な作品が心にしみる。日本橋の丸善といえば洋書専門店のイメージが強いが、文房具なども売っている。そこで作者は気に入ったノートを求め、表に出たところで空を見上げた。秋晴れの空には鰯雲。気に入った買い物をした後は、心に充実した余裕とでもいうべき状態が生まれ、ビルの谷間からでも空を見上げたくなったりする。都会生活のそんな一齣を、初々しいまなざしでスケッチした佳句である。鰯雲の句では、なんといっても加藤楸邨の「鰯雲ひとに告ぐべきことならず」が名高い。空の明るさと心の暗さを対比させた名句であり、この句があるために、後発の俳人はなかなか鰯雲を心理劇的には詠めなくなっている。で、最近の鰯雲作品は掲句のように、心の明るさを鰯雲で強調する傾向のものが多いようだ。いわば「一周遅れの明るさ」である。有季定型句では、ままこういうことが生じる。その意味でも、後発の俳人はけっこう大変なのである。「俳句」(1998年11月号)所載。(清水哲男)(「検索エンジン 増殖する俳句歳時記」)

 川柳と見紛うばかりの駄句を、飽きもしないで、ぼくは重ねてきました。人さまにお見せできるものではないので、未だ一度だって「これがが駄句だ。参ったか」と披瀝に及んだことはない。そのような勇気というよりは、厚顔さを持ち合わせていないのです。俳諧とは「俳優の諧謔、すなわち滑稽の意」とありますとおり、滑稽味がいのちのような、連歌からの余計者として生まれ、後に独立して「俳諧」となった。これにも短くない歴史があります。言葉遊びの域を出なかったものが、やがて明確に「文芸」の位置を獲得するにいたったのは、元禄以降の芭蕉(蕉風)によるところは大きかったでしょう。面倒は省いて。本日挙げてみた数句は「諧謔」「滑稽」「洒落」のいずれかにおいて著しいものがあると言っても、大きくは外れませんでしょう。現代風俳句は「文芸復興(ルネサンス)」を遂げているのかもしれません。

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 ● 俳諧(はいかい)=和歌連歌(れんが)、俳諧用語。誤って「誹諧」とも書いた。俳優の諧謔(かいぎゃく)、すなわち滑稽(こっけい)の意。『古今和歌集』巻第19に「誹諧歌」として収める58首の和歌は、ことごとく内容の滑稽な歌である。連歌の一体である「俳諧之連歌」は、滑稽な連歌の意で、連歌師の余技として言い捨てられていたが、純正連歌の従属的地位を脱し、文芸の一ジャンルとして独立するに伴い、「俳諧」とだけ略称されるに至った。最初の俳諧撰集(せんしゅう)は1499年(明応8)成立の『竹馬狂吟(ちくばきょうぎん)集』であるが、1524年(大永4)以後に山崎宗鑑(そうかん)編『誹諧連歌抄』(『犬筑波(いぬつくば)集』)が、1536~1540年(天文5~9)には荒木田守武(もりたけ)の『守武千句』が相次いで成り、俳諧独立の気運を高めた。17世紀に入ると、松永貞徳(ていとく)を盟主とする貞門(ていもん)の俳諧が全国的規模で行われた。俳風はことば遊びの滑稽を主としたが、見立(みたて)や付合(つけあい)がマンネリズムに陥り、より新鮮で、より強烈な滑稽感の表出をねらう、西山宗因(そういん)らの談林(だんりん)俳諧に圧倒された。談林は1660年代の中ごろ(寛文(かんぶん)中期)から1670年代(延宝(えんぽう)期)にかけてのわずか十数年間で燃焼し尽くし、1690年代(元禄(げんろく)期)以降は、芭蕉(ばしょう)らの蕉風俳諧にみられるような、優美で主情的な俳風が行われた。18世紀の初頭を軸として、連句中心から発句(ほっく)中心へと俳諧史は大きく転回するが、蕪村(ぶそん)も一茶(いっさ)も連句を捨てたわけではない。連句が否定され、発句が俳句へと変身を遂げたのは、近代に入ってからのことである。(ニッポニカ)

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 「澄んだ青空に、かえって心が曇る場合もある。身を震わせる台風が駆け抜けた静岡では、土砂崩れで尊い命が奪われた。きっと、天が恨めしかろう。学校や家庭であつれきに悩まされ、心の中で吹き荒れる台風を持て余している少年少女もいるはず」(コラム「天風録」)「澄んだ空」に「曇る心」、「台風一過」と行かない悩みや苦悩を抱えながらの明け暮れ、しかし、空には「鰯雲」だ。そんな時、「あ そうかそういうことか鰯雲」と、まるで鰯雲から声をかけられたような、鰯雲に呼びかけるような、見事な錯覚を持つといいね。「何だ、そうだったんだ。わかったよ、鰯雲さん」と。上を向いて歩くばかりではない。上を向くこと、そんな、気軽な体操ができれば、心の曇りも薄れるかもしれない、たとえ束の間であっても。雲は流れる、つまりは風が運ぶんですね。心胸に心地よい風が吹くといいなあ。

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 予想が外れることを、大いに期待している

 【有明抄】「大地の呼吸」に耳を澄まして〈秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる〉。平安時代の歌人、藤原敏行が立秋の頃に詠んだ歌とされる。残暑の中、秋の気配を感じさせた一陣の風は、もしかしたら台風の予兆だったかもしれない◆1年前の小欄でも触れたが、きのう9月17日は「台風襲来の特異日」だった。1945年9月のこの日、「枕崎台風」が鹿児島県に上陸し、終戦直後の日本に打撃を与えた。二重の苦境をはね返した先人たちに感謝する◆目に見えない空気の動きをどう感じるか。微風は肌を使っていると思う。優しい空気の流れが触感として伝わる。強風、暴風は音でとらえる。日本の季節の変わり目はシベリア気団や小笠原気団など、四つの気団の勢力争いでもあるという。8、9月に台風襲来が多いのはそれも理由の一つではと、素人ながらに考えたりする◆風は「大地の呼吸」、台風は「くしゃみ」のようなものと思う。大地の呼吸は季節の移ろいを感じさせるが、その息遣いは時に加減がきかず、容赦ない◆台風14号が九州に近づいている。秋の学校行事にも影響を与えただろう。コロナ下で控えていた3年ぶりのイベントが台風で中止になっては悲しいが、主催者は安全優先で判断してほしい。防災準備も怠りなく。どんなに文明が発達しようと、人間が自然を超えることは難しい。(義)(佐賀新聞・2022/09/18)

 

 18日(日)午前5時現在、大型で非常に強い台風14号は、屋久島の南南東を1時間におよそ20キロの速さで北北西へ進んでいます。種子島・屋久島地方が暴風域に入りました。(気象庁)

 ただ今は、九月十八日の午前八時です。五時前に起床、猫に食事を与えて、一休みするまもなく、何やかやしていると、少し風が出てきました。雨も降っています。すでに台風十四号は沖縄・九州方面に大きな影響を与えて、さらに北上を続けています。九州方面に上陸し、そこから劣島を縦断する格好で、更に東に進むそうです。「台風」にはいろいろな記憶が、脳中にこびりついています。今どきは、のべつに台風に襲われており、忘れる暇もないほどです。台風にまつわる記憶はずいぶんと古くからあります。台風がもたらした「豪雨」で「大きな川」が氾濫、街中の家屋が浸水した記憶がもっとも古く、石川県時代の、まだ五歳くらいだったか。後年、そのあたりを歩いて、「大きな川」は、実はそれほどでもなかった(大きめの溝のようでした)のは、「記憶の過誤」だったということがわかりました。幼児期に記憶された物・事は、成長すると同時に「その記憶」は残るのですが、それを実見するに及んで、記憶の誤りが訂正され、身の丈にあった大きさ(寸法)に修正される。アリが人間を見ると怪物のごとく映るのでしょうが(人間を見ているかどうか、わかりません)、その「アリ」が人間大に成長すると、自分との比較で、大きかったもも(人間)は小さく見えるという理屈です。「ガリヴァーの世界」のようですね。

 もっとも強烈な印象となって残っているのは「伊勢湾台風(左写真)」(1959.9)でした。これもすでにどこかで触れていますので、繰り返しません。恐怖の体験は、静かな記憶(「風化」というのかもしれない)となって刻印されているものです。三年前には台風十九号の直撃を受け、停電や断水、さらには道路の寸断と、なにかと生活上の影響を受けました。でも、この年齢になると怖さも鈍るのか、あるいは「どうとでもなれ」という気持ちが起こってくるのか、なるようにしかならないさ、そんな気になって「泰然」というか「恐怖心の鈍麻」なのか、少しも騒がなくなりました。これは「地震」にあっても同じです。かみさんには悪癖がいくつもあります(もちろんぼくにも)が、その中でも特筆すべきは、地震の揺れが来ると、何よりも先に、戸や窓を開けるという性癖です。平屋だからいいものの、マンションの上層階だったらどうするつもりだろうと、いつも感心、いや呆れてしまう。「開けて、どうする」というのでもなさそうで、ただ開けるだけという反射神経の誤謬だったりします。恐らく家が押し潰されて、建物の下敷きになるという恐怖心があるのだと推察しています。(それには、ぼくが関係しているのかしら)

 五時過ぎから「天気予報」を見ています。近年の「予報」の精度はなかなかのもので、「全方位外交」ならぬ「全方位観測」を果たすための複数の衛星を駆使しているからです。その昔、気象庁の同好の士が「ソフトボール大会を予定、それが雨で延期になった」という逸話が残っています。それにしても劣島の沿岸部の海水温の高さは不気味ですね。多くの近海域では三十度かそれに近い水温です。台風の勢力が衰えないのも道理だといえます。この十四号は、予想通りの進路を辿ると「劣島を串刺し」にして東北方面に抜けそうです。そうならないことを願うばかり。

● ラニーニャ現象(らにーにゃげんしょう)La Niña Event=エルニーニョ現象反対語。エルニーニョ現象とは対照的に、日付変更線より東の太平洋赤道海域で平均海水温度が、ふつう6か月ほど連続して0.5℃くらい低くなる現象。エルニーニョ現象は19世紀末から漁業関係者によって取り上げられてきたが、ラニーニャ現象は1984年秋から85年春、さらに88年春から89年春にかけておきたときから注目されるようになった。89年冬には珍しく太平洋日付変更線付近は高気圧帯となり、冬の特徴であるアリューシャン低気圧は平年より弱くなって、89年1、2月の日本は平年より地上気温が2.5℃くらい高い暖冬となった。ただしラニーニャ現象の場合、夏、冬の中緯度地域の気候変動への影響はエルニーニョ現象に比べて小さく、今後の研究課題の一つになっている。90年代になるとラニーニャ現象はほとんど観測されなくなっていた。しかし98年後半から99年2月ころに久し振りにラニーニャ現象がみられた。ただし、99年夏の異常気象すなわち北日本、東日本の猛暑、西日本の多雨との関連性に関しては、インドのモンスーンの影響なども考えられ、これも今後の研究課題である。(ニッポニカ)

● 「1959年(昭和34年)9月26日18時頃、後に「伊勢湾台風」と呼ばれる台風15号が和歌山県潮岬の西に上陸した。上陸後もあまり勢力が衰えず、早い速度で本州を縦断したため広い範囲で暴風が吹き、名古屋市では最大瞬間風速45.7m/sを観測した。/ 台風の進行方向東側に当たった伊勢湾岸では高潮により広範囲が浸水、深夜の台風通過で犠牲者が増え、全国で死者4,697人、行方不明者401人、住家全壊40,838棟、被災家屋は500,000棟以上に達し、戦後最悪の台風災害となった。/ この台風を契機として、1961年(昭和36年)に災害対策基本法が制定された。(「災害カレンダー:https://typhoon.yahoo.co.jp/weather/calendar/109/)

 (上同記事より)「伊勢湾台風が知らしめた風台風が起こす高潮の脅威 和歌山県・潮岬への上陸時の最低気圧が929.5hPa、平均最大風速が33.5mという、非常に大型の台風でした。こうした風が強い台風では、海水が風に吹き寄せられて潮位が上がる高潮が脅威に。そして、伊勢湾の西側を沿うようにコースをとったことで、その脅威がより高まりました。また、名古屋港近くの貯木場では、保管されていた海外からの輸入原木が、人が住むエリアへ流される二次被害も起きました。建物を破壊したり避難民を巻き込んだりと、その破壊力は凄まじく、これも高潮と高波によって発生したのです。/ また、国レベルで見ると、災害に対する法整備が今ほどなされていなかったことが、大きな被害となった要因と言えます。伊勢湾台風を受けて、国は1961年に災害対策基本法を公布。防災に関する責務の明確化や組織の設立などを規定し、以降の防災に役立てています。/ 現代では、港湾地区には大量のコンテナなどが集積されているため、その近辺で生きる人は、高潮への危機意識を持つべきでしょう。ただその一方で、一つの災害に固執するのも危険です。『海が近いから高潮に気をつけよう』と意識すると、地震などほかの災害を忘れがちになります。ですので、日頃からいろんな危険を意識する必要があります。/ 最後に、命を守ることが最も大切ですが、高潮や洪水などの水災害に対しては、その後の生活を考えると、財産を守ることも無視できません。電化製品といった、濡れると困るものを上階へ移動させるなど、未来を生きるための対策をしておけば、『次は自分が避難する番だ』という気持ちを持ちやすいかもしれません」(井口 隆さん)

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 秋から冬にかけて吹く風を「野分」と呼び習わしました。二百十日や二百二十日ころには、特にそのように言われる風が吹くものでした。今では「台風」そのものも、「野分」と言われるようになりました。野分という語は、いかにも長閑(のどか)と言うほどではないにしても、それなりの風情があるもののように使ったり、聞いたりしてきましたが、今では恐ろしい「暴風」のイメージが備わっているんですね。不用意には使えない「語」になりました。「野分」の句をいくつか。

・あかつきのやねに矢のたつ野分哉 (蕪村)  ・うつくしや野分の後のとうがらし( 蕪村)  ・山は虹いまだに湖水は野分哉(一茶)  ・我声の吹戻さるゝ野分かな (内藤鳴雪)  ・この夕野分に向いてわかれけり (漱石)  

 (ここまで綴って来て、「停電」発生です。「駄文を書くのは、もう止めなさい」という合図かもしれない。この調子では繰り返し停電に見舞われそうなので、自然のシグナルに従って、駄文は、途中ですけれども、ここで中断。落ち着いたら再開します、しないかも)(午前九時半過ぎ)

 (十時半に再開)「どんなに文明が発達しようと、人間が自然を超えることは難しい」というのはコラム氏です。その言は間違いではないでしょう。しかし、根っこにある「人間が自然を超える」という発想自体が、諸悪の根源だともいえます。自然と共生するのは「文化」です。荒れ地を耕し(耕作)、そこから収穫を得る(栽培)ことで、人間は生きてきました。この「文化」という生存の土台を手放し、空を自由に飛ぶという「科学技術」の開発によって、人間には相当なことができるのだという「錯覚」を持ってしまったのも事実です。(空中の「交通事故」は発生しないんでしょうか。一方通行や追い越しなど、地上以上に面倒なことが起こりそうで、人間という存在は、自ら問題を生み出していくものなんだね) 

 「台風」は自然現象だと説明できますし、それを克服する「技術」の獲得を人間は求めているのでしょうが、どこまで行けば、「満足」を得られるのか、人間もまた、紛れもなく「自然」の産物ですから、その摩訶不思議な生命体の不思議を解明する方向を求めるのは「冒険精神」ではありますが、その冒険は常に実利・実害が伴うという意味では、どこまで、どこで、という「限界設定」は人間のような「欲求の塊」ではとても困難なのではないでしょうか。「自然(人間という存在)」が「自然(環境及び、そこに生じる現象)」を克服するとは、どういうことを言うのでしょうか。

 (この瞬間に、ばかみたいな「疑問」が出てきました。「台風は百害あって、一利なしだろうか」と言うものです。恐らく人間のスケールからは考えられない視野というか視点が必要でしょうね。どこかでゆっくりと考えてみたい)

 (またまた、雲行きも怪しくなり、風も強まってきました。それを幸いに、本日はここまでにします(十時五十分)。この「寝言」のような駄文の続きは後日に)

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 「卵かけご飯」はステータス・シンボルだった(小三治)

 【明窓】ご飯ですよ 数年前、政府の国会答弁を揶揄(やゆ)した「ご飯論法」が話題になった。「朝ご飯を食べたか」という追及に対し「ご飯(米)は食べていない」(パンは食べたかもしれない)と回答をはぐらかす手法だ▼思わず「座布団一枚!」と言いたくなるようなネーミングだ。「ご飯」は「炊いた米」の意味と、食事全体を指す場合の両方に使われるからだ。例えば、食事の準備ができたら「ご飯ですよ」という言い方をする▼世界の食に詳しい石毛直道さん(元国立民族博物館長)によると、同じような言葉の使い方は、中国や朝鮮半島、東南アジアにも見られ、稲作民族の食事では主食である米がいかに重要であるかを物語っているのだそうだ▼また日本の食事では、同じ内容の副食物でも、酒が主役の場合は「さかな(肴)」と呼び、ご飯が主役のときは「おかず」になる。同じ米から作る日本酒と飯は、昔から互換性がある食品と思われていたらしく、今でも同時には摂取せず、ご飯の番は酒が終わってから▼ご飯は炭水化物やタンパク質、ビタミンなどを含む栄養食であることに加え、食卓の国際化も可能にしたのだという。パンのときの副食は洋風料理がほとんどなのに対し、ご飯の場合は副食が洋風、中華風など対応の幅が広いためだ。消費の減少が指摘されるご飯だが、小麦など食料品の値上げラッシュが続く今こそ、主食である意味を見直す好機でもある。(己)(山陰中央新報・2022/09/04)

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 「天高く馬肥ゆる秋」などと以前は盛んに言われました。それだけ、夏に取って代わって秋という季節が心身の健康に益しているということだったでしょう。「空は澄み渡って晴れ、馬が食欲を増し、肥えてたくましくなる秋。秋の好む時節をいう言葉」(デジタル大辞泉)杜甫も「「秋(こうしゅう)、馬は肥健(ひけん)なり」と吟じています。牛でも犬でも良さそうなものでしたが、中国では「馬」でした。こんな表現にも来歴がありますが、それは略しておきます。雲のない空がどこまでも高々としている、そんな秋の一日、馬も草を喰(は)んで、益々肥えるのである。寒馬肥ゆとも言ったそうです。この島では天が高くても低くても、人肥ゆと、いつの時代にか、「ダイエット」が大きな関心の的になった時もありました。その傾向は、今も変わらないのかもしれません。

 「ご飯論法」という命名はどこかの大学教員がやったようですが、つまらないことを言ったもの、「人はパンのみに生くるにあらず」と聖書は言いましたが、フランスの女王は「ケーキもあるでよ」といったとか。ご飯とかお米というと、この劣島の「主食」というのが常識になって久しいものですが、明治になってからでも米は「主食」とはならなかった。それだけ庶民には高嶺の花だったのです。戦後のある時期の大蔵大臣は「貧乏人は麦飯を食え」といって顰蹙(ひんしゅく)を買いました。麦が食べられるだけでも上等だった、そんな経験をぼくは幼児期にしてきました。だから、何がなくても「白いご飯」があれば文句は言うまいというふうにはなりませんでした。食べるものが荒れば「御の字」ということです。

 その米の消費量は年々減少続きです。米食文化が衰えたのではなく、米以外の食料がふんだんに口に入る時代になった、そういうことでしょう。今年の稲刈りはこの付近ではおおかた終了しています。どこかで触れましたが、いつも気になるのはこの地域の休耕田が徐々に増えていくという現実です。稲作や米の消費量の将来が心配だというのではなく、本日のコラム【明窓】の「ご飯ですよ」と、それに添えられていた写真の「卵かけご飯」に刺激されただけのことで、それについてまず駄弁(だべ)りたいのが、先年亡くなった柳家小三治さんの「雑談…卵かけご飯」について、です。

 故小三治さんは「人間国宝」でした。いつそうなったかについては、ぼくは何も知りません。落語家が「国宝」というのも、一種の洒落であって、それはそれで面白いのでしょうが、国家もつまらない、いや残酷なことをするという「バカ話」の種にはなるでしょう。ぼくの中では、もっとも若い落語家が小三治さんでした。それ以後、ぼくの記憶に残る落語家はいない。落語家ではなく「芸人」もしくは「タレント」が、たまに「落語のようなもの」を話すという程度のことだという気もします。小三治さんについても、どこかで触れています。落語ではなく、彼は「話し手」「語り手」としてもなかなかのものがありました。その大半は「雑談」でしたが、この「雑談」が曲者だと、ぼくは昔から考えて来ました。「雑」という漢字が入る物事は、重要視されないどころか、並よりも下に見られています。その「雑」は、ぼくのもっとも好みとする「概念」なんですね。小三治師匠の雑談「卵かけご飯」を聴かれると、ぼくの言いたいことがおわかりになるでしょう。じつにくだらない、あるいはつまらない話柄です。だからこそ、雑談であり、それがこの上なく「人畜無害」だから面白いんですね。

 現役の職業人だった頃、いつでもはっきりと言い続けていました。「ぼくの話すのは、すべて雑談です」と。雑談以外は話さなかった、いや話せなかったのだ。他の人は高邁な哲学や、高尚な学問の話をされていたのかもしれないが、ぼくは徹底して「雑談」で通してきました。教室だけではなく、「頼まれ講演」でもそうでした。雑談しか話せない人間でしたが、それがぼくにはとても楽しかった。ぼくの書く原稿は「雑文」であり、研究などとはいえた義理もない「雑学」が趣味でした。反対に、ぼくは「純粋」というのが嫌いだった。何よりも「雑種」が本来の姿、それがあらゆる生命体の自然本然だと悟れば、「純粋」というのは、単なる「観念」でしかないことに思いたるでしょう。

 思いつくままに「雑」を列記する。「雑然」「雑役」「雑音」「雑駁」「雑魚」「雑穀」「雑草」「雑多」等々。数限りなく「雑の部」は続く。それは何を示しているのか。純粋や純血、あるいは純白や純情というものが、現実にではなく「期待・希望」としてあってほしいということでしょう。なんといっても「雑」が本筋というか、もののあり方の基本型を明示しているということではないですか。ぼくが大学の教師のようなことをして身過ぎ世過ぎに明け暮れていた間、「雑魚の魚(とと)混じり」だという自覚が揺るがなかった。その雑魚(ぼく)に言わせれば、「網にかかるは雑魚ばかり」という精一杯の皮肉も忘れたことはなかった。ある友人(同僚)から「君がここ(この大学)にいるって、奇蹟だよ」と言われたが、彼はぼくをよく知っていたのです。その彼(高名な宗教学者)は「雑魚」か「魚(トト)」だったか、そんなことはどうでもいいことですね。

 で、小三治さんの「雑談」です。定型的な「古典落語」は大好きだし、この「雑談」も大好きでした。二つは比較衡量してはいけないんですね。まったく別種・別事で、それぞれに楽しめばいいのでしょう。小三治さんは「枕の名人」と称された。話の入り(まくら)がやたらに面白かったというのです。あるいはやたらに長かった。この「まくら」が、ぼくに言わせれば「雑談」そのものでした。その心は、「融通無碍」「雑然紛然」の面白さではなかったか。反対に「純一無雑」ではない、雑然とした中に筋らしいものが見える、そのおかしさでしたね。これが「話芸」であるのでしょうね。ぼくは落語をたくさん聞きましたが、煎じ詰めれば「話芸」の面白さを求めていたということに尽きるでしょう。

 柳家小三治「卵かけご飯」(https://www.youtube.com/watch?v=ULzB0mdZZaE

●やなぎや‐こさんじ〔‐こサンヂ〕【柳家小三治】[1939~2021]落語家。10世。東京の生まれ。本名、郡山剛蔵。5世柳家小さんに入門。真打ちに昇進すると、正統派古典落語の担い手として活躍。巧みなまくらも人気となり、「まくらの小三治」と称された。人間国宝。(デジタル大辞泉)

 小三治さんは何歳ぐらいまで「卵かけご飯」を好んで召し上がっていたのか。どこかで聞いたようにも思いますが、記憶にありません。なぜんそんなことをいうかというと、ぼくも高校生くらいまでは「卵かけご飯」が大好きだった。ところが、どういう理由からか、それ以降はまったく食べることができなくなったからです。二十歳すぎても「卵かけ…」が好きな人間がいるのかどうか。今でも卵はよく食べるが、それをご飯にかける気がしなくなった。卵の生産方法をよく知るようになったからだろうか。だったら、肉類だって同じようなもの。卵とご飯は相性もいいのに(例えば、オムライスやチャーハンなど)、生卵は駄目だという理由が、ぼくにはよくわかりません。今では、それ(卵かけご飯)を想像するだけでも気分がおかしくなるのですから、奇妙なことですね。

 小三治氏は(「雑談」の中でも)「卵かけご飯は、ぼくのステータス・シンボルだった」と語られていました。それだけ貧困時代の子どもだったということでもありますね、誰彼なくそうでした。彼は、ぼくより五歳ばかり年上でした。晩年は「病気の問屋」のように、痛々しく見えましたが、壮年の頃は、颯爽と「ナナハン」にまたがっていたのでした。その彼に、かみさんはあるとき、都内目白近くのガソリンスタンドで出会い、「見たよ、いい男だった」と、なんどもぼくにいうのでした。

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