
【小社会】きのうの本紙1面に写真が載っていたタチアオイは、高知市の久万川沿いでもよく咲いている。濃い赤、白、ピンク。大事に植え育てられた大形の花をめでながら毎朝、散歩している。▲別名を梅雨葵(つゆあおい)という。茎は大人の背丈よりも高く直立し、梅雨のころ下段から咲き上る。天保年間の書物「世事百談」には「花葵の花咲(さき)そむるを入梅とし、だんだん標(すえ)の方に咲終(おわ)るを梅雨のあくるとしるべし」とある(講談社学術文庫「雨のことば辞典」)。▲つまり梅雨入りのころ咲き始め、てっぺんまで咲くと梅雨明けのころといわれる。もっとも、久万川沿いのタチアオイはもう最上部の方が咲いているものも。いわば、気の早い組だろうか。▲高松地方気象台が一昨日、四国地方が梅雨入りしたとみられると発表した。気象庁の資料では、5月の梅雨入り自体はさほど珍しくはない。ただ、警戒すべきは気の早い台風2号だろう。まだ5月というのに大型で強い勢力。沖縄の南の海上を進んでくる。▲近年、西日本豪雨をはじめ毎年のように大雨による悲劇が相次いでいる。気象庁は昨年6月、線状降水帯の半日前予報を開始。今月からはその発生を伝える「顕著な大雨に関する気象情報」を最大で30分早く発表する運用を始めた。ともかく「早め早め」の行動を促している。▲気候変動もあるのか。昨今は季節の変化も早め早めと感じる。災害への備えも気が早いぐらいがよさそうだ。(高知新聞Plus・2023/05/31)(ヘッダー写真も高知新聞掲載)
珍しいことに、高知新聞からの引用が続きます。もう何年も前のこと、高知新聞の若い記者と一緒したことがありました。M さんと名乗られた。今も元気で活躍されているだろうか。他の地方紙にも何人かの知人がいます。地方紙の限界を感じながらの記者生活に、ぼくは遠くから思いを馳せています。

四国が梅雨入り 平年より7日早く 高松地方気象台は29日、四国地方が梅雨入りしたとみられると発表した。平年に比べ7日、昨年より13日早い。九州北部、中国、近畿、東海地方でも梅雨入りした。/ 高知市では、25日から曇りがちな天候が続いた。29日午前もやや暗い空模様で、雲の合間から日が差したり、隠れたり。曇天下でも江ノ口川沿いではタチアオイが赤やピンクの明るい花を咲かせ、散歩する人を和ませていた。/ 高知地方気象台によると、四国地方は前線の影響で、向こう1週間も曇りや雨が多い見通しという。平年の梅雨明けは7月17日ごろ。(河本真澄)(高知新聞Plus・2023/05/31)
いつの頃だったか、おふくろから「家紋」は「剣片喰(けんかたばみ)」と教えられたことがある。ぼくの方から聴いたのではなく、話の折に出てきた。今も昔も、「家紋」になんの関心もないぼくでしたが、いくつかの紋所はよく知っていた。中でも「葵」、徳川の家紋ということで、「菊」の紋よりもよく知られていたかもしれません。この「葵」については触れると、なかなかの難敵で、一筋縄ではいかない代物だという先入観がぼくにはあります。先日拙宅に来てくれた卒業生の一人(法務省の官僚)が庭の花を見て、「立葵(タチアオイ)」と言い当てたのに感心しました。近所の野原に咲いていたものを一本だけ移植したのが、今では何本もが敷地のあちこちで育っている。強い植物なんですね。下部の蕾から徐々に上昇して、最上部の蕾まで咲き続ける。不思議な花(植物)だと、いつも見惚(と)れる。梅雨入りの頃に咲き出し、咲き終わると夏といわれ、かなり開花期間が長い。

ぼくの敬愛する先輩に生物学者の「菊山」という名字の人がいた。なかなかの通人で、茨城の産。いつも「菊は栄える葵は枯れる」と謳っていた。戦時中に流行った流行歌でした。「伊那の勘太郎」(長谷川一夫、山田五十鈴主演)という映画の主題歌だったか、「勘太郎月夜歌」(作詞佐伯孝夫 作曲清水保雄)といった、小畑実さんの歌。昭和十八年発表。ぼくは小畑実さんが大好きだし(特に「湯島の白梅」)、四、五歳ころから「勘太郎月夜歌」もよく謳っていた(伊那谷にも強い郷愁?を覚えました)ので、その先輩とはすっかり親しくなりました。大変な学者で、内分泌学の権威でもあり、しかもラクビーのグラウンドに、かなり高齢になるまで、いつでも出ていた。よく一緒に飲んだこともありました。
「菊は栄える 葵は枯れる 桑を摘むころ 逢おうじゃないか 霧に消えゆく 一本刀 泣いて見送る 紅つつじ ♫(三番)」

なにかあると「菊は栄える葵は枯れる 桑を摘むころ逢おうじゃないか」と唱和したものでした。なかなかの洒落っ気もあって、男児が生まれたときには「嵐」と命名された(と記憶しています)。もちろん、ジャニーズからの借用ではなかった。「菊山嵐」、なんだかすごい猛者という印象を受けたものでした。ご当人は「菊山栄」と、実にスッキリとしたお名前だった。親子で「平仄」は合っていましたね。ある時期までは学者をしながら、競馬の解説でも知られていた。趣味が嵩じて、府中競馬場の横に移住された。招待されてお邪魔したが、二階のベランダから、場内が一望できた。いまは、かなりの高齢になっているはず、ご健在だろうか。(昨年三月末に亡くなられた O 先生とは、茨城県の高校の同級生だった)
その「葵」です。葵は、今では普通名詞で、特定・個別の植物(花)を指していない。暇にあかせて「葵」という漢字表現を探したら、たくさんあったのに、驚いた。よく目にし口にもするのに「山葵(わさび)」があります。やがて咲き出す「向日葵(ひまわり)」、さらには東南アジアでよく見られる「蒲葵(びろう)」などなど。それらに、どうしてこの「葵」という字が使われているのか、よくわかりません。こじつけて説明しているものがほとんどで、それもこれも「当たらずといえども遠からず」「遠からずといえども当たらず)のようでもあります。徳川家の紋所は京都賀茂神社の「葵」から来ているというのは事実らしい。しかし、紋としての「葵」だけでも百種くらいはありそうで、それだけ人気がある・あったということでしょう。「家康の威光」の為せる技でしょうか。「家紋」に関わると、まるで迷路に入り込んだようになり、収拾がつかなくなります。一体どれくらいの種類があることか。数千、いや数万はあるでしょう。他国でも事情は同じ。「家」を誇り、「家門」を世に突き出す、そんな文化がまず栄えたということでしょうか。

● アオイ(あおい / 葵)= 普通はアオイ科(APG分類:アオイ科)のタチアオイ、フユアオイ、トロロアオイ、モミジアオイなどを総称してアオイというが、現在では単にアオイという和名の植物はない。アオイの名が日本で最初に表れるのは『万葉集』であるが、これをフユアオイとする説のほかフタバアオイなどとする説もあり、古来より「葵」の概念と扱いには混乱がある。たとえばカンアオイ類はウマノスズクサ科で、近縁のフタバアオイは別名カモアオイ(賀茂葵)ともよばれ、京都の賀茂神社の儀式植物として古くから用いられている。カツラ(桂)の枝に結び付けられて諸葛(もろかずら)として用いられることもあり、『古今和歌集』『枕草子(まくらのそうし)』や『源氏物語』にも取り上げられて、現代まで続いている。また有名な「葵の紋」とよばれる徳川家の三葉葵も、フタバアオイの葉を3枚組み合わせて紋章化したものである。/ 6世紀の中国の農書『斉民要術(せいみんようじゅつ)』には、野菜の筆頭にアオイをあげている。それをフユアオイとする説が強いが、ツルムラサキとみる中柴新の新説も出されている。なおツルムラサキの代表的な漢名は落葵である。(ニッポニカ)




アオイ(葵)は日本原産ではないが、ワサビ(山葵)は日本産だとされます。「蒲葵(ビロウ)」は、東南アジアなどでは屋根葺(ふき)材にも使われている。萱や藁に同じ。時々、ネットでヴェトナムの女性たちが山野で家を作ったり農業を営み、都会から離れた生活を営む風景を映し出している番組( youtube )を見ることがあります。その際には、多くは屋根にこの植物を載せていますね。(上写真、左から「山葵」「向日葵」「蒲葵」)(右端は「蒲葵」を使った屋根葺き)
まったく形状も種類も異なる植物に「葵」という字が使われているのは、それなりの理由があってのこと、調べてみたいが、今は面倒だし、無理。

先日(五月十五日)、京都で「葵祭」が行われたニュースを見ました。小学生の頃、京都の堀川に少しの間住んでいたことがあり、この祭りに何度か遭遇しました。興味も何も湧かなかったし、遊んでいる側を「祭りの行列」が通っていたような気がするばかりでした。京都三大祭のひとつとされ、時代遅れをいささかも気にしないで年々、軽薄の度を加えて、観光用の行列は練り歩いています。

● 葵祭(あおいまつり)= 5月15日に行われる京都市北区上賀茂(かみがも)の賀茂別雷(かもわけいかずち神社(上賀茂神社)、左京区下鴨(しもがも)の賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社)両社の祭り。元来、かも祭(かもまつり)と称し、平安時代に祭りといえば賀茂祭をさすほど有名であった。また石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)(京都府八幡(やわた)市)の祭りを南祭というのに対して、北祭ともよんだ。現在も岩清水祭、春日(かすが)祭とともに三大勅祭の一つ。祭日は、明治以前は4月中(なか)の酉(とり)の日(二の酉の年は下の酉の日)であった。葵祭の名称は、祭員の挿頭(かざし)に葵を用い、神社や家々に葵を飾り、物忌(ものいみ)のしるしとすることに基づくもので、同様の呼称は松尾(まつのお)祭(京都市西京区嵐山(あらしやま)宮町の松尾大社、4月下の卯(う)の日~5月上の酉の日)などにもみられる。(ニッポニカ)

● かも【賀茂】 の 祭(まつり)=京都の、賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)(=上賀茂神社)と賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)(=下鴨神社)の祭例。古くは四月第二の酉(とり)の日、現在は、五月一五日に行なわれる。祭の前の午(うま)または未(ひつじ)の日に、鴨川で斎院の御禊(ごけい)がある。京都鎮守の祭で、平安時代には特に盛大となり、単に祭といえばこの祭を意味した。葵の葉で牛車や簾(すだれ)、社殿や祭人の冠(蒼鬘(あおいかづら))などを飾り、賀茂の家々の門にも葵をかけたので、葵祭ともいう。石清水八幡宮の南祭に対して北祭といわれることもある。(精選版日本国語大辞典)
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何気なしに、裏庭などで咲きだしている「立葵(タチアオイ)」の姿を見ていて、いろいろな雑念が浮かんでは消え、消えては浮かんだ、そのままの雑文です。何かの意見や見識があるわけでもなく、歴史の勉強をするつもりもない。花木にも謂れありということを痛感するばかりです。田舎に住んでいると、嫌でも植物の色彩や姿形の移り変わりが目に入ります。それだけでも「至福」というつもりはありませんが、その御蔭で気持の保養をさせてもらっているとありがたく思う。「葵祭」はまた、嵐山の松尾大社でも行われており、とても懐かしく思い出されています。この神社は「酒の神」が祀られており、しばしばお参りしたことがあったし、姉貴の結婚式が行われた神社(場所)でもあった。ぼくには信仰心は皆無で、まことに罰当たりだという自覚はありますが、神社仏閣へはよく出かけたものでした。その建築物を観察するためだった。彫刻を始め、組物など、今ではまったく見られなくなった「技術の粋」を確かめることは、ぼくには大きな意味がありました。

寺社建築の技術は、ほとんどが大陸を通じてこの島に入ってきたものです。東海の孤島というのは地図上の幻影で、実のところは、世界(海外)に向かって、あるいは世界に対して開かれていたのでした。その証拠に「衣食住」のことごとくは海を通じて入ってきた(もたらされた)ものばかりだったのです。「原日本人」と言えるなら、そのような人々そのものが、大陸の各地から渡来してきたのです。祭りをとってみても、「日本独自」と言いたくなるような、洗練された景色・景観は極めて近代の産物で、その表面を覆っている幕を剥ぎ取れば、直ちに大陸の文化・文明圏に存在したものだということが瞭然とするのです。
だから、歴史を学ぼうとしなければ、なんだって「日本の文化」「和国の伝統」「固有の美しさ」などと「非歴史」を元にした、荒唐無稽日本論を騙(かた)って憚らなくなる。無知ほど怖いものはない(Ignorance has no enemy ; there is nothing scarier than ignorance.)のですね。いい悪いを含めて、さまざまな表層の深部にある地層に思いを及ぼすことは、独りよがりを避け、他国を尊び、多民族を敬うための大切な姿勢の下地となるのではないでしょうか。
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