デュナンとハチ公と蛮行と善意の発現と

 【筆洗】旅先の北イタリアで凄絶(せいぜつ)な戦闘に出くわしたスイスの実業家アンリ・デュナンは、多くの負傷兵が治療を受けずに死んでいく非情な光景を目の当たりにする。助けようと駆け回るが、素人の手ではなすすべもなかった▲1859年夏、イタリア統一戦争で半日のうちに4万人超の死傷者を出した激戦地ソルフェリーノでのことだ。デュナンは敵味方を問わず治療と看護にあたる救援組織の創設を訴え、4年後に誕生したのが赤十字国際委員会である▲翌年には戦場での「医療の中立」を定めた赤十字条約が締結され、病院や医療従事者への攻撃が禁じられた。差別なく人間の尊厳を守ることは、たとえ戦争中であっても守られるべき規範として約160年後の今に受け継がれている▲だが、ロシアが侵攻したウクライナの惨状は目を覆うばかりだ。世界保健機関(WHO)によれば、病院、救急車、医療従事者への攻撃は120件以上に及ぶ。産科や小児科、がんセンターも含まれ、死傷者は120人を超える▲影響は計り知れない。医師や患者が命を落とすだけでなく、新たな患者の受診機会を奪う。医薬品や医療機器が不足し、治療ができず、感染症が広がる恐れもある。WHOは国際人道法違反と非難し、人権団体は「戦争犯罪」と糾弾する▲不幸にして戦争が起きても、被害を最小限に抑えることは紛争当事者の義務だ。非軍事施設を標的にしたり、民間人を攻撃したりすることはあってはならない。医療を破壊する行為はもってのほかだ。(毎日新聞・20022/04/18)

● ジャン・アンリ デュナン(Jean Hennri Dunant)1828.5.8 – 1910.10.30=スイスの実業家。ジュネーブ生まれ。大学卒業後、フランス支配下のアルジェリアでアフリカ貧困救済のための製粉会社を営んでいたが思わしくなく、事業の再建交渉のためにパリへ赴く途中にイタリア統一戦争に会い、戦地での悲惨な状態を目の当たりにして看護に献身する。この体験を「ソルフェリーノの思い出」として出版し、戦場における中立的救護機関の設置を各国に訴えた。この提案に基づいて、1863年にジュネーブにヨーロッパ各国代表が集まって、赤十字規約を決議し、翌年には12カ国間で赤十字条約が調印され、国際赤十字の基礎となった。1901年に第一回のノーベル平和賞を受賞した。(20世紀西洋人名辞典)

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 【天風録】ウクライナのハチ公 13年前、ある映画の最中に「ヒイッ」と大声で泣き伏す外国人らしき女性に驚いた。リチャード・ギア主演の米映画「HACHI 約束の犬」。亡くなった飼い主の姿を求め、秋田犬が震えつつ歩く。確かそんな場面だったか。さぞ琴線に触れたのだろう▲けなげに主人を待ち続ける忠犬―。言わずと知れたハチ公の物語のリメーク版を通じて、秋田犬の忠誠心は世界中に伝わったらしい。とりわけ富裕層が力を増しつつあった大国ロシアに▲映画公開から3年後、かのプーチン大統領に秋田犬「ゆめ」が本場の知事から贈られる。東日本大震災への支援の礼として。立派な主人に恵まれて幸せ、と多くの愛犬家も喜んだはずだ▲ゆめが忠誠を尽くしてきた飼い主の暴挙で、新たなハチ公が生まれるとは。ウクライナの首都近郊マカリウでロシア兵に虐殺された女性の家を離れず、1カ月待ち続ける秋田犬の姿が地元メディアで伝えられた。幸い引き取り手が見つかったらしい▲涙するどころか大声を上げ非難すべき話だ。黒海旗艦の沈没など戦局を占う情報に目が行くが、ウクライナを忠犬化したいロシアの蛮行でささやかな幸せが日々、奪われているのを絶対に忘れまい。(中国新聞・2022/04/17)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

 「あいつはプーチンの犬だ」といわれているのかどうか、いろいろなところにいろいろな「犬」がいます。人間を指して犬というようですが、それは犬には名誉なことなんかではなく、むしろ「侮辱」であり、「名誉棄損」でもあるでしょう。「他人の秘密などをかぎ回って報告する者。スパイ。「官憲の―」人をののしっていう語」(デジタル大辞泉)というように、実にひどい使われ方をしています。犬からすれば、いずれもが「濡れ衣」だといえそうですが、それだけ、「主人に従順(を偽装しているのかも)」だと見下されているのです。けっしてそうじゃないと、ぼくは経験から学んでいるのですが。だから、ついには「飼い犬に手を噛まれる」ということにもなる。無謀な権力者の「秋田犬」は「夢」と名付けられたそうですが、とんだ「悪夢」(この犬には無関係です)を悪逆非道の権力者は見たものでした。

 アンリ・デュナンについては、ぼくは何かを言うことはできません。貧困と弱者に対する「飽くなき善意」ともいうべき志を捧げた人という印象を、ぼくは維持してきました。ナイチンゲールなどの看護者にもぼくたちは「生命へのいとおしさ」と「戦争への憎悪」を強く感じるのですが、いずれの人々にも、いわば「本能的善意(「よくあってくれ」、「幸せになってほしい」という心底からの願い)」というものの存在を強く教えられます。人間には「善意(goodwill)」がある以上は、「悪意(ill will)」もまた、われわれの心中深くに息づいてるのです。それを「本能」といってもいいのではないでしょうか。他者に対して「悪意を抱け」と教えられ(命令されて)、そうなるというのではなさそうで、いやおうなしに「悪意」は生み出される、湧き出てくる。それをどのようにして上手に「解放」するか、「爆発」させないようにできるか、そこに「道徳」の問題があるのです。脳幹に属する「攻撃性」に根差す暴力もまた、われわれの深くに内蔵されています。それが時には「大爆発」するのです。たった一人の思慮のない「権力者」の「悪意」が多くの人々の「善意」を虚仮にし、踏み躙(にじ)るのです。

 では、一方の「善意」はどうでしょうか。これもまた、「本能」としてぼくたちは内蔵しているともいえます。「他者には優しく」「困っている人を助けてあげなさい」というのは「道徳教育」のお題目ですが、もしそのような教育でうまくいくなら、苦労はしません。幸か不幸か、人間のうちには「悪意」と「善意」は、生来的に備わっているのではないですか。ぼくはそのようなものとして、自らの内なる「悪意」と「善意」の格闘・葛藤を経験してきたのです。その系統樹は、「息をする」(生命保存本能)というレベルから、相手を威圧・攻撃するというレベル「情動」、さらには「愛憎」という「情感・情念」に至り、ついには他者を敬愛する、他者への献身という「感情」にまで、一続きに連なっているともいえます。

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 人間が抱く「悪意」は本能に根差しつつも、それを育てる環境や教育というものがあるのでしょう。「自民族中心主義(エスノセントリズム)」は、生まれた環境とそこにおける教育によって、培われてきたものでしょうし、それはまた「他民族蔑視・他民族排除」に連続してもいます。戦争の原因はさまざまでしょうが、それを持続させるエネルギーは自民族優越主義であり、他民族蔑視であるのは歴史の示すところです。これは「本能」ではなく、悪しき環境と教育の賜物(たまもの)でしょうし、政治権力の悪意はそこを利用して、覇権を得ようとするのです。このことは、個人の場合にも事情は変わらないと、ぼくは考えています。「いじめ」は、この事情を語っている。

 「善意」も環境や教育によるところは皆無ではないといえますが、「悪意」同様に、本能に根を持っていると、ぼくは考えてきました。いわば「本能による善意」です。このことを考える大きな手掛かりになる事件が二十数年前にありました(もちろん、そればかりではなく、これまでにも無数の事例がぼくたちの歴史の中には刻印されているのです。デュナンの善意もまた、その一つであるといっていいでしょう)。以下に、その記事を紹介しておきます。民族や人種をを超えた「本能」ととらえるべき問題だといいたいのです。

HHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHHH

 新大久保駅 転落者救助の韓国人留学生ら死亡から21年で追悼 JR山手線の新大久保駅で、ホームから転落した人を助けようとした韓国人の留学生と日本人の男性が電車にはねられ死亡した事故から26日で21年となり、関係者などがホームで黙とうをささげました。 / JR山手線の新大久保駅では、2001年1月、韓国人の留学生イ・スヒョン(李秀賢)さん(当時26)とカメラマンの関根史郎さん(当時47)が、ホームから転落した男性を助けようとして電車にはねられ、3人とも亡くなりました。

 続いてて行われた追悼式には、新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、ことしも日本訪問を見送ったイさんの母親、シン・ユンチャン(辛潤賛)さんがビデオメッセージを寄せました。/ この中でシンさんは「1月26日に新大久保へ行くと息子に会えそうな気がして、日本訪問を心待ちにしてきました。21年間変わらずに温かく迎えてくれた支援者の皆さんに感謝申し上げます」と語りかけました。/ イさんが生前、日韓両国の懸け橋になりたいと話していたことから両親らが見舞い金などをもとに設立した基金によって、これまでに19の国と地域の留学生あわせて1059人が奨学金を受け取っています。(NHKWEB:2022年1月26日 17時35分 )(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220126/k10013451361000.html

HHHHHHHHHHHHHHHH

 数日前に、アメリカフロリダ州で、衝撃的な事態がありました。いかにも今日の時代を感じさせるように、事態の一部始終が「カメラ」に収められていたのでした。交通量の激しい交差点で、一人の女性が運転中に「意識を失った」。車はゆっくりと前進し続けたのですが、その運転手の同僚だという、一人の女性が自分の車から飛び出して、交差点に侵入する車を止めようとし、さらに周りの人々にも事態の窮迫を知らせました。車が激しく行きかう交差点で、このような場面に遭遇した際に、人々はいかなる行動をとるのでしょうか。記事では「勇敢な人々」とありますが、ぼくに言わせれば、本能からの「善意」「善意という本能」に突き動かされた人々の行動によって、事故もなく人命も守られたのではないでしょうか。瞬時の行動によるものでした。しかし、この事態を横目で見ながら走行を続ける人もいたでしょう。これは、しばしば起こる事件ですが、小さな子どもが川や海で溺れた際に、自分が泳げるかどうかにかかわらず救うために飛び込む人があり、あるいは不幸にして、飛び込んだ人の命が失われるということもあるでしょう。死に瀕している、危機一髪の緊急事態に、後先を顧みずに、人間には急場を救うという本能があるのです。以下は、その時の場面です。(この映像を見ながら、ぼくは、人間の計り知れない「善意」を感じていたし、転じて、ウクライナでは計り知れない「悪意」を見せつけられています。どちらも「人間の・情動・情念・感情」であるのです)

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【映像】運転手が気絶、徐行するクルマに駆け寄り救出した勇敢な人々

 <救出された女性は、助けに協力してくれた人々との再会を望んでいる> 運転中に意識を失った女性が勇気ある大勢の人々によって救出される動画がソーシャルメディアで話題になっている。この映像は5日に記録されたもので、米フロリダ州のボイントンビーチ警察が11日(現地時間)に公開した。/ 異変に気付いたのは、近くにいた彼女の同僚だった。交通量の多い交差点であらぬ方向に進んでいくクルマを見た同僚の女性は、信号待ち中の自身の自動車から飛び出し、全力で追いかける。/ クルマに追いつくと窓を叩き、同時に他の車両に緊急事態だとアピールしているのが分かる。徐行するクルマが交差点を渡りきると、近くにいた別のドライバーらも駆け寄ってきて彼女に協力し始める。/ クルマが進むのを力ずくで阻止するもドアや窓を開けられずにいると、ある女性がダンベルを持ってくる。近くにいた男性がそれを受け取り、後部座席の窓を破壊。ようやくドアを開けるのに成功し、ドライバーを救出することができた。(以下略)(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2022/05/post-98677.php)(2022年5月13日:newsweek)

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 道徳の問題としてみるに、善意(goodwill)とはどういうものでしょうか。それは人々のうちに教え育てられて、根付くのでしょうか。ある人には「当然の行い」であっても、他の人はそうは思わないということもあるのでしょうか。どんな人にも「善意」はあるといって、間違いではないのかどうか。悪意の方は、どう考えたらいいのでしょうか。人の助けになりたいと、冷静に考えることはできますが、瞬時に、道徳的な行為をなすというちからもまた、人間にはあるのではないかとも思う。その反対の例を考えれば、ますます、ぼくたちは「善意」というものの、深さと広がりに信を持ち続けたいと願うばかりです。ぼくたちが想像する以上に「本能」というものは深さと広がりをもっているのです。

 一例です。「母性本能」などと、肯定的に使うことがあります。いまでは「母性愛」と言い換えているでしょうが、これもまた一つの本能とみられています。しかし、それはいつでも効果的・肯定的に発揮されるかどうかは、断言できないのです。幼児虐待や、育児放棄などの問題行動は、生命は、時には「破壊の対象」にさえなるということを、実例をもって示しています。いずれにしても正と負(といえるような)の「本能」の、ある意味では「格闘の場」「葛藤の舞台」(そこに芽生えるのが「道徳意識」ではないですか)、それが「人間の器量」なのかもしれません。例によって、結論なしの駄文であります。(今日の研究領域においては、この程度のことに関しても議論百出という状況にあるということ)

(ウクライナの解放された地域で恐ろしい光景=大統領報道官https://www.bbc.com/news/world-europe-61017352)

PPPP

● ほんのう(本能)instinct(英),Trieb(独)=生活体に内在し,行動を引き起こす生得的なメカニズムあるいは衝動を本能という。このことばは古くから使われている日常語であると同時に,心理学およびその関連領域で,さまざまな研究者が専門用語として使用してきた。このため,その定義とそれが指し示す範囲は,多様なものとなっている。(最新心理学事典)● 能(ほんのう)instinct=種に特有な一連の生得的(遺伝的)行動の機制を意味し、本能に基づく行動を本能的行動という。反射reflex、動性kinesis、走性taxisも生得的行動であるが、反射はおもに身体の部分的行動をさし、本能的行動は全体的行動をさしていう。動性、走性は全身の行動であるが比較的単純な反応であり、これらからも区別される。また、反射、動性、走性は瞬時の環境状態に一義的に依存する反応であるが、本能的行動は、いちいちの反応が状況に可塑的に応答しながら固定した様式をもつ、一連の反応系列として現れる場合をさしている。(ニッポニカ)

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 なるほど、そうですね。了解しました

 【明窓】なるほど 実家で電話取材をし終えて受話器を置くと、何やら言いたげに母が近寄ってきて、辞書を渡された。言葉遣いが気になったという。何度も使った「なるほど」という言葉が。辞書を引くと、「相手の言うことに相づちを打つ時に使う」などという用法に続いて、こうあった。「立場の上の人には用いない」▼何年か前の出来事だが、意識してみると、日常生活でもテレビでも頻繁に使われており、自分でも恐る恐る使ってみて、それほど不快感は与えていないように思われた。言葉は時代とともに変化するもの、という勝手な分析を加えながら▼置き換えられる言葉はないか、と探りもした。「そうですね」では、いまひとつ聞かせてもらったことが共有できた気がしないし、「確かに」でも足りない。これというものが見つけられず、乱発しないようにして使い続けている▼この春、一度だけ確信を持って使った。新入社員の記者研修。デジタル社会を迎え、どうして地方紙を選んだのかを尋ねると、歴史の記録性や地域で積み重ねてきた信頼など、しっかりした答えが返ってきた▼変革の時代、新聞社に限らずどの分野でも、それぞれの土台の上に一緒になって新しい何かを積み上げていけばいいのだろう。入社から1カ月を迎える新しい力。立場の上も下もなく、互いが「なるほど」と、うなればうなるほど、活気ある仕事ができると期待している。(吉)(山陰中央新報・2022/4/30)

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 こんな内輪(楽屋)話でも、ひと昔も前なら「ちょっといい話」となるのでしょうか。演劇評論家としてならしていた戸板康二さんには同名の著書があり、ベストセラーになりました。発行年は一昔どころか、四昔以上も前の1978年でした。この本が当たったので、それ以降、さまざまな分野や領域の「ちょっといい話」を戸板さんは書き続けられた。つまりは「柳の下の泥鰌」を一匹ならず、なん十匹も狙ったのです。「あんまりよくない話」のようにも思われました。ぼくは最初の本を「ちょっとだけ読んだ」記憶があります。戸板さんについてもいくばくかの思い出がありますが、本日の駄文の流れには関係なさそうですので、やめておきます。 

 息子(記者)の「言葉使い」が気になったといわれた母親はどういう気持ちで「辞書」を渡したのでしょうか。記者は何歳ぐらいだったか。いつまでたっても「親は親」だということでしょうね。ぼくも一度だけでしたが、親父から言われたことがありました。大学生になって、年に何度も書かない「はがき」を、何時も旧漢旧仮名で書いていたのを、「学校でも、あのような(旧漢字・旧仮名遣い)文を書いているのか」と、それだけでしたが、ぼくはその後も、使う文字については考えたことでした。ある時期までは、すべてその調子で通していましたが、やがて新仮名、当用漢字交じりの文章に代わっていきました。どうでもいいことですが、一つの漢字でも、時期によっては異なった書き方があり、送り仮名もそうでした。だから、ある作家のものを読んでいて、この人はどの時代に学校教育を経験したか、わかりそうな気がしたほどでした。旧字体の文章を書くのに、大きな理由があったのではありません。これも説明すると長くなりますので、省略しますが、漢字一つ、言葉使いにも「歴史」があるということに興味を覚えていたのです。

 コラム氏のような経験談を語っていた作家がおられました。ぼくがつねに愛読していた井伏鱒二さんです。井伏さんが、たしか文化勲章を受賞された時だったか。母親が電話をしてきて(井伏さんが報告したのかもしれない)、「今何をしてるんか」と訊かれ、井伏さんは「文章なんかを書いている」と答えたら、「辞書などで調べて、きちんと書かにゃいけんよ」といわれたそうです。その時、息子さんは「そうする」と答えたそうです。時に一九六六年、井伏さんは六十八歳だった。広島出身の大作家というべき人でした。いつまでたっても、「子どもは子も」と、当たり前ですが、親は思うのでしょうか。ありがたいことではないか。

 「なるほど」は「立場の上の人には用いない」という、一種の使い方の礼儀があったんですね。そんな言葉はいくらでもあります。早い話が、尊敬語とか謙譲語などというのも、こういう言葉使いのニュアンスから定まってきたのではないか。だとすれば、上下関係も、親子関係もすべてが「水平」に並んでいるとする時代意識が強くなると、尊敬語や丁寧語、謙譲語などという面倒な「人間関係」に振り回される言葉使いは嫌われるというか、薄れていくでしょうね。それはそれで、一理も二理もあると、ぼくは考えています。しかし、目上とか目下などではなく、人間に対して、ある種の「尊敬心」があると、おのずから言葉使いにもそれがにじみ出てくるのではないでしょうか。

 ぼくはかなり「辞書好き人間」を自認しています。理由は単純で、この「言葉」をいかに説明し、解説できているか、それを読む(見る)のが趣味のようなものになってしまったからです。

 ぼくは最も熱心に読んだのは諸橋轍次氏の「大漢和辞典」でした。今でも簡略版と本格版の二セットを所有しています。暇な折には、どこでも開いて面白ければ読みふけります。「諸橋轍次(もろはしてつじ)著の漢和辞典。大修館書店刊。全13巻(うち索引1巻)。1943年第1巻が刊行されたが,戦災により中止。戦後1955年―1960年に刊行された。収録する親文字4万9964字,熟語約52万6500語に及び,用語例の豊富さと出典の確かな点で,なお高い評価をうけている」(マイペディア)この時点を作り上げる「執念」はどこから来るのでしょうか。ぼくの想像をはるかに超えています。

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● 諸橋轍次(もろはしてつじ)(1883―1982)=漢学者。新潟県の生まれ。東京高等師範学校(後の東京教育大学。現、筑波(つくば)大学)卒業。中国に留学後、母校教授、東京文理科大学教授や附属図書館長、静嘉堂(せいかどう)文庫長などを歴任した。著書は『詩経研究』『儒学の目的と宋儒(そうじゅ)の活動』『支那(しな)の家族制』など多数あるが、1927年(昭和2)から1960年(昭和35)にかけて完成した『大漢和辞典』(本巻12巻・索引1巻)は、その生涯をかけた大著である。同書は途中、1945年3月の東京大空襲で全資料を焼失したが、戦後に再起、総ページ数約1万5000、収録された親字4万9964字という、日本における漢和辞典のもっとも大規模なものである。第1巻が刊行された1943年の翌1944年に昭和18年度の朝日文化賞を受けた。1965年文化勲章を受章。(ニッポニカ)

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 誰が言ったか知りませんが、「なるほど」などというのは目下に対して言うものであり、それらを称して「大名言葉」というらしい。大名は使ってもいいが、下々はダメとでもいうのでしょうか。今の時代にも、こんな「言葉の礼儀」をうるさく言う人がいるのかもしれません。このほかに「ご苦労」とか「ご苦労さま」や、「了解しました」、あるいは「とんでもございません」なども、その手の言葉として、目上に対して不用意に使うと、お里が知れるというわけ。ぼくは、このことに関してはかなり「無礼」です。このような言葉使いには、面倒な頃は言わないできました。若いころに、一回りも年上の先輩に用事を頼まれて、片付いたと報告をした際に、つねに「ご苦労」といわれていた。ある時、「申し訳ないのですが、その言い方はやめてくれませんか」といって、それ以降は使わなくなったということを思い出しました。繰り返しますが、言われていい気がしない言葉は、だれがどうだという以上に、それを言われた人間の感情の問題でしょ。

 「大名言葉」というくらいですから、上から下への一直線でしか用いられないものとされていたのかもしれない。しかし、どんな言葉を使うか、よりも、どういう心持で使うかということの方が、よほど肝心でしょう。昔、ある総理大臣が「言語明瞭、意味不明瞭」などと盛んに言われていたことがありますが、彼は、言葉を操って、相手をごまかすための言葉を使っていたのですから、この手合いがどんなに丁寧に話したところで、相手を尊敬していないことには変わりがないのです。政治家の言語能力が、はなはだ「貧相」になったのも、このことと無関係ではないでしょう。近年、さかんにいわれる「~させていただきます」というのは、耳障りなだけでなく、「させてやらないよ」といいたくなるほど、不分明な表現ではないですか。これを使えば、何を言ってもいいというような下種の心が見え透いています。

 ぼくは、今でも毎晩「ラジオ深夜便」を聞きながら眠りますが、この放送で最初から気になっている言葉使いが「今夜(本日)のご案内は、●×ペケ子でした」などという言い方です。この放送会社は「言語の専門家(アナウンサーも、当然含まれます)」ばかりですから、はっきりした方針があって使われているのでしょうが、奇怪な言葉使いで、ぼくは気に食わないんですね(ぼくの勝手ですが)。邪推するに、聴き手を「尊敬しているので」、謙譲語(視聴者を立てる風)のようなつもりで、連日連夜使っているのでしょう。これこそ、「案内はだれだれでした」というほうが、よほど明瞭じゃないかと、いつも聴きながら「改められる日」を待望しています。この「案内」の代わりに、「担当」という語を使うとどうなるのでしょうか。この会社の方針では「みなさま」を立てる(尊重するつもりらしい)のでしょうから、きっと「今晩のご担当は、いろはにほへどでした」というのでしょうね。ぼくなら迷わず「今晩の担当は、山埜聡司氏でした」というでしょうね。この違いは、本当に「相手を立てる」かどうか、その心持の有無にあるんですか。疑わしいねえ。

 (この深夜便、時には「なかなかいいなあという、視聴者の便り」があります。それが聞けたことをとても幸せに感じられるのですね。もう三十年ほどにもなるでしょうか。こんな話がありました。一人の女性からの便りです。「私は八十何歳。独身です。戦時中に約束した人がいましたが、彼は招集されました」「その後どうなったかわかりませんが、私は今でも一人で待っています」とありました。それを聞いた、ある地方の女性視聴者から、「ひょっとしたら、あのお手紙の男性は、私の従兄弟かももしれません。彼は戦後、無事に復員して、その後は結婚もしないで、数年前に亡くなりました」という手紙が届いた。担当者が了解を取りつつ、そのお二人の女性がお会いになったという。いろいろ話を聞くうちに、お互いが「相手を気遣って、独身をとおしていた」ということでした。こんな、飛び切りの「機縁」があるんですね。三十数年「深夜便」を聞いていて、こんな「人生の縁(えにし)」を知ると、まるでわがことのように、人間というものは…、そんな思いが募ります。もちろん、その反対もあるのは当然ですが)

 言葉は生きているというのではなく、それを使う人間によって、言葉は美しくも醜くもなるというのでしょう。ここでも大岡信さんの「ことばの力」を想起します。面倒なことを言うなら、この「語」はこんな場合には使ってはいけないという「忌み言葉」がありました。面倒なことですね。今でもあるのでしょうか。ぼくの親父が土佐生まれだったせいで、高知(土佐)が好きで、その高知の標準語(=土佐弁)も好んでいました。今はどうだか知りませんが、土佐弁には「謙譲語」とか「尊敬語」が男女に限らずなかったといわれます。だから「自由民権運動」が起こったというのは、ちょっとできすぎですが。房総半島にも、「丁寧語」「謙譲語」を使わない地域がありました。男女問わず、「おれ」「お前」で通していた、そんな時代を、ぼくは知っています。使用言語において、平等というか、分け隔てなしというのは、気持ちの上でも、実にすっきりするものですね。

 「本日は、ここまでにさせていただきます」

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 遠き山に日は落ちて、星は空をちりばめぬ

 【日報抄】ヨーロッパのどこからが東欧で、どこからが西欧なのか。30年以上前の授業で習った分かりやすい線引きは集団的な防衛体制の枠組みだった。北大西洋条約機構(NATO)は西側の資本主義諸国で構成し、ワルシャワ条約機構は東側の共産主義諸国から成る▼1990年代半ばにチェコを旅したことがある。共産党の独裁体制が崩壊して5年ほどたっていた。中世の街並みが残る首都プラハは旅行者であふれ、西欧と変わらない雰囲気のように感じた▼道に迷い、地元の女性に片言の英語で尋ねたときのこと。女性は同じく片言の英語で道を教えてくれた後、打ち明けた。「私たちは若いときに英語も、外の世界も知る機会がなかった。あなたがうらやましい」。少し前まで、東西の壁が確実に存在していたことに気付かされた▼それでも時がたつにつれ、東西の線引きは意識されることが少なくなった。ワルシャワ条約機構はなくなって久しい。一方、NATOは加盟国が増え、旧ソ連を構成していたバルト3国も加わる▼経済分野でも東西の線引きは薄れた。西欧には石油や天然ガスといったエネルギー資源の供給をロシアから受ける国が多い。日本も一定量を依存する。しかし、ロシアのウクライナ侵攻でロシアやベラルーシと西側との対立は決定的になった。かつてのような線引きが、再び浮かび上がった▼チェコで出会った女性の言葉を思い出す。人や物、文化の自由な往来を妨げる壁など、もう二度と築かれてはならないのだが。(新潟日報・2022/03/27)

 今から二十年近く前に亡くなった友人で、「社会主義憲法」の優れた研究者、Hさんからしばしば東欧の話を聞いていました。年下であった彼とは、それこそ頻繁に酒を飲んだ仲で、その間、一度だって不愉快な気分になったことがないほどの好人物・好漢であったし、音楽や歴史の話題にも事欠かなかった。彼はしばしばチェコやハンガリーなどにも長期滞在した経験があり、当地の景色を目の当たりにしているような雰囲気で、それこそ深夜まで話し込んだこともどれくらいあったことか。そのHさんの話された中でもっとも印象的だったのが、プラハでした。住んでみたい唯一の街で、その都市景観の美しさは比類のものであったと懐かしそうに話された。「ぜひ、一度はゆっくりとそこに住んでみてください」といわれたことでした。たしかに豊かな国で、農業も工業も、さらには文化にも十分に語るべき材料が溢れているようでした。

 彼は絵画や音楽にも造詣が深く、スメタナやドボルザーク(➡)などのいくつもの音楽を詳しく話されたことも忘れない。まだ十分に活躍する時間を必要とされていた時期での逝去だった。彼を偲ぶというか、東欧の作曲家の音楽を聴くと、いつしか彼の風貌や声音が耳に届いてくるのです。少し前に触れた「プラハの春」について、その後の経過を含めて語りあった中でも、忘れられないエピソードがありますが、今はそれは話さない。コラム氏のプラハに刺激されて、ぼくはここではドボルザークの「新世界」(1893年、作曲)について無駄話をしてみたい、いやむしろ、そのサワリを聴いてみたくなったのです。

 理由は定かではありませんが、ぼくはチェコフィルの音楽を、その指揮者とともに、ずいぶん長く聞いてきたことに、改めて驚いています。生前には耳にする機会がなかったバツラフ・ターリッヒから始まり、カレル・アンチェル、ラファエル・クーベリック、バツラフ・ノイマンなど、そのほとんどの指揮者の演奏を聴いてきました。もちろん、チェコの音楽には限りませんでしたが、やはり、スメタナやドボルザークのものは、なんといっても、彼らの演奏に惹かれていたのです。詳しいことは避けますが、ある種の民族性というか、土のか匂いが、レコードを通して懐かしさをもたらしたのかもしれません。さらにはハンガリーのバルトークなど、自分でも意外な気もしますが、今でもかなりのレコードを持っているのです。 

 駄文の流れから言えば、チェコにゆかりのある演奏家のものを紹介しておきたいところですが、どうせならという、理由のわからない選択で、指揮はチェリビダッケ、管弦楽はミュンヘンフィルで、ドボルザークの交響曲第九番「新世界」の「第2楽章ラルゴ」を聴いてみたくなりました。この指揮者はルーマニア生まれで、主としてヨーロッパ各地で演奏活動を続けていました。特にドイツでは長く活躍した人でした。フルトベングラーに学び、ベルリンフィルの常任指揮者の後継に名が挙がったのですが、何かと障害があってかなわず、その後、各地で活躍した後に、ようやくにして、ミュンヘンに赴き、当地の管弦楽団の常任になって、このオーケストラを徹底的に鍛えて、優れた楽団に育て上げたのでした。彼は死去するまで、ここで指揮棒を振った。ぼくはこのチェリビダッケは大好きな指揮者で、彼のライバルとされたカラヤンとは比べることもできないような重厚な音楽性を持っていたと感じています。

 「新世界」の第2楽章「ラルゴ」は、日本の学校唱歌として「家路」という題名で歌われてきました。歌詞は「冬の星座」の堀内敬三さん。しかし、メロディは豊かであるだけに、その歌詞はそぐわないという印象を、ぼくは強く持ってきました。(堀内さんについては、どこかで触れています)(1922年にフィッシャーが、この「ラルゴ」に詩を付けたとされます。<Going Home>フィッシャーはドボルザークの弟子だった人。四年間のアメリカ滞在中に、ドボルザークはアイオワ州にでかけ、そこで「ラルゴ」の着想を得たという)(William Arms Fisher ・1861-1948)(参照:https://duarbo.air-nifty.com/songs/2008/03/post_9695.html)

 Going Home       作詞:W. A. Fisher

Going home, going home,
I am going home, Quiet like some still day,
I am going home.

(チェリビダッケ・ミュンヘンフィル;ドボルザーク交響曲第九番「新世界」:https://www.youtube.com/watch?v=_9RT2nHD6CQ

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◉ チェコ(Czech)=正式名称 チェコ共和国 Česká Republika。面積 7万8865km2。人口 1048万3000(2013推計)。首都 プラハ。ヨーロッパ中部,ドイツの東,スロバキアの西に位置する内陸国。西のチェヒ地方(→ボヘミア)と,東のモラバ地方(→モラビア)からなり,国土の大半が低山に囲まれた盆地。気候は大陸性気候海洋性気候の混合で,海洋性気候の特徴は東部へ向かうほど弱まる。年平均気温は西端のヘプで 7℃,南東部のブルノで 9℃。年間降水量はボヘミア盆地で 450mm,最多月は 7月,最少月は 2月。6世紀までにスラブ人がボヘミアに定住するようになり,8世紀末にはモラビアにも勢力を広げた。モラビアは 9世紀半ばに大モラビア国を形成したが 10世紀初頭にマジャール族に滅ぼされた。代わってボヘミアが台頭したが,1526年ともにハプスブルク家の勢力下に置かれた。19世紀に入って民族主義の意識が高まり,1918年スロバキアとともに独立し,チェコスロバキア共和国を形成した。1969年連邦制の実施でチェコは,チェコスロバキア社会主義共和国の一連邦となり,1993年1月連邦が解体し独立した。1999年北大西洋条約機構 NATOに,2004年ヨーロッパ連合 EUに加盟。住民の 90%以上がチェコ人(ボヘミア人)とモラビア人で,公用語はチェコ語(チェック語)。キリスト教のカトリック信者が約 1割で,無宗教の者も多数いる。分離したスロバキアに比べ高度に工業化が進んでおり,エンジニアリングが最大の産業。次いで食品,エレクトロニクス,化学などの産業が有力。社会主義体制の崩壊後,1990年代初めに実施された経済改革が奏効してめざましい経済成長と低失業率を実現し,西側諸国の一員として認められた。輸出入とも機械類,輸送機器が主。(ブリタニカ国際大百科事典)

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◉ チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(ちぇこふぃるはーもにーかんげんがくだん)(Česká Filharmonie)=チェコの代表的オーケストラ。1894年、プラハ国民劇場の管弦楽団員たちにより結成され、96年1月4日、ドボルザークの指揮で最初の演奏会を開催した。1901年に国民劇場から独立し、もっぱらコンサートのためのオーケストラとして活動を始めた。第一次世界大戦後の19年、バーツラフ・ターリヒが首席指揮者に就任してから世界有数のオーケストラと認められるようになった。50年から68年まではおもにカレル・アンチェルが指揮、以後バーツラフ・ノイマン(1968~78)、ズデニェク・コシュラー(1978以降)が首席指揮者を務めている。マーラーが自作の交響曲第七番を初演するなど、世界の著名指揮者が招かれ、また毎年「プラハの春」音楽祭に出演している。1959年(昭和34)初来日。(ニッポニカ)

◉ チェリビダッケ(ちぇりびだっけ)(Sergiu Celibidache)(1912―1996)=ドイツ指揮者。ルーマニアロマンに生まれ、ベルリン音楽大学とベルリン大学で学ぶ。1945年に代役としてベルリン・フィルハーモニーを指揮して成功、45~52年その首席指揮者を務め、第二次世界大戦後の楽団立て直しに尽力した。しかしカラヤンが常任指揮者に招かれるとともに去り、客演指揮者としてヨーロッパ、中南米で活動。63年以降はスウェーデン放送交響楽団、フランス国立管弦楽団、南ドイツ放送交響楽団、ミュンヘン・フィルハーモニーなどの首席指揮者や音楽監督を歴任。77年(昭和52)読売日本交響楽団に客演のため初来日。オーケストラを美しく透明に響かせるのに独特の才能を発揮したが、テンポが遅く表情づけが過剰で、スタイルの古さを感じさせるうらみがあった。(ニッポニカ)

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 「プーチンの戦争」は開始以来、一か月余が過ぎました。当初の狙い通りにはいかず、今では焦りに焦っているのではないでしょうか。八年前の「クリミア侵攻」に際して、西側諸国はほとんど関心を持たなかった、といっていいくらいに、さしたる反応を示さなかった。今回はその時の無関心に近い反応をいいことに(味をしめて)、プーチンは、西側(特にアメリカ)は「恐れるに足りず」とたかをくくって侵略した、あるいは非難どこ吹く風と、「いい気になって」、暴力をむき出しにしたのでした。現状はどうであるか。素人のぼくには何とも判断はできませんが、あからさまな「戦争犯罪」というべき「殺戮行為」をここまで重ねてきたのです。中国でさえ、プーチンの側に加わることを躊躇するほどですから、この先は、彼の自爆を警戒する必要があるでしょう。戦闘被害が、彼や彼の取り巻きだけに限定されるならまだしも、「毒を食らわば皿まで」と出たらめに走る前に、それを阻止できるかどうか。(ヒットラーは自死をした)

 「新世界」は、十九世紀末のアメリカに招かれたドボルザークが、「新文明」に驚嘆した強烈な体験を音楽で表現したものですが、そのような文明の根っこにも、彼にはだからこそ、忘れがたい「望郷の想い」があったのでしょう(彼は四年間滞在していました)。そのことがひときわ印象深く、ぼくの記憶の底にたたまれていたのでした。(「戦地」にいる、あるいは避難を余儀なくされた方をも含め)どなたにとっても、一日も早い「家路」「家郷」への確かな道がきずかれ、示されますように)

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 「世の中は三日見ぬ間の桜かな」

 【水や空】悲しみの春 毎年この時季、県内公立高の合格発表の記事を目にするたびに「喜びの春」ならぬ「悲しみの春」の記憶がよみがえる▲40年近く前、公立高の合格発表を友人と見に行った。合格者の受験番号を張り出した掲示板に自分の番号はなかった。目を疑い、何度も何度も番号を探した。合格した友人が歓喜する隣で、青ざめた顔で黙りこくった。中学校へ報告に行き、学級担任の先生に「落ちました」と告げ、大声で泣いた▲15歳には耐え難い挫折感だった。第二志望の高校に入学後も、しばらくショックから立ち直れず鬱々(うつうつ)と過ごした。行きたかった高校の制服に身を包んだ同級生がまぶしく見えた▲今ならば、高校入試は人生のほんの通過点であって、挽回する機会はいくらでもある、と言える。だが当時は、もう将来は閉ざされたようなもの、と思い込んでいた▲作家の故水上勉さんは「人生は人に挫折を与えるように仕組まれている。挫折は、いわば新しい出発の節目である」(泥の花)と書いている。行商人、集金人、代用教員など30もの職を転々として「挫折ばかり」だった水上さんは、昭和を代表する人気作家になった▲回り道のようで後になってみれば、実はその道がベストだったと分かることもある。受験で笑った人も、泣いた人も、新しい出発に幸あれ。(潤)

 裏庭の桜が満開の姿を見せています。ぼくの記憶では「啓翁桜」といった。ホームセンターで苗木を買って、植えたもので、もう十数年になるでしょうか。今年はこれまでで、もっとも開花状態がいいように思います。写真などをお見せすればいいのですが、ぼくの趣味に合わない。時代に逆行しているにもかかわらず、そんな無粋なことはしないことにしています。ネットでは、これ見よがしに、「何でもかんでも曝け出している」風が強いですね。自己暴露というのか、自己露出というのか。大なり小なり、人間は「露出傾向」なのかもしれません。そういうぼくでも、こんな駄文とはいえ、自らの無能・無才をいかんなく晒(さら)しているのですから、弁解がましく「記憶力劣化防止自主トレ」という理屈付においても、いささかなりとも、他人のことは言えた義理ではないんですね。(ヘッダーはJA山形:https://www.jacom.or.jp/noukyo/news/2021/02/210205-49314.php)

 啓翁桜は昭和の初めに、久留米の植木屋さんが生み出した品種で、今では、どういうわけですか山形県(とりわけ東根市)が最も出荷量が多いということは、ぼくの不思議に感じるところです。「サクランボ」と関係がありそうですね。いかにも小振りで、しかもたくさんの花をつけるのですから、きっと生け花用には最も重宝されていて、この時期を見事に演出してくれるのでしょう。東京も開花したと言います。これから約一か月、劣島は「桜前線」の北上と、コロナ感染帯の千変万化のすったもんだが繰り広げられるのでしょう。くれぐれも、感染には注意したいですね。

 桜(さくら)といえば、新年度、入学式ですね。その前に入るための「試験」がありました。コラム氏も書かれているように、「悲しみの春」をかみしめている少年少女がいるのでしょう。そんな春は、どっかに行くとよい。「春よ、行け」です。「入試」なんかとは言いません。それはとても大事、と言っておきますが、本当に大事なのは、何をしたいかですから、ゆっくりと時間をかけて見つければいいのではないですか。変に「志望校」に入ったために、思いもよらぬつまらない経験をしてしまうことだってあります。

 ぼくも高校受験をしました。結果は最低点で合格だったようです。そんなことは記憶に残っていませんが、担任教師に聞いたと思う。「ぎりぎり(最低)やったぞ。君よりもはるかに成績がいい誰彼だって『滑り止め(ノンワックス)』を受けているのに」と言われたことだけは、覚えている。「滑り止めってなんや?」という感覚でしたし、ダメだったら、ぼくは「自転車屋さんになろう」と決めていました。高校に入ってからも、自転車屋か大工になる、そんなことを妄想していた。結局は、まじめに考えてこなかったせいで、東京のつまらぬ大学に入る始末でした。「コラム」氏は、第一志望が不合格だったことを担任に報告して「大声で泣いた」とあります。「可愛そうに」というか、「可愛い」というか。今では、そんな純粋さはみじんもなくなったといったら、怒られるかも。「泣くほどのことか?」

 水上(みずかみ)さんの「苦労談」は、よく知られています。福井県の小浜だったかの貧しい家で生まれて、十歳に満たないで、京都の禅寺に奉公。以後は、それこそ辛酸をなめて、地べたを這うような生活だったと。あらゆる職業を経験して、最後に引っ掛かったのが「作家」だったと言います。そのような「作家」が何とたくさんいることか。あれこれの職業がうまくいかなかったから、作家というのか。作家というのは、どんな仕事なんですか、と大きな疑問を持っていました。「人生は人に挫折を与えるように仕組まれている。挫折は、いわば新しい出発の節目である」というのは、「挫折からの回復」ではなく、「挫折の中で、生きる知恵や経験を学んだ」そんな人だからこそ、初めていえる表現でしょうね。ぼくは「挫折」というものを経験してこなかったと言いたいのですが、そうじゃなくて「挫折そのものが、ぼくの人生」といった方が正確でしょうか。

 「楽あれば苦あり」と俚諺は語る。ぼくには「楽あれば~」の「楽」がなかったと言いたい。だから「苦」ばかり、と言ってしまえば、身も蓋もありませんが、案外、そんなものでしょ。もう少していねいに言うなら、いつでもいうように「苦の中に楽が」「楽の中に苦が」あるということで、二つは逆方向にあるのではないのです。「挫折ばかりだった」水上さんが昭和を代表する作家になったという。それがどうした、って言いたい気もします。挫折を乗り越えて、苦しみを糧として、というのでしょうが、当人が「人生は人に挫折を与えるように仕組まれている」と言っているのを引用しながら、この文(言)ありです。「人生は挫折からできている」、それを認めれば、何かを言う筋もなさそうですが、どうでしょう。「人生に挫折がない」となると、どうなりますか。いう必要もなさそうです。

 「月に叢雲(むらぐも)花に風」といいますね。これを多くは「好事魔多し」というのでしょうが、群雲のない月だとか、風に当たらぬ花というものはありません。「世の中は三日見ぬ間の桜かな」(俳諧・蓼太句集)、待ちに待った「桜」も三日もせぬうちに散ってしまう、それが世の中というもの、と江戸の粋人は言っています。長く続くといいね、そんな願いをぼくたちは不用意に抱きますが、なかなかそんなものではなさそうです。だから、長く続いてと願うのでしょ。好事には魔が付きものだと、この諺(ことわざ)は教えています。

 ぼくも人並みに、「誕生日」があり(これから来る、「命日」も)あります。加えて、これも人並みに「結婚記念日」みたいなものもあります。いまから約半世紀前の春の彼岸の日が、仕方なしに「結婚したことにした日」になりました。ぼくは「式」嫌いでしたから、そんなものはしないつもりでほったらかしていたら、かみさんの母親が「そんなふしだらなことは許しません」とか何とか言って、頑なになってきた。仕方なく「式」というより、「披露宴」ですか、それをすることになったのですが、時節柄、なかなか適当な場所がなかった。それで、これも仕方なしに、つてを頼って、お茶の水のホテル(そのホテルは今もあるかどうか。「山の…H」)で開いたという次第。以来、四十九年が過ぎました。明日からは五十年目に入ります。「楽あれば苦、苦あれば楽」ではなく、ぼくの場合は「苦苦苦苦」だったかもしれない、もちろんかみさんだって。ほんの一瞬「楽」があったかどうか。「人生は人に挫折を与えるように仕組まれている」というけれど、そうなんですよね。(ぼくの姉は、結婚六十年を、数年超えたんじゃないかな)

 「回り道のようで後になってみれば、実はその道がベストだったと分かることもある」ということについて、ぼくは次のように「経験」してきました。人生(の途中ですけれど)は、偶然の連続です。その偶然の集積が、後に振り返って見ると、まるで「そうなるしかなかった」ように、必然性を帯びてくるんでしょ。誰だったか、ぼくかもしれませんが、「偶然を必然と化す」ー いい例ではありませんが、かみさんになる前の彼女と出会って、なんだかんだ、滑って転んで半世紀。壊れそうで壊れなかった、割れ鍋に綴じ蓋。これをして「偶然を必然と化す」というのではないんですか。宝くじに当たったり、馬券を当てたりするのは、まず「偶然」。これを必然と化すとするなら、それは八百長やイカサマということなる。ぼくは一人の女性と結婚をした。これは偶然(賭け事)です。しかしほぼ半世紀も長持ちした。お互いに「我慢して」と言うなら、偶然だったと思えたものが、やがて「必然性」帯びてきたように見えます。「偶」から「必」への移行は、なかなか「苦」に満ちています・いましたね。人生は「苦」やで、ホンマに。だから、ぼくは二度と結婚なんてしない、今もですが、もっと若い時だってそう考えて(決めて)いた。 

 とってつけたような言い方をします。「挫折」だとか「苦労」「苦しみ」などは、人生には不可欠であり、それがやがては生活や生き方の「背骨」になり「中核」となると言えるのなら、そんな苦労や挫折を経験させたくないという「親心」や「教師冥利」などは、どういうことになるのか。挫折しないような教育や子育てというものがあるとしても、それは子どもから「生きる力」を奪うことになると、ぼくは自らの拙ない経験から学びましたから、あえて言わなくてもいいことを言っておきます。「今ならば、高校入試は人生のほんの通過点であって、挽回する機会はいくらでもある、と言える」と言われたコラム氏。その通りで、その通過点は、「たった一つ」ではないし、ほかにもいくらだってありますよ。「人並み」を軸にすると、「挫折」は敗北であり、そうでない他人が羨ましくなるのでしょうが、どっこい、先は長いし、焦ることはないよ。大器でなくても、人生というのは晩成なんだな。つまりは、道理がわかって「納得する」ということなんです、大事なのは。

  余話 コラムの末尾、「受験で笑った人も、泣いた人も」は、不正確です。「受験の結果で」と書いてほしいですね。

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 他人が言えないことを代わりに言ってやるのが…

 【地軸】テレビで会えない芸人
 「角張った石はのみで削られる」は韓国。「強風は高山の頂に吹く」は英国。「出るくいは打たれる」の言い回しにもお国柄がある。
 大修館書店「世界ことわざ大事典」によれば、これを「雷は高い木に落ちる」と例えるのがロシアである。ウクライナ侵攻後、反戦デモを弾圧し、軍に絡む「偽情報」拡散を厳罰化。戦争とも呼ばせない。横並びの沈黙を強いて異論を圧殺するのは、目算の外れた戦況へのいら立ちの表れだろうか。
 先日は政府系テレビのニュース番組の生放送中、女性社員が「戦争をやめて」と大書した紙で訴えた。雷が打っても誇りある高い木は黙らせられない。胸を痛めるロシア国民も勇気づける一幕だった。
 では言論の自由がある国はどうか。そう考えさせるドキュメンタリー映画「テレビで会えない芸人」が、あさってから松山市のシネマルナティックで上映される。権力者らを笑い飛ばす芸風で、もっぱら舞台で活動する松元(まつもと)ヒロさんを郷里の鹿児島テレビが追った。
 松元さんが言いたいことを言って笑いを起こすほど、その姿を放送できない。そんなテレビの自己規制を問う。作中、松元さんは立川談志さんにもらった言葉をなぞる。「他の人が言えないことを代わりに言ってやるやつが芸人っていうんだ」。芸人をメディアに置き換えると…。
 出るくいであろう。高い木であろう。そう誓い直す、新社会人や新入生を待つ春である。映画は25日まで。(愛媛新聞・2022年3月17日)

 松本ヒロさん、ぼくはかなり前から見ていたし、知っていました。彼がコントグループ「ザニュースペーパー」の一員だった頃ですから、もう二十年以上も前になるでしょう。やがてぼくはほとんどテレビを見なくなり、ヒロさんがどうされていたか知らなかった。それがいまから十年ほど前になりますが、ある機会に彼がパントマイムをやっているのを知りました。さらにその直後だったか、芸人「松本ヒロ」の舞台公演を youtube で見ました。「憲法くん」だったろうか。まじめにお笑いをするという、実に至難な芸に挑戦しているという印象を持ちました。「九条」問題が盛んに論じられていた時代でもありました。

 「テレビで会えない芸人」というドキュメントは、まだ見ていませんが、タイトルから、ぼくはいろいろなことを想像したり妄想したりします。まず、「芸人」ということ。二つ目には「テレビ」という媒体です。どちらも語り出せばきりがありませんが、その「芸人」は、今は絶滅危惧種ではなく、「絶滅種」だろうと思います。今日では芸人とは「お笑いタレント」のことだと錯覚というより、それがいっしょになってしまった。時代が悪くなったなあという感想をぼくなどは持ちます。「芸人」とは、一言では言い難いのですが、要は「芸人風情」と蔑(さげす)まれ、「国家に益無き遊芸の徒」などと言われた存在であったとぼくなどはとらえてきました。

 今では使われない表現になりましたが、「河原乞食」などという語で呼ばれた人々であったかもしれません。この流れは深くて果てしがありません。時には「地下水脈」となり、時には「奔流」となって地上に流出することもありますが、殆んどは隠された世界で生き続けられてきました。このブログで、その歴史の触り部分を書くだけでも面倒なことであり、いささか疲れの原因になりそうですから、それはしません。ようするに「芸人」は、もうどこにもいないか、いてもなかなか見つけられない存在であるというばかりです。

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◉ かわら‐こじき かはら‥【河原乞食・川原乞食】〘名〙 (初め京都の四条河原で興行したところから) 歌舞伎役者を卑しめていった語。河原者。(精選版日本国語大辞典)

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 だから「テレビで見られない」のが当然なのであり、会えない、見られないのは「テレビ」が悪いというような主張は、お門違いであると言いたいですね。「テレビで会えない」というものは、腐るほどありますし、それは実に「玉石混交」でしょう。あるいは「種々雑多」でもあります。玉ではなく「石」であり、「雑多」でもある中に「芸」は生まれ、「芸人」は生きるのです。亡くなった小さん師匠(五代目)や小三治師匠(十代目)、あるいは桂米朝師匠などが「人間国宝」として顕彰されたのを知って、ぼくは「落語は死んだ」と痛感しました。国家が与える・呉れると言っても固辞するのが当たり前だと思いますが、これは前もって申請(推薦)する人々がいて、その結果の「授与」なんでしょう。だれもなにもしないのに「人間国宝」にということはあり得ませんし、それを「いただく」のは、芸人道に反しませんかと、ぼくは強く思ったものでした。権力から蔑まされていたものが、忽ち「終身年金」をもらうのですから、驚天動地、まるで石川五右衛門が「警視総監賞」を押し載くようなものでしょう。(右上。「比例は共産党」というフレーズをバックにする「芸人」を、テレビが出すでしょうか、出すといいんですが)

 テレビや新聞に出ないこと、それが芸人の定義だった時代が長かったし、ぼくはその節操、あるいは姿勢を尊重したいですね。テレビに出ると、言が腐ると、誰が言ったか。ヒロさんは、テレビに出るために、有名になるために「芸人」になったのだと言いますが、実はそうではなく、本物の「芸人」になると、テレビやマスコミは敬遠するのが筋だったのです。ぼくが教師の真似事をしていた時代、一人の学生が「音楽で身を立てたい」「ビッグになりたい」といって、修行を重ねてきたことを話してくれました。(彼は、今も「ミュージシャン」として活動していると思う)その彼に、「名が売れたら、終わりだよ」「有名になるのは、交通事故に遭うようなもの」と話して、驚かれたことがあります。その時期「トイレの神様」とかいう歌を歌って名が売れた女性歌手がいて、彼はその人と友だちだったとか。先を越されたと考えたのかもしれませんが、売れるのは宝くじに当たるようなもの、当たりくじを引くと、次々に「当たるくじ」を買い続けなければなるまい。自分を突き出すのではなく、受ける、当たる「音楽」を作り歌い続けなければならないんじゃないですか。「それが身を亡ぼすね」と、ぼくは偉そうに言ったのでした。ヒロさんのドキュメント、「テレビで会えない芸人」を知り、卒業生のことを想い出しました。(コバけんと、同級生たちは言っていた)

 芸人というのは何でしょう。今は、もう滅んだという気がします。それはすなわち、「芸」というものが廃れたことを意味しませんか。ある辞書には以下のように書かれています。「 学問や武術・伝統芸能などの、修練によって身につけた特別の技能・技術。技芸。 人前で演じる特別のわざ。演芸・曲芸など」(デジタル大辞泉)仮に、芸とはこういうものとすれば、確かに今はもう、「芸不毛時代」です。「今もう秋、だれもいない芸」という挽歌が聞こえてきます。ヒロさんが、各地で受けることは素晴らしいことですが、受け続けるということはあり得ません。彼が変わるか、ファンが変わるか、あるいは両者が変わるか、それは避けられません。

 その昔、「一年を十日で暮らすいい男」などと言われたのが力士でした。年に、一場所限り、十日間の興行でしたから。今は「一年を九十日で暮らす、しんどい男」と、年六場所、十五日間が六回。何とも大変で、怪我も病気もできないから、相撲がおかしくなった。つまらなくもなりました。あまり「テレビ」などに出すぎると、芸も錆びる。出すぎない方がいい。テレビに出るなどというのは自殺行為です。もう何十年も前になりましたが、「演芸(漫才や落語など)」がテレビに居場所を得てから、これはもうだめだとはっきりと感じました。案の定、その通りになりました。芸について、深く語った世阿弥は「秘すれば花」といいました。絶滅危惧種の「ヒロ」を守って、「天然記念物」にでもするか。まるで「鴇(朱鷺・とき)」のようであってほしくはないし、そのようにしてはいけないね。ぼくが住んでいる地域に「鴇谷(とうや)」という地名があります。鴇のたまり場だったということでしょう。この島のいたるところに「鴇」は生息していました。それが稲を食い荒らす、「害鳥だ」と言って、棒などで撲殺しまくってきたと言います。凄いことでしたね。虐殺ですよ。まるで、プーチンのよう。

 それがまわりまわって、国指定の「天然記念物」だというのだから、笑わせるんじゃないよ、と鴇に㈹わって、罵(ののし)りたくなります。ヒロさん的な「芸人」が、「天然記念物」に指定され、檻に入れられ、二十四時間監視かめらで見守られ、身体にチップを入れられて、どうして「権力を嬲(なぶ)りもの」にする芸ができるというのでしょうか。「秘すれば花」だから、いつでもどこでも「見られる」というのはまちがいなんだと、いつかヒロさんに言ってやりたいね。

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◉ 芸人(げいにん)=能にたずさわる専門職業人。ただし,おもに江戸時代に定型化した庶芸能に限っていう。歌舞伎界の役者,下座,振付師,花柳界の幇間 (たいこもち) ,また講談,落語,浪花節,義太夫その他音曲,声色,物まね,手品,漫才曲芸などの寄席芸人や,太神楽,万歳,角兵衛獅子,居合抜きなどの大道芸人などがある。芸人の呼称は,単に職種的な芸能人の名よりも,芸人かたぎと呼ばれる職業意識が強く,一つの社会集団的なものを意味しているのも特徴といえる。 15世紀中頃,荘園領主没落によって,寺社朝廷をよりどころとしながら自活せざるをえなくなった芸能集団が成立する。猿楽田楽恵比須舁 (えびすかき) ,ささら説経,獅子舞猿曳などの雑芸者がそれであるが,当時の社会機構はこれを職業人としてよりも,七乞食などと賤民視した。この弊風は近代にまで及ぶが,芸が売買されるところに,他の職業にはみられない厳格性と卑俗性の両面を持つ,芸人特有の気質が生じたといえる。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 「出る杭は打たれる」「高木は風に折られる」「誉は毀(そし)の基」「毀誉褒貶、相半ばする」などという類語には事欠きません。しかし、実際は「出る杭」というのは、「杭」の話であって、水平を乱す杭は切り取って、頭をそろえるのは当然でしょうが、人間は「出る杭」ではない。だから出ようが、出まいが、一向にかまわないではないかというのが、ぼくの単純な結論。「高木は風に折られる」というのも、考えてみれば、「自業自得」という部分もありそうです。隣の木の栄養まで奪って大きくなったのだから。人間の場合はどうでしょう。「他人の分まで盗る」というのはよろしくないこと。まるで、他国の領土を奪い取るような蛮行ではないですか。「テレビで会えない」、それが芸人という存在の値打ち。会いたければ、追っかけるしかない。どこで「口演」(興行)を打つのか、それを調べて追っかける。芸人と観衆の、在りし日の姿でした。全国を追っかけ、ついにはその一座に入った「芸人」をぼくは、きわめて身近にいて知っていました。その追っかけのエネルギーたるや、驚愕すべきものがありました。

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 添田啞蝉坊を「芸人」といっても間違いはないでしょう。ぼくはこの路上演歌士について、何かと学ぼうとして来ました。「演歌」の源流に位置する芸人であったことは確かでしょう。いまなお、彼の「心」は生きているという気がしますし、生きていなければおかしいじゃないかという気もするのです。権力者、それはいったい何様なんだという気概、あるいは反骨ですね、ぼく(たち)に必要なのは。

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◉ 添田唖蝉坊(そえだあぜんぼう)(1872―1944)=演歌師本名平吉。神奈川県大磯(おおいそ)に生まれる。14歳で上京して叔父の家に寄宿、船員を志したが長続きせず、横須賀で日雇い人夫などをしているうち、壮士の街頭演歌を聞き心酔、東京・新富町にあった壮士演歌の本部に入る。18歳のことで、以来、演歌師として盛名をはせ、明治後期から大正にかけて『ラッパ節』『マックロ節』『ノンキ節』『デモクラシー節』など数多くの演歌の作詞を行っている。堺利彦(さかいとしひこ)を知って社会主義運動に入り、その勧めでつくった『社会党ラッパ節』は有名だが、彼の資質はむしろ非政治的といってよく、「過去の演歌はあまりに壮士的概念むき出しの“放声”に過ぎなかった」という述懐のとおり、風俗相を風刺、慷慨(こうがい)した『むらさき節』や晩年の『金々節』などによくその本領を発揮した。昭和に入ってからは演歌師を廃業、四国遍路や九州一円を巡礼、9年近い放浪の生活を送る。早世した妻タケとの間にできた1子が添田知道(ともみち)である。(ニッポニカ)

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