問題は選ぶ人、選ばれる人、どっち?

【有明抄】慣用読み憧憬に「しょうけい」とルビを振った小欄を見た女性から「ずっと『どうけい』と読んでいた」と電話をもらった。広辞苑で「どうけい」を引くと、〈(正しくはショウケイ)あこがれること〉とある。「どうけい」は慣用読みで、現在はどちらも使われている◆同じように、慣用読みが浸透した言葉に「捏造(ねつぞう)」がある。広辞苑は〈(デツゾウの慣用読み)事実でない事を事実のようにこしらえること〉と解説している。いまは「ねつぞう」が一般的で、高市早苗経済安全保障担当相も「ねつぞう」と何度も口にした◆放送法の「政治的公平」に関する総務省の行政文書を巡り、国会では真贋(しんがん)論争が続いている。文書は2014~15年、当時の総務相だった高市氏が法解釈の変更に関わっていた状況が記載されている。政治的公平が政治の介入でどうにでもなるなら、自由な言論は危うくなる◆不都合な文書を捏造で片付けることは許されないし、高市氏の主張通りならば行政の信頼が揺らぐ。高市氏は「信用しないなら、もう質問しないでほしい」と開き直って注意を受けたが、関与を全面否定する主張は変えていない◆事実はどうなのか。森友・加計学園や桜を見る会など、釈然としないまま過ぎていく問題が多い。こうした幕引きが慣用になれば、憧憬どころか政治への失望ばかりが広がる。(知)(佐賀新聞・2023/03/21)(ヘッダーは「メリーゴーランド」:https://adventure.lotteworld.com/jpn/enjoy/attrctn/view.do?detailsKey=1189)

 「憧憬」は「しょうけい)でも「どうけい」でもかまわない。「憧」は強くあこがれることで、「憬」にも似たような意味がある。二つ合わせて強くあこがれるの意となるでしょう。「しょう」は「憧」の漢音、「どう」は呉音です。中国の時代色が出ているのが、この島の歴史です。どちらに読んでも間違いではなく、それをどれか一つに決めるのは、余計なことだし、言葉を弄ぶものというべきかもしれない。「ことば」に関して言わねばならぬことはありますが、ここでは割愛。「どうけい」とよんでいたのが、「しょうけい」によみかえて、はたしてその人の感覚・感情が変わるものでしょうか。(この手の二重読みの「字」「辞」は腐るほどあります)

 漢字の読み書きをテストして「◯✕」をつけるというのは、愚かしいですね。突飛ではなく、それなりに読み書きできればいいんですよ。

 さて、本題です。「捏造」流行りですね。「捏造」の「捏」は「デツ」と読み、「ネツ」とも読ませる。訓では「つくる」「こねる」とある。その意は「(土などを)手でこねる」から、「こじつける」や「でっち上げる」などにつながる。粘土を「捏(こ)ね上げる」などという。あるいは、コンクリートを作るとき、砂とセメントをかき混ぜ、水を加えて「一つ」になるように繰り返しこねることを指します。「造」はつくる。ご丁寧にも、繰り返し捏ね上げて、まったく違うものを作り上げること、つまりは「でっち上げ」です。捏造は「でつぞう」と読んでいた。その初源を尋ねれば、一つの読みであったかもしれないが、いずれも陶器を作る際の手作業を指して、デツ・ネツと言われています。「こねる、にぎる、おさえる、ひねる、みな土器の器形を作ることをいう」(「字通)参照)とあります。

 ぼくは国会での論議を何度かネットで見ています。この「放送法」の「政治的公平」問題に関し、すでに早い段階(発覚した初日に)で「事実をまげて、事実でないと『捏造』しているのは大臣だ」と書いています。「親分」がいなくなったので、これさいわいとこれまでの「うさを晴らす」(憂さ晴らし)、官僚たちの魂胆が見えていました。おのれの部下である官僚に「忌み嫌われた」のかもしれない。それ程に「居丈高」の「女丈夫」を装っていたのかもしれませんし、それに楯突けなかった積年の恨みや辛(つら)みが官僚たちに山積していたのです。

 放送法の要は、これも当たり前の判断でいいのであって、「政治的公平」を破る、破りかねないのは政治権力だから、放送人は夢々、油断なさるなということです。それ以外に解釈の余地はない。憲法は「権力の横暴・暴走」を制止するための、人民が用いる「制御装置」ですが、それを知ってか知らずか、権力の側にいる輩が、自分の都合のいいように「改正する」と言い出す始末。野球の審判が「自分はルールブック」であると宣言し、好き放題に野球の試合を牛耳るようなもの。笑止千万の域を超えて、付ける薬がないほどの「最低政治」「傍若無人政治」が罷り通ってきたのです。その付着物・寄生虫のようなものが「捏造発言」大臣だった。問い詰められて、その挙げ句に「私が信じられないなら、もう答弁しないでくれ」というお粗末。これをそのまま見逃す手はないでしょうに。この場面を中継で眺めながら、権力亡者はクズだし、それには「性差」はないと痛感した次第。

 個々の政治家を評価する興味も能力もない。壊れかかっている、わが脳細胞を無駄に使いたくないのです。残り僅かを、細心の注意を払って維持したいのに、こんな不埒な問題に引っかかりましたな。足を取られ、手を取られ、目を奪われ、最期に脳細胞を無駄に費消していしまいかねないので、この問題も、ここでうち止め。この某女性大臣が辞めても、代わりはいくらでもいるのですから、浜の真砂か五右衛門かと言いたくなります。

 政治の舞台は、洋の東西を問わず「茶番」です。「底の見えすいた、下手な芝居。ばかげた振る舞い。茶番劇」(デジタル大辞泉)ロシアの大統領に「逮捕状」が出たという。誰がどのようにして捕まえるのかという「茶番」。いや、実は捕まえられないのだという「大茶番」だ。米国の前大統領が「逮捕」(本日)されると、当人が告知。助けるために再度の「議会襲撃」を煽りはしないか。思いつきの「戦争ごっこ」には「殺戮」がついて回っているのだから、とにかく「逮捕」を願うばかりですね。米前大統領は「売春疑惑」で逃げ切れていない。支払いに選挙資金を使ったとかいう疑い。現大統領親子にも、何かと疑惑がついて回っている。

 究極の政治は、困っている、助けを求める人々に「救いの手」を差し伸べること、それだけのことなのに、国防費に「四十兆」を遥かに超える税金が、なぜ要るんですか、と愚問を発したい。嘘で始まり、嘘で終わる人生もつまらないだろうし、政治家だって、時には誠意をもって事に当たりたいだろうに。そう思うのは素人の証拠か。政治にカネがかかるんだ、誰もがそういうから、きっとそうなんだろうと「諦め」る有権者が選挙で政治家を選ぶんですから、どうしたらいいんだろうね。「この世は全て茶番だよ」と、マツコがいうか。君も「茶番」か。「猿芝居」ってのもあるし、さ。

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 日常生活のあらゆる方法で反対する

【談話室】▼▽まず井上ひさしさんが登壇した。その日の講師で、作家仲間の大江健三郎さんを紹介する段取りだろう。そう思って聞いていたら、ややあって井上さんが告げた。大江さんが日取りを勘違いして、着いていないという。▼▽2008年の秋、山形市の複合文化施設で一部始終を目撃した。突然だったにもかかわらず、井上さんは即席で大江論を語った。東大生だった大江さんの小説を読み「参った」と感じたこと。個人的な悩みから希望を生み出し、人類を励ますのが大江文学の本質であること。▼▽講演の実現に向け主導した井上さんならではの対応だった。大江さんにとっても強烈な体験となった。「お客さんに迷惑をかけた」と自宅書庫に1週間引きこもり、仕切り直しの講演会で山形を訪れた際は、自戒を込めて自著に「注意深く」とサインした本を聴衆に贈った。▼▽井上さんが死去した13年前、大江さんが弔辞を読んだ。改めて勘違いに触れ「当意即妙のスマートな計らいで私は救われた」と友情に感謝している。「大江さん、あの時の代役は大変だったんですよ」。今頃、井上さんはそう言って天上で大江さんを出迎えているだろうか。(山形新聞 Yamagata News Online・2023/03/15)

 大江さんの訃報「余韻」とでもいうようなものが残り続けています。文学者として、大江さんは大きな仕事をされたという事実には偽りはない。その本領が小説にあったことも同じ様に、事実として間違いはないでしょう。残念ながら、ぼくには小説を読むという点において、著しく能力が欠けていたのは、なんとも残念であるし、情けないことだと悔やんでいます。その理由は明白です。ある時期までに「小説」を読む訓練をしてこなかったということです。たとえは悪いかもしれませんが、まるで、自転車の練習を小さいときにしなかったために、年齡が上がるときに自転車に乗っても、一種の観念的な自転車操業に終止するといった塩梅でした。小説の面白さや難しさがわかりかけたのは、もう三十にもなろうかとという頃からでした。今でも、いくつか思い当たるフシがあります。井上ひさしさんにも教えられたことがある。ここでは書きませんが、やはり「小説」というものの「思想」というか、「哲学」のようなものでした。しかし、ぼくは井上小説も、中途で断念したことが何度もあります。大江さんに対するのと同様に、井上さんの評論を懸命に読んでは「お茶を濁す」ことを繰り返したのです。

 井上さんの最晩年、ぼくは、まったく事情を知らないで、自分の担当する「教室」に来ていただくように依頼の電話をかけたことがあります。その時はどなただったか、「井上は病気です」と言われた。その後、数ヶ月を経ずして訃報を目にした。じつに迂闊なことだった。

 作家に限らず、ぼくはいろいろな方の「講演」を聞く機会に恵まれたと思う。もちろん、上京してからのことです。ここに名前を出すだけでも相当な人数になるでしょう。政治家、新聞人、文学者、学者、音楽家などなど、いろいろな方面の仕事をされた方々だった。講演を聴くのは簡単ではないと、その都度感じました。まず、ノートをとったり録音をするということもなく、文字通りに「受け身」で言葉を受け取るのですから、講演内容が、時間とともに消えていきます。もっと聞く練習をしておくべきだったと何度も考えたものでした。さらに言うなら、講演をする側と講演を受ける側ではまったく立場が違います。だから、講演する側の意図が記録されたものになると、ぼくはそれをていねいに読んだものです。講演を聴くと講演を読むでは、その印象や内容は、人によってはまったく別物になることがあります。(面倒なことは省きます)

 本日の「談話室」の逸話(an anecdote)を面白く読んだと同時に、何かと考えさせられているのです。昨日書きそびれた事柄を少しだけ綴っておきます。大江さんの「恩師」は仏文学者の渡辺一夫さんでした。チョーサーやラブレーの研究の分野では群を抜いた人でした。また、社会的な活動に関しても積極的だった。「寛容」は、渡辺さんのライトモチーフでした。その渡辺さんと大学時代の同級生が小林秀雄さんだった。その渡辺さんの告別式で、大江さんが「号泣」していたのを横で見ていた小林さんは「彼は狂気(の人)だったんだよ」と、慰めとも付かない言葉を大江さんに語りかけたことがあったという。別の機会に、大江さんが「ピンチランナー調書」という新著を小林さんに寄贈した際、「大江くん、済まないことだったが、あれは、何ページも読めなかった」と直接語ったことが、誰の書いた文でだったか、読んだことがある。「小説とは、あんなものだろうか」という文芸評論家の大江評価だったでしょう。同じようなことが吉屋信子という作家の小説についても「ぼく(小林)は2ページも読めなかった」という表現で残されている。

 九条の会や反原発活動に関しても、大江さんや井上さんは、積極的に参加されていた。サルトルに倣ったような「文学者の社会参加」(アンガージュマン)のようでもありました。大江さんの卒業論文は「サルトル研究」ではなかったか。「アンガージュマン【(フランス)engagement】= 参加。特に、知識人や芸術家が現実の問題に取り組み、社会運動などに参加すること」(デジタル大辞泉)そのことで思い出すのは、ミッシェル・フーコーです。彼の活動は徹底していた。過激と言う他ない行動で積極的に動いていたからです。逮捕されたこともあった。フーコーについては、この駄文集録の早い段階で書いています。「もし、アメリカで黒人暴動がなかったら、黒人解放はなかったろう」とまで言っています。そこまでの過激さはなかったが、大江さんは積極的に反権力への闘いに参加されていた。ぼくにはできないことでした。

【斜面】大江さんの揺るぎなさ 大江健三郎さんは故安江良介さんとともに信州の恩人だ。1994年にノーベル文学賞を受賞した翌年、岩波書店社長で本紙夕刊「今日の視角」執筆者だった安江さんと松本で講演した。この催しが須坂で続く信州岩波講座につながる◆安江さんと広島を訪ね、「ヒロシマ・ノート」(65年)を著した大江さん。講演では「作家は主題によって選ばれる」という海外作家の言葉を引き、核の時代というテーマが自分を選んだ―と述べた。「時代に参加、コミットメントし、与えられた主題を一生書いていくことになった」◆福島の原発事故から2年後に信州岩波講座に登場する。人間らしさを自由に討論する仏ルネサンスの精神を紹介し、人はつくったものの奴隷や機械の一部になってはいけないと訴えた。原発に運命を握られて、人らしさを考えない日本を批判した◆憲法を守る活動では「九条の会」の呼びかけ人となった。信州でも呼応して各地に会ができた。発足10年の2014年、都内で講演した。戦争を容認する改憲には「日常生活のあらゆる手段で反対する」「皆さん一緒にできるだけのことをしましょう」◆戦後文学の旗手は現実の世界と正面から向き合って、迷いなく語り、行動した。自身の思想と倫理のみに従う強じんな精神ゆえだろう。ノーベル文学賞の記念講演は「あいまいな日本の私」だった。あいまいさが極まる昨今の政治を見るにつけ、88歳で逝った大江さんの揺るぎなさを思う。(信濃毎日新聞・2023/03/15)

 八十を超えてなお、社会活動に参加されていた。「(憲法改正には)日常生活のあらゆる手段で反対する」「皆さん一緒にできるだけのことをしましょう」という呼びかけは、多くの人に届いていたでしょう。ぼくはたったひとりで「デモ」をしてきた。車の後部に「反権力」と表示して走ったこともある。ロシアのクリミア侵略(2014年)に抗して、書庫の屋根を「黄色と青」のペイントで塗りつぶし、人に知られず反抗してい(るつもりで)いました。「人はつくったものの奴隷や機械の一部になってはいけない」「原発に運命を握られて、人らしさを考えない日本を批判した」とされます。年を取ってから、あえて辺鄙な土地に移住し、便利を手放し、不便を日常にすることをぼくが実行してきたのも、そんな背景があってのことかもしれません。大江さんに代表される「知識人」の行動を無条件に評価するのではない。いろいろな意味で、自分ができる範囲で、不義や不誠実。、あるいは暴力を黙認しない姿勢をつらぬくこと、それを、ぼくは大江さんたちから学んできたと言いたかったのです。井上さんや大江さん(に限らず)、いくつかの面では、同意できない部分があるのは当然です。それ(欠点)を含めて、「まるごとの人間」として、ぼくは先輩たちから教えられてきたし、教えられている。

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 人に歴史あり、その歴史を抹殺すると?

 【正平調】心に残る言葉を三つ、紹介する。いずれも本紙の紙面から。さて、語ったのはどなただろう◆「人形といっても、いろんなものがある。デパートで売っているような人形をつくったら、生活はしやすいだろう。でも、お金にはならなくても、難しい創作人形にかけた」◆「人形制作は、まず目から入る。人形がなにを思い、どんな形を望み、どんな着物を着たがっているかが目に現れる。つり上がった細い目は日本人の特徴だろう。ほら、平安時代から引き目鉤鼻(かぎばな)と言うじゃない」◆「人形をつくっていると、人々が感情表現を失いつつあるとよく分かる。人形ですらほとばしる感情を表現できる。生きた人間が、なぜ感情を豊かに表さないのか。考えてみる必要があるんじゃないかしら」◆お分かりだろう。89歳で亡くなった人形作家、辻村寿三郎さんである。銀髪世代にはカタカナ名「ジュサブロー」が懐かしいだろう。NHKのテレビ人形劇「新八犬伝」や「真田十勇士」で、妖しさをまとった人形群を生みだし、一気に名前が知れ渡った◆たくさんの芸者を抱える料亭育ちだ。物心がついたときには、端切れや割り箸で人形をつくっていた。今もどこかで、お気に入りの端切れに埋もれているかも。楽しいひととき、ありがとう。(神戸新聞NEXT・2023/02/16)

 

プロフィール 本名、辻村壽三郎(つじむらじゅさぶろう)人形師、着物デザイン、舞台、映画等の衣裳デザイン、演出、脚本、アートディレクター等多岐に渡り活躍。1933年11月、旧満州、錦州省朝陽に生まれる。少年時代を大陸で過ごし、終戦の1年前の昭和19年に広島に引き揚げ、広島県三次市で終戦を迎える。22歳、母の死をきっかけに上京、前進座の河原崎国太郎氏の紹介で小道具制作の会社に就職、26歳で独立、幼い頃よりの趣味であった創作人形を一生の仕事と決意、1974年NHK総合テレビ「新八犬伝」の人形美術を担当、一躍注目を浴びる。その後数々の創作人形の発表、人形芝居の上演、舞台衣裳のデザインなど、精力的な活動は人形の世界にとどまらず、総合的なアーティストとして各方面より大きな注目を集めている。2023年2月広島県三次市にて永眠。(辻村寿三郎公式ホームページ:http://www.jusaburo.net/prof.html)

 どんな人間も、ある時代、ある社会が刻んでいる歴史の中で生きている。それが人間の歴史です。時代や社会を飛び越えることはできない。そしてそれと同じことが「人に歴史あり」という表現になるのでしょう。ある人の歴史は優れているとか、ある人の歴史は汚れているというのは、一種の価値判断であり、一本の木にも歴史があるというのと同じように、善悪や是非は問わない、それが人の歴史です。「世間の評価」と一人の人間の生死は無関係ではないけれども、優劣は決められないと、ぼくは考えている。「死んだら仏」というのはこのことを指すのかもしれません。「人に歴史あり」というテレビ番組がありました。「人の世の潮騒の中に生まれて、去り行く時の流れにも消しえぬ一筋の足跡がある」と番組担当の八木治郎アナウンサーが語る。東京12チャンネル(現、テレ東)制作(1968~1981)。この番組のことはいまでもよく記憶しています。優れた番組だったからではなく、そこに登場する「著名人」の生涯が、誰とも異なる色合いを帯びて描かれ語られていたからだと思う。東京12チャンネルがテレビ東京と名称が変更されるに伴い、番組は終了した。なにか、テレ東の(堕落の)歴史が、そこにはあるように思われてきます。後発(後進国)は、先発(先進国)に追いつけ追い越せとばかり、まるで「前車の轍」だけを踏んで追いかけるのでしょうか。追いついた途端、前車よりも汚れや退廃が凄いことになっている場合が多い。「経済開発」に見る「後進」「先進」の例に告示しています。著名人でなくても「人に歴史あり」と言いたいだけです。

 人形作家、辻村寿三郎さんが死去 「新八犬伝」「真田十勇士」 NHKテレビ人形劇の「新八犬伝」や「真田十勇士」などの作品で知られる人形作家の辻村寿三郎(つじむら・じゅさぶろう)さんが5日午後11時27分、心不全のため広島県三次市の病院で死去したことが13日、分かった。89歳。旧満州(現中国東北部)生まれ。葬儀は関係者で行った。  11歳で大陸から引き揚げ、広島県で終戦を迎えた。演劇を志し、前進座の河原崎国太郎を頼って上京。その後、人形制作を本格的に始めた。  NHK「みんなのうた」の人形制作を辻村ジュサブロー名で手がけた。その後、同局のテレビ人形劇「新八犬伝」「真田十勇士」が大ヒット。妖気漂う独創的な作風で知られた。(以下略)(共同通信・2023/02/13)

 辻村さんの仕事に、目を開かれたのは「新八犬伝」でした。人形の醸し出す「妖艶」「人間臭さ」さとでもいう雰囲気に魅了されていた。毎回熱心に見ていたのではなかったが、辻村作の「人形」にだけは心を惹かれ続けました。辻村さんは旧満州の地に生まれ、敗戦直前に広島に帰国。やがて三次市に住む。上京後、俳優を志したこともあったが、やがて人形作りに専心。その後の活動は広く知られています。

 ぼくは月並みの一ファンでしかなく、特別に辻村さんに何かを見出したというのではありません。先日、辻村さんの訃報を知り、自ずと「人に歴史あり」というフレーズが浮かび、テレビ番組のことが偲ばれ、「どんな人間にも歴史あり」なんだということを漠然と考えた次第。素晴らしい業績や記録を残した人が亡くなり、「巨星墜つ」とか「天才滅ぶ」という大きな活字が踊るような新聞報道が、嘗てなされたし、時には今でもあるのでしょう。ぼくが言うのは、そういうことではない。誰だって、生きて死ぬということ、それこそが「歴史」なんだということを考えただけでした。「死んだら仏」「あいつは成仏した」と言われるように、誰彼なしに、生きた・死んだということを「一言にして表す」と、そういうことになるのです。勲章を得るとか、位を極めるということと、「人に歴史あり」ということは無関係です、ぼく個人にとっては。

 若いときにはどのように感じていたか、まったく見当もつかないことですが、このところ、たくさんの「有名・著名人」が他界されて、その報に接するごとに、幾ばくかの思いが過(よぎ)る。もちろん、歳をとったせいでもあるが、同じような時代に人生を生きたという、時代性・社会性を共有するという運命のもたらす感情でもあるのでしょう。そのような他者の訃報を耳にすると、ぼくはみずからの「死の準備」に入っているという気になります。それはまた、寿命というものの、曰く言い難い、不可避の現象をいかに受け入れるかということでもあるのでしょう。戦死、災害死、事故死、病死、その他、ありとあらゆる死の形態がありますし、どれがいいとか、好みだということはできず、いずれもが「寿命」「天命」「命数」「命脈」などと、この得も言われぬ「死という現象」に向き合った人間たちが残した言葉に尽きるように思う。自死もまた、自死もまた、寿命・命数ではないか、と考えている。

● 寿命【じゅみょう】=生物の生命が存続する時間の長さ。自然状態では捕食,栄養不良,病気などで死ぬため途中で死ぬことが多いが,理想的な環境条件のもとでの寿命を生理的寿命あるいは最大寿命と呼ぶ。最大寿命は老化と密接に関連した現象で,種によって決まっている。また,代謝量との相関があり,動物でも植物でも体の大きいものほど長くなる傾向がある。同種の個体群での出生後の各年齢ごとの生存個体数,死亡数などを表にしたのが生命表で,この表によって平均寿命(0歳の平均余命)などが算出される。(マイペディア)

 この与えられた生命が必然的に内包する、不可避の死に対して、さまざまな解釈や安心を求めた結果が、多くの宗教になったと考えてもいいでしょう。「生命の死」こそが宗教の源泉・母体です。その宗教自体が、この時代(に限りません)には「いのちを弄ぶ」似非宗教になっていることに、ぼくたちは無関心でいてはならない。救世主や絶対者の名において「死の強制・命令」が認められるからです。

 辻村さんの死をきっかけに、衰え激しいぼくの脳髄に、いろいろなことが浮遊してきただけの話です。しかし、ぼくの実感で、この時代や社会は「老人の存在」に寛容ではないということを、改めて痛感しているのです。老化は自然現象であり、なんの不思議もないと熟知しなければ、老人撲滅を粋がって叫ぶ横着な若輩の跋扈を許容することになります。すでにそうなっている。それに無関心であれば、あらゆる「劣化した生命」は危殆に瀕することになるのです。これにかかわる過去の「忌まわしい歴史」に学ぶことはないのでしょうか。「役立たずは抹殺してしまえ」というのは、単なる世代論ではなく、「ジェノサイド(genocide)」に通じる暴力であり、犯罪行為を想起させるもので、こんな極端な浄化思想がこの島の「テレビ界」に発現しているのですね。(参照「ホロコースト百科事典:https://encyclopedia.ushmm.org/ja)

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 <日本人と日本のメディアは、憎悪扇動がどんな恐ろしい効果をもたらすか、理解しているのか>現代ニホン主義の精神史的状況」藤崎剛人

 2023年1月11日ごろから、イェール大学アシスタント・プロフェッサーの成田悠輔氏が高齢化社会の解決のため「高齢者は集団自決すれば良い」という発言をしていたことが動画等で拡散され、SNS等で議論になっている。主に拡散されているのは2021年12月の『ABEMA Prime』の動画だが、その他YouTube番組や講演会でも複数回にわたって同様の発言をしていたことが分かっている。 

「メタファー」では済まされない 「集団自決」という言葉を使ってはいるが、とりあえず多くの場合、成田氏は「世代交代」の文脈で、この言葉を過激な「メタファー」として用いている。一方、「自決」という言葉のイメージ通り社会福祉カットの文脈でも彼はこの言葉を用いることもあり、その境界は未分化だ。何年にもわたって高齢者の「集団自決」あるいは「切腹」について執拗に語り続けているところをみると、成田氏はこの「持論」を単なるレトリックとしてではなく、ある程度は本気で提唱しているのではないかと思えてくる。『みんなの介護』インタビュー記事では、成田氏は当該発言を「言ってはいけない」としたうえで、「言ってはいけないとされていることはだいたい正しい」と述べている。/ 本人やこの発言を聞いた周囲がどこまで高齢者の「集団自決」を本気で考えているかはともかくとして、この発言を「メタファー」として安易に捉えるべきではないだろう。組織や社会の新陳代謝の問題はそれはそれで考えればよいが、一方でエイジズムと呼ばれるような年齢差別は解消するべきだ、というのが世界の流れで、主に雇用に関する差別をなくすよう、各国で立法化がなされている。「集団自決」発言はそれに逆行するだけでなく、特定の年齢層への憎悪表現ということもできるだろう。/ 少子高齢化などを要因とする日本社会の衰退化傾向が顕著になる中で、足手まとい・お荷物となりうる存在を切り捨てたいという欲求を持つ人が増えつつある。そうした状況下でこのような憎悪表現をメディアで行うことは、それを口に出して良いのだという免罪符を人々に与えることになってしまうのだ。(以下略)News Week(日本版)(https://www.newsweekjapan.jp/fujisaki/2023/01/post-52.php)

 羅針盤なき政治の末路、後は野となれ山となれ

【海潮音】マイナンバー(個人番号)カードの申請件数が運転免許証の保有者件数を超えた。人口に対する申請件数率は67・3%(1月22日現在)。カード交付が始まって7年。政府は今年3月末までに全国民に行き渡らせる目標を掲げる◆巨費を投じて取得者に最大2万円分のポイントを与えたり、健康保険証をカードに一本化する方針を打ち出したり、自治体へ地方交付税で締め付けをちらつかせたり。法律でカード取得を任意としているにもかかわらず、無理が通れば道理が引っ込む強引さだ◆自治体も国の大号令の下、あの手この手でカードの普及率を競い合う。そんな中、同姓同名の市民2人から同日にカード申請を受け顔写真を間違えた安来市の不手際はともかく、各地で看過できない事態も起きている◆岡山県備前市は、世帯全員のカード取得を給食費や保育料などの無償化の条件にする方針を打ち出し問題視されている。群馬県高崎市教委が小中学校長宛てに保護者にカード申請を勧めるよう通知して抗議の声が上がった例も報じられた◆行政手続きのデジタル化は地方自治をどう変えるのか。窓口の縮小、職員削減は容易に想像できるが、常識的な裁量行政がなくなるのではないかと懸念する。システムを使う人間がロボット化するのが怖い。(久)(日本海新聞・2023/02/01)

● マイナンバーカード= 各個人のマイナンバーや姓名などの情報が記されたICカードのこと。日本において住民票を有する全員に1人一つの番号を付す社会保障・税番号制度(マンナンバー制度)の施行に伴い、2016年1月以降に交付を受けることができる。15歳未満及び成年被後見人は法定代理人が申請し取得する。カード取得は義務ではないが、政府は取得を推奨している。15年9月現在、カードにはICチップがつき氏名・住所・生年月日・性別・顔写真・マイナンバー(個人番号)が記載される予定となっている。身分証明書として幅広く使用でき、自治体が条例で定める図書館カードや印鑑登録証などにも利用できる。(知恵蔵mini)(右文書は「備前市交付文書」東京新聞・2023年1月19日)

 あの手この手を駆使してでも、とにかくこの切符(首輪)を作らせたいと躍起になっている。その心は「国民は我が掌中にあり」(鵜匠に首根っこを押さえられた「鵜」さながら)という、政治行政側の下種(げす)の根性というものが見え透いている。「カード取得は義務ではないが、政府は取得を推奨している」とされるが、実際のところは、「取得を強制し、そのために脅迫行為も辞さない」ということだ。このコラムに記されているように、常軌を逸している「カード取得数(率)競争」は自治体のナンパぶり、あるいは脅迫・強請(ゆすり)まがいを如何なく映し出している。国民にとって、生活上はとても「便利なカード」を取らないと、ひどいことになるぞというのですから、その正体は何だと言われなくてもわかる。ぼくは、これを腹立ちいっぱい、情けないがための「泣き面」を堪(こら)えて書いていますが、一体この「強制取得」政策の「飴鞭両面作戦」での実施で、どれくらいの税金が「闇」に消えたか、消えつつあるか、消えようとしているか。政府が何かを「公共事業」として始めれば、必要経費の半分とは言わないが、それに近い金額が「横取り」「寸借」される、そんな悪徳体質の行政制度や組織で成り立っているのが「国家」というものの実態です。

 生きていく上で、不可欠な「必需品」なら、申し込むだけで「2万円」がもらえるというのは、一種の「異次元の小遣い」ともいえますが、2万円を呉れてやる(その金も、もともとは納税者のもの)からには、「倍返し」ならぬ「十倍返し」の集金・収奪を目論んでいるのです。(書類申請)するだけで「2万円」とは、とんでもない罠が仕掛けられているんですな。その罠にかかりたいのがいっぱいいる。政治が変わらないのは、国民(有権者)が変わることを望まないからだね。

  マイナカード顔写真間違え 安来市 安来市は17日、別人の写真を誤って表示したマイナンバーカードを交付したと発表した。同姓同名の市民が同じ日に申請し、写真の本人確認が十分でなかった。カードは既に回収し、再申請。個人情報の漏えいはなく、両者に謝罪した。/ 市によると、同姓同名の市民2人からの申請は12月上旬、それぞれ別の窓口で受け付け、市民課で職員がオンライン申請を行った。しかし、申請日ごとに管理している写真フォルダーに同姓同名のものがあることに気付かず、同じ写真を添付して申請したという。/ 他人の顔写真が載ったカードを受け受け取った市民から16日、市民課に連絡がありミスが判明。誤って写真を使われた市民のカードに問題はなかった。/ 市は「チェック体制の強化を図り再発防止に努める」とし、写真撮影の際のネームプレートと写真フォルダーには氏名のほか生年月日も表記するようした。(久保田恭子)(日本海新聞・2023年1月18日)

 面倒だから、このような馬鹿騒ぎには触れるつもりはありませんが、コラムで書かれたものだけを再引用しておきます。「枚挙に暇なし」とは、このような、劣島に充満している「愚行」をいうのでしょう。「岡山県備前市は、世帯全員のカード取得を給食費や保育料などの無償化の条件にする方針を打ち出し問題視されている。群馬県高崎市教委が小中学校長宛てに保護者にカード申請を勧めるよう通知して抗議の声が上がった例も報じられた」国がこうだから、自治体もそう、何の不思議もないんですね。国の制度導入に抗(あらが)えば、どういう仕打ちを受けるか、それこそ「枚挙に暇なし」ではあります。腐るほどある、腐っているものもある。(まだ「マイナカード」普及以前の段階で、個人情報はダダ漏れ。現下劣島を新歓させている「強盗団」は、政府や行政以上に「情報収集力」を持っているのは、どうしてか。このかーどでしか行政参加ができなくなると、いったいどういうことになるんですかね。「闇バイト」集団と行政側が、どこかで繋がっているんじゃありませんかと言いたくなる。

 これと同じような愚行(痴愚政策)の一例(これも、枚挙に暇なし)に「ふるさと納税」制度があります。これを懸命に悪用させる政府と、その恩恵(余得)を売り込もうとする自治(痴)体と、そこに旨味や「お得感」を感じ取ったつもりの納税者(利用者)という「欲ボケの三位一体」が、この痴愚政策をますます歪(いびつ)なものにしているのです。この(ふるさと納税)制度が始まって少したった頃、ぼくは一度だけ使ってみた。群馬県の小さな村(知っている自治体だった)への「寄付」だったが、「返礼品」というものが送られてきた。ハムかソーセージかの詰合せだった。お得かどうかではなく、「寄付」をしたからお礼の「粗品」ならわかる。しかし場合によっては、他地域の名産を「返礼品」として人気取りにやっ気になっている自治体もある。「納税して返礼品」と言うなら、国民の殆どは、国や自治体から「返礼品」を受け取る権利があるということにならないか。ぼくは、「寄付」を「税」と偽る制度を、その後一度も使っていない。すくなくとも、現住地の諸々の政策実現のための「納税」だということを忘れさせ、どうかすれば「ふるさと」へ寄付をすれば、特をするという「姑息」な金取政策は、とにかく筋が悪すぎるし、金持ちばかりを優遇(得)をする悪政は即刻中止すべきではないですか。何とも許せないのは「ふるさと」の悪用です。「忘れがたき 故郷」の濫用ぶりです。

● ふるさと納税(ふるさとのうぜい)= ふるさとや応援したい自治体へ寄付をした個人や法人の納税額を軽減する制度。公益にかなう寄付をした納税者の税額を減らす寄付税制の一種である。都市と地方の税収格差の是正が目的で、欧米に比べて遅れぎみの寄付文化を醸成する役割も期待されている。2004年(平成16)に長野県泰阜(やすおか)村が導入した寄付条例(泰阜村ふるさと思いやり基金条例)が前身で、改正地方税法が施行された2008年度から個人向け制度が始まった。自分のふるさとを応援するという趣旨からふるさと納税とよばれるが、全国どの自治体へも寄付できる。個人は寄付額から2000円を差し引いた額について、年収などに応じて限度額まで個人住民税や所得税から控除される。寄付先が5自治体までなら確定申告は不要である。個人は寄付額の30%以下の地場産品を返礼品として受け取ることができ、税の使い道を指定することも可能。2016年から企業版ふるさと納税制度(地方創生応援税制)が始まり、企業は自治体の進める地方創生事業(内閣府が認定)に寄付すると全額損金算入され、寄付額の最大6割分(2020年から5年間は最大9割分)の法人税や法人住民税が軽減される。/ 返礼品や控除制度が人気をよび、導入当初のふるさと納税額は年81億円であったが、ピークの2018年度(平成30)に5127億円に増え、寄付件数は2300万件を超えた。自治体の特典競争が過熱したほか、地場産品と関係ない換金性の高い返礼品が横行し、納税額の多くが返礼品購入に消え、地方財政に寄与しない例も出てきた。都市部中心に住民税控除額は2018年度に2447億円に達し、ふるさと納税が受益者負担原則に反すると批判された。このため政府は2019年(平成31)3月に地方税法を改正し、2019年(令和1)6月から返礼品を「寄付額の30%以下の地場産品」に規制し、従わない泉佐野(いずみさの)市(大阪)、高野(こうや)町(和歌山)、小山(おやま)町(静岡)、みやき町(佐賀)の4市町を制度から除外した。これに対し泉佐野市が2019年、除外取消訴訟を起こしたが、大阪高等裁判所は2020年、請求を棄却、しかし同年最高裁判所は大阪高裁判決を棄却し泉佐野市の逆転勝訴となった。(ニッポニカ)

 たくさんの「餌」をつけて釣り糸を垂れるのが、行政の仕事。それなりの利点が、政治行政の側と国民の側にもにあるというかも知れないが、現在のシステムでも「両得」は可能ではないですか、と言いたいね。情報化と言い、IT化と言い、AI化などと略語を並べ立てられて、知らないうちに「詐欺に合う」ということになりかねません。「ふるさと納税」というマヤカシも「マイナカード」という目くらましも、要するに国民に背番号をつけて、その一挙手一投足を補足しようという魂胆ばかりが見え透いているのです。「行政の効率化・利便性を高める」のが当たり前の業務になっていないところに、この仕組導入の肝がある。効率化も利便性も現状の(機能不全の)ままで、「所得や他の行政サービスの受給状態を把握しやすくなるため」という「お為ごかし」「嘘八百」が、じつは「罠」なんじゃないですか。税をいかにして「マネロン」し、おのれの懐に入れるか、それが政治行政の最大関心事だと言えば、語るに落ちた話でしょう。直近では、鳴り物入りで囃された「東京オリ・パラ」、終わってみれば、税を元手にした「サイコロ博打」であったし、それは魑魅魍魎たちが蠢(うごめ)く汚職の巣窟になり、賄賂の山が築かれていたではないか。あれは特別で、これは、そうではないというも笑止千万の「政治行政」の腐敗ぶりです。

マイナンバー(個人番号)とは 

マイナンバーとは行政を効率化し国民の利便性を高め公平公正な社会を実現する社会基盤です。 

住民票を有する全ての方に1人1つの番号をお知らせして、行政の効率化、国民の利便性を高める制度です。

公平・公正な社会の実現

所得や他の行政サービスの受給状態を把握しやすくなるため、負担を不当に免れることや給付を不正に受けることを防止するとともに、本当に困った方にきめ細やかな支援を行うことができます。

行政の効率化

行政機関や地方公共団体などで、様々な情報の照合、転記、入力などに要している時間や労力が大幅に削減されます。

複数の業務の間での連携が進み、作業の重複などの無駄が削減されます。

国民の利便性の向上

添付書類の削減など、行政手続きが簡素化され、国民の負担が軽減されます。 

行政機関が持っている自分の情報を確認したり、行政機関からの様々なサービスのお知らせを受け取ったりできます。(地方公共団体情報システム機構:https://www.kojinbango-card.go.jp/

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 腹蔵なく話すと、こうなるのです

 

 暴言/放言/失言のオンパレード。どの内閣に限らず、問題発言をしても、それのどこが問題なのかを自覚していない総理や閣僚が後を断たたないのは、無自覚な能天気ばかりが「政治家」をしている報いだということでしかない。その発言の根っこの部分に「国民愚弄」の発送や大度が見て取れるのも、ほとんどの政治家の「選良意識」の裏返しじゃないですか。大きく言うなら、学校教育の退廃が人間の堕落を呼び、ひいては社会(集団)の汚染をもたらすという「退廃の連鎖」ではないでしょうか。ぼくはしばしば、誰々を指して「のう‐てんき【能天気/能転気】」(ときには「脳天気」と)という語を使います。これは差別語ではないと想えばこそです。「[名・形動]軽薄でむこうみずであること。のんきでばかげていること。また、そのさまや、そのような人。「―な人物」(デジタル大辞泉)彼/彼女は政治家だという時、たいていは「能天気」な人物だと言うに等しい。すべての政治家ではなく、「大抵(たいてい)は、十中八九は」です。

 軽薄で馬鹿げていることやさまや人たちを言い当てる言葉。ぼくは特別に政治に興味・関心はない。でも当たり前に生きていると、否応なしに「能天気」が耳目に入るのです。目障り耳障りになる。いちいち付き合っていてはまともに息もつけないほど、「問題発言居士」が引きも切らないのは、どうしてかと愚考してみる。昨秋から「閣僚」が「失言」や「問題行動」で辞任・更迭が連続してきました。さらに続くと思われていたら、こんなところ(官僚)に顔を出したという程度の受け止められ方ですね。(左図は朝日新聞・2023年2月4日)(https://www.asahi.com/articles/ASR247348R24UTFK00T.html)

 「失言」したご当人は、総理の最側近であり、この更迭で、総理は、大事な支えを失ったという報道が見られます。「この程度の、ぞんざいで横柄な存在が重要人物だったとは」と、ぼくのほうが愕然とします。必要以上に自分を大きく、偉く見せようとするには、一種の技や工夫がいるでしょう。その技や工夫を駆使して、「俺は男・女だ」と見えを張っていた人物は、ぼくの周りにもたくさんいました。背が低いことは悪いことでも恥ずかしいことでもないのに、ズボンの裾下には高いヒールが見えたことも実際にはありました。あるがまま、それに我慢できなくなると、何処かで無理をするんですね。まるで「ふぐ」ですな。敵を威嚇する際に、河豚(ふぐ)は「膨れる」らしい。

 「しつ‐げん【失言】=〘名〙言うべきでないことを、うっかり言ってしまうこと。また、そのことば」(精選版日本国語大辞典)とある。今般、「失言」した人は「言うべきことを、うっかりいってしまった」という自覚があったのかどうか。おそらく、当たり前に考えれば、それは先刻承知していた。頭の中にしまっておいて、言ってはいけないことだとわかっていたから「オフレコ」にしたのでしょう。でも取り巻きの記者氏の中に「オフレコのルール」(どうもあるらしい)を知らなかった、あるいは知っていたが、ルールを守る以上にそれを報道すべきだという選択をした。だから問題の「失言」は公然とした事実となった。事の次第はそうだったでしょう。ぼくにすれば、何だつまらない、そんな感想しか湧かない。

 (記者の中に、「発言に異議あり」と指摘するものがいなかったこと、それは「失言」以上に危機的な状況ではないですか)(おそらく全員が「大学教育」を経験しているでしょう。大卒が、その程度でしかないということを考えると、ぼくは発狂しそうになる、いや発狂しているね)

 では、それ(「同性婚は嫌だ」)は「言うべきでない」と決めるのは誰ですか。政府です、といえるはずもない。政府はグルになって、「失言」を繰り返しているではないですか。全員一岩となって(といえば大袈裟すぎますが)、「同性婚、気持ち悪い」とかなんとか言ってきのではないでしょうか。政府でないとすれば、警察ですか、あるいは裁判所ですか。どうもそうではないらしい。言っていいか悪いか、その判断を下せるのは「当の本人」しかいないとぼくは言っておきたい。「言いたのだけれど、言うと怒られるから言わない」というのも一つの態度ですが、上等ではないですね。いかにも、下等ですよ。怒られなければ、いけないことであっても、言うでしょう。つまり一人の判断力がまともな感受性(これを人権感覚と言ってもいい)を持たないと、交通法規みたいに「見つからなければ」交通違反にはならないというだけの話。問題の核心にはいささかも触れられないのです。

 一例を出します。小学生が学校で「イジメはいけない」ときつく教えられた。誰かに「いじめは悪いことですか」と問われて、「ハイ、いけないと思います」「どうして?」「学校でいじめはいけないと、教えられたから」いたるところで、このような痴愚問答が繰り広げられているし、実際にいじめ問題に教育の成果は上げられていない、根本的な理由はここにあるとぼくは見ているのです。いまでも時々看板を見かけます、「誰か見てるぞ」という防犯啓発の一コマ。自分以外の誰か(監視カメラ)が監視しているから止めるというわけだし、それがいなければ罪を犯す。いや、見ていようが構うものか、欲しい物を盗るだけだと、劣島縦断強盗事件が多発しています。自分以外の他者ではなく、いいか悪いかの判断を下すのは「当人の意識」です。難しく言うなら「良心」となるでしょう。

 当節は「良心」がない人が増えているのでしょうか。「自分にも良心があるということを知らない」、そんな「人間まがい」が増加しているのでしょう。

 更迭された(と言われている)官僚氏は、複数人いる総理秘書官の一人でした。大時代的な比喩を使うと、彼は総理の「影武者(shadow warrior)」だった。その一人が影武者だったから、総理近辺は周章狼狽この上なく、みっともないくらいに「同性婚、嫌だ」発言の経緯を取り繕っているのです。同性婚を認めれば「社会が変わる」と総理は言った。その発言の本当の主は「法務省」ではなく、総理(のアドリブ)だったと。社会が変わるから、「同性婚は嫌だ」と言わせたのは更迭秘書官ではなかったと言いたいらしい。「家族観や価値観、社会が変わる」から、「私は反対だ」といったのは総理の「アドリブ」だったと、官房長官が会見してまで念押しをしたのです。笑うべき「喜劇」、いや悲しむべき「悲劇」、いやいや、悲しむべき「喜劇」なのかもしれぬ。そうこうしているうちに、この島社会は「奈落」のそこへ。(右の写真は朝日新聞・2023/02/07)

 こんな発言しかできない総理や秘書官、隣に住むだけで嫌だ。こんな愚かしいことが続けば、島を出る人が相当出てくるでしょうね、といってみても始まりませんな。

 この社会はどん詰まり(袋小路)に来ているように思われます。この先は、あるにはあるでしょうが、墜ちるところまで墜ちるプロセスを見せつけられるでしょう。その頃、ぼくはもう存在していないけれど、この敗戦(「人権尊重」を踏み潰そうとした権力の戦い(独り相撲)(腐敗堕落)を言う)による打撃は相当に長く続くと思う。何と言っても「人間を人間として認められない権力」とそれを支えてきたのが国民の過半だったのだから。

 追記 〈同性婚「社会が変わってしまう」は岸田首相自身の言葉 G7で認めないのは日本だけなのに…〉(東京新聞・2023/02/07、右の表も)「同性婚」も「夫婦別姓」も認め(たく)ないし、男子直系の「天皇制」は是が非でも続けたいし、死刑制度は死守すべきであると、いかにもこの小島社会は「特異」であり、「異質」であり、戦勝国の尻馬に乗りながら、尻にも敷かれる、なんとも「絶滅危惧種国家」だなあという慨嘆を深くします。それでいて、「核のない世界」をと、どの口でいうのでしょうか。この嘘を、嘘だと自覚していないから「能天気」は怖いのだ。時と場合にによっては 、C 国に対して「事変」を起こすか、「宣戦布告」しかねないという虞がある。

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 今時、冬には「屋内凍死」もあるという

【地軸】梅と受験 きょうから2月。旧暦名では如月(きさらぎ)といわれるが、梅見月の異称もある。それを知らせるかのように、松山城本丸広場で梅が開花期に入ったとの記事がきのうの本紙に掲載されていた。▼10日ほど前に出向いた時は、まだつぼみの木が多かった。このところの寒波にも負けず、いち早く春の到来を告げてくれる。今月中旬ごろまで楽しめるそう。▼りんと咲く姿に心ひかれたのであろうか。梅をこよなく愛したといわれるのが学問の神様、菅原道真。大宰府左遷の際に自邸の庭で詠んだ和歌「東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」が知られる。受験シーズンの今、天神様はさぞ忙しいことだろう。▼福岡の太宰府天満宮と京都の北野天満宮が総本社として有名だが、道真を祭る天満宮、天満神社は全国に約1万2千もあるという。先月、松山市の履脱(くつぬぎ)天満宮を訪れた。▼不思議な名称は、大宰府に向かう途中でしけに遭った道真が履物を脱いで滞在したことにちなむとか。さすが、愛媛にもゆかりがある。境内では梅が開花を待ち、梅の柄入りの絵馬もあった。「○○ちゃんが志望校に合格できますように」。親が子を思う文言が何げなく目に入った。▼これから本番を迎える受験生は多かろう。道真が詠んだ梅は主人をしのび京から大宰府まで飛んでいったという「飛梅伝説」もある。最後は神頼みと、託した思いが全国で飛び交っていよう。努力が花開くことを願って。(愛媛新聞・2023/02/01)(右上は北野天神、左下は太宰府天満宮)

 

 「今日から2月」と多くの書き出しは始まる。1月1日は、すでに「元旦」「元日」などと、言うまでもないこととして人口に膾炙(かいしゃ)しているのに対して、他のどの月よりも「二月」は「出立の日」の感触が強いのではないか、ぼくは勝手にそのように考えている。今日から6月、本日からは8月などというよりも、「今日から如月」と口にするとなにかあらたまった気分がするのですから、不思議ですね。この「如月(きさらぎ)」ですが、なぜそう読ませるのか、あるいはいかなる理由で「如月」という漢字が当てられたのか。よくわかりません。通説では中国における「二月」の異称が「如月(じょげつ)」だから、それを「衣更着(きさらぎ)」とした本邦の異称に重ねたということです。この二月には、他に沢山の呼称がありました。仲春とか梅見月とか。あるいは雪消月や木芽月など、如何にも「新春」を寿ぐ意味合いがあるのではないでしょうか。

 この二月を象徴するような春立つ月を「令月」と呼んだことは、如何にもその季節にふさわしい明るさをこめていたともいえます。ぼくたちよりも遥かに多感で優美で、自然に包(くる)まれている喜びや悲しみを感じ取っていた「古人(いにしえびと)」を想い、わが同胞(はらから)の「季節を迎え送る」心情にうたれる。(参考までに。十二月にも多くの呼称や異称があるが、この「如月」と同じ音読みで「除月」というのもあります。詳細は省略)

 「恵風(けいふう)」などという洒落た呼び名もあります。「 万物を成長させる、めぐみの風。春風。 陰暦2月の異称。 君主の恩恵が広く行きわたるのを風にたとえた語」(デジタル大辞泉)つまりは、二月(きさらぎ)は待望の春到来を喜ぶ趣を籠めた季節であり、そのためにたくさんの「呼称」が残されてきたのでしょう。この数日、ぼくは、年初に戴いた「年賀状」への、月遅れの返信を書いていました。ぼくの正月(新年・初春)は「立春」であると宣言して、もうかなりの期間、この勝手な振る舞いをしてきました。年内に「賀状」が書けなかったのは大昔からで、だから、しばらくは年明けに(それも松の内の間に)、返信を書いていましたが、なにしろ、もっとも貧乏な時代、つまりは暇なしだったので、いっそのこと「寒中見舞い」にしてやろうと、いや、それならもっと遅らせ、「立春」に重ねて出しましょうということになったのです。賀状をくださった方には「興冷め」の仕業だと思われた方はたくさんおられると思います。そででも感情の赴くままに「虚礼」ではない「ご挨拶」をと、この悪癖を続けている。

● 如月(きさらぎ)= 陰暦2月の異称。「衣更着」とも書くが、これは平安末期の歌人藤原清輔(きよすけ)がその歌論書『奥儀抄(おうぎしょう)』に、「正月のどかなりしを、此月さえかへりて、更にきぬを着れば、きぬさらぎといふをあやまれるなり。按(あん)ずるに、もとはきぬさらぎ也(なり)」というように、「更に衣を重ね着る」という意に解したことによると考えられる。江戸中期の賀茂真淵(かもまぶち)は、「木久佐波利都伎也(きくさはりつきなり)」と説き、草木が芽を張り出すという意からできたことばとするが、ほかに「気更に来る」の義とし、陽気の盛んになることをいうとする説もある。俳句作法上、2月とは異なった点を十分に理解する必要があるむずかしい季語とされる。(ニッポニカ)

 小学校唱歌で、もっとも好きなものは?と聴かれると返答に困ります。あえて言うなら「早春賦」を上げておきたいですね。これについてもは、昨年も触れました。作曲家や作詞家についても触れています。なかなか雅趣がありますが、「詞の表現」は難しい。作詞は吉丸一昌さん(1873~1916)、大分の人。作曲の中田章さん(1881-1936)は中田喜直氏の父。吉丸さんが長野県の安曇野地方に出かけた折に、その印象を詩に書き留めたものが素になったとされる。日本の学校唱歌に大きな力を発揮したのは長野出身の多くの音楽家でした。中でも、学校に唱歌を導入した第一人者が長野は高遠出身の伊沢修二だったことの影響がとても大きいといえます。

「早春賦」は1913年発刊の「新作唱歌第3集」に。*NHK東京放送児童合唱団https://www.youtube.com/watch?v=n_vWpnYv2FA&) *佐藤しのぶ(1958~2019)(https://www.youtube.com/watch?v=ZN7TmRk9Xe0&ab_channel=SopranoChannel)(佐藤しのぶさん、今少し活躍の時間が欲しかったとつくづく思っています。このような「唱歌」にも、いささかの手抜きもない歌唱態度、それが、あるいは彼女の寿命を縮めた一因であったかもしれないと、募る哀悼の念は更に深くなります)

● 伊沢修二【いざわしゅうじ】= 教育家。信州高遠藩の藩士の家に生まれる。大学南校に学び,米国留学後,東京音楽学校(現,東京芸術大学),東京盲唖学校,東京高師(のち東京教育大学)等の校長を歴任。その間,西洋音楽の導入,日本最初の国定小学読本の編集,台湾総督府学務部長として植民地教育の定型化,国家教育社の創立,吃(きつ)音矯正事業等に従事。主著《教育学》。なお,弟の多喜男〔1869-1949〕は革新官僚で民政党系の黒幕。(マイペディア)

 

 この厳冬の「季語」は「値上げ」であり「音上げ」ではないでしょうか。いろいろな情勢が作用している「物価高」と言われているし、実際にはそうなのでしょう。でも、これを千載一遇の好機と、便乗値上げに奔る不届き業者もいると思う。中でも今般の物価高の筆頭は「電力会社」。値上げの背景や理由はいくらでも捏造できますが、この業界の「値上げ」は「御社も大変ですね」といって諸手を挙げて認めることはできないものだと、ぼくは言いたい。面倒は言わない。電力料金の設定は、どう転ころんでも「損をしない」ような仕組みになっています。発電から送電、果ては人件費まですべての「コスト」なるものをまとめて「電力料金」の中に組み入れられます。他企業や他業界では人件費が下げられ、設備投資もままならないなかでのやりくりですが、この業界だけは政治と結託して、儲けが出る、損しない「料金設定」が罷り通って来たし、いるのです。さらに悪質なのは、全国の電力会社の中で、現在「原発停止状態」の地域の料金は、そうでないところよりも割高になるように企まれている。あからさまな、原発稼働、新増設方針の好例です。原発再稼働も新増設も、できるものならやればいいのではないですか。やれないことをやれると強弁するには、必ず裏があるのだね。

 ごく一般家庭の電気料金が異常な金額になっています。さらに、オール電化住宅は、地域差はあるものの、軒並み十万円台を記録しています。異様ですね。異次元の高額。さらにこれまで盛んに宣伝に努めてきた「深夜電力割安」の絡繰(からく)りも、現下の状況で化けの皮が剥がれて、なんとある電力会社では「深夜電力料金は二倍超」になると、手のひら返し、詐欺まがいの商法を展開しているのです。くだらないことはいいたくないけれど、政府お抱えの電力会社がこれまでどれだけ、政治力に「庇護」されてきたかを想えば、どの面下げて「値上げは心苦しいけれど」と言えるのか。「心苦しい」と口ではいいながら、とんでもないことを考えているのだから。

 【日報抄】きょうから2月。今冬がことさら厳しく感じるのは気温の低下が著しいからか。外を歩くと、コートやマフラーのわずかなすき間から冷気が入り込む。家にいても部屋の中がなかなか暖まらない▼寒さで体の熱が奪われ、低体温症になり命を落とすことを凍死という。室内で凍死する人が増えていることは、あまり知られていない。低体温症というと山岳遭難など屋外で起こるイメージが強いが、救急搬送された人のうち7割が屋内での発症だったという調査結果もある▼夏場は熱中症に注意せねばというのは常識のようになった。しかし2000~21年の凍死者は約2万2千人で、約1万6千人だった熱中症死の1・4倍にもなった。熱中症よりもさらに危険な存在といえそうだ▼とりわけ体温の調節機能が衰えがちな高齢者は温度への感覚が鈍くなり、寒さを感じにくくなるという。冬は多少寒いのが当たり前…とばかりに我慢していると、取り返しのつかないことになるかもしれない▼切ないのは、暖房に使う燃料費や電気代が大幅に値上がりしていることだ。命あっての物種だけど、財布が空になれば生きていくのは難しい。どちらに転んでもつらい。あまりに厳しいジレンマに、心はいっそう凍り付く▼室内での凍死が増えている背景には、高齢者の独居など孤独が深まっていることもあるという。この点では熱中症と同様だ。周囲の見守りなど、人の温かさが大切になる。社会のぬくもりの水準を少しでも上げて、冷えを防ぎたい。(新潟日報・2023/02/01) 

 「寒さで体の熱が奪われ、低体温症になり命を落とすことを凍死という。室内で凍死する人が増えていることは、あまり知られていない」 

 劣島に大流行の「闇バイト」なるものに気を奪われている間に、なんとこの小国は「ウクライナ並」の厳寒での「窮乏生活」を強いられている人々が少なからずいるということに思いが及ばなかった。中でも窮乏の果に「室内凍死」が増加しているというのです。そんなことがあるのだろうかという疑問がわくが、事実だというのですから、ぼくは「心が寒い」。熱中症よりも室内凍死者の方は遥かに多いという。これはどうした理由なのかと自問自答する。ぼくは石川県に少し住んでいたから、当地の冬の寒さ・厳しさは知っています。今から七十年前の時代で、暖房などあるはずもなかった。寒風吹きすさむ荒屋(あばらや)で、煎餅布団にくるまっている他なかったが、それでも、「しもやけ」「あかぎれ」に悩み苦しんではいたけれど「凍死」はしなかった。

 コラム氏の文章では「室内凍死」は「高齢化」のゆえであるとしている。つまり、年寄は七十年前よりも「弱体化」したとも言いたいのか。「室内での凍死が増えている背景には、高齢者の独居など孤独が深まっていることもあるという」、たしかにそうかもしれない。でもそれは自然現象だろうかと疑うなら、こうなった背景には積年の「政治・行政の不在」を指摘したくもなるのです。オレオレ詐欺や侵入強盗だけが「闇バイト」ではないだろう。政治そのものが、実は紛れもない「闇バイト」だといいたくもなる。政治の私物化、権力の乱用・濫用。政治不在による、世界同時不況の始まりが起こっています。同時に、世界同時「闇バイト政治」も並走中です。益々「室内凍死」が増えるでしょう。寒いが上に寒い、本年の「如月」であり「立春」であります。

 「凍死者」の出現は、室内外の低温のせいではなく、政治や経済のもたらす「弱い者いじめ」による「心の寒さ」を主因とするものではないですか。「老人は疎まれている」というのは、老人であるぼくの実感です。一人の元総理が「一体何時まで生きるつもりなんだ」と老人をコケにするような発言そしたし、いまだって、その見下した「老人刊」は変わっちゃいない。「おのれだって、老人じゃん」といってやりたいけど、ぼくは言わない。「天に唾する」愚か者になる気はないから。

 「寒心」という日本語があります。「恐れや不安の念で、ぞっとすること」と「大辞泉」は説明しています。その昔、愛用していた広辞苑は「心配などで肝をひやすこと。心に恐れを抱いて、ぞっとすること」とさらに寒々しい説明をしています。政治も経済も、その振る舞いにぼくは少しも感心しない。「自分だけ」「身内ばかり」「今だけ」という、利己的刹那主義は、ますます「凍え死ぬ」人を増やし続けるのです。「電気代」の問題なんかではありません。「思いやり」という心持ちの醸し出す「暖かさ」の有無、それが問題なんだね。(右上のグラフは厚労省「令和2年(2020)人口動態統計(確定数)の概況」:https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/kakutei20/index.html)

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